没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

脱原発のためにこそ愛国主義的ナショナリズムを

2012年12月23日 01時01分14秒 | ロシア


日本には100基の原発が必要だ

 いよいよ安倍新政権が発足する。原発の再稼働はもちろん、新規増設の可能性も出てきた。軟弱サヨは山口県の『祝島』には、贈与の経済があるだの、「ディーセントな社会理念」が必要だのとうだうだと訴えてきたが、今回の衆院選挙においてこの論理は吹っ飛んだ。自民党が圧倒的多数の国民の支持を得て政権政党となったのである。

 見るがいい。

 本日のNHKスペシャル、『どうするニッポン新政権に問う』においても、石破茂自由民主党幹事長は、原発の新規増設や再稼働について疑問を呈する香山リカ氏に対して「我々は選挙においても嘘は言わず原発の稼働についても国民に訴えた。そして、勝利をおさめた。一方、脱原発を掲げた某党は敗北したではないか」と力強く訴えていた。これほど左様に今回選挙における脱原発派の敗北は大きい。

 ネット上で原発再稼働を切望するウヨのサイトを調べてみると、例えば、「大日本赤誠会愛知県本部ブログ版・自衛隊が目覚めて真の軍隊たらんとするときこそ、日本が目覚めるときだ!!」は12月22日付けの記事『計画段階の原発9基・安倍政権で容認の可能性も、いやいや、原発100基稼働で安定供給です』で「1時間か2時間地層を見て『はい、活断層です』なんて言っている学者の戯言を信じるのですか?。自分の金儲けの材料ぐらいにしか思っていない再生エネルギー推進派の顔ぶれを思い浮かべてみてください。日本の工業力からして原発100基体制で国内の隅々まで安全で環境に優しく格安で安定した電力を供給することが求められています」と書いてある。

 私は隠れ脱原発派なのだが、こうした主張を「たわごとだ」と無視してはいけない。これがウヨの論理だ。こうした国民の見解が積りつもって脱原発派は敗北した。なればこそ、今こそウヨとナショナリズムの論理で脱原発を構築していくしかないと考えている。

霧のキスカ

 ということで、我が大日本帝国旧海軍の栄光の話から始めたい。我が海軍は圧倒的物量を誇る米国に苦しめられ、各戦線で玉砕を強いられたが、唯一米国の鼻を明かした作戦計画がある。同島を包囲していた米軍艦隊に全く気づかれることなく、全軍が無傷で撤収に成功した昭和18年7月29日に行われた『キスカ島撤退作戦』である。1965年には司令長官木村昌福少将を三船敏郎が演じ、『太平洋奇跡の作戦キスカ』として東宝が映画化もした。勇ましい團伊玖磨作曲のテーマソング「キスカ・マーチ」の我が陸上自衛隊中央音楽隊による演奏はここで聞くことができる。

 8月15日に米軍は約34,000名をもってキスカ島に上陸するしたが、存在しない我が軍との戦闘に極度に緊張して上陸したため、各所で同士討ちが発生。死者約100名、負傷者数十名を出した。おまけに、我が軍には余裕もあり軍医の悪戯で『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残したため、米軍は一時パニック状態に陥って、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注したという(1)。なんと、痛快ではないか。

 司馬遼太郎氏も「鎌倉とキスカ島」と題して木村少将について書いている。最後のくだりが泣ける。

「アッツ島はすべての人達が死に、キスカ島のほうは全員が救助された。かれらをのせた艦がアッツ島沖を通ったとき、島からバンザイの声が湧くのをきいたという人が、何人かいた。私は、魑魅魍魎談を好まないが、この話ばかりは信じたい」(P346)

 ううっ。思わず我が英霊に涙がこぼれる。。。。。

 とはいえ、情に流されてはいけない。木村少将はインパールの牟田口廉也中将のように必勝の信念だけを胸に猪突猛進するタイプの人物ではなかった。飛行機とレーダーを備えた米軍の包囲網を突破するには濃霧という自然の利を生かすしかない。一回目の突入時には霧が晴れる危険性があった。艦隊は強力な米軍に袋叩きに会う。

 木村少将は「帰れば、また来られるからな」と言い残し撤退した。手ぶらで根拠地に帰ってきた木村への批判は凄まじく、第5艦隊司令部、連合艦隊司令部、さらには大本営から「何故、突入しなかった」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ」と轟々たる非難を浴びたという。だが、木村は九州帝大卒の気象士官橋本恭一少尉の気象予報をなによりも重視した(1)。東宝映画では福本少尉の名で故児玉清が演じている。備蓄石油も乏しい。行けばなんとかなるだろう等という日本的な空気には流されなかった。科学的であったのだ。

北方領土回復のために自然エネルギーでの自立を邪魔しよう

 さて、キスカの映画を持ちだしたのは、木村艦隊の基地として、幌筵(ほろむしろ)島が登場することである。千島列島の北東部にある島で、ほとんどのいまの日本人間では名前すらあがらない島で1945年に日本が降伏したことで、ソ連軍が占領。その後、ロシアが実効支配している。だが、敗戦前には我が大日本帝国の領土はこんな北方まで及んでいたのだ。

 ウヨ的な立場に立つならば、竹島や尖閣諸島はもちろん、北方の島々にも我が國威を及ぼし領土を回復していかなければならない。

 ここで、軟弱サヨ、辻元清美衆議院議員から「疑惑のデパート」「疑惑の総合商社」と批判された鈴木宗男氏が登場する。前出のブログは「ロシアの天然ガスを持ち出す鈴木宗男のようにまともな日本人が一人でも関わっていますか?」と批判しているが、鈴木宗男氏は実にしたたかだ。

 鈴木宗男氏は、北方四島の返還を求めるにあたり、ロシアに恩を売ることから始め、実際にディーゼル発電を建設の援助をすることで、北方四島の住民から感謝されるのだが、地熱発電という自然エネルギーでは駄目だと言う。地熱発電技術を援助すれば自然に優しいが、それではロシアがエネルギー自立出来てしまう。だが、ディーゼルならば、北方四島住民の日本への依存度が高められる。有事の場合にディーゼルを遮断すると言えば、ロシアは困る。それは、日本が天然ガスというエネルギーを輸入する上でも武器になる。

 鈴木宗男氏個人は、土着的社民主義の政治家で、田中角栄氏と同じく愛国的でありながら平和主義路線で最も戦争を忌避する人物である。だが、同時に援助の裏にはこうしたしたたかな計算がある(3)

 この鈴木氏のアイデアのくだりを読んで、ふと、キューバのことを思い出した。

憲法改正への反発の中での外交戦略

 キューバは米国から経済封鎖されているため、石油大国ベネズエラからの石油がエネルギー確保の生命線のひとつとなっている。キューバはこの石油を確保する見返りとして膨大な医療援助を行っている。

 癌が再発したチャベス大統領がキューバで治療を受けていることから、両国の蜜月関係が深いことはよくわかるのだが、チャベス政権といえども永遠ではない。2009年1月14日に憲法改正案が国会を通過し、2月15日に大統領の無制限再選を認める憲法改正案の国民投票が再び行われ、賛成多数で憲法改正が承認されたことから、チャベスの無制限再選が可能となったのだが、それ以前の2008年11月に実施された地方選では、憲法改正に対する反発が強く、首都・カラカスを中心に野党勢力が躍進し、チャベスの翳りが見られるようになっていた(4)。憲法改正が通らなければ、チャベスの権力も危うかったのだ。そんな2008年にハバナで出会った毎日新聞の庭田学記者から聞いたエピソードを披露してみよう。

「ベネズエラのチャベス大統領は強権政治もあって人気に翳りもでてきたし、もしかしたら危ないかもしれません。ですが、ならば、なおのこそ今のうちとばかりキューバはどんどん医師を増やそうとしているのです」

「ほう。ですが、チャベスが倒れたら善意の援助も無駄になるのではないですか」

「いや逆です。今から医療の援助漬けにしておけば、たとえチャベスが倒れたとしても、ポスト政権に対しても人々は『前政権のときは貧しい村までキューバの医師が来たのに。今はどうだ。早く交渉して寄こせ』と批判を浴びせるでしょう。そして、キューバ側は『今度はチャベス政権ではないのだから、もっと高いお金を出さなければ行かないよ』とも言えるのです」

 あーっ。純粋サヨ、ゲバラの精神に立脚した人道主義的な援助ではなかったのか。

「いや、人道的援助ではあるのです。ですが、単なるお人よしではない。実にしたたかです。カリブのユダヤ人といわれるだけのことはあります。いや、それだけの戦略があるからこそ、米国と対峙して半世紀も生き残ってきたとも言えます」(5)

 鈴木宗男氏の戦略と同じではないか。エネルギー確保は、純粋サヨの地球に優しいや純粋ウヨの必勝の信念だけでは、難しい。愛国主義的ナショナリズム戦略の必要性が必要なわけもそこにある。

【引用文献】
(1)ウィキペディア・キスカ島撤退
(2)司馬遼太郎『街道をゆく42三浦半島記』(1996)朝日新聞社
(3)鈴木 宗男・魚住昭・佐藤優『鈴木宗男が考える日本』(2012)洋泉社新書
(4)ウィキペディア・ウゴ・チャベス
(4)2008年5月筆者インタビュー


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(11)

2012年12月06日 00時55分15秒 | ロシア

小規模農業の強さ~市場価格が低下すれば、産出量が増える 

 では、チャヤーノフの言う小規模農民の経済論理は、資本主義経済の論理とどこが違うのであろうか。考えてみよう。まず、小規模の農民の「家族農場」においては労働に賃金が伴わない。基本的にタダだ(1,2)。だから、どれほど残業しても経費は増えない。もし、コストが測定されるとしても、くたびれる仕事が困難だと主観的に感じられるだけであろう(2)。このことを受け、新古典派のエコノミストたちは、家族農家は、雇用者であり、かつ、同時に労働者とも見なすべきだと主張した。だが、チャヤーノフは、こうした理論は「フィクション」だと述べる。賃金が欠落している以上、新古典派経済学の枠組みによる分析そのものが崩れているとみなす(1)

 そして、チャヤーノフは、ここから小規模農民の経済的メリットを見出した。エコロジー的に持続性があるだけでなく(1)、資本主義がかなり発展した経済においても、小規模農民がサバイバルできることを理論化してみせた(2)。例えば、農民が必需品を得るために収穫物の一部を売却したり、納税のために金銭を必要とするケースを想定してみてほしい。農作物の価格が下落すれば収入は下がる。同じ所得を稼ぐには消費を削減するかさらに増産するしかない。資本主義の論理からすれば、農業経営上で損失が出ることになり、労働者に賃金を払った後でも利潤をあげなければならないビジネスには明らかに不利だ。だが、小規模農民は違う。チャヤーノフは、資本主義経済の基準からは逸脱した行為を行なうことで、農民はこうした問題に対処できると指摘する(2)。例えば、価格が低下し、経営が悪化しても農民たちは、労働集約化を強化することで資本不足をカバーし、さらに生産するであろう(1,2)

 経済史家のダニエル・ターナー(Daniel Thorner)はこう説明する。

「資本主義的農場が破産する条件下においても、小規模農民はより長時間働き、より低価格で販売できる。年々、純剰余金を得ずになんとか農場を管理運営していける」

 小規模農民は独立していて、自分の農場の経済活動を自己責任で管理しているから(1)、チャヤーノフが言う自己搾取率を高めることによって、困難な経済事情の中でも生き残れる(2)。ある条件下では、賃金労働者を用いる資本主義農場が不利益となるレベルまで農産物価格をコストダウンさせ、ビジネスから追い出すことにすら成功する(1,2)

 もちろん、これは、納税や地代がそれを可能とする条件下という留保付きではある。植民地下の南東アジアの数カ所では、農産物価格があまりに安すぎ、それに対して税や地代が高く、小規模農民は破綻した。だが、ヨーロッパ大陸の大半では、違っていた。例えば、19世紀後半に多くの製造業者が米国、アルゼンチン、ロシアからの穀物輸入品に対する関税を引き下げるよう政府に圧力をかけると、大規模な資本主義型借地農業は廉価な農産物攻勢に耐えきれず破綻した。これが、20世紀の初めにヨーロッパ農業の多くが大規模な賃金労働農場ではなく小規模な家族農場に席捲された理由なのだ(2)

 そして、このことは、第三世界諸国の厳しい貧困状態においても、なぜ、小規模農民がサバイバルできるのかという問題と関係している(2)。チャヤーノフは、小規模農業の可能性やサバイバル能力を重視し、家族労働力に依存する小規模農民の経済活動を特別なものとした。農業の最適規模に関する彼の研究は今日でさえも興味深い(4)

自然経済から文化へ

 チャヤーノフにとって、小規模農民の農場を理解する鍵は、それが生産ユニットと同様に消費ユニットであるという事実だった。そこでは、生産に家族の労働力が用いられ、資本と労働との間には分離がない(1,2)。これをもとに、チャヤーノフは「自然経済」の概念を提案した。自然経済は、チャヤーノフが「完全に自然な家族農場」と称するもののうえで普及しているが、そこでは、利益や賃金はさして意味をなさない。チャヤーノフは、この「自然な家族経済」を資本主義、共産主義、奴隷制度と並ぶ4タイプの別個の経済のひとつとみなす。そして、チャヤーノフによれば、小規模農民の農場に見出せる家族経済は、それ以外の三つの経済システムと共存しうるのであった。チャヤーノフの『小作農民の組織(Peasant Farm Organization)がベルリンで出版されたのは1923年のことだが、小規模農民経済に関する理論は、より幅広い「家族経済に関する理論(Theory of Family Economy)」の一部とみなされるに違いない。例えば、資本主義と「自然な家族経済」は「生産手段の再生」については共通するものがあるが、利益、賃金、小作料に関してはまったく共通するものがない。新古典派の概念を前提として成立する簿記さえも、そこでは成立しない(1)

 さらに、チャヤーノフは、文化、精神面から見た小規模農民たちのライフスタイルの重要性を強調する。小規模農業の伝統的なライフスタイルが文化的に大切であることは広く認められてきたが、チャヤーノフは、この文化面を重視する。チャヤーノフによれば、ロシア経済の基盤は、古代と同じく個々の小規模農民世帯だった。しかも、農民たちの伝統的な生活を継承するうえで鍵となるのが農業であった。

「多様性に富む農的暮らしや農作業は最も健康的なものだ」とチャヤーノフは言う(7)

 そして、家族のニーズが農場からの所得でまかなえなければ、小規模農民は、経済的なバランスを保つため、様々な商売に従事し、衣服作りや木彫他の兼業を行うであろう(1)。小規模農民たちの工芸や芸術性のバラエティさから、チャヤーノフは「手仕事の農業においては労働は創造性と不可分である」との結論を下す(7)

協同組合によるマーケティングとアグリビジネス

 都市化には、経済的、社会的、環境的コストがかかる。チャヤーノフは、都市化の問題点を認めていた。だが、同時に、チャヤーノフは都市生活がすべて不自然で悪いものだとは見ない。むしろ、分散化された都市化や小規模な都市の発展が、農村を発展させ、伝統的なライフスタイルを破壊することなく、小規模農民たちに、市場や文化的機会等の都市のメリットをもたらすと見ていた。チャヤーノフは、ロシアの農村の近代化の必要性を認識していた(7)。将来的に経済発展するためには農村に変化が必要なことも鋭く意識していた。そこで、チャヤーノフが着目したのが、農業改良普及事業だった。農学者は農民たちに新技術をもたらし、「地区の社会農学者(District Social Agronomist)」が、農業改善のための触媒となる(1)。そして、土地所有問題に関しては、チャヤーノフは、大規模農場の非能率には懐疑的で(6)、耕し続けられる限りは、農地は小規模農民に所有されるべきで、純粋に用途に基づき農地が割り付けられるべきだと考えていた(7)

 だが、小規模農民のユートピアのテーマが「スモール・イズ・ビューティフル」であるとはいえ、チャヤーノフは現実的には強力な組合の結成に目を向けていた(1)。チャヤーノフは、小規模農民をゆっくりと全国経済へと統合する実践的で信頼できる手段として、ボランタリーな農業協同組合に期待していた(7)。協同組合を構築することによってのみ、小規模農民の経済システムが生き伸びられると考えていた(1)。発展していく資本主義や社会主義の一部としてではなく、農業の改良普及や協同組合の組織化を通じて、農業生産の技術水準を高めることで、伝統的な小規模農業の近代化の構想を描いていた(2)

 チャヤーノフは言う。

「協同組合によって強化された家族農場が、かつてそうであったように、大規模な資本主義型農場に対してその立場を防衛できることを望まなければならない」

 そして、協働組合の原則は、マーケティングや加工技術処理まで広げられると述べる。

「...より高度な新たな形態における農業生産の集中と組織化によって、協働のマーケティング政策にしたがい、小規模農民はその経営計画を変えることになる。技術を改善し、耕種農業や畜産で完全な方法を採択し、製品の一定水準が担保される。各世帯におけるこの根本的な変化で、小規模農業システムは、公的に協力しあう農村経済システムへと村の暮らしの量的転換がもたらされる」(1)

 チャヤーノフは、オルタナティブな未来のビジョンのため、ロシア西部国境に出現したサトウダイコン・コントラクト農業農工業(sugar-beet contract farming agroindustry)に着目する。これは、大規模農業の水平的な集団化化よりも、加工やマーケティングの垂直的な集団化(vertical concentration)の方がより有益だとのアイデアに基づいていた(2)。このアイデアから、チャヤーノフは、農民たちの地元についての知識と土地の生産能力を結合するマイクロマネジメントによって、家族農場はアグリビジネスよりも優位に立てると見ていた。製品の加工や交換、資金等をもたらす「垂直的な協同」を通じて、家族スケールでの生産を維持しつつ、小規模農民は大規模組織の恩恵を享受できると判断した。チャヤーノフは、協働組合による資本の社会化、生産者自身が管理する数十億ドルの企業、現在のミネソタ州での大規模なランドオレイクス協同組合(Land O’Lakes cooperative)やスペインのモントラゴン組合(Mondragon combine)といった組織を期待していたのである(1)

 未来予測として、垂直的な集団化を通じたアグリビジネス発展の重要性を認識した、チャヤーノフのこの分析には、確かに先見性があった(2)。それは、小規模農民たちが管理する協同組合によって導かれる平和的な経済革命のビジョンであり(1)、資本主義国の大規模な資本の機能を有する人々の自己管理による協同組合型の非資本主義的なソ連農業の発展を夢見ることで、チャヤーノフは、マルクス主義に挑戦していたのである(2)。だが、チャヤーノフは、自給農業を実践する小作農民たちに余剰生産を強いることが困難であることをソ連政府が理解するだろうと信じていた(6)

レーニンからスターリンへ

 ソ連政府が理解するだと。なんというたわごとだ、と読者諸兄は思われるかもしれない。だが、チャヤーノフにはそう感じてしまうツキの悪さもあったのである。

 ここで、ロシア革命時の歴史をもう一度振り返ってみておこう。ロシアでは1917年の2月革命によって、ロマノフ王朝は倒れた。チャヤーノフは、ボルシェビキではなかったが、1917年のロシア革命には活発に参加していた(1)。また、ロシアの協同運動にも積極的に参加し、第一次世界大戦中や革命後に指導的な立場となっていた。1917年からは、農業政策づくりに参加し、農業人民委員会(Peoples Commissariat for Agriculture)や国家計画委員会(State Planning Commission)のために農業開発計画を起草していた(4)。そして、臨時政府の農業次官となっていた(8)。つまり、チャヤーノフは評論家ではなく、実際に高く評価されていたのである。ここにまず不幸の根のひとつがある。

 そして、この時、チャヤーノフが次官をしていた臨時政府を倒したのが、レーニンの10月革命である。

「テロに対してはテロで答える」。レーニンは、敵対者への暴力を善であると考えていた(8)

「選ばれた非凡人は、新たな世界の成長のためにならば、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の理論をもとに、強欲な金貸しを殺害し、奪った金で世間のために善行を企てたのが、頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフだった。ドストエフスキーの「罪と罰」(1866)の主人公ラスコーリニコフは、しかし、罪の意識が増長し、自分より惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの自己犠牲的な生き方に心をうたれ、最後には自首する(5)

「選ばれた前衛は社会主義の実現のためには、テロをも辞さない権利を持つ」。独自の理論をもとに、豊かな農民クラークを殺害し、奪った金で貧民の救済という善行を企てた頭脳明晰なレーニンは、どうなったのだろうか。

 レーニンは遺言的な文章として1923年1月4~6日に口述した「協同組合について」を残している。レーニンは「協同組合のことを考えることを忘れたとし、生産手段の社会的共有の下での、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの階級的勝利の下での、文明化された協同組合員の体制、これこそが社会主義の体制だ」とまで言い切っている。

 では、晩年のレーニンは、この発想をどこから得たのだろうか。レーニンはこの口述に先立ち、妻クルプスカヤからある本を取り寄せさせている。チャヤーノフの『農民協同組合の基本思想と組織形態(1919)』である。同1919年、チャヤーノフは全ロシア農業協同組合買付連盟(セリスコサユース)と農業協同組合合同評議会(セリスコサヴェート)の議長を兼務していた(8)。しかも、1920年代の初めには、さらに政治的なチャンスも得ていた。「戦時共産主義」の後、破産に陥ったソ連の危機を乗り越えるため、レーニンはネップ(新経済政策)の下、小規模農民の土地所有を集産化する計画を延期し、市場メカニズムの一部導入を試みる(1)。後のぺロストロイカを思わせる市場経済の導入は、革命後わずか4年目に試みられていたのである(8)。まさに、小規模農民のユートピアに描かれたロシアの未来の可能性が見えていたのである(1)

 レーニンからも評価されてしまった。ここに不幸の二つの根がある。チャヤーノフはまことにのんきであった。1927年には農民協同組合論の再販にあたり、レーニンの協同組合論を言及し「レーニンのあの論文の後、協同組合は我が国の経済政策のひとつとなった」と楽天的に書いてしまっている(8)。だが、同じ1927年、穀物調達の危機を受け、スターリンはネップを事実上破棄していた。スターリンは、ロシアの小規模農民に対して暴力的な「水平の連合(horizontal consolidation)」を立ち上げる。この時点で、チャヤーノフはスターリンにとって大敵となってしまった。すでにチャヤーノフの味方であったであろうレーニンは1924年に死んでいてこの世にいない。

 1929年12月27日のスピーチにおいて、スターリンは「マルクスとレーニンによって考案された借地料の理論(theory of ground rent)を受け入れることを拒絶した」と名ざしでチャヤーノフを攻撃した。数カ月後にチャヤーノフはコンドラチェフらとともに、逮捕される。スターリンの検察官は、チャヤーノフが秘密の反革命的組織、勤労農民党のメンバーだと非難した(1)。その後にチャヤーノフは処刑されるのだが、それは、レーニンからスターリンへの政治的変化という世間の情勢が読めなかったうかつさにもあったのである。

【引用文献】
(1) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(2) John Gledhill, The Chayanovian Alternative, The Family Labour Farm
(4) Gale Encyclopedia of Russian History: Alexander Vasilievich Chayanov
(5)ウィキペディア
(6)ウィキペディアAlexander Chayanov
(7) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(8) 和田春樹、下斗米伸夫他『社会主義の20世紀』第四巻「歴史の空白は埋まるか」(1991)NHK出版


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(10)

2012年12月04日 23時52分04秒 | ロシア

農民はマネーを稼ぐことを目的としていない

 農民たちの経済を研究すればするほど、既存の経済理論が現実にはうまく合致しない。チャヤーノフたちは、そのことに気づいた。チャヤーノフ自身の言葉で表現すると「自分たち自身のために働く、家族仕事に関して個別理論を構築すること」が必要となっていたのだ。チャヤーノフは、まず家族が労働力となる小規模農民の農場に基づいてモデルを構築していく(1)

 チャヤーノフは、小規模農民は「使用価値(use value)」に関心を持つと主張する。そして、農民たちの生産動機は、使用価値志向であって、仕事に精を出せば出すほど利益があげられたとしても、彼らがそれを行うのは、それが、骨折り仕事(drudgery)に達するまでだと主張した(2)

 ここで使用価値について簡単に確認しておこう。

 近代経済学では、効用をもたらすモノやサービスを財と呼ぶ。そして、財には二つの価値がある。モノを所有することから直接的に得ることができる「所有価値」と、その利用者がそれから何らかの体験を引き出すことができる「使用価値」だ。例えば、家は「快適に暮らす」という体験をもたらすし、車は「快適に移動する」という体験をもたらす。とはいえ、サービスは、所有することが不可能なことから、所有価値とはいえない。例えば、教師が学生たちに提供する学習体験は、使用価値であって所有価値ではない。

 近代経済学が誕生したときには、モノが決定的に不足していたことから「財=モノ」といえた。だが、モノがあふる現代においては、使用価値はあえて所有という形態を取らなくても簡単に得られてしまう。例えば、住居にしても車にしても、レンタルやリースをするだけでその使用価値を味わえてしまうのだ(3)

 次に農民たちの自給を考えてみよう。どの小規模農民も自分たちが必要なモノをすべて完璧に自給しているわけではない。だから、農民たちは必要に応じて足りないモノをお互いに交換しあう。例えば、ある農民は、もう十分に足りていて家族には不必要なトウモロコシを提供することで、職人が製造した調理ポットを手に入れる。そして、その職人家族は食料を自給するだけの農地が足りないのだ。この交換は物々交換ではなくマネーが媒介することもあるでであろう。とはいえ、こうした交換は、お互いのニーズを満たしあうためのものであって、マネーを稼ぐことそのものが目的となっているわけではない(2)。資本主義的企業が利益のために仕事をするのとは異なり、小規模農民は家族の暮らしのために働いているのだ(4)

最小限の自給ニーズは社会が決める

 農民たちが利益のためではなく、自給のために働いているとすれば、農民たちの最低基準の自給ニーズは何によって決まるのであろうか。米国の人類学者で、ラテンアメリカ諸国を中心に農民たちを研究したエリック・ロバート・ウルフ(Eric Robert Wolf:1923~1999年)ニューヨーク市立大学大学院センター教授は(5)、農的社会における生産には「置換資本(replacement fund)」が含まれていなければならないという。すなわち、翌年の播種のために、最低限の種籾は確保しておかなければならない。今年の実りの一部は、未来の再生産のために残しておかなければならない。通常、農民は、翌年のために、種籾を食べたりすべての家畜をしたりはしない(2)

 だが、11月25日のブログで書いたように、驚嘆すべきレーニンの頭脳が産み出したマルクス・レーニン主義は、この農民の伝統的な行動原理を無視することができた。例えば、モロトフ書記は「生産目標を達成するためには、農民が来年用に残している種子すらも取りあげればよいだろう」と叱責した。その結果、ウクライナでは1932~1933年にかけ、700万人もの農民が餓死するのである。このことから、農民家族が餓死せずに再生産されるためには、まず最低でも置換資本が必要なことがわかるであろう。

 だが、最低基準のニーズを考える上では、さらに考慮しなければならないものがある。米国の文化人類学者、マーシャル・サーリンズ(Marshall David Sahlins:1930年~)シカゴ大学教授は(5)、人間はただ肉体に食料を供給するだけの存在ではない、と指摘する。すなわち、結婚他の社会的儀式や社会での人間関係を維持するためにも食料供給が必要である。したがって、農民たちは、自分たちの社会的責務を満たすために、各家族が必要とするよりも、少しだけ過剰な物資を生産することで、社会的存在として自分たちを再生し続けられる。これを「社会再生資本(social reproduction fund)」と呼ぼう。

 現実に、小規模な農民コミュニティにおいて、義務的な社会的消費に費やされる資源量には、無視できないものがある。例えば、ラテンアメリカでフィエスタを支えるためには、ある農民の年収に匹敵するものが必要とされることがある。とはいえ、こうした村の暮らしのための各家庭の義務を満たすだけではまだ生産は足りない。農民は国に税金を払わなければならないし、地主、教会他の支配階級からも年貢を納めることを求められる。ここに農民たちが直面する基本的ジレンマがある(2)

消費・労働の原理~生物学が農民の経営規模を決める

 そこで、チャヤーノフが想定したように、農地が不足していて、小規模農民家族の適切な兼業先もないと想定してみよう。そして、その農民家族には自分たちの農地で働く以上の労働者がいて、かつ、最小の消費ニーズが不足しているとしてみよう。この状況の下では、農民たちはなんとか農地を借りて経営規模を拡大しようとするであろう。これを「飢餓地代(hunger rents)」と呼ぼう。土地不足に直面した模農民たちは「飢餓地代(hunger rents)」の原則で行動するであろう。

 農民たちが家族の自給ニーズを満たすためだけに行動し、かつ、土地が不足したときにのみ拡大を求めるという原則の二つを組み合わせれば、ある小規模農民家族の経済活動や農場の経営規模は、成長から発展、そして、没落という周期的なサイクルを描いていくことがわかる(2)

 まず、新生活をスタートさせたばかりで子どもがいない若夫婦では消費者(扶養者)と労働者の比率は1.0と等しい。だが、子どもが産まれればこの比率はあがる(1)。チャヤーノフによれば、12歳以下の子どもは農場労働者としてほとんど寄与しないからだ(2)。そして、ロシアの農村夫婦は平均で9人の子どもを持っていた(1)。したがって、若夫婦はかなり長期にわたってハードに働かなければならないし、最初の子どもが働き始めた後さえ、まだ子どもは産まれているであろう(2)。その負担は4~6人の子どもを持った時に最高水準に達する(1)

 家族がこの消費ニーズに対応するには、夫婦はさらに生産をしなければならないが、それには二つのやり方がある(2)。第一は、よりハードに、より長時間働くことだ。これをチャヤーノフは「自己搾取率(self-exploitation)」を高めると表現する(1,2)。第二は、さらに多くの農地を借り入れ、農業の経営規模を拡大し、耕作用の家畜を買い入れ、さらに労働者を雇うことだ。多くの場合、農民たちはいずれも試みるであろう。

 だが、それは、ただ養うべき多くの子どもがいて、生産を拡大する必要があるだけなのだ。そして、小規模農民家族の発展サイクルにおける一時的な状態であるにすぎない。だが、時が流れ、子どもたちが成長すれば、子どもは労働力となり、雇用していた労働者は不要になるであろう(2)。消費者と労働者の比率は下がり、中年夫婦はさらに広い農地を獲得できることになる。そして、9人目の子どもが産まれる頃には、長男や長女は結婚し、自分たちの農場を見つけているであろう(1)

 次々と子どもたちが成長して、結婚し、独立していくにつれて、家族は小さくなり(2)、両親は、子どもたちに土地資産も贈与していく。そして、最後に成人した子どもが残る頃には、老いた夫婦は、いずれかの子ども夫婦の扶養家族として「引退」し、養われながら死んでいくことになる。チャヤーノフは、スタロベリスクにおける小規模農民の詳細な研究から、農場規模と世帯規模とに0.64と強い「相関係数」があることを見出す(1)

 要するに、各農民家族において、大人の数に比べて、農作業にまだ従事できない扶養家族が多いほど、その家族内で働ける農民は、農民たちはハードに働かなければならない(2,6)。とはいえ、農民たちは生存ニーズを満たすために必要なことに対しては熱心に働くが、こうしたニーズを超えたインセンティブは持たない(6)、ひとたび家族の最低基準のニーズが満たされてしまえば、それ以上働くことは止め、生産の拡大は試みない(2,6)。わかりやすく言えば、ある小規模農民の家族は、自分たちが満足できる消費水準を担保できるだけ働けば、それ以上は、もはや懸命に働こうとはしないということだ。だが、養わなければならない消費者の数が減れば減ればその労働は緩和される。となれば、各家族内の労働者が行う仕事量は、その家族が養わなければならない消費者の数に依存するであろう。したがって、「自己搾取」の程度は、資本の基準ではなく快楽計算(hedonic calculus)によって決定されることになる(2)

「家族ニーズの充足と骨折り仕事とのバランスで自己搾取の程度は決定される」とチャヤーノフは言う(1)

 「消費・労働バランス原理」と呼ばれる、チャヤーノフのこの原則によれば、農民たちの労働量は消費ニーズを満たすまでは増えるがそこでバランスする(6)。このことは、使用価値、あるいは、家族の消費ニーズが、市場価値よりも優先され、小規模農民は、利益や蓄積に無関心であることを意味する(1)

 小規模農民たちの支出動向を分析したうえでチャヤーノフは、農民たちの生産動機が、資本主義的な利潤極大化の原理でも、個人消費の最大化でもなく、ただ家族のためのベーシックな自給ニーズと退屈な労働とのバランスで決まると結論づける(7)。すなわち、小規模農民たちの経済を動かしているのは、消費者と労働者比率であって、階級闘争でも限界効用でもなく、生物学なのだ(1)。生物としての人間の栄枯衰退だけが、農場の規模と資本化を決めている(2)

 もし、農村の総人口が成長していれば、公式統計上は成長量が記録される。だが、それは、新たな農地の階級構造の出現を表わしているわけではない。レーニンが原資本主義(proto-capitalism)の証拠として解釈した規模拡大や労働力の賃貸は農村における分化とは解釈できない。個々の家族を見れば時間とともに、成長の後には衰退が続く(2)。マルクスやレーニンの理論に反して、チャヤーノフは、ロシアの農村における分化が家族のライフ・サイクルに主に依存することを経験的に示した(1)。しかも、前述したとおり、小作農民は利益のためではなく家族の生活のために働くのであって、資本主義とはイデオロギー的に反する。となれば、小規模農業はある外的要因が加えられない限り資本主義へは発展しないことになる(6)

【引用文献】
(1) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(2) John Gledhill, The Chayanovian Alternative, The Family Labour Farm
(3) 2012年3月20日、elm200 のノマドで行こう!「モノを所有する時代の終わり~所有価値から使用価値へ」
(4) Gale Encyclopedia of Russian History: Alexander Vasilievich Chayanov
(5)ウィキペディア
(6)ウィキペディアAlexander Chayanov
(7) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(8)

2012年11月25日 23時01分42秒 | ロシア

 京王線には「芦花公園」という名前が付いた駅がある。徳冨蘆花(1868~1927年)の住宅であった蘆花恒春園が近くにあることからこの名が付いた。蘆花は、今流に言えば、田舎暮らし、農的暮らしの元祖の一人と言えるだろう。

 蘆花以上に、本格的な百姓生活を実践したインテリには、江渡狄嶺(1880~1944年)もいる。狄嶺は、仙台の第二高等学校で学んだ後、東京帝国大学法科大学に入学する。当時の帝大である。エリートへの道は保証されていたといい。だが、狄嶺は同学を退学すると千歳村船橋(現在世田谷区)、その後は、上高井戸(現・杉並区高井戸東)に農場を開き、実践と思索を重ねた(1)。蘆花や狄嶺が田舎暮らしにあこがれたのは、トルストイに心酔していたからであった。

 たしかに、ロシアには、バクーニンの伝統もあれば、クロポトキンもいた。1840年代には、ロマン主義のスラブ主義(Romantic Slavophilism)によって、農村における小規模農民の美徳が強調されていたし、1880年代のロシアの人民主義運動(Populist Movement)は、インテリたちが農村を訪れ、自然と再びつながることを熱望していた(2)。ソ連が誕生する以前のロシアは、混沌としていたとはいえ、日本のインテリたちを魅了するだけの農的思想の宝庫だったのだ。だが、その後のソ連は、大規模農業と近代農業の実践場と化してしまった。どこで、路線が食い違ったのか。今日は、レーニンの思想を辿ってみよう。

農村がプロレタリアート化すれば資本主義社会が到来する

 資本主義はいかにして発展するか。マルクス主義者たちの初期の議論で重要課題となったのは「農地問題」だった。ここで、資本主義が発展するために、農業、あるいは農地がどのように寄与するかを確認しておこう。端的にいって、農業は以下の四つのやり方を通じて資本主義化に欠かせない資源をもたらす。

①余剰労働力
 農業だけで生活できない農村住民は、産業化に欠かせない「賃金労働」をもたらす。
②余剰農産物
 マルクスによれば、賃金労働は、製造業を発展させるのと同じく、農業生産性を向上させるためにも同じく重要である。産業が発展すれば、多くの労働者が必要となり、余剰農産物も増すからだ。
③国内市場の発展
 農民は生産者であると同時に消費者でもある。だが、彼らがプロレタリアートになれば、自分たちの必需品を必ず市場で買わなければならない。国内市場に基づく産業を発展させるためには、農民たちに自給自足を止めてもらわなければならない。
④投資剰余金
 余剰労働力と売買できる余剰(marketable surplus)と同じく、農業は出資剰余金(investment surplus)も産み出す。

 ちなみに、革命前後のロシアにおいては、出資余剰金の可能性も着目された。ロシア帝国の大臣であったセルゲイ・ヴィッテ(Sergei Witte)によって19世紀末に提唱され、新経済政策やソ連の産業化を巡る1920年代の戦略論の中で、ソ連の経済学者や指導的ボルシェビキ、エフゲニー・プレオブラジェンスキー(E. Preobrazhenski)によって社会主義発展のためのモデルとして継承された(3)。だが、この路線は、その後途絶えた。プレオブラジェンスキーは1936年12月20日に逮捕され、スターリンによって翌年、非公開処刑されてしまうのである。その復党が許可されたのは1988年、公式に名誉回復されたのは1990年になってからであった(4)

 さて、資本主義を発展させるこの4つの要素のうち、マルクスが最も強調した要素が余剰労働力であった。また、マルクスは余剰農産物も重視した。農村がプロレタリアート化すれば、資本主義な農業の発展の条件を産み出すからである。マルクスの見解によれば、資本主義が発展するには、まず、小規模農民がプロレタリアート化することが不可欠であった(3)。そして、当時の英国やドイツの状況を受け、農村プロレタリアートは、都市プロレタリアートと違いがなく、産業の発展と同じ基本法則が農業の発展にも当てはめられるにちがいない、とマルクスは想定していた(5)。逆にプレ資本主義農業は、農業生産性を高めて市場向けの余剰農産物を増やせないことから、産業発展の障壁となるであろう。したがって、プロレタリアート化を邪魔するいかなるプロセスも、搾取に対して人間性を完全に解放できるであろう、その日の到来を先送りしているのであった。なんとなれば、自分たちの農地にしがみつく小規模農民は、古い支配や搾取の形態、あるいは地主階級の支配も維持し、必ず達成されるべき社会主義の到来を遅らせるべき邪魔な存在に他ならないのであった(3)

自作農をコアに封建的ロシアを資本主義化する

 だが、19世紀後半から20世紀前半にかけてのロシア社会は、マルクスが想定した西ヨーロッパのそれとは根本的に異なっていた。レーニンのみたところ、ロシア農業は、いまだに資本主義に至らぬ封建制のままであった。確かに、当時のロシア国民の圧倒的多数は農民だった(5)。1910年には、ロシア帝国全体の1億5800万人のうち、1億3500万人が小規模農民であった。ヨーロッパ・ロシアだけで、小規模農民は9300万人もいて、人口の84%を形成し(2)、かつ、その農業は自給志向のものだった。例えば、19世紀前半には、過剰農産物、とりわけ、穀物を生産することを小規模農民に強いるうえでは農奴制が不可欠であったことが認識された。この強制がなければ、多くの農民や農村全体が自給生産に戻りがちなのであった(5)

 ロシアにおいて農奴制が廃止されたのはようやく1861年にもなってのことであった。それも、1856年のクリミア戦争で敗北し、近代化の必要性を痛感したアレクサンドル2世が、農奴解放令を出したことによる外圧であった(4)。とはいえ、公的に農奴解放がなされた後でさえ、小規模農民たちは、地主から農地を買い入れることに猛烈に反対した。新たな土地憲章に署名することを小規模農民に強いるため軍事力を用いられなければならないケースがほとんどであった。おまけに、小規模農民の多くは地主に支払う資金を手にしていなかった。土地を買い入れても借金を返済し終えるまで地主に付随し続けた。要するに、「解放」から数十年後も農民たちの大半の暮らしにはほとんど変化がなかった。古いcorvéeや現物での年貢が金銭での重税に変わっただけであった(5)

 だが、農奴解放には二つの大きな結果があった。厳しい農村から農民たちが都市へと逃れ、都市労働力に加わるようになったこと。そして、起業的な小規模農民が農地を購入し農地を買い入れることが可能になったことであった(5)。この農奴解放を受け、ニコライ2世の下で、個人農家創設のための改革を促進したのが、ピョートル・ストルイピン(Pyotr Stolypin)である。ストルイピンは、セルゲイ・ヴィッテと並ぶ有能な政治家で、1906年に首相に就任。社会不安が高まりテロも多発し、帝政が危機的状況を呈する中、国民の不満を解決するため、帝政の支持階層となる自作農階級の育成を試みた。だが、伝統的な農村コミュニティ(ミール)の解体を嫌悪する農民層は反発し、ストルイピンはアナーキストによって暗殺されてしまう(4)。そして、ストルイピンの農地改革にもかかわらず、農民たちの90%は、伝統的なままで、機械類を用い、賃金労働者を雇用し、市場に向けの生産を行うことに適応した近代的な農民は10%ほどにすぎなかったのであった(5)

 こうした状況を受け、レーニンは、マルクスの論理をさらに練り上げたうえで、ロシアに適用する必要性があると考え、著書『ロシアにおける資本主義の発展(The Development of Capitalism in Russia)』において、マルクスのオリジナル・モデルに修正を加えた。

 マルクスは、小規模農業が長期的には生き残ることができない、と考えてきた。同じく、レーニンも小規模農業は完全な産業型資本主義の発展にそぐわないと考えていた。そして、レーニンは、マルクス以上に、農業の資本主義的発展と資本主義産業の発展との関係を理論的に明確化した。そして、上述した四つの要素のうち、レーニンにとっては三番目の国内市場の発展が鍵であった。そして、国内市場の発展において小規模農民の分化が果たす役割に、とりわけ、着目した。

 マルクスと同じく、レーニンも農民の階層分化が避けられないと見ていた。そして、ストルイピンの改革によって、ロシアではクラーク(kulaks)と呼ばれる新たな裕福な自作農が誕生していた。何人かの農民はより豊かな地主となり、別の農民はより貧しくなっていた。すなわち、19世紀後半から20世紀前半にかけて、ロシアの農村においては、社会経済的分化が起こっていた。レーニンはこれを「富農階層クラーク」、「中流農民」、「貧しい農民」と三階層に分類した。

 豊かなクラークは、農村のプロレタリアートである貧しい農民を賃金労働者として雇用し、農村におけるブルジョアとなっていた。ブルジョア農民は、利益志向の商業的農業の発展に対応し、賃金雇用される労働者を搾取することによって資本を蓄積している。おまけに、役畜や鋤他の生産手段の大半も所有し、貧困に陥った貧しい小規模農民たちの土地を購入したり、借りたりしていた。レーニンによれば、この新たな農民のブルジョア階級であるクラークが増えることが市場発展の刺激となるのであった。さらに、クラークは、自分たちの消費水準が高いだけでなく、農具等の生産手段のために市場を提供する。そして、商業的農業の発展と農村への貨幣経済の広がりを促進していた。一方で、レーニンの見解では、伝統的な地主は、商品開発を阻害しがちであった。

 地主階級は農民を封建的なcorvée労働のやり方を通じて、搾取し続けていた。また、そうすることには利益があったことから、村の商人も小規模農民を利用し続けた。地主や商人資本の支配が続けば、農業における十分な発展、すなわち、「賃金労働」に基づく生産、農業生産性のポテンシャルを最大に発揮することができない、そうレーニンは判断した(3)

アメリカ型の道とプロイセン型の道

 もう一度、確認しておく。マルクスもレーニンも、大規模な賃金労働に基づく資本主義型農業が長期的に成功すると考えていた。現実的に見れば、大規模な賃金労働に基づく資本主義型農業が、どの条件下においても経済的に有利であるとは限らない。次回に詳述するように、小規模な家族農業の方が、資本主義型大規模農業よりも有利なケースもある。また、農業には工業とは違う論理があるはずである。

 だが、レーニンは、資本主義型大規模農業が家族農業に取り替えわってしまうという可能性は一切認識していなかった。また、農業も工業化とまったく同じパターンに続くはずであるという前提の下に論理を展開した。なんとなれば、「封建制の領主制」が資本主義型農業へと転換し、発展していくための方策を考えればいい。それには、どのようなルートがあるのであろうか。レーニンは『ロシアにおける資本主義の発展』のやや短絡的な図式をその後改め、以下の二つの道があると主張した。

●プロイセン型(ユンカー)の道
 当時、中央ヨーロッパ農業における趨勢に基づいてレーニンが考えたもので、伝統的な封建制のもとで、地主階層が残りながら、借地農民が賃金労働者へと変わり、過剰となる借地農民が追い払らわれることによって、徐々に内的に転換していく。

●アメリカ型の道
 このモデルとは、小規模農民が社会経済的に分化する過程を通じて、地主階級が存在しないか、地主階級が革命によって破壊されたところで誕生する。

 とはいえ、プロイセン型の道は、次のアメリカ型の道に比べて進歩的ではないとレーニンは考えた。なぜなら、アメリカ型の道では迅速な技術開発がもたらされ、自由な資本主義の発展の道を切り開ける一方で、プロイセン型の道は古い労働搾取の農奴制の遺物をいつまでも残してしまうからである(3)

キリスト教とシンクロする共産主義革命

 さて、ロシアの農村において、農民の三層構造が生じていることについてはふれた。これは事実であった。そして、レーニンはこれが、さらに二極化していくと見た。貧しい農民たちの何人かは土地なしで、それ以外の農民もわずかな土地を耕作し続けていたが、誰もが賃金のために働かなければ生き残れなかった。一方、農村が経済的に商業化されたことから、中流の小規模農民も搾取されていた。彼らは、自給志向の農民であったが、新たなブルジョア階級の農民から借金をしなければならなかった(3)

 では、はたして、小規模農民は、社会主義革命を実現するための闘争における同盟者となるであろうか。それとも、反動的な反革命的な分子であろうか(3)。革命以前から、レーニンは、ロシア農民が、革命シンパとなるか、そうではないかを判断すべく「農地問題」の著作を多く執筆していた。そして、レーニンにとっては、地主階級の小規模農民のメンタリティはプロレタリアートではなく、ブルジョアのそれに近かった。レーニンが例外とみたのは、土地を所有しないか、より裕福な村民の世帯で賃貸用に働く農村の貧しい農民だけであった(5)

 レーニンはこう指摘する。
「すべての凶作は、プロレタリアート階級へと多くの中流の小規模農民を放り込む」
「プロレタリアート農民は、中流の農民とは違い、それほど消費をしたりはしない。だが、多くを買う」(3)

 以上のことから、レーニンらは、革命以降にロシア農業が発展するためには、以下のことを実施することが欠かせないとの結論を下した。

・土地所有の国有化(国営農場は、家族消費のためではなく、社会主義計画下の社会主義市場のために生産を行う)
・自立した小規模な農民を大規模国営農場の賃金労働者へ転換(大規模ほど効率的で、それによって産業化や都市化に必要な労働力が解放される)
・自発的な集産化によって小規模から大規模農業への転換

 すなわち、ボルシェビキ政権の農業改革とは、土地所有を個々の小規模な地主から国家へと変換し、家族労働を集産化された農場における労働に転換し、農業生産の近代化を目指すものであった。それには、人民を農地から引き離し、プロレタリアート化し、社会や家族の絆を断ち切り、村を都市に依存するようにし、農村人口への統制の容易さを保証し、伝統的な価値観を根絶することが必要であった。さらに、土地所有も含めて、ブルジョア」の利益を根絶し、産業化と都市化のために人間やそれ以外の資源を担保することも欠かせなかった。しかも、レーニンは、村における経済的社会革命には、イデオロギー的な文化的革命によって、封建制の千年を通じて継承されてきた自給農業に根ざす伝統的価値観を破壊する必要があることもはっきりと理解していた(5)

 シャラシュキン博士は言う。

「このことは、伝統的な自給自足経済の植民地化のレシピを再び思い出させる。農業に関する限り、マルクス主義者の見解が、900年以前のキリスト教や封建制度とどれほど同じであるか。それは、驚くべきほどだ」

 教会や領主によって圧制を受けていた小規模農民は、プロレタリアートによって「解放」されたのであった。だが、再び、革命の力を養うために穀物を差し出すという同じ圧制を受けることになってしまったのであった。そして、小規模農民たちの伝統文化を破壊するためのキリスト教のイデオロギーが、マルクス・レーニン主義というイデオロギーに変わっただけなのであった(3)

集産化のもたらせしもの

 前述したとおり、当初、レーニンは農村における自作農を重視していた。だが、その後事情が変わる。スラブ部族のもとに、ルスたちがやってきたとき、まず必要としたのは、食料であったと前回のブログで述べた。これは、ボルシェビキ政権にとってもまったく同じだった。軍と「労働者階級」、すなわち、産業プロレタリアートに食料を供給する必要があった。そして、その食料は農民を除いてどこからももたらされることはなかった。ところが、1920年代末には、裕福な小規模農民たちクラークは、価格があがるのを待ち、余剰穀物を売ることを差し控えることが一般的だった。自給する小規模農民は、再び新たな社会、「共産主義社会」の建築の前に立ちふさがっていた。この理由から、パン、すなわち、穀物供給を統制化することが最優先事項となった。ボルシェビキ政権は、穀物に対して現物重課税を行い、武力(prodrazverstka)を用いることで、それを農民たちから引き出した。

 すなわち、ソ連を集産化へと動かすことになったひとつは、食料事情であった。同時に、集産化は、農村に対する統制を獲得するために試みられたのであった。

「集産化と農民文化の抵抗(Peasant rebels under Stalin: Collectivization and the culture of peasant resistance)」の中で、ビオラ(Viola, L. 1996)はその結果をこう指摘する。

「集産化は小規模農民たちのコミュニティを破壊し、威圧的な企業、名前だけの社会主義者を残した。共産党は、農民を文化的経済的な植民地に転換しようと試み、それを用いた。集団農場は統制の道具であり、国家はそれにより、穀物やそれ以外の生産物の形で小規模農民たちから年貢を強要し、農村に対する政治的な管理支配を広げられるであろう。植民地化の目標を達成するために、共産党は、小規模農民たちの文化や自立の根絶をまさに目的としていた」(5)

 レーニンがやったことをスターリンはより過激に試みる。スターリンは、農村の集団化を目指し(6)、1930年代には強制的な集産化が農村で急速に進んだ。公式統計によれば、集産化された世帯数は、1931年の4%から1929年に53%、1955年には99.6%まで及んだ(5)。その結果は、アラン・カールソン(Allan Carlson)が、20世紀の人間の最大の悲劇のひとつと呼ぶウクライナの小規模農民の破壊であった(2)

 肥沃な黒土を持つウクライナは、かつては、ロシア皇帝に統治されていた。だが、その支配は1917年の3月に終わり、レーニンの支配下におかれた。その後、「クラーク」として知られていたウクライナの裕福な農民は、人民の敵、革命にとっての障害とされ、私財・所有物はすべて没収され、私有の農地、家畜と穀物のすべてが奪い取られ、政府が所有者であると宣言した(5,7)。コルホーズとして設営された土地に農民を送り込んで耕作させるためであり、これに抵抗する農民はクラーク、つまり富農と名指しされ、次々と処刑された。さらに、何百万人もの農民が土地を負われシベリアにおくられ死に追いやられた(6)

 ウクライナでは1932年には約75%の農場が集産化されていた。そのうえ、スターリンは穀物分担の目標をかかげ、1932年にはウクライナの穀物獲得の分担は44%にあがっていた。そこで、凶作が起き1933年にはウクライナ人の食料は決定的に不足していた。だが、ウクライナの穀物は海外に販売され、5カ年計画の資金として使用されなければならないものであった。もし、他国に販売された穀物がウクライナ人たちに与えられていれば、ゆうに人口を2年間も支える事ができたという。その結果は、飢餓であった。人々は、猫、鳥、鼠、カエルをつかまえて食べ始め、何人かの親は生き残るために自分たちの子どもまで食べた(7)。だが、モロトフ書記は、農民が来年度用に持っている種子も取りあげればよいだろうと地方幹部を叱責した。その結果、1932~1933年の餓死者は500~700万人にも及んだ(6)

 レーニンは、神童と称される程の秀才だった。中高等学校では全学科全学年を通じて首席であったし、サンクトペテルブルク大学への入学を許可された国家検定試験でも134人中1位だった。大学時代でも成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得している。そして、農民の暮らしを改善するため、革命を目指した(4)。だが、レーニンがもたらした結果は悲惨だった。ソ連全体では、1945年に第二次大戦が終結したとき、ボルシェビキ革命、戦時共産主義(War Commonism)、脱クラーク主義(de-Kulakization)、そして、集産化によって、4000万人もの農民が死んでしまったのである(2)

【引用文献】
(1) 青森県近代文学館、江渡狄嶺
(2) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(3) John Gledhill,Classical Marxism and the Agrarian Question
(4) ウィキペディア
(5) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(6) ロシア史・第11回スターリンの独裁
(7)飢えた国々、一粒一粒が重要である所、ウクライナ飢饉


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(7)

2012年11月24日 18時15分07秒 | ロシア

 ずっとブログが中断している。本来業務の仕事が忙しくゆとりがなかったのだ。

 さて、10月30日にはkanzan氏から次のようなコメントをいただいていた。

 『シャラシュキンやチャヤーノフといった人たちが「トンデモ」でなく「本物」らしいというのは理解できます。もともとロシアには、バクーニンやクロポトキンなどアナーキズムの系譜もあるわけで、共産主義に圧倒されて日陰に追いやられていたものが、ソ連崩壊で復活してくるというのは十分ありそうな気がします。中沢新一などもそんなことを言ってるようです。機会があれば調べてみようと思っているのですが』

 アナスタシアがロシアで爆発的に受けて売れたことはわかる気がする。「懐かしい未来」という言葉を作られた鎌田陽司氏の言葉を借用すれば、それはまさに「懐かしさというデジャブ感を呼び起こすストーリーだからだ。キリスト教とボルシェビキ革命という千年にも及ぶ迫害と弾圧を受けてても、ずっとロシア人たちが信じ続けてきた懐かしい過去。その過去を思い出させてくれる未来だからだ、と私は思っている。

 シャラシュキン博士は、100年前はおろか、千年前からもロシアの農業生産の大半は、個人菜園からもたらされてきた。各家族が食料を自給するという歴史文化の長い伝統をたどらなければ、現在のロシアのダーチャやエコビレッジ運動の本質は理解できない。はるか古代の狩猟採集、中世の農業、19世紀から20世紀前半にかけての小規模農民経済、ソ連時代の補完地(subsidiary)やダーチャ、そして、いま広がりつつあるロシアの帰農運動には、社会文化的にみて驚くほどの連続性があると指摘する。千年に及ぶ伝統と比べれば、現代の大規模工業型農業やグローバル経済は、ごく最近の現象にすぎない。
そこで、チャヤーノフやアナスタシアのメッセージにどのような現代的な意味があるのか、今日はロシアの農業史をたどってみることとしよう。

伝統的自給コミュニティを破壊し余剰食料を生産させる

 ヨーロッパ・ロシアの定住史は驚くほど古い。例えば、中部ウラジミール市近郊のSungir遺跡は2万2000~2万5000年前の上部旧石器時代のもので、狩猟器具や宝石が見つかっており、既にかなりの文化が発展し、工芸や芸術を行えるだけのゆとりをもっていたことがわかる。

 だが、Sungir遺跡からは農業の痕跡は見つかっていない。農業は紀元前3000年には始まっていた。その後、5~10世紀にかけては、小麦、大麦、雑穀、豆、エンドウ、亜麻、麻、ライ麦が栽培され始める。最も初期の農作物は小麦で、次にライ麦が重要となり、エンバクは11世紀以降にはライ麦に次いで重要となったし、13~15世紀には蕎麦も登場する。そして、野菜や塊茎類も初期から栽培されたかもしれない。さらに、5~15世紀にかけては家畜も重要となっていった。

 だが、ロシアにおいては農業が盛んになるには10世紀半ばまで待たなければならない。意外に思えるが、ロシアにおいては、それまでは狩猟採集や漁撈の方が盛んで、驚くべきことに20世紀までは狩猟採集が農畜産業と共存していた。

 少なくとも2万年はロシアの領域では採集狩猟や漁業の村が存在していたはずだが、彼らは考古学上の痕跡を残さないようなライフスタイルを送っており、人々の需要もほぼ環境収容力内にあって、定住の跡さえほとんど残されていない。しかも、家族や部族のニーズを満たすことが、農業や狩猟採集、漁撈の目的であって、部族間、あるいは、種族内のクラン間でさえも交換は限られていた(1)

 ロシアで農業が盛んになったのは、北方から「ルス(Rus)」と呼ばれたノルマン人、リューリックがやってきて以降のことだった。それは都市の誕生とも並列する。リューリックによって、862年に初めての交易都市、ノヴゴロド公国が誕生し、リューリク一族が東スラヴに支配を広げていく中で、いくつかの都市国家が形成されていく。こうした国々があったこの地域は、リューリクの部族名「ルス」にちなみ、ルーシと呼ばれるようになる。この「ルス」という言葉を語源に「ロシア=Russia」という言葉が生まれた。

 882年には、リューリックの息子イーゴリが、一族のオレーグの助けを受けて、ドニエプル中流域の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定める。こうして、キエフからノヴゴロドにわたる統一国家、キエフ・ルーシが産まれた(2)

 では、自らを「大公」を称したルスがやってきたことで農業が盛んになったのはなぜなのだろうか。それは、ルスたちは自ら食料を生産していなかったため、農業を盛んにすることで、農民から食料を調達する必要があったからだった。

 だが、これは容易なことではなかった。スラブ部族は、狩猟採集をメインに自然生態系から食料他の生活物資を得ていたため、余剰生産を行うためのインセンティブがほとんどなかったし、農業生産性も低かった。そこで、ルスがスラブ部族に対して行ったのは、年貢を科すことで商業化を促進し、自分たちが必要とする以上の労働をさせることであった。

 当然のことながら、この年貢徴収という搾取にスラブ部族たちは抵抗し、それに対抗するため、大公側も傭兵を養い、軍事力を高めなければならなかった。これが、さらに年貢を増やしていく。もともと年貢は農作物ではなく、自然生態系から得られる産物でまかなわれていた。例えば、10世紀に大公によって徴収された最初の年貢は、農作物ではなく、野生動物の毛皮や野生の蜂蜜だった。だが、年貢が増えれば、生態系にプレッシャーがかかり、野生生物他の資源が枯渇することにつながる。増え続ける年貢を支払うため、自給のための狩猟採集活動は抜本的に変わっていく。それが、農業への依存を産み出した。それは、自給よりもずっと労働集約的なやり方だった。森林生態系は、豊かな森の恵みを幅広く提供していたのに比較し、農業は食料を得るためには極めて非能率的で多くの労力を要したからである。

 13世紀の食料システムについてロシアにおける農業の起源(The origins of farming in Russia, 1959)で、R. E. F. Smithはこう記述している。

「この時期に、食料の確保やその関連活動は、国民の労働時間の大半を占めていた。13世紀の町の住民たちの多くは、農地を持ち、食用家畜を飼育し続けた。食料の交易は贅沢品、最も重要な塩を除いて、比較的狭いエリア内に限定され続けていた」
13世紀のこの都市農業は、20世紀や現在のダーチャと著しい類似点を持つ。

 そして、この年貢の賦課が、スラブ人たちが自由ではなくなり、段階的に農奴へと転換していく始まりであった。R. E. F. Smithは「私財の概念を私有地として土地にまで拡張したことが、封建制度や農奴制につながった」との結論を下している(1)

伝統的世界観の破壊

 だが、武力だけでは、土地を支配したり、住民を統制するには不十分だった。早くも10世紀には小規模農民たちの反乱が起こり始め、それは20世紀まで継続する。したがって、古い伝統を打ち壊し、集合的な記憶を消し去り、民衆を心理面からも統制するためのイデオロギーが必要であった。この武器がキリスト教であった。では、古い伝統とはなんであったのか。次にロシアの宗教を見てみよう。

 Sungir遺跡からは、太陽から八つの光線が放射されるイメージを刻んだ儀式に用の小板が見つかっている。そして、驚くべきことに、この初期文化の太陽のイメージは、二万年後にスラブ人たちが描いた太陽のデザインと驚くほど類似している。

 スラブ人という言葉そのものが宗教と関連している。スラブという単語は、動詞「slavit」に由来し、文字通り「神をたたえる」を意味する。つまり、スラブはもともと民族名ではなく、宗教の言葉だったのである。

 考古学や民族誌学から見た古代スラブ人たちのライフスタイルや宗教観は、今日の理解されるものとはかなり違っていた。ロシアの古代宗教には、聖職者もいなければ、宗教的儀式もなく、一神教の「神」もいなかった。彼らの世界観は、誕生、成長、成熟、死、そして、再誕生というサイクルの中で、人間も自然もともに循環するという世界観だった。それは、言葉からもわかる。

 「家族」(sem'ia)を意味するロシア語は「種子」(semia)とほぼ同じで、「親族」(kin)を意味する言葉は、現在の家族だけではなく、先祖や未来の家族の子孫もすべてを含まれ、人間と自然の双方が誕生する力を意味していた。したがって、祖先や先祖の叡智を尊重することが、スラブ的世界観では重きをなしていた。さらに、宇宙に生命をもたらす原理、「Rod」がスラブ民族の究極の先祖と見なされ、この原理が自分たちの親であるだけでなく、全生命の親として認識されていた。

 そして、大地の肥沃さは、女性と結び付けられ、「母なる地球(Mother Earth)」として神聖視された。一方、肥沃さが女性原理と関係する一方、男性原理は、太陽、ラー(Ra)、あるいは、エネルギー「火」とされ、それが女性の肥沃さを可能にしていた。伝統的な儀式は、年間の太陽のサイクル(冬至、春分、夏至)と結びつき、音楽、踊り、歌によってこの肥沃さをたたえるものだった。

 例えば、キリスト教の年代記はスラブ人についてこう指摘している。

「スラブ部族はまるで獣のように森に住み、不潔なものを食べていた。恥ずべき言葉を平気で口にし、結婚もしていないのに踊り、極悪非道な歌を歌って村祭りに集まった。ここで、彼らは合意の後、自分たちの妻を得た。彼らは、2人または3人すら妻帯している」
スラブ部族が森に住んでいたことはそのとおりであった。だが、「獣」という表現は、誇張だった。考古学的証拠からすれば、彼らが鍛冶や宝石づくりを含めて高度な文化を手にしていたことは明らかだった。「不潔なもの」という表現もキリスト教たちと食習慣が一致していなかっただけだ。「恥ずべき言葉」はおそらく、男性生殖器のことである。さらに、村祭りは、若者たちが自分の伴侶を見つけるための重要な社会的機能があった。「結婚」は、毎年の肥沃さの儀式や祝賀のサイクルと編み込まれ、ダンス、歌、民衆の演劇、占星学(農業計画の鍵)とセットとなっていた。

 キリスト教にとっては、女性の肥沃さやセクシュアリティを神聖なものとあがめ、「母なる大地」と結びつけることは、キリスト教にとっては、不潔で、罪深く、洗礼する必要がある異教そのものであった(1)

 988年にキエフ・ロシアのウラジーミル大公は洗礼を受け、ビザンティン帝国の皇帝の妹と結婚し、キリスト教を公式宗教として採用する。以降ロシアは、キリスト教文化の導入に際してビザンティン帝国の東方正教文化がロシア文化の基盤となっていく(2)。大公は逆らう人々を迫害すると脅迫し、キエフ全市民にドニエプル川で洗礼をうけるよう命じた。異教の人々は、この迫害を避けるため、キエフから逃げ、森林や湿原に隠れることを強いられた。だが、国家権力をもって導入されたこの新たなイデオロギーを人々が簡単に受け入れず、「剣と火」によって洗礼を強制しなければならなかった。

 だが、それでも、人々はなかなか自分たちのライフスタイルや信仰を捨て去らなかった。異教の世界観や価値観は、とりわけ、農業、家族生活、儀式、信仰、歌、遊戯に残り続けた。事実、2~4世紀後も以前の信仰は活発だった。異教の完全な根絶に失敗したことから、教会は異教のシンボルや信仰を吸収し始めた。スラブの神々は「悪魔」とされたが、例えば、妊婦と肥沃さ一般を保護する精霊ロジャニツァ(rozhanitsy)は聖母マリアに形を変え、雷神ペルーン(Perun)は、キリスト教の聖人エリア(St. Ilia)となるように、人々はキリスト教の聖人になぞらえることで、信仰を続けた。

伝統農業の喪失と飢餓の発生

 また、古代宗教の儀式は、家族の最年長のメンバーが取り行い、聖職者がいなかった一方、volkhvy(魔法使い、あるいは賢人)と呼ばれる階級があった。伝統宗教の根絶運動は、当然のことながら、異教の指導者、volkhvyの殺戮にかかわっていく。キエフ・ルーシの大公、ウラジーミル1世の息子、ヤロスラフ1世(978年頃~1054年)は、1024年にvolkhvを処刑した。また、1071年にはvolkhvsに率いられた300人の人民の反乱が記録され、この際にも、volkhvsは処刑された。volkhvsの指導力は大公の権威にとって脅威であり、この処刑は国家によってなされたが、その罪状は宗教的なものであった。彼らは教会によって「悪魔の召使」されたからだ。キリスト教を通じて、古い儀式等を含めた以前の世界観や価値体系を一掃する。伝統を体系的に破壊するため、国家は教会と協力しあっていた。

 殺害されることを避けて、volkhvsたちは、北へ、東へ、あるいは、森の中へと向かったが、その後も数世紀にわたって、人々は火刑に処され続けた。だが、volkhvsは単なる伝統宗教の指導者、コミュニティのリーダーであるだけではなかった。彼らは、自然の働きに対して特別な洞察力を持つ、知恵の人であり、その特別なステータスは、ハーブ薬品の適用を含めた、自然に対する深遠な理解から生じていた。そして、このVolkhvsの古代農業の智恵が消え失せると、農業の循環や肥沃の儀式の理解も失われる。13世紀には、民衆はいまだに秘密に古い神を崇拝していたが、古い儀式の意味は徐々に忘れられていった。儀式やシンボルの多くは残存したものの、その内面的意味が失われたその結果は、ロシア史上最初に記録された飢饉なのであった。

 だが、Volkhvsがいなくなったことは、教会にとって決定的な勝利とは言えなかった。異教の信仰は根づよく20世紀まで、迫害は続いた。異教徒、魔女等は生きたまま焼き殺され続けた。しかも、教会は、大公と同じ収入源、農民たちからの年貢に依存していた。1761~1767年にかけて、農村人口の13.8%が教会に所有されるまでに至ったが、そこでの搾取は、とりわけ、厳しかった。なぜなら、農民たちは、国から科されるさらに増える年貢に加え、領主のためのアンペイドワークcorvéeに加え、教会からも課された義務を支払うことを求めらたからだ。農民たちの生活水準は最低のものとなり、自由と自立を失い、農奴となっていた。さらに、キリスト教化以降、住民たちは商品として国際的奴隷売買の対象ともなった。

 ロシアの村での記憶の物語(Solovyovo: The story of memory in a Russian village, 2005)で、M.Paxonはこう指摘している。

「ロシア帝国の宮殿はベルサイユ宮殿と同じほど贅沢だった。だが、ロシアは確実にフランスとは違う。土壌と気候の違いのため、ロシア人民からベルサイユを搾取するために必要とされる力は指数関数的に大きかった。税は法外だった。暴行と性的放縦があたりまえだった」

 国と教会による圧政で、村の全住民が一団となってシベリアへと逃亡し、老人を除き、誰もいないからっぽの村。真っ赤に焼けた鉄のピンセットで拷問される農民。若い小規模農民の娘でハレムを形成する領主。農民たちの大量逃亡や反乱、集団自殺がロシアの習慣となったのも無理からぬことであった(1)

ナマケモノ革命

 ここで、大前提に立ち返り、食料が人間の社会構造にもたらす影響について考えてみよう。当然のことながら、食料なくしては人間は命を保てない。したがって、採集狩猟であれ、漁撈であれ、農作物の栽培であれ、家畜飼育であれ、食料確保はずっと人々の中心課題だった。そして、長い歴史を見れば多くの人々はずっと自給してきた。しかも、数多くの伝統社会は、スピリチャルな活力の源を地球に見出していた。必要以上な消費欲を持たず、かつ、他人を養うために食料を増産するインセンティブを持たない自由で自立した家族ほど扱いにくいモノはない。そして、自ら何ら生産しない人が、生産者から農産物を強制的に徴収することが矛盾を誘発することはあたりまえであろう。大公とキリスト教が到来して以降のロシア史は、圧制、限りなき暴動と反乱、小作農民の戦争、残忍な処刑、統治者の「神の権威」とキリスト教のイデオロギーの押しつけで彩られ続けた。

大公が用いた手段は以下の二つだった。
●先住民であるスラブ族の家族の絆や社会的つながりを解体し、自給自足型経済を破壊することで、余剰生産を強い、彼らを労働力へと変える
●地球を聖なるものとしてあがめる信仰を根絶し、先住民であるスラブ族を心の面でも自由でなくし、新たな秩序の下で、奴隷となれるように、新たな宗教キリスト教を課すことで、古い習慣や伝統、信仰、そして、世界観を根絶する

 だが、このロシアの物語は、決してユニークなものではない。以前には独立し、自給していた人々を統制するための手段は、中世英国のエンクロージャーから、アメリカの征服、今日の第三世界における「開発」まで、歴史や世界を通じて類似しているからだ。私有地や所有権の概念の導入、家族の絆を解体することで移動性の労働力へと人々を変える、様々な税と欲望の創出を通じてマネーへの需要創出、そして、これらを正当化するためのイデオロギーの導入。これらは、持続可能で自給志向の伝統社会を破壊するための共通のレシピだった。

 一方、奇妙なことがある。当時の小規模農民たちは、農業機械も化学肥料も用いることなく、有機農業だった。だが、この時期の農村は「遅れ」ていたはずであるにもかかわらず、貿易もできるほどの莫大な余剰を産み出し、かつ、集産化されたソビエト近代農業が1950年代までは匹敵できなかったほどの産出水準に到達していたのだ。

 さらに、ロシアの多くの民話は、生活必需品のすべてが、さほど努力をしなくても供給されることを示唆している。そして、興味深いことに、現在のパーマカルチャーの実践者も、農業での集約労働を農業生態系の機能の理解度の低さとみなしている。ロシアには、今も都市的暮らしが農村にとって有害だ、という考え方がある。これは、ロシアにおける都市の起源や目的が搾取のためであったという集合記憶に根ざしているのである(1)

 こうしたことをふまえると、生きていくために必要以上の欲望を持たず、自給自足を志し、マネーへの依存を極力減らし、企業的農業も目指さず、地球を聖なるものとして崇拝するというアナスタシアが目指す態度こそが、近代社会にとって最も危険極まりない反国家的な革命行動であることがわかる。なぜならば、それは国家の存在そのものを否定しかねないからだ。だが、ロシアは、その後、アナスタシアとは違うレーニンによる「社会主義革命」を経験してしまうのである。

【引用文献】
(1) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(2) ウィキペディア


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(6)

2012年11月05日 01時20分55秒 | ロシア

大丈夫なニッポン

 2012年9月25日のブログで、韓国では、多くの女性が米軍の性的暴力に悩み、多くの女性が米軍に殺されていても、米国軍人の裁判はまったくなされず、なんら責任も取らずに、ただ帰国しているという状況に対して「わははは。なんというみじめさであろう。自国民が米軍に殺されても文句ひとついえないのだ。これでは、とうてい独立国とはいえず、米国の属国そのものではないか。米国と完全に対等な我が日本国中央政府との違いがあまりにも際立っている」とブログで書いた。

 これに対して、2012年10月29日に在沖縄の加力謙一氏から「沖縄に住んでいますが、このような意見には賛成しかねます(略)。大学へのヘリ墜落も、オスプレイの配備も、米兵によるレイプ事件も、まだ属国ではないかという感覚が沖縄にはありますね」というご批判をいただいた。

 在沖縄の方すらも、このブログを訪れてくださっているのか、という事実にまず感動する。本当にありがとうございます。とはいえ、このブログを訪れている方はおわかりかと思うが、沖縄でどのような状況が生じていたとしても、「米国と完全に対等な我が日本国中央政府には何ひとつとして問題がない」としか申し上げようがない。

 なぜなら、日本国中央政府の意向に反することをブログで書けば逮捕される危険性が高まっているからだ。例えば、鈴木傾城氏のブログ、Darknessの2012年11月3日の記事「あなたが今持っている5つのものは、すべて奪われてしまう」には「インターネットで自由に発言できるのは、もうしばらくの間だけだという声もある(略)。ありとあらゆる言論規制が動き出して、非親告罪化によって反体制の人間が続々と逮捕されていく可能性がある(略)。インターネットで好きなことを書いて為政者の逆鱗に触れると、翌日にはいきなり逮捕されるような事件が続出する可能性が高いのである」と書かれている。

 ダンディ・ハリマオ氏のカレイド・スコープの2012年11月4日の「福島第一原発と日本の運命と全国の子供の救出」をお読みになれば、かなり憂鬱な気分になってくるが、なればこそ、以下のような屈折した表現しか私はできないのである。




 ヘレン・カルディコット医学博士の「放射能汚染下における日本への14の提言、原子力の犠牲になっている私達の子供達」は、のっけからキューバから始まっている。

「1979年にキューバを訪問した際、私は、道路脇にある『私たちの子どもたちは国の宝です』と宣言をしている看板の数の多さに驚きました。小児科医の私にとって、それは共鳴に値することであり、そしてもちろん、真実でもあります」と書いている。

 キューバは去る2012年10月25日のハリケーン・サンディの打撃を受け11人もの死者を出してしまった。キューバからの私信によれば「何万人もが家を失ったが避難をして場所によっては学校の授業も始まっているという。だが、これまではどんなハリケーンでもこれほど多くの死者が出なかっため、今回の被害の大きさに市民は、ショックを受けているという」

 わははは。なんというみじめさであろう。なまじっか「私たちの子どもたちは国の宝です」等という哲学をいだいているために、たかが11人程度が死んだだけでショックを受けているというのだ。

 我が国は違う。何よりも重要なのは経済力である。人命よりもはるかに大切にしなければならないのはマネーである。なればこそ、大丈夫である。

 キューバでは、ハリケーンのような非常事態が起きた時には、一時的に統治権を軍隊に移行するシステム、戒厳令を持つ。米国でもハリケーン・カトリーナの時も、今回のサンディの際にも「非常事態宣言」がなされた。Canada de Nihongoの2012年10月30日の記事「ハリケーン・サンディその後と原発への影響」では「サンディによって、ニュージャージー州とニューヨーク州の原子力発電所計4か所で原子炉停止などの影響が出たという。冷却水用の運河の水位が上昇したため手動で原子炉を停止したり、外部電源系統が不安定になったのが原因だという」と述べているし、前日の10月29日の「大西洋海岸に建つ26基の原発をハリケーン・サンディが襲ったら」では「私が最も恐れているのは、ハリケーン・サンディが通り過ぎる大西洋沿岸一帯に建つ26基に及ぶ原発の行方だ。アーニー・ガンダーセン氏によれば、電源喪失したら、福島で起こったように、電気でポンプでの水が供給できなくなり、核燃料プールが燃え上がる可能性がでてくるそうだ。それ以前に、強風で原発の建物自体が吹き飛ばされるということなどもありえるかもしれない。そんなことになったら、福島以上にとんでもない事態になるに違いない。自然界では何が起こるかわからない。だから、原発はいますぐ全て廃止するのが全人類のためだと思う」と書いておられる。

 わははは。なんというみじめさであろう。原子力大国米国にしてからに、たかがハリケーン程度でびくびくしているというのだ。

 だが、日本は大丈夫である。キューバや米国のように有事の場合に国民を安全圏に避難させる「戒厳令」すらも設ける必要はないであろう。なぜならば、大飯原発にしても日本国中央政府の総理が「東京電力福島第1原発事故の時のような地震や津波が起きても事故は防止できる」と自信をもって再稼働したからである。活断層如きの存在がなにほどのことがあろう。だから、大丈夫なのである。

 信じられないか。ならば、ゲッペルスの例のフレーズをやってみよう。

 大丈夫である。大丈夫である。大丈夫である。大丈夫である。。。。。。。

 ほら、大丈夫ではないか。なればこそ、私ども国民は随喜の涙を流しながら、100%の安心感を持って日本国中央政府と総理の政策を信じ、どこまでのついていくことができる。新聞記事等をご覧になれば、日本国中央政権の支持率が圧倒的なまでの高支持率であることがわかる。




二つの1984年

 さて、話を続いているロシアの話題へと移す。神州の泉の2012年11月 1日 の記事「野田暴政政権が、反対閣僚を抹殺してでも成立させたい監視国家法『人権委員会設置法案』」には、パロディスト、マッド・アマノ氏が、G・オーウェル作「1984」と映画「ゼイリブ」からヒントを得て作成した画像も乗っている。

 オーウェル(George Orwell:1903~1950年)が描いたディストピア、1984年では、超大国オセアニアは、ビッグ・ブラザーによって統制されている。政府には、歴史記録や新聞を、党の最新の発表に基づき改竄し、常に党の言うことが正しい状態を作り出す「真理省」と反体制分子に対して拷問を行い、最終的に党を愛させるようにし、その後処刑する「愛情省」を持ち、真理・愛情の両省を通じて「思想・良心の自由」に対する統制を実施している。

 さて、オーウェルが書名として「1984年」という年号を描いた理由としては、執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムであるという説が一般的だ。だが、他にも、舞台を1984年に設定した作家ジャック・ロンドン(Jack London)のディストピア小説『鉄の踵』(The Iron Heel, 1908年)を意識したという説もある(1)

 米国のハワード・センター(Howard Center)の代表、で「第三の道:20世紀のオルタナティブ経済のための模索(Third Ways: The Troubled Search For An Alternative Economy In The 20th Century)」の著者アラン・カールソン(Allan Carlson)博士は、後者の説を取り、次のように述べる。

「オーウェルと反ユートピア的小説のタイトルのために、チャヤーノフと同じ年を選んだことは、おそらく偶然ではない。ジャック・ロンドンの『鉄の踵』から、チャヤーノフとオーウェルのいずれもが、この未来の年を借りていることはかなり確かだ。さらに、チャヤーノフが1922年にイギリスを訪問し、彼自身のユートピアについて語ったことが、口伝えで残り、それがオーウェルにその日付を思い出させたのかもしれない」と憶測している。

 ロシアの経済学者アレキサンダー・V・チャヤーノフがイワン・クレムネフ(Ivan Kremnev)のペンネームで書いたユートピア小説とは、1920年に出版された『兄アレクセイ・クレムネフの小規模農民ユートピアの地への旅(Puteshestvie moego brata Alekseia v stranu krest'ianskoi utopii)』である。

 主人公のアレクセイ・クレムネフは、小規模農民根絶の責任を負うボルシェビキの工作員だ。そして、物語は1921年の秋から始まる(2)

 その後の1930年代に始まるソ連の集産化に先立ち、チャヤーノフはその後の政策の意図を見抜き、当時の三つのスローガンを引用することから始める(3)

「家族の炉床を破壊することによって、我々は、ブルジョア体制の墓の上に、最後の鋤を投げ付けている」
「家庭で食事をとることを禁止する我々の法令によって、我々の暮らしからブルジョア家族の誘惑的な毒の喜びを排除し、恒久的な社会主義の原則を堅持している」
「家族生活の暖かさと居心地の良さは所有欲へと結びつく。ささやかな所有者の喜びは、ひそかに資本主義の種を蒔く」(2,3)

 アレクセイは、たった今、この家族の炉床を破壊する法令に投票し「一週間で完全に破壊される運命が定まった半分破壊された家族の炉床」へと戻り、ウィリアム・モリス(William Morris)、トマス・モア卿、エドワード・ベラミー(Edward Bellamy)等のユートピアの小説がある本棚を検査しつつ、社会主義体制への違和感を抱く。では、別の未来は何か。そう熟考始めると、硫黄の臭いが部屋を満たし、腕時計が消え失せ、壁がねじ曲がり震動し、ソファーに倒れかかって意識を失う。

 そして、アレクセイはモスクワで目覚めるのだが、世界は変わっていた。窓から、クレムリンがそこにあることはわかるが、それ以外はことごとくなじみがない。広大な建物群はありとあらゆる菜園に交換されて消え失せ、町には木々やきれいな川が流れている。部屋を検査したアレクセイが新聞の日付を見ると「1984年9月」と書かれている。60年も先の未来へと移動していたのだ。「過去の都市文化の時代」「国家集産主義の悲しき記憶」も、これが別の世界であることを示唆する。

 アレクセイは16世紀に建てられたシンプルな家、Minin一家に手当てを受けていた。そして、白髪の家の長老が別の世界のことをアレクセイに明らかにしていく。

 別の世界では1920年代に「小規模農農民を共産化することが困難であることが証明され、小規模農民たちは、着実にソビエトの委員会内での力を高め、1934年に権力を掌握する。そして、巨大都市の危険性を1917年の革命から学び、小規模農民たちは、2万人以上の町を廃止する法令を押し通す。都市側の反乱が1937年に起きたが、それは鎮圧され、都市の超高層ビル街は何百人もの人々によって破壊され、モスクワの通りは空っぽになってしまう。

 今やモスクワ周囲の何百マイルもの全エリアは、農業集落や共有林、協同牧場、巨大な公園となっている。そして、夫婦やその子どもたちは、30~40aの家庭菜園を保持し、人々の住宅は道に沿って立てられている。そして、町には、地元の学校、図書館、演芸場他のコミュニティ施設がある。

 長老は、社会主義の失敗を説明していく。

「社会主義は、ドイツの資本家の工場の牢獄の中で、強制労働に取りつかれた都市プロレタリアートの心の中で育まれたのです。賃金の奴隷と化した労働者は、奴隷状態にある未来システムの信仰を作り出しました。それは、すべての人がただ言われたことを実行するだけで、創造的な活動の権利を所有するのは、ごく少数の個人しかいない経済だったのです」

 これは当時のロシアの共産主義であった。

「そこで、私たちははるか太古の時代から小規模な農民経済に基づく数世紀も前の昔の原則を復活させたのです。私たちの経済システムは、古代のRusのように、小規模な個人農場に基づいています」

 人々は、人間は自然と対峙し、あらゆる宇宙の力と創造的にふれあい、あらゆる労働者が創造者となり、一人ひとりの個性は仕事の芸術となっている。各家族は、シンプルな道具だけを用いて自給し、エーカー当たり3トン以上の収量をあげているのだ。

 長老は、農村に住み働くことが、最も多様で最も健康的な生き方であり、「これが人間の自然な状態だ」と述べる。

 政治も変わった。

「私たちは、あらゆる社会や経済機能を丸裸にしました。そして、小規模農民の委員会に責任やタスクをゆだねるあらゆる努力をしたのです。その結果、協同組合、リーグ、新聞、アカデミー、クラブ等で必要とされる仕事の10分の9は政府以外でなされるようになったのです」

 とはいえ、小規模農民のユートピアには、資本主義システムでも必要な要素は保持していた。純粋な資本主義では産業は病理学的な奇怪な要件を前提とし、人々は餓えの恐れと人間の貪欲さによって突き動かされていた。一方、共産党は、賃金を定めたが、それによって、あらゆるインセンティブが仕事から失われた。そこで、小規模農民たちは、マネージャーのためのボーナス、望まれる農産物用のためのプレミアム価格といった個人の経済活動を刺激するメカニズムを回復し、「社会資本資金」や信用組合を形成するため協同組合を奨励した。資本家の工場には重税が課せられる一方、協同企業の市場では競争をしなくても、起業家精神が発揮できるようになっていた。

 アレクセイは、こうした小規模農民のユートピアの創立者が、農村に分散移住した人々によって高い文化の創造が可能かどうかを悩んだと説明を受ける。農民たちは、農村に劇場、博物館、人民大学、音楽同好会、スポーツ活動を行うようにした。さらに、中世のギルドを参考に義務的な旅も設け、若者や女性が世界を旅し、自分たちの視野と見分を広めることを可能とした。さらに、軍事と労働サービスのための2年の徴兵制度も設けられ、それがモラルをもたらした。小規模な農民たちの芸術は高まっている。

 だが、この1984年に舞台設定された分権型で、かつ、風変わりに進歩的な民主主義ロシアの小規模農民国家は、幻想だった。最後にアレクセイの正体が明かされる。人智学を信奉し、刑務所にいたのだ。釈放され、彼は孤独に無一文で一人立ち去っていく(2)

ユートピア小説の波紋

 アラン・カールソンは、チャヤーノフをこう評価する。

「この空想的な物語を活気づけているのは、小規模農民や家族農場のダイナミックなミクロ経済学だった。アダム・スミスやデービッド・リカルドの新古典派経済学もカール・マルクスの社会主義のいずれもを拒否し、チャヤーノフは、科学的に『モラル経済』を追求した」

 経済史学者マーク・ハリソン(Mark Harrison)は「チャヤーノフは農業社会学のニュートンだった」と評価する(2)

 そして、レオニド・シュラシュキン博士もこう絶賛する。

「チャヤーノフは驚くほどソ連農業の発展を詳細に予知していた。1917年のボルシェビキ革命後の最初の年に既に従来の小規模農民たちの農地の強制的な国有化や農業を工業化するイデオロギーの悲劇を目にしていた。チャヤーノフは、資本主義も共産主義体制もロシアの小規模農民たちの伝統とは無縁なものと見なし、共産主義支配の破壊の時期がすぎた後には、再び小規模農民に基づく社会に回帰と考えていた。小規模農民の伝統に関する深遠な理解に基づき、大規模なダーチャ運動や補完地の形での自給農業の再現、そして、さらに共産主義崩壊以降のロシアの大地へ帰れ運動の誕生を予言できた」

 チャヤーノフが「ユートピア」小説の形を取ったのは、ソ連において出版を可能とするためであった。共産主義体制の崩壊や集団農場の終焉を予言する作品を革命のたった3年後に出版するには、フィクションの形でしか不可能だった。ペンネーム、イワン・クレムネフのうち、イワンは最も一般的な農民の名であり、クレムネフは火打石を意味するロシア語で、この小説の起爆性を暗示していた(3)。となれば、イワン・クレムネフの日本流の表現は、いかにヒューマニズムに溢れ、光輝いていようとも、「星飛馬」ではなく、「花形豊作」ともいうべきものになってしまうではないか。

 チャヤーノフは、小規模農民に余剰生産を強いることが困難であることを、ソ連政府が理解すると信じていた(4)。だが、チャヤーノフは甘かった。いくらSF小説であったとしても、内容はボルシェビキ政権にとって脅威であり、ヨゼフ・スターリンの怒りを招いた(2)。スターリンは集産化を進めるため、私有農地、家畜と穀物の全てを政府の所有者だと宣言していた。ウクライナの裕福な農民は「kulaks」として知られ、人民の敵とみなされていた。スターリンはkulaksの全ての所有物の押収し、kulaksを助けることは違法となっていた(6)。したがって、チャヤーノフの見解は、スターリンから「kulaksを守るもの」として非難されたのだ(4)

 チャヤーノフは1930年に内務人民委員部(NKVD)によって「小規模農民党(Toiling Peasant Party)」の党首として告訴され、逮捕された(5)。この党名は、チャヤーノフが書いたユートピア小説から取ったもので、見せしめ裁判であった(4)。そして、1931年には秘密裁判で懲役5年が宣告され、カザフスタンの労働キャンプへと追放された。釈放されたときには、チャヤーノフは健康を害していたが、さらに、1937年3月に再逮捕され、1937年10月3日に死刑が宣告され、同日、アルマアタにおいて射殺された(5)。そして、チャヤーノフの妻も同様に抑制され、強制労働収容所で18年を送った(4)。しかも、この悲劇的な運命の詳細が知られるようになったのは、ソ連で自由化が進んだ1987年以降のことなのである(5)

 今日の教訓。たとえ、小説の形であっても、中央政府を批判することは危険です。歴史は私に無罪を宣告してくれるとは限りません。批判する場合には死刑と名誉剥奪を覚悟のうえやりましょう。

【引用文献】
(1)ウィキペディア 1984年
(2) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(3) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(4) ウィキペディア、Alexander Chayanov
(5) Gale Encyclopedia of Russian History: Alexander Vasilievich Chayanov
(6) 飢えた国々、一粒一粒が重要である所

写真の出典はこのサイト。チャヤーノフがマハトマ・ガンディーだけでなく、ヴァンダナ・シヴァ、スローフードのカルロ・ペトリーニ、パーマカルチャーのビル・モリソン、そして、福岡正信と並んでいることがわかる。