没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

貧乏人御用達専門銀行

2006年08月05日 22時16分34秒 | 経済学

 1974年、南バングラディシュは、数千人が餓死した深刻な飢餓に直面していた。この飢餓にショックを受けたのは、当時、南バングラデシュのチッタゴン大学で経済学を教えていたムハンマド・ヤヌス(Muhammad Yunus・1940~)教授だった。
 「私たちは、飢餓を無視しようとしました。ですが、骸骨のような人々が首都ダッカでも現れ始め、細流はすぐに洪水となり、どこも飢えた人々で満ち溢れました」。

 飢餓の悪化ともに教授は経済学を講義する自信を失っていく。



 「私は、社会問題を直ちに解決できる上品な経済学理論を学生たちに教えていました。ですが、私が教えていたどんな経済学理論ですら、周囲人々の暮らしに反映されませんでした。経済学の名にかけて、どう私の話を学生たちに信じさせられるといえるでしょう。私は、こうした理論や自分の教科書を捨て、貧しい人々が存在するという現実の経済学を発見する必要がありました」(1)

 ヤヌス教授は、1940年に当時の東パキスタン、東ベンガルのビジネス中心街であったチッタゴン(Chittagong)に生まれた。家は裕福であり、十分な教育を受けることができ、1960年にダッカ大学経済学部を卒業すると、翌1961年には同学で経済修士を得て、フルブライト留学生になる。奨学金をえて、バンダービルト(Vanderbilt)大学で1970年には学位を得る。1972年には、チッタゴン大学の経済学部長になっていた(2)。要するに、バリバリの留学エリート経済学者だったのである。だが、米国に7年間滞在した後、西パキスタン軍が首都ダッカを占領すると、教授はバングラディシュ自由化運動を支持し帰国する。そして、祖国で目にしたのは絶望的な飢餓と貧困だった(3)

 1974年、教授は、学生たちを引き連れ、経済の現実を学んだ貧しいジョブラ(Jobra)村を訪ねていた。一人の竹籠づくりをしている女性に尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「私は細工をする生竹を買うのに15ルピーを借りなければなりません。週当たり10%の利率で借金を返すとほとんど利益が残らないんです」

 もっと低利で資金を借りることができるなら、彼女の暮らしは最低の水準よりも向上するだろう。自分が教えていた経済学には何かひどくまずいことがあるに相違ない。ヤヌス教授は、自分のポケットから金を取り出し17~42人分の資金を貸した(2)。後に教授は当時のことを想起している。

「私は人々の自助努力を理解するようには教育を受けてきませんでした。経済学のどの学生もそうであるように、あらゆる人々は成人になれば労働市場で就業の準備をするべきであり、失業すれば政府に求人登録をするべきだと信じてきたのです。ですが、バングラデシュの現実の貧困を前に、こうした信念はゆらぎました。彼らのほとんどにとり、求人市場は意味がないものでした。そして、生きのびるために、彼らは自ら経済活動を始めました。ですが、経済機関や政府は彼らの苦闘に注意を払いませんでした。それは、欠点なき公式の体制から拒絶されたのです。

 また、私は、貧しい人々がごくわずかの運転資金も手にできないことでいかに苦しめられているのかを目にしてショックを受けました。彼らが必要としていたのは一人あたりでは1ドル未満でした。それでも、何人かはひどい条件でしか資金を入手できず、貸し手の言い値で商品を販売しなければならなかったのです」(4)

 教授は貧しい人々を支援するためのプランをいくつか考えていたが、そのひとつが、起業のための小口融資をすることだった。このわずかの資金でも、彼女たちが生きのびる助けになるだけでなく、自ら貧困から抜け出すのに必要な動機や起業精神を引き起こすことがわかった。グラミーン銀行が誕生し、経済革命が始まった瞬間だった。

 教授は、銀行や政府の止めろという忠告にもかかわらず、小口資金を融資し続け、1983年には、信用と連帯感の原則に基づく「村の銀行」という意味を持つ「グラミーン銀行」を設立する(1)

 2006年5月現在、グラミーン銀行には2185 の支店があり、バングラディッシュにある69,140の村すべてをカバーし、639万人が利用している。うち96%が女性である。グラミーン銀行は、従来の銀行の発想をまったくくつがえした。まず、借り手として女性、かつ、最も貧しい人をターゲットとした。事実、銀行からローンを借りるには、村人が借り手の家族が2反未満の土地しかないことを示さなければならない(1)。だが、結果として、融資の98%以上は返済され、それ以外のどんな金融システムよりも償還率が高い。 グラミーン銀行の方法は、米国、カナダ、フランス、オランダ、ノルウェーを含め58ケ国のプロジェクトでも適用され(2)、ビルマやコソボでも成功を収めた(3)。教授は、グラミーン銀行の頭取を務め、1997年には、ワシントンで世界初の小口融資サミットを開催した(1)。そして、国連を通して、バングラデシュ以外の場所にもグラミーン銀行のノウハウを広め、貧困の根絶に向けて努力している(3)。現在、約100カ国の250以上の団体が、グラミーン銀行モデルに基づく小口資金プログラムを実施しており、それ以外の何千もの小口融資プログラムもグラミーン銀行を参考にしたり、元気づけられている。革新的なある政府の専門家はこう語っている。

 「ヤヌスによりグラミーン銀行で設立されたプログラムは、第三世界においてここ100年間で最も重要な開発です。そのことに誰も異議を挟むとは思いません」(1)

 ヤヌス教授の夢は世界から貧困をなくすことにある。教授はこんなことを語っている。

 もし、たった1日でさえ、他の人のお役に立てるならば、それはすばらしいことです。それは私が大学で得られたあらゆる偉大な思想よりもすばらしいことです。グラミーン銀行は、希望へのメッセージです。いつの日にか、私たちの子どもたちが博物館を訪れて『昔はこんなに惨いことが許されていたんだね」と尋ねるようホームレスや貧困を博物館の中にあるものだけにしてしまいたいのです。

 私たちの仕事は、金持ちや貧乏人、そして、彼らの義務と権利を基本的に再考するものです。最近、世界銀行は、貧困緩和へのこのアプローチが何百万人もの個人が威厳をもちつつ貧困から抜け出していることを認めました。

 グラミーン銀行で働いた経験から、私は人間の創造性への確固たる信頼感を得るようになりました。人間は飢餓や貧困の災いを受けるために生まれてくるのではない。そう考えさせられるのです。もしそうしたいと願うならば、貧困なき世界を創造できると深く堅く信じるようになりました。単なる夢物語としてではなく、グラミーン銀行でなされた仕事の具体的な経験の結果としてこの結論に達したのです。

 もちろん、貧困を終わらせるのは、小口融資資金だけではありません。資金は人々が貧困から抜け出せるひとつの扉であり、もっと多くの扉や窓を作り出せます。

 グラミーン銀行は、二つのことを教えてくれました。最初は、人々や人々の相互関係についての私たちの知識がまだとても不十分だということです。二つ目は、一人ひとりがとても重要だということです。一人ひとりには、ものすごい可能性があります。彼女や彼、たった一人だけでも、コミュニティ内のそれ以外の人々の人生や国、そして、彼女や彼の時間を超えたところまで影響を及ぼすことができるのです。もし、私たちのこの可能性の限界を発見できる環境を創り出さなければ、私たちは自分たちの内にあるものを決して知ることができません。

 とはいえ、どこに行くかを決めるのは、私たち次第です。私たちはこの惑星のナビゲータでありパイロットです。もし、真剣に私たちが役目を果たすなら、探す目的地にたどり着けます。もし、あなたが、グラミーン銀行の物語が確かで魅力的なものだと理解したならば、貧困なき世界を創設する可能性を信じ、そのために働くと決めた人々にあなたも加わるようお誘いしたいと思います。あなたが革命家であろうと、自由主義者でろうと、保守主義者であろうと、若者であろうと、年配者であろうと、私たちは皆この課題にともに取り組むことができるのです」(2)

著作に「貧乏人のための銀行マン:小口融資と世界貧困への闘い(Banker to the Poor: Micro-Lending and the Battle Against World Poverty: 1998)」がある。

(引用文献)
(1) Muhammad Yunus, Project: Grameen Bank.
(2) The autobiography of Muhammad Yunus, founder of the Grameen Bank.
(3) Muhammad Yunus
(4) 小口融資資金サミットでの講演2005年


スモール・イズ・ビューティフル

2006年07月17日 13時20分27秒 | 経済学
 スモール・イズ・ビューティフル」と言えば、なんといってもシューマッハが有名だ。だが、「スモール・イズ・ビューティフル」というスローガンを作ったのは、シューマッハではない。そのオリジナルは、レオポルド・コール(Leopold Kohr・1909~1994)が作った。レオポルドの弟子であったシューマッハが1973年に名著「スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学」小島慶三他訳(講談社学術文庫)で、そのキャッチ・フレーズを広めたのである(1)。レオポルドは、きちんとした評価がまだなされていないが、その祖国、オーストリアでは、正しく認識され、かつ、愛されている数少ない政治思想の予言者のひとりである。シューマッハは、レオポルドのことを「私が他の誰よりも学んだ教師」と呼んだが、レオポルドに影響されたインテリはそれにとどまらない。近代社会の見直しに大きな影響を与えたイバン・イリイチ(Ivan Illich)、マンフレッド・マックス-ニィーフ(Manfred Max-Neef)、ハーバート・リード(Herbert Read)、Danilloドルチ(Danillo Dolci)、ジョン・パプワース(John Papworth)、エドワード・ゴールドスミス(Edward Goldsmith)らはみなレオポルドに学んだ。だが、レオポルドがこうした思想家や活動家のグループから着目され始めたのは、1970年代後半からのことにすぎない(2)



 レオポルド自身は1950年代はじめに、早くもその思想を確立していた。処女作「壊れた国家」(The Breakdown of Nations) の冒頭で、レオポルドは、こう主張する。

「あらゆる社会的な災いの背後にはただひとつの言葉が見える。巨大さだ。ことを単純化しすぎていると思えるかも知れない。だが、巨大さや過剰規模が社会問題よりも格段に多いことを思えば、その考えが受け入れられるだろう。それが、すべてに通じる唯一無二の問題であるように思える。何か問題があるとすれば、それはモノが大き過ぎることなのだ」

 レオポルドは、文化、経済、そして、管理上と多岐にわたって小さな組織や小さな都市、そして小さい国家が、巨大なそれよりもいかに効率的で、愛に満ち、創造的で安定しているかを論じ、自律した小さな州が平等に連携したスイスをモデルにあげ、大規模な国家システムを小規模な連邦州に解体することを提唱した。スイスは、イタリヤ語、フランス語、ドイツ語、そしてRaetoroman語と、多様な言語を話す人々からなるが、国民は調和し共存している。レオポルドによれば、それが可能なのは、スイスが、地方分権的で各地域の自立度が高いからだった。

「さもなければ、こうしたエスニック集団は、大規模な国家がかかっているナショナリズムという病にかかってしまっただろう」

 レオポルドは、歴史的にも国家の統一が、互いに戦う超帝国をもたすだけだったことを知っていた(2)。著作は、1957年にロンドンで出版されたが、いかに早くレオポルドが未来を見通していたかの証拠でもある。「経済成長であらゆる課題を解決できる」と誰もが考えていた1950年代、60年代に、レオポルドは、それに反対。人々に身の丈の大きさに戻ることを勧めたのだった。

 レオポルドは1909年10月5日にオーストリア、ザルツブルグ州で生まれた。ザルツブルグの小学校とギムナジウムに通い(1)、1938年にインスブルック(Innsbruck)大学で法学を修め、1935年にはウィーン大学で政治学を学びおえた(2)。ナチスが1938年3月にオーストリアに侵攻すると、政治上の理由から、故郷を去り、パリを経て同年に米国に亡命した。初めは郷里からの援助があったものの、たちまち資金的に困窮する。カナダの金鉱で重労働をしたこともあり、突発性の難聴に悩まされたりもした。だが、まもなく、米国内のインテリやオーストリア出身者とのつながりができ、社会的に活躍をはじめる。そして、祖国「オーストリア解放運動」(Osterreich-Frei-Bewegung)を通じて、左翼やアナキストと連携し、ナチスドイツやファシズムと戦った。

 レオポルドは「ニューヨーク・タイムズ」、「ワシントンポスト」、「ロサンゼルスタイムズ」紙上で社説を書き、ナチスとの徹底的に戦った。例えば、ヒトラーの生い立ちやその社会的、経済的背景を詳細にあばいた。レオポルドの故郷、オベレンドルフ(Oberndorf)はヒトラーの出身地ブラウナウ(Braunau)から30キロしか離れていなかった。同時に、オーストリア文化の価値を意識させ、祖国独立への意志を鼓舞した。クリスマスには、「サイレント・ナイト、ホーリ・ナイト」(Stille Nacht, heilige Nacht)という有名なクリスマス・キャロルにまつわるエピソードを披露した。この歌詞は19世紀前半にフランツ・グルベール(Franz Gruber)とジョゼフ・モーア(Josef Mohr)によって、レオポルドの故郷オベレンドルフで書かれたのだ。この記事で、多くの米国やカナダ人は「クリスマスソング」の由来を知った。

 こうしたファシズムとの闘いは、後にレオポルドが展開する理論とは無関係ではない。例えば、レオポルドは、新聞通信員として、スペインに在住。フランコのファシスト政権に反対する記事を書いた。そこでは、人民戦線にボランティアで参加していたアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)と事務所を同じくしたし、後に「1984年」で世界的に有名となるジョージ・オーウェル(George Orwell)ことエリック・アーサー・ブレアー(Eric Arthur Blair)とも知り合った。

 ファシズムに対抗するアナーキズムが、レオポルドの理論のベースとなった。スペインの無政府主義派は、フランコやヒトラーと戦うだけでなく、中央集権的な共産主義とも戦い、村、町、地域の自律を求めたのだった。だから、レオポルドは、スターリン主義や共産主義にも強く反対した。

 レオポルドは、社会貧困にはひとつの理由しかないと確信していた。政府であれ、経済であれ、企業であれ、組織であれ、大きくなりすぎたということだ。レオポルドは、その巨大さのために滅びた恐竜を例にあげ、その理論を展開した。「可能な限り大きくということは腐敗への第一歩だ」。同時にレオポルドはソ連の状態を別の事例としてあげた。

「国家は、1200万人~1500万人以上の住民を持つべきではない。さもなければ、それは機能を失うだろう。政府と人民との適切なふれあいが担保されなくなってしまう」(1)

 レオポルドは、トロント大学(1939~1950年)、ラトガース(Rutgers)大学(1952~55年)、プエルト・リコ大学(1955~1973年)、ウェールズ大学(1973~1978年)で教鞭をとり、その間6冊の著作を書きあげ、「スモール理論」と呼ぶ自説を深め、さらに詳しく説明した。

 「援助なき開発、第三世界諸国について」(Development without Aid, arguing that Third World countries)では、経済を統合するよりも、小規模な自給自足によって、開発途上国は自力でその人民に十分なモノが提供できると主張し、「過剰の開発」(Overdeveloped Nations:The Diseconomies of Scale)では、「国家が巨大であればあるほど、その国民は悪くなる」と述べ、近代国家がその規模によってどれほど社会経済的に機能不全に陥っているのかを示した。「都会の人間」(The City of Man)では、小規模な中世都市が社会的にも文化的にも効率的であり、近代都市が小さな都市という原理を導入すれば、いかに変われるかを示した。都市計画や建築について論じたインナー・シティ(The Inner City)では、「都市の巨大主義」は大きいなものをより小さく、身の丈に戻ることによってのみ、回復できるとした(2)

 レオポルドは、言葉でその理論を語っただけでなく、戦後も自らの理論を実践するため、政治運動を繰り広げた。そのひとつに「アンギラ・プロジェクト」がある。アンギラ(Anguilla)は、英国統治下の隣島ネヴィス(Nevis)やセント・キッツ(St. Kitts)ともに、プエルト・リコから約300キロ離れたところにある6500人の小さなカリブ海の島だが、1967年に独立宣言をし、英国による統治を拒否した。当時、レオポルドは、プエルト・リコ大学で教鞭をとっていたことから、アンギラ独立のために戦った。米国やカナダの友人の支援を受け、「独立運動」を組織化し、世界の注目をアンギラに引きつけた。レオポルドの支援もあり、アンギラはアメリカの大規模なホテル建設を拒否。身の丈にあった経済が発展するはずだった。だが、にもかかわらず、2年後「アンギラ・プロジェクト」はロンドンのウィルソン政権により閉鎖され、アンギラは再び英国の統治を受けた。島が最終的に独立したのは1981年のことである(1)

 1983年、レオポルドは、オルターナティブ・ノーベル賞を受賞。1983年には英国シューマッハ協会、1989年には米国シューマッハ協会から講義以来を受けた。処女作「壊れた国家」も1977年にようやく米国でペーパー・バック化され、そのわかりやすい文章もあいまって、他の著作とともに増刷を続けた。だが、それでも、レオポルドは、シューマッハのような世界的な名声を受けることはなかった。レオポルドが評価されたのは、郷里ザルツブルグだった。

 レオポルドは、ザルツブルグ郊外にある2,000人に満たない小さな村、オベレンドルフで生まれたが、「学ぶべき価値のあったすべてを私はその小さな町で学んだのです」と語り、つねに故郷を誇りにしていた。オベレンドルフからザルツブルグまでの距離、22キロが、レオポルドのすべての距離の基準だった。この出身地への誇りが、レオポルドを真の国際人にしていた。1982年、レオポルドはザルツブルグで「身の丈の規模、レオポルド・コール・シンポジウム」を開催する。世界中から学者、活動家、友人が集まった。1986年には国立公園と動物園の近くに「レオポルド・コール・アカデミー」が新しく設立される。そこでは、ローカル・クラフト、村の再生、自給自足のコースやシンポジウムが年間を通じてなされ、オルターナティブ技術センターが実験を行い、レオポルドの思想普及に寄与している(2)

 晩年、レオポルドは、オベレンドルフに帰郷することを切望していた。アパートを借りる決意もしていた。だが、移住する前、1994年2月26日にレオポルドは、イギリスで死んだ。だが、誰よりも郷里を愛したレオポルドの墓は、オベレンドルフにある(1)

(引用文献)
(1) Gerald Lehner, Leopold Kohr
(2) Kirkpatrick Sale, Leopold Kohr, the Newsletter of the E.F. Schumacher Society, Spring 1997


裸足の経済学

2006年06月12日 23時49分15秒 | 経済学
 ちくま親書に山内 昶さんの『経済人類学への招待』(1994)という著作がある。この中にこんな一説がある。
「人間の欲望は無限である。だから、この無限の欲望を満たすために、限りなくモノを生産し続けなければならない、というのが経済学の常識だった。だが、チリのニュー・エコノミストのマックス=ニーフは、この概念は間違っていると主張している。ニーフによれば、人間の基本的なニーズは、さしあたって、生存、保護、愛情、理解、参加、閑暇、創造、アイデンティティ、そして、自由という9つのニーズしかない。しかも、この9つの基本的なニーズは、文明社会であろうが、未開社会であろうが相違がない。例えば、衣食住や所得も、そのものが目的ではなく、生存というニーズを満たすためのものだし、教育も自分や他人、世界を理解するためのニーズということになる。最高級のブランドを身につけた女性も、腰みのだけしか身に付けていないがボディ・ペインティングをしている「裸族」の女性も、同じことをしているにすぎない。美しくなり、愛され、自分のアイデンティティを実感することが、その目的だからだ」

 これは、驚くべき主張である。グローバルな地球環境破壊の根本的原因には、開発や進歩を善とする近代西洋思想がある。経済学者は、人間は欲望に満ちた存在であり、その物質的な欲望には際限がないと主張する。だが、マックス=ニーフの人間の欲望についての認識はまったく違う。その主張をかいつまんで言えば、以下のようになる。

 もとより人間のニーズは、数少ないものだし、限度もあるし、分類もできる。しかも、それだけでなく、マックス=ニーズはありとあらゆる文化を通じて共通しているし、歴史的に見ても変わらない。文化や時代で変わるのは、こうしたニーズを満たす手段だけなのだ。また、人間のニーズは、システムとして理解することが大切だ。それらは相関している。確かに、生計維持(サブシステンス)や生存のためニーズは基本だ。だが、生存ニーズを別にすれば、マズローなどの西洋の心理学者が想定しているようには階層があるわけではない。むしろ、各ニーズは、同時・補完的であり、トレード・オフ的なのだ。

 マックス=ニーフは、さらに重要なことを指摘している。真のニーズとそれを満たすための手段、サティスフィ(satisfiers)とは厳格に区別すべきだという指摘だ。例えば、軍拡競争を見てみよう。これは、自国を守るという意味で保護というニーズを表面的には満たしてはいる。だが、それは、生計維持、参画、愛情、自由といったニーズを破壊している。民主主義は、参画ニーズを満たすとされているが、実際には形式化し、現実と遊離し、人々のやる気をそいでいる。娯楽ニーズを満たすために使われるテレビ番組も、理解、創造性、アイデンティティを妨げている。つまり、ニーズを満たすための手段にすぎなかったサティスフィが、それ以外のニーズを満たす可能性を損ねたり、破壊してしまうことがあるのだ。だからといって、サティスフィがすべて悪いわけではない。シナジー効果である特定のニーズを満たすサティスフィが、それ以外のニーズも満たすこともある。マックス=ニーフが事例としてあげるのが、母乳での育児、自律的な生産活動、公共教育、民主的コミュニティ、予防医療、瞑想、教育的なゲームなどだ。

 マックス=ニーフによれば、住宅も食べ物も、それ自身はニーズではない。食べることは生命維持というニーズを満たすが、愛が込められた料理を食べることは「親愛」というニーズも満たし、料理をすれば「創造」というニーズを満たす。こうした分析を地域住民が自ら行なるようになれば、自分たちが求めるものは、実はそれほど物質的ではなのだということに気づいていくだろう。それを深く理解することが、環境を破壊しない真の意味での発展につながるというのである。

 このようなユニークな経済学を産み出したマックス=ニーフとは、いったいどのような人物なのだろうか。



 マンフレッド・マックス=ニーフ(Manfred Max-Neef)は、チリのバルパライソ(Valparaiso)に1932年に生まれた。1960年代の初めはカリフォルニア大学バークレー校で経済学で教鞭を取り、その後もラテンアメリカ各地や米国の様々な大学で客員教授として研究を行ってきた。だが、マックス=ニーフはその長い研究人生の中で、ラテンアメリカの貧しいコミュニティを実地調査してきた。経済理論と現実の乖離をまのあたりにする中、マックス=ニーフは、1981年に『外から見た裸足の経済学』(From the Outside Looking In: Experiences in Barefoot Economics)を上梓する。この「外」というのは、オーソドックスな経済学を皮肉ったものだ。

 「エコノミストとして、私は13年間ラテンアメリカの最も貧しい地域で暮らし、働いてきました。メキシコ、グアテマラ、エクアドル、ペルー、ウルグアイ、そしてブラジルです。ですが、本当に貧しいのは、インディアンのコミュニティや都市です。
 そこが、私が経済学を完全に変えなければならなかったところです。なぜなら、ひとたび地図に足を踏み入れ、貧しき人々の顔を見れば、その人に言うためにあなたが教えられてきたもののほとんどが、その人に向かって口にするには、役立たない決まり文句であることに突然気がつくからです。貧しき人に、「GDPが5%成長すれば、あなたは幸せになるはずです!」そんなことを、あなたはその人に口にできるでしょうか?。それにどんな意味があるのでしょう?。そこが、今では「裸足の経済学」の概念として少しは有名となったアイデアが起こった場所なのです」。

 そして、同年、ローカル・コミュニティの自給自立や基本的ヒューマン・ニーズを満たす開発を進めるため、チリのサンティアゴに、オルターナティブ開発のためのセンター(CEPAUR)を設立する。開発途上国の極貧解消に努めた功績から1983年にはスウェーデンの「オルターナティブ・ノーベル賞」を受賞し、1987年にはスペイン語だが、ヒューマン・スケールの開発を出版。CEPAURの同僚たちと、人間のニーズの再評価に基づいた新たな開発パラダイム理論を提唱したのである。

 マックス=ニーフの指摘は、とても本質的で重要だ。ブータンのジグメ・シンゲ・ワンチュク国王が1972年に提唱したグロス・ナショナル・ハピネス (GNH= Gross National Happiness)とも相通じる概念だが、GNHがイメージとしてはわかるにしても、何がハピネスなのかが曖昧模糊としているのに比べ、マックス=ニーフは、こうした9つのニーズが満たされている状態によって、各コミュニティが自分たちで「豊かさ」と「貧困」とを特定し、真に豊かな開発の方向性を掌握できる分類手法を開発したのである。その後も、ポール・エキンズ(Paul Ekins)との共著で、『本当の暮らしの経済学:豊かさを理解する』(Real-Life Economics: Understanding Wealth Creation)(1992)を執筆、理論を自ら実践するため、1993年には5.55%しか評を獲得できなかったものの、無党派でチリ大統領選にも立候補している。

 「いま、別々の二つの言葉があります。経済学の言葉とエコロジーの言葉です。それらは、合致しません。経済学の言葉は政治的にもアピールしているので魅力的です。それは、体制側を喜ばせます。政策決定者はモデルを適用し、それが機能しない場合は、トリックを演じているのは現実だと結論を下す傾向があります。新しいパラダイムのための理論を構築し、古いパラダイムを支える理論が抱える多くの欠点や限界を克服しなければなりません。とりわけ、福祉の機械論的な解釈や不適当な指標をです... 人々が自信をつけ、その礎をしっかりさせる小さなコミュニティを再生するために」

 日本や米国のエセ・ネオリベラリズム経済学者よりも、よほどまともなことを言っている。だが、日本のサイトを検索してみても、マックス=ニーフという経済学者については2~3件しかヒットしない。これほど左様に日本の情報は世界から遮断されているのである。
(引用文献)
(1) Kath Fisher Human Needs and Human-scale Development
(2) オルターナティブ・ノーベル賞のHP