今日から5月11日までキューバにいってまいります。アグエコ会議の事前視察ツアー参加のためです。このところ、残業が続き、とても、今年はキューバにはいけないと思っていましたが、幸い人事異動もなく、職場の上司と同僚の温かい理解もあって、有給休暇をいただけました。フライトもGWで満杯かと思っていましたが、滑り込みセーフで確保できました。つきましては、この間にメールなどでお問いあわせがありましても、対応できません。あしからず。ブログも10日ほど休みします。よろしくお願いします
今日もどうでもいい与太話を。
だいたい、私の子どもの頃のほうが、古代の伝統への謙虚さはあったような気がする。
特撮ドラマ『ウルトラQ』の記念すべき第1作に登場するゴメスは、第三紀の原始哺乳類、これと闘うリトラも古代から蘇った鳥類と爬虫類の中間生物という設定だった。第24話の『ゴーガの像』では、古代の貝獣ゴーガが登場する。6000年前にアランカ帝国を滅ぼし、街に悪がはびこり、人々が心を亡くした時、甦ると言う恐ろしい設定だ。
『ウルトラマン』にも古代へのこだわりが見受けられる。第7話『バラージの青い石』に登場したアントラーは、5000年前に中央アジアの王国「バラージ」を襲い4000年前に滅ぼしているし、第12話『ミイラの叫び』では7000年前のミイラとドドンゴがセットで登場する。第19話『悪魔はふたたび』のアボラスとバニラ・コンビも、3億5千万年前の古代人が封じ込めた怪物が蘇えったものだし、第26と27話の怪獣殿下ゴモラの形容詞は文字通り『古代怪獣』だ。
私の少年時代には、古代への畏敬をテーマにした特撮ドラマがあったのだ。だが、今は、どうだろうか。古代の超科学なんてフレーズを付けただけで、『ムー』とかの読者「ムー民」が喜びそうなトンデモ本のテーマになってしまう。
だが、ネットを探っていると面白いテーマが見つかる。オルタナティブ医療に興味を持つ人ならば、「アーユルヴェーダ」というフレーズを耳にしたことがあるだろう。古代インドが誇る伝統医療の体系だ。だが、有機農業に関心を持つ人は、「ヴリクサユルヴェーダ」という単語を耳にしたことはあるだろうか。日本語でネット検索してもヒットしないから、アカデミックな学術研究者には常識であっても、一般大衆は知らないのではあるまいか。
だが、ヴリクサユルヴェーダは、アーユルヴェーダと並ぶ壮大な古代インドの植物科学体系なのだ。
そして、この古代インドの植物科学を現代に蘇えらせ、生物多様性保全と有機農業の推進に使おう。遺伝子組換えや化学合成農薬とのバトルに使おう。こんな発想で、古代科学の経典を現代に復活させようと大真面目に取組んでいる団体がある。インド知識システムセンター(Centre for Indian Knowledge Systems)だ。センターの本部は、インド南部のチェンナイ(Chennai)にあるが、タミル・ナドゥ州(Tamil Nadu)の5県に及ぶ125カ村にまで活動が広まっている。
もう、アンシエント・フェチなら、随喜の涙がでてきそうではないか。やはり古代の伝統を大切に守ることが大事なのだ。宇宙戦艦ヤマトに登場したゆきかぜ艦長の名前がそれを象徴している。
「古代守」
今日の午後は、生物と情報の2コマの連続講義だった。締めて3時間。講演からすれば、さして長くはない。が、講演以上に緊張し、ぐったりと疲れた。居眠り率は昨年よりは下がったと自負してはいる。だが、講義の準備に土日もつぶれた。
講演に聴きに来てくださる聴講者の方には悪いが、講演ははっきりいって楽だ。タダよりも金を払う講演の方がもっと楽と言ってもいい。なぜなら、参加する段階で聴く側に演題に関心があるのだし、金を払うとなれば、情報を得ようとするモチベーションも働く。それは本でも同じだろう。
だが、講義は違う。
「何か面白い話をしてくれるに違いない」
という受け身の姿勢が前提としてあって、自分の期待に見合った内容でなければ、すぐ居眠りがはじまる。生徒は正直だ。それに応えなければならない。そんなことを考えているうちに、ふと、2月7日に塩見直紀氏の講演会場であった、長野県の某氏の発言が蘇った。
「○○先生の講演はつまらないんですよね。学者先生の話はまず否定から入りますから」
○○先生とは私も尊敬し、有機農業や持続可能な農業では日本を代表する大御所である。話もうまい。私自身、講演を聞かしていただいたり、著作を呼んで感銘を受けることが多い。にもかかわらず、人によっては、同じ話を聴いていても、こんな感想をいだくのか、とショックを受けた。
つまり、こういうことだ。
あえていやな言い方をするが、超一流アカデミック、一般大学、専門学校、高校とインテリ度合いによって序列を付けてみる。
超一流アカデミックでは、知の遊戯。様々な諸説学説が否定され、あるいは肯定され、多様な諸説がアウフヘーベンされていく様がダイナミックに論じられる。その華麗な知を味わうためには最低限のテクニカルタームも受け止める側が持たなければならない。
私が卒業したような一般大学でも、こうした「知」の片鱗を多少なりとては「学生」として味わうことができる。だから、こうした講演を聴いたとしても、免疫ができているだけにさほど意識せず、違和感なく聴けてしまうのだ。
だが、庶民はどうだろう。あるいは、我が農業大学校のように高校を出たばかりの専門学校の学生は。別に某氏がインテリではないといっているわけではない。だが、おそらく、普通の人間のサンプル100を取った場合、90%近くは、某氏のように「○○先生の講演はつまらない」という感想をいだくのではないだろうか。
そして、問題は次だ。
「○○先生の講演はつまらないが、重要なことは言っている。だから、最後まで聴いたうえで、自分で咀嚼しなければ」
と思うのは、よほどインセンティブがある者だけなのだ。
「○○先生の講演はつまらない。だったら、もういいや」
で切られてしまったら、後が続かないのだ。
では、庶民、いわゆる大衆受けするレクチャーとはなんなのだろうか。否定からはいらないレクチャーとはなんなのだろうか。
答えは、決まっている、ワンパターンと勧善懲悪。水戸黄門だ。
だいたい、時代劇が娯楽性を持って楽しめるのはワンパターンだからだ。水戸黄門の「印籠」はオールマイティで、いつも相手がひれ伏すからこそ、安心して見ていられる。
「ええぃ、そこな浪人。この紋所が目に入らぬか。ここにおわすお方をどなたと心得る。畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ」
「俺は徳田新之助。じい、余の顔を見忘れたか」
「あっあっ、うっう、うえ上様」
「格さん、助さん、松平健様じゃ、図が高い。ひかえおらねば。へへぇー」
となってしまったら、もう「印籠」は形無しだ。
そこで、本題。つまり、アグロエコロジー・ブログもノー天気なまでにワンパターンと勧善懲悪を図式にしている。
悪の代官、米国が世界銀行やらIMFやら良からぬ組織を率いて、近代農業、農薬やら化学肥料やらで庶民を痛めつける。悲惨な庶民は地獄の業火に苦しめられるが、この恨みはらさいでかと、テロリスト、必殺仕留人の中村主人を雇ったりはしない。
そこで、突如として登場するのが、伝統農業、アグロエコロジーを手にした科学者やら、農民ヒーロやら、NGOのリーダーなのだ。あらふしぎ。水戸黄門の印籠よろしく、伝統農業は信じられない威力を発揮して、近代農業の問題点をすべて解決してしまう。めでたし、めでたし。実に簡単でシンプルなストーリー展開だ。
おまけに、水戸黄門が全国を巡回するように、伝統農業も世界中にある。世界漫遊ができるのだ。一周すれば、また最初から味付けを替えて、旅をやり直せばいい。前の世界紀行からは数年くらい立っているから、また悪代官、米国はモンサントやら遺伝子組み換えやら良からぬ陰謀を繰り返しているに違いないから、それを素材にまた勧善懲悪のワンパターンを繰り返すことができる。かくして、歴史的長寿番組が可能となるわけ。
どうです。この構想、シンプルなようで意外によく練られていると思いません?。ということで、今回はインド登場です。それも前半だけ。本当は、アフリカが続いたのでブルキナファソの「ザイ」を扱おうと思っていたのですが、時間不足で間に合いませんでした。そのうちやります。では、どうぞ。
大学時代に良く聞いていた山下達郎の「LOVELAND,ISLAND」の歌詞にこんなフレーズがある。
「突然こんな砂漠の街が南のオアシスに変わる。Oh Island きっとあの人のせい」
島ではない。だが、砂漠の街が突然ではないにせよ、わずか数年で南のオアシスに変わった例はある。それは、ラヘンドラ・シン博士のせいなのだ。インドのラジャスタンでは何が起こったのだろうか。ご関心がある人はこちらまで。
学校が始まった。私の生物の授業も始まる。もう4年目にあるのだから、かなりストックネタはあるのだが、同じネタの繰り返しはしたくないと、毎年更新を心がけている。だが、プロの学術研究者ではないのだから、「フィールドでこんな発見があった」とか「実験でこんなデータがでてきた」というワクワクした感動を学生たちに伝えることはできない。
教科書で書かれたことを覚えるだけの高校までの授業。
就職や就農で社会人として巣立ち二度と学校とは縁がなくなる生徒たち。あるいは、大学への編入を目指す生徒たちに対して、「社会人の勉強とはこういうものだ」あるいは、「大学では自らこうしたことを研究することになる」というつなぎ役を果たすのが、私のミッションだと思っている。
大学で授業を聞いていたのは30年近くも前のことになるのだが、こうした職場環境にいると、学生時代の頃が妙になつかしく思い出される。と、同時に、「大学とは何か」という新書や文庫もついつい買い込んでしまう。
そうした中で、「なるほど、そうか」と思わず膝を叩きたくなるフレーズが、浅羽通明さんの『大学で何を学ぶか』(幻冬舎文庫1999)にあった。浅羽さんは、新制大学の授業がつまらないことについて、こう問いかける。
「教養語学では非実用的な訳読ばかりやらされる。ある学問のダイジェストでもエッセンスでもない、より細分化された一部の講義を一般教養科目と称して聴かされる(略)。学生に対してまるでそっぽを向いているような大学のこうした姿勢はどうして生まれたのだろうか」
そして、その答えを教育者としてのプライドのなさに求める。
「新制大学の一般教育課程の教師の椅子は、いずれ専門の教授を目指す若手講師の踏み台か、専門ポストにあぶれた学者の吹き溜まりとなってしまった(略)。だが、旧制高校等の予科の教授たちは違っていた。彼らは自分たちが大学教授のような純粋の学者よりも一段落ちる存在であるとはっきり自覚していた。しかし、彼らはコンプレックスなど抱かず、学者ではなく教育者としての自負、大学教育の基礎固めを担う高級プロ教師としての誇りを抱いていた。例えば、英語教師は、専門書が読め訳せるだけの技術を伝授する英語屋に徹しており、あくまでも使える英語だけを教えたという」(P47~48)
十年も前の本だ。今は大学の授業もずいぶんと改善されてきているだろうし、新制大学の一般教育課程の教師の椅子とても確保できない時代だ。だが、この「基礎固めを担う高級プロ教師としての矜持」というのは、学歴上は短大に該当する専門学校、農業大学校の教師である私も自覚すべきスタンスだと思っているのだ。
ということで、この2月に出た『アメリカ版大学生物学の教科書』(ブルーバックス2010)というのをさっそく買ってみた。こうした本でも読めば、「ある学問のダイジェストで、エッセンスでもある、より総合化された授業の素材になる」と期待したからだ。実際、アマゾンの書評はいい。監訳者もまえがきで、「このような教科書を作成し得ることは、ある分野では日本は未だ『後進国』であることを認識させられる」と、米国にめげてしまっている。
が、反米主義者である私からすれば、「たしかにいい。が、書評から期待したほどは・・・・」逆に言えば、「なんだこの程度か」という程度のコンテンツだった。図はきれいだが、図だけ言えば、故竹内均が創刊した雑誌『ニュートン』の方が奇麗でわかりやすいし、内容もいい。また、生物を探究する哲学的な味付けも感じられない。文学と物理の統合を目指した寺田寅彦のセンスから言えば、イギリスの『オックスフォード・サイエンス・ガイド』(築地書館2007)の生物関連部分だけを抜き書きして読んだ方が、よほどわくわくして科学する心が躍るのだ。
また、地球科学を学んだ身からすれば、生物の中でも、どちらかというと還元主義的な細胞の生化学やDNAよりも、ホリスティックでシステム科学的な生態学や生命の誕生と進化と地球の発展とのダイナミックな絡み合いの方に魅かれてしまう。そして、生態学と言えば、趣味でやっているアグロエコロジーも絡んでくるではないか。
例えば、アカシア。本当のアカシアではないニセアカシアは西田佐知子のヒット曲「アカシアの雨がやむとき」で有名だが、アフリカではこんなことがアカシアで起きていたのだ。ということで、私のネタ探しはしばらく続きそうだ。学生さんすみません。
明日は大学校の1年生のオリエンテーションです。4月から新学期。生物と情報の授業は、4月早々からスタートするので、何を話そうかと準備中です。さて、3月25日から、このブログの内容は、日記的なものにシフトさせていますので、日常を書きます。
この10、11日は久しぶりに上京しました。東京は桜が満開。1年が経つのは早いものですが、昨年の3月7日(土)には、東大で、作家の石川英輔先生、内藤耕氏、枝廣淳子氏、岸上祐子氏とシンポジウムを行い、8月には『江戸・キューバに学ぶ"真"の持続型社会』という本になったのですが、その1周年記念ということで、石川先生宅で山桜のお花見会に読んでいただき、先生手製の料理を御馳走になりました。
先生の驚くべき博識ぶりと楽しい話もさることながら、何よりも感動したのはサイン入りで「来妙法蓮華経」をいただき、その本にまつわるエピソードを肉声で聞けたこと。1992年ですから、今から20年近くも前の本で、一度読んで衝撃を受けた記憶だけは残っていたのですが、改めて読み直して見ると、内容が古びていないどころか、改めて感銘を受けました。
人はどうしても時代の流れに左右されます。環境問題も今は「地球温暖化エセ説」が流行し、農業では『日本は世界5位の農業大国・大嘘だらけの食料自給率』が、ベストセラーを独走中です。食料危機をあおり、自給率UPを擁護したい人間としては、どこかで整理しておかなければならないのでしょうね。
それはともかく、今の私の関心はアグロエコロジーにあるので、枝廣淳子さんにアマゾンの土壌が炭焼きによって人工的に造成されたという話をしたところ、アル・ゴア氏がちゃんと「アマゾンの黒い土」として指摘していたそうです。ゴア氏については、石油系のロックフェラーと対抗し、原発を推進するために、ロスチャイルドから資金が出ていて、「不都合な真実」というエセ映画を作ったともっぱら避難されていますが、こうした事実を抑えている点は評価しなければならないと思います。
そうそう、アグエコについては、こちらのページで真面目に書いています。といっても、ただ英文記事を再編集しただけですが。。。。アグエコの総論と続ミルパ農法をUPしました。関心ある人はアクセスしてみてください。次回は、インドの泥のダムについて書こうと思っています。
で、話をもとに戻しますが、東大でのシンポジウムに先立ち、東大前の「ルオー」という喫茶店で、築地書館の土井二郎社長と「これから日本はどうなるのだろうか?」という雑談をしていたのですが、その中から「没落、ソフト・ランディング」というキーワードがでてきて、『没落先進国』という本を出そうと言うことで、10月に本にまとまったことを思い出しました。
1年前は、まだ「没落」や「二流国」というキーワードはまださほどメジャーではなかったと思うのですが、今は、週刊誌も「没落」とか「凋落」といった言葉が目立ちます。日本の凋落はこれからますます加速化していくのでしょうか。
お役所は春が人事異動の季節ですが、今年も引き続き、農業大学校で仕事をさせていただくこととなりました。
さて、このブログは、キューバに関心を持つ方か、左翼、いわゆる「サヨ」の方をメイン読者層として想定して、言いたいことを好き勝手に書いてきたわけですが、『地球を救う新世紀農業』を執筆したために、いままでにはなかった読者、例えば、高校生からもメールをいただいたりしています。
となると、誤解を招くような言葉づかいや表現には、十分注意しなければならないということで、改めて身を引き締めてまいります。
さて、『地球を救う新世紀農業』はネットで見ますとかなり酷評をいただいています。そのひとつが、開発途上国のアグロエコロジー農法がすべてを解決するというのは、いささかノー天気なのではないかというご批判です。
ご指摘のとおりで、開発途上国の多くは技術、資金、教育・人材不足で苦しんでいます。しかし、マイナス面を見て警鐘を発する著作は、堤未果さんの「ルポ・貧困大国アメリカⅡ」をはじめ、名著が数多く出ています。そして、実際に農業大学校の学生をはじめ、いまの若者の多くが「希望」を失っていることに心が痛みます。
この『新世紀農業』は、そうした若者たちにまず希望を持ってもらうため、数多くの失敗事例の中から優良事例だけをピックアップした、いわば『グッド・ニュース』なのです。決して、ノー天気にアグロエコロジーを絶賛しているわけではありません。
実は私は日本の将来や農業についてはかなり悲観的見解をいだいています。
「では、日本の農業はどうしたらいいのか」
という質問も農学部系の大学生から多くいただきます。これについて、現段階での私なりの見解をまとめたものが、前から紹介している『知らなきゃヤバイ! 食料自給率40%が意味する日本の危機」(日刊工業新聞社)』です。自著の宣伝になりますが、ここで内容の一部が読めます。是非、あわせてお読みいだだき、前向きの創造的ご批判をいただけると幸いです。
さて、今、私が一番、ワクワクして興奮しているのが、前から紹介している「世界農業遺産」です。石油がピークを迎えるとなれば、人類は再び石油文明以前に後戻りせざるをえません。しかし、石油がない中でも人類は素晴らしい農業を展開してきたのです。それをこれからのモデルにしようとFAOが、提唱しているのが「世界農業遺産」です。
残念ながら、キューバそのものは対象にはなっていないのですが、キューバが用いている「間作」や「遺伝子保全」はまさに世界農業遺産の伝統を継承するものなのです。
しかも、世界農業遺産のサイトを見ると、コンクリートではなく、土製のダムを構築することで、乾燥地でも豊かに水を確保する農法がラテンアメリカやインドで行われていたことがわかりますし、都市農業で紹介した「家庭菜園」もメキシコやインド等の伝統であったことがわかります。つまり、私がいままで興味・関心をいだいてきたバラバラのテーマ、「都市農業」、「河川三面張り否定の論理」、「有機農業」、「伝統文化」といったカテゴリーが「世界農業遺産」によって統合される可能性が見えてきたのです。しかも、FAOで「世界農業遺産」を推進している責任者、パルヴィズ・クーハフカン(Parviz Koohafkan)博士は、FAOのラテンアメリカ事務所で仕事をした縁で、こうしたプロジェクトにかかわることとなり、ミゲル・アルティエリ博士と共著で論文も書いているのです。
さて、少しだけ話が飛びます。築地書館の土井二郎社長と一月ほど前に上京してお会いしたときに、土井さんからは、「日本で盛んな里山保全の運動とアグロエコロジーとをつなげる設定はできないのだろうか」という難しい宿題をもらいました。
実は「里山」もまったく縁がないわけではなく、2001年11月に書いた「サンフランシスコの環境保全と中間支援NPOの取組み~パートナーシップによる持続可能な地域社会を目指して~」は、都内で里山保全に関心を持つ人々との共著なのです。
そこで、里山とアグロエコロジーの関係を探していたところ、なんと、FAOのサイトは里山が「SATOYAMA」イニシアティブとしてちゃんと載っているではありませんか。日本語のサイトを提供しているのは、環境省と国連大学です。 このサイトでは、世界農業遺産(GIAHS=Globally Important Agriculture Heritage Systems)が「世界重要農業遺産システム」と正確に訳されていますが、「世界農業遺産」とした方が、語呂がいいし、私の気分ではすっきりします。
そして、この世界農業遺産のサイトは、持続可能な農業を営みつつも、景観的にも優れていると言います。イタリアのテラス・レモン果樹園、中東のカナート、中国の水田・魚養殖農法、フィリピン・ルソン島のイフガオ州の棚田、インドの伝統的な土製の浸透性ダムによる水活用、北米のハリケーン水利用農法、メキシコのミルパ農法、インカのワルワルス、アンデスの垂直テラス農法と世界各地のマイノリティーな人々が作り出してきた美しい農業景観を「世界農業遺産」として紹介し、最後は日本の「里山」で決める・・・・。
とても暇なしサラリーマンには現地を訪れる時間は取れそうもありませんが、ネット上ではいずれの景観も画像が楽しめます。是非、プロのジャーナリストあたりに写真集を出してもらいたいものですし、もっと良いのは、NHKスペシャルあたりで放映したら楽しいと思うのですが、如何でしょう。
故吉田直哉さんは「未来への遺産」(1974年3月~1975年12月)という素晴らしいドキュメンタリー番組を制作されましたが、それになぞらえれば、『未来への農業遺産』
第一集 生物多様性の奇跡・・・ミルパ農法、アグロフォレストリー
第二集 土との共生・・・・・・・・・炭焼きが産んだアマゾンの熱帯雨林
第三集 命をつなぐ水・・・・・・・・中東のオアシス・カナート、サハラのザイ、北米の洪水農法
第四集 都市農業・・・・・・・・・・・20万の巨大古代都市テノチティトランを維持した水上都市菜園チナンパス
第五集 大地への刻印・・・・・・・徳川が築いた世界遺産SATOYAMA
なんて感じで。。。。
さて、このブログは、キューバに関心を持つ方か、左翼、いわゆる「サヨ」の方をメイン読者層として想定して、言いたいことを好き勝手に書いてきたわけですが、『地球を救う新世紀農業』を執筆したために、いままでにはなかった読者、例えば、高校生からもメールをいただいたりしています。
となると、誤解を招くような言葉づかいや表現には、十分注意しなければならないということで、改めて身を引き締めてまいります。
さて、『地球を救う新世紀農業』はネットで見ますとかなり酷評をいただいています。そのひとつが、開発途上国のアグロエコロジー農法がすべてを解決するというのは、いささかノー天気なのではないかというご批判です。
ご指摘のとおりで、開発途上国の多くは技術、資金、教育・人材不足で苦しんでいます。しかし、マイナス面を見て警鐘を発する著作は、堤未果さんの「ルポ・貧困大国アメリカⅡ」をはじめ、名著が数多く出ています。そして、実際に農業大学校の学生をはじめ、いまの若者の多くが「希望」を失っていることに心が痛みます。
この『新世紀農業』は、そうした若者たちにまず希望を持ってもらうため、数多くの失敗事例の中から優良事例だけをピックアップした、いわば『グッド・ニュース』なのです。決して、ノー天気にアグロエコロジーを絶賛しているわけではありません。
実は私は日本の将来や農業についてはかなり悲観的見解をいだいています。
「では、日本の農業はどうしたらいいのか」
という質問も農学部系の大学生から多くいただきます。これについて、現段階での私なりの見解をまとめたものが、前から紹介している『知らなきゃヤバイ! 食料自給率40%が意味する日本の危機」(日刊工業新聞社)』です。自著の宣伝になりますが、ここで内容の一部が読めます。是非、あわせてお読みいだだき、前向きの創造的ご批判をいただけると幸いです。
さて、今、私が一番、ワクワクして興奮しているのが、前から紹介している「世界農業遺産」です。石油がピークを迎えるとなれば、人類は再び石油文明以前に後戻りせざるをえません。しかし、石油がない中でも人類は素晴らしい農業を展開してきたのです。それをこれからのモデルにしようとFAOが、提唱しているのが「世界農業遺産」です。
残念ながら、キューバそのものは対象にはなっていないのですが、キューバが用いている「間作」や「遺伝子保全」はまさに世界農業遺産の伝統を継承するものなのです。
しかも、世界農業遺産のサイトを見ると、コンクリートではなく、土製のダムを構築することで、乾燥地でも豊かに水を確保する農法がラテンアメリカやインドで行われていたことがわかりますし、都市農業で紹介した「家庭菜園」もメキシコやインド等の伝統であったことがわかります。つまり、私がいままで興味・関心をいだいてきたバラバラのテーマ、「都市農業」、「河川三面張り否定の論理」、「有機農業」、「伝統文化」といったカテゴリーが「世界農業遺産」によって統合される可能性が見えてきたのです。しかも、FAOで「世界農業遺産」を推進している責任者、パルヴィズ・クーハフカン(Parviz Koohafkan)博士は、FAOのラテンアメリカ事務所で仕事をした縁で、こうしたプロジェクトにかかわることとなり、ミゲル・アルティエリ博士と共著で論文も書いているのです。
さて、少しだけ話が飛びます。築地書館の土井二郎社長と一月ほど前に上京してお会いしたときに、土井さんからは、「日本で盛んな里山保全の運動とアグロエコロジーとをつなげる設定はできないのだろうか」という難しい宿題をもらいました。
実は「里山」もまったく縁がないわけではなく、2001年11月に書いた「サンフランシスコの環境保全と中間支援NPOの取組み~パートナーシップによる持続可能な地域社会を目指して~」は、都内で里山保全に関心を持つ人々との共著なのです。
そこで、里山とアグロエコロジーの関係を探していたところ、なんと、FAOのサイトは里山が「SATOYAMA」イニシアティブとしてちゃんと載っているではありませんか。日本語のサイトを提供しているのは、環境省と国連大学です。 このサイトでは、世界農業遺産(GIAHS=Globally Important Agriculture Heritage Systems)が「世界重要農業遺産システム」と正確に訳されていますが、「世界農業遺産」とした方が、語呂がいいし、私の気分ではすっきりします。
そして、この世界農業遺産のサイトは、持続可能な農業を営みつつも、景観的にも優れていると言います。イタリアのテラス・レモン果樹園、中東のカナート、中国の水田・魚養殖農法、フィリピン・ルソン島のイフガオ州の棚田、インドの伝統的な土製の浸透性ダムによる水活用、北米のハリケーン水利用農法、メキシコのミルパ農法、インカのワルワルス、アンデスの垂直テラス農法と世界各地のマイノリティーな人々が作り出してきた美しい農業景観を「世界農業遺産」として紹介し、最後は日本の「里山」で決める・・・・。
とても暇なしサラリーマンには現地を訪れる時間は取れそうもありませんが、ネット上ではいずれの景観も画像が楽しめます。是非、プロのジャーナリストあたりに写真集を出してもらいたいものですし、もっと良いのは、NHKスペシャルあたりで放映したら楽しいと思うのですが、如何でしょう。
故吉田直哉さんは「未来への遺産」(1974年3月~1975年12月)という素晴らしいドキュメンタリー番組を制作されましたが、それになぞらえれば、『未来への農業遺産』
第一集 生物多様性の奇跡・・・ミルパ農法、アグロフォレストリー
第二集 土との共生・・・・・・・・・炭焼きが産んだアマゾンの熱帯雨林
第三集 命をつなぐ水・・・・・・・・中東のオアシス・カナート、サハラのザイ、北米の洪水農法
第四集 都市農業・・・・・・・・・・・20万の巨大古代都市テノチティトランを維持した水上都市菜園チナンパス
第五集 大地への刻印・・・・・・・徳川が築いた世界遺産SATOYAMA
なんて感じで。。。。