モットモット、変質的オタクにワタシハナリタイ
日々、このブログにアクセスしてくださっている皆さん。ありがとうございます。3.11以来、ずっと、レジリアンスやキューバの防災にこだわり、ネット上をはいずりまわってきたのですが、ようやく作業が一段落したので、久しぶりに書きます。
グーグルにキーワードを打ち込んでは情報を探す。気になる情報をクンクンと嗅ぎまわり、めぼしいネタを見つければ、がっぷりと喰らいついて放さない。ストーカよろしくどこまでも追い回す。つまらないと思った情報は未練なく切り捨て、自分の感性に馴染むエピソードのエキスを酒を蒸留するかのように濃縮する。
司馬遼太郎にせよ、松本清張にせよ、文章家というのは、こうしたある種変質者的な要素がある。で、拙著、没落先進国を高く評価してくれているブログを見つけた。
「吉田太郎というおじさんが書いた本なのですが、何やらこのおじさん、リンク先のブログにもるように、やたらキューバにこだわっている。まあ、早い話がキューバオタクの人だ」
(略)
「データや現状報告なども精緻で良いのですが、内容が少々回りくどいのが難点です。ただ、この本、趣旨としては非常に面白い。なので、キューバの人が語った、印象に残ったフレーズだけいくつか紹介します」
(略)
「先進国はモノはあっても遊ぶための時間的ゆとりがありません。バケーションでも、その国の本当の姿ではなく例えば、きれいなビーチにだけ行く。ですがキューバにはたっぷり時間があります。昼はおしゃべりをしながら料理を作り、家族はいつも笑っている。つまり、モノがなくても気持ちがお金持ちなのです」
これは、「芸術文化を大切にした国づくり」という章で語っていたキューバの芸術家の言葉の引用ですが自分も、まさにそう思います。この際はっきり言いますが、もう欲望のままにカネを稼いでプール付きの大きな家に住み大量消費するような米国資本主義的な上昇志向モデルは限界点に達しているのです。みんなでそれをするには地球があと3個は必要です。
(略)
日本は経済の前に文化大国でもあります。日本はアニメやゲーム産業が盛んですが、それらを産み出す末端のクリエイターの待遇なんか良いとは言えません。食うや食わずの彼らの支えになっているのは文化的な価値を創造してるという満足感、その一点のみでしょう。カネやモノの独占を目指す社会からもっとシェアし、文化を重視する方向に向かえば、この国は相当なポテンシャルがあると思います。そう、あの300年平和が続いた江戸時代のように」
うーむ。なんと、素晴らしい書評だろう。私のことを「キューバオタク」と評価してくれている。
個人的には「キューバ・フェチ」とか、「異常キューバ嗜好変質者」とか、もっと過激な表現をしてくれると嬉しいのだが。日本社会では「オタク」というと、社会適応力やコミュニケーション・スキルを欠落したマイナスのイメージがある。
だが、「オタクと呼ばれる人が、私は個人的に好きだ」とブログ上で、主張している人物がいる。
ブログは、その理由をこう書く。
「自分の心に正直に、忠実に生きることは容易ではない。常識、他人の目、世間体、前例等、黙って従えとプレッシャーをかけてくる。すべてを「~らしく」という決まった形に当てはめようとするプレッシャー。本当に「自分らしく」生きることは、とてもむずかしい。でもオタクは少なくとも、自分が心から愛することを明確にわかっている。
普通でいたいと願い、こだわりもなく、他人に協調することにばかり気を取られて生きるよりも、たとえ世間から揶揄されようが、自分に忠実に生きる姿勢を崩さないオタクの生き方にこそ、人間としての魅力を感じる。ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ」
なぜ幸せが見つけられないか
さて、今日、東京でキューバについて話す。循環型社会研究会が「日本再生と農業」と題する一連の講座の一コマを担当させていただく。
他に講師陣としては、石油ピークの石井吉徳氏、パーマカルチャーの糸長浩司氏、大地の会と藤田和芳氏、国学院大学の古沢広祐氏等とゴージャスなメンバーが並ぶ。
ちなみに、石井氏は個人的な面識はないのだが、著作でキューバを紹介されているし、他の三人もいずれもキューバを訪問されている。藤田氏とはキューバ視察後にお話させていただいたことがあるし、糸長氏はキューバに一緒に言ったことがあり、古沢氏とはキューバで開かれた有機農業の国際会議の会場であった。
で、キューバと縁があるのかどうかわからないのが、「ミドリムシは地球を救う」の出雲充氏である。個人的には、同氏の講演を一番聞いてみたいと思っている。
キャリアからしてぶっ飛んでおり、社長インタビューでは、こんな鋭い分析をしている。
「私は講演等でチャンスがあれば夢を持っている人はどれくらいいますかと聞くのですが、大体参加者の3%くらいしか手を上げる人がいないんです。いま現在の自分に夢がないことは別に異常なことを大前提とすべきなのです。就職活動の世界では夢を持っていることがさも当然かのように言われていますが、大体、『夢を見つけろ』とか言っている人ほど自分のことについて話さない」
では、なぜ、夢が持てないのか。出雲氏は夢を見つけるには、色々なものを「そぎ落とす」作業が必要なのだが、日本はその順番がおかしい、と指摘する。
氏によれば、
①やりたいこととやりたくないこと(want)
②できることなのかできないことなのか(can)
③自分がやるべきことなのかそうでないのか(must)
の順番でそぎ落とし作業をやるべきなのだが、日本ではこの順番が逆なのだ。
大学進学を例に取れば、
①いい大学に進学しなければなららない(空気)
②自分の成績ならどこにいけるか
③まぁ、ここだったら行きたいとしよう
となっている。
こういうやり方では夢は出てこないし、仮に出せたとしても「小さい夢」になってしまうと氏は主張する。だから、あせらず、ひたすら自分と向きあい、「want」を探るべきだ、と氏は示唆する。これは、まさに前述したオタクそのものではないか。
個人主義が蔓延するラテンは幸せ
さて、今日の本題。枝廣淳子さんは「幸せ経済社会研究所」で、幸せな社会を考え始めている。
「没落した方が幸せ」になると主張してきた私としては、幸せと経済、そして、ソーシャル・キャピタルやコミュニティとの関係は、大いに気になるのだが、最近読んだ「幸せ本」で最も面白いと思ったのが、前述したオタクを評価した目崎雅昭氏の「幸福途上国ニッポン~新しい国に生まれかわるための提言」(2011)アスペクトなのだ。
目崎氏は世界100国をわたり歩き、なぜ、日本が幸せでないのかを経済、文化、社会、脳科学から解き明かしていく。
ひとつ面白かったのが、韓国と日本と台湾の分析だ。いずれも儒教文化圏に縛られ、幸せ度が低い。
また、共産主義が人々を幸せにしない、という図表も出てくる。共産主義の持つ抑圧性が人々の幸せを奪ってしまうのだ。一方、ダントツで幸せ感が高いのがラテンアメリカ文化圏。おきらくラテンの気分が、経済的停滞や治安の悪さを克服し、人々の幸せ感は押しなべて高い。氏は、医療と教育が無料で幸せ追求を国是とするブータンも、社会の安定を個人の自由や権利よりも重視している。したがって、「日本をはじめ、多くの国にとって国家の目標とならないばかりか、あまり参考にもならないだろう」(P76)と鋭く分析している。
とすると、
共産主義であり、かつ、儒教文化圏に属する北朝鮮はどうなのか。
共産主義であり、かつ、ラテン文化圏に属するキューバはどうなのか。
これは、大いに気になるところだ。2011年5月、OECD加盟国の幸福指数が発表されたことに対抗し、北朝鮮も世界幸福指数ランキングを発表している。それによれば、
1位:中国(100ポイント)
2位:北朝鮮(98ポイント)
3位:キューバ(93ポイント)
152位:韓国(18ポイント)
203位:米帝(3ポイント)→最下位
となっているのだが、この大本営発表はあまり参考にはならないようにも思える。で、目崎氏が、ネタとした論文はここで読めるのだが、残念ながらキューバと北朝鮮が載っていない。
目崎氏は、人々が助け合う社会は良いとする。だが、同時に、個人に寛容ではない社会は幸せになれないと主張する。「利己主義」VS「社会主義」の対立を「個人主義」+「社会主義」で克服しようとする。かつての日本は、最も成功した社会主義国と呼ばれてきた。だが、個人主義、他人と違うオタクを排除することで、幸せを感じられずに来た。そして、社会的セーフティ・ネットは壊れている。どうも、ひたすらマニアなオタクやフェチに寛容な社会にチェンジするしか、日本は幸せになれそうにもない。
というのも、オタクやフェチを排除する日本社会の均一性、他人と違った行動を認めない閉鎖性こそが、「ムラ」を産み、このムラ社会こそが、どうみても止めた方がいい「泊原発」を再稼動することにつながっているからなのだ。
山本太郎氏も参加した集会で「こんなことになった、原発がわたしは大嫌いです」とまっすぐな意見が、子どもたちから向けられるなか横一列に並んだ内閣府、文科省、保安院の10名の"おとな"たちは、うつむくばかりという風景はどうみてもムラ社会が産んだとしか考えられない。
特殊な理論体系と哲学を抱き「私は原発は大好きだ。事故が起こることは素晴らしい。全身に放射能を浴びまくり、α線やらβー線でDNAがブチブチ引きちぎられることに異常なまでの快感とエクスタシーを感じる。
私はこうした気持ちを皆さんにも味わってもらいたい」
このように信じている人物ならば、カリスマ宗教家よろしく、うつむかずに堂々とニコニコしながら、そう主張できるだろうし、それは、個人の哲学の問題であろう。
原子力ムラの皆さん、いま毎日シアワセですか?