没落屋

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逆説の未来史57 進歩教の洗脳(8) ナチスと核戦争の恐怖をつなげしもの

2013年11月12日 00時55分42秒 | 逆説の未来史

■統合失調症は矛盾する命題を回避するための創造的な対応である

 テレビ・ドラマで男性の俳優が「君を愛している」と口にしても、番組のセリフを聞く主婦は、それが自分に向けられた言葉ではないことがわかっている。メロドラマがフィクションにすぎないことを知っているからこそドラマを楽しめる。人は言葉の意味を、非言語的なサインや文化的な枠組みを通じて解釈している。けれども統合失調症患者(以前のschizophrenia に対する訳語、精神分裂病は2002年に日本精神神経学会総会によって改称)は、この文脈を読み取れない。

 例えば、病院の食堂でカウンターの女性から「何をしましょうか」と話しかけられたとしても、統合失調症の患者はこの言葉の意味を理解できず「店員は自分を攻撃するつもりではないか」「自分と性的な関係を持ちたいのだろうか」「ただ1杯のコーヒーを提供するつもりなのだろうか」と憶測する。なぜ統合失調症患者はまともなコミュニケーションができないのだろうか。

 カリフォルニアのパロ・アルト(Palo Alto)にある在郷軍人病院(Veterans Administration Hospital)のスタッフとして働いていたとき、グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904~1980年)は、1949年に統合失調症の患者と出会う。サイバネティックス理論のパイオニアの一人として情報科学に精通していたベイトソンは、これがコミュニケーションの失敗の特殊な事例であることを理解し、「ダブル・バインド理論」を打ち立てた。

 ベイトソンの理論では、三つの命令のセットから統合失調症が産み出される。
 第一は、口頭での命令である。
 第二は、最初の命令に従うなという隠された命令が非言語的なシグナルによって否定される。
 第三は、口頭であれ、非言語的であれ、二つの矛盾する状況から逃げ出してはならないというものだ(4-3)

 例えば、「ママにキスして」と子どもに愛を口で(言語的に)告げながら、実際に子どもがそうしようとするとどんと突き飛ばす等、非言語的なメッセージで「キスをするな」と拒絶する。呼ばれて無視をすれば怒られる。けれども、近寄れば拒絶される。すると、その子どもは、子どもは、次第にこの矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外でも世界はそのようなものだと認識し、他人に対しても同じように接してしまうようになる(5)

 統合失調症は、困難な認知的不協和状態に追い込まれ、それを解決できない場合の極端な反応である。ベイトソンは統合失調症患者が使う分裂言語(Schizophrenic language)を「ワードサラダ(word salad)」と呼ぶが、それはこの困難な状況に対する驚くべきほど創造的な反応である。患者は、現実のコミュニケーションで文脈を構成しようとして罰せられた経験を持つ。けれども、言葉が分裂していれば、それをどのように解釈していいのかリスナーにはわからない。分裂言語を取り入れることで、言葉に意味を与える枠組みを拒絶すれば、罰せられずにすみ、認知的不協和の状態はなんとか耐えられるレベルにまで低下する。すなわち、統合失調症者に適応性がある(4-3)

■過去の投資の心理学はダブル・バインドで説明できる

 過去の投資の心理的な結果と統合失調症とには明らかに違いがある。けれども、現象の関係性を詳細に見れば、その違いは種類の差ではなく程度の差であることがわかる。例えば、マーティンやその信者が捉われたダブル・バインドの構造もベイトソンのものにしたがっている。

 第一の命令は、地球圏外の知性から受け取ったとマーティンが信じたメッセージであった。この命令は、言語的なもので、グループ内で繰り返されることで強化されていた。
 第二の命令は、予言が実現しなかった事実であった。それは洪水や空飛ぶ円盤のように非言語的で非外観的なもので、グループ内では隠されていたが、最初の命令と矛盾していた。
 第三の命令は、信仰体系に対する情緒的な思い入れで、グループのメンバーは、チャネリングの予言や価値観と対立する現実の矛盾に対処できなかった。そして、この矛盾は、統合失調症の「言葉のサラダ」ほど極端ではないにしても、それと同じメカニズムで回避されたのである。すなわち、予言は、現実と矛盾しないように様々なやり方で再解釈された(4-3)

■郊外は核戦争の恐怖が産んだ過去の投資の産物だった

 過去の投資の心理的な事例と共通するダブル・バインドは他にも見られる。ジェームズ・ハワード・クンストラー(James Howard Kunstler,1948年~)は、第二次世界大戦後の1960年代に米国でなされた巨大な投資、郊外の大量建築とマスマーケティングを過去の投資の事例としてあげるが、そこには古典的なダブル・バインドが伴っている。

 この投資には、実は表沙汰にはされてはいない起源がある。パデュー大学のキャサリーン・トービン准教授(Kathleen Tobin)によれば、米国では1920年代からある程度の郊外化が起こり、地方都市に鉄道や路面電車が敷設されることでその拡張が続いたが、1950年代の郊外の建設の大きな波は、大きくはソ連の核爆撃という脅威に対する政府の戦略対応であった。

 コンパクトにまとまった市街地から市民を郊外へと分散居住させる戦略が米国政府に力説され、政府機関の政策決定によって遂行された。けれども、市民の再配置が、戦略上の便宜である事実を表沙汰にすることが不得策であることが政府や軍当局にはわかっていた。そこで、消費者に対しては、郊外型ライフスタイルをブランド化することによってそれは推進された。郊外生活=快適なライフスタイルというイメージは疑問視されることなく米国の大衆文化となっていく。この郊外の過去の投資では、核問題がダブル・バインドを科すことになる。

 第一の口頭の命令は、「郊外の生活=快適な生活」という洗練された宣伝活動手段によって米国人に売却されたことである。
 第二の隠された非言語的な命令は、広告が宣伝した期待を現実の郊外の生活が満たせないという単純な事実だった。
 第三の命令は、ネガティブな結果が郊外型のライフスタイルの産物であることを何百万もの米国人が認めたくない事実からもたらされた。

 問題は、郊外居住を軍事戦略的に正当化していた理由が消え去った以降であった。数十年後。分散された校外生活は、住宅とは離れた職場やショッピングエリアまでの長時間通勤しなければならず、郊外以前には、ほとんどの米国人が知っていた拡大家族やコミュニティの絆から遮断され、社会的に貧しい生活環境から、アルコール中毒、薬物乱用、少年非行、精神病、精神的ストレスが高まっていく。システムのデメリットは明らかになっていた。

 けれども、定義からして郊外は善良な生活と等しいものであった。もし、こうしたネガティブな結果が校外型のライフスタイルのためならば、郊外住宅に金銭を投じたことは悪い選択をしたことになり、嘘を付いて郊外生活をマーケティングした政府当局やマスメディアから自分が騙されていたことを受け入れなければならないからである。そのため、彼らは、自分たちの投資は、広告が宣伝したとおり賢明なものであった、けれども、郊外の環境とは無関係な要因によって悲惨な結果が産まれたと主張する方法を見出した。

 比較的無害なドロシー・マーティンの信者たちの信仰が比較的無害であったのと比べ、あるいは、1950年代や1960年代の校外の主婦たちが静かな絶望を精神安定剤で安定させたのと比べ、この種の集合的なダブル・バインドがもたらす結果は、かなり悲惨だ。そして、2005~2008年の米国の不動産バブルで建てられたほとんどの住宅は新たな郊外開発の形式をとっていたのである(4-3)

■ナチス・ドイツの狂気もダブル・バインドが産みだした

 近世史における集団狂気の最も不名誉な事例、ナチス・ドイツの狂気もベイトソンの理論から分析できる。第一次大戦後のドイツになされた第一の命令は、大戦以前からドイツ文化に浸透していた「世界に冠たる我がドイツ(Deutschland über alles)、ドイツは、国家として隆盛し、グローバル支配を行うべく運命づけられているとのイデオロギーだった。この文化的な力は中世にまで遡るが、ナポレオン以降のロマン主義のナショナリズムによって炎を注がれていた。
 第二の命令は、わずかの天然資源しかもたないヨーロッパの国家には、そうした空想を追求する余裕がないという祖国の敗北が突き動かした非言語的な意識である。
 この政治的な命令と心理的には不可能だとの対立は、古典的ダブル・バインドであった。ナチスは多くの要因によって隆盛したが、その国家行動は偏執性分裂病の臨床事例と著しい類似点を持つ。精妙な自己正当化のための物語、ドイツが抱えるすべての問題のためにスケープゴートを特定して熱狂的に非難する、膨れ上がる誇大妄想とますます華麗なキャッチフレーズ。そのすべてが心理的な防衛機構としての役割を果たした。さらに、それは個人ではなく、集団心理であったことから、ドイツの精神病の破綻によって、ヨーロッパの多くが精神病院となり、武装する患者となってしまったのである(4-3)

■進歩教のダブル・バインドが進歩の放棄を妨げている

 集合的なダブル・バインドの事例はさらにあげられるが、ダブル・バインド理論は、このように誤った方向づけから展開する心理的なトラブルを探究する有用なモデルとなっている。それでは、ピーク・オイルや進歩教はどのようにダブル・バインドで分析できるのだろうか。

 第一の命令は、進歩の神話そのものである。絶えず言葉によって表現される近代産業社会の進歩は有益で必然的なものだとの主張である(4-3)。繁栄も技術も時代とともに高まり洗練されることが期待でき、たとえこの軌道から外れたとしても、それは一時なものにすぎず、まもなくもとに戻るとの信仰、宗教である(4-6)
 第二の非言語的な命令は、産業世界の多くの人々がますます感じている語られない現実である。ここ十年の変化は、どのような意味でも「進歩」よりも、後退や衰退に似ており(4-3)、日常経験がもはや進歩の神話を支えてはおらず、産業化社会がピーク・オイルをすぎていけば、未来にはさらにこの矛盾が強まるというシンプルな事実である(4-6)
 第三の命令は、現代産業社会に浸透している進歩の市民宗教に対する情緒的・知的なコミットメントである。300年も成功してきたイデオロギーが払って来た情緒的なツケにははかりしれないものがある。このイデオロギーこそが、産業国の人々を人類史の最先端をゆくものとし、例えば、20世紀の末に米国にすむ人類のわずか5%が全世界のエネルギー資源の4分の1、原材料や工業製品の3分の1を消費するという不平等な富の分配も許されると規定してきたのである。この命令が、進歩は一時的な現象にすぎず、長期的には進歩の終焉が避け難い事実であることを進歩教の信者が受け入れることを不可能にしている(4-6)。進歩教の教義を問いかけるには、広く普及しているコンセンサスや影響力を持つ様々な組織が支持する近代的ライフスタイルの意義や正当化の源を放棄しなければならない。現代文化に深く浸透するイデオロギーから脱却することは容易ではない(4-3)

■逆説の未来史への教訓~ダブル・バインドは個人レベルでは超えられる

 けれども、このダブル・バインド内にとどまるコストは著しく大きい。仮に、300年の急速な技術的進歩が、私たちの人生の終わりにもたらされるとすれば、産業化社会が今日行っている多くの選択は絶望的に誤っていることになる。そして、廉価なエネルギーや加速的に技術が進歩する時代の終焉に直面するどんな社会も、現在、対処されているやり方とは正反対のやり方で未来に対処しなければならない(4-3)

 このダブル・バインドは集団レベルでは、しばらくは残るであろう。けれども、ここ15年のピーク・オイル・コミュニティが出現していることから、個人レベルでは、このダブル・バインドに縛られる必要がないことがわかる。進歩の神話が持つ情緒的なパワーは強力で、心理的なメカニズムからこの神話を放棄することには抵抗感がある。けれども、産業化社会の多くの人々が、過去に行ってきた集団的な選択の結果や未来の姿に対して問いかけ始めている。ピーク・オイルの影響によって、進歩教の期待と現実とを調和させることはますます難しくなっている。この矛盾によって産み出される認知的不協和によって、未来にはこうした問いかけはますますあたりまえのものとなっていくであろう(4-6)

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) John Michael Greer, In Not The Future We Ordered: Peak Oil, Psychology, and The Myth of Progress, Karnac Books,2013.
(5)ウィキペディア

ベイトソンの写真はこのサイトより
トービンの写真はこのサイトより
ナチスの党大会の写真はウィキペディアより


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