【はじめに】
前々回のブログでは「グリアがヒモに徹しながら、せっせと畑を耕していたのには、そんな理由があったのか!。こうした観点を念頭において、前々回と前回のグリアのコミュニティ論と今回の家事経済論をお読みいただきたい」と書いた。そして、前回のブログでは、自給菜園を行って金を極力使うことを止め「ニーズや欠乏に対処する最もシンプルなやり方は、生物として可能であれば、望むことを止めることだ」(3-6)とまで言ってのけた。けれども、グリアの暴走はこれでも止まらず、「世捨て人になれ」とまで提言する。なんというトンデモぶりであろう。トンデモ本の魅力は、著者が大真面目で真摯に主張すればするほどその気違いじみた発想に大笑いできることにある。今回もグリアの破天荒な発想を多いに楽しんでいただきたい。
■未来へと文化を継承する僧院システム
逆説の未来史19「パイレーツ・オブ・カリビアン」では、ロベルト・ヴァッカ(Roberto Vacca, 1927年~)が『来るべき暗黒時代』(The Coming Dark Age,1973)において、コミュニティについて論じていると述べた(1-4,2-11)。そして、ヴァッカが、コミュニティを考えるにあたって歴史上のモデルとしたのは、中世の修道院だった(1-4)。このように、差し迫る文明の衰退や崩壊に気づいた人たちの間では、中世の暗黒時代の修道院が話題になっている(3-7)。いくつかの文明の没落期において、修道院はまさにヴァッカが想い描いたのと同じ役割を遂行できた。キリスト教の修道院は、ローマ帝国の没落期やそれ以降も生きたタイムカプセルとして役立ち、古典文化の宝の多くが数世紀以上も安全に保全された(1-4)。日本の仏教寺院も同じ機能を果たし、日本の厳しい戦国時代に過去の平安文化を保全した。中国でも仏教や道教の僧院は、繰り返された帝国の隆盛や破滅のサイクルの中で同じことをしてきた(1-4,3-7)。文化遺産は宗教を通じて保存されることが多い。アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee, 1889 ~1975年)が『歴史の研究』の後期の巻で、重要なテーマとして扱ったほどである。トインビーの見解によれば、文明の没落期には、新たな宗教の苗床が形成される。そして、衰退が継続していけば、こうした運動のどれかが文化の大きな力となっていく。それを育んだ文明が完全に崩壊すれば、新たな宗教の存在がその空隙を埋め、古い文明の遺産の残りをサルベージし、その宗教ビジョンの中心となる概念が、新たな文明が形をとり始める枠組みとなっていく(2-11)。したがって、この処方箋には潜在的に価値がある。同じプロジェクトが現代文明の最高の成果を未来への遺産としてサルベージできることは不可能ではない(1-4)。
■僧院は清貧の生活を求めていた
けれども、これが成し遂げられたのは、僧院には今日のライフ・ボート・コミュニティとはまったく違う動機づけがあったからだった(1-4)。ほとんど誰も議論せず、扱いもしなかった修道院の成功の背後にある秘密に注目する価値がある。救助艇のエコビレッジ計画は、未来に中流階級のライフスタイルを保存することを目指している。けれども、これと同じローマ時代のブリテンの裕福な住民たちが、没落や崩壊を乗り切ろうと望んだ贅沢な別荘は長期的には大失敗だった(3-7)。キリスト教の修道院は、中世の暗黒時代にローマの古典文化を保存したが、ローマの中流階級のライフスタイルを維持しようとする人たちがいたわけではない(1-4,3-7)。全く逆で、僧や尼は、当時の農民たちよりも、さらに貧しいライフスタイルを自発的に取り入れていた(1-4)。仏教や道教の僧院、あるいは、歴史上成功したそれ以外もすべての僧院は、非常に貧しい場であった(1-4,3-7)。
それでは、文化の伝承において宗教がなぜ重大な役割を果たすのだろうか。その理由を確かめることはたやすい。社会が解体し、慣習が崩壊し、それまでの価値値が意味を失うとき、文化遺産の維持というタスクを担保するには、強力な動機づけが求められる。そして、宗教は一貫して強力なパワーのひとつだからである(2-11)。
■ユダヤ教は伝統の祭をツールとして文化保全に成功した
紀元前516~紀元前70年までは、エルサレムの丘には、第二神殿(Second Temple)と呼ばれるユダヤ人たちの重要な神殿が立っていた。紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設されたのである。けれども、ローマ帝国のティトゥス皇帝は西暦66年に再びユダヤを攻撃し、西暦70年のエルサレム包囲戦において再びこの第二神殿は破壊される。西壁の下部は神殿の遺構を残す数少ない一部として嘆きの壁として現存している(4)。この第二寺院が破壊された後に、文化消滅の危険に直面するなかで、ユダヤの宗教的指導者は、文化の保存において歴史上最も成功したプログラムを立ち上げる(2-11)。例えば、ユダヤ教にはマッツァ等を食べる「過越し儀式(Passover)」という祭がある。この祭は、モーセにまで遡る。神は、モーセをリーダーとして「約束の地」へと向かわせることとし、モーセのプロジェクトを妨害するエジプトのファラオには十の災いをもって対抗した。十番目の災いは「エジプト国中の初子、家畜の初子であれ、 人間の長男であれ、それらをすべて撃つ」というもので、戸口に印がない家には災いがもたらされることがモーセに伝えられた。そして、戸口に印があった家は災厄を「過越」できた(4)。
ラビのユダヤ教の形が整うと、それは、ユダヤの文化的な連続性を保存することに重点をおいた。過越し儀式では子どもたちは「なぜ今夜はそれ以外の夜と違うのか。なぜ、マッツァを食べるのか」と問いかける。ユダヤ教は、シンボルと儀式を用いて、特殊な歴史経験を具体化し、同化圧力に逆らい伝統を保全してきたのである(2-11)。
■世俗的な物欲よりも精神文化を重視する人々が文化保全には欠かせない
前述したとおり、ローマ崩壊以降のカトリック教会も、暗黒時代に古典文化の多くをサバイバルさせたサルベージ・プログラムを機能させていたが、この動機は、ラビのユダヤ教の創設者を突き動かしていたものとは違っていた。教会は、聖典、神学、教会法を読める聖職者を必要とし、それが、キリスト教文献に精通したラテン語の教養文化(Latin literary culture)を生き残らせることになった。そこで、古代ローマの詩人ウェルギリウス・マロ(Vergilius Maro,紀元前70年~紀元前19年)からラテン語の韻律を学び、未来に文化遺産を保存することへの関心を持っていた(2-11)。キリスト教の修道院生活が黄金時代を迎えるのは、ローマの豊かな経済の遺産が消え去り、物的な富が人間に対する解決策であるとは考えられなくなった西暦6世紀以降のことである(3-7)。
ヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia, 480年頃~547年)は、中世のキリスト教の修道院長で、修道制度の創設者と呼ばれている。ベネディクトゥスは、現在のイタリア、ウンブリア州の小さな町ヌルシアの古代ローマ貴族の家系に生まれ、少年時代は両親とともにローマに住み行政官としての古典的教養を習得したが、キリスト教の福音の教えに共鳴し、神に生涯を捧げることを決意して学校を退学する。そして、ローマを去り、田舎暮らしをしつつ、修道生活を営むことを実践した。数年間洞窟での隠修生活をした後、ベネディクトゥスはラツィオ州の山中の町スビヤコに修道院を設立する。評判を聞いて次々と共鳴者が集まり、ローマ在住の貴族たちもこの修道院に子弟をあずけるようになる。そして、529年頃には、理想とする修道生活の実現のためにモンテ・カッシーノに修道院を設立し、540年頃には「祈り、かつ働け(ora et labora)」という労働と精神活動についての会則を定める。以後、長い間、このベネディクトゥスの発想が中世ヨーロッパの修道制度の基礎となったのである(4)。
けれども、ネディクトゥスが始めた修道院の革命は、言及されることがほとんどないが、そのインスピレーションの多くを初期のエジプトでのキリスト教のエジプト(early Christian Egypt)異端派のギリシアの自然崇拝や多神教、ペイガニズム(Paganism)、そして、ローマのストアー学派から受け取っていた(3-7)。そして、同様の事例は、インドのサンスクリットの書院(sanskrit academies)から、近代早期のスコットランドの吟唱学校(bardic schools)にまで及ぶが、いずれにも共通する特長が見られる。
すなわち、没落の時代には様々な緊急的なニーズが生じるが、こうしたニーズよりも、伝統を保全することに価値観を見出し、実践する人たちがいることが、伝統文化のサバイバルには書かせないということだ。例えば、伝統的ユダヤ教では、困難な時代の中でも「戒律」を維持することが、個人の生き残りよりも優先された。けれども、それは未来の人々が参考になるためにファイルされたわけではない。同じく、最悪の暗黒時代の中を、冷えきって暖房もない筆写室でベネディクト会の僧侶たちは写本作業に長時間をあてていた。修道院の外部では彼らはもっと容易な暮らしを送ることができた。けれども、彼らの価値観からすれば、「神の栄光」の方が、それ以外の世界のどの宝よりも優れていた。例えば、殉教者は賛美歌を歌いながら生きたまま焼き殺されるが、この脱世俗的な価値観は、まだ決して目にすることがなき未来へと知識を書き写して、保全伝達しようとする価値観と同じ感覚のものなのである(2-11)。すなわち、文明の遺産を生きて保つために必要とされる経済的に非生産的な活動に必要とされる時間や努力を解き放つため、より高き目標のために極貧を包含することはまさにこの意欲なのである(1-4)。最小限度まで物的なニーズを減らすとき、生活水準を維持するために費やされないエネルギーが、何か他の有益なことのために働く。それが修道院が文化を残すという成果をあげられた秘密だった(3-7)。すなわち、伝統を保全するためには、日々の努力を励起するほど有力な情緒的な駆動力から引き出されなければならない。そして、過去の文化保存の典型例は、ほぼすべてが宗教的な信仰や情熱からその動機づけを引き出している(2-11)。今、おそらく、同様の運動が望まれている(3-7)。
■ロハスの背後にもスピリチュアルな伝統がある
逆説の未来史34「需要と供給の法則の限界」では、ポール・H・レイとシェリー・ルース・アンダーソンによる『文化的創造性を持つ人々』(Cultural Creatives)がロハスのベースになったと述べた。けれども、『文化的な創造者』との題名がついた2000年の書物の熱心なレビュアーの誰も、レイやアンダーソンが『文化的な創造性を持つ人々』と太鼓判を押したのと同じライフスタイルが、1980年に米国の社会心理学者、社会運動家マリリン・ファーガソン(Marilyn Ferguson, 1938~2008年)が『アクエリアン革命―80年代を変革する透明の知性(The Aquarian Conspiracy)』(1981)実業之日本社で、さらに、1970年には米国の社会学者チャールズ・ライク(Charles Reich, 1928年~)が『緑色革命(The Greening of America)』(1983)早川書房で主張していたことを思い出さなかった(2-11,4)。ライクは1960年代のカウンターカルチャー運動に影響を与えた人物である(4)。
しかも、1820年代には超絶主義(transcendentalism)が全盛だった(2-11)。「超絶主義」とは、思想家であり詩人でもあったラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson,1803~1882年)が広め、米国のニューイングランドで栄えた個人の絶対的な尊厳を重視する思想運動である。エマーソンの友人であったヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau, 1817~1862年)は、これを身をもって実行し、文学として表現した(4)。要するに、同じアイデアは、19世紀前半からあり、以来、米国の知識階級から受け入れられてきた(2-11)。米国では、植民地時代以降、宗教、政治、知的サークルとあらゆる場で不満を抱く人々のグループが、来るべき新世界のために原野にコミュニティを築く準備を始めていた。ペンシルバニアにおけるバラ十字会員のコミューン(Rosicrucian communes)や超絶主義、モルモン教他、あらゆる夢想家たちの集団がよりよい世界に到達できると確信していた(1-4)。
■文明の没落期には新興宗教が信者を集める
グローバルな文明が崩壊した以降には、中世という同様のシステが、文明崩壊の結果として出現する。例えば、10世紀の平安時代の日本の内破は、ヨーロッパ・モデルと極めてパラレルな封建制度を生じさせた。日本の武士道の言語を、これに匹敵するヨーロッパの騎士道の専門用語に翻訳することは可能だし、逆もまたそうである(3-2)。そして、産業時代がその終焉に向かうにつれて、新たな宗教運動が立ち上がり、数多くの信者たちを引きよせていく。例えば、ローマ帝国の衰退期の西暦250年に、あるローマの学者が、これから圧倒的な人気を集めることになる宗教を予測しようとしていたとしよう。この学者は、数多くの競合する宗教を分類すうえで頭を抱えたに違いない。当時のローマ世界には、国内外を含めて、新たな宗教運動が満ち溢れていたからだ。多くの宗教から、キリスト教やユダヤ教の将来の運命を区分できるだけの特別な要因はなかったし、中世のイスラム世界へローマの古典文化を継承するにあたって最大の役割を果たしたイスラム教は存在さえしていなかった。
私たちは、まだそのプロセスの初期段階にいる。これと同じように、現代の文化を拾いあげ未来へと伝承できる宗教は、現在は、ケンタッキーのコミューンで、カリスマ的な教祖の周囲に参集した数十人からなる運動かもしれないし、ブラジルやバングラデシュで設立され、将来、欧米で大衆運動へと変わる小さな宗派かもしれないし、まだ教祖が誕生していない始まったばかりの潮流かもしれない。ただ、ひとつ確実に予測できることは、こうした宗教運動が、今日の文化遺産を利用するとしても、現代の一般通念とは矛盾した形でそれを作り変えているであろうということだけだ(2-11)。
■健康はオルタナティブ医療で自ら守る
逆説の未来史17「過疎化する未来」では、公共医療の崩壊によって金持ちしか医療を受けられなくなり人口が減少していくと書いた。この状況に対するグリアの対応策も自衛である。したがって、危機が到来すれば、予防医学や救急医療・衛生について学び、自分の健康は自分でケアすることで対応するしかない。医療は本質的な職業だが、誰もが習得することが必要になる大切なスキルのリストにもあげられる。そこで、大切になるのが代替医療である。ハーブ療法や鍼治療が想い浮かぶが、オルタナティブな医療運動の一部をなす古い療法のほとんどは、工業社会が誕生するはるか以前から発展し、ごくわずかな資源を持続可能に用いて、病気を治療してきた。したがって、エネルギーが不足する脱産業化時代には、いま以上に適したものになる。
もちろん、代替え医療にはいんちき療法もあるが、医学界が代替医療を批判する背景には、自分たちの市場を守りたいという思惑がある。そして、機能しない場合でさえ、プラーシボ効果は、今日の慣行医療の大黒柱である有毒な薬品や暴力的な手術よりも害を引き起こす可能性が少ない。なればこそ、多くの人々が、慣行医療を捨て去り、様々なオルタナティブや伝統的な形式の医療に向かっている。その多くは、トレーニングを多く受けなくても、学び実施できる。その強さや限界を学び、軽い病気を治すためにそれを使い、自分で健康を守るノウハウを身につける必要がある(1-4)。
■避けがたい死という現実を甘受する
けれども、効果的な公衆衛生手段を欠いた状態では、オルタナティブであれ、それ以外の最良の医療であれ、限界があるであろう。衛生、きれいな水、清潔で健康的な食べもの、あるいは、今日私たちの多くがあたりまえのこととしている公衆衛生のそれ以外の基礎は、どの医学でも代替えできない。これらすべてが、脱工業化する未来には不足する。病気や死は絶え間なく続き、なじみある存在となるであろう。
おそらく、あなたは自分が期待するほど長生きはできないし、延命のために先端医療もいきなり利用できなくなることを受け入れなければならないだろう。その現実とともに生きることを学ぶことが、工業化時代の黄昏の中では、本質的なスキルとなるであろう。死が他人の身に降りかかるだけのものだとするファンタジーを描く余裕はもはやない。けれども、工業化社会では多くの人たちが、死におびえているが、死は人間にとって避けられない現実で、脱工業化世界においては、それは贅沢なのだ。したがって、避けられない死にも慣れてほしい。そして、自分自身の死と折り合いをつける過程で、人間についての本質的な何かをまさに学ぶであろう(1-4)。
■逆説の未来史への教訓~ピーク・オイル以降の文明=モノに執着しないスピリチュアルな生き方
E・F・シューマッハーの死後に出版された最後の著作小島慶三、斎藤志郎訳『混迷の時代を超えて―人間復興の哲学(A Guide For The Perplexed, Harper Perennial,1977)』(1980) 佑学社は、経済の背後にある課題を扱い、人生という抜本的な問題を問いかけている。シューマッハーは、どのように定義しようとも物的な富は、人間の限られたニーズしか満たすことができず、モノの蓄積に適応した人生は、人間の可能性を開花させることに失敗すると認識していた。豊かさの時代に刷り込まれた思考習慣によって、私たちはこうした可能性のほとんどを認識できずにいるが、収縮する経済の条件下においては、モノをより必要としないほど、運の上下にさほど脆弱ではなくなる。物的な富に対する執着を手放す動きは、ピーク・オイル以降の文明とまさに共通する(3-7)。そして、脱工業化する世界において、科学が生き残るための最大の課題は、科学とスピリチュアルとの領域が曖昧化することなのだ。現代社会の最大の知的産物である科学を未来へと伝承するために、この壁を克服することが、私たちの時代の最大の挑戦のひとつとなっている(2-11)。
【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4)ウィキペディア
ベネディクトゥスの画像はウィキペィアより
ファーガソンの写真はウィキペィアより
ライクの写真はこのサイトより
シューマッハーの写真はウィキペディアから