没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

有機農業で世界が養えるか④

2009年10月29日 23時49分40秒 | 有機農業

論客登場

 有機では自給できない、という強力な論客を紹介したい。カナダのマニトバ大学バーツラフ・スミル教授だ。だが、スミルは単純な反革命・反動分子ではない。

 スミルの凄みは、人間が生きるにはどれだけのエネルギーが必要かという切り口から、生産・流通・加工・消費・排泄と農業に関わる物資フローを抑えることで、農業をエネルギーシステムとしてトータルに描きだしていることだ。これは、システム思考フェチ人間には実になじむ。

 スミルは、とかく農学系の人間がア・プリオリに信じ込んでいて、問いかけようともしない新たな論点を持ち出す。

 例えば、食料自給率が何で決まるのかを御存知だろうか。生産と消費カロリーのバランスだ。有機農業で生産がアップしない。だから、有機では自給できない、という論理は関数の生産面だけしかみていない。消費カロリーが少なくても人間が生きてゆけるとすれば、それも人間の健康な範囲内でなんら支障がなければ、自給率そのものがガラガラと前提から崩れてしまう。スミルは、それをやった。

 例えば、日本の自給率40%は2551キロカロリーを前提に想定している。だが、スミルは米人がせいぜい2000キロカロリーしかとっていないと主張する。このスミルの数値を入れれば、自給率はたちどころに45%にアップしてしまうのだ。どれほど、これが大変なことかがわかるだろう。

 さらに、スミルは配合飼料で生産する畜産や先進国での大量の肉消費を問題視する。

「あえて言う、過剰な肉食はカスであると」

 スミルからすれば、肉を大量に食ってもさほど意味がない。尿として無駄な蛋白質は排出されてしまうからだ。この路線の究極の選択肢としては、サゴヤシという炭水化物だけしか食べないのに、なぜか筋肉ムキムキのニューギニア高地人があるかもしれない。彼らが本当に腸内で窒素固定をしているかどうかはわからない。だが、尿中に蛋白質がほとんど含まれないことはわかっている。

 だが、トータルとしては、人類は肉食系だ。アウトスラロピテクスの頃から、その食生活に動物性蛋白質がかなり入っていることはわかっている。だから、誰もがベジタリアンになることは難しい。とはいえ、モノには度合いというものがある。

「米国人の肉食は異常だし、それをいまの地中海のギリシア料理程度にするだけで世界はかわる」

 そうスミルは主張してみせる。

 スミルは驚くべき程、博識だ。ホームページをのぞいて見れば、江戸時代の大豆食についてのエッセイもでているし、日本の経済の動向についても盛んに言及している。インタビュー記事では、村上春樹も愛読書だと語っている。

 これほど大学者が詳細な検討をしたうえで、「レスター・ブラウンが言うような食料危機を恐れる必要はなんらない。地球は十分に養える。だが、化学肥料には依存し続けるであろう」と主張しているのだ。この言説は傾聴に値しよう。

 有機農業フェチが戦いを挑むのであれば、重箱の隅を突く数値の間違いを指摘することで、難癖を付けるアンチ有機のペテン論者ではなく、スミルのような強大な論客でなければなるまい。

 だが、スミルはもう一つ重要なことを指摘している。マメ科作物による窒素固定の可能性だ。私からすれば、このあたりのチェックがスミルには若干弱い。

 ということで次回は、化学肥料とマメ科の窒素固定とどちらが環境に優しいのか、そして本当にマメ科作物の生物窒素固定だけで地球が養えるだけの窒素が確保できるかどうかを検討した論文を紹介する。なぜなら、それは、イコール、有機農業で地球が養えることにつながるからだ。




 工業化される以前には、農業の収量を最も制約していた物質は窒素だった。この壁を突破できたのは、ハーバー・ボッシュのアンモニア合成法だけだ。窒素肥料への依存度が高まることは、生物圏内の窒素循環に人間が大きく干渉することになる。だが、これには、二つの別々の役割がある。豊かな国では、食料、とりわけ家畜飼料の過剰生産を助け、農産物の輸出を増やすことになる。だが、世界でも最も人口が多い国の三分の一での窒素肥料の使用は、栄養不良と適切な食との違いを生み出している。我々にとっての窒素需要、すなわち、タンパク質がどれだけ必要かは何度も見直しされ、まだ不明確な部分もあるままだが、タンパク質の平均摂取量が、豊かな国では過剰で、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの何億人もの人には不十分なことは明らかだ。この食におけるタンパク質の格差をなくすことも必要だが、より良い農業の実践だけでなく、より高効率的な食やいま行き渡っている食を段階的に変えることで、将来的には窒素肥料のグローバルな使用量を抑えられよう。結果として、窒素投入量をなんら大きく増やすことなく、増加する世界人口に十分な栄養を供給することは可能であろう。

はじめに

 フォン・リービヒ(Von Liebig)は、その最も有名な著作で、農業の主目的が、消化可能な窒素の生産であることを指摘してみせた(1)。これは、工業化以前のあらゆる伝統農業にとっての挑戦で、作物用の窒素を確保するには①有機廃棄物のリサイクル(主に作物残渣、家畜と人糞)、②窒素固定マメ科種を含む輪作、③緑肥としてすき込まれるマメ科カバークロップの作付け(アルファルファ、ヤハズエンドウ(vetch)、クローバー)と3つの方法しかなかった。気候条件から通年作付けができる最も集約的な地域でこれらを利用しても窒素は120~150kg N ha/年しか提供されなかった(2)。

 自然状態ではこれはさらに低い。ベック(Buck)の調査によれば、20世紀前半の中国では、有機物のリサイクルとマメ科作物からの窒素は平均してわずか約50kg N /haだけで、ベジタリアンの食生活が普及していたとはいえ、この収量では5.5人/haしか養えなかった(3)。

 だが、今の中国では、無機窒素の施肥量は平均約200kg N/ haで、最も集約的な農業が行われる州では、米の収量は倍増し、400kg /N ha以上で、現在、国では10人/ha以上が養えている。その総食物エネルギーは日本とほぼ同じで、20年前の食事と比べ動物性たんぱく質は倍以上なのだ(2,4)。ボーローグ(Borlaug)はエネルギーのアナロジーを用いて窒素肥料がこの大きな農業の変化で果たした役割を要約している。「もし高収量小麦と米品種が緑の革命に火をつけた触媒であれば、化学肥料は、前進を突きを動かした燃料だ…」 (5)。

ハーバー・ボッシュのアンモニア合成法への依存

 この転換は、ハーバーの1909年のその元素からのアンモニア合成法の素晴らしい発明と、この発明のボッシュによる急速な商業化で、1913年にアンモニアの大量生産が可能となった(2)。図1に示したように、窒素肥料の施用は1950年以降に急増し、1980年代後半には全世界で約8000万トンに及んだ。わずかに停滞した後、1990年代後半には8500万トンとなっている(2,6)。以前には巨大であったソ連の生産が崩壊して以来、再び、米国が世界第2位の使用国で、中国が合成窒素肥料の世界最大の生産者と消費者となっている。今後、数10年もそうであろう。この無機窒素肥料は、今、中国で最も集約的に耕作される沿岸部にある州の圃場では、米国の約45%と比べ養分の約80%を供給しているのだ(2)。

 全世界の農業での窒素フローを詳細に見れば(7)、1990年代の半ばでは作物の全養分の約半分(44~51%)が化学肥料から提供されていたことがわかる(図2)。共生菌や独立栄養窒素固定細菌(diazotrophs)がどれほど寄与しているのか、あるいは、リサイクルされた有機物中の窒素量がどれほどかは定量化しにくい。

 このため、食物中のタンパク質にある約85%窒素、世界の食のタンパク質の約40%が、現在ではハーバー・ボッシュのアンモニア化学合成法に由来する農業(作物で直接、飼料で生産される動物食料で間接的。残りは牧草と水産食品)からもたらされている。1900年には、チリ硝石、コークス炉ガスから得られる硫酸アンモニウム約50万トンが世界中の作物に適用されていたが、無化学肥料農業が約8億5000万haを耕作することで16億2500万人を養っていた。

 当時の農業と収量を現在の15億haまで広げてみると約29億人を養える量でしかない。放牧や漁業で得られる食料を加えても約32億人しか養えない。1900年時の収量で現在の平均的な食生活をまかなおうとすれば、約24億人、現在の人口の40%しか食べられない。つまり、ハーバー・ボッシュ法は、現在、存在している人類の約40%を食べさせていると結論できる。野菜中心の食事であっても化学肥料以前の農業では、現在の約半分の人口しか養えないのだ(2)。

 とはいえ、こうした数値は、化学肥料への依存度の点では正しいが、過大評価していると同時に過小評価もしている。今、すべての窒素肥料の約35%は豊かな国によって消費されている。だが、その施肥量は半分、あるいは2/3にさえ減らせるし、それでも十分な栄養を保証できるであろう。化学肥料の大量使用は、不必要な高蛋白食を支えているのであって、栄養不良や快適な食料の供給での違いを産み出しはしない。それは、北米からの大量の輸出食料の過剰を生産するのを助けているだけだ。1990年代後半では米国から輸出される農産物が国内生産量に含まれる全窒素の約1/3を含んでいた(2)。つまり、米国でかなり施肥を削減することは、この典型的な食事を変え、農業輸出を大きく弱めることとなる(8)。

 これとは対照的に、低所得国は、現在、全窒素肥料の65%を使用しているが、その食事でのタンパク質の供給は不十分なままにとどまっている。中国やブラジルは食料生産で成功しているが、厳密な食料配給によって、完全に平等に国民が食料にアクセスできるときにのみ、たとえ国が停滞したり、アフリカのように落ち込んだとしても、タンパク質が欠乏することは全くないであろう。

 とはいえ、世界的にタンパク質がどれほど欠乏しているのかの実際の範囲を定量化することは容易ではない。約100年は、消化性のよい窒素がどれほど必要かは基本に了解されてきたが、いまだに我々は、年令や性別、活動によってどれほどタンパク質が必要なのかを議論しているからだ。

消化のよい窒素の人間のニーズと供給

 窒素はアミノ酸の必須成分で、タンパク質合成に必要で、すべての代謝組織や有機体の化学的性質を制御する酵素の合成にも必要である。窒素は遺伝情報がおさまっているヌクレオチド核酸(DNAとリボ核酸)にも存在する。成人はタンパク質中の8種類のアミノ酸を合成できない。だから、必須化合物を食べ物から摂取しなければならない。子どもには、さらに1種類の必須アミノ酸が必要である。アミノ酸は15~18%の窒素を含み、一般に平均値として16%が用いられる。おまけに、窒素はホルモンや神経伝達物質の合成にも必要で、肉体は、化合物が損傷したり再利用するために少量だが一定のタンパク質のロスを代替しなければならない。また、排泄、尿、汗、皮膚や髪やツメが切断されることで(9,10)、窒素は失われる。排泄でのロスは成人で(41~69mg kg、平均53mg kg)とかなり一定し、それ以外のロス約8mg/ kgが加わる。

 相対的に必要なタンパク質量は、幼年時代がピークとなる。身体の組織合成やタンパク分解率がいずれも高いからだ。アミノ酸の必要量を設定する際には、乳児の成長を正常に支えるミルクの摂取量が使われてきた。そして、成人のタンパク質の必要量は、まずタンパク質が少ない食事とそれを超える食事、そして、収支バランスがゼロとなる適量摂取での研究からほとんどが引き出されてきた。

 だが、脂肪とは違い、タンパク質は体内に格納できず、過度に摂取しても、窒素を含む代謝物質(metabolites)が多く排泄されるだけだ。例えば、タンパク質の摂取量で最も初期に推薦された数値は1桁も異なる。1904年に、チッテンデン(Chittenden)は、成人で30~50g/日のタンパク質量が適切だと結論づけたが、ルーブナー(Rubner)は165g/日がドイツ軍人の標準であるべきだと主張した(11,12)。この50年後に出版された推薦では、幼児で理想的なものは3~4g/体重㎏、ティーンエイジャーでは1.5~3g、成人では0.3~1gとなっていた。FAOが最初に設けた専門委員会は、タンパク質の必要量を乳児から6カ月児までで2g/kg、成人で0.35g/kgと設定した(13)。だが、10年も経たないうちに開かれた二回目のFAOのアセスは、2~4歳の子どもの率をわずかに下げたが、成人の用件は60%あげた(14)。こうした数値に基づき、FAOや他の国連機関は、グローバルなタンパク質の危機が不気味に迫っていると信じていた(15)。これは、まもなく、大きな懸念となると示されていたのだ。
だが、タンパク質の必要量についての三回目のFAOコンサルテーションは、以前に変えた部分をまた逆とし、12歳以下の子どもの量をあげ、成人の境界率を下げることを推薦した(16)。そして、1985年にはFAOは、WHOと国連大学と連携し、成人で0.6g /kg、その後は多様な国民の需要をカバーするために0.75g/ kg まであげた(9)。どのように推薦が変わったかは図3で示したとおりだ。FAOが率いるアセスメントのタンパク質の必要量の最新数値はまもなく発行される。

 さて、推奨される摂取量は、すべて必須アミノ酸の適当量と容易に消化ができるものを含む理想的なタンパク質について表現されている。卵と牛乳、肉と魚のタンパク質はこの二要件を満たす。だが、これとは対照的に、植物性タンパク質は少なくとも1つの必須アミノ酸を欠く。穀物はリジン(lysine)、マメ科植物粒でメチオニン(methionine)とシステイン(cysteine)だ。しかも、植物性のタンパク質の多くはミルクや肉よりも消化しづらい。正味のタンパク利用率、アミノ酸スコア(amino acid score)(品質基準)や消化性は、典型的な米国の「混食」では80%以上と望ましいが、主要穀物が中心となるアジアの野菜食では50%以下かもしれない(17)。こうした食事で育つ子どもは、ミルクか肉タンパク質での1.0~1.1g/kgではなく、2.0~2.3 g/ kgのタンパク質を消費するべきだろう。

 しかも、100年もの研究がされた後でさえ、食事のタンパク質の必要性ではわからないことが残っている。おそらく、最も注目に値する事実は、FAO/WHO/UNUの委員会が共同提案された成人向けのアミノ酸の要件値が、現実の人間の栄養を考慮すると疑わしいとの結論をMITの研究グループが下したことだろう(18)。すべては正しい「混食」で満たせるということがずっと信じられてきたのだが、この意見と見解を異にし、グループは特異アミノ酸の成人要件は子どもの必要量よりもずっと少ないとする。これが、FAO/WHO/UNUが共同推奨したものとは大きく異なる、成人用の新たな一連のアミノ酸要件や新たなアミノ酸要件パターンを提案した理由だ(19, 20)。成人用の一時的なアミノ酸の要件パターンは、プレ学校(2~5歳)の子ども用の共同FAO/WHO推薦と類似している(21)。また、20世紀中にはタンパク質の必要量は身体的活動では変わらないと信じられてきた。だが、最近の証拠から、こうした要件が定期的な耐久力訓練に従事している人では高められるのを示す(22)。

 もし、我々が真にグローバルであって、こうした不明確さも問題とはならない高度に平等主義者の文明であれば、誰しもの十分なタンパク質はある。FAOの食料のデータベース(23)と食品の標準的な栄養価を用いて(24)、私は、1990年代の半ばにの全世界の食用作物の収穫量の窒素が約1600万tだと計算した。肉と乳製品の700万t以上を加え、約200万tは海洋と淡水漁獲と養殖漁業から来ている(2) (図4)。この合計約2500万t 窒素は、平均約75g/日・人のタンパク質を提供する。

 だが、豊かな国のタンパク質は、平均約100g/日・人で、うち、動物性食品が約55g/日・人を含む。国による違いはわずかで、明らかにタンパク質が過剰だ(25)。これとは対照的にアジア、アフリカ、ラテンアメリカの低所得国では、平均70g/日・人が広まり、動物性タンパク質は約20g/日・人だけとずっと少なく、これは実質的に国内と国際格差を隠している。こうした摂取は、もっと公正な分配が適切であろう。

 つまり、実際の世界は、暮らし向きが良い社会経済的集団、男性や大人達が不平等な食料を支持し、貧しい世界中の何億人もの人々、そのほとんどは子どもたちが、健康的で活力に満ちた生活をおくるため以下のタンパク質しか摂取できないことを意味するのだ。

 最新のFAOのグローバルな栄養不良のアセスメントによれば1997~1999年で、世界人口の約14%にあたる8億1500万人が栄養不足だ(26)。豊かな国では栄養不足の人々の割合は3%未満だが、サハラ以南のアフリカのいくつかの国では60%、あるいは70%と高い。平均的な食事にはたいがい50g/日以下のタンパク質しかなく、うち、動物性のものは5~10g/日と少ない(25)。インドと中国の栄養不良率は、約20%と10%強で、世界全体の約4分の1以上の2億だ。栄養不足の人々が最も多い国はインドで、亜大陸全域に及ぶ。中国では栄養不良は、ほとんどが痩せた北西部の乾燥地帯や南西の内陸部の山岳地が多い州に集中し、計約1億4000万人である。

 さて、前節では、食物エネルギーを十分に摂取できない人々について述べている。だが、この不足はタンパク質供給不足と常に同時起きているわけではない。タンパク質不足を正確に反映するのは、低体重や成長不良と痩せた子どもの数であり、最新のFAOの世界食料調査は1990年代前半で、こうした子どもの数をそれぞれ、約180、215とし、約5000万人としている。最大の絶対的シェアは南アジアで、東アジアと東南アジア、サハラ以南のアフリカが続く(27)。保守的な予測でさえ世界人口が今後50年で約50%成長すると見ているので、こうした大きな数値を減らすことは、実質的には、十分な食事用のタンパク質を供給するという来たるべき挑戦の中では小さな部分となろう(28)。

 さらに、アジア、アフリカ、ラテンアメリカでの既存のタンパク質不足を減らし、21世紀の前半にさらに30億人に適量の消化のよい窒素を確保することは、窒素肥料の環境影響を減らす必要性でより困難となろう。

 その適用は20世紀最後の四半期での元素のグローバルな生物地球化学的循環への人間の干渉の最も大きい源で(2, 29)、その使用は必然的に増加するであろう。FAOは、2030年までの肥料使用と作物生産との基本的に安定した世界的な関係を仮定し、2000年水準を約40%以上の窒素肥料を予測する(30)。高まる窒素施肥の環境影響をマネジメントすることは、主にこの元素が農生態系から流出することから難しい。

食物連鎖における窒素のロス

 グローバルな農生態系での原則的なフローやストックをすべて描くと図2のようになる。1990年代半ばでは、世界の全耕作地は、化学合成肥料、生物固定(biofixation)、有機物のリサイクル、潅漑用水、種子や大気降下物から約1億7000万tの窒素を受け、収穫された作物には約6000万tの窒素が組み込まれ、その残渣(圃場から取り除かれるか直接リサイクル)には2500万tの窒素が含まれる(7)。つまり、作物の光合成が回収するのは平均すれば利用可能な全窒素量の約50%(45~55%)だけなのだ。これを大枠の指標と考えなければならない。実際の窒素の回収率は、作物や農業生態系だけでなく、天候や農法にも影響されるし、同じ圃場での同じ栽培をしていても毎年違う。

 温帯の農業生態系での窒素バランスの研究からは、全窒素で50~60%が回収されることが確認できる(31)。とはいえ、これを無機肥料からの平均窒素摂取率と取り違えてはならない。このことは窒素同位体N15を用いれば、最も確実だ。フィールド調査での、米、トウモロコシ、小麦の窒素肥料の典型的な窒素回収率は50%未満であることが示されるし、アジアの米は平均して30%ほどなのだ(32?34)。こうした率は、実験圃場(small plots)で測定されるものよりかなり低い。

 バクテリアで固定され、有機物に固定された窒素のロスは低いため、作物の全体的な窒素回収率は、施肥肥料の窒素よりも高い。とはいえ、施肥された窒素肥料の全体的な損失が50%以下であったとしても、これは、4000万t以上の窒素が、その圃場から大気中や水域に毎年流れることを意味し、実際の合計は、10~15%より高いであろう。

 土壌中の窒素は、硝化作用や脱窒素作用で失われ、脱窒素作用で大気に戻っていく。農地土壌からのNOとN2O流失の測定率は数桁に及び、ほとんどトレースできないものから約10kg N/ ha・年に及び、それは当初施肥量の0.5~2%に及ぶ(35,36)。アンモニア肥料の施肥に続き、NH3の揮発が大きな養分ロスを引き起こす。すぐに圃場にまかれる前に厩肥も多くの窒素成分を失う。

 尿素が直接水稲穂場に撒かれるときに揮発損失は特に高い(37)。そうした状態では、全体的なロスは、施肥した窒素の60%、あるいは70%まで及ぶ。可溶性の硝酸塩の流出と土壌侵食は、地下水、河川、湖沼、沿岸水域に大量の窒素を移し、栄養物が重大な富栄養化を引き起こす場合がある(38,39)。窒素の溶脱率は、施肥水準、使用される化合物(NH3はほとんど溶脱しない)、土層の厚さ、透水性、温度、降水量による。例年の溶脱による損失は、乾燥~準無味乾燥地でのごく少量から、北西ヨーロッパや米国中西部の大量に施肥する作物圃場での50kg N/ha以上に及ぶ。
灌漑作物ではさらに溶脱率が高い(40, 41)。植物の先端での損失は、旧組織の落下、老化葉、葉からの揮発等の組み合わせで、満開後の2~3週内にほとんどが起こり、収穫期には、それがピーク時の窒素成分の10~30%と簡単に評価できる(42, 43)。この植物先端からのロスは、脱窒素作用を合わせたものと同じほど大きいかもしれない。

 施肥した窒素肥料の圃場損失を抑える目的で適切な農法を広範に実施することは、環境への施肥の悪影響の緩和に寄与し、こうした手段の多くがこの冊子の他の場所でもレビューされている(30, 32, 44, 45)。これが成功していることは過去20年で既に明白で、多くの国では収量が増え続けていても、作付面積のあたりの窒素施肥量は一定か、あるいは低下すらしている。米国のトウモロコシ収穫は、窒素施肥の効率化の優良事例で、1980年の窒素当たりの収量が42kg/NKgが2000年には57kgに増えたし(45)、英国の秋まき小麦や日本の米もより効率的な窒素利用の他の優れた事例だ(2)。

 作物窒素の収穫後のフローを描くには、まず、作物や非食用作物から種子内の成分を差し引き、次に、家畜飼養での必然的な新陳代謝のロス、食品加工や小売での廃棄や損傷にを計算しなければならない(図4)。こうして、作物食品で消化のよい窒素約1600万t と飼料で生産された家畜食料での500万tの窒素が残る。結果として、作物は直接・間接的に消費者に届く、全食料窒素2500万tの約85%を供給する(46)。

 これは、毎年約2300万tの窒素が人間から排出され、この廃棄物のほとんどが直接下水に放出されていることを意味する。アフリカ以外の全大陸では50%以上の人々が現在都市に住んでいるからだ。だが、残念なことに、下水廃棄物のほとんどは、直接河川や沿岸水域に放流されたり、不適切に処理されている。この窒素は、急速に脱窒されることもあるが、水圏生態系を硝酸汚染していることもある(38, 39)。

 工業的な作物を生産用に圃場で受け取られた栄養物を引き算した後に、1990年代の半ばの世界食料生産の以下の系列がある(図2と4)。

 食用や飼料生産農地には、化学合成肥料での約7500万t窒素を含めた約1億6000万t の窒素が投入されている。うち、初期投入の1/3にあたる約5300万t窒素が、最終的に人間や家畜が消費する作物へといく。そして、作物や家畜飼料となるのは、約2100万tの窒素、あるいは初期投入の13%だけだ。これを逆に表現すれば、作物の形での食料や動物性食料での食用の1kgの窒素を生産するには、全地球平均ではハーバーボッシュ固定、生物固定、有機物のリサイクル、大気降下物を通じて圃場に約8kgの窒素供給が必要であることを意味する(47)。

 収穫後の窒素は、作物と肉とでは大きく異なる(図4)。食用作物では約70%の窒素が、消費用の加工やロスの後でも利用可能だ。これとは対照的に、飼料内にある約3300万tの窒素は、肉用食料で500万t の窒素しか生産しない。これは、肉、卵、乳製品での食用窒素1kgを生産するのに平均して約7kgの飼料窒素が必要なことを意味する。ここに、圃場外のフードシステムからの窒素ロスを減らす大きな機会があることが明らかとなる。つまり、家畜食料のより効率的な生産、ゆるやかな食の変化が、特に役立つわけである。

家畜飼料と食事の変遷

 ヨーロッパ、北米、オセアニアと豊かな国々では、国内消費される以上の食料を生産してしまっている。平均した食料エネルギー供給量は3200 Kcal/日・人で、米国では3600 Kcalを越す(25)。その一方で、米国の個人食生活の連続調査で実際の摂取量を見てみると、全年齢平均で2000Kcalほどしかない(48)。つまり、こうした国では生産した食料の25~55%(約平均30%)を無駄にしている。日本の状況はいく分かは良く、旧世代では2900Kcal/日・人と(25)安定している。また、小売や家庭での廃棄も必然なのだが、20%を超すとなるとまことに不道徳だ。

 人類は雑食性だから、そのままでは菜食主義を圧倒的多数の人々が選択するようにはならない。だが、ずっと窒素効率をよく動物性食品を消費するやり方はたくさんある。動物性食品のタンパク質コストを詳細に比較すれば、飼料タンパク質を最も効率よく食品タンパク質に変換するのは酪農生産であることがわかる(4, 49) (図5)。養殖する草食魚類や卵、鶏肉もこれに近い。豚肉の生産は、ブロイラーのたった半分の効率で赤身肉を提供する。

 食品用のタンパク質供給で最も非効率なやり方は、家畜飼料で牛肉を生産することだ。牛は大型動物で、妊娠や授乳期間も長く、雌の繁殖に多くの餌が必要で、その基礎代謝もブタよりも高いからだ(4)。非反すう動物種(nonruminant species)には消化できない草だけを食べさせたり、作物や食品加工品の残渣(藁からふすま、油糧種子ケーキからグレープフルーツ皮まで)で飼育する限りは、効率性は関係ない。だが、いくつかの牧草は、さらに化学肥料窒素を施肥することで肥沃とされている。したがって、農業生態系における窒素ロスの抑制を最優先する社会はどこであれ、この2種類の牛肉だけを生産することであろう。これとは対照的に、現在の通常の生産では穀物(ほとんどトウモロコシ)や大豆の混合物が飼料となっているが、濃厚飼料だけでの牛肉生産は、全体的な窒素利用に最大の影響をもたらす。

 米国産牛肉のほとんどは、実際には、草と穀物飼料の組み合わせで生産されている。1990年代後半では、1kgの肉牛用の生体重を生産するための濃厚飼料の平均量はブロイラーの5.5倍だった(49)。ブロイラーでは体重で食用になる割合が大きいため、赤身肉では約7.5回にあがる(図5)。もし、牛のほとんどがほとんど窒素肥料を施肥しない大豆で給餌され、ブロイラーが大量に施肥されたトウモロコシでのみ飼育されるならば、牛肉の新陳代謝(metabolic)の不都合はかなり減るであろう。実際には、家畜飼養では同様の配合飼料使われる。エネルギー需要のためのトウモロコシ、タンパク質需要のための大豆ミールが不都合なまでに残るのだ。

 通説とは逆に、高収量の米国産大豆は、実際にはかなり窒素を使っているのかもしれない。それら自身の窒素需要を満たしたり、その後の非マメ科作物用に残された幾分かの養分を残すのではなく、最大では80kg N /haを取り除くのだ(50)。これが、図5の20%をすべて説明する(49)。現在大豆が植えられている米国の地域では、全国的には平均で約25kg N/ha、ほとんどアイオア州のほとんどでは55kg N/ haが施肥されている(51)。

 米国での最新(1999)の平均飼料転換率を計算すると(49)、ブロイラーと比べ、米国の牛肉は、赤身肉生産に5~6倍もの餌エネルギーの必要とし、その生産は飼料生産で5~6倍の窒素肥料を失う。二つの窒素効率が悪い肉、牛肉と豚肉が現在、平均で米国の動物性タンパク質の約2/3を占めるのだ。もし、その高タンパク食が乳製品、卵、鶏肉、豚肉、水産養殖魚の等しいシェアで構成されたならば、国はその濃厚飼料の半分未満、その飼育用に用いられる窒素肥料の半分未満を使用することですむだろう。そして、健康で活発な人生を楽しみ、高い平均した寿命を達成するには1年に100kg以上も食べる必要は全くない。
北米の食消費のパターンがもし、地中海型の料理に変われば、ギリシアがおそらく最良の選択なのだが、食肉タンパク質の生産に必要な飼料を40%以上削減できる(52)。米国の肉消費は、今のところは衰退する兆候を全く示していない。だが、いくつかの欧州諸国では数世代前と比べずっと肉を食べなくなっている。肉の消費量がドイツでは15%、フランスでは10%も低下しているのだ(25)。こうしたゆるやかな食の変化も、国民所得が上昇する国の人々の将来の消費傾向を誘導するためにとても重要であろう。

 動物性食品をさらに多く消費したいという願望は実際には普遍的で、強力かもしれないが、北米の食習慣は不適切な魅了先であるのみならず、それは全く非現実的だ。

 今から50年先にこの地球上で暮らす約90億人が誰もがそれを行えば、30億頭以上の牛(現在は約13億頭)やその廃棄物を共有することが必要となる。だが、実際に20世紀後半の食糧需給表(food balance sheets)を見れば、アジア諸国は近代化しても肉を大量に消費するパターンに向け急速に動いていないことがわかる(25)。結果として、私は、Secklerとロック(Rock)が、「アジアと地中海パターン」としたもの、全食料エネルギーが3200 Kcal以下で、家畜製品が食物エネルギーの25%未満であるものが、人々の近代化のために唯一の現実的なアトラクタと見ることに同意する(53)。

 それは、次の2世代の私たちの主要目的の1つであるべきだ。その達成は、窒素の生物圏でのサイクルへの面倒な人間の干渉を加減することを超え、経済、環境、健康でも多くの恩恵をもたらすであろう。

【引用文献】
Vaclav Smil, Nitrogen and Food Production: Proteins for Human Diets, Ambio 31:126-131,2002.


有機農業で世界が養えるか③下

2009年10月28日 20時55分35秒 | 有機農業

ペテンの手口

 有機農業で世界は養えるのだろうか。昨日に続いて、難癖論文の紹介を続ける。ちなみに、私はバッジリーに個人的恨みがあるわけでも、その学説を紹介した足立恭一郎博士に喧嘩を売っているわけでもない。だいたい、農林水産省の研究者であった足立氏のようなプロには、私のようなアカデミックとは無縁の素人が何を口にしようがかなうわけがない。

 話は変わるが、ペテン師や陰謀論で人を騙す時に、一番簡単なテクニックは、何かご存知だろうか。それは、部分を全体と誤解させる手口だ。つまり、いくつかの間違いを指摘することで、あたかも、全部が間違いであるかのように思わせるのだ。逆もそうで、人を騙すには真実を使う。嘘は簡単に暴露するが、真実であれば居直れる。そのうえで、真実の断片があたかも全てであるかのように装うのだ。

 例えば、アグロエコロジーで、ネット検索をしてみると、ジュールス・プレティ博士の名前が数多くヒットする。一応、宣伝をしておくと、この本の訳を築地書館から出している。これほど著名な論者の著作がまったく日本語ではなかったのだったから、アマチュアの方々の好奇心を満たすためには大いに貢献したものと、自負している。

 だが、東京大学農学部大学院生の某知人にすれば、プレティ博士はアジテーターの度合いが強いという。つまり、紹介している事例は真実だが、それにある種の世界観が付着していて、バランス感覚をいささか欠いているのではないか、というわけだ。

 また、東京大学大学院農学生命科学研究科の川島博之博士の『食料危機をあおってはいけない』(文芸春秋2009)には、同博士がロンドン大学で、こんなことを言われたとも書いてある。

「レスター・ブラウンはジャーナリストだ。あんな奴の言うことを信用しているのか」(P184)

 これがプロ、一流のアカデミックの世界だ。私のような素人は歯がたたない世界だ。この本を読むまで、レスター・ブラウンが単なるアジテーターであることを知らなかったし、80年代後半から90年代前半の世界の穀物収量の伸びが低下し、350kg/人となっているブラウンの図表はよく使ってきた。

 では、なぜ穀物収量の伸びは80年代に停滞しているのだ。環境破壊のためではないのか。

 一流の学者、カナダのマニトバ大学のバーツラフ・スミルは『世界を養う』(農文協2003)で、実に明解にこの低迷理由を説明している。

「この変化は(ブラウンのような)は破局論者とはまったく違った説明もされている。そのほとんどは北米、EUの穀物飽和による補助金の削減、旧ソ連邦の経済崩壊の影響による穀物収量の減少、アフリカの内戦によって説明できるのである」(p15)

 そう、ソ連崩壊だ。今の世界最大の化学肥料使用大国は中国だが、それまではソ連だった。ソ連崩壊は、FAOの統計数値上にも影響を与えていたのだ。ブラウンはそれを百も承知で、あえて世界トータルの数値を見せて、人々の恐怖心をアジってみせたのだろう。これをペテン師と言わずして何と言おう。

 私のこのブログもアジテーターを目指している。だから、大学等で有機農業を研究される学生さんにとってアカデミックな価値は全くないし、有機農業を実践されるプロの農家にも役立たない。あくまでも個人的興味から、ウヨ・サヨのバトルを面白がっているだけだ。ということで、昨日の続きを紹介しよう。
 



バッジリーらが結論を下した小麦収量のリスト

 これらの著者のデータは、十分に研究がなされず、有機農業と慣行農業の収量がほぼ同じだとの結論に向けて偏よっている。我々が含めたさらなる参考文献は、こうした見解を支持しない。

 持続不可能であっても十分なレベルの厩肥が加えられれば、おそらく同様の収量が得られよう。 Entz et al. (2001)は、調査した13の有機質土壌はどこでも34~246kg N/haを含んでいたと報告している。平均の92kg N/haは地方平均よりも高く、246kg N/haでは、間違いなく高収量の小麦が得られるが、持続不可能である。なぜなら、こうした農場から流失する窒素が大量で受け入れがたいからだ。Entz et al. (2001) も、最も古い有機農場(70年と30年)では、リン酸塩が深刻に不十分だと報告している。

マメ科植物の窒素固定

 バッジリーらは第二部で、マメ科植物の窒素固定が現在の窒素肥料使用を代替えするほど十分だ、と主張している。マメ科植物窒素固定は、降雨や地温等多数の制御不可能な気候変数、土壌の微量養分状態等の場所特有の変数による生物学的プロセスだ。様々な国での年間固定率の信頼しうる代表値はまだなく、1桁以上バラつく(Smil, 2001)。ニ作物(ひとつは窒素を固定し、ひとつは収量提供用)を用いれば、最終的な穀物や野菜収量でとうていありえそうもない大きなバラつきが入ってしまう。気候変動が将来的にはさらなる気象変化をもたらすとの現在の予測も危険を高める。バッジリーらが用いたデータは、主に実験的のうえのものであって、作物収量は上に示したのと同じ危険を負うであろう。

 どれほどの窒素が通常の、そして、多くの場合、伝統的な農業で固定されているのかは、極めて重要な課題だ。バッジリーらは、カバー・クロップが鉱物肥料と同量を提供できることを示すとしてKramer et al. (2002) を引用している。だが、クレイマーらは、七面鳥の厩肥からの330kg N/haとあわせて、ヤハズエンドウ(vetch)のカバークロップを用いることで、計435kg N/haが達成されたと述べている。そして、その約半分の値が慣行肥料の施肥と比較されている。七面鳥の厩肥は、約47トンの牛糞堆肥と同等で、持続可能に供給できない量だ。Badaruddin and Meyer (1994)は、マメ科植物が75g N/haと同等の窒素を生産したと報告しているが、この量は実験ステーション結果だけで非常に変わる場合がある。

 また、バッジリーらは、カバークロップだけの窒素投入を用いているが、北欧や多くの他国で知られているように、英国の標準的な有機農業の手順でも、牧草が再度始まる前には、3年間の耕地に2年の地力を付ける牧草(通常、牧草・クローバー)が続くのだ。だから、x回に基づく地区では連続して耕地を維持するために肥料を用いる農場と比べれば、どんな収量であれ、現実の有機農業の収量は実質的には低いであろう。

 バッジリーらが引用する窒素の固定数値は33~95%の大きな標準偏差を示すし、平均は約100kg N/haに近い。この窒素のうち、いかほどが穀物に取り込まれるのか。著者は、唯一の論文(Hoyt and Hargrove, 1986)だけを参照し、66%としている。これは、Hoyt and Hargrove (1986)の主張に基づくものだ。その概要を見ると、緑肥そして、クリムソンクローバー(crimson clover)、ヘアリベッチ(hairy vetch)、Austrian winter peaが150kgN/ha以上の有機窒素を蓄積し、その後、夏の作物用に100kg/haの無機窒素が放出されている。この評価は、1980年代前半の米国の実験データに基づき、そのほとんどは、「未発表」のHoyt and Hargrove (1986)の参照だ。

 だが、重要なことは植物に何が利用できるかではなく、何が穀類に取り込まれるかだ。世界的に見れば、慣行の窒素利用効率は33%で、その数値は農業で使われた肥料窒素と種子に残る窒素量から簡単に計算される(Raun and Johnson, 1999)。では、実際に緑肥からの窒素効率はいかほどなのか。数多くの論文はその数値を66%ではなく、20%以下としている(Kramer et al., 2002; Ladd and Amato, 1986; Harris et al., 1994)。それ以外では、前年に土壌にすき込まれたマメ科植物窒素の9~33%だけが、実際に作物に取り込まれて穀物になると報告している(Muller 1987, 1988a,b; Ladd et al., 1983)。Berry et al., (2002)は、土壌中の可溶性窒素と小麦種子中のタンパク質含有量とで確立された関係を用いて、潜在的に300kg N/haを含む有機質土壌では、小麦は50~60kg N/haを利用できるだけだと示した。マメ科植物を連続して利用すれば土壌に窒素が確立され、結果として、長期的に収量をあげると主張できる。Bochenhoff et al. (1986) とDabbert (1990)が、説明する厩肥利用の測定値は、この処理の結果、窒素の有用性の増加は合計でも約15%だけで約10年後には停滞すると示唆する。

 小麦や他の単年作物の窒素利用率が有機農業では極めて低い理由としてよく引用されるのは、作物が必要とする窒素と有機性窒素の無機化の同期が不足することだ。例えば、小麦は、春先に幼穂形成(leaf canopy)のために急速に多くの窒素を摂取する必要がある。可溶性肥料を春に散布すれば、その要件が容易に達成できる。有機物の無機化も作物の需要に応えられるよう春先に起きる。だが、常に起きるわけではない。また、無機化は晩夏や秋のシーズン中、成長期も続く。冬の降雨時には確実に窒素が損失する。有機肥料と非有機農場での窒素溶脱量は同様であることが知られているし(Trewavas, 2004)、富栄養化のリスクや地球温暖化係数は慣行農場よりも有機農場からの方が高いと考えられている(Williams et al., 2006)。

 カバークロップの窒素固定の平均数値では、約100kg N/haが引用される。約6tの小麦と10.5tのトウモロコシは100kg Nを含むのだ(Raun and Johnson, 1999)。だが、バッジリーらの非現実的な66%という窒素利用率で計算しても、これは4tの小麦と6~7tのトウモロコシの窒素量であろう。そして、20%以下の窒素利用率では1.3tの小麦か2tのトウモロコシと、60~80kgのタンパク質/haをもたらすだけであろう。非常にシンプルなベジタリアンでの食生活でも約4~5人/haを養えるだけで、20世紀始めの中国よりも実質的に人口密度は下がってしまう(Smil, 2001)。さらに、世界の収量の10~30%は、現在、作物の病気や廃棄されることで、台無しになっているとされる。

 全農地に作物を作付け、現在利用できる10~15億haの全耕地を用いても、有機農業では、90億人となる世界人口を養えるシステムを動かすだけの必要な窒素を提供できない。唯一の適当な土壌が残された多雨林を伐採することで、さらに農地は得られようが、地球温暖化への影響がそうしたアプローチを禁ずることであろう。現在、有機農業協会が禁じている遺伝子組換えや慣行育種によって窒素固定は改善されるかもしれない。もちろん、バッジリーらが強調するロデイル(Rodale)等の実験ステーションでは間違いなく高水準の窒素固定率を産み出せてはいる。だが、これらはほとんどの農場を代表してはおらず、現在報告されている大きな窒素固定率の変動は、そうなることに信頼をなんら与えない。

 窒素の固定率のバラつきは、最終的に生産や収入を決める主因であるから、有機農業での輪作でのそれは農民たちの重要な関心事だ。バッジリーらの付録2は、肥料を用いることで収量変動が小さくなることを示す数字、世界で人々を養うために、なぜマメ科植物に加えて肥料が最初に使用された理由なのだ。ひとたび施肥がされれば、農民は降雨によって可溶性窒素が作物成長に利用可能になると少なくとも確信している。信頼性は、現在の世界の農業で重要なことだ。一農場での優れた窒素固定率にこだわっても、それに失敗する他の者にはなんら助けにならない。窒素固定の根粒は農場間では運べないのだ!

 土壌有機物と作物残渣の無機化が作物に養分を供給する唯一の方法だ、と主張してしまうと肥料や厩肥による有機物を使う明らかな可能性を逸してしまう。有機物は土壌構造、保水性、微生物数、根の発達を改良するからだ。だが、可溶性の肥料の方が、生育する作物が必要なときに、はるかに正確に栄養素を供給(シンクロ)できる。バッジリーらは繰り返し、化学肥料が土壌にダメージを与えると主張するが、これはシュタイナーが最初に証拠なく唱えたもので、拒絶できる(Pfeiffer, 1940)。ブロードバークでの実験が明確に示すように、可溶性の肥料は、土壌にダメージを与えるのではなく、作物が無機物化した有機物から吸収するのと同じイオンをより簡単に利用できる形態で提供しているのだ。

結論

 私どもの意見からすると、バッジリーらの論文は誤っている。自分が示そうとしたいことについても混乱している。有機農業か、IMFか、オルタナティブか、不耕起農法なのだろうか。データも十分に研究されずに提示されている。有機農業と慣行農業との収量比が問うべき価値があるならば、必要とされるのは有機農業生産に必要な収量と土地の厳密な比較だろう。農地が地力をつけている間は、小麦は栽培できない。この分野で多くの文献は脆弱であって科学的価値も乏しい。それは、批判的な評価なくして用いるべきではなかったのだ!。

 現在の世界農業生産は、主な食品価格がこの50年間(2007年まで)で半額となっている。それは最も貧しい人々にも恩恵があった。有機食品はたいがい高く、その高価格が低収量と大きな変動と作物の損失という大きなリスクを補償している。世界の農業を有機農業に転換するどんな試みも、世界の食品価格を途方もないほどあげ、そのリスクに最もさらされるのは、それ自身で十分な生産物を提供できない最も貧しい国であろう。有機農業はしばしばイデオロギー的で、その法則化には何年もかかるかわからない。「慣行生産」にはその有機農業には存在しないであろう科学的理解に基づく収量増の多くの可能性がある。現在の有機農業生産に対する公的支援は、自然食品の化学や毒物学の知識、現在の農業手順の不正確な認知や知識不足、そして、自然が最高のものを知っているという持続不可能な信念に基づいているように思える。

 すべての種類の農業には改善の余地がいつもあり、有機物を加えることでその土壌を改善する必要性や不必要な肥料や農業化学資材を減らすこと、病虫害での損失を抑えるために輪作を最適化することについては、我々はバッジリーらにも同意できるものがある。農民たちの経費を減らし、農場環境を改良することから、これはただの常識なのだ。それはウィン・ウィンの状況だろうし、土壌や収入が不十分な領域では、こうした処方箋からの利益はあり続けるであろう。

【引用文献】
K.W.T. Goulding and A.J. Trewavas, Can Organic Agriculture Feed The World?, AgBioView, June 23, 2009.


有機農業で世界が養えるか③上

2009年10月27日 21時04分27秒 | 有機農業

 有機農業で世界は養えるのだろうか。昨日に続いて、ケチをつけた論文を紹介しよう。ゴールディングは、ローザムステッド研究所の土壌研究者、トレワバスは、エディンバーグ大学の分子植物化学研究所の研究者だ。ローザムステッド研究所といえば、世界で最初に化学肥料(リン酸)を作った研究所だ。おまけに、出された雑誌はアグリバイオ。そう私の見解からすれば、ウヨなのだ。

「バイテク企業のウヨの言っていることなんで全部ウソなの。サヨの有機は地球を愛するんだもん」という単純なスタンスには私は立たない。

 純然たるサヨならば、ウヨの反撃がどれほどチンケなものか、耳を傾けるべきだと思うからだ。さて、この論文はわりと長いので二回にわける。

 要旨だけをまとめるとこういうことだ。

 自給といえば有機野菜なんかカロリーがない。だから、主食たる小麦の収量が本当に有機が高いのかチェックしてみた。すると、バッジリーらが都合が悪いためか、収量が低いことを示す論文がジャカジャカでてきた。おまけに、バッジリーらが用いた文献には計算違いもあった。というとこの有機の収量が高いというのは嘘なんじゃない?というのが反撃の一点。
第二は、バッジリーらは植物が固定する窒素だけで十分というが、どうもこれも間違っている。
だから、有機農業では世界を養えない、という三段論法だ。

 この論文は英国のデータしか扱っていない。開発途上国の数値はもちろん、アグエコも出てこないし、緑の革命の惨さを描くサヨ的視点も出てこない。とはいえ、イブ・バルファーのホーリー実験が収量低下で終わった等傾聴に値する情報を提供してくれる。




はじめに

 最近の出版で、バッジリーら(2007)は、もし、有機農業が全世界で用いられれば、十分な食料を世界の増加する人口にもたらせられると主張している。この主張は、2種類の文献検索に基づいている。 (1) 有機農業と慣行農業の収量を比較の整理、(2) マメ科植物による窒素固定の文献上の評価。この二つを潜在的な食料生産の計算のためにあわせたのだ。だが、我々は、この論文を4点から批判したい。

(1)文献検索が極めて不十分である。我々は厳正な検索をしなかったが、バッジリーらが含まずに、有機農業の収量への見解を変える科学的文献を簡単に数多く見出した
(2)出された資料の真実性をチェックしていない
(3)有機物の無機化で土壌中に放出される窒素量とそれが穀物に取り入れられる量が間違っている
(4)農場での実践を支える経済基盤のことを一切考慮していない

 バッジリーらは、有機農業の世界の食料供給への潜在的な寄与を評価した、と述べている。だが、有機認証基準には何ら言及していないことを認める。論文からみて、厩肥施用やカバークロップの使用を有機農法と同一視していることは明らかだし、これらはいずれも有機農業ではない。それは、英国の数多くの「慣行農家」によって例えば、複合農業で用いられているものだ。バッジリーらが用いた有機農業の評価基準に基づけば、ほとんどすべてのタイプの英国農場が「有機」の資格を得てしまうことだろう。おまけに、英国の見解からすれば、バッジリーらにより慣行農業とされた農場を特定することも難しい。英国の農民は、短期か長期間の輪作、不耕起かときには耕起を組み合わせた最小耕起(保全耕起)、牧草、牧草/クローバーかサイレージでの畜産飼育、様々な量での厩肥、スラリー、購入堆肥、他の廃棄物の農地への還元と総合農業マネジメント(IFM= Integrated Farm Management)と称される様々な範囲の農業を実践している。

 実際の実践は、農民や長年の実験での経験の結果であって、その土地特有のものだ。経営技術も重要であり、ほとんどの英国農民はその農場に対して、ホーリスティックな見解を持つが、最優先される評価基準は、生産物の相場と生産コストだ(Trewavas, 2004)。成功した農民であれば、誰でもその第一目標は、収入と土壌の質の双方を支えることなのだ。
もし、有機農業で世界を養うことについて議論するのであれば、第一の関心は、主要穀物の有機農業と慣行農業との収量比較でなければならない。たとえ、有機農業のキャベツ、トマト、燕麦かあるいはリンゴの収量が慣行農業の収量に匹敵したとしても、バッジリーらが用いたものはさほど重要ではない。だから、我々はこれらを全く考えない。

 小麦は、全世界で2億2000万ha栽培され、実質的にトウモロコシよりも広く、乾燥気候に許容性があり、トウモロコシや米よりも多くのタンパク質を含む第一の主食のひとつだ。それゆえ、バッジリーらによりなされた主張の批判的評価は小麦に限ろう。

 国際農業技術開発アセスメント(IAASTD= International Assessment for Agricultural Science and Technology in Development)が全世界で有機農業が急増していることを強力に支持したことから、有機農業での収量を確立することが重要視されている。バッジリーらの主張は、バッジリーらの論文指導者がIAASTDのメンバーであったことからこの推薦(Riverra-Ferre, 2008)を支援したのかもしれない。

実験的な収量測定を用いている問題
 バッジリーらは実験データを多いに頼りとしている。これは、逸話情報(anecdotal information)よりは望ましい。とはいえ、用いるとなれば、少なくとも3つ課題がある。
(1) 実験は、実際に農民たちが物事を決める経済的要因を欠く。実験ステーションの職員は給料がかわらないし、たとえ、実験に失敗しても失業しない。
(2) 実験での収量は、潜在的な収量指標としては役立つが、それは現場の農場には存在しない、科学専門技術がきちんとコントロールする理想的な状態下で得られるものだ。実験結果を現場の農業実践に移す難しさは、ずっと前から認識されている(Davidson and Martin, 1968)。
(3) バッジリーらは、自分たちが提示した有機農業と慣行農業との収量比が真実かどうかをまったくチェックしようとしていない。まさに1年だけでされた測定値が、10~25年以上もされたものと同じ真実性を持つものとして提示されている。

農場比較

 有機農業がそれ以外の農業に比べて、どう機能するのかを適切に比較するには、広範で何年もの平均を評価してみるのがいい。この情報は英国では入手できる。だが、他の場所では入手できるようには思えない。英国第一の有機農業研究所、エルム農場研究センター(Elm Farm Research Centre)の数値は、多くの農場のデータを評価し、英国では平均した有機農業での冬小麦の収量が、慣行農業の8t/haに対し、4t/haであることを示す。バッジリーらの比率を「BR比」と呼ぼう。その0.93(Lampkin and Measures, 2001; Welsh et al., 2002; Wolfe, 2001)に対し、0.5なのだ。慣行農業での小麦収量の最高記録は14~15t/haで、有機農業の収量も7t/haに達することがあるが、やはり有機と慣行比が0.5であることを示唆するのだ。英国の有機農業協会は低収量を美徳とし、自然を支配する慣行的な生産とは対照的に、自然な穀物でやりくりする結果だ、と主張してみせる。

 個々の農場の数値は、農民たちのスキルだけでなく、土壌類型、土地利用の歴史、作物品種、地形等によって大きくばらつく。数少ない有機農業を数多くの慣行農場と比較すれば、数少ない農場の変わった事例が、比較結果を歪めてしまう。Bender (2001)は、伝統的なアーミッシュ(Amish)の農場と慣行農場とを比較して、農場のタイプよりも、その地理的な歴史によってそれがかけ離れていることを明確に示してみせた。

 ある地域での数少ない農場の平均を比較すると、どれほど潜在的に欠陥があるのか。極端な例として、もし、あるひとつの極めて大規模だが、十分管理されない収量を選んだとすれば、その地域の全部の他の農場が農法に限らず良いものとなってしまう。Lockeretz et al. (1981) [BR 0.57] は、Roberts et al. (1979) [BR 1]と同じ農村地帯で観察をしているのだが、その引用する慣行農業の収量は50%も高くなっている。Lockeretz et al. (1981)は、規模と土壌の質に基づいて慣行農場を有機農場のそれと合致させる努力を少なくともしているが、どれほどの範囲でばらつきがあるのかの統計を全く提供していない。おまけに、両論文とも、主には有機農法に転換した場合の経済性を考慮したものであって、収量は付随にすぎず、数年間のデータを引用するだけで、生産効率の直接比較を意図したものではないのだ。

 研究者が農場や圃場間の収量差を測定するためには、1930年代にフィッシャー(Fisher)によって統計的な手法が開発されている。これを使うことはほぼ義務と思えるのだが、なぜかバッジリーらが提供する有機農業と慣行農業のリストにはこれが見当たらない。このような比較では、ランダムな小数の農場を選ぶことで、収量は統計的に変動することとなる。Entz et al., (2001) は、13の有機農場を調査し、小麦収量で6倍ものバラツキがあることを見出したし、Kitchen et al., (2003)も慣行農業の収量で4倍ものバラツキを報告している。だが、有機農業の収量のバラツキはさらに大きかったのだ。

 Stanhill(1990)は、土壌協会の創設者である、イブ・バルフォ(Eve Balfour)が組織した有機農業のホーリー(Haughley)の25年間の実験のうち10年間のデータを発表している。この閉鎖系での実験は、有機農業の収量が明らかに落ち込み続けたことで終わった。有機農業の収量は、地元のカウンティーの慣行農場の平均よりもはるかに低いものとなったのだ。だが、奇妙なことに、このデータはバッジリーらには見出せない。そして、有機農業を地元平均と比較した別の論文、例えば、Roberts et al. (1979)やKoepf (1976, 1981)を使っている。しかも、バッジリーらはStanhill(1990)やStanhill(1990)の参照文献よりもはるかに古いものを使っているのだ。

 ホーリー実験農場で測定された小麦やマメの収量の年別変化は調整された数年では4倍もあった。単年だけの測定を見れば、有機農業と慣行農業比で小麦で1.25やマメで0.2等のデータが選べる。あるいは2年連続での比較、1.15や0.36(1957~1959年)も得られる。だが、10年間の有機農業と慣行農業との平均比は、小麦とマメのそれぞれで0.81と0.61なのだ。わずか1、2年のデータだけから有機農業と慣行農業比を選ぶことは、科学的な信憑性を欠くだけでなく、本当の実態を読み間違えてしまう。

 この衰退は、ミネラル不足の累積で引き起こされたであろう。農場外に販売された生産物には代替されなければならないミネラル分が含まれるし、さもなければ土壌は採掘されてしまう。
 また、2年間にわたって有機農業と慣行農業の生産物を慎重に比較した最近の食べものの実験研究からは、ミネラル含有量やミネラル保持量で著しい違いが全く見出さなかった(Kristensen et al., 2008).

バッジリーらの小麦収量リストの詳細なチェック
 本節では、バッジリーらが使用した個々の論文にコメントを行い、含まなかったものもリスト化しよう。

Leu (2004)のそれは、有機農業協会会長の政治的な論争術だ。わずか1年の小麦収量だけが報告されて、有機と慣行農業比は1.45となっている。だが、農場についての情報は示されず、その作業も未発表だ。これは一連のシリーズのひとつだが、再現可能なものなのだろうか。レウは、バッジリーらと同じくエレム農場研究センター(2007)のデータを省いてしまっている。
バッジリーらが省いたものは他にもある。

・認証された有機農業と慣行農場での10年に及ぶボーディド・バーン農場(Boarded Barns Farms)の研究だ。7年の小麦収量の有機農業と慣行農業比は、0.61、0.75、0.64、0.65、0.7、0.61、0.51となっており、有機農業の平均収量5.1t/haに対し、慣行の収量は8.3t/haとなっている(Higginbotham et al., 2000; Trewavas, 2004)。

・慣行と認証された有機農業管理での3年に及ぶ春小麦9品種の測定値は、有機農業では収量が47~56%下がり、約0.5比となった(Poutala et al., 1993)。

・春小麦27品種(113年以上の小麦育種で交配)での有機農業と慣行農業の栽培実験では、有機と慣行比は0.46~0.69で平均0.61だった(Mason et al., 2007)。

・Ryan et al. (2004)による有機農場と慣行農場の調査の比率は0.83、0.37、0.53、0.16で、13の有機農場を大規模な数多くの慣行農場と比較調査したEntz et al. (2001)の平均比は0.8で、Kitchen et al. (2003)は穀物収量がバラツクものの、14ある有機農場のうち11はかなり低く平均比0.75と報告し、Grimm (1988)は40のオルタナティブ農場を800以上の慣行農場と比較し、平均比0.69を得ている。Bochenhoff (1986)は、145農場の秋まき小麦で0.7、52農場の春小麦で0.72の比率を見出した。Wookey(1987)は0.6の比率を見出し、Stoppler(1989)は有機農業と慣行農業で23の小麦品種を比較し、0.75、0.95、0.73、平均0.83の比率を見出している。

・Dlouhy(1981)は様々な窒素施肥での収量を平均し、収量を推定する方程式を適用し、0.58の比率を得ている。Vereijken(1986)は、慣行農業とバイオダイナミックや統合農業を3年比較したNagele実験を調べ、バイオダイナミックで0.75、総合農業で0.67の比率を得ている。

 最後にさらにミスを犯しているのは、「ヨーロッパでの有機農業システムの可耕地の作物収量(小麦を含む)は、慣行システムの60~80%だ」と結論づけた有機農業の研究者によるレビューだ(Stockdale et al., 2002)。

 驚くべきことだが、上にあげたいずれの数値もバッジリーらには届いていない。おまけバッジリーらが提供した以上の比率が他にもあるのだ。例えば、Mason et al., (2007)の個々の27の比率を省略した。我々の調査は厳密なものではない。だが、見つけた論文の他の多くの調査に注意した。バッジリーらは、農業誌のものを省略しているが、一般に、農業誌の比率はバッジリーらの引用した文献よりもずっと低い比率だから、バランスがとれた情報を提供すれば、この主張も実質的には減る。

 バッジリーらはバイオダイナミック農法を用いた古い文献を数多く、Stanhill (1990)のレビューから抜粋している。だが、こうしたレビューがどれほど信頼できようか。Koepf et al. (1978)が指摘するように、1930年代のドイツに由来するそれは、論争中なのだ。当時は、ドイツ政府がバイオダイナミック農法を強力にイデオロギー的に支援していたのだし、農法と関連する比較の多くは、いまでは完全に時代遅れのものと見なされている。さらに、1930年代以来、小麦の慣行農法の収量はヨーロッパでは倍増しているのだ。

 ブロードバーク(Broadbalk)のデータは、厩肥と小麦収量ついて重要な結論を示す。Leu (2004)は、ローザムステッド(Rothamsted)で165年も家畜厩肥で栽培するブロードバーク冬小麦実験(Broadbalk Winter Wheat Experiment)の小麦が、施肥されたものより収量が一貫して高いというジョージ・モンビオット(George Monbiot)の主張を参照している。この比較はブロードバークにおける2つの実験的処理と関連している。ひとつは適度な肥料窒素を施肥し、他は35t/haの牛糞堆肥を投下するものだ。バッジリーらは、別の参照(e.g. Jenkinson et al. 1994)からこの実験について二度も参照し、有機農業と慣行農業比の支えとしてそれらを用いている。BR比は1.15だった。

 だが、これに反し、厩肥での収量は、160年以上の統計的な変動内では、適度な施肥のそれとマッチし(Goulding et al., 2008)、現在、約7t/haだ。それは、最近の英国の慣行平均収量にほぼ近い。だが、このレベルの厩肥の施用は、有機農業規則で認められた量 (最大1.2~1.4家畜/ha)の約3倍だ。こうした規則は、農場の窒素流亡の外部影響を最小とし、外部資源への依存を根絶するために課される。①ブロードバークでは農薬が用いられていることを除いても、肥料を厩肥で代替することは、認証された有機農業ではない。②また、慣行処置で適用された肥料も最適ではない。ブロードバークでの肥料での最高収量は11t/haで、「想定された有機的農業」/慣行比は0.7となる。厩肥では11t/haが達成できるが、過剰な窒素肥料が春に適用されれば、窒素利用の効率は極めて低く、硝酸塩の高いロスとなる。もし、受入れられる厩肥投入、1.2家畜/haに基づけば、これは窒素約72kg /haと厩肥約12トン/haに匹敵し、小麦収量への窒素のよく知られた効果から、これは小麦4t/haを提供するであろう。この収量は、よく管理された有機農場では得られている(Trewavas, 2004)。

 だが、ブロードバークの実験は、非常に重要な点を指摘している。家畜厩肥には分解する有機窒素からの非結合の硝酸塩やアンモニアが含まれる。化学窒素肥料に匹敵する可溶性窒素を含む肥料の量を供給すれば、ブロードバークで見出されるような同一収量が得られるであろう。だが、この重要な観察がバッジリーらには完く欠けており、通常、使われている厩肥量を特定していない。おまけに、バッジリーらとモンビット(Monbiot)は、厩肥実験の部分だけを重視しているが、化学肥料での処理区も同じく重要なのだ。なぜなら、160年間以上も続いて、土壌中の有機物含有量が厩肥だけの処理区の1/3ほどしかないのに、厩肥処理区と同収量を得ているのだ。こうした結果は、「慣行農業が持続不可能だ」という一般的な主張と明らかに矛盾するし、慣行農業に伴う認められた問題点のほとんどが、技術ではなく、マネジメントのまずさから引き起こされるものですことを示す。
1843年から始められたブロードバークの実験は、連続して秋まき小麦を用いている。慣行農業では病害虫を減らせる手順、輪作もしている。それ以外の植物と同じく作物も自分たちが育つ土壌を問う。もし、未処理の土壌が「不健康」と見なされるならば、同等な収量は得られないであろう。

 ブロードバークやそれ以外のローザムステッドにおける長期実験から指摘される別の決定的な点は、それが作物成長に養分を供給する肥料が十分なかった19世紀半ばに始められたということだ。35t/haの厩肥を提供するにはhaに3.5頭の成牛が必要となる。現在、英国には約400万頭の成牛が400万haの農地にいる。米国のそれは、100万頭と2億haだ。したがって、高収量の小麦他の作物に十分施肥するには、英国では約3.5倍、米国では7倍、牛の頭数を増やすことが必要となる。冬季のトウモロコシと小麦の消費も同量で増え、食用作物に向けられる土地は減るであろう。数多くの牛によって、肉やミルクの値段はかなり下がり、食事に肉類を増やす可能性も広がるが、強力な地球温暖化ガス、メタンの発生も増えることとなる。

バッジリーらによりリストアップされた小麦収量について

・Granstedt and Kjellenberg (1996) [BR 0.8] は「様々な処理のための肥料散布量は、匹敵する収量をもたらすよう調整された」と述べている。Raupp and Konig (1996) [BR 1.01] は「有機肥料とミネラル肥料で匹敵する収量を達成するために、堆肥化された厩肥は比較的大量、時には最大60トン/ha用いなければならなかった」としている。こうした主張からみて、この収量率は明らかに除かれる。この実験の実際の目的は、収量ではなく食品の質を比較することであった。

・Mader et al. (2002) [BR 0.87] 長期にわたるスイスにおける実験では、有機農業の基準、1.4家畜/ha(約4t/ha)で施肥がされたが、125kg N/haの肥料利用は慣行の最適条件よりもかなり下であった。FAOによれば20年以上のスイスの慣行農業の平均は6.5t/haで、それは約0.6の比率となる。Mader et al. (2002) は「有機農業での管理での穀物収量は典型的には慣行での管理の60~70%である」と述べている。

・McGuire et al. (1998) [BR ratios 0.98, 0.93, 0.83, 0.81]冬季に乾燥地帯でのカバークロップが調査されたが、雑草除去に除草剤が用いられ、このため有機農業の手順には従わなかった。除草剤による雑草除去はかなり収穫を増やすことが知られている。

・Smolik et al. (1995) [BR ratio 1.09]バッジリーらは、間違って比率を計算した。Smolik et al. (1995)は、慣行の小麦収量を6403ブッシェル/エーカー(4.3トン/ha)、有機農業システムを5606ブッシェル(3.7トン/ha)とし、0.87の比率を与えている。実験は7年続けられたが、統計は全く提供されていない。

・Stonehouse (1991) [BR ratio 1.14]は実際の研究について説明している。主な関心事項は9農場を用いて有機農業に転換した場合の経済性であった。慣行/有機農業と有機農業/低投入(すなわち、統合)と2つの収量比が提供され、0.81と0.71であった。Stonehouse(1996)は、限られた数での農場の数値が深刻なミスリードをするとの認識を示し、それ以外の農場システムと有機農場を比較することで「決定的な結論に達する試みはなんらない」と主張している。

・Lockeretz et al. (1981) [BR 0.57]はイデオロギー的な動機を持たずに、14の有機農場を慣行農業とマッチさせた。しかし、これは、主に有機農業の収量よりは経済面と関係しており、収量統計は全く提供されなかった。

・Nguyen and Haynes (1995) [BR 0.68] は有機的/がないかどうか従来で3組の農場を調査し、バイオダイナミック/慣行農業で0.68の比、そして、別の有機農業/慣行農業で0.68と評価している。論文は土壌の栄養分の蓄えがひとつのバイオダイナミック農場とひとつの有機農場で急速に使い果たされているとコメントしている。

・National Research Council (1989) [BR 1.02] は、オルタナティブ農業をレビューしている。27ページにわたって説明されるオルタナティブ・システムの目的は、英国内の数多くの有機農業ではない農場(例えばwww.leafuk.orgを見る)とされよう。おまけに、異なる二つの輪作の収量が言及されているが、いずれも農薬を散布しており、有機農業ではない。

・Berardi (1978) [BR 0.83] は、経済とエネルギーに重点をおいて非常に限られた2年の研究を発表した。その場所ではわずか10カ所の有機農場しか見いだせず、慣行農場がプロジェクトリストから選ばれた。この仕事の価値は、農場数の少なさと比較選択の不足で限られている。

・Smith et al. (2007)は、1992年に始まった4年毎に繰り返される作物の輪作でのケロッグ実験ステーション(Kellog Experimental Station)の結果[BR 0.56, 0.55 ]を報告している。他の3つの管理システムと比べ、慣行、不耕起、低投入の収量は、回転の秋まき小麦フェーズで有機農業が低かった。

・Levi (1979) [BR 1.09]は、妥協する有機農業の原則よりも作物損失を受け入れるという確信的な有機農家が所有する単一の20haの農場からのデータを報告している。だが、Levi により3.85t/haと報告された小麦収量は、イスラエルの慣行収量(2~9t/ha)からの今日的な範囲に属するとはいえ、有機なのか慣行なのかの比較が今も関連性があるのかどうかを確かめることが難しい。


有機農業で世界が養えるか②

2009年10月26日 23時57分33秒 | 有機農業

 「没落」って聞くと、本来あるべきラインがあって、そこから「没落」するっていうイメージなのですが、「没落」はどうなんでしょうとの、レスをいただいた。実際、「没落」というのは過激すぎるかもしれない。文化人類学者、竹村真一さんが企画されている「グローバルセンサー」という番組があって、キューバの没落とフランスの縮退について力を込めてしゃべったのだが全部カットされていた(笑)。時間オーバーなので仕方がないが、没落はまだ市民権を得ていないのかもしれない。

 さて、今日も有機農業で世界が没落、いや養えるのかについて書く。前回、ミシガン大学エコロジーのチャッペルさんが「地理学者のバーツラフ・スミル(Vaclav Smil)や保守的なハドソン研究所のデニス(Dennis)やアレックス・エーブリー(Alex Avery)が私たちの研究にケチをつけたの」と文句を言っていることについて触れた。ケチをつけられたとなれば、どんなケチをつけたのかが気になるではないか。

 スミル博士はエネルギーや人口問題の大家だし、緑肥作物の窒素固定だけで本当に化学肥料なしで人類を養えるのかについては、実に様々な論争が繰り広げられている。スミル博士の研究は大変奥深いので、まず、軽いジャブとして、デニス・T.エーブリーとアレックス・A.エーブリーがどんなことを言っているのか、確認をしておこう。ちなみに、デニス・T.エーブリー(Dennis T. Avery)はハドソン研究所(Hudson Institute)の上席研究員(senior fellow)、アレックス・エーブリー(Alex Avery)は、植物生理学者で、ハドソン研究所の世界食料問題センターの所長である。

 以下、あまりにも近代シンパのストレートな主張なので、笑ってしまえるのだが、チャッペルさんの「有機で養えると言ったら、絶対そうなの」という主張の根拠も意外にあぶなそうなトンデモ説らしいことを感じてもらえればいい。

 なお、「バッジリーは有機で養えるはずだ、という結論ありきで、自分たちの論拠に都合がいいデータだけを集め、それ以外の収量が下がったデータはネグレクトした」というローザムステッド研究所の批判については次回に紹介しよう。




 エコの連中は、私たちに食料をあきらめて欲しいのだろうか。昨年の夏にミシガン大学の研究は「有機農業で世界を養える」と主張してみせた。

「私たちの希望は、有機農業では食料を十分に生産できないとの発想を、最終的に棺に入れ釘を打つことなんです」
共著者のイベッテ・パーフェクト(Ivette Perfecto)は言う。

 だが、国連でさえこの著作を信じてやしない。FAOは「世界の食糧安全保障を確実にする際に、有機農業が慣行農業システムを代替できるとFAOが信じられる理由は全くない」と書かれた声明をリリースした。

 「現在の60億人、2050年には90億人となる人口を、慎重に化学肥料を用いることなくしては養えない」と、ジャキュース・ジウフ(Jaques Diouf)事務局長は言う。

 食料問題は危機的だ。2050年に90億人でピークとなる人口は、2倍以上の農業生産量を求めるからだ。すでに全世界の農民は陸上の土地の40%を使っている。農地を倍増するために森林は伐採され、何千もの野生生物種が追い立てられよう。

 では、ミシガン大学とFAOの有機農業の評価は、なぜかくも乖離しているのであろうか。ミシガン大学が農学部がないことを知って欲しい。論文の主著者、キャサリン・バッジリー(Catherine Badgley)は地質学者なのだ。おまけに、その「ブレークスルーした研究」は、現場の有機農業に基づくものはわずかで、二次情報からまとめたものだ。

 ミシガン大学は、有機農業により37%も高いアルゼンチンのトウモロコシ収量を報告している。だが、その報告書は、著名なアルゼンチンの不耕起栽培農民、私の友人でもあるロベルト・ペイレッチ(Roberto Peiretti)からのものだ。不耕起栽培はつねに雑草管理に除草剤を使う。ロベルトも工業的な肥料、殺虫剤、バイテク種子を使っているのだ。

 ミシガン大学の著者たちが「有機」と主張した約100もの研究は、実際に有機ではなかった。

「私たちはより幅広い意味を有機農業に用いました。ですから、厳密な有機農業の方向に向かう実践も含めています」

 だが、不耕起農業は断じて有機農業ではない。USDAの研究者たちは、有機農業のために不耕起システムを作り出そうと10年も費やした。なぜなら、不耕起栽培は土壌浸食の防止にとても効果的だからだ。だが、彼らは失敗した。どうやら、ミシガン大学の研究者たちは、政治的な目的のために高収量を主張したかったようだ。

 有機農業と慣行農業との大きな違いは肥料だ。だが、残念なことに、この世界には、世界の作物に供給する窒素に必要とされる家畜厩肥はたった1/4しかない。

 バッジリーとパーフェクトは言う。

「私たちは、通常の作付時期の期間内で栽培されたマメ科のカバークロップが、現在用いられているすべての化学肥料の窒素よりも多くの窒素を固定できることを示す温帯と熱帯のアグロエコシステムからのデータを示しています」

 だが、彼ら自身が論文の中で、緑肥作物は食料の収量を犠牲にすると警告しているのだ。長期にわたるカリフォルニアにおけるテストは、有機農業の小麦収量が望ましいと報告するが、バッジリーとパーフェクトはその後のトウモロコシの収量が約50%も落ちてしまったことについてはふれない。緑肥作物が成熟するまでトウモロコシは遅く作付けなければならなかったのだ。緑肥作物が圃場で時間を取らず、食料や飼料作物から日光や水を奪わない農場は世界ではわずかしかない。

「有機農業で世界を養える」への私たちの回答

 ミズーリ州の農民、キップ・クラース(Kip Cullers)は、エーカーあたり154ブッシェルの大豆(米国平均41)や347ブッシェルのトウモロコシ(米国の平均156)を得ている。クラースは、これを大量の殺菌剤と肥料と灌漑で得ている。だが、これが世界の人々に食料をもたらし、耕起から野生地を救う慣行農耕のポテンシャルなのだ。

【引用文献】
Dennis T. Avery and Alex A. Avery,New Year’s Resolution: Organic Farming Can’t Feed The World, January 3, 2008.


有機農業で世界が養えるか

2009年10月22日 23時28分48秒 | 有機農業


世界の飢餓問題に対応するために、最も偉大な地下の活動家を選べ。という出題が出されたとしたら、あなたはどう回答されるだろうか。あるいは、あなたの「細胞内」で最も反革命的な「分子」をあばきだせ、と聞かれたら。

 正解は、前者はミミズで後者は窒素化合物だ。私は、「地下の活動」や「細胞」「分子」を文字どおり自然科学用語で表現したのであって、これを「地下活動。どこのアジトか」だとか「反革命分子。ならば奴か」と発想された方は、サヨ思想に毒されすぎているといえよう。

 だが、後者の回答は疑問があるかもしれない。炭素が革命的分子であって、窒素が反革命的分子というのは合点がいかないだろう。だが、これには、理由がある。炭素は植物が大気中から無料で自由に摂取しうる。だが、窒素化合物は作物生育を規定する重要な分子であるにも関わらず、近代農業、すなわち、ハーバー・ボッシュ法にアクセスできる豊かな人々と、伝統的な窒素入手手段、すなわち、有機物の堆肥化、マメ科作物の輪作、カバークロップの活用にしか依存できない貧しい農民との食生活に格差を産んでいるからだ。

 もし、革命を格差が拡大したときに、あたかもギブスの自由エネルギーのように、この不安定な秩序を安定化させるために進行する化学反応とみなすならば、ゲバラのような革命家は反応を促進させる触媒といえるだろう。

 となると、食、すなわち、農業を巡る革命とは、窒素をめぐって戦われるべきだといえる。

 そこで、今日のテーマ、「有機農業で世界が養えるか」だ。この同じ題名では、足立恭一郎さんが、2009年にコモンズから本を上梓している。日本語のネットを検索すると、この本をめぐっていくつかブログがヒットする。だが、英語圏のネットは格段に面白い。何が面白いかというと、純粋に学術的な農学的な議論であるべきものが、イデオロギーが入ってくるのだ。極左集団フード・ファーストが「有機農業で自給できるんだ、緑の革命を叩きつぶせるんだ、やったやった」と絶賛し、「よろしい、これをさらに食料主権まで前進させよ」とサヨ的な議論をするのに対して、ウヨはデーター捏造だ、自分たちの都合の悪いデータはネグレクトしている。これは論文を書いたキャサリン・バッジリーの指導教官が国際農業環境アセスのメンバーであったことから、国際アセスと連動させることを狙って出させたのではないか、と憶測をしたりする。

 このブログはアカデミックな学術研究情報を出すことを目的としているわけではないし、サヨとウヨのバトルをニヤニヤしながら高みの見物をすることを目的としている。そこで、こうなってくると、私としては舌なめずりをしたくなるほど面白い。

 おまけに、この有機の議論を巡っては、生物の窒素固定が大きなポイントとなってくるのだが、マルタ・ローゼンメイヤー(Martha Rosemeyer)さんのプレゼン資料、「Biological Nitrogen Fixation: Supplying Nitrogen needs of a Sustainable Agriculture Ecological Agriculture, February 7, 2006」なんかを見ると、キューバの取組み事例が優良事例としてあげられていて笑える。彼女は、社会科学には立ち入らない理学系のアグエコ、スティーブ・グリースマン(Steve Gliessman)教授の弟子のはずなのに、やはりキューバにシンパシーを感じているのか、サヨか、と疑いたくなってしまう。

 ということで、フード・ファーストのページに出ていたミシガン大学エコロジーと進化生物学部のチャッペルさんのサヨ有機農業論を今日はご紹介する。




 有機農業、低投入、無農薬、総合、小規模、持続的と関連する農法については、批判家も提案者も同じく、環境問題には対応するだろう。だが、大量で増加する大量の人口を養えるだけの十分な食料を生産できないのではないか、と長年懸念しています。

 こうした疑問は理解できます。1940年代、50年代、60年代にかけ、いわゆる「緑の革命」は、農業生産を劇的に増やすことで広範に発生している飢餓を避けることができると称賛されてきたからです。1962年にレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が出版された後、その技術進歩を疑う傾向がやっと大衆の意識にも入り始めましたが、全世界で大多数の人々に大量の食料をもたらす「豊饒の角」の源を疑問視することは、全く無作法だし、時代に逆行するように思えたからです。緑の革命で多くの飢餓が避けられたのに、どうそれを批判できましょう。

 ですが、その後、『沈黙の春』から『世界飢餓:雑食動物のジレンマへの12の神話』等の著作の洞察によって、また、緑の革命がもたらした社会的、環境的コストの評価や、いまだに飢餓が蔓延している事実は、緑の革命の主張に多くの疑問をもたらしました。持続可能なオルタナティブが大きく関心を呼ぶこととなったのです。

 有機農業の高まりは急速ですし、地元産のものを旬に買う、そして公正に買うことが盛んに呼びかけられています。ですが、そうしたオルタナティブが増える人口に十分な食料を提供できるかどうかの疑問はいまだ未解決なのです。最近のミシガン大学の研究チームの研究は、まさにこの疑問に対応したものなのです。それは、持続可能な有機農業では十分な食料を生産できないとの神話をたたきつぶしています。

 とはいえ、緑の革命の勢いが良かった時代から40年もたった後でも、持続可能な農法で十分な食料が生産できるかどうかという重要な問いかけが、いまだにその支持者の足手まといとなっています。

 立証されていない生産システムに希少資源を費やすリスクをどうして冒せましょうか。地理学者バーツラフ・スミル(Vaclav Smil)や保守的なハドソン研究所のデニス(Dennis)やアレックス・エーブリー(Alex Avery)のように、持続可能な農業や有機農業に重点をおいた何人かの研究者は、それを推進させれば、グローバルな南では数百万人に飢餓や崩壊をもたらすと描いています。持続可能な農法がよく描写されるように、立証もされておらず、あるいは、非生産的ならば、そうした懸念は有効でしょう。ですが、近代的な持続可能な農法の数多くの前例を何千年も開発・実地試験してきた小規模農業や家族農業を別としても、慣行の工業的な農法に疑問を持つ人たちは、過去40年を無駄にすごしていません。かなりの量の科学的文献が「慣行農業」と「持続可能な農業」を比較しているのです。にもかかわらず、何人かの科学者たちの間で持続的農業が疑問視されて以来、科学的な著作物が蓄積されていてもそれは無視されて、「新たな神話」となっています。つまり、持続的農業の収量が人類を養うには不十分だとの考えは、ほとんど「周知の事実」と見なされているのです。

 科学や公共ディベートでは懐疑することは大切で健全なことですが、入手できる情報は公正に評価され、この神話は緩められなければなりません。では、有機農業の入手できる情報は何を物語っているのでしょうか。有機農業の収量は私たちを養えるだけ十分なものなのでしょうか。

有機農業と世界の食料供給
 「再生可能農業とフードシステム」の2007年6月号に掲載された研究が、この問いかけに答えを見つけています。今、持続可能な農業生産について何がわかっているのでしょうか。私たちは、世界の人々に十分な食料を提供できると胸をはって言えるのでしょうか。

 ミシガン大学の研究者のグループは、91の研究から、オルタナティブと慣行農業との293の比較事例を見たうえで、有機農業や持続可能な農業への転換は食料生産を劇的に引き下げ飢餓をもたらすとの考えは、現在の科学知識からして、断じて支持できないことを示せたのです。

 そのかわりに、私たちは、たとえ控え目な評価であっても、有機農業が平均して、現在生産されているグローバルなレベルの2,641kcal/人/日とほとんど同じ2,786kcal/人/日の食料を提供できることがわかったのです。ミシガン大学の研究者たちは、より「現実的な」評価も考えましたが、それでは有機農業は、世界の食料生産を最大50%(4,381 kcal/人/日)まで実際に増やせるのかもしれません。

 ミシガン大学の研究は、この件について可能な限り数多くの今ある科学文献を統合し、持続可能や有機農業と慣行生産との160の比較事例を集め、持続可能や有機農業の生産、ローカルな低投入の集約農法、つまり、自給農業や非工業的な取組みの133事例を比較したのです。この研究の目的のため、私たちは特定の認証制度ではなく、むしろアグロエコロジーや持続可能、あるいはエコロジー農業と関連するカテゴリに落ちる取組みについて「有機」という言葉を用いました。

 この「有機」の実践は、一般に、天然(非化学合成)の栄養源と栄養素の循環プロセスを利用し、化学合成殺虫剤を使わないか、めったに使わずに、土壌の質を維持して再生しています。こうした農法の事例には、カバー・クロップ (緑肥としてしばしば使用)、家畜厩肥、堆肥、輪作、間作と生物学的害虫防除が含まれます。

 使用した事例は、主には査読された出版科学文献で、少数が科学者たちが「灰色文献」と呼ぶ会議の議事録や技術報告書、著名な農業研究ステーションからのオンラインで掲示された結果によるものでした。こうした出典については、たとえ評価が高い科学者や機関のものであっても「灰色」と考慮しました。そして、チームは、査読された仕事だけを用いたときと結果がかなり違うのかどうかも統計的に調べました。

 ミシガン大学のチームは、293の事例を、人間が食べる主な作物と家畜、つまり、穀類、肉、屑肉、果実等、10の一般的な食べ物の範疇に分類し、各範疇毎に有機農業と慣行・低集約的な生産との平均収量比を決めました。範疇内毎に様々な研究の収量比を平均すれば、個別研究の異常に高いか低い収量比の影響は減ります。また、ある生産物、つまり、スパイスや刺激剤は、カロリーや重要な栄養源とはならないため省略し、データは「シーフードや他の水産物」も報告しましたが、こうした食料のほとんどは野生から収穫されることから、収量比は構成しませんでした。

 私たちはこの収量比を決めると、分析着手時に使えた最新データ、2001年からのFAOの食料生産データを用いて、すべての農業が有機農業で生産されたとして、カロリーベースでの各範疇毎に理論的に利用可能な食料を計算しました。農場生産に基づくFAOのデータは、全国段階で収集し、輸出、輸入、ストック、飼料、種子、ゴミからのロスを調整しました。

 先進諸国と開発途上諸国の世界データ(FAOの各国分類に従う)を編集し、私たちは先進国と開発途上国との大きな収量比を見出しました。先進国の10の食品範疇と160の事例に基づく食料生産の評価から、私たちは、有機農業での生産が、現在のカロリー摂取量(あるいは収量比0.92)の92%に匹敵する食料を理論的に産み出せることがわかりました。この比率は、イスラエルの農業研究機関のジェラード・スタンヒル(Gerald Stanhill)による1990年の研究で見出されたものと近いものです。
しかし、開発途上地域での133事例をみて、私たちのチームは、食料生産がカロリーベースで1.80に匹敵する、つまり、現在の開発途上地域の生産の180%と評価しました。

 こうした地域の結果から、ミシガン大学の研究者たちは、「保守的なケース」と「現実的なケース」の2モデルを立てました。「控え目なケース」では、世界的な農業生産(先進国と開発途上国の双方の生産)に先進国の有機農業と慣行生産との収量比を適用しました。先進国では10の食品範疇での収量比が一般に低かったことから、それを全世界に適用することは、わずかに少ないカロリーで全世界が完全に有機農業で生産されることとなり、2,786Kcal/人/日の代わりに2,641Kcal/人/日となります。とはいえ、この数値は、健康な成人に示唆される2200~2500Kcal/人/日よりも上であって、この控え目な評価でも現在の人口には十分な食料生産があることになります。

 ですが、より現実的な想定は、比較的低い開発途上国の収量比を先進国の有機農業への転換に適用することを意味します。その結果は驚くべきことに、4,381Kcal/人/日で、現在の人口には十分以上のカロリーでした。まことに、それは、2100年に100~110億人前後でピークになるとされる人口を養うのに十分でしょう。

 どんな学術上の仕事にも警告すべき点があります。研究とは、どんな特定作物や領域のための精密な予測ではなく、むしろ現在、開発途上地域で数多く実践される慣行や低集約型農業に対する有機農業の潜在的なパフォーマンスの指標なのです。必要上の平均比は、特定の場合の予測ではありません。批判家はしばしば、ここの点や同様の点を指摘します。様々な方法の最善の比較が、最適化された有機農業システムと慣行のそれになるというわけです。ですが、こうした議論はポイントを逃します。与えられたシステムを最適化するために合意された方法はひとつもありませんし、もし、あったとしても、様々な現地状況は最適化に様々な方法を必要とするでしょう。これを超えて、最適なパフォーマンスの理論上の要件をすべて完全に満たす現実のシステムはありません。ミシガンの研究は、幅広いデータから描きだすことで、様々な状況での2つのシステムをどう比較するのかについての現時点での最良の理解を反映したものなのです。

 緑の革命の技術は、何10年間もの公的と民間の研究資金の結果、急速に進んだのであって、同期間に有機農業の研究にささげられた控え目な資源を小さくしたと主張するかもしれません。緑の革命の方法が完全に実現されたのと同じほど有機農業のポテンシャルはまだ実現されていないと考えるのです。

窒素:制限要因

 有機農業を批判する人々は、有機農業は広い土地が必要なために環境や生物学的な保全に望ましくないと主張します。これは、その収量が低く、作物の輪作の間に植えられ、その後土にすき込まれるカバークロップの作付けの栄養素を利用するためだと言われます。

 マニトバ大学の地理学者バーツラフ・スミル(Vaclav Smil)は、作物残差と厩肥のリサイクルだけを用いた作付け様式やマメ科植物での輪作と緑肥の植付けでは、人々の食料ニーズを満たすだけの十分な窒素が全世界の食料生産には提供できないと強く主張しました。緑肥他の有機によって窒素源を生み出すために有機農業は慣行農業よりも多くの土地が必要となり、結果として、環境保護にダメージとなるとの主張を正当化することに使われています。この重要なポイントについて、ミシガン大学の研究では、私たちは化学肥料由来の窒素に対し、緑肥由来だけの窒素の有用性を評価しました。

 温暖地域33、熱帯44での77研究に基づき、私たちは、現在のデータから平均的に緑肥から102.8kg N/haが期待できることがわかりました。これはどれほどのものなのでしょうか。

 緑肥が、食用作物の間、あるいは冬期休閑中、あるいはリレー作物として現在の農地をベースに植えられると仮定(大豆他のマメ科植物等の同様の作物が既に植わっている土地を除く)すると、緑肥によって年間に1億4000万トンの窒素が固定できると計算しました。2001年の化学合成肥料の世界の使用量は8200万トンですから、私たちが評価した緑肥の生産よりも5800万トン少なかったのです。

 こうした結果は、原則として、現在の化学肥料の窒素利用を代替できる十分な窒素を得るには、新たな土地がまったくいらないことを示唆します。そして、私たちの分析では、間作、マメ科の樹木との列状作付け、家畜と単年作物の統合(reintegration)、独立窒素固定細菌の土壌接種を含めて、それ以外の有機農業で認められる窒素源は含めていません。

 言い換えるならば、これは有機農業生産での収量で見出されたものと同じです。私たちの評価は控え目のものであって、もし、緑の革命を支えた努力の規模で研究資金が投入されるならば、実現できるそうしたオルタナティブな窒素源にはさらに大きなポテンシャルがあるのかもしれません。

未来は何を持つべきなのか

 私たちの研究結果は、有機農業の批判家が予測する破滅や飢餓の最も劇的な懸念が現在の知識から矛盾していることを示します。ですが、まだなされていない数多くの仕事も明らかにあります。

 例えば、有機農業と慣行生産で用いられる典型的な輪作システムは、多様で相対的な収量計算をかなり複雑なものとし、輪作システムのどんな全面的な収量調整も非現実的なものとしています。例えば、有機農業で3、4年でマメ科植物とトウモロコシとを輪作するのと、隔年でトウモロコシが植えられる慣行システムとを比較するとき、このシステムの時間・収量調整は、それ以外の輪作パターンには適用できないでしょう。ですから、有機農業と慣行の輪作システムとの生産性の違いを適切に記述するのには、さらに実験比較やデモンストレーションが必要なのです。とはいえ、私たちの研究での特定事例の調整からは、カロリーのトータル生産が有機農業の輪作システムで低下したとしても、まだ生産される食料が十分なことを示しました。

 また、将来の研究の他の方向は、エキサイティングなアグロエコロジーの探究を含んでいます。ある形態での細菌/作物の「協力」によって生み出される肥沃さ、都市農業のメリット、アグロフォレストリーシステムやコンパニオン栽培の可能性です。

 重要な科学的な文献からは、有機農業が全体とすれば、自然保護や環境保全に望ましいことは示されていますが、国家的、国際的な政策やインセンティブと調和させるために、ローカルな戦略をどう越えていくかの方法論を理解するためには、さらに研究が必要とされていることも指摘しておく価値があります。

 ですが、ここにあげた懸念は、きわめて大切な2点をぼやかすべきではありません。

a) ミシガンの研究は、有機農業が世界に十分な食料を提供できるか (将来研究にもかかわらず)について、「そうだ」という明白な回答を示し、b) 世界の飢餓や食料安全保障の問題は、十分な食料と関連づけられるのではなく、貧困や食料を得るための能力不足と関連づけられることを示しています。

 有機農業であれ、慣行であれ、十分な食料が生産されていても、公正な配分の問題や食料への権利を承認する必要がありましょうし、食料生産だけでは、どんな量を生産しても、お金がなければ生きるための十分な食べ物がなく残される人々がいる政治体制を変えられません。

 有機農業の批判家も提案者も、全世界で十分なカロリーを生産しても、その基本的ニーズである十分な食料を入手できない8億4000万人がいるフード・システムに深刻な問題があることには同じく同意できます。有機農業についての議論は確実には終わりはしませんが、世界飢餓に対応するのであれば、食料主権、どれほど生産されようともエコ的に健全で持続可能な方法を通じて生産された適切な食料への人々への健康で文化的な権利を避けることはできません。これは、私たちのフードシステムのさらなる工業化ではなく、民主化を意味するのです。

【引用文献】
M. Jahi Chappell, Shattering Myths: Can sustainable agriculture feed the world? ,foodfirst, Oct4, 2007.


縮退から没落へ・トイレで豚飼う絶望世界

2009年10月20日 21時54分44秒 | キューバ

華麗なる没落ラテン党

 久しぶりにキューバについて書く。広井良典千葉大教授の『コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来』 (ちくま新書) (2009)は、コミュニティに軸足をおき、文明の行先を照射したなかなかの快著だ。広井教授は人類文明を長期的に見据え、イノベーションによる大躍進があった後には停滞が訪れ、人々の関心は内なる内部、心や文化へ向かっていく、と説く。この目線は、話題のベストセラー、山田 昌弘氏と電通チームハピネスの『幸福の方程式』(ディスカヴァー携書2009)の論点とも重なる。幸福の方程式は、一定以上のモノの所有を達成した社会にあっては、モノの所有は幸福には結びつかない。新たな幸福を求め、モノを買い所有するのとはまったく別の消費行動が始まっている、と未来を予言してみせる。

 この主張を一歩前進させれば「縮退」(decroissance)となる。

 縮退とは、人間の幸福や尊厳を大切する社会をシフトさせるには、むしろ、経済を「縮退」させるべきだとの議論で、フランスを中心にヨーロッパでは盛んに論じられているという。17日(土)には東京に上京して、環境問題の第一人者、枝廣淳子さんとお話する機会を得たのだが、枝廣さんも当然のことながら、この「縮退」の動きに着目している。日本でもモノの所有にこだわらない若者たちが出てきていると、その意識変化に着目する。

 枝廣さんはこの「decroissance」について「脱成長と訳すのが適切だろう」と話されるのだが、「脱成長」というと日本では従来の産業型工業社会という枠組みから抜け出て、まったく別の土俵での情報化時代へのシフトといった月並みなイメージに捉えられがちとなる。だが、情報化時代であっても、パソコンもシリコン製造には電気を使うのだし、レア・メタルも使う。資源が枯渇すれば、このネット社会もいつまで続くかわからない。なればこそ、私はあえてインパクトを狙ってこれを「没落」と訳した。

 とさっそく、つるたまさひでさんが、ブログで、こんなリアクションを書いてくれた。

 「縮退を『没落』にしちゃうところが吉田さんらしいといえば吉田さんらしく面白いのだが、この訳が裏目に出なきゃいいと思う。確かにインパクトはあるが、インパクトが強すぎてもなかなか省みられないこともあるからなぁ」

 ところが、である。ネットを調べるとまさにこの「没落」を表に掲げた主張をしているサイトがあるのである。2009年09月24日に掲載された「日本ラテン党~これが日本の進む道?」がそれだ。「華麗なる没落」を目指すことで、成熟した先進国の歩むべき道を先んじて世界に示す政党、日本ラテン党を作ろうという主張なのだ。これを見つけた時には、世の中には同じようなことを考える人がいるものだ、と一瞬仰天させられた。

豚をトイレで飼う没落世界

 さて、キューバである。この没落世界がどれほどすさまじいものなのか。リサイクルについて例に取って考えたい。

 資源のリサイクル率がヨーロッパの先進国スイスやドイツに匹敵する高い国はどこか。キューバだ。では、それはなぜか。
モノがなくてもったいなくて捨てられないから。そして、革命防衛委員会から資源ゴミを寄付するように強要されるから。ここには、モノを大切にするって環境に優しくていいじゃないという、ロハス的な優れた環境意識とは正反対の、どうしようもない暗黒の環境保護世界がある。おまけにこの豚だ。市民の4割が肉を食べたいからであろう、豚等や家禽類を飼育し、生ゴミを餌にしているというのだ。そして、飼育する場所がないから、トイレに豚がいる。もう、世紀末の笑える世界だ。以前に衛生上の観点から都市農業といえども、市街地内では豚の飼育を禁じているとの論文を読んだことがあるのだが、いいのだろうか。私にはよくわからない。

 ともかく、この情報は、チューリッヒ大学の社会環境心理学のハンス教授の論文から知った。こうした細かいリサイクルの数値となると、英文がやはりソース源としては有利なのだ。以下はその拙訳である。ご関心があれば原文もチェックされたい。




 キューバ第二の都市、人口約50万人のサンチアゴ・デ・クーバ市には、比較的効率が良い市のゴミ収集システムがある。だが、焼却(incineration)、バイオガス化、堆肥化プラント等の適切な処理施設が不足している。唯一可能な選択肢はゴミの土地投機なのだが、環境や人の健康への悪影響、土壌、水、大気汚染に加え、こうした場所は、齧歯動物や鳥類の病気が蔓延する源にもなる。

 サンチアゴ・デ・クーバには将来的な廃棄物処理施設の設立計画がないことから、これは問題である。このため、土地投機される家庭ごみ量を可能な限り削減するためにいかなる対策が実施できるのか。この疑問に答えるため、サンチアゴ・デ・クーバオリエンテ大学(Universidad del Oriente)の社会学部との協力で、物質的なフロー分析と家庭調査が実施された。


廃棄物処理関係者 キューバは資源不足が深刻なことから、リサイクル推進キャンペーンに国が力を注いでいる。ガラス、プラスチック、すべての金属、紙、段ボールは、貴重な資源とされ、可能な限りのリサイクルの取り組みが既に実施されている。物質的なフローの全体像を把握するため、我々は、まず地元の廃棄物処理関係者を特定した。

・廃棄物は各家庭から発生する。
・家庭ゴミは週に2~3回、オープンなトラックにより、公共廃棄物収集機関(Servicios Comunales)が収集する。また、限られた量だが、収集業者が資源ゴミとしたものは、カサス・デ・コンプラ(Casas de Compra)として知られるリサイクルセンターに整理・販売される。
・リサイクルできるものは、カサス・デ・コンプラ(Casas de Compra)に販売もできる。例えば、空の1.5リットルのペットボトルは20本で下取りに出せる。
・市民はリサイクル用の資材を寄付するよう、様々な機能を持つ地区レベル政治組織、革命防衛委員会(Comité de Defensa de la Revolución)から時おり訪問を受ける。
・カサス・デ・コンプラも革命防衛委員会も第一資源所(Materias Primas)として知られる中央廃棄物分別施設にリサイクル品を送り、そこでは資源が分別され、処理工場に送られる。

 ゴミの実際の量と処理 物質的なフロー分析の基礎となるデータは、サンチアゴ・デ・クーバの代表サンプル、1180世帯から集められた。研究では、まず廃棄物量を測定した。このため、各世帯に7個のポリ袋をわたし、1週間にプラスチック、アルミニウム、他の金属、紙、段ボール、有機物、ガラス他のゴミを集めるよう使ってもらった。そして、週末に、ぜんまい秤を用いて、学生たちが、各家庭を訪問し、重量を測定した。

 また、ゴミの発生や処分の方法、既存のゴミ処理管理システムへの満足度、改善のためのアイデア等のテーマを盛り込んだ標準的なアンケート調査も各家庭に対して行った。このデータをダイヤグラムにまとめ、ゴミの流れとして示した(図1+2)。

高いリサイクル率 ガラスの55%、プラスチックの48%、アルミニウムの62%と資源ゴミの大半は、革命防衛委員会に寄付されていた(図1)。キューバの所得は比較的低く、カサス・デ・コンプラに販売される資材はごくわずかで、それ以外のガラスの24%、プラスチックの37%、アルミニウムの12%は家庭内で再利用されたり、別の家庭にプレゼントされていた。例えば、ペットボトルとガラスビンは、液体を入れる容器としてよく用いられ、ゴミとなったのはガラスの21%、プラスチックの12%、アルミニウムの26%だけであった(図1)。つまり、サンチアゴ・デ・クーバの各家庭のリサイクル率は、ヨーロッパのリサイクル先進国、スイスやドイツのそれに匹敵する。ガラスでは79%(スイス95%、ドイツ83%)、プラスチックは88%(スイス71%、ドイツ64%)、アルミニウム74% (スイス75%とドイツ78%)である。

 この高いリサイクル率は、資源不足を経験してきた歴史、国家や社会からの圧力による環境意識の促進と様々な要因が組み合さっている。例えば、回答者の80%以上が「健全なゴミ処分は環境に重要だ」と答えた事実が国民の環境意識を反映している。また、資源の多くが販売でき利潤となる事実にもかかわらず、ほとんどが革命防衛委員会にリサイクルされたことからも、その社会的プレッシャーの範囲が推し量れる。

生ゴミは家畜に供給 50%以上の生ゴミは、家畜の餌用として活用されている(図2)。サンチアゴ・デ・クーバでは、鶏や豚が都市の中心部でさえ飼育され、全世帯の約40%が自分で家畜に餌をやったり、他の人々の家畜に餌をやることに関わっていた。裏庭、バルコニー、あるいは便所等で、その所有者と一緒に住んでいるのだ。

 生ゴミのほとんどはゴミとして収集され、焼却されたり、庭や他の場所で処分されるのはごく少量だけであった。堆肥化の実態はサンチアゴ・デ・クーバではわからなかったが、おそらく全国的にもそうであろう。

将来の手段として考慮すべき心理面 物質的なフロー分析は将来の廃棄物マネジメントに欠かせない基礎となる。だが、適切な対策が開発された際に、人々が新たなリサイクルにどう関わるかの態度を知っておくことも重要である。「改善策」が受け入れられない危険性もあるからである。このため、アンケートには一連の追加質問も含めた。

・感情:ゴミをリサイクル、堆肥化、再利用するのは楽しいですか。
・コスト価値観:ゴミをリサイクル、堆肥化、再利用するのは努力するだけ益がありますか。
・困難:ゴミをリサイクル、堆肥化、再利用するのは難しいと考えますか。
・評判:ゴミをリサイクル、堆肥化、再利用すると、友人たちはあなたのことをどう思うでしょうか。
・意志:ゴミをリサイクル、堆肥化、再利用しますか。

 この回答からは、家庭内でさらにリサイクルを増やすことが比較的簡単に考えられていることがわかった。だが、リサイクルや堆肥化と比べ、再利用はさほど喜ばれない傾向があり、またそれを追い求める準備も限られていた。これは、それがさほど価値がなく、評判にもならないと認識されている事実のためかもしれない。また、分別と堆肥化については、高い意欲が示されたが、それを実行することは難しいとも見られていた。調査によれば、これは、家庭内に資材分別用の格納スペースや特に容器が不足しているためである。

さらなるリサイクルと堆肥化の必要性 この調査結果から得られる総合的な結論は、サンチアゴ・デ・クーバの家庭から発生するゴミは、分別の努力や堆肥化を増やすことでさらに減らせるということだ。とはいえ、家庭内で再利用を進めることは賢明ではない。
現在、プロジェクトの第二段階が進んでいるが、そこでは、ゴミの分別と堆肥化の推進戦略がテストされている。
・各個人のコミットメント:各家庭はゴミを分別し、「ゴミは家庭で分別される」との概念に意識的なコミットメントができる。
・思い起こさせる:廃棄物が分別される場所ではどこであれ、分別のためのガイドが提供表示できる。
・情報:堆肥化の原則に人々を慣れ親しませることができる。
・インフラ整備:簡単に利用できる堆肥のストック場所を設置できる。

 最終的に、プロジェクトの第三フェーズは、サンチアゴ・デ・クーバ市全域でこの成功した戦略を適用させることだ。各家庭でのちょっとした行動変化を促することで、ゴミ発生量が減らせるとわかれば、これは大きな成果であろう。サンチアゴ・デ・クーバの住民たちはすでにリサイクルにかなり上達しているが、まったくゴミがでないことが成功となろう。

【引用文献】
Hans-Joachim Mosler, Waste Flows in Santiago de Cuba, Eawag News 62e,April 2007


レディ・イブとミミズ

2009年10月17日 12時11分35秒 | 有機農業

 10月11日続いて、再びレディ・イブです。混迷する時代には、古典に立ち戻ることが必要だとつくづく思います。平賀緑さんの手作り企画「ジャーニー・トゥ・フォーエバー」には、レディ・イブが1947年に出版されたトーマス・バーレット博士(Thomas J. Barrett)の『ミミズ活用法(Harnessing the Earthworm)』に寄せた序文が掲載されていますので、私なりに訳してみました。

 私がミミズ農法の存在を知ったのはキューバを通じてですが、60年も前にちゃんとミミズの効用を認識していたイブ・バルファーの慧眼には頭が下がります。では、どうぞ。




 「表土を作ることができますか」と聞かれれば、その答えは「イエス」です。そして、この質問には次の質問、「ではどうやって」が続きます。そして、その答えは「ミミズに餌をやること」なんです。

 これは、この本の最後の文ですが、私のはしがきにも役立つように思えます。なぜなら、はしがきにも適切に思えますし、この本の全体を要約していますし、この事実が、生命の輪、あるいは自然の循環、あるいは、それ以外のお好きな言葉で呼んでも良いのですが、始まりもなければ、終わりもなく、ただ連続している。誕生、成育、再生、衰退、死、腐敗、そして再誕生の壊れないプロセス。ある生命の形から別のものへと引継がれていく物質の連続した流れ、果つることなく回り続ける循環を、象徴しているからです。

 バーレット(Barrett)博士は、それをかなり簡単にこう述べています。

 「ミミズは土の建築者だ。植物、動物、人間、そして、バクテリア、何もかもがミミズのための餌だ。鉱物粒子に生物を混ぜあわせ、再びそれを地上に送りだす。それが、ミミズの機能だ」

 そう、それは、自然が作り出した循環であって、創造主、つまり、生きる力によって動かされる循環です。それは絶えず上昇する螺旋で、より豊かで、より多様な生命の形を蓄積してきました。ただ、人類が舞台に登場するまでは。

 消耗する力、すなわち、破壊力を好み、創造的な原動力を捨て去ることで循環を逆転することが、この万物の中で最も知的だと想定される生物種に残されたのです。そうする際に、人間は寄生体の役割をしています。その破壊行為は自分たちが生存するために依存している宿主を滅ぼしているのです

 「文明の夜明け」以来、人間のこの立ちふるまいは有罪です。人間の宿主とは、この地球の表面を覆っていて、今、とてもすり減っている薄い覆い、肥沃な表土なのです。

 ですから、『文明の基礎の荒廃(The Wasting Basis of Civilization)』で、ジョンボイド・オール卿(John Boyd Orr)は、地力の荒廃の責任は人間にあるとしています。

 米国では、農業がやれる肥沃な土地がパイオニアによって発見されたおかげで、その四分の一が失われ、いまだに土壌の専門家は、毎年数100万エーカーが消えうせていると言います。同じ話は南アフリカでもあります。現在何百平方マイルも広がる砂漠は、ほんの30年前までは、豊かな作物を産み出していました。オーストラリアやニュージーランドでも、人間の強欲な開発と関連する同じ悲しい記録があり、ヨーロッパの土壌さえ同じく衰退している兆候があるのです。

 この現象は何も新しいものではありません。経済の必要性の名のもとに、神は人間を許したもうた時以来、サハラ砂漠の一部がローマの穀倉として知られていた頃から、人類はその食料源を破壊してきました。ただ、これまでに加えて、新しい要素が二つあります。近代人が沃地を砂漠化するスピード。そして、人間が発見し利用できる新たな処女地がもはや存在していないという事実です。人類は、最後の壁にたどり着きました。

 彼の過去の誤りの苦い教訓、あるいは、他の絶滅種のようにもはや地球表面上から滅びてしまった種から学ばなければならないことは、その種が環境とどう協力するかという課題を解決するのに失敗したということです。これが、今人類という種にさし迫まった大きな危機なのです。

 私たちは、いのち、創造的な力だけがいのちを促進し支えられると信じていますが、自然のお返しの法則に従うことで地力を維持できることを知っています。そして、この手段によって、土壌、植物、動物、そして、人間は活力を得ますが、時は短く、遅きを逸しないように大きな行動が必要とされています。
その警告は、知識がある人や最も評判の高い人たちからも叫ばれています。あらゆる大陸から、ほとんどあらゆる国から、行動せよとの警告が呼びかけられています。

「人類は大規模な飢餓に直面している。直ちに行動せよ。さもなくば、子どもたちは死んでしまう」

 ですが、誰がわずかでも関心を向けているでしょうか。ごくわずかです。この悲しい予言に誰がわずかでも関心を向けているでしょうか。予言者は時々迫害されます。その予言はたいがい正しいのですが、予防できる恐ろしい未来への警告に、なぜ人々は耳をかさないのかと私はよく不思議に思うのです。そこえ、これは二つのことから説明できるとの結論に達しました。最初は権力の場合です。

 当局はいつも目先の課題に占められて、ずっと近視になっていて、短期的な見解以外には扱えません。例えば、現在では、材木、燃料、住宅ニーズが、目先で重要視されて、それが結果として新たな砂漠が将来生じてしまうというリスクを正当化しているように思えるほどなのです。それはもちろん誤った視点です。

 そして、ダスト・ボールの世界を作り出し、結局は混乱することになる私たちの心の持ちようです。この混乱が、長期的な視点を選ぶことをさらに困難にしています。今の数百人の死か将来の数百万の死の間を選ばなければならないとしたら、同情する以外ありません。ですが、ある人が現在数百人を救うとしたら、将来百万人が死ぬことも眼にすることがないという見込みもいつもあるのです。つまり、時事問題を例にあげれば、原爆からの当面の危機が土壌侵食からの脅威よりもずっと大きく見えますが、そうではないのです。

 この種の生存を考えてみれば、事実、それは単なるノミ噛み付き程度のものです。ですが、当局は何を優先するかの見解が絶えず混乱していて、行動を先送りしますし、それ以外の人々も冷淡し、全体の状況に個人的に影響できることは何もないと感じています。

 そこで何を使うかです。この本を読めば、誰もそう感じてくれると思いますが、ここで自白しなければなりません。堆肥づくりや有機農業の成果の実践的な体験がある他の人々のように、私も生命の循環では土壌集団のメンバーが決定的な役割を果たすとずっと確信してきましたが、還元できる有機廃棄物をすべて土壌に還元することが、土づくりの唯一の方法であって、土壌集団を通じては作物を直接養えないと思っていたのです。

 実際、私たちは「土壌集団を養おう。さすれば、彼らがあなたの作物に養分をもたらす」というスローガンを掲げています。その莫大な数と類を見ない地力の創造者として、いつもミミズを優先する主張を認めています。これは、この本によって刷新され、既に意識していましたが、最近コネチカット農業研究所(Connecticut Agricultural Research Station)でなされた研究でも確認されて、強化された視点です。

 私自身さえも、ささやかなやり方ですが、家庭でミミズを飼っています。こうしたすべての理由から、私は、この『ミミズ活用法(Harnessing Earthworm)』という本からは、私を驚かせたり、何か新しいものは何も見つられまいと期待していなかったのです。ですが、私は間違っていました。

 例えば、私は肥沃な土では、バクテリアの重さだけで7875kg/haにもなることを知りませんでした。耕された土壌のどこであれ、肥沃であれば、自然なミミズ群が500万匹/ha (ナイル谷)にもなることを知りませんでした。世界のどこであれ、土づくりのためにミミズが集約的に繁殖されれば、最大750万匹/haものミミズが記録された農場があることも、また一般的でも250~500万匹/haもいることを知りませんでした。100万匹のミミズの目方が1トンになることも、それぞれのミミズが、24時間で自分の目方の土壌を身体を通すことも知りませんでした。

 ミミズの糞(castings)はコロイド性の可溶性の腐植からなり、周囲の土壌よりも作物が使える養分がずっと豊ですから、これは自然な作物の肥料が驚異的に一年でストックできることになります。ミミズはそれ自身の生命を循環させていますから、絶え間なくミミズそのものの死体が加えられることを別にしてもです。この本による同じ地力の土壌からの収量、収穫高の違いの数値は、ミミズがいても、いなくても、驚異的ですが、得られたデータが研究されれば、信じられなくはありません。

 私たちの気候条件下でもそうした壮大な成果が得られるのかは疑問に思っていますが、ミミズはとても広範な地方に存在できるし、存在しています。ミミズは存在できるところならば増えられますし、特別な繁殖箱での卵嚢(egg capsules)の集約的な繁殖え迅速にそれを増やせる方法もあります。厩肥か増えるミミズがいなくても、卵が移された時に、最終的な場所、庭、圃場、あるいは果樹園で、ミミズが生き残れることがポイントです。

 この集約的な繁殖技術はとてもシンプルで、彼が購入したストックか自然のシマミミズから始めるかどうかに関係なく、バーレット(Barrett)博士が明確で簡潔に指示しているので、誰もが自分自身のために試験できます。ですが、読者にとって、大きく省かれていることがひとつあります。卵嚢が生産される最適温が21度なので、栽培箱やマスターベッド(master beds)を保護するために温めるためのアドバイスが多くされますが、それを寒さからどう守るかについては何も言われません。ですから、私自身の経験はお役にたつかもしれません。冬の間には、ボックスでの飼育は中止するか、地下室か、暖めた温室でしなければなりません。マスターベッド(master beds)での飼育は、地面の下に置いたり、寒空のときに藁で覆うならば、続けられます。もちろん下の排水と上からの水びたし予防には注意しなければなりません。

 私は、この本で示唆された実験を直ちに行うことがとても重要だと考えています。有機農業の生産者たちがよく意識するように、土壌科学者たちの主な反論は、数学に基づいています。

 「堆肥を戻す以上に作物から取り出されている。その結果、欠乏するに相違ない」

 ですが、有機農家は、プリンの味は食べてみなければわからないと、証拠を示せます。ですから、生きた生物体に数値は適用されませんし、全体に加えられない数字があるに相違ありません。この著作は、行方がわからない数値のひとつの手がかりを少なくともなるように思えますし、私たちの科学者がそれに値する研究をすることを願っています。

 人類は、最後のフロンティアにいます。どんな新たな土壌もこの水平線にはありません。垂直に新たな土壌を構築することに、望みがあります。バーレット博士は、ご自身が推薦するやり方でミミズを利用することで、2、3人世帯の厨芥か生ゴミで、毎年何万匹もの土壌の建設者、ミミズを育てられるほど理想的な餌になると断言しています。
このやり方で、博士自身、1エーカーの土地で家族が食べられるすべての果物や野菜を生産していますし、花や芝生も育てています。博士は、栽培ベッドでの実験から、有機物を十分に提供するならば、1エーカーの土が天文学な数のミミズを支えられることを発見し、63~375万匹/haのミミズは、地球の地力を保ち、人間に必要なものを提供するのに十分であるとのオレゴン州立大学とニューヨーク州立大学のフィールドスターディーの数値を引用しています。

 別の書物で、バーレット博士はこう要約しています。

「今日の文明が直面する問題は、食料生産に直ちに使える形態に土壌を再建し、地球を回復することだ。自然のゆっくりとしたプロセスでは、1インチの表土になるには500~1,000年もかかる。あが、好条件下では、ミミズは同じ仕事を5年でやれる。ラグボックス(lug-box)や堆肥の山で働く個人は、自分の菜園用に表土を作り始められる。肥料の山で働く農民も自分の農場でそれがやれる。ゴミの山を利用するコミュニティもそれがやれるし、その資源で働く国もそれがやれる」

 私は土壌協会の仕事と関連して、世界の土壌侵食や土壌の回復・維持の緊急な必要性について「可能ならば、どんな土であれ残された活力を高めてください」と講義します。すると、人々はよく口にします。「状況が恐ろしいことはわかりますが、私たちはどうすればよいのでしょう」。この本にはこの質問に対する実践的な回答があると感じています。

 「ミミズに餌をやってください」

 このお答えは軽薄に聞こえるかもしれません。ですが、この本をお読みになれば、そうお考えになるとは思いません。そのテクニックは簡単で、普通の堆肥づくりよりもずっと作業も少なく、本気で誰もがミミズを増やすことに関心を向けるならば、植木鉢かプランターでもそれがやれるので、できない人は誰もいませんが、それが人類生存の鍵であると思います。なぜなら、ミミズに餌をやるためにすべての有機ゴミを利用し、ここで説明したやり方で仕事することは、すでに耕作されている農地の地力や生産性を大きく高めるだけでなく、砂漠化やダスト・ボールの更なる進行を抑えることも可能かもしれないからです。

 これは人類に安息をもたらすでしょう。人間が作り出したすべての砂漠を緑がずっと支えられるよう復元するための水と生命と能力のために、それ以外の創造的な力の活用法を学ぶことでしょう。

【引用文献】
Eve Balfour, Introduction to 'Harnessing the Earthworm


小規模農業が地球を冷やす

2009年10月14日 01時18分10秒 | アグロエコロジー
 このブログは、私の個人的な趣味で日々、マイナーきわまりない話題を扱っています。1円の得にもならないこんな情報を読むために、日々アクセスしてくださる読者の方に感謝します。
 
 さて、ビア・カンペシーナという国際農民結社もマイナーといえば、オタッキーなほどマイナーです。ですが、海外ではちゃんと本も出ています。注文していた『ビア・カンペシーナ、グローバリゼーションと農民の力(La Via Campesina: Globalization and the Power of Peasants)』がやっとアマゾンから発送されましたので、読んでみて面白そうであれば、内容をこのブログでいずれご紹介してみます。

 さて、今日は、このビア・カンペシーノの主張が、いかに過激で、アンバランスであって、されど、なぜか、本質的を捉えているために笑える、という一端を感じていただくため、今年12月にコペンハーゲンで予定されている地球温暖化の会議に対する彼らの見解を紹介してみます。

 ネタは、極左集団、フード・ファーストからのものです。いささか「檄文調」に訳してみましたので、あしからず。ご興味のある人は、原文を見てください。これほどアジってはいません。では、どうぞ。




 気候変動への科学的な予想は、全世界で増え続けている。2009年12月7日~18日にかけ、コペンハーゲンでの国連気象変動枠組条約(UNFCCC= United Nation Framework Convention on Climate Change)会議に世界の指導者たちは集まるであろう。

 だが、この条約で議論される解決策では、炭素固定のプロジェクト実施には支払われても、エネルギーの大量消費者どもは、なんら罰せられることなく汚染し続けられる。京都議定書やそれが実施した市場原理は、地球温暖化ガスの放出を減らし、気候変動を減速させてはいやしない(1)。

 状況が切迫しているにもかかわらず、この会議は、絶え間なき成長の幻想に基づく今の生産・消費モデルを抜本から問いかけようとはしていないのだ。連中はその代わりに、この惑星の破壊を犠牲にしても、民間企業が巨額の利益を産み出し続ける新たなビジネスチャンスを発明している。炭素は新製品として民営化された商品となり、現在の経済危機につながった実体なき経済にそれを新たな製品として使おうとする投機家どもの手にゆだねられている。

 いま、気候変動の議論の中心にあるのは農業だ。統計によれば、1990~2005年にかけグローバルな二酸化炭素放出の17%は農業が原因である。おまけに、主に工業型農業による環境破壊と同じく、農地へのプレッシャーが、森林破壊の主な原因の一つだし、それ以外の温暖化ガス放出の主因のようにも思える(2)。

 大規模なアグリビジネスが規模拡大し、広大なモノカルチャー農業が、石油に依存する化学肥料、農薬、機械を大量に用いて、炭素豊かな森や草原を緑色の砂漠へと変えていく。おまけに、それらは、まったく不要な二次加工や交通輸送と結びつく長大な流通に基づいているのだ。

 一方、小規模な持続可能な家族農業は、気候変動の主な解決策となりうる。それは、地球を冷やすことに寄付し、経済を再地方化することに決定的な役割を果たす。かくして、我々は持続可能な社会で生きられる。

 持続可能な食料の地場生産では、さほどエネルギーを使わないし、輸入家畜飼料への依存を根絶し、生物多様性を増やしながらも、土壌中に炭素をストックできる。在来種子は、すでに我々に影響している気候変動にはるかに適応力もある。

 家族農業はこの惑星の炭素バランスに寄与するのみならず、全世界の28億人、女性や男性に雇用をもたらし(3)、飢餓、栄養不良と今の食料危機と戦う最良の方法となっているのだ。

 もし、小規模農場が、土地、水、教育・医療にアクセスでき、食料主権政策によって支援されうるならば、それは全世界の人民を養い、この惑星を保護し続けることであろう。

 全世界の農民にとり、例えば、REDDイニシアチブ(森林減少と森林劣化による排出の削減)や炭素相殺メカニズム、地球工学プロジェクト等の気候変動のために提案された誤った解決策は、旱魃、竜巻、新たな気候パターンそのものと同じほど険悪なものだ。

 生物炭化法(biochar initiative)、不耕起農業 (no till agriculture)、気候耐性のある遺伝子組換え作物等の提案もアグリビジネスからの提案であって、小規模農民をさらに周辺に追いやることであろう。危機の解決策としての工業的モノカルチャー・プランテーションの推進やバイオ燃料も農地への負荷を増やす。これらが、農民や先住民のコミュニティをその領域から追い出し、発展途上国における多国籍企業の大量の農地取得にすでにつながっているのだ。

 これまでどおり、二酸化炭素を排出し続けるための口実として、小規模農業の環境益を用いることは不公正である。国連気象変動枠組条約は、今、炭素取引のメカニズムに、農地を含める体制を論じているが、こうしたメカニズムは必ずや失敗することであろう。なぜならば、化石燃料の使用を減らしたり、先進工業国の放出削減に重点を置いていないからだ。

 それゆえ、ビア・カンペシーナ(La Via Campesina)は、その全会員や友人、賛同者に対し、2009年12月の気候変動枠組み条約会議間にコペンハーゲンや全世界での動員を呼びかける。そして、何百もの社会運動と組織による抗議の一部として、農業のための特別行動デー(A special action day on agriculture)が宣言されよう。

 コペンハーゲンに向けて、全国、そして、地元段階でなしうることは

1. 小規模農業や小規模な農場生活に対する気候変動の影響と関連したデータや情報を収集すること。
2.気候変動の市場ベースの解決策/誤った解決策の小規模農民への影響と関連したデータや情報を収集すること。
3. 草の根レベルから、小規模農業がいかに生態系を保全しているかの情報を提供すること。
4. 市場ベース、そして、財界寄りの「解決策」を拒否し、小規模な持続的農業や食料主権の保護等、現在の危機に対する真の解決策を推進するよう各政府を説得すること。
5. 動員に参加すること!

 他の社会運動と共に、我々は、コペンハーゲンに向けた9月でのバンコクでの最終予備会議にも参加するし、2009年10月、11月のWTO会議やFAOの食物サミットにも、社会的正義、気候正義のために参加するつもりだ。

 我々は気候変動枠組み条約の誤りしビジネス解決策を拒絶する!。我々は、農民の農業やローカルなフードシステムが大きな役割を果たす人民中心の経済に向け、世界経済の緊急なる再設定を要請する。

人民と惑星は利益よりも重要である!

環境の破局をビジネスなんぞにするな!

小規模な家族農業と食料主権こそが地球を冷やす!

(1) 炭素貿易にかかわるシティグループのピーター・アサートン(Peter Atherton)は世界最大のカーボン市場についてこう語っている。「ヨーロッパの放出買い取りスキームは、放出を制限に何もしていない。政策目標は達成されただろうか。価格があがり、放出が増え、利益があがっている。そう、それは正しくはない」
(2) Address by Yvo de Boer, Executive Secretary of the United Nations Framework Convention on Climate Change , 14 May 2009
(3) ル・モンド(Le Monde)、2009年4月23日

【引用文献】
Via Campesina says Stop! The UN Framework Convention on Climate Change is going off the rails!


有機農業の父

2009年10月13日 00時08分26秒 | 有機農業

 昨日に続いて再び英国のお話です。私が「有機農業の母」としたレディ・イブは伯爵令嬢でしたが、「有機農業の父」とされるウォルター・アーネスト・クリストファー・ジェームス(Walter Ernest Christopher James)は、ノースボーン男爵4世(Lord Northbourne:1896~1982)です。

 卿は、宗教、形而上学、科学を深く学び、近代社会の特性を鋭く分析しました。そのビジョンは当時としては傑出したもので、1940年代に早くも近代社会の病理が、いのちの全体性との有機的なつながりの断絶に由来すると判断していましたし、卿は創生記の有機農業運動をリードし、その著作は、アルバート・ハワード卿(Albert Howard)、ロルフ・ガーディナー(Rolf Gardiner)、エレンフレッド・ファイファー(Ehrenfried Pfeiffer)、H.J.マシンガム(H. J. Massingham)等の有機農業の先駆者たちに大きく影響し、同時代に生きた若者たち、フリッツ・シューマッハ(E. F. Schumacher)やトーマス・マートン(Thomas Merton)、ウェンデル・ベリー(Wendell Berry)にも影響を及ぼしました。

 卿はオックスフォードで学んだ農学者でしたが、例えば、農業についてこう書いています。

「最高のものは、生物な完全性からのみ生まれる。それは、全体とも呼びうる。それを達成しようとするならば、農場そのものが生物的完全性がなければならない。それは、生ける実体でなければならないし、それ自体が有機的生命とバランスがとれた単位でなければならない。どの部分も全体と結びつく。生産物を家畜を通して厩肥とし、作物に還元する循環は、きわめて複雑で、センシティブである。とりわけ、長期的には、どんなバランスの攪乱にもセンシティブである。もし、このバランスを維持しなければ長期的には土壌は疲弊してしまう。本当の地力は、各特定の農場の状態に適切なシステムの下でのみ確立しうる。そして、どんな場合であれ、それはとても時間がかかるものなのだ」(1)

 スコーフィールド(Schofield) (1986)は、「有機農業」という言葉が、卿の著作『大地を見よ』(Look to the Land) (1940)で初めて使われたことを指摘し、有機農業や有機体としての農場の概念を用いた「忘れられた古典」と述べています。オーストラリア国立大学で有機農業を研究するジョン・ポール(John Paull)博士も、ファマーズ・マーケット、食べものと健康との関係、予防原則、ケア原則、生物間のつながりや相互依存、地力衰退への警告を含め、有機農業やバイオダイナミック農法の今につながる議論を早くも論じていると評価し、「有機農業の父」のタイトルを与えるとすれば、それは卿に与えるべきだろうと述べています。

 『大地を見よ』は2003年にSophia Perennis, New Yorkから復刊され、良く知られ、かつ、読まれているといいます。これも、学術研究者の間では、あえて口にするまでもない、イロハ中のイロハなのでしょうが、私のような素人にとっては、初耳ですし、ネットでも日本語ではレディ・イブ以上にヒットせず、日本語での翻訳書もでていないと思います。そこで、以下に、ジョン・ポール博士が本書の要旨を抜粋したものを紹介してみましょう(2)




 有機農業という言葉は、オックスフォード大学の農業専門家、ノースボーン卿により作られた。卿の著作『大地を見よ』は第二次大戦中の1940年に出版されたが、それは、卿が化学農業と呼ぶ農業と相反することために、農法への対応として使われたのである。この言葉は、第3章の見出しで「化学農業に対する有機農業」(p. 81)という主張で紹介されている。

 卿は有機体として農場を見る思想でも貢献し「生活全体としての農場」(p.81)と記している。この概念の最初の労作として卿は「農場そのものに生物的完全性がなければならない。それは生ける実体でなければならない。それ自体がバランスがとれた有機的な生命をおくる単位でなければならない」(p.96)「輸入肥料に依存する農場は、自給自足してはおらず、全体的に有機でもない」(p.97)と書く。卿は「農場はひとつ以上の意味で有機でなければならない」(p.98)、「そこで栽培される植物、土壌、微生物とが、有機的な全体を形成する」(p.99)とホーリスティックな視野も提示している。

 卿は、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner:1924)の思想に影響を受け、ケント(Kent)にある卿自身の領地でその思想を実践した。そして、「故ルドルフ・シュタイナー博士の推薦により発展されたバイオダイナミック農法は…、約15年、ヨーロッパ大陸では高度に進展しており、その有効性を立証されたものと言える」(p. 173)と書く。また、文献目録でエレンフリード・ファイファー(Ehrenfried Pfeiffer)博士のバイオダイナミック農法やガーデニングにもふれ、それをシュタイナー農法とみなしている。

 有機農業が別の形で表れるのは、卿の警鐘の場面である。

「化学農法を有機農業の代わりに用いようと試みる結果は、非常に明確ないま以上にずっと有害であると長期的には判明することであろう。人工堆肥産業がきわめて大規模で、かつ、よく組織化されていると指摘することにはおそらく価値がある。そのプロパガンダは微妙であって模造物が頑固に残り続ける」(p.103)。

 そして、「有機農業は実用的である」(p.148)と第5章の見出しでも再び表現されている。

 著作『大地を見よ』は「生命の相互依存」(第1章p.1)から始まり、卿は「人間や人間社会や地理的単位があたかも、他のすべてから隔離されるかの如く考えることは無意味である。すべての人間の命は、無数の人間以外の生物との無数の命とのつながりである…。そこにはまさに真の経済的、生物学的なつながりがあり、世界のあらゆる生物との間には、包括的で無限の複雑さがある」(P1,2)と書いている。この章で、卿は有機体の概念を紹介している。「命のメカニズムは、我々が有機体として知る構築形態を通した物質の連続した流れである。いかなる生命であれ、いかなる有機的なアイデンティティあれ、あるのは形態のみである」(p.3)。

 そして、21世紀の有機農業やバイオダイナミック農業の懸念や課題の多くが1世紀前に卿によって紹介されている。卿は食品の質について「外観や味、分析によって明らかにされる化学組成他以上の非常に微妙なものである」と特定する (p.8)。卿にとっては「良い食べ物とは、バイタリティー、個性、新鮮さがある食べ物であって、単なる刺激や空腹を満たす食べ物ではなく、正しく育てられ、いのちの伝達手段として有効」(p.129)なものである。卿は「バイタリティーとは非常に非科学的な用語である」(p.166)と認めつつも、外ずらだけの食べ物の問題に重点を置き「食べ物にとって本当に大切なことは、生命の乗り物としての効率さにある(p.62)」と述べ、「本当の質が安さに屈している」(p.66)と懸念している。

 卿は、生物多様性に対応して、モノカルチャー農業も避けるよう指摘している。

「大規模モノカルチャー、ただひとつの作物だけの栽培は、様々な意味で土壌中の要素のバランスを壊す。そこでは、作物間のギブアンドテークが全くなく、病害が容易に広まってしまう。自然はいつも動植物の混合物を供給している。それによってのみ、廃棄物がなき生命の循環を維持し続けられる」(p.21)

 ローカリズムについても突出した課題として特定している。

「全世界から荷を運ぼうとするのは、ばかげている。それが欲しい場で、そうしたものを作り出すことができた方がよいときに、誰かがそうしてしまうから、利益が生み出せてしまうのだ」(p.104)。

 そして、経済学の限界について卿はこう書いている。

「我々は、資金的な利益以外の利益の考えを全く持たないようになってしまった…。この思い違いが、安さがあふれることにつながっている。だが、がらくたがたくさんあって、なにが使えようか」(p.66)「生物的コストと称されることへのコストについては、考慮されないどころか、まして、評価すらされていない」(p.28)と指摘する。

 卿は農場価格についても「生産者が受け取る価格と消費者が支払う価格とのあまりの大きな違い。そして、販売業のパワーと優位」(p.37)と嘆く。また、卿は化学農業について「地力を盗む取り引きや処理の過程である」(p.148)と批判し、「地力が掘り尽くされている」(p.157)と悔悟している。

 また、科学的還元主義の限界についても「生ける創造物については、いかなる化学者も、いかに謙虚でありとても化学用語で分析されたこともなければ、今まで説明されたこともない。そして、そうできるわずかな見込みすらない」(p.160)と批判し、「科学的農業は、主に計算機と原簿と化学農業経済学者の結合が推薦する管理された農業に含意することである」(p.157)と批判した。卿にとっては「農業とは化学の混合物として扱えず、コストでは換算できず、近代ビジネスのスピード、安さ、画一化に緊急に適合させるべきものでもない。自然は追い立てられるべきものではなく、もし、それを試みるならば、ゆっくりとだが、とてもハードに自然は仕返しするであろう」(P90,91)と述べている。

 卿は予防原則(Precautionary Principle)についても早くて明快な説明をしていた。

「いかなるゆゆしき行動も決める前に、あらゆる印象に対する科学的証拠を待つならば、いくつかの誤りを避けられよう。だが、実際に、真に重要なことへの決定は、印象、若しくは直観でなされるのであって、さもなくば、それらは遅きを逸しよう…。我々は、めったに仮説の科学的検証を待てない。だが、もし、そうすれるとすれば、完全な科学的検証はほとんどは可能ではないことから、もはや死んでしまっていよう。科学的証拠を要求することは、思想の発展を遅らせるためにしばしば用いられる武器であるというのが残念ながら事実なのだ」(p.41)。卿は未来を見据え、「未来の農業は我々の過ちを償うことは将来の世代に残されることとなろう。だが、彼らにはもはや必要な術はないかもしれない」(p.31)と警告している。

 そして、伝統農業についてはこう記す。

「わずかの病害虫問題しかなく、病害虫への対抗措置としてとりたてて防御手段なくしても、人工肥料なくしても、その地力を損なうことなく、集約的に耕作している人々が少なからずいる」(p.51)。

 そして、卿は機械や資金力によるやり方を批判(p.110)し、「誤った哲学の広まりのために支払われたコスト」(p.110)を警告し、「死の力は生きる力によってのみを克服しうる」(p.110)、「我々はいかに農業を行うかを学び直さなければならない」(p.113)と書き、「我々の前にあるタスクは何世代にも及び… 団結と個々の努力の組み合わせにより…何十年、いや、おそらく何世紀もの戦いとなるであろう」(p.115)と提起した。

 卿はウィルダネスについても書いている。

「良き農業はいつも美しいが、我々のほとんどはウィルダネスもまた好む。最高の農業がウィルダネスにふれることなくしてはないことからそれは喜ばしいのだ。ウィルダネスの姿とそれとの親密さは、あらゆる姿の中でも最も魅力的なものである」(p.169)。

 卿は一貫してホーリスティックな見解を持ち、「全体ではなく点だけを見て、病気の抑圧の結果としての偽物の健康を求める近代的な治癒(p.47, 48)」に批判的であった。

 そして、化学的征服主義者にはこうコメントした。

「自然を征服するとの思想は、あたかも人間がその優れた能力を切り離すために、自分自身の頭を切り落とそうとするかのようだ… 。我々は自分たち自身や自然との戦いを発明した。無論、我々自身も含め、土壌も自然全体も苦しめられる… 。我々は、腕ずくと知性をもって自然を征服しようとしている。今、我々に残されているのは、愛の道を試みることである」(p.192)。

【引用文献】
(1) Lord Northbourne,ORGANIC (Ltd)
(2)John Paull, The Farm as Organism: The Foundational Idea of Organic Agriculture
Elementals, Journal of Bio-Dynamics Tasmania,2006.


地産地消は有機農業よりも環境に優しい

2009年10月12日 18時41分20秒 | 有機農業
 昨日に続いて、英国のお話です。4年も前のBBCのニュースがネタですが、こうした試算をしてみると日本でも面白いかもしれません。

全農場が有機に転換すれば年間に1500億円儲かる

有機認証を受けた安全・安心農産物を米国から買うのと、農薬や化学肥料がかかった農産物を地元で買うのとでは、環境にとってどちらが望ましいライフスタイルなのだろうか。

 「地場農産物を買った方が、遠方の有機農産物を買うよりも環境に優しい。たしかに有機農業は価値がある。だが、20キロ圏内の地場農産物を買う方が、もっと環境保全になる」

 定量的な数値試算を根拠にこう主張してみせるのは、英国エセックス大学のジュールス・プレティ(Jules Pretty)教授とロンドン市立大学のティム・ラング(Tim Lang)教授だ(2)。

「実際のところ、イギリス人は食べ物に三回代金を支払っています。一回目はスーパー、二回目は環境負荷、そして三度目は農業補助金という形でです」

 そう、プレティ教授が言えば(1)、ラング教授もこう述べる。

「食品価格は外部不経済を考慮していません。環境へのダメージ、気候へのダメージ、インフラへのダメージ、そして、道路の輸送コストもです」(2)。

 では、この隠された食品価格は一体どれほどのものなのか。プレティ教授は、表面化されない輸送コストや環境負荷の経費の値段を組み込むと、実際の値段はスーパーの小売価格よりも最高で12%高くなると主張する。

「状況が変われば、どれだけ経費が削減されるのか。それを評価してみることが課題を明らかにするひとつの方法なのです」
 教授らは、慣行農業が環境に対し毎年15億ポンド(2130億円、1ポンド=142円で計算)の負荷を与えていると試算する。例えば、飲料水から農薬を除去するには、毎年2億5000ポンドの経費がかかっているが、それは水道料金に加算されているし、それ以外にも、BSEや抗生物質耐性問題もある。これらは、知らず知らずのうちに健康上の経費として負担されているのだ。そして、土壌流亡や汚染、生物多様性の喪失といった環境への負荷もある。

 では、英国の全農場が有機農業に転換したとすればどうなるのだろうか。

「こうした隠された外部コストは、年間15億ポンドから3.85億ポンドまで減らすことができ、差し引き11億(1562億円)ポンドの価値を産み出すことになるでしょう」

 そう教授らは主張する。農業補助金にも問題がある。英国では年間に31億ポンド(4400億円)の農業補助金が投入されているが、BSEのため2001~2004年には、さらに20億ポンドも増えている。そして、この膨大な補助金は、環境に悪影響を引き起こす農業生産の振興につながっているのである(1)。

フード・マイレージという問題

 有機農業への転換や補助金以上に環境にとって大きな負荷となっているのは、「フード・マイレージ」だ。ラング教授は、農産物輸送に伴う環境問題を浮き彫りにするため、15年前にフード・マイレージの概念を創案したのだが、こう述べる。

「食べものがどれほど遠方から運ばれているのかは、政策立案者にも消費者にも、より重要な問題となってきています。例えば、遠距離輸送されても、地元産であっても、果実や野菜の栄養は変わらないので、同じに見えますが環境的には正反対だからです」

 プレティ教授とラング教授は、英国全土や世界各地から食卓へと日々運ばれる食べものが、どれほど環境に負荷を与えているのかを評価してみた。

「フード・マイレージは私どもが考えている以上に重要なものなのです。そして、地元産のレタスを買うことは、ヨーロッパの反対側で生産された有機農産物を買うよりも良いことなのです」

 プレティ教授は、そう語る。

 例えば、20年前の1980年代と比べ、食べものは23%も多く道路輸送されるようになり、かつ65%も遠距離から輸送されている。現在、英国の道路で運搬される全貨物の28%は食品か農産物で、16億トンだ。これに距離をかければ1490億トン・キロにも及ぶ。

 おまけに、もっとばかばかしいことがある。英国には毎年約1220万トンの食料が輸入されているが、同時に740万を輸出している。毎年約40万トンの牛乳を輸出しながら、同時に同量を海外から輸入しているのだ。もし、こうした食料のすべてが居住地域20km圏内からもたらされれば、環境負荷や混雑から生じる年間21億ポンド(3000億円)が節約できる。

 消費者ひとり一人がスーパー等の店舗から自宅まで食品を買う際に生じている環境負荷も思っている以上に大きい。政府統計によれば、英国人一人当たりの平均食費は週あたり24.79ポンド(3520円)、うち外食費が7.53ポンド(1070円)となっている。だが、消費者が買い物に出かける平均距離は、1985年には4kmだったのが、6.4kmと長くなり、年間平均で221回、買い物に出かけている。もし、自家用車のかわりに、バス、自転車、徒歩で買い物にいけば、さらに11億ポンド(1562億円)が節約できるのだ。

 つまり、全農家が有機農業で生産し、環境汚染につながる農業補助金が廃止され、消費者が地場農産物を自転車で買いにゆけば、毎年40億ポンド(5680億円)以上が節約できることになる(1)。
プレティ教授は言う。

「私たちが日々行う中で、最も政治的な行為は食べることなのです。私たちの日々の行動が、農場、景観、そして食品産業に影響を与えています。フード・マイレージは、以前に私たちが思っていた以上に重要です。地産地消を推進するうえで、さらに多くのことすることが必要なんです(1,2)」

 ラング教授は言う。

「ですから、消費者に対してこうメッセージを送りたい。英国産の農産物を買うだけでは不十分です。あなたのお住まいの地域から買えばもっと良いと。もちろん、私たちの主張は消費者には苛立ちをもたらすものかもしれません。ですが、消費者は、購入する食品について倫理的な選択をするべきなのです」

 ラング教授は、スーパーが、商品の産地を表示すべきだと主張する。

「問題は、私たちが情報を得ていないことにあります。環境に良いことをしたいと思っても、食品表示からは本当に必要な情報が得られません(2)ですから、ひとつの方法は、スーパーの食品に輸送距離を表示させることなのです。フード・マイレージを製品に表示すべきなのです。食品業界は食品流通の効率化のために10億ポンドも投資していますが、まさに気が狂っています。これこそが、消費者が情報を得られずに悩んでいる領域なのですから」(1)。

【引用文献】
(1) Steve Connor, Buy Local Produce and Save the World,Why Food Costs £4bn More Than We Think,Independent/UK, March 3, 2005.
(2) Local food 'greener than organic',BBCNews, 2 Mar, 2005.