没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

挫折の革命~サンディニスタへの道2

2007年06月25日 00時56分34秒 | 革命家

 1978年1月、ソモサは国家警備隊にチャモロを暗殺させた。この事件は、ニカラグア国民の反ソモサ感情をあおり、1979年5月、サンディニスタ民族解放戦線は、ニカラグアの全土で一斉蜂起。民主解放同盟も都市部でストライキやデモを組織し、8月にはニカラグア国内のほとんどすべての都市で市民が蜂起した。蜂起した一般市民に対し、国家警備隊は容赦なく無差別砲撃や空爆を行ない、ニカラグアは内乱状態に陥った。この内乱は全人口60万のうち4万人が死亡するほどの凄まじいものだった。

 だが、サンディニスタ民族解放戦線が首都マナグアに迫った7月17日、孤立無援となったソモサはついに米国に逃亡。ソモサ独裁政権は崩壊した。ダニエル・ホセ・オルテガ・サアベドラ(Daniel José Ortega Saavedra・1945~)が国家再建会議議長に就任し、ニカラグア全土から集まったサンディニスタ民族解放戦線のゲリラ部隊は、民衆の大歓声に迎えられて、マナグア入城を果たした。

 だが、革命政権の改革がうまく進んだのも1981年までだった。

「夕方の5時ごろになると決まって私を強姦しました。来る日も来る日も交替で犯したんです。膣が使い物にならないとみるや、今度はいっせいに肛門を犯しました。5日間にわたって60回も犯されたのです」

 ニカラグア北部のエステリ州にあるサンディニスタ革命政権が作った集団農場のある二児の母親はこう語る。農場には、彼女を含め、8人の女と15人の男が住んでいたが、農場が「コントラ」の襲撃を受けたのだ。コントラは彼女が見ている前で、夫を殺し、もう一人の住民の眼球をえぐりだした。別の協同農場の住民はこう語る。

「農場には15歳の少年がいましたが、お腹をざっくりと切り裂かれ、腸が地面に引き伸ばされて置いてありました。まるで縄みたいに」

 コントラによって、住民が面白半分に殺され、女たちは強姦される。少女を拉致して売春婦として売り飛ばす。赤ん坊を岩で叩き潰し、女たちの乳房を切り落したり、顔の皮を剥いだして、逆さ吊りにして出血死させる。刈り取った首を棒の先に突き刺す。1980年代のニカラグアではこんな状況は当たり前だった。

 サンディニスタ政権は、キューバの社会主義革命をモデルにしているから、ニカラグアも、キューバに続いて社会主義国の仲間入りしてしまう恐れがあった。1981年にレーガンが米国大統領となると、第二のキューバ化を恐れた米国は、露骨な内政干渉を始める。まず、経済援助を停止して経済封鎖を行い、次には、ソモサの国家警備隊員や新政府から離脱した保守派等の反革命勢力を集結させた。反革命勢力「コントラ」は、米国からの強力な援助のもと、1981~1984年にかけ、ホンジュラスとコスタリカ国境を越え、南北からニカラグアに攻め込んだのだ。最盛期には兵力は15,000人にまでに膨れあがり、米国はホンジュラス領内で、コントラのための基地を建設、大規模な軍事演習も行なって支援したのである。米国は、毎年コントラに多額の援助を行って破壊活動や民間人の誘拐・殺害を繰り返させる。ニカラグア政府は、国際連盟やハーグ国際司法裁判所などを介して国際社会に訴えたが、米国は無視した。

 コントラに対抗するために軍事費は限りなく増大し、教育や社会保障のための支出は削減された。1983年には国民の反対を押し切って徴兵制が導入された。だが、こうした状況下でも、1984年のソモサ打倒後初の大統領選挙では67%の圧勝で民族再建会議議長であったダニエル・オルテガが大統領に就任し、議会でもサンディニスタ民族解放戦線が過半数を大幅に上回る議席を獲得した。いまだにサンディニスタ民族解放戦線は、貧民層の信頼を失ってはいなかった。

 だが、それでも米国は、ニカラグアへの攻勢の手を緩めない。1981年から始まった経済制裁は強化され、1985年には全面禁輸を行なった。これによって、ニカラグア経済は大混乱をきたし、1988年には20,000%というとほうもないインフレで、もはや紙幣は紙クズ同然となり、失業者が増大した。

 コントラとの内戦長期化や経済制裁による生活窮乏化、そして、ソ連邦の崩壊に民衆は耐えられず、革命政権は11年続いた後、1990年の総選挙で敗れ、サンディニスタ革命は終焉した。ダニエル・オルテガは2001年の大統領選にも立候補したが、米国はサンディニスタ革命政権の復活を恐れ、公然と大統領選挙に干渉した。9月11日同時多発テロを背景に、オルテガをビンラディン同様のテロリスト呼ばわりすることによって、さまざまな反サンディニスタ革命政権キャンペーンを繰り広げることで、オルテガの当選を阻むことに成功したのである。めでたし、めでたし。


挫折の革命~サンディニスタへの道1

2007年06月25日 00時20分07秒 | 革命家
 カルロス・フォンセカ・アマドル(Carlos Fonseca Amador:1936~1976)が、政治の道に進んだのは、その育った環境が影響しているのかもしれない。フォンセカは、ニカラグア北西部のマタガルパ(Matagalpa)で生まれた。アマドル一族は裕福なコーヒー栽培農家で父は政治家だった。だが、母は農村出身の26歳の貧しい洗濯女だった。フォンセカは父が手をつけた私生児だったのだ。小学生になるまで、フォンセカは子どもとして認知されなかった。フォンセカは幼少期から、目が悪く、その後トレードマークとなった度の強いメガネをずっとかけることになった。


 1950年、14歳で中学に入学すると、フォンセカは次第に政治にかかわるようになり、マルクス主義に興味をいだいた。1954年には、数人の友人ともに貧困や社会問題を重視する「文化雑誌セゴビア」(Segovia)を出版したりした。1955年、19歳で学校を卒業すると、フォンセカはマナグア高校の図書館で働いた。だが、翌年にはマナグアの国立自治大学に入学し、ニカラグア社会党(PSN)に加わった。フォンセカは、ニカラグア社会党を通じて社会改革が可能だと信じていた。

 中米の小国、ニカラグアには、アウグスト・セサル・サンディーノ(Augusto Nicolás Calderón Sandino:1895~1934)という名の英雄がいた。サンディーノは、1927~33年まで、米国の侵攻に対して戦い続け、一歩も引かず、1933年にはついには米軍を追い返し、ニカラグアは独立を手にした。だが、サンディーノは、元部下である国家警備隊局長のアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(Anastasio Somoza García)に暗殺される。ソモサはニカラグアの国家警備隊の権力を背景に、クーデターを起こし、1937年に大統領に就任した。それが、その後40年以上にわたって続くソモサ一族による独裁時代の始まりだった。ソモサの権力の基盤である国家警備隊は組織ぐるみで賭博や売春業者と癒着し、不当な利益をあげていた。独裁者、ナスタシオ・ソモサ・ガルシア大統領は1956年9月に詩人のリゴベルト・ロペスによって暗殺されていたが、その権力は、長男のルイス・ソモサ・デバイレと次男のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(Anastasio Somoza Debayle)に引き継がれ、ニカラグアは米国への従属を深めていた。高度経済成長や工業化は進んだが、貧富の格差は広まる一方で、ソモサ家はますます富を独占した。

 だが、1959年1月1日、ラテンアメリカを揺るがす大事件が起きる。キューバ革命である。革命は、貧困に苦しむニカラグアの人々に一つの道筋を示し、反ソモサ運動を活気づけた。カストロの革命は全世界の若者たちを熱狂させたが、フォンセカも革命に魅さられた一人だった。フォンセカは、1959年2月にキューバに渡り、革命の息吹にふれた。チェ・ゲバラの影響を受けたフォンセカは、ゲリラ戦路線に転向し、ホンジュラス南部にあったニカラグアのゲリラ団に加わった。だが、1959年6月24日、ゲリラ部隊は、ホンジュラス・ニカラグア軍に攻撃され、フォンセカを含めて、多くのゲリラが捕られた。

 この敗北が、ニカラグア社会党とフォンセカとの関係を分かつことになる。社会党が「ニカラグアではとうてい革命は無理だ」と痛感したのに対し、フォンセカは革命への情熱をますますたぎらせた。社会党はフォンセカらをもてあまし、放逐した。

 捕らえられたフォンセカは、ホンジュラスの陸軍病院に監禁されていた。だが、その後、なぜか、フォンセカはキューバにいた。どうやって抜け出したのかは今もわからない。ともあれ、フォンセカは、ハバナのミラマルに小さなアパートを借り、サンディーノの研究を始めた。カストロやチェ・ゲバラも、サンディーノのゲリラ戦術に少なからぬ影響を受けていたが、フォンセカは、サンディーノのゲリラ戦術をキューバから逆輸入し、キューバ革命を青写真に戦いを進めることで、ニカラグアでも「革命」を引き起こそうと望んだのである。そうしたフォンセカの元に、多くの若者が集まり、1961年にフォンセカは、後にサンディニスタ政権の内務大臣となるトマス・ボルヘとともに「サンディニスタ民族解放戦線」(FSLN=Frente Sandinista de Liberación Nacional)を創設した。

 戦いは始まった。1963年、フォンセカは、ニカラグアのリオス・ココ・イ・ボカイ(Rios Coco y Bocay)地区で、ソモサ独裁政権に対するゲリラ戦を開始した。だが、ゲリラの装備はまだ貧弱で、ほとんど成果があげられないまま、兵士の多くが国家警察隊に殺された。何人かは国境を越えて、ホンジュラスに逃れた。

 1964年6月には、フォンセカ自身もマナグアで逮捕される。だが、フォンセカは刑務所から、ソモサの独裁政治を批判し続けた。その後、フォンセカは、メキシコやコスタリカと転々と国外への亡命を余儀なくされる。

 その間、サンディーノ民族解放戦線は、長く苦しい戦いを強いられ、国家警備隊相手に敗北に次ぐ敗北を重ねた。マタガルパ近郊のパンカサン(Pancasan)村で始まったゲリラ活動も、国家警備隊の奇襲を受け、解放戦線はほぼ壊滅状態に陥った。戦線内ではメンバーたちが対立し、組織も分裂していた。

 だが、ニカラグアの独裁はますます横暴を極めていた。兄ルイス・ソモサの死後、弟のアナスタシオ・ソモサが1967年には大統領になるが、1972年のマナグア大地震で首都が壊滅状態になった時も、ソモサは、全世界から送られた支援物資や義援金のほとんどを着服し、荒廃した首都マナグアをそのまま野ざらしにした。

 そうしたアナスタシオ・ソモサの横暴に対し、ニカラグアの各地から怒りの声があがった。有力新聞紙『ラ・プレンサ』の社主であるペドロ・ホアキン・チャモロは、民主解放同盟を1974年に結成し、反ソモサ運動を繰り広げ、それには、1960年代の経済成長で新たに誕生した中産階級や新興企業家たちが支持を寄せた。

 フォンセカが、ニカラグアに戻ったのは、こうした反ソモサの機運が高まりはじめた1975年のことだった。帰国後、フォンセカは弱体化した組織強化に懸命に努力する。だが、時はすでに遅かった。こうした国内の反発に対して、ソモサは戒厳令(1976)で対抗し、反対する人々は国家警備隊によって虐殺されていた。フォンセカも1976年11月7日、裏切りによってゲリラ・キャンプの場所を国家警備隊に通報され、攻撃を受けた。戦闘で傷を負ったフォンセカは、その翌日に死んだ。

 その後、1978年にペドロ・ホアキン・チャモロの暗殺を契機にサンディニスタへの支持基盤は広がり、1979年7月のサンディニスタの大規模な軍事攻撃や市民のストによって、アナスタシオ・ソモサ・デバイレは亡命。ついに、ニカラグアでは民族再建政府が樹立される。サンディニスタ革命政権は、1981年に農地改革法を制定、ソモサ一族がいいように牛耳っていた大農場を解体・国有化して、小作農たちに分け与えた。農民一人ひとりの自発的意志が活かされるような農業改革を進めた。

 革命政権は医療や教育政策などにも取組み、医療費は無料とされて、貧しい人でも医者にかかれるようになった。大規模な識字運動を進め、半分以上もいた非識字者が1981年までには9分の1にまで減少した。革命政権は、文化政策も進め、ニカラグアの文化を目覚めさせ、一連の女性解放政策を通じて、社会の様々な場に女性を参加させることにも成功した。フォンセカはこの革命の勝利を目にすることはなかったが、その死によって、サンディーノ民族解放戦線のシンボルとなった(続)。


挫折の革命~運河の悲劇3

2007年06月21日 23時00分14秒 | 革命家

 1989年12月20日午前0時45分。ステルス戦闘爆撃機、アパッチ・ヘリ、レーザー誘導ミサイル等、最新鋭兵器で武装された26,000名もの米軍精鋭部隊が、人口わずか232万人の小国パナマに、なだれを打って侵攻した。

 武装ヘリ部隊がパナマ市内に爆撃を開始し、最大の攻撃目標、パナマ国防軍本部は鎧袖一触鎧で壊滅。パナマ国内27カ所で直ちに攻撃が開始された。パナマ市に隣接する山あいの山村パコラでは山々に兵営していたパナマ軍兵士への村人の支援を阻止するため、ヘリや飛行機から化学物質が投下された。米軍は1940年代から90年代まで、パナマ各地でマスタード・ガス、VX、サリン、シアン化水素といった神経ガスを装備したロケット砲や弾薬の開発実験を行ってきたが、その成果が生かされたのだ(1)



 市街では市街戦となった。労働者街のサンミゲリート地区は消失し、国内でも最も貧しいスラム、エル・チョリージョ地区も爆撃され、ノリエガ一派が隠れているという理由で徹底的に焼き尽くされ、その夜、消滅した。攻撃を受けた貧民街の人々の証言によれば、米軍のヘリコプターが民間人しか住んでいない家屋を次々と狙い撃ちし、米軍の戦車が一般のバスを攻撃し、乗客26人が死んだ。民間の家屋に火が放たれ、中の住民は焼き殺され、兵士たちは救急車を次々と狙い撃ちし、搬送中の負傷者が殺されたという。

 侵攻をいち早く放送しようとした国営放送局も爆撃を受けて機能せず、米軍はラジオ局、テレビ局を占拠し、パナマのジャーナリストを逮捕した。このため侵攻時の映像は残されていない。国際赤十字はジュネーブ条約に基づいて、いかなる場合であっても戦場にはいることが認められているのだが、米軍はパナマ侵攻後、数十時間にわたって国際赤十字や『国境なき医師団』の立ち入りを拒否した。民間の人権団体の控え目な見積もりでは3日間の戦闘で少なくとも3000人程度が犠牲となったとされているが、攻撃による死者は今も公表されていないからわからない。一方、ハイテク兵器を駆使した米軍の被害は、死者わずか23人だった。電撃戦と言えば、第二次大戦中のドイツ機甲師団が思い浮かぶが、それに劣らぬほどの素晴らしい電撃戦による大勝利だった(2)

 さて、このパナマ侵攻は、ソ連の脅威が口実にされることなく実行された最初の攻撃という意味でも印象的なものだった6年前のグレナダ侵攻も共産主義化が脅威とされたし、1980年代のニカラグアへの攻撃も、協賛主義の脅威と戦うためのものだった。だが、1989年、その脅威の大本であるソ連は崩壊していた。

 そこで、ブッシュ政権は、侵攻の理由として「独裁者ノリエガを麻薬密輸の容疑で逮捕する」という名目を掲げた。ノリエガは同年12月24日にバチカン代表部に逃げ込んで亡命を申請したが、翌90年1月3日に米麻薬取締局に逮捕され、1992年7月10日にマイアミ連邦地裁で「麻薬密売」の罪により、40年の拘禁判決を受け、今もフロリダで服役中である。

 マヌエル・アントニオ・ノリエガ(Manuel Antonio Noriega:1938~)は、トリッホスの死後、彼の後継者を名乗って、どさくさまぎれに1983年にパナマ軍最高位の「国防軍司令官の地位」という権力の座についた人物である。ノリエガが、フリーポートであるパナマの利点を利用し、密貿易、とりわけ、麻薬売買に手を染めていたことは間違いない。そして、麻薬密売の大本締めだったノリエガが「逮捕」されたならば、パナマの麻薬汚染はなくなるはずである。だが、米国の侵攻後になぜか、パナマの麻薬売買の量は格段に増えた。つまり、ノリエガの麻薬密輸は、侵攻の名目であり、米国には政治的にどうしても侵攻しなければならない理由があったのだ。

例えば、以下の記事をお読みいただきたい。

「主要な麻薬取引は、まだバティスタが政権を握っていたキューバで起こった。キューバはヘロインが米国に入ってくる際の主要な中継基地だった(略)。フィデル・カストロが革命で政権を握ると、マフィアの事業はすべて閉鎖された。CIAは何年もキューバの麻薬取引に関わっていたから、マフィア同様、この状況変化で大打撃を被った(略)。そこで、マヌエル・ノリエガが登場する。ブッシュ元大統領は、CIA長官だった1976年、このパナマの独裁者と日常的に会食をともにし、米国への密輸品輸送に協力した見返りとして、毎年何十万ドルもの謝礼をCIAから支払っていた。ノリエガの名前は、少なくとも50本のCIAファイルに麻薬ディーラーとして記載されている。ブッシュ元大統領とノリエガが並んで立ち、満面の笑みを浮かべている恥ずべき写真まである(略)。ノリエガはCIAから受け取った謝礼を資金として、パナマに独立した麻薬ネットワークを作った。ついに、単独で取引を行ない、麻薬マネーをCIAに渡さずにすべて自分のものにしようとした(略)。米国政府は、リチャード・アーミテージをノリエガのもとに派遣して、元どおりの分際をわきまえさせようと説得に当たらせたが、それが失敗に終わったため、ノリエガを捕らえ、投獄した」(次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた・下P114~116)

 つまり、ノリエガは1950年代からCIAの協力者だった。そして、ノリエガが独裁権力の座にまで上り詰められた背景には、CIAからの絶大な支援があった。そして、1980年代にレーガン政権は、ニカラグアのサンディニスタ革命政権を転覆させようと様々な活動を実施してきたが、ノリエガはCIAと手を結び、このニカラグアへの攻撃活動を支援してきた。

 ところが、1986年、「イラン・コントラ疑惑事件」が発覚し、米国政府上層部や軍、諜報機関とノリエガとの腐れ縁が表ざたになる恐れがでてきた。こうして、ノリエガを権力の座から引きおろすしかなくなったのだ。レーガン政権はパナマへの経済封鎖を実施する。だが、パナマはフリーポートだったため、期待したほどは制裁の効果はあがらなかった。

 そこで、今度は「民主主義増進国家基金」というNGOを設立し、CIAとこの組織を通じ、米国はパナマの反体制勢力に1000万ドルもの大金をばら撒き、米国に留学経験のあるギジェルモ・エンダラ(Guillermo Endara:1936~)を大統領候補に担ぎあげた。1989年5月の大統領選ではこの候補者が当選した。ところが、ノリエガはしたたかで、投票箱を強制没収すると選挙を中止してしまう。そこで、1989年10月3日には軍を動かし、モイセス・ヒロルディ(Moises Giroldi)少佐にクーデターを起こさせた。だが、このCIAが総力を挙げて仕組んだ軍事クーデター計画も失敗する。かくして、パナマ侵攻作戦は実施された。侵攻後には、米国が担ぎ上げたギジェルモ・エンダラが、米軍基地において大統領就任を宣言した(2)

 以上が、パナマ侵攻の結末である。だが、侵攻の理由はそれだけだったのだろうか。さらに深い裏の理由について、ミュージシャン、八木啓代さんが素晴らしいリポートを書いている。以下は、その要旨のまとめだ。関心をもたれた方は、是非、本文を味わっていただきたい。




 パナマ運河を所有し、最大の権益を持っているのは米国だし、侵攻を起こしたのも米国だ。だが、パナマ運河が閉鎖になったところで、米国は製品の輸送が多少高くなるとはいえ、貿易が不可能になるわけではない。なぜなら、米国は、太平洋と大西洋に出口を持っているからだ。だが、そうでない国にとっては、パナマ運河が通航不可になれば、それは貿易上、死活問題になる。米国より、はるかに打撃は大きいはずだ。そうでない国。つまり、太平洋間~大西洋間での輸送を最も必要とする国。アジアとヨーロッパ・アフリカ地域の交易を必要とする国。いや、貿易上の死活問題などというものではない。生命線を止められるようなものではないか........。

 1989年当時の日本はバブル経済絶頂を迎えていた。数十億円の美術品が次々に落札され、日本企業がハリウッドに進出し、土地長者が続出した。パナマ運河の通航量は限界に達しつつある。それを見越して、第二パナマ運河を建設するという計画があった。いまなら、夢のような話だが、あの当時の日本なら、たしかに、それだけの資金力はあった。日本が第二パナマ運河建設に積極的だったとすれば、その交渉相手はほかならぬノリエガだった。トリッホスだけでなく、ノリエガ政権も日本主導の第二パナマ運河計画に期待し、パナマ市内のオマール公園に大平正芳元首相の胸像を作った。パナマ市内の繁華街には「大平通り」もできた。

 ノリエガは後に「米軍のパナマ進攻は、日本の影響力の拡大が引き金だった。米国人の凶暴さに対抗し、資金力のある日本をパナマ運河に引き込むことで、米国を牽制しようとした。そのため、パナマ運河の将来の管理が、日本の支援でパナマの手に落ちるのを阻止することを狙い、米軍は侵攻したのだ」と回顧している。
 
 パナマ侵攻事件の取材は、すでに、予想を越えた結論を導き出そうとしはじめていた。なぜ、米軍はパナマに侵攻しなければならなかったのか。パナマ運河の返還交渉に先立って、トリッホス-カストロの密談が行われていた。パナマはトリッホス時代から、キューバへの貿易封鎖破りを行っていた。

 バブル景気の資金を元に、日本が資金を出して第二パナマ運河計画を建設するプロジェクトが存在し、商工会議所がノリエガと会談に入っていた。
 さらに、ニカラグアでは二ヵ月後に選挙を控えていた。ニカラグアの人々に、サンディニスタ政権を選べば、こういう運命になるのだという強いメッセージも送れる。つまり。キューバへの経済封鎖を強化でき、経済封鎖破りをしようとする国への、強力な牽制となること。

 キューバのカストロ政権、ニカラグアのサンディニスタ政権という、ふたつの左翼政権を揺さぶること。そして、日本主導の第二パナマ運河計画を潰し、さらに強力になりすぎた日本経済を揺さぶること。そのために、米軍は万全を期したのだ。




 キューバ、ニカラグアと日本は、意外なところでつながっていた。つまり、パナマの悲劇には、一石三鳥のメリットのうえに作られたやむをえないものだったのである(了)。

(引用文献)
(1)益岡賢訳『アメリカ国家犯罪全書』(2003)作品社
(2)佐藤雅彦訳『チョムスキー』(2004)現代書館
(3)副島隆彦訳『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた・下』(2006)徳間書店
(4)パナマ情報基地


挫折の革命~運河の悲劇2

2007年06月20日 23時21分10秒 | 革命家

 太平洋戦争前に満州で鉄道を作り、満州を開発したのは我が旧大日本帝国である。だが、満州は清国から自力で独立したのではない。もし、愛新覚羅溥儀たちが「満州鉄道は我われの権利だ」といって、その返還を要求したとしたら、大日本帝国陸軍の参謀本部は怒り狂うに違いない。満州は日本の傀儡政権そのものだった。だからこそ、米国のリットン調査団によってアジア支配の巨悪として糾弾されたのだった。

 ところが、パナマという国も、その成立は、ある意味では満州国と似ている。フランスが運河開発から撤退した後に、その採掘権を二束三文で買い叩いたのは米国だった。当時、パナマはコロンビア領だった。自国の領土の採掘権を勝手に決めて売買するとは何事か。当然のことながら、コロンビアは怒った。そして、米国は、コロンビアに戦争を仕掛けさせた。それも実に巧妙なことに、この運河の部分だけを「独立戦争」を通じて独立させたのだ。米国の強力な支援のもと、パナマという国家は誕生し、運河が作られた。この政治情勢を考えれば、トリッホスによるカーターからの運河返還交渉がどれほどすさまじいことかがわかるだろう。

 だが、なぜ、トリッホスには、これだけの奇跡が可能だったのだろうか。その裏話について、ミュージシャン、八木啓代さんが素晴らしいリポートを書いている。以下は、その要旨のまとめだ。関心をもたれた方は、是非、本文を味わっていただきたい。





 トリッホスの腹心中の腹心にチュチュ・マルティネス(Chuchu)こと、ホセ・デ・ヘスス・マルティネス(José de Jesús Martínez)軍曹という人物がいる。写真で見る限り、インテリ風には見えないが、このニカラグアで生まれで、パナマ育ちの男は、驚くほど優秀で、奨学金を得てマドリッドとパリで学び、数学と哲学で学位を取った。そして、祖国パナマに戻り、パナマ大学の数学の教授となる。マルティネスは、多才な人物で、作家で詩人で、かつ、飛行機の操縦を学び、飛行家でもあった。マルティネスは、マルクス主義者だったから、国際政治学と軍事にも興味を持った。そして、教授の職を捨て、新卒の兵隊と混じってパナマ軍に入隊する。パナマきっての頭脳が、一兵卒として軍に入隊した。このことを知ったトリッホスは驚き、大統領顧問になって欲しいと依頼する。大臣でもなんでも望みの地位を与えよう。

 だが、マルチネスは断った。トリッホスも負けてはいない。何度もしつこく口説き落とし、ついに、マルチネスは根負けする。

「大統領補佐官などという地位も大臣もまっぴらごめんだ。だが、あなたの個人飛行機の専属パイロットなら引き受けてあげよう」

 マルチネスは大統領専用小型機のパイロットとなった。トリッホスはせめて大佐にしたかったが、マルチネスは断固として断った。かくして、マルチネス軍曹は、トリッホスの誰よりも信頼できる親友であり、補佐官でもあり、右腕となる。

 ある日。トリッホスは、マルティネスにこう内心をぶちまけた。

「チュチュ。パナマ運河を、パナマに取り戻すためにはどうしたらいいのだろう」

 マルチネスは肩をすくめる。

「それは容易なことではないね」

「俺は、あの運河地帯の米軍基地に突入したいぐらいの気分だよ。やらないのは、そんなことをしても無駄だということがわかっているからだ。だが、俺は口惜しくてならない。運河返還はパナマ国民の悲願だ」

「悲願など、ヤンキーには通用せんよ。交渉しかないだろう。綿密で老獪な交渉しか」

 今度はトリッホスが黙って肩をすくめた。

「並みの交渉ではとうてい無理だ。この吹けば飛ぶような小国が、米国と対等に渡り合うというのだからな」
マルチネスは、しばらく考え込み、やがて、ある一言をつぶやく。

「世界にただ一人だけ、知恵を借りられる男がいる。会ってみるかね。その男なら、もしかしたら交渉にあたっての、いいアドバイスをくれるかもしれない。なんといっても、米国のことは知り抜いているからな」

「そんな人間がいるなら、願ってもない。むろん会いたいさ」

「彼に会うのは容易なことではない。まして、パナマ大統領として会うとするならば、事は極秘裏に運ばなくてはならない。下手に米国側にばれればただではすまない。君の命はなくなるだろう。その覚悟はあるかね」

「その覚悟がなくて、こんなことを話題にしたりはせん」

「では、できるだけのことをしてみよう」

「それはありがたいことだが、いったいその相手とはいったい誰だね」

「パナマと同じような小国であるにもかかわらず、米国と渡りあっている男だよ」

 数カ月後、トリッホスはカーター大統領と運河返還交渉に入った。そして、交渉の末、カーターは、返還に同意した。

 だが、ここに、不思議な事実がある。ある時期から、米国により完全に経済封鎖されているはずのキューバに、なぜか限定的ながら西側の機械部品や医薬品などが流れはじめたのである。つまり、どこかの国が経済封鎖破りをやったのだ。やがて、それはパナマであることが明らかになった。フリーゾーンを利用して、明らかに「米国の仇敵であるキューバの有利になること」が行われていたのだった。



 トリッホスが暗殺されたと主張する、ジョン・パーキンス(John Perkins)氏は、トリッホスとの出会いを後にこう回顧している。

「閣下。なぜ、私を招待されたのですか」そう尋ねると、トリッホスは時計をちらりと見ると微笑んだ。

「これから我われのビジネスのための時間を図ろう。パナマはあなたの助けを必要としているし、私もあなたに助けてもらいたいと思っている」

 私は茫然とした。

「支援。何が私にできるというのでしょう」

「我われは運河を取り戻すつもりだ。だが、それは十分ではない」

 トリッホスは椅子でくつろぎつつ言う。

「我われは、モデルにならなければならない。貧しい人々のことを心配していることを示さなければならないし、独立を得るための決断が、ロシア、中国やキューバのように書かれないよう、あらゆる疑惑を超えて、それをデモをしなければならない。我われは、パナマが真っ当な国家であり、米国に反対するのではなく、貧しい人々の権利のために立つことを全世界に立証しなければならない」

 トリッホスは足を組んだ。

「それをやるためには、我われは、この西半球のどこにもない経済基盤を確立する必要がある。電力。そう、電気は、我われの最も貧しい人々のもとに届き、補助金を支給されている。同じことが、交通やコミュニケーションにおいても言えるし、とりわけ、農業にとってはそうだ。だが、それをやるには資金がかかる。あなたの資金、世界銀行、米州開発銀行の資金だ」

 トリッホスは前に乗り出し、私の目をじっと見つめた。

「私は、あなたの会社が多くの仕事を求めており、プロジェクトを大規模化すれば、それが得られることはわかっている。巨大な高速道路、巨大な発電所、そして、深い港湾だ。だが、今回は違う。我われの同胞にとって、最良のものを与えて欲しいのだ。さすれば、あなたが望むすべての仕事を差しあげよう」
トリッホスの提案は、全く予期せぬもので、私はショックを受け、興奮した。それは、私が学んできたことすべてを無視していた。トリッホスは、海外援助が紛い物であることを熟知していた。負債で彼の国を束縛するために存在していることも、パナマがそれによって、永久に米国に縛り付けられることも。だが、私はトリッホスが、自分の私的利益のためにそれを使わないという決定が、連鎖反応を始め、つまるところは、全システムをひっくり返す新たなドミノの形になることをわかっていたことを確信したのだった。

 カーターから運河返還協定を引き出した後、ロナルド・レーガンが政権に付く。だが、トリッホスは潰されなかった。運河協定を再交渉したいというレーガン政権の要求に屈することを強硬に拒否した。米国から運河を正当な持ち主に引き戻させ、レーガンまでも立ち退かせた男として尊敬された。トリッホスは人権と社会正義のカリスマ的なチャンピオンで、多くの人々がノーベル平和賞を受賞することを疑わなかった。

 2カ月後、トリッホスは死ぬ。生存者は皆無だった。数日後、ジョン・パーキンスのもとに、あのチュチュ・マルティネスから電話がかかってきた。

「飛行機に爆弾が見つかった。爆弾が飛行機にあることがわかったのだ。だが、電話ではその理由を説明できない」

 多くの人々は、米国政府がCIAの活動を調査するよう求めた。だが、それは土台無理な話だった。トリッホスを憎む人々のリストには、レーガン大統領だけでなく、ブッシュ副大統領、ワインバーガー(Weinberger) 国防長官と統合参謀本部のスタッフ、そして、多くの大企業の最高経営責任者たちがいた。

 例えば、ベクテル(Bechtel)社は、米国で最も有力な建築会社だ。ジョージ・シュルツ、キャスパー・ワインバーガー等が名を連ね、民間企業と政府間との癒着体質を代表する事例だった。同社の幹部たちもトリッホスが、パナマ運河をより効率的なものに取り替える日本の計画を望んだため、トリッホスを憎悪していた。トリッホスは、驚くほどの魅力と素晴らしいユーモアのセンスで、今世紀で最も儲かる土木計画にベクテル社を参入できなくしてしまうだろう。

 だが、トリッホスを死んだ以上、後継者のマヌエル・ノリエガでは、とうてい世界のレーガン、ブッシュ、そしてベッセル社に立ちうちできる見込みがあろうはずだった。ところが、予想に反し、ノリエガが暴走してしまうのである(続)。

(参考文献)
Lila Rajiva, The Panama Project, The Assassination of General Omar Torrijos, Who Tried to Use International Aid Loans to Help the Poor, January 13, 2007.


ローザムステッド

2007年06月19日 22時44分33秒 | 土の科学
 腐植説か。それとも無機栄養説か。決着を付ける壮大な研究が、リービッヒが理論を提唱した3年後の1843 年に始まる。この実験を始めたのは英国の地主、ジョン・ベネット・ローズ(John Bennet Lawes:1814~1900)だった。ローズは、ハートフォードシア(Hertfordshire)近郊のローザムステッド(Rothamsted)に地所を有する地主の一人息子として生まれた。オックスフォード大学を卒業したが、若い頃から、自分の領地で様々な薬用植物を育てることに熱中していた。ポットの中で色々な植物を栽培しては、肥料の効果を実験し、その後に研究は作物にまで広げられた。そして、1842年に29歳の若さで骨粉やリン鉱石を硫酸で処理した化学肥料の水溶性の「過りん酸石灰」製法特許を取得し、化学肥料の最初の工場の運営も始める。

 ローズは、起業家としても成功したが、ビクトリア時代を代表する科学者でもあった。事業であげた利潤を元手に、作物への化学肥料の施用効果を圃場試験で確かめるため、化学者ジョセフ・ヘンリー・ギルバード(Joseph Henry Gilbert:1817~1901)を雇い入れ、小麦の栽培試験に着手する。これが、世界最古の農業試験場、ローザムステッド農業試験場(Rothamsted Experimental Station)の誕生へとつながる。



 以降、ギルバートとの協働研究は57年も続いた。二人は狭い区画で様々に条件を変えた圃場試験を始めたが、これは農業で最も重要で、かつ、近代的な実証的な試験方法である。その目的は、有機肥料と化学肥料の作物収量への影響を調べることにあった。まず、ローズは石灰の施肥効果を見るため試験を始めたが、その後は、リービッヒの無機栄養説に疑問をいだき、窒素肥料の試験も始める。結果として、窒素が肥料として必要なことが示された。この試験場で得られた結果を基に、リービヒと10数年にわたる大論争をしたことでも知られるが、厩肥を施用した区の収量は高いが、化学肥料でもそれに劣らぬ収量が得られた。つまり、リービッヒの窒素肥料不要説は誤りであり、厩肥と化学肥料の持つそれぞれの有効性が明らかになったのだった。

 ローズは、1854年には王立学会特別研究員に選出され、1882年に准男爵(baronet)の爵位を得る。以降は、卿と呼ばなければなるまい。卿は、死後も試験場を存続させるため、10万ポンドの遺産を残し、ローズ農業トラスト(Lawes Agricultural Trust)を設立した。ギルバートは卿の翌年死ぬが、最後まで試験所にとどまった。ローザムステッド農業試験場は、その後も昆虫の農薬抵抗性やピレスロイド殺虫剤の発見・開発、ウィルスや線虫学など全世界の農業専門家を着目させる研究を生み出し続けている。

(引用文献)
The Origins of Rothamsted Research
http://www.rothamsted.bbsrc.ac.uk/corporate/Origins.html


無機栄養説

2007年06月19日 21時31分01秒 | 土の科学
 収量が低いうえ、不安定だったから、ヨーロッパはたえず不作や凶作による大規模な貧困や飢饉に見舞われ、農民たちは、新たな土地を求めて移住せざるを得なかった。

 テーアは、地力の維持を、生産システムの構築と管理技術の組み立ての柱にすえた。農業生産管理の技術的な側面と経営経済的な側面を一体のものとして研究しようとした点で、テーアは近代農学の祖とも言える。

 当時、ドイツでは冬に十分な飼料を確保できなかったから、ほとんどの家畜は秋の終わりには殺され、塩漬けやソーセージにされていた。テーアは冬にも飼料が確保できる作付体系を考案し、あわせて、畜舎を建て家畜をその中で飼育することを薦めた。当時としては驚くべきほどの収量が得られた。この成功で農業界におけるテーアの地位は不動のものとなり、腐植栄養説は正当なものとして全盛を極めた。

 この腐食栄養説を根底から覆すいくつかの重要な発見はされていた。1804 年には植物が光合成で二酸化炭素と水から有機物を作り出していることが、スイスのニコラス・テオドール・ド・ソシュール(1767~1845:Nicolas-Théodore de Saussure)によって証明されていたし、ソシュールは塩類溶液中で植物を成育すれば、塩類がよく吸収され、かつ、これらが植物の栄養に欠かせないことも主張していた。だが、このソシュールでさえ、テーアの「腐植説」の擁護者だった。権威を覆すには、鋭い批判力と思想を持つ人物の登場が必要だった。



 この常識を覆したのが、ユストゥス・フォン・リービッヒ(1803~1873年:Freiherr Justus von Liebig)である。リービッヒは、1803年にダルムシュタットの薬物卸売商の子どもとして生まれた。勉強よりも父親の仕事や実験を手伝うのが好きで、学校よりも図書館を好んだ。学校の授業よりも化学に興味があったから、成績もよくなかった。おまけに、少年時には、爆薬である雷酸水銀で動く魚雷のオモチャを自ら作って学校に持込み、爆発させたことで退学させられてしまったこともあれば、エアランゲン大学では、学生運動に身を投じ、逮捕された経験もある。だが、生まれ故郷の大公であったルートヴィヒ1世がリービッヒを評価した。ルートヴィヒ1世は、大学にはかることなくわずか21歳のリービッヒをギーセン大学の助教授に任命する。その卓越した能力は同僚たちにも直ちに認められ、翌年には教授へと昇進した。この若さで大学教授になるのは異例のことだった。

 リービッヒは教育者としても抜きん出ており、体系だったカリキュラムに基づいた化学教育法を作り上げた。学生実験室を大学内に設立し、定性分析や定量分析、化学理論を系統立てて教え、最後に自ら研究論文を書くことを求めた。実験から化学を学びたい学生がイギリス、フランス、ベルギー、ロシアなど各国から集まり、ギーセン大学は化学教育のメッカとなり、ドイツが有機化学の中心地となる礎を築いた。

 この19世紀最大の化学者の一人として、すでに多くの実績をあげていたリービッヒが、1840年に『有機化学の農業および生理学への応用(Die organische Chemie in ihrer Anwendung auf der Agrikultur und Physiologie)』を発表し、腐植栄養説を完膚なきまでに叩きのめしたのである。リービッヒは100人以上の研究者の200以上の文献を批判的に検討したうえで、こう主張してみせた。

「腐植は水に溶けないし、腐植がほとんどない土でも植物は生育し、逆に土壌中の腐植を増やしていく。つまり、炭素の供給源は大気中の二酸化炭素だ。そして、植物に必要な塩基は土から吸収される」

 翌1841年には植物が土壌中のカリウムやリンを生長に必須としていることを明らかにし、最も少ない必須元素の量で植物の生長速度が決定されるという「最小律」を提唱した。加えて、風化による自然からの補給だけでは土壌中の養分が不足するとし、骨粉と硫酸を混ぜた化学肥料の開発にも乗り出した。壮年期に化学肥料の研究に乗り出したのは、この時期にヨーロッパを襲った飢饉をなんとか解決しようとしたからだった。そのため、「農芸化学の父」とも称される。

 リービッヒの理論は、広く受け入れられ1860年にはユリウス・ザックス(Julius von Sachs:1832~97)が、水耕栽培法を作り出す。窒素、リン、カリウム、硫黄、カルシウム、マグネシウム、鉄が必要なことを示した。さらに 20 世紀に入ると1954 年までに、銅、亜鉛、マンガン、ホウ素、モリブデン、塩素等の微量要素が必要なことも証明されていく。リービッヒの理論が、その後の農業にもたらした影響には図り知れないものがある。

 だが、ゆるぎない化学的な視野を持つリービッヒも誤りを犯す。窒素は「植物は二酸化炭素と同じく、大気中のアンモニアを吸収し、化学合成できる」とし、窒素肥料は不要だともした。それは、リービッヒが各地を旅する中で、窒素肥料を施用しなくても、肥沃な土を目にしたためだった。まだ、微生物による窒素固定は知られていなかった。

 加えて、堆肥や腐植の持つ機能を正しく評価できず、従来の農業を土中の栄養を略奪するものだと批判し、「農業における真の進歩は厩肥からの解放によってのみ可能である」とまで極言した。リービッヒは有機物を植物が吸収することを認めていたし、自然の物質循環を重視し、都市部での糞尿の集積による汚染や農村での地力の低下を警鐘していた。だが、堆肥の重要性は見抜けなかったのである。
 
(引用文献)
岩田進牛『土のはなし』(1985)大月書店


腐植栄養説

2007年06月19日 19時44分54秒 | 土の科学

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肥料の起源は実に古い。人や家畜の糞尿、山野草、草木灰、動植物の遺体、そして、これらを腐熟させた堆厩肥などを肥料として土に施用し、土を痩せさせまいとする努力は約5000年前からされていたとされる。<o:p></o:p>

古くは、ギリシャのホメロス(Homeros)が、オデッセイの中で堆肥について言及している(BC 8-9世紀頃)し、古代ローマ人も紀元前 200100年頃から、すでに輪作や石灰施用、緑肥の知識を持っていた。大カトー(Marcus Porcius Cato Censorius234 BC149 BC)が、「よい農業は、よい耕耘、よい家畜、よい施肥を意味する」と述べたのは、紀元前 200 年のことだ。<o:p></o:p>

こうした経験を理論化したのは、紀元前350年のアリストテレス(Aristotélēs384 BC ? 322 BC)の「植物は養分を腐植様の基質から得る。根によって土の中から吸収する。植物は死んだのち腐植になり、腐植は肥料となる」という腐植説(humus theory)だった。<o:p></o:p>

 

ヨーロッパでは16 世紀から植物の栄養分を突き止める実験的な研究が進められてきたが、アリストテレス以来の腐植栄養説が主流を占めてきた。その頂点に立つ代表的な論客が、ドイツのアルブレヒト・テーア(Albrecht Daniel Thaer17521828)だ。テーアはこう主張してみせた。<o:p></o:p>

 

「土壌の肥沃度は完全に腐植に依存している。腐植は水とは別にそれ単独で植物に養分をもたらす。腐植はまさに生命の産物であり、それは生命のひとつの状態でもある。腐植なくしては、いかなる個別生命も考えることはできない」<o:p></o:p>

 

テーアは、もともとは医者だった。28歳の若さでハノーヴァー王の宮廷医となり名声を博するほどだった。だが、テーアが農業研究への道に乗り出したのには当時の時代背景がある。19世紀初頭、ドイツでは農業革命が起きていた。当時、農業は政治経済の中心課題で、農業を語らずしては社交界では一人前とはされないほどだった。そこで、テーアは、ハノーヴァー近郊に農園を求め、自ら農業経営を始めたのだった。<o:p></o:p>

 テーアは腐植が豊かな土ほど肥沃な土だとの確信のもと、大量の堆肥や厩肥を作り、それを農地に投入する作付体系を作り出した。ヨーロッパの土壌は痩せており、収量を維持するために農民たちはいつも客土用の土を求めていた。だが、その客土にも一定の効果はあったものの、養分欠乏をなくせるほどのものではなく、1800年頃までの穀物収量は5001000kg/ha(平均800kg/ha程度)にすぎなかった。以下の表を見ていただきたい。

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中央ヨーロッパにおける穀実収穫倍率の推移(Hushofer, 1976) <o:p></o:p>

           1 kgの種子から得られる子実収量(kg)<o:p></o:p>

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平均的土壌<o:p></o:p>

最優良土壌<o:p></o:p>

中世(12-15世紀)<o:p></o:p>

34<o:p></o:p>

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16-17世紀<o:p></o:p>

56<o:p></o:p>

715<o:p></o:p>

19世紀初頭<o:p></o:p>

56<o:p></o:p>

1220<o:p></o:p>

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たった種子がせいぜい56倍にしかならないのだ。どれほどヨーロッパが貧しかったかがわかる。ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet18141875)の代表作、落穂拾い(Les Glaneuses 1857)は当時のヨーロッパの収量の低さを象徴している。


挫折の革命~運河の悲劇

2007年06月18日 01時02分06秒 | 革命家
  パナマといえば運河で有名だ。1869年にスエズ運河を完成させて名声を手に入れたフランス人技師、フェルディナン・ド・レセップス(Ferdinand Marie de Lesseps)は、その勢いをもって、パナマにも運河を完成させようとする。だが、この壮大な試みは失敗した。熱帯に蔓延するマラリアや黄熱病によって工事中断を余儀なくされたからだ。
 黄熱病といえば、かの野口英世がアフリカのガーナで命を落としたのもこの病気だ。1881年にレセップスが社長に就任したパナマ運河社は1889年に破産。レセップスは1894年に失意のままに死ぬ。
 その後、1914年にこのパナマ運河を完成されたのは米国である。だから、パナマ運河は事実上、米国のものだった。運河のあるパナマは1903年にコロンビアから独立したものの、運河は開通当時から、不平等条約によって、米国が永久に「領有」することになっていた。自国内にある運河でありながら、その建設を条件に広大な領土を米国が所有している。なればこそ、運河をパナマの手に取り戻し、運河がもたらす経済益を得ることが、独立以来、歴代大統領たちの最大の課題だった。

 ここで、一人のヒーローが誕生する。オマル・トリッホス(Omar Torrijos)である。トリッホスは、パナマ史上で最も著名な指導者であるだけでなく、20世紀のラテンアメリカを代表する政治家でもある。



 トリッホスはパナマ市から500キロほど離れたベラグアス(Veraguas)州のサンティアゴという小さな町で、裕福な資産家の子どもとして12人兄弟の6番目の子どもとして1929年に生まれた。両親は学校の教員だったが、トリッホスは軍人としてのキャリアを進むことを選んだ。エルサルバドルやベネズエラの士官学校で英才教育を受けたのち、1952年にはパナマ国家警備隊(Guardia Nacional)に入隊。反体制派の弾圧に辣腕を振るってその名をあげ、米国にも留学、1966年には中佐まで出世していた。

 だが、1964年1月にある事件が起きる。パナマの学生が、禁止された運河地帯で星条旗を掲げた高校の正面にパナマの旗を掲げたことがきっかけで暴動事件が起きたのだ。20人以上のパナマ人が命を落とし、一年ほど米国とパナマとの外交関係は混乱に陥る。この事件をきっかけとして、1968年に民族独立を掲げたトリッホスは、クーデターで現政権を転覆させてしまったのだ。
 臨時政権には別の人物が首相の座に任命されたものの、事実上権力を持っているのはトリッホスだった。クーデター後トリッホスは空軍大佐に昇進し、その後に国家警備隊の最高司令官となり、全軍を掌握する。1972年には新議会が制定した憲法で大統領制が維持されたが、政府主席として大統領と同様の権限を得ていたのは、トリッホスだった。

 このクーデターは、パナマに大きな変化をもたらす。長い間、パナマの経済と政治は、パナマ市に住むラビバラノコス(rabiblancos)と呼ばれる一部の白人エリートによって支配されていた。だが、トリッホスが理想としていた政治は社会民主主義の樹立だった。トリッホスは共産主義者ではなかったが、右翼独裁も嫌い、中道の社会民主主義を中米に打ち立てることを夢見ていた。最高指導者としての権力をもって、トリッホスは、それまでの富裕階層による支配に終わりをもたらし、様々な改革を通じて新たな国家建設に取り組んでいく。

 とりわけ、トリッホスが力を注いだのは、パナマ国民の大半を占める先住民や黒人、混血人といった貧しい下層階級の人々の生活向上と初等教育の向上だった。トリッホスは、数多くの学校を開き、未来への希望がない人々に雇用機会を設けた。大規模な公共住宅プロジェクト、保健医療の拡大、その他の社会サービスを充実させ都市部の貧しい家庭を支援すると同時に、土地がない貧しい農民に土地を与える農地改革を推進し、農村開発や道路整備等を実施し地方の開発にも力を入れた。



 トリッホスはけっしてインテリではなかったが、単純なラテンアメリカの独裁者とは違っていた。軍用作業服で全国を旅しては、農業や工芸で自給自足することを村人を奨励した。酒を愛し、女好き。だが、文学や音楽も愛し、著名なコロンビア人作家ガルシア・マルケスとも交遊があったし、ジョン・ウェインを友人として持つだけでなく、同時にチトーを尊敬し、フィデル・カストロの友人であることを誇りにしていた。トリッホスは、カストロから定期的に贈呈される葉巻を好んで吸った。

 アルゼンチンの反政府歌手メルセデス・ソッサやその仲間たちをパナマに招待し、海辺の別荘に長期間にわたって滞在させ全国コンサートツアーを主催したり、ニカラグアのソモサ(Somoza)政権にはむかうサンディニスタ(Sandinista rebels)ゲリラに避難場所を提供したりした。同時にパナマから正当な経済的利益を奪った米国を糾弾した。
 こうしたトリッホスの民族主義的な政策が、国民、とりわけ、パナマの大多数を占める貧しい土着、スペイン系、そして、アフリカ系の人々からの熱狂的支持を集めないわけがない。こうした支持を背景にトリッホスは、労働者、小規模農民、学生を民主人民党(Partido del Pueblo)に育て上げた。

 さらに、トリッホスはパナマ念願の運河という課題にも決着をつける。10年にわたり米国と粘り強く交渉を行い、ついに1978年に当時のカーター政権から譲歩を引き出し、1999年12月をもって、パナマ運河を返還するとの条約改定にこぎつけたのだ。
 この運河返還交渉を成立させた後、トリッホスは国家主席の座を退く。たが、国家防衛隊最高司令官として地位にとどまり、新たに結成した民主革命党を通じて圧倒的影響力を発揮し続けた。国内はもちろん他のラテン諸国からも、民衆への理解と愛国心を持つ指導者として尊敬された。後任のアリスティデス・ロヨ(Aristides Royo)は名目だけの大統領にすぎなかった。そして、トリッホスは、1984年までにはパナマを完全な民政に戻すことを計画していた。

 だが、その絶頂期にトリッホスは事故で死ぬ。1981年の7月31日、トリッホスが乗った小型飛行機でパナマ西部のコクレ州北部の別荘に向かう途中で墜落してしまったのである。

 飛行機は山に激突した、と報道された。だが、この事故は様々な憶測を呼んだ。多くの目撃者が飛行中に爆発したと発言したのである。長年右腕として使えたホセ・デ・ヘスス・マルティネスは、こう述べている。
「将軍を殺したのはCIAです。今殺しておかなければ厄介になると考えたからです。将軍は南米の革命に大きな影響力を持ち、中米全体の問題を解決できる政策を示していましたから」

 なお、最近、この事件について米国のエコノミスト、ジョン・パーキンス(John Perkins)氏は、著作「経済的暗殺の告白」でCIAが飛行機に爆弾を仕掛けたことで暗殺されたと述べた。パーキンス氏はエコノミストとして、パナマの米国への依存度を高めるため世界銀行が推進する同国指導者の「しつけ役」に携わっていたのだが、「私が彼との交渉で失敗したので、CIAが自分を倒すだろうことをトリッホスは知っていた」と語っている。

 実は、この暗殺には日本も間接的にではあるが、関係している。日本商工会議所会頭を務めた永野重雄が1977年に中米視察団長として訪問して以来、日本とパナマの関係は深まっていた。日本は米国に次ぐ運河利用国となり、鈴木善幸総理のときにパナマ、米国、日本の3カ国による第二パナマ運河建設計画策定プロジェクトがスタートする。米国は米国の借入金だけでメガプロジェクト建設を進めさせ、パナマの米国への依存度を高めようとしていたが、トリッホスはこうした政策に反発し、永野グループとの交渉を始めていた。その交渉に米国の財界指導者や政治家は強く反対し、苦々しく思っていたのである。

 トリッホスの悲劇は過去の話ではない。パーキンス氏は、ベネズエラのウゴ・チャベスとボリビアのエボ・モラレスもCIAによって沈黙させられるだろうと発言しているからだ。キャリアを見てみれば、チャベスの経歴もやっていることもトリッホスとよく似ている。

 なお、2004年、9月1日、パナマでは、マルティン・トリッホスが新大統領に就任したが、同大統領は、かつての故オマル・トリッホスの息子である。断絶していたキューバとの国交も、マルティン大統領とカストロとのハバナ会見で回復した。だが、パナマの人々は、オマル・トリッホスの死後、大きな悲劇に見舞われてしまうのである。


線虫2

2007年06月15日 01時14分02秒 | キューバ
前回のべたとおり、線虫の病虫害防除は、化学合成農薬、とりわけ、臭化メチルによる土壌殺菌に頼りきりだった。だが、エベル・ネム(HeberNem)は、これに匹敵する効果を持つ。灌漑用の水に混ぜ、施設内の作物に局所的に散布したり、露地の土壌に直接ふりかけてやればよいのだから簡単だ。しかも、対応する線虫は幅広く、IPMを含めた環境にやさしい農業に活用できる。ハバナの遺伝子工学バイオテクノロジーセンターのホームページを開けば、その効能が載っている。例えば、以下の写真を見ていただきたい。未処理区でネコブセンチュウ(Meloidogyne incognita)の被害のすさまじさがわかる。



だが、エベル・ネムで処理したものは、こんなにきれいなのだ。



胚珠選抜法によるトマト栽培種(Licopersicon esculentum Mill)の試験結果でも、線虫発生率は、97.3%から23%に下がり、トマトの全重量がダゾメット剤(Basamid,Dazomet)処理区では3 687kgであったのに比べ、エベル・ネムの処理区では4 929kgと1.34倍も多かった。

以下のグラフは食用バナナ圃場と、バナナ圃場でのバナナネモグリセンチュウ(Radopholus similis)への防除結果だが、エベル・ネムがいかに威力を発揮しているかが良くわかる。






では、エベル・ネムはなぜ、これほどのパワーを発揮するのだろうか。その秘密は、キューバの研究者たちが選びだした細菌、Corynebacterium paurometabolum C924株(特許出願中PCT/NL95/00271)にある。この細菌は、キチン分解酵素(キチナーゼ)と硫化水素を作り出す。センチュウの卵の外壁は70%がキチン層でできているため、それがボロボロにされ、内部に胞(vacuoles)ができ、それが胚形成に影響する。幼虫の場合も表面の皮膚と同じく、内部にとくに大きなガスの気胞ができてしまう。結果として、センチュウの幼虫や卵を減らしてしまうのだ。同じ原理で、他の病原微生物にも効果がある。

 このように、キューバのバイテク資材は○○農法といった怪しげなものではなく、キチンというキチンとした根拠に基づいている。


線虫

2007年06月12日 00時53分46秒 | キューバ
 キューバの福祉医療についての本を書く。農業はともかく、福祉医療についてはまったくの門外漢といってもよい素人のこの私が、である。昨年の11月にキューバから来日した若き女医、アルレニス・バロッソさんのシンポジウムへの同席を軽い気持ちで引き受けたところ、これが「有機農業先進国ならぬ医療大国キューバについてもわかりやすい入門書を出そう」と、とんでもない方向へと事態は進展してしまった。
 以来、今年正月休み、ゴールデン・ウィークとたて続けに二度のキューバへの視察を行い、土日といえば、有機農業とは比べものにもならないほどの量があるキューバ医療文献と格闘し、残業がなく早く帰宅できた日があれば、何はともあれパソコンに向かって文字を書くという苦行(?)を続けた。
 革命前からのキューバ医療史を視野に入れつつ、革命後にキューバ医療がどう発展してきたのかを抑えつつ、現状を描くという作業に着手したものの、当初想定していた以上に時間がかかってしまった。というのも、キューバの医療福祉事情は、当初考えていた以上に奥深く、ラテンアメリカやアフリカはおろか、アジア各地までの海外医療援助から、ピーク・オイルを想定した国内での省エネルギー運動に絡めたニート・フリータ対策、さらには21世紀に着実に迎える高齢者社会への先手を打った対応策としての老人いきがい文化運動、はたまた脱グローバリゼーションとイラク戦争反対の平和運動にまで及んでいたからだ。が、その原稿もやっとかたがついた。

 で、久しぶりにサイトにアクセスしてみれば、なんとこのブログは昨年の10月依頼、ぜんぜん更新されてはいないではないか。ということで、久しぶりに農業の話題を書く。実は、有機農業も医療部門でのバイテク研究の進展と連携し、着実に前進しているからだ。今日は、線虫のお話からだ。


 線虫。何それ。といわれる方もいるかもしれないが、実は意外と身近な生物だ。人間に寄生する回虫やギョウチュウも線虫であれば、松枯れ病の原因である松食い虫に寄生するマツノザイセンチュウも線虫だ。しかも、一口に線虫といっても、その種類はべらぼうに多く、研究が進めば進むほどその数はどんどんと増え、いったいどれほどの種数がいるのかはわからないほどになっている。最大では1億種という評価もあり、もし、これが本当だとしたら、昆虫種をはるかに上回り、地球上の生物種の大半はセンチュウが占めていることになる。地球上のバイオマスに占める割合も15%にも及び、生態系のバランスで果たしている役割にははかりしれないものがあるらしい。つまり、地球は線虫の惑星なのだ。

 だが、こと農業においては線虫というとだいたい悪いイメージが付きまとう。無害なセンチュウも多いのだが、ネコブセンチュウやら、ネグサレセンチュウといった悪玉センチュウがどうしても目立ってしまうためだ。実際、多くの作物は線虫の寄生の害を受け、とりわけ、施設栽培の場合に被害が大きい。それまで先進国では臭化メチルで土壌殺菌を行ってきたのだが、この臭化メチルはオゾン層を破壊する。かくして、各国は、代替防除策の確立に苦心惨憺しているのが、決定打がない。例えば、ネグサレセンチュウへの抵抗性品種も現在はなく、輪作が唯一の防除の有効手段となっている。

 だが、ここでキューバからの朗報がある。キューバの中心部、カマグェイ州には、ハバナの遺伝子工学バイオテクノロジー・センター(CIGB=Centro de Ingeniería Genética y Biotecnología)の分室があるが、ここの専門家グループが、15年に及ぶ研究の末、「エベル・ネム(Heber Nem)」と称される、バイオ殺線虫剤を開発したというのである(1)

 このエベル・ネムは、線虫の生殖を阻害し、驚くほどの効率性で線虫を減らす(1)。製品は2004年以来、グヴァや食用バナナ・プランテーションに活用され、ハバナ州のカリベ・キトラス(Caribe Citrus)やハバナ市のHORTIFARで大きな成果をあげた。この殺線虫剤を使うことで、収穫増が可能になったのだ(2)。また、オルギン州のヒキマ(Jíquima)、シエゴ・デ・アビラ州のセバロス(Ceballos)、シエンフエゴス州のアリマオ(Arimao)、マタンサス州のハグエイ・グランデ(Jagüey Grande)、カマグェイ州のキトリコス・ソラ(Cítricos Sola)とロス・ランチョス(Los Ranchos)と全国各地の柑橘類公社でも、この殺線虫剤は使われたが、実に90~95%の成功をおさめたという(1)。このバイオ殺線虫剤はネコブセンチュウ(Meloidogyne incognita var. acrita)、ネグサレセンチュウ (Pratylenchus spp.) 、そしてバナナネモグリセンチュウ(Radopholus similis)の防除ができるため、現在では、国中で農業企業に導入されている(2)

 おまけに、エベル・ネムには、なんらの副作用もない。すでに、様々な土壌類型で25ha以上で18の毒性や生態試験を行ったが、環境になんら悪影響をもたらさない無害な製品であることが判明したという。つまり、もう、オゾン層を破壊する臭化メチルに頼って土壌殺菌をする必要がなくなったのだ。製品は既に二つの国内特許を持ち、それは、ヨーロッパ、米国、アジアの国際特許機関も承諾済みなのだ。
 
 開発プロジェクトの代表は、ヘスス・メナ・カンポス(Jesús Mena)農学・農業工学博士だが、製品開発に携わった若手生化学の研究者、バイテク・センターのエウロヒオ・ピメンテル(Eulogio Pimentel)次長はこう語る(1)

「エベル・ネムは、欧州、ベトナム、中国で特許を取り、臭化メチルやネマゾン(Nemazon)といった有毒化学物質の代替となっています。土壌中のマイクロ植物相への相互作用や毒性や生態学への20以上のテストから、この製品に接触する動植物がダメージを受けないことが示されています」(2)


 エベル・ネムの画期的な点は、土壌や有機物質中に自然にいる微生物種を隔離・同定し、158系統種を分析し、最高の効率性を持つ、細菌Tsukamurella paurometabola、strain C-924を選び出し、微生物の抗寄生性(antiparasitical)と耐線虫性(nematicidal)機能を初めて確立したことにある(1)

 バイテク・センターにはこれと並ぶ主力製品で「Gavac」もある。これは、宿主性のマダニBoophilus microplusでかかるsouthern cattle ticksへの遺伝子組換えワクチンで、牛の罹病を最大90%まで管理でき、家畜の死亡率を減らせるという。また、センターは、病害虫、干ばつ、塩害に抵抗性のある作物品種の開発にも取り組んでいる。例えば、キューバのサツマイモの40~60%を食害する害虫、「Tetuan」に抵抗性のあるサツマイモの新品種の開発プロジェクトもあり、2005年にビジャ・クララの熱帯根菜類研究所でフィールド調査を実施したところ、健康や環境への影響や経済面でのあらゆるリスクを考慮しても、大きな成果が得られたという(2)

 カマグェイの遺伝子工学バイオテクノロジー・センターは、1989年7月25日にカストロの指令によって開設された機関だが、医師、獣医、生化学、微生物学、生物学、化学エンジニア、放射能化学、原子核物理学、物理化学、数学と多分野の平均年齢34歳の優秀な若手科学者から編成されている(1,2)。そして、キューバでの研究開発は競争ではなく、協働によってなされているが、このエベル・ネムもこうした仕事のやり方の賜物だ。エウロヒオ・ピメンテル氏も、研究開発に携わった一人だが、「30人以上の専門家が、開発、生産、品質管理やマーケティングに取り組み、野菜研究所、土壌研究所、果樹生産組合、ハバナ大学、ハバナ高等研究所と様々な機関の同僚との協力で成し遂げられたのです」と語っている(1)

 カマグェイのバイテク・センターは、国家防衛賞、若者共産党員名誉旗を授けられ、2005年には、10人の若者が未来建築賞(Forjadores del Futuro)を受けている(2)。さて、このカマグェイ、キューバへの私の旅はこの5月の連休で10回目を迎えたが、まだ足を踏み入れたことがない。狭く小さな国のようで、キューバはまだまだ見なければならないところがある。

引用文献
(1) Enrique Milanes Leon, New biological product for agriculture, Granma International, 2005.
(2)Silvia Barthelemy and Marnie Fiallo Gomez, Impact of Genetic Engineering and Biotechnology in Cuba,2006.(英語サイト消滅。西語のみ)