没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

人々はなぜ飢えるのか

2006年07月19日 22時51分38秒 | 有機農業
「なんだ。やっぱり、世界中の人たちが、ちゃんとご飯を食べられるだけの食料はあるじゃないの」
1960年代後半、食料問題を研究していた20代半ばの一人の若き女性が、カリフォルニア、バークリーの大学図書館でつぶやいた。彼女の前には、膨大な穀物のチャート図や国連の農業統計、方程式が広げられていた。だが、どんな計算をしても結論は同じだった。

 「天災ではなく、人々の行動が世界的な飢餓を引き起こしている」

この発見が、彼女の目を開かせた。だが、その結論は、60年代当時にはあまりにユニークなものだった。ベジタリアンや有機農業や健康食品への関心もいまほど高くなく、多くの賛同は得られなかった。だが、批判や疑問をぶつけられながらも、彼女には自分の考えが地球上の数百万人もの苦しみを解決する一助になることがわかっていた。
「どんなに脅されたり、笑われたりしても、黙っているよりはましです」
 彼女は、自分の言葉が後に大きな運動につながるとは思ってはいなかったが、真実を語り、行動することには挑戦するだけの価値があると思った。

彼女は研究を続け一冊の本「小さな惑星のための食」(Diet for a Small Planet 1971)を上梓する。食と健康、農業、環境問題はまだラジカルなテーマで、本はそれほど売れなかった。だが、この著作は、最終的には300万部以上売れる超ベストセラーになり、フランス語、ドイツ語、スウェーデン語、日本語、スペイン語にも翻訳されるのである。
フランセス・ムーア・ラッペ(Frances Moore Lappé・1944~)が、生まれたのは1944年2月10日だから、まだ若干26歳にすぎなかった。だが、この若き一女性研究者が導いた結論が、それまでの食料問題に対する見解を一変させてしまったのだ(1)



 ラッペは、食料が不足する国々に政府が食料援助をするといったトップダウンのやり方では、飢餓問題は解決できないと思っていた。それは草の根から始めなければならないし、自分たちで自給する方策を生み出す基礎を人々に与える必要がある。そう考えたラッペは、食料問題の原因を米国人に啓発するため、ジョゼフ・コリンズ(Joseph Collins)とともに、1975年、後に「フード・ファースト」として知られるようになる食料・開発政策研究所(Institute for Food and Development Policy)をバークリーに設立する(3)

 コリンズとの1977年の共著、「まず何よりも食べ物を:不足の神話を越えて」(Food First:Beyond the Myth of Scarcity, 1977)では、世界飢餓の要因が、人口増加でも食料不足でもなく、まさに政治と経済にあることをあばいてみせた。穀物には十分に栄養がある。それで、多くの人々を養うことができる。だが、それが、肉を生産する家畜飼料になるとき、食料は不足する。農地が中央統制で管理され、経済的な圧力がかかれば、主食よりも「換金作物」を作ることになる。西洋による植民地化が、食料の浪費と開発途上国での飢餓をもたらし、結果として全人類を飢えさせる。こうラッペたちは主張した(2)。この主張は、次の著作、「世界飢餓:12の神話」(World Hunger:Twelve Myths (1986))でさらに掘り下げられる(3)

 食料問題を解決することは、どのコミュニティでも自給できる食料を生産し、必要な道具や肥料を作ることである。こうしたビジョンのもとに、フード・ファーストは、草の根やNGOにより、貧しい人々がいかに暮らしを改善できるかの情報を発信し続けていく。この目的のため、フード・ファーストやラッペは、キューバ、フィリピン、モザンビーク、タンザニア、バングラデシュ、ニカラグア、メキシコ(チアパス)、インド(ケララ)と全世界で食料問題を徹底的に調査する。

 フード・ファーストの著作は、世界貿易や国際金融機関がどれほど開発途上国で貧困を深めているかという衝撃的な破壊の実態を明らかにした。その書籍やレポートは、北側でも南側でも多くの草の根グループの間で読まれ、大学の授業でも活用され、キューバと米国との有機農業交流にまで発展した。ラッペは、1987年にそれまでの業績を評価され、もうひとつのオルターナティブ・ノーベル賞を受賞する。米国人としては4人目の受賞だった。だが、仕事を通じてラッペが主張し続けたのは、飢餓問題は食料不足ではなく民主主義の欠落によって引き起こされるということだった。その気づきが、ラッペをフード・ファーストから立ち去らせることになる(2)

 ラッペはこう想起する。
「ですが、民主主義が飢餓を終わらせるといっても、それはどのような形になるのでしょうか。それにきちんと答えるには、私は、もっと深く調べなければならないことがわかりました。解決策は、天から新たな青写真という形でもたらされるものではない。そう思った私は自分自身で解決策を見出すよう、人々の価値観を通じて米国人のモノの考え方にかかわろうと思ったのです。そこで、米国中の家庭や教会で何千人もの人々の引き金になることを願って書いたのが「米国の価値観の再発見:自由、市場、民主主義と正義」(Rediscovering America's Values, a dialogue on freedom, the market, democracy, and justice. 1989)でした。ですが、すぐに、豊かで包括的な民主主義の取組みがすでに現れていることがわかりました。とはいえ、悲しいことに、ほとんどの人々にはまだそれが見えていませんでしたし、簡単に逆行してしまうこともわかりました。そこで、1990年にフード・ファーストを去り、暮らしの民主主義のためのセンターを設立したのです。飢餓や環境破壊を終わらすことができる効果的な民主主義、暮らしの習慣、相互責任の活力に満ちた文化は、政府の組織以上のものである。そのことを人々がわかる支援をしたかったのです」(1)

 1990年、ラッペは、夫であるポール・マーチン・デュ・ボイス(Paul Martin Du Bois)とともに、バーモントのブラットルボロ(Brattleboro)に「暮らしの民主主義センター」(Center for Living Democracy)を設立する。

 そうした暮らしの民主主義だけが、社会問題を解決できるという信念から、ラッペは夫との共著で1994年に「米国を生かそう:祖国の再生と暮らし直し」(The Quickening of America:Rebuilding Our Nation, Remaking Our Lives)を書き、一般庶民が「暮らしの民主主義」を創設する役割について論じた。

「もし、飢えた人々がいるなら、どんな社会であれ、民主的な約束は満たされていません。食料がなければ人々は確実にすべての力を奪われています。飢餓が存在することは、偽りの民主主義なのです」(3)

 さらにラッペはニュースづくりも手がけていく。

「私は行動するごくありきたりの庶民の物語を広めることで、民主的な社会を創造しようとしました。1995年には、アメリカ・ニュース・サービス(The American News Service)の編集に携わり、それから5年間、スタッフとともに課題解決指向の記事を300以上も出しました。教育から人種問題、環境問題まで様々な問題を自分たちと同じような庶民が創造的に解決していることを何百万人もの米国人が読みました」。

 そして、2002年には「希望のエッジ:小さな惑星のための次なる食」(Hope's Edge:The Next Diet for a Small Planet)を娘との共著で出版するが、この本のそれは娘のアンナ(Anna Lappé)が大きな役割を果たした。

「2000年、娘がルーツに戻るよう薦めました。飢餓問題、人々の切なる声、民主主義とそれまで私が学んできたすべてを結び付けて、真の希望につながる活動を示す必要があると言ったのです。そこで、私は、娘とともに世界中を旅しました。それでは、私たちは本来の食が回復した場所をとりあげています。私たちの旅の語を通して、読者はこの破壊的な状況から脱している市民運動と出会えます。彼らは、現在、進んでいる消費者主義やミーファーストの資本主義を超えて、可能性を示し、私たち自身と私たちの惑星を癒してくれるのです」
 マサチューセッツ工科大学の都市開発の研究者、ジェーン・グドール(Jane Goodal)が、わざわざラッペを訪ね、「21世紀で最も重要な著作のひとつだ」とまで評価した。

 ラッペは、娘と一緒に本を書いただけでなく、皆のために働くコミュニティを創設する一助として、アンナと2つ目の組織、小さな惑星研究所(Small Planet Institute)をマサチューセッツ(Massachusetts)のケンブリッジに設立した(1)。ラッペは、2003年にはレイチェルカーソン賞を受賞する。だが、ラッペの旺盛な著作活動は続く。ラッペは日々の消費行動を重視する。

「私たちは真の選択を持つ私たちの惑星の最初の人々です。私たちは互いに殺しあい続け、私たちの巣を損ね、他の種を破壊し続けることができます。ですが、どの大陸では、人間としての尊厳における革命が現れています。それは、コミュニティを編みなおし、地球との私たちを結びつけることです。ですから、私たちには選択があります。私たちは死を選ぶことができますが、生きることも選べるのです」(2)

 「十分に食べ物がある人は、ただ食物を与えるだけでは不十分です。そのかわりに、飢えに苦しむ人々に、どうしたら自分たちのコミュニティを養えるかを教え、自分たちを自給できる能力を確信できるよう助ける必要があります。一介の市民としてでさえ、日々の食品店や食卓での選択に関心を向けることで私たちは飢餓に力をもてます。無農薬で栽培された果物や野菜を選ぶと決めることで、最終的にはあなたが口にする食べるものを生産する農民たちの健康を改善します。朝食に有機バナナを取り入れれば、農民を死に至らせる農薬に農民がさらされるのを止める一助になります。多くの米国人は、有機ホウレンソウ・サラダより、ダブル・チーズバーガーを選ぶパワーがありますか、逆もまたそうです。私たちは、自分の健康のために、そして惑星の健康のために、他の人々を助けるために、食事を変えるパワーを持っているのです」。

 2005年に出版された「民主主義のエッジ:暮らしに民主主義を、祖国を救うための選択」(Democracy's Edge:Choosing to Save our Country by Bringing Democracy to Life)は、「希望のエッジ」に続き、2004年にジェフリー・パーキンス(Jeffrey Perkins)との共著、「君には力がある:恐怖の文化に勇気の選択を」(You Have the Power:Choosing Courage in a Culture of Fear)との三部作である。それは、行動する民主主義をインスパイアーさせる物語をわかちあうことを意図して書かれた。

「「米国を生かそう」の続編、民主主義のエッジは、米国で現れている暮らしの民主主義から人々が学び、絶望と戦う一助となるよう書きました。30年間以上にわたり、私は両方向の世界を同時に経験してきました。一方では暴力、分裂、環境破壊の高まりと恐怖を目にします。今、人々が薄っぺらい民主主義では、こうした問題を解決できないと見ているので、この方向には、絶望の深まりが横たわるだけです。ですが、その一方で、私は生きた民主主義が現れていることも目にしています。ありとあらゆる人々が薄っぺらい民主主義政治を拒否しています。彼らは責任を負い、教育、経済、裁判、食べ物と様々な分野で声をあげ、革新を成功させています。その影響は既にとても大きなものがあります。まだ目に見えてはいませんが、私が旅を始めたときには、それが可能だとは一度も想像できませんでした。

 ですから、私たちの小さい惑星ではこれまでになかった明確な選択を目にできるのです。生きた民主主義を選ぶことは、行動を選ぶことを意味します。そして、私が30年を通じて、学んだことのひとつは、希望はあるということです。多くの人々は、証拠を整理し根拠を立証することで希望を見出せると思っています。ですが、希望は、証拠から見つけるものではありません。それは、私たちの行動を通じてなるものなんです」(1)

(引用文献)
(1) Kathy Crockett, Earth Keeper Hero:Frances Moore Lappe
(2) Americans Who Tell the Truth, Frances Moore Lappe Biography
(3) ライト・ラブリーフッド賞HP


スモール・イズ・ビューティフル

2006年07月17日 13時20分27秒 | 経済学
 スモール・イズ・ビューティフル」と言えば、なんといってもシューマッハが有名だ。だが、「スモール・イズ・ビューティフル」というスローガンを作ったのは、シューマッハではない。そのオリジナルは、レオポルド・コール(Leopold Kohr・1909~1994)が作った。レオポルドの弟子であったシューマッハが1973年に名著「スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学」小島慶三他訳(講談社学術文庫)で、そのキャッチ・フレーズを広めたのである(1)。レオポルドは、きちんとした評価がまだなされていないが、その祖国、オーストリアでは、正しく認識され、かつ、愛されている数少ない政治思想の予言者のひとりである。シューマッハは、レオポルドのことを「私が他の誰よりも学んだ教師」と呼んだが、レオポルドに影響されたインテリはそれにとどまらない。近代社会の見直しに大きな影響を与えたイバン・イリイチ(Ivan Illich)、マンフレッド・マックス-ニィーフ(Manfred Max-Neef)、ハーバート・リード(Herbert Read)、Danilloドルチ(Danillo Dolci)、ジョン・パプワース(John Papworth)、エドワード・ゴールドスミス(Edward Goldsmith)らはみなレオポルドに学んだ。だが、レオポルドがこうした思想家や活動家のグループから着目され始めたのは、1970年代後半からのことにすぎない(2)



 レオポルド自身は1950年代はじめに、早くもその思想を確立していた。処女作「壊れた国家」(The Breakdown of Nations) の冒頭で、レオポルドは、こう主張する。

「あらゆる社会的な災いの背後にはただひとつの言葉が見える。巨大さだ。ことを単純化しすぎていると思えるかも知れない。だが、巨大さや過剰規模が社会問題よりも格段に多いことを思えば、その考えが受け入れられるだろう。それが、すべてに通じる唯一無二の問題であるように思える。何か問題があるとすれば、それはモノが大き過ぎることなのだ」

 レオポルドは、文化、経済、そして、管理上と多岐にわたって小さな組織や小さな都市、そして小さい国家が、巨大なそれよりもいかに効率的で、愛に満ち、創造的で安定しているかを論じ、自律した小さな州が平等に連携したスイスをモデルにあげ、大規模な国家システムを小規模な連邦州に解体することを提唱した。スイスは、イタリヤ語、フランス語、ドイツ語、そしてRaetoroman語と、多様な言語を話す人々からなるが、国民は調和し共存している。レオポルドによれば、それが可能なのは、スイスが、地方分権的で各地域の自立度が高いからだった。

「さもなければ、こうしたエスニック集団は、大規模な国家がかかっているナショナリズムという病にかかってしまっただろう」

 レオポルドは、歴史的にも国家の統一が、互いに戦う超帝国をもたすだけだったことを知っていた(2)。著作は、1957年にロンドンで出版されたが、いかに早くレオポルドが未来を見通していたかの証拠でもある。「経済成長であらゆる課題を解決できる」と誰もが考えていた1950年代、60年代に、レオポルドは、それに反対。人々に身の丈の大きさに戻ることを勧めたのだった。

 レオポルドは1909年10月5日にオーストリア、ザルツブルグ州で生まれた。ザルツブルグの小学校とギムナジウムに通い(1)、1938年にインスブルック(Innsbruck)大学で法学を修め、1935年にはウィーン大学で政治学を学びおえた(2)。ナチスが1938年3月にオーストリアに侵攻すると、政治上の理由から、故郷を去り、パリを経て同年に米国に亡命した。初めは郷里からの援助があったものの、たちまち資金的に困窮する。カナダの金鉱で重労働をしたこともあり、突発性の難聴に悩まされたりもした。だが、まもなく、米国内のインテリやオーストリア出身者とのつながりができ、社会的に活躍をはじめる。そして、祖国「オーストリア解放運動」(Osterreich-Frei-Bewegung)を通じて、左翼やアナキストと連携し、ナチスドイツやファシズムと戦った。

 レオポルドは「ニューヨーク・タイムズ」、「ワシントンポスト」、「ロサンゼルスタイムズ」紙上で社説を書き、ナチスとの徹底的に戦った。例えば、ヒトラーの生い立ちやその社会的、経済的背景を詳細にあばいた。レオポルドの故郷、オベレンドルフ(Oberndorf)はヒトラーの出身地ブラウナウ(Braunau)から30キロしか離れていなかった。同時に、オーストリア文化の価値を意識させ、祖国独立への意志を鼓舞した。クリスマスには、「サイレント・ナイト、ホーリ・ナイト」(Stille Nacht, heilige Nacht)という有名なクリスマス・キャロルにまつわるエピソードを披露した。この歌詞は19世紀前半にフランツ・グルベール(Franz Gruber)とジョゼフ・モーア(Josef Mohr)によって、レオポルドの故郷オベレンドルフで書かれたのだ。この記事で、多くの米国やカナダ人は「クリスマスソング」の由来を知った。

 こうしたファシズムとの闘いは、後にレオポルドが展開する理論とは無関係ではない。例えば、レオポルドは、新聞通信員として、スペインに在住。フランコのファシスト政権に反対する記事を書いた。そこでは、人民戦線にボランティアで参加していたアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)と事務所を同じくしたし、後に「1984年」で世界的に有名となるジョージ・オーウェル(George Orwell)ことエリック・アーサー・ブレアー(Eric Arthur Blair)とも知り合った。

 ファシズムに対抗するアナーキズムが、レオポルドの理論のベースとなった。スペインの無政府主義派は、フランコやヒトラーと戦うだけでなく、中央集権的な共産主義とも戦い、村、町、地域の自律を求めたのだった。だから、レオポルドは、スターリン主義や共産主義にも強く反対した。

 レオポルドは、社会貧困にはひとつの理由しかないと確信していた。政府であれ、経済であれ、企業であれ、組織であれ、大きくなりすぎたということだ。レオポルドは、その巨大さのために滅びた恐竜を例にあげ、その理論を展開した。「可能な限り大きくということは腐敗への第一歩だ」。同時にレオポルドはソ連の状態を別の事例としてあげた。

「国家は、1200万人~1500万人以上の住民を持つべきではない。さもなければ、それは機能を失うだろう。政府と人民との適切なふれあいが担保されなくなってしまう」(1)

 レオポルドは、トロント大学(1939~1950年)、ラトガース(Rutgers)大学(1952~55年)、プエルト・リコ大学(1955~1973年)、ウェールズ大学(1973~1978年)で教鞭をとり、その間6冊の著作を書きあげ、「スモール理論」と呼ぶ自説を深め、さらに詳しく説明した。

 「援助なき開発、第三世界諸国について」(Development without Aid, arguing that Third World countries)では、経済を統合するよりも、小規模な自給自足によって、開発途上国は自力でその人民に十分なモノが提供できると主張し、「過剰の開発」(Overdeveloped Nations:The Diseconomies of Scale)では、「国家が巨大であればあるほど、その国民は悪くなる」と述べ、近代国家がその規模によってどれほど社会経済的に機能不全に陥っているのかを示した。「都会の人間」(The City of Man)では、小規模な中世都市が社会的にも文化的にも効率的であり、近代都市が小さな都市という原理を導入すれば、いかに変われるかを示した。都市計画や建築について論じたインナー・シティ(The Inner City)では、「都市の巨大主義」は大きいなものをより小さく、身の丈に戻ることによってのみ、回復できるとした(2)

 レオポルドは、言葉でその理論を語っただけでなく、戦後も自らの理論を実践するため、政治運動を繰り広げた。そのひとつに「アンギラ・プロジェクト」がある。アンギラ(Anguilla)は、英国統治下の隣島ネヴィス(Nevis)やセント・キッツ(St. Kitts)ともに、プエルト・リコから約300キロ離れたところにある6500人の小さなカリブ海の島だが、1967年に独立宣言をし、英国による統治を拒否した。当時、レオポルドは、プエルト・リコ大学で教鞭をとっていたことから、アンギラ独立のために戦った。米国やカナダの友人の支援を受け、「独立運動」を組織化し、世界の注目をアンギラに引きつけた。レオポルドの支援もあり、アンギラはアメリカの大規模なホテル建設を拒否。身の丈にあった経済が発展するはずだった。だが、にもかかわらず、2年後「アンギラ・プロジェクト」はロンドンのウィルソン政権により閉鎖され、アンギラは再び英国の統治を受けた。島が最終的に独立したのは1981年のことである(1)

 1983年、レオポルドは、オルターナティブ・ノーベル賞を受賞。1983年には英国シューマッハ協会、1989年には米国シューマッハ協会から講義以来を受けた。処女作「壊れた国家」も1977年にようやく米国でペーパー・バック化され、そのわかりやすい文章もあいまって、他の著作とともに増刷を続けた。だが、それでも、レオポルドは、シューマッハのような世界的な名声を受けることはなかった。レオポルドが評価されたのは、郷里ザルツブルグだった。

 レオポルドは、ザルツブルグ郊外にある2,000人に満たない小さな村、オベレンドルフで生まれたが、「学ぶべき価値のあったすべてを私はその小さな町で学んだのです」と語り、つねに故郷を誇りにしていた。オベレンドルフからザルツブルグまでの距離、22キロが、レオポルドのすべての距離の基準だった。この出身地への誇りが、レオポルドを真の国際人にしていた。1982年、レオポルドはザルツブルグで「身の丈の規模、レオポルド・コール・シンポジウム」を開催する。世界中から学者、活動家、友人が集まった。1986年には国立公園と動物園の近くに「レオポルド・コール・アカデミー」が新しく設立される。そこでは、ローカル・クラフト、村の再生、自給自足のコースやシンポジウムが年間を通じてなされ、オルターナティブ技術センターが実験を行い、レオポルドの思想普及に寄与している(2)

 晩年、レオポルドは、オベレンドルフに帰郷することを切望していた。アパートを借りる決意もしていた。だが、移住する前、1994年2月26日にレオポルドは、イギリスで死んだ。だが、誰よりも郷里を愛したレオポルドの墓は、オベレンドルフにある(1)

(引用文献)
(1) Gerald Lehner, Leopold Kohr
(2) Kirkpatrick Sale, Leopold Kohr, the Newsletter of the E.F. Schumacher Society, Spring 1997


プチ・グレート・ジャーニー

2006年07月16日 19時43分45秒 | 革命家
サティシュ・クマール(Satish Kumar)というインド人がいる。1936年生まれだから、今年ちょうど70歳になる。2000年7月には、プリマス(Plymouth)大学から名誉教育学博士号を贈られ、2001年7月にはランカスター(Lancaster)大学から名誉文学博士号を受け、2001年11月には、ガンジー思想の海外普及に貢献したことから、ジャムナラール・バジャジ(Jamnalal Bajaj)国際賞を授与されている。

 1991年に「スモール・イズ・ビューティフル」を著したシューマッハにちなんで、「シューマッハ・カレッジ」を創設。その後も、ヴァンダナ・シヴァ(Vandana Shiva)と協力し、持続可能な暮らしのための国際大学「種子の学校」(Bija Viyapeeth)も創設している。

 シューマッハ・カレッジを創設したときに、サティシュはこうインタビューに答えている。
「シューマッハの「スモール・イズ・ビューティフル」は英国でたいへんに多くの人のものの考え方に大きな影響を及ぼしました。すべてが巨大となり、どんどん膨れあがり、大きなものが良いこととされています。レオポルド・コール(Leopold Kohr)とシューマッハは、1960年代と70年代にヒューマン・スケール、身の丈の、分散型のローカル・エコノミーの思想を推進した二人の偉大な人物でした。とりわけ、シューマッハは「仏教経済学」(Buddhist Economics)というエッセイを書き、経済と精神的な価値の視点を結び付けました。多くの人がシューマッハにこうたずねました。「仏教が経済学になにをするというのかね?」シューマッハは、ジョークを交え、「仏教なき経済学は、まるで愛なきセックスのようなものだ」と言いました。おそらくシューマッハは、政府やオックスフォードというバックグラウンドを持ちながら、あえて仏教と経済学という言葉をつなげた西側では唯一のエコノミストでした。そこで、私たちが、精神性とエコロジーの両面をもたらす大学を始めようと考えていたとき、シューマッハよりもその栄誉にふさわしい人はいないと思ったのです。彼の名を引合いに出すことで、その記憶を永続させることもできます。とはいえ、私たちは、彼を英雄にしたり、シューマッハ・カルトを創設しようとは思っていませんでした」

 サティシュは1973年から、イギリスのハートランド・デボン(Hartland Devon)居を定め、妻のジューン・ミッシェル(June Mitchell)とムクティ・ミッシェル(Mukti Kumar Mitchell)と暮らしている。



 こう述べてくると、インド出身のインテリ、エコロジストで、宗主国の英国で立身出世を遂げた大学者であろうと想像する。事実、サティシュは、日本ではまだあまり知られていないが、ヴァンダナ・シヴァやピーター・チョムスキーにも匹敵する現代の知の巨人である。

 だが、サティシュは若いときに、並大抵の人間ではなかなかできないユニークな旅をしたことがある。「グレート・ジャーニ ー」といえば、なんといっても関野吉晴さんが有名だ。アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった行程を自らの脚力と腕力だけをたよりに遡行するという氏の「グレートジャーニー」は約5万3千キロにも及ぶ。だが、関野さんほどではないにしても、今から40年近くも前のキューバ危機の直後に、サティシュも1万3000キロほどのプチ・ジャーニーをやったのだ。しかも、サティシュの場合は無銭旅行だった。まったくの無一文で、インドからヨーロッパ、アメリカへと、砂漠や山脈をこえ、嵐や雪をつき、また、フランスでは牢獄に放り込まれ、米国では銃を突きつけられしながら、歩き続けたのである。
 この旅については、サティシュ本人が、インタビューで語っている。

 1961~62年ですが、英国、米国、ヨーロッパで多くの反核キャンペーンが広まり、私は、インドの外で平和のために歩くというインスピレーションを持っていました。バートランド・ラッセル卿は、市民として反抗し90歳で刑務所へ行ったのです。これはインドに居残る私をとてもインスパイアーしました。そこで、私は言ったのです。

「ここに、次の人生のための彼のパスポートを持っており、私たちの世界について関心を持っている男がいます。わずか26歳で、私たちの未来の地球にやれることはわずかですが、私は何かをしなければなりません」。私は、卿の行為にインスパイアーされ動かされたのです。私は「どうやってそれをやろうか」と考えました。モスクワにも、パリにも、ロンドンにも、ワシントンにも行こう。そして、飛行機でいってもそこにはインパクトはありません。何千人もの人々が飛行機で飛行しています。モスクワに着き、ホテルにとどまれば、「あなたは誰?」となるでしょう。ですが、もし、インドからモスクワへ歩いてゆき、次にパリへ歩いてゆけば、次に、ロンドンへ歩いてゆけば、次にニューヨークからワシントンまで歩いていけば、少なくとも私は身を危険にさらしますから、話すことができるでしょう。口がある私の肉体をして、歩くことで私の抗議を表現できます。それが、歩こうという私のアイデアでした。

 私たちはガンジーの墓のあるデリーから歩きはじめ、デリーからパキスタン国境まで歩いて約1か月がかかりました。お金がなくてもインド内を歩くほうが簡単でした。多くの人々や組織された人々がそのことをわかっていたからです。インドとパキスタンの国境に来た時、多くの友達や親類たちが別れを告げるためにやって来ました。とても親しい友達の一人はたくさんの食べ物を持参し「君たちはパキスタンに入ろうとしている。インドとパキスタンの関係はよくない。パキスタンは敵国だし、イスラム教徒の国だ。君たちが心配だ。一文なしでいくとは気がおかしい。だが、そう決めたのだから、いくらかの食べ物の小包をあげたい」と言いました。ですから、私は「私のことを考えてくれてとても感謝している。でも、食物をとることはできない。なぜなら、それは、私がパキスタンを信頼しないことを意味するからだ。その食べ物が私を養うと期待するから、これは不信の小包なのだ。2、3、10日ごとに死ななければならなければ、私は今日死に始めよう。私は食べ物をとりたくない」と言い返しました。彼はとても気が動転し「おまえは絶対に頭がおかしい。とても心配だ」と涙を浮かべて私を抱きしめました。

 こうして、私は去ったのです。私が、税関、パスポート管理を通り抜け、パキスタンに入ると、驚き、信じられないことに、ひとりの若者がキンセンカの花を二輪手にして立っていました。若者は「モスクワに平和のために歩いていくサティシュさんとマンノンさんですか」と問いかけてきました。「どうして、そのことを知ったのですか」とたずねると「数日前にパキスタンへといった旅人が『モスクワへと歩いていく2人のインド人がいる』とちょうど道すがら言ったのです。そして、あなたがデリーを旅立った1月前の新聞の小さな方隅の2人のインド人がパキスタンを抜けてモスクワにいくという、ちょっとした記事を読んだのです。この2つの知らせがあわさって、私は来たのです。一昨日中、あなた方を捜していました。昨日も来て見つけられませんでした。今日も来ました。そして、やっと見つけることができてとても幸せです。是非、私の家に滞在し、お客になってください。私は自動車で来ましたから、一緒に私の家へいきましょう」と。

 5分前に、友人が「金銭なしでいけば、空腹になり、飢えるだろう」と言い、私が食べ物の小包を受け取らなかったので、友人は目に涙を浮かべていました。5分後には、私は歓迎の例を目にして涙を浮かべています。ですが、私たちは彼に言いました。

 「私たちは歩いていますから、自動車には乗れません。私たちは歩かなければならないのです。でも、住所を教えてくだされば、夜にはあなたの家にうかがえるでしょう」
彼は言いました。

「いいや。どうして、あなたを来客にしたいと願う誰か別の人に途中であなたが会わないことを確証できよう。私はあなたを見失うかもしれない。3日、毎日、あなたを捜して来て、見つけたのだ。今、おいていくことはできない」
そこで、私たちは言いました。

「私たちは歩かなければならないのです。それが私たちの誓いです。私たちは自動車では行けません」
「わかりました。でも、あなた方は背中に重いリュックを背負って歩く必要はありません。私がそれが盗まれないよう自動車の中においておきましょう。そうすれば、少なくともリュックをとるため、あなた方はやって来るでしょう」

 私たちは「それは素敵ですね。私たちのリュックをもっていってください」と言い、その後、私たちは歩き、夜になり、彼の家に滞在したのです。

 毎日が素晴らしい日でした。日々、何百もの物語がありました。もう1つのお話を伝えましょう。それは米国人に関係があります。私たちはパキスタンとアフガニスタンの境界上にあるペシャワールへ来て、そこから歩き始めました。カイバル峠を通り抜けなければなりません。それは標高が約1500mです。両側に山が迫り、とても狭いまいた道、この道を作ったカブール川に沿って歩いていきます。それはとても野生的で美しいのですが、とても隔離され、とても孤独でした。このカイバル峠で、私たちを一台の車が通り過ぎ、約100m先で止まり、戻ってきました。誰かが窓を開け、「乗りますか」と言いました。私たちは、「いいえ、結構です。私たちは歩いています」と答えました。彼は「どこへ歩いていくのですか」と言い、尋ねているのが米国人であることがわかったので、私たちは「最終的には、米国に歩いています」と言いました。

「何だって、米国に歩いていく」

「ええ、そうですよ」

「いったいどこに米国があるかわかっているのか」

「ええ、わかっていますよ。多くの丘や多くの国を越え、海を越えたところに。私たちは地図でそれを見ましたから、ある日には、そこにたどりつくでしょう」

 彼らは驚きました。その一人はスカーフ博士という名の人でした。彼は名刺をさし出しこう言ったんです。

「とてもあなた方が歩いていけるとは思えない。だが、もし、歩いていくならば、私はフィラデルフィアで暮らしている。ニューヨークとワシントンの間で、あなた方の旅の途上にある。電話をもらえれば、私はフィラデルフィアでおめにかかりたい」
ロバート:そこで、リュックに彼の名刺を入れたのです。

 サティシュ:そうです。4ケ月をかけ、アフガニスタン、ペルシア、イラン、ソ連へと歩き、それから、ポーランド、東ドイツ、西ドイツ、ベルギー、フランス。ドーバー海峡でちょっと船に乗り、次にロンドン、サザンプトン、船でニューヨークへ。そして、ニュージャージー、フィラデルフィアへ、ペンシルバニアへとやって来ました。そして、私はスカーフ博士を思い出したのです。私は博士の名刺を取り出し、レストランに行って店長にこう言いました。
「私はお金を持っていません。でも、スカーフ博士に近距離電話をかけられますか」

 店長はとても親切で、電話をかけさせてくれました。そこで、スカーフ博士に電話をかけるとこう言ったのです。

「スカーフ博士ですか。カイバル峠で出会った2人のインド人のことを覚えていますか」博士は「覚えているとも。彼らはどこにいるんだろうか」と言ったので、「私たちは今ちょうどフィラデルフィアにいるのです」と答えました。博士は「とても信じられない。私の家へすぐに来たまえ。いま、どこです」と言い、自宅への道を教えてくれました。私たちが博士の家にたどり着くと一番喜んだのは博士でした。博士は、多くの友達たちを招いて祝宴を催してくれました。

ロバート:あなたはそうした旅で、日々出会った人たちに平和のメッセージを伝えたわけですね。政府にもその平和のメッセージを伝えましたか。

サティシュ:もちろん、ですとも。私たちは、政府の代表に私たちの考えやメッセージを伝え、会話をしました。例えば、ペルシアでは、イランのシャー(皇帝)に会いましたし、シャーはとても手厚く、平和や軍縮について話せました。
それから、私たちはソ連にやって来ました。私たちは旗をかかげながら歩き、ロシア人民へのチラシも配っていましたから、ある日、路上で2人の女性に会ったんです。彼女たちは、私たちの旗を見て、チラシを読むと、こう尋ねてきて、こう言ったんです。

「私たちは製茶工場で働いています。中に入って一杯のお茶をめしあがりませんか」

 私たちは「それは素敵ですね。ちょうど昼時ですし、いつでもお茶の時間です」と答え、製茶工場の中に入って、一杯のお茶をご馳走になり、工場の労働者たちと話を交わしたのです。すると、ひとりの女性が急にすばやく部屋から出ていくと、数分後、4袋のお茶の包をかかえて戻ってきました。そして、彼女はこう言ったんです。
「あなた方が光とともに旅をしなければならないことはわかっています。ですが、この4袋はとてもとても大切なのです。お茶を飲んではいけませんし、それを運んでもらわなければなりません」

「どうして、それを運ばなければならないのでしょう」と問いかけると、彼女はこう言いました。

「ひとつは私たちの首相、ひとつはフランス大統領、ひとつは英国首相、そして、もうひとつは米国大統領に運んで欲しいのです。そして、この工場からの私たちのメッセージを伝えて欲しいのです。『核ボタンを押すという狂った考えが生じたときに、1分間だけ待って、この包みで新鮮なお茶を一杯飲んでくださいと』。そうすれば、彼らは、熟考する時を持つでしょうし、工場で働き、お茶畑で働き、お茶を作っている人たちが、ごく普通の暮らしを送っている人民で、敵ではないことを理解するでしょう。そう、私たちはごく普通の庶民です。私たちは、核の攻撃に相当することは何もやっていません」

 こうして、私たちの旅はとても重要な意味を得たのです。4人の政府の代表に会いに行き、お茶の包みと一緒にメッセージを伝えることが、さらに重要になりました。ですから、私たちは、前もって全員に手紙を書きました。私たちはやって来ました。私たちがたどり着けば、受け入れられ、大統領や首相や聴衆から、よい反応をいただきたいのですと。
私たちは、ソ連のクレムリンの最高会議議長から受け入れられ、ニキータ・フルチショフ(Nikita Kruschev)から私信を受けました。フルチショフはこう述べました。

「私どもソ連はあなた方を歓迎します。そして、平和のためのあなた方のビジョンや旅も支持します。ですが、私はとても忙しいのです」

 なぜなら、まさにその時、キューバ・ミサイル危機があったからです。
「ですから、いまの時期に時間を裂くことはできません。ですが、私はソ連最高会議のチコノフに、クレムリンであなたを受け入れるよう要請をいたしました」

 同じように、私たちは、ホワイトハウスでも、ジョンソン大統領の軍縮のための特別顧問から受け入れられました。ちょうど一月前にケネディは暗殺されていましたから、私たちは、ジョン・F・ケネディの墓へと歩いてゆき、アーリントン墓地で私たちの旅を象徴的に終えたのです。

ロバート:あなたはガンジーの墓からケネディの墓へと行ったわけですね。

サティシュ:そのとおりです。ガンジーからケネディの墓へ。それが2つの地点でした。そして、政府首脳や政府代表から受けた対応はとても似ていました。ソ連では、こう告げられました。
「私どもは米国政府に対し、とてもたくさんのへの好意的な提案を作りました。ですが、私どもはいつも否定的な対応に出会うのです。ですから、あなた方のお仕事は、米国や西側諸国にでかけ、私どもの平和への提案を受け入れるよう政府や人民を説得することです。私どもは核兵器の方は向いていません。平和に向け、専念したソ連共産党の旧書記長が以前おり、それはフルシチョフ氏なのですが、氏は、政治局の同僚を悩ますという犠牲を払ってまでずっと核軍縮をしようとしていました。ですから、今、ボールは西側の議会courtにあるのです」

 米国へやって来て、ホワイトハウスの官僚たちに受け入れられと、ほぼ同じ答えを受けました。

「私どもは常に核軍縮に向けたアイデアや提案を示唆しております。ですが、否定的な対応を受けるのです」

 ですから、私たちが感じたのは、つまるところ、政府には平和宣言をするつもりはないということでした。米国やソ連の両首脳から、ある日平和が出現することを望むのは、無理というものでした。そうした平和宣言を達成するには、私たちは、世界の雰囲気や人民意識を改革しなければなりません。人民が本当に平和を望む時、政府はそれをなさなければならないでしょう。ですから、平和のための力と強さは人民からもたらされるでしょうし、人民が、文化、宗教、国籍、言語で多様性や違いを見出しても、すべてが美しき多様性なのだと悟り始める時、それは起こることでしょう。なぜなら、それらはごく表面なものであり、深いところでは、私たちは同じ人間性、グローバルな人間性をわかちあっているからです。なぜなら、それは私が経験したことだからです。私は、多くの異文化、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、ヒンズー教徒、仏教、ロシア人、米国人、ヨーロッパ人、アジア人、黒人、白人、黄色人、社会党員、共産党員と出会ってきました。彼らは、名前をつけますが、私は彼らと会うのです。そして、ずっと深く深く掘っていって、人間性に触れるとき、それはどこでも同じなのです。ですが、その統一性を発見するには、あなたは自分の偏見から自由にならなければなりません。もし、私がインドの旗を振ってインド人としていけば、パキスタン人と出会うでしょう。ヒンズー教が世界最高の宗教だと口にして、ヒンズー教徒として私がゆけば、「いや、いや、いや、お前は間違っている。我々の宗教が最高なのだ」と語るキリスト教徒やイスラム教徒と出会うことでしょう。もし、社会主義者としていけば、資本主義者と会うでしょう。黄色人種としていけば、黒人や白人と出会うでしょう。ですが、私が人間としてでかけていけば、私が出会うのは人間だけなのです。

 まったくもって、驚くべき見解というか、旅である。だが、サティシュが、平和への旅を始めたバックには、ジャイナ教徒と過ごした幼き日々と、歩く革命家、ビノバ・ヴァーベの影響があったのである。インタビューを続けてみよう。

 私は、インド北西部、パキスタン国境のラジャースタンのとても小さな村で生まれました。私の家族はとても宗教的で、とりわけ、母が私の人生に与えた影響にはおおきなものがありました。私は落ち着きのない子どもで、学校にも通いませんでした。母はジャイナ教徒のもとによく通い、私も母と一緒についていったものです。

 ジャイナ教徒は、あらゆるレベルでの非暴力に熱心です。非暴力とは自分以外の他人や社会を傷つけないだけでなく、どんな動物、ハエやアリ、どんな食物や樹木、そして、水さえも傷つけないことを意味します。ですから、それはすさまじいまでにエコロジカルな宗教なのです。ジャイナ教徒にとっては、自分の外の世界は人の便宜や利益のためにあるのではありません。世界はそれ自身の権利として存在し、可能な限りすべての存在を深く尊重し、本当に必要なもの以上は何もとらない。それが、私たちの責任になるのです。

 例えば、私の母は、一生のうち食べられる50品目をリスト化し、それ以外のものは何も食べませんでした。母はそのリストから日々、15、20、25品目を取り、ある日は、水、塩、ミルク、野菜、穀類だけを食べていました。50歳をすぎると、規則的に断食をするようにもなりました。ニーズを極端に減らせる事例としてあげているのですが、母はどれだけが必要かで、家の広さや衣類を決めていました。外部世界から必要とするものを減らせば、内的に必要とする何かを理解できます。これは、内的必要性に多くの時間をもたらします。それが、最近私たちが経験する世界がなぜとても忙しいかの理由です。私たちが、ニーズ、必需品、所有物の広大な外界を作り出したため、所有物を維持し、もっと多くの所有物を買い求めるのに忙しくなっているのです。

 ですが、母にとっては、それが原則だったのです。私はその原則で育ち、僧にも会うようになりました。彼らは、母よりもさらに極端で何も所有していませんでしたし、家を離れ、住居も持っていませんでした。背中に背負えるものだけを持ち、着る服も1着だけ。夜用の代え服があるだけでした。文字も小さく書けるので、手書きのメモだけを持ち、本すら重い負担にしていました。

 僧侶たちは、水、流動食、干物用と3つの托鉢碗を持ち歩いていました。3の托鉢碗。靴もなく、裸足で歩いていました。私はこの厳粛な苦行生活にとても感動していました。それが内部世界に連れて行ったからです。ですから、私は9歳のときに出家し、以来、私は、非暴力を実践していました。夜には歩かず、滞在している家から外に出ることは許されません。誰かの家にとどまり、家の内でさえ、動き回わり、足を踏みしめて立つ前に、柔軟な暖かいほうきで床を掃除します。そうすれば、アリや昆虫、床上の何かを踏みつけないでしょう。そうした極端な非暴力。地球上の生けるものすべてに対する、そして、すべての緑の生命へのすさまじい尊敬。ジャイナ教徒にとっては、岩でさえ、小川でさえ、水でさえ、すべてが生命をもっています。ですから、私はすさまじくエコロジカルなトレーニングを受けてきたわけです。
それが私の幼年期でした。私は僧とともに育ち、サンスクリットを学び、朝と夕べには何時間も瞑想し、食べ物を求めるために一日に一度は托鉢にでかけました。9年間、私はそうした生活を送ったのです。

 こうした9年間におおいに啓発されました。ですが、それ以外の自分や自分以外の世界を犠牲にして内なる道を追求していましたから、私はそうした暮らしはバランスが欠けていると感じていました。

ロバート:何があなたに去るようにしむけたのでしょう。

 そう感じたのには、二つの影響がありました。ひとつは私が読んだマハトマ・ガンジーの書物です。中でガンジーはこう述べています。

「宗教、内的旅の探求は、外的・社会的な旅の探求と分けられるべきものではない。私たちは分離された存在ではないからだ。もし、世界から退けば、私たちは自分だけの個人的な悟りには従うことができる。それは、いわば残りの世界が地獄に行くことを残していくのだ」と。

ロバート:それは一種の精神的な利己主義というわけですね。

サティシュ:そのとおりです。そうした厳格な訓練を経験する期間を持てたことは、とても感謝していますが、私はガンジーの示唆が正しいと感じたのです。私は、精神性と社会性、内部と外部の結合したバランスが取れた生活様式を見出すべきだ。ガンジーのアプローチを読むことで、世界の中での彼の生き様の例を目にしたわけです。ガンジーは瞑想し、祈り、バガヴァッド・ギータとウパニシャッドを学ぶ一方で、国会の党執行委員会に参加し、インドの一般的な統治者に会いに行き、経済開発や農村開発で働く。ガンジーが生活から省いた部分はありませんでした。ですから、ガンジーは、バランスについて考えるだけでなく、それを生活で実践していました。その事例が私をインスパイアーしました。私は自分の僧生活が少し狭すぎ、自己中心的だったと感じたのです。

ロバート:ガンジーの思想と出会ったのはいつ頃でしたか。

サティシュ:たぶん、1954年でした。インドが独立し、ガンジーが死去して6~7年後です。ですから、私はガンジーとは会えませんでした。ですが、その後、ガンジーの弟子、ビノバ・ヴァーべ(Vinoba Bhave・1895~1982)から、二番目の影響を受けることになります。ビノバは、精神的な仕事と社会的・政治的な仕事とを組み合わせるというガンジーの道をたどっていました。

 西洋ではほとんど理解されていませんが、ガンジーは、インドそのものを変革する多くの仕事を行いました。ガンジーの高弟、ビノバは、土地所有の問題を取り上げ、20年間インド中を歩きまわりました。東、西、北、南、中心部、どこもです。誇張すぎるのは少し危険がありますが、インドの大地のほとんどすべてを歩いたと言えます。そして、ビノバは、空気、日光、水がまさに所有できない自然の賜物であるように、同じく大地も地球も私たちの母であり、神の賜物であり、自然の賜物であり、誰もその所有権を要求してはならない、というメッセージをもって歩きました。ビノバは政府も法律も変えられませんでしたが、何百万もの人民が土地をまったく持たずにいる中、土地を所有すべきではないことを理解するよう、人々の意識改革を望んだのです。そこで、ビノバは地主のもとにでかけては「あなたに5人の子どもがいれば、貧困層を代表する6人目の子どもとして、土地なきものに分配するようあなたの土地の6分の1を私に与えてください」と言ったのです。それは全く奇跡でした。ビノバは、贈り物として200万haもの土地を集めました。それは全く印象的でした。

 ビノバは大学者でもありました。アラビア語を勉び、コーランも熟知していましたし、聖書も学んでいました。仏教の大学者で、仏典を翻訳し、キリスト教、ヒンズー教、仏教といった宗教に関する論文も書いていました。ですから、私はジャイナ教徒の暮らしを離れ、ビノバのもとに加わり、3年を彼とともに歩いたのです。それは、とても刺激的な時間でした。何千もの人々、医師、弁護士、学生、教授、ビジネスマンが自分の仕事を捨て、ビノバの土地寄進運動を支えるために参加していたからです。ですが、ビノバにとっては、土地寄進運動も、たんなる仕事のひとつでした。ともに歩いていた人々は彼の学徒であり、すべてが歩行大学だったのです。

ロバート:どれほどの人々が彼とともに歩いていたのですか。

サティシュ:どこでも50~100人はいました。そして、数か月または数年で人々も変わります。私は約3年間を彼と過ごしましたが、それが私がもっとも学んだ場所です。それが本当の世界の教育でした。政治、インド社会やその文化生活、ヒンドゥーの伝統や宗教、そして仏教を学びました。それは私が彼と歩いた素晴らしい時でした。社会を改革し、思考を変え、心を変える非暴力の方法が、土地分配のような課題でさえ、有効なことを示しました。インドでは土地がとても不足していますから、土地を与える人は1人、2人、10人しか見出せないかもしれません。ですが何百万もの人々が、ビノバに数百万haを与えるとはすさまじい業績でした。政府さえ大きく影響され、法を改正し、分配に利用可能な多くの土地を作りました。ですから、彼は情勢変化を生み出したのです。

ロバート: あなたの2番目の教育期間の3年後、そのときは21歳程度だったに違いありませんが、次のステップは何だったのでしょう。

サティシュ:その後も私はビノバが始めたアシュラムのひとつで暮らしていました。ですから、ビノバの教育や運動は継続しました。ですが、私は一ヶ所にもっととどまり、土地を研究し、土地のために働き、多くを学びました。ですから、18~26歳、約8年私はビノバとともにいたわけです。

 私はマンノン(Mannon)と呼ばれる友人と語らい、二人でこの旅を歩くことを決めました。そこで、私たちは祝福を得るため再びビノバのもとに会いに行ったのです。ビノバはこう言いました。

「両君に私の祝福を与えましょう。歩いていくというのはすさまじいアイデアです。平和のメッセージを広めるため歩くことを私は全面的に支持します。これをなすことは素晴らしいことです。ですが、私は両君に護身用として二つの武器を与えたい。ひとつは、金銭なしでゆくことです。二つ目は、君は菜食主義者ですが、それを続けることです。無銭でいて欲しいわけを言いましょう。もし、金銭を手にしていれば、一日中30、50キロ歩いた後で村か町にたどり着きます。そこで使い尽くされてしまいます。食べるためのレストランを探すでしょうし、眠るためのベットや朝食も探すことでしょう。移動し続け、誰とも会わないでしょう。ですが、金銭を手にしていなければ、一夜の床を提供してくれる手厚く親切な人をどこかで見つけることを強いられます。そして、その人たちが、一夜の床を施すときはこうたずねざるを得ないでしょう。「どんなものが食べたいですか」と。そして、君はいう。「私たちは菜食主義者です」。そうすれば、彼らは君たちに「なぜなのです」とたずねることでしょう。そこで、平和について対話ができます。なぜなら、平和とは、世界の平和だけでなく、核兵器だけでなく、自然とともにある平和、動物とともにある平和。それが、君のジャイナ教徒の伝統だからです。もし、君が動物を殺せるならば、同じ態度で人も殺せます。自然を開発するメンタリティは、戦争を産み出すものと同じだからです。ですから、君はそれについても話すことができます。君は核軍縮の平和だけではなく、精神的な平和、内なる平和のことも話さなければなりません。誰もが内なるセキュリティを手にしていなければ、世界のセキュリティはありえません。ですから、自身の内なる平和が、世界平和、民族間、国家間、人種間、宗教間の平和であり、自然と共にある平和なのです。こうした三種類の平和が、包括的な平和、トータルな平和として理解される必要があるのです」

 ビノバのメッセージとともに、私たちは旅立ちました。とても説得力があったからです。そして、ビノバは完璧に正しかったのです。お金を持っていれば、人々を信頼しないわけですから恐れがあるわけで、悪いのです。好きなものを何でも買えますが、お金がなければこうは言えません。

「私はこの人が好きだ。この人は嫌いだ。私はこの人の家に滞在しよう。この人の家に滞在しない。判断もせず、問うこともせず、疑うこともせず、不信感もなく誰をも受け入れる。誰をも信頼する。人々の膝に神の膝のもとにいる。完全な信頼をもっていなければならない」

(引用文献)
Robert Gilman
All contents copyright (c)1987, 1997 by Context Institute
http://www.context.org/ICLIB/IC17/Kumar.htm
Schumacher, Gandhi & 21st Century Education : An interview with Satish Kumar
Reprinted from LAPIS magazine, 2001
http://www.schumachercollege.org.uk/articles/teachers-articles/schumachergandhi.html


歩く社会主義革命

2006年07月16日 19時26分54秒 | 革命家
">■ゲリラ革命への情熱

 1916年3月、当時大学2年生であった20歳のある青年は悩んでいた。
「自分はヒマラヤにいって行者になるべきか。それとも、西ベンガルに行って英国人と戦うゲリラ活動に合流するべきだろうか(3)。



 青年の名は、ビノバ・バーヴェ(Vinoba Bhave)。日本ではほとんど知られていないが、後にガンジーをして「私の精神的後継者は彼しかいない」とまで言わしめた人物である。ガンジーの後継者の中で、ビノバほど真理や非暴力の崇拝者を作り出した人物はいない。その身をもって示す実践は、数え切れないほどの人々の心を揺り動かした(2)。

 ビノバは1895年9月11日に、インド、マハーラーシュトラ(Maharashtra)州、コラバ(Kolaba)地区のガゴダ(Gagoda)村に生まれた。母、ルクミニ・デビ(Rukmini Devi)は、信心深い敬謙な女性で、ビノバはその影響を大きく受けた(1)。10歳のときには、早くも霊的真理と実践行為を統合する生き方を求め、一生独身で、他者に無私で尽くすという誓いを立てる(2)。ビノバは若年にして聖典や哲学書に通じ、数学にも関心を持っていた。当然のことながら、普通の授業はビノバの知識欲を満たすのに十分なものではなく、内的な不安や葛藤を抱えていた。大学の中間試験を受けるためのムンバイへの道すがら、ビノバは学生証を火の中に投じ、ゲリラになるか、聖者になるか決断を下そうと、インドの聖なる市ベナレスに向かっていたのだった(1)。

 だが、それが運命の分かれ道だった。新設されたべレナス・ヒンドゥ大学で、ガンジーの講演記事がふとビノバの目にとまった。ビノバは衝撃を受けた。革命への熱情と内的平和とを統合する道を見出したのだ(3)。ビノバはすぐにガンジーに一通の手紙を出す。ガンジーは親切な男だった。20歳の一青年に対し、アーマダバード(Ahmedabad)のコチャラブ(Kochrab)にあるアシュラムで個人的に会おうとの返事をくれた。1916年6月7日。こうして、ビノバはガンジーと出会う。それが、ビノバの人生を変えた。後にビノバはこう語っている。

「ベレナスにいたときには私はヒマラヤにいく野心をいだいていましたし、ベンガルを訪れたいという切なる願いもありました。結局、どちらの夢も実現しませんでしたが、神の意志が私をガンジーに引き合わせ、私はガンジーの中にヒマラヤの平和だけではなく、課題解決への熱情も見出しました。私は二つの望みをかなえたのです」(1)。「ガンジーとすごした経験は、ヒマラヤの革命的な精神的平和の経験でした。平和への革命と革命による平和。二つの流れが全体として新たな方法でガンジーに結びついていたのです」(2)。

■ガンジーの後継者

 ビノバはガンジーのアシュラム活動に心をはずませ参加した。教え、学び、コミュニティの暮らしを改善していく。歳月を重ねるごとにガンジーとの絆は深まった。
 1921年4月8日、26歳となったビノバは、ワルダ(Wardha)村のアシュラムを担当するようガンジーから頼まれる。また、1932年12月23日には、ワルダ村から約3キロ離れたナルワディ(Nalwadi)村に移り、そこで自活思想の実践を行った。農村での産業づくり、新教育活動(Nai Talim)、公衆衛生。ガンジー建設プログラムは次々と進展していった(1)。
1940年10月5日、ビノバが45歳のとき、ガンジーは、ビノバを招き寄せ、非暴力・不服従主義者、サティヤーグラハ (Satyagraha)の第一の指導者としてビノバを選んだ(1)。ビノバは全国的には知られていなかったが、ガンジーは「ガンジー思想を本人以上によく理解しているのはビノバである」と絶賛し、英国政府に対する反対運動の指導者として、ネールではなく、ビノバを選んだのだった(3)。



 ガンジーから絶賛されただけあって、ビノバは非暴力・不服従運動のため、英国政府に何度も投獄されている。1923年には、ナグプール(Nagpur)でサティヤーグラハ運動を展開した咎でナグダ(Nagda)とアコラ(Akola)刑務所に何カ月も投獄された。1932年には、制度に異議を唱えた罪で6カ月ドゥーリア(Dhulia)刑務所に投獄される。だが、ビノバにとっては刑務所も読書と執筆の場だった。ドゥーリアでは、ギータについてのマラチ(Marathi)語の翻訳書、「Gitai」を書いた。刑務所の同僚たちになされたギータの講義は、後にサネ・グルジ(Sane Guruji)により本として出版される。自治についての著作(Swarajya Shastra)やGyaneshwar、Eknath、Namdevの聖歌バジャン(bhajans)も完成させた。
1940~41年にかけては、ナグプール(Nagpur)刑務所に3回も投獄された。最初は3カ月、次は6カ月、そして三度目は一年だった。ここでは、「Ishavasyavritti」を書いた。1942年にはベロール(Vellore)とセオニ(Seoni)刑務所に3年投獄をされた。ベロール刑務所ではインド南部の4言語を学び、セオニ刑務所では「Sthitaprajna Darshan」を書いた。
ビノバは多言語にも通じる優れた大学者だった。アラビア語を学びコーランも熟知していたし、聖書も学んでいた。仏教にも造詣が深く、キリスト教、ヒンズー教、仏教とどのジャンルの宗教でも論文が書けた。しかも、文章家としても優れていた。宗教、哲学、教育と様々な分野の本質を庶民にわかりやすく伝えることができた。例えば、1923年にワルダ村アシュラムにいたとき、早くも地元言語でマハーラーシュトラ・ダルマ(Maharashtra Dharma)を創刊しているが、それはその後、月刊誌、週刊誌となり3年も続いた。ビノバの文は評判となり、人々の人気を博した(1)。

■非暴力での共産ゲリラとの闘い

 1947年、インドが独立し、翌年1月30日にガンジーが暗殺されると、ガンジーの信者たちは、ビノバに指示をあおいだ。ビノバはこう諭した。
「いまやインドは、その目標たる独立を達成した。さればこそ、ガンジー主義の新たな目標はサルボダヤ(Sarvodaya)に捧げる社会でなければならない」(3)。

 日本では、サルボダヤ運動というと.アリヤラトネ博士により、1958年からスリランカで始められた農村自立運動が有名だが、ビノバは、それよりも10年も早く運動に着手していた。サルボダヤ思想(Sarvodaya Samaj)は、社会に受け入れはじめ、ビノバは1950年には、ゴールド、すなわち金銭への依存からの自由 (kanchan-mukti)とリシ・ケシ(Rishi-Kheti)、すなわち、古代の賢人により実践された雄牛を使わない耕作プログラムを立ちあげる(1)。だが、ビノバにはリーダーとなる望みはさらさらなく、むしろ、アシュラムでの暮らしを望んでいた(3)。1938年に一度病で倒れた後、ビノバはナグプール(Nagpur)近くのパウナル(Paunar)のパラムダハム(Paramdham)アシュラムに移ったことがある。そこは、本部として残っていた(1)。

 だが、時代はビノバが隠棲することを許さなかった。1951年4月、南部インドのハイデラバード(Hyderabad)市の数キロ南の村シバラムパリ(Shivarampali)で第三回サルボダヤ会議が開催されるのだが、アシュラムを出て、会議に参加するよう説得されたのである。ビノバはハイデラバードまで480キロを歩いていくことを決めた(1)。そして、最終日の4月11日に、「平和のメッセージ、非暴力を広げるため、テランガナ(Telangana)にまで旅する」と宣言する(2)。テランガナとは現在のアンドラプラデシュ州にある地区だが、なぜ、ビノバが旅することを決意したのかを理解するには、その背景状況を知らねばならない。当時、テランガナでは共産主義の武装闘争が引き続いていた。共産主義の学生や貧しい村人たちがゲリラ軍を結成し、富裕地主層をたたき出すか殺し、土地の独占体制を打倒しようとしていた。最盛期には3,000もの村をゲリラが占領し、それに対し、政府軍が派兵され、反テロ・キャンペーンを始めていた。ある日には政府軍に占拠され、その夜には共産ゲリラが再占領するという事態が、多くの村で続いていた。反体制支持派と疑われた村人は、ゲリラからも政府軍からも殺されるであろう。ほとんどの村人が両テロの狭間におかれていた。政府は弾圧の姿勢を明確に示していたが、ビノバは武力革命にはよらずに不公正を解決する方策を見出すことを望んでいた(3)。ガンジー主義かマルクス主義か。ビノバにとっては、それはインドの将来を左右する大きな闘いだった(1,2)。こうして、警察からの護衛も拒否し、ビノバは数人の弟子だけを引き連れ、徒歩で旅立つのである(3)。

■非暴力史の大きな幕開け土地寄進運動

 4月17日に、ある村に立ち寄ったときには、ビノバは、村人たちが共産ゲリラだけでなく、警察も恐れており、村が階級闘争によって引き裂かれていることを理解する(1)。歩き始め3日目の4月18日(3)には、ビノバは共産主義活動の中心地であるナルゴンダ(Nalgonda)地区に入り、共産党の重要拠点ポチャムパリ(Pochampalli)村を訪れる。そこは、約700世帯が暮らす大きな村だったが、村人の3人に2人は土地がなかった。村人は暖かくビノバたちを受け入れ(2)、ビノバの滞在先には様々な村人が訪れた。その中には、40世帯からなる不可触民(アンタチャブル)の人々もいた。不可触民のことをガンジーは神の子 (ハリジャン= Harijan) と呼んでいた。不可触民たちはこう言った。
「私らは共産主義を支持せざるを得ないのです。なぜなら、共産主義だけが私らに土地を与えてくれるからです。それとも、あなたが土地を与えてくれるよう、かわりに政府に頼んでくれるというのですか」
ビノバはこう応じた。
「たとえ、政府から土地を得られないとしても、村人自身として何かやれることはないでしょうか」
 だが、答えたビノバ自身がその回答に満足しいなかった。ビノバは深く当惑した。
その午後遅く、村の脇にある湖岸では、近隣から何千もの村人が参加し、ビノバの祈りの会が催された。会を始めるにあたり、ビノバはこの不可触民の課題を提起した。さして、まともな回答があることを期待していたわけではない。だが、それでもビノバはこう言った。
「兄弟たちよ、友人たる不可触民を助けるものは、ここには誰一人としていないのか」(3)。
すると、驚いたことに、一人の傑出した農民、ラム・チャンドラ・レディ(Ram Chandra Reddy)が立ち上がり、かなり興奮した声でこう言ったのだった。
「この人々のために私には40haを与える用意がある」(2)。

 ビノバは自分の耳を疑った。いま、土地占拠の内乱が起こっている最中に、寛大なことに40haもの土地を手放してもかまわないと思っている農民がいる。だが、次にビノバはもっと驚かされた。不可触民たちは、自分たち40家族に必要なのは16haの水田と16haの畑だけで、それ以上はいらないと宣言したのだった(2,3)。



 この日こそが、土地寄進、ブーダン(Bhoodan) 運動がはじまった歴史的に記念すべき日となった。それまで聞かれたこともない出来事が、まったく計画されないまま起きたが、それは、インドの土地問題を解決する方向を示していた(2)。ビノバには、それは神からの啓示であるように思えた。祈りの会を終えるにあたり、ビノバは土地なし農民たちのため、土地の寄進を求め、全域を歩きたいと述べた(3)。

 こうして、運動がはじまった。ビノバは、テランガナの200人の土地なし農民のために農民や地主に寄進を求めた。
「インドの農地は、土地なし農民を満足させることが必要です。あなたが5番目の息子に土地を与えるのと同じく、土地をわかちあおうではありませんか」
 土地寄進運動は自然発生的に進んだ。初めに寄進したのは、0.5haとか1haとかわずかの土地しか所有していない農民たちだった。だが、農民たちにとっては、ビノバは聖者であり、ガンジーの息子そのものだった。ビノバは、より貧しい隣人たちに対する親愛という神のお告げをもたらすためにやってきたのだった。ビノバの祈りの集会は、宗教的な情熱を帯びることすらあり、ビノバは最も貧しい農民からの寄進さえ受け入れた。だが、そうした場合はその場で土地をさし返した。ビノバの目標は、寄進そのものではなく、土地を再分配するための心を開くためにあったからだった。

 やがて、もっと豊かな地主たちも寄進をはじめる。動機の多くは、共産主義への恐怖のためで、適当な土地を与えることで、貧しい農民たちから共産主義を追い払うことにあった。だが、全部が経済的な動機であったわけでもない。金持ちたちも、寄進を通じて精神的な恵みを得たかったし、威信も保ちたかった。だが、結局のところ、貧しい農民たち以上に土地寄進をした金持ちはいなかったし、ビノバのメッセージを本当に理解した金持ちたちはごく少数でしかなかった。

 とはいえ、寄進運動にははずみがついた。ビノバは人々の恐れや緊張をほぐし、それまで集会を開くことが恐れられていた場所ですら、数千人がビノバの肉声を聞くために集まり、その中には共産主義者もいた。7週後にはビノバは5000haもの土地を集めていた。そして、ビノバが立ち去った後も、サルボダヤ運動のワーカーたちは、ビノバの名で土地を集め続け、さらに5万haの土地寄進を受けていた。

 ビノバは、平和的な非暴力革命を通じて、インド社会の完全な改革を望んでいた。貧困問題の最大にして唯一の原因である土地占有を解決することを望んでいた。ビノバは、人民が苦しむ根には強欲があると考えていた。もし、人民が所有欲を克服するよう導けるならば、社会的な分断や排除状況を一掃できる。テランガナの行進は、土地寄進の全国キャンペーンの立ちあげになった(3)。

 ビノバは足で歩く(padayatra)ことの強みがわかっていた。1951年9月12日、ビノバはパウナル・アシュラムからインド全土への旅をはじめた。テランガナでは、寄進は日平均80haにすぎなかった。だが、パウナルからデリーまでの行進では、日平均120haに伸びた(1)。

 すでに、ビノバは57歳と老年の域に入っており、病身でもあった。慢性の赤痢やマラリア、胃潰瘍に苦しんでいた。だが、ビノバの日々のパターンは同じだった。旅は土日もなければ休日もなかった。毎朝、午前3時には起きて瞑想する。胃に負担をかけないよう、はちみつ、ミルク、ヨーグルトを食べ、村から村へと15~20キロも歩く。この旅にはいつも随行者たちがいた。ほとんどが町や都会出身の理想主義の若者たちで、サルボダヤ・ワーカー、地主、政治家、あるいは関心を持つ西洋人もいた。だが、こうした随行者たちも息が切れるほどのペースで先頭を歩んだのはビノバだった。



 招待を受けた村では、音楽や花輪、村長による正式な歓迎を受け、「聖人ビノバ」の叫び声が集団を迎えた。
朝食後は、新聞を読み、寄せられた手紙に返事を書き、来客と会見する。陽が傾けば、祈りの集いが催され、近隣から何千人もの村人が参加する。詠唱の後は、ビノバは、高いが落ち着いた声で群衆たちに語りかけた。説話はいつも即興だったが、ヒンズー教の経典や日々の暮らしから得た深い知恵に満ちていた。ビノバは、村人たちに愛の人生を薦め、集会が終われば、多くの寄進が得られた。ビノバたちは日あたり500ha、1000ha、1500haを集めていた。その一方で、サルボダヤ・ワーカーやボランティアたちの数100もの小さなグループが、インド全土で村から村まで旅をし、ビノバの名で土地を集めはじめた(3)。ビノバは1957年までにインド全土で2000万haを得ることを目標に掲げた(2)。

■土地寄進から村寄進へ

 土地寄進ブーダン運動は、その後、村寄進運動グラムダンへと発展していく。グラムダンはブーダンよりも、さらにラディカルなプログラムだった。グラムダンとは、村人全員か、少なくとも75%以上の村人が土地を寄進する運動を言う。土地は村全体によって法的に所有され、各家族はその必要性に応じて土地を分配される。きっかけは、1952年5月に、ウッターパラデッシュ州を歩く間に、マングラー(Mangrath)村全体の贈与を受けたことだった。それは、人民たちが、個々に寄進するのではなく、コミュニティとして村全体の利益を考え、村の家族のために所有権を放棄し、土地を平等に再配付できるまでパワー・アップできたことを意味していた(1,2)。

 ビノバは、1954年以降は、個々の土地だけでなく村全体の寄進を求めるようになり、この新プロジェクトをグラムダン(Gramdan)と名づけた。グラムダンに参加した村では、村は、村の成人全員が参加する委員会により管理され、委員会は全員のコンセンサスが得られるまではどんな決定も下さない。だから、一人や数人だけが他のものを踏みにじり利益を得ることは難しい。これが、人々の協力を確実にした。ブーダンは必要に応じた非暴力な革命手段だったが、ビノバはグラムダンを「革命そのもの」だと見なしていた。ガンジーと同じく、ビノバはインド社会の停滞の根本原因が、その階級社会にあると考えていた。村が発展するには、村人たちがともに働き、学ぶ必要があった。
「グラムダンを通じて、土地が共有され、協同組合的に意志決定がなされれば、統一がもたらせる。ひとたびこれが成し遂げられれば、人民の力は解放され、どんなことであれ、可能になるに違いない」ビノバはこう考えた(3)。
「私たちは、人民の自律力を確立しなければなりません。言うならば、暴力や人を罰するパワーを除きつつ、抵抗するパワーを示さなければなりません。人民は私たちの神なのです」

 グラムダンは、オリッサ(Orissa)州、タミル・ナドゥ(Tamil Nadu)州、ケララ(Keral)州と各地でかなり進んだ。何千キロも歩き、何千回も集会を開き、カースト、階級、言語、宗教の壁を越え、人々を集めていく。1960年5月には、北インドの強盗団の巣窟チャムバル・バレー(Chambal Valley)からビノバに自首してくる者まででてきた。ビノバにとっては、それは非暴力の勝利だった(1)。

 ビノバはさらに様々な関連したプログラムも進めていく。富寄進(Sampattidan)、労働寄進(Shramdan)、協働労働者による運動への一生のコミットメント、人生の寄進(Jeevandan)、平和軍隊(Shanti-Sena)、農作業のための農機具の寄進(Sadhandan)、あらゆる家庭に毎日一握りの穀物を与える運動(Sarvodaya-Patra) (1,2)。
インドの教養あるエリート階層にとっては、ガンジー思想は拒絶しないにしても、無関係とする傾向が強かった。だが、ビノバは、ガンジー思想を、土地なし農民への土地の公正な再分配という基本的な経済問題の解決策に取り入れ、社会経済的な村の再建にガンジー思想を生かし続けた。運動はガンジーの大衆動員を想起させ、ガンジー思想を学び、深く考える人々の心に火を焚きつけた。運動は、協働者たちのライフスタイルにも直接影響を及ぼした。例えば、インド独立前後に最前線の政治指導者であった、ナーラーヤン(Jayaprakash Narayan)は、著名なマルクス主義者、社会主義者だったが、運動と密接にかかわることで、非暴力のガンジー思想に基づき人間革命を引き起こす大きな努力であることを理解した(2)。1954年、ナーラーヤンはビノバにサルボダヤ社会構築に生涯をささげることを誓った(1)。こうした個人的の啓発は大衆運動の形をとりはじめ、サルボダヤ社会、社会的・経済的・政治秩序を高め、インドやインドの外で広まる大きな運動の一部となっていく(2)。

 ビノバの努力は西洋でも関心を呼んだ。インド外部でも多くの思想家の関心を自然に引き付けた。米国では、ビノバについての大きな記事がニューヨーク・タイムズ乗り、さらに、タイム誌の表紙も飾った(3)。



有名な米国人の通信員ルイス・フィッシャー(Louis Fischer)はこう言った。
「グラムダンは近代において東洋から来た最も創造的な思想だ」

 英国のジャーナリスト、デヴィッド・グラハム(David Graham)は、創造的な反逆者としてビノバを評価したし、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)も、西側の開発モデルにインドのブーダン運動は、オルターナティブを提示していると1959年のロンドン・オブザーバー(London Observer)に投稿した。
著名な英国詩人、アルフレッド・テニソン(Alfred Tennyson)の孫息子ハラム・テニソン(Hallam Tennyson)は本を書いた。ビノバとともにインド農村を歩いた経験を著作「The Saint on the march」に書いた。駐印米国大使チェスター・ボールズ(Chester Bowles)は、本を読みこう述べた。
「平和のディメンジョンだ。ブーダン運動はインドでルネッサンスへのメッセージをもたらした。人間としての尊厳が確立されるとき、それは共産主義への革命的なオルターナティブを提供するだろう」
英国の工場社長、アーネスト・ボーダー(Earnest Barder)は、ブーダン運動とガンジー思想に深く影響され、自分の会社の90%の株を工員たちとわかちあった(2)。

■晩年とその評価

 結局のところ、ビノバは13年も絶え間ない行進を続け、インド全土を歩いた。アシュラムに戻ったのは、1964年4月10日のことだった。そして、1965年7月には乗り物を利用し、高速度で旅する「Toofan Yatra」を始めた。それも約4年間続き、最終的にアシュラムに戻ったのは1970年6月のことだった(1)。1966年6月7日、ガンジーと初めて出会ってちょうど50年、ビノバは、活動から退き、内なる霊的修行に入ると発表。1970年10月7日に、一ヶ所にとどまる決意を述べた。だが、それでもビノバの社会活動は終わったわけではない。女性の解放を訴え、インド農村の慣習である牛の反対キャンペーンを提唱した。1974年12月25日から1975年12月25日までの1年は沈黙業を行い、1976年には牛の虐殺に反対して断食をはじめた。

 社会活動から身を引いた晩年、ビノバは、パウナルのアシュラムで日々をおくり、霊的修行に専念した。そして、このアシュラムで自ら食を断ち、治療を拒絶し死んだ。1982年11月15日没。人々は、これを「入定」(sallekhana)とした。

 非暴力運動史におけるビノバの貢献は際立っている。だが、ブーダン、グラムダン運動は期待された目標を達成できなかった。ビノバは1954年のサルボダヤ会議には、全国で120万ha以上の土地を集めた。そして、最終的にはその面積は170万haにも達した。だが、1975年の統計によれば、実際に分配された土地は52万にすぎなかった。この土地の大部分は役に立たないと判明し、多くのケース地主で誓約を破った(1,3)。運動は1957年までは熱狂的に続いたが、その後は低下した(2)。グラムダン活動もその登録数は公式統計では16万、インド全村の3分の1にも及んだが、宣言するのは簡単でも実際に実践することは難しい。1970年前半までに、土地名義を村議会に移した村は数千にすぎず、ほとんどの村では進展がとまっていた。グラムダンが実践された村のほとんどは小さいか、カーストがひとつしかない村であり、実施されない地区では思想も一般化せず、これが1950年代末からの衰退の原因となった。こうして1971年には、運動としてのグラムダンはそれ自身の重さで瓦解した(2,3)。

 長期的には、運動の成果は疑問視され、ビノバも批判された。だが、それでも、ビノバは、インド政府の土地改革をうわまわり、土地なし貧民たちに50万ha以上の土地を分配することができ、約50万家族が恩恵を受けた(1,3)。グラムダン運動も何百もの村で100人以上のサルボダヤ活動家が移住し、こうした村は今もガンジー運動のベースとなっている。現場では、ガンジーが提唱したコミュニティ開発や非暴力運動キャンペーンを組織化することで最貧の人々を助けている(3)。

 ブーダン・グラムダン運動は、インド社会の土地問題を非暴力的なサルボダヤ運動を通じて解決しようとした。その限界にもかかわらず、ビノバの運動は、非暴力への信頼を再燃させ、暴力へのオルターナティブや非暴力社会のビジョンを示した。そして、不平等という社会問題に対しても重要な疑問をなげかけた。

 ビノバは、空気、水、空、日光のように大地も神の贈物であるとみなしていた。国家権力よりも人民の力の方が上だと考えていた。そして、世界的な運動を通じ、精神性を村の自治再生運動と結びつけた。平和には程遠い現在、ビノバの思想は、人々をインスパイアーするものとして今もその価値は失っていない(1)。

「すべての革命は根源はスピリチュアルなものです。私の活動のすべては、ハートの統一を達成する唯一の目的があります」
「平和はメンタルでスピリチュアルなものです。一人ひとりの内側に平和があれば、それは全世界に影響するでしょう」
「私たちが目指すべきものは、人民のパワーの創設です。それは暴力とは反対のもので、国の圧政的な権力とも異なります」
「国家は、武器によってではなく、倫理的な立ちふるまいにより防衛されるべきものです」
「私には政府の欠点を抗議する必要はありません。私が抗議すべきは、その善に対してです」
「政府の力により、革命的な思考を広められると考えることはおやめなさい」
ビノバは、死んだ翌年1983年にインドの最高の市民栄誉賞であるBharat Ratnaを受賞している。

(引用文献)
(1) Usha Thakkar, Vinoba Bhave - A life Sketch
http://www.mkgandhi.org/vinoba/bio.htm
(2)Subhash Mehta, Bhoodan-Gramdan Movement-50 Years:
http://www.mkgandhi-sarvodaya.org/vinoba/bhoodan.htm
(3) By Mark Shepard
The King of Kindness Vinoba Bhave and His Nonviolent Revolution
http://www.markshep.com/nonviolence/GT_Vinoba.html


一国会議員が始めた有機農業運動

2006年07月09日 22時40分39秒 | 有機農業
 オーストリアのルドルフ・シュタイナー、英国のアルバート・ハワード卿と並び有機農業運動の第三の軸はスイスで産まれた。英国エセックス大学のジュールス・プレティ(Jules Pretty)教授は、現在、世界で最も体系的な有機農業政策を持っている国は、キューバとスイスしかないとスイスを高く評価しているが、事実、憲法にも持続可能な農業の推進を明記したスイスの有機農業政策は、ヨーロッパ全体を牽引しているといってよい。

 スイスの有機農業のルーツをたどると、世界恐慌後の悲惨な1930年代に、農民自給こそが、祖国を救うとし、運動を展開した一人の国会議員にたどりつく。ハンス・ミュラー(Hans・Müller・1891~1988)、マリア・ビグラー(Maria・Müller・Bigler・1894~1969)夫妻である。

 ミュラーはスイスの農場で育ち、ベルン近郊のHofwilで教育学を学び、教員として3年間働いた後、生物学の研究を始め、1921年に博士号を獲得している。そして、国会議員となり、1930年代のはじめから新たな農民運動「農家祖国運動」を組織化した。当時、スイスでは、これまで農業により形作られていた文化的、景観的資産が、経済性だけを優先させる近代農業に破壊される危機に直面していた。ミュラーの母親は、7人の子供を持ち、14人の孤児を育てたことがある。この慈悲深い母の影響を受け、ミュラーは苦しむ農民たちの姿を見過ごすことができなかった。ミュラーは、1926年に成人教育のための一週間コースを設けるが、これを皮切りに展開された農民運動が1940年にはスイスの有機農法運動のコアになっていくのである。

 そして、妻、マリアにも有機農業への理解があった。マリアもミュラーと同じくスイスの農場育ちで、二人は1914年に結婚するが、マリアは学校で園芸と家庭科を学んでいた。そして、息子を産んだ後、食べものや健康、農業に関心を持ち、こうしたテーマの文献の研究をはじめる。そして、1933年から、家政学の学校で学んだ知識を伝えはじめていた。



 夫婦は、1940年代には夜通し有機農業の文献を研究してはその内容を論じあった。もちろん、ミュラーは、アルバート・ハワード卿の「農業聖典」にもルドルフ・シュタイナーの農法にも大きな影響を受けた。だが、ミュラーは、ハワード卿にもイブ・バルフォア夫人とも会うことはなかったし、シュタイナーの農法には疑問を抱いていた。

 夫妻は、新品種や化学薬品が、土壌、植物、家畜、そしてそれを食べる人間に対してどんな影響を与えるかも危惧していたが、ミュラーの関心は、農民たちの自給自足体制をどう構築するか、生産者と消費者との距離をどう短くするかなど、社会的・経済的面の方に向けられていた。事実、ミュラーは「浪費や汚染、潜在的な生産力の消耗をさけることで人間の暮らしは維持されるべきだ」とし、1946年には、農業統合化のための協働組合AVG Galmizを設立し、これが、有機農産物を流通する最初の協働組合となった。有機野菜や有機果樹のボックスでの通信販売システムを発明したのもミュラーである。

 ミュラーは運動家であり、実践家だったから、細分化、専門化、され全体を見失っていた分業化された農業を批判していた。ミュラーが、「有機的生物的農法」(rganisch-biologischer Landbau)という言葉を初めて使ったのは1949年だから、かなり遅い。そして、ミュラーの有機農業運動に微生物学の面から農学的な基礎を提供したのが、夫妻の友人で、オーストリアの医師・微生物学者、ハンス・ペーター・ルーシュ(Hans・Peter・Rusch・1906 ~1977)だった。



 ペーターは、東プロイセンで生まれ育った。医学を学び1932年から大学の医局(婦人科)に勤め、婦人科の講師となったが、軍医としてシチリアに出かけた。そして、戦後は癌医療センターの医師となり、新薬開発の目的でバクテリアの研究に打ち込む。そして、ミュラーと出会ったことが契機となり、実験室を設立。この実験室で、ペーターは土壌微生物の調査法を開発し、農家や園芸家が地力をテストできるようになったのである。

「私たちの身体の構成は、食べ物から私たちが取り入れる生物的な構成よりも決して良くなりはしないでしょう」

 こう語るペーターは、スイスの農業協同組合の科学アドバイザーとして、有機農業の科学的な原理を説明し、その政策づくりにも貢献した。そして、ミュラーの経験や考え方を取りまとめ、『豊かな大地』(Bodenfruchtbarkeit, Rusch 1964)として出版した。これは今でもバイオ農法のバイブルとなっている。

 マリアは1969年に死ぬ。だが、それまで得た知識や自分の農園でためした知恵を死去する寸前に「有機園芸のための実践入門(Practical Instructions for Organic Horticulture)」として出版した。そして、マリアの死後、1970年代に入ると運動は大きく広まった。シュタイナーのそれが「デメター」と呼ばれるのに比べ、夫妻の農法はドイツ・オーストリアでは「ビオラント」、スイスでは「ビオ・スイス」というブランドとして確立された。現在のドイツやヨーロッパで行われている有機農法のほとんどは、ビオラントといってよい。

 ミュラーが設立した協働組合もいまだに健在である。ミュラーは1988年に97歳で死ぬ。だが、死ぬまで農民たちのために講座を開き続け、ベルン近郊のMöschberg にあるそのトレーニング・センターは、スイス、オーストリア、ドイツの有機農家に欠かせないものだった。

(引用文献)
(1) 有機農業のキーマン
(2) 村上 敦、ドイツの有機農業


天才と狂気は紙一重

2006年07月05日 01時13分13秒 | 有機農業

 その男は、ある夜、作業台の上で倒れた。ニューヨーク州のサミット・パーク・サナトリウムで、男はかなり結核が進行していることを医師から知らされる。たとえ、外科手術をしたとしても回復の機会はほとんどなかった。サナトリウムのベッドの中で、天井を見つめ、1年以上を過ごす。時間はたっぷりあり、こんな思いが男の脳裏をめぐった。

「こんな危機に陥ってもまだ生きているということは、未完成のまま終わるほど重要でハードな仕事を見つけ、それにのめり込まなければならない。それが、自分の運命であるに違いない」

 男はベッドから抜け出せるようになると、すぐさまサナトリウムの細菌学研究室に向かった。そして、顕微鏡下で結核細菌の動きを見ると、男は病気であることを忘れた。男は、消化器のバクテリアを研究し、細菌が実際にどう廃棄物を消化していくのかを観察する。そこで、見つけた手がかりは、消化管内の固体の25~30%がバクテリアだったことだった。
 
 この男が、バクテリアの探索をはじめたのにはわけがある。統計から米国の土壌の有機腐植の含有量が危険なレベルまで減っていることを知っていたのだ。

 だが、大量の有機物は生ゴミの中にある。もし、それらを迅速に堆肥に変換できる方法を見つけだせれば、多くの廃棄物が宝物になるに違いない。

 そして、男は、自分自身で最大の発明と考える「驚異の細菌混合物」を発明する。生ゴミを豊かな肥料に転換できるバクテリアの新種を発見したのだ。大地に奇跡をおこす奇跡の菌。この発見は全世界に報じられた。ごく普通の台所の生ゴミ1トンでも、試験管内で育てた微生物を大さじ1杯加えるだけで、1週間もすればゴミの臭いはたちまち消え、3週間で優良な有機肥料に産まれ変わる。しかも、その生ゴミ堆肥で育てた野菜は普通の肥料で育てたものよりも25%も重量が多く、ビタミンAも3倍多く含まれ、穀物の蛋白質も増えるのだ。

男は言う。
「納税者として、米国人は年あたり数10億ドルもかけています。我々は、食物の形で土壌から摂取する貴重なミネラル分や有機物をゴミとして無駄にしているのです。一方、農民たちは、化学肥料の形で大地にこうしたミネラル分を戻すのにほぼ毎年70億ドルを費やしています」

 男の本は、英語だけでなく、ドイツ語、イタリア語、フランス語、デンマーク語に翻訳され、全世界で発行され、この男の新ノウハウによる生ゴミ堆肥化プロジェクトは、米国のみならず、ポルトガルや台湾でも実験が始まった。そして、リポートはこう続く。

「翌月には、この男は、キューバに行くことだろう。膨大なサトウキビ廃棄物を、ただひとつの作物しかない国で必要な大量の有機質肥料に変換するための実験的なプラントを設立するために、、、、」。

 かの有機農業大国キューバに米国から有機農業に指導だって?。そう、読者が疑問に思われるのも無理はない。実は、冒頭文はキューバ革命はおろか、フィデルがモンカダ兵営をゲリラ襲撃する1年前の1952年に書かれたリポートの抜粋なのだ。



 この男の名は、エーレンフリート・プファイファー(Ehrenfried E. Pfeiffer・1899~1961)。ミュンヘン生まれの化学者だ。だが、幼少期に、両親がスイスに移住したため、プファイファーはスイスに帰化する。そして、ドイツのシュツットガルト工科大学、スイスのバーゼル大学大学院で、化学と物理化学を学び、抜群の成績でバーゼル大学大学院を卒業し、博士課程に進んだ。

 そして、ある冬の日に、バーゼル通りを散策していて、プファイファーは、この男を世界に知らしめるある発見をする。店の窓ごとに霜の結晶パターンが違っているのに気づいたのだ。だが、プファイファーが普通ではなかったのは、この偶然の気づきを革命的な診断法にまで発展させたことだった。つまり、ガラスのプレート上で銅塩化物とあわせ、患者からとった一滴の血液を結晶させ、そのパターンで、健康であるかどうかを区別する「センシティブ・結晶法」と称される新たな試験方法を作り出したのである。この方法は1930年に初めて披露され、1935年には医療面で適用がされる。1938年から1940年には、この試験手法が癌の検出に適用できるかどうか研究するため、プフィアファーは、フィラデルフィアのハーネマン(Hahneman)医科大学病院で研究を行い、癌検診でも82%の適中率があることもわかってきた。プファイファーは、1939年に第三回国際癌会議でこの結晶理論の成果を示し、同年、この結晶理論で、ハーネマン医科大学病院から名誉博士号を受けている。

 だが、プファイファーは、基礎研究には飽き足らなかった。自らの研究を実用科学に結びつけ、実践することで自分の見解を実証することを希望していた。結晶理論は、病気の検出だけでなく、作物の品質検査でも役に立つ。プファイファーは、結晶の研究を行いつつ、1926年から1938年までは、スイスのドルナハ(Dornach)にある「生命化学研究所」の所長とオランダのロヴェレンダール(Loverendale)にある実験農場長を務めていた。プファイファーは、何年も毎月スイスとオランダとの間を行き来した。とりわけ、オランダには、320haもの大農場があり、そこには温室や8.5haの市場出荷用菜園も設けられ、製粉やパンの食品加工も行われていた。プファイファーは、この実験農場で、癌を含めた医学や食物の研究だけでなく、作物や土の研究も行った。そして、この実験農場や研究室で得た植物の成長、農場の土の生命について得た知識をもって、農業コンサルタントとして、中欧州、西欧、北アフリカ、パレスチナ、エジプトと各地を旅した。だが、1940年にナチスがオランダを占領すると、プファイファーは妻、息子、娘を連れて、米国に逃れ、ペンシルバニア州にモデル農場を作る。

 1943年までは、キンバートン(Kimberton)農場とキンバートン農学校長を務め、1944年には、自らニューヨークのチェスター(Chester)に買い入れた酪農場を運営する。

 プファイファーが病に伏せたのは、それからだ。そして、1944年から1948年にかけ、都市の生ゴミを有機質肥料に転換する微生物の研究に打ち込み、1948年、ニューヨークのスプリングバリーに、生命化学研究所、Threefold 農場が設立される。プファイファーは、ここでバイオダイナミック堆肥Starterの研究開発を行い、実用化させた。

 プファイファーは、堆肥も科学的に使えば、作物はずっと健康になり、栄養価の高い作物が生み出せると主張する。化学肥料だけを与えられ有機物を得ない作物は、砂糖や菓子で太る不健康な人々と似ていると断言する。例えば、ミズーリの農業実験ステーションでなされた研究によれば、作物はタンパク質や微量元素を犠牲にして、アンバランスな炭水化物(砂糖)を作り出しているという。

 プファイファーは言う。「昆虫はこうした甘い植物を好み、より容易にそれらを攻撃できるのです。そして、見返りに植物は順番により少ない栄養を人間に供給します」

 プファイファーは農薬を全否定しようとはしない。
「一般的な農業では、農薬や化学肥料がなければ、私たちの農家経済は崩れるでしょうし、私たちの現在の食料生産は不可能です。ですが、農薬へのニーズの驚異的な増加ぶりは、国家の健康に影響しなければならない私たちの農業で展開する危険な欠乏に関する危険信号です。ですから、化学肥料と有機堆肥の両方が必要なのです。双方がともに働くのです」

 プファイファー農場の穀物畑や市場向け菜園は、生ゴミで肥沃になっている。そして、まったく無農薬なのだが、害虫の被害もまったくない。晩年、プファイファーは、その後、タンパク質、アミノ酸、酵素や栄養価が高い農産物のテストに多くの時間をさいた。そして、尿や食物中のアミノ酸を新たなクロマトグラフィー手法を適用し分析していった。有機農法の科学を作り出すことが、彼のライフ・ワークだった。

 そして、プファイファーは、若き日に発見した「センシティブ結晶法」を、応用し、様々な植物や化学肥料と堆肥を含む他の多くの物質のクロマトグラム(chromatogram)を作っていった。

 そして、生気がないクロマトグラムは望ましくなく、明るいクロマトグラムを形成する作物の組み合わせは有益だと結論を下した。事実プファイファーのクロマトグラムでは、化学肥料は無味乾燥だったが、堆肥から作られた方は色で輝かしかった。こうして、実際に作物を直接観察するのではなく、分析実験室の手順に基づき、「にんじんはトマトをとても好む」とか、「マメはフェンネルを嫌う」という概念を作りあげていった。だが、どんな正統科学も、こんな方法で作物種の互換性を決定できるとはいまは信じてはいない。

 プファイファーの「驚異の細菌混合物」は砂地を豊かな農地に変えることができるため、人類の未来にとって「革命的な発明」とされているが、それは各種の細菌を組み合わせた特殊な混合物であり、正確な処方は高度の秘密とされている。プファイファーの行った実験の詳細がわからないため、重量やビタミンAや蛋白質が大幅に増えるという実験の追試にも成功していない。

 プファファーがオランダで運営していた農場は化学肥料も農薬も使わず、ヨーロッパでも最良の牛乳を飼育し、小麦収量も当時世界で記録された中でも最も高いものだった。しかも、実験農場は700家族に必要な食料をすべて提供していたが、その食べ物の栄養価はすこぶる高く、それを食した家族から「以前食べていた分量の2/3だけで十分だ」との調査結果が得られたほどだった。だが、この生命科学研究所もルドルフ・シュタイナーの人知論の研究センターだったし、ロヴェレンダールのそれも人知論者のバイオダイナミックの実験農場だった。

 プファイファーが米国における有機農業、より、正確に言えば、バイオダイナミック農法の普及に果たした役割は大きい。だが、残念ながら、いまからすると、プファイファーの主張は、科学的観点からすると全く論理的ではなく、「エセ科学」を作り出したことで、むしろ、有機農業の発展を阻害してしまったのかもしれない。

(引用文献)
http://www.zoominfo.com/directory/Pfeiffer_Ehrenfried_25250029.htm
Companion Planting ,1994 http://www.gardening.cornell.edu/factsheets/ecogardening/complant.html