没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

シッコよりはサルー

2008年12月24日 23時08分32秒 | 日記

 教育、農業とキューバを叩いてきたから、今度は医療について語ろう。厚生省を率いるのは、ホセ・ラモン・バラゲール(José Ramón Balaguer)大臣。オリエンテ出身の革命家で、来日されたときに一度だけお目にかかったことがあるが、全身から高潔な人格が放射されていた。孔子を評した「威あって猛からず」とはこうした人物像であったのかと感銘を受けた記憶がある。

 だが、引き続き医療についてもプチサヨの幻想を打ち砕かねばなるまい。まず、アクセスしてもらいたいのが、「キューバの生活」というキューバに住んでいたらしい日本人のサイトだ。

 キューバが誇る無料の医療に対し、のっけから「まず第一にタダより高いものはないとよく言う通りに、医者がとんでもない判断をして、患者が死んだとしてもその医者が罰せられる事もなく、誰も責任を取らない場合もあります。日本でも診断ミスや注射を間違えて患者を誤って殺してしまう事件がよく新聞に載っているが、キューバでは新聞に載ることはない。間違ってもない。そして、医者を訴えたというのも、聞いた事がないので、恐らくできない事になっているのだろう」というぶっちぎりの過激発言をぶちかましている。

 キューバ医療に感動しているノー天気なプチサヨどもは、独裁政権の恐ろしさを思い知るがいい。

 さらに、吉田沙由里さんの『小さな国の大きな奇跡』のアマゾン書評で★の酷評を下したコメントも読んでみよう。

「医療費無料を達成したキューバ。ですが医薬品はまったく足りていません。四肢切断のような事故でも麻酔抜きの手術が強いられます。風邪薬もまったく足りない状態で、昨年は中国から大量の医薬品を輸入しました。が、結果多くの子供が逆に、軽い風邪であったのに亡くなってしまったことはニュースなどで知られる通りです。まあ事故と風邪に絶対にあわないのなら理想の革命国家なのでしょうけれども」

 なんという嫌味にして後味の悪い評価だ。とはいえ、中国からの粗悪医薬品で子どもが死んだとなるとこれは見逃せない。あわてて、英文サイトを検索したのだが、どうもこれに該当する記事がヒットしない。逆に大量にヒットしてきたのが、「シッコよりはサルー」というメッセージだった。

 「シッコ(SICKO)」とは文字通り、マイケル・ムーアの映画の題名。「病人」のスラングで、「いかれた。ほとんどビョーキ」という意味もある。一方、サルーはスペイン語で「健康だ」。キューバでは「サルー!」の発声で乾杯するし、キューバ厚生省の正式名称はミニステリオ・デ・サルー・パブリカ(MINSAP=Ministerio de Salud Pública)。ストレートに訳せば公共健康省となる。

 米国の医療の病理を暴いた「シッコ」は「こうしたら駄目だ」という映画だから、警告にはなるが見た人は落ち込む。一方、キューバの医療の健全さを描いた「サルー」は「こうすればいい」というドキュメンタリーだから、励みにもなるし、見た人は元気がでる。誰だって、病気よりは健康の方が良いだろう。だから、シッコよりはサルーなのだ。

 ところが、残念なことに、日本のウェブで「サルー」を検索すると、元NHKのディレクター、井坂泰成さんが製作した「サルー・ハバナ」すなわち、「ハバナの都市有機農業」のDVDがヒットしてしまう。だが、「salud!」で検索すれば、本家本元の医療、すなわち、米国の医療NGO、MEDICCが2006年に製作したDVDがヒットする。

 ビデオには、拙著でもふれたミシシッピー州の民主党のベニー・トンプソン議員やグスタフ・クリ博士との対話で出てきたハーバード・メディカル・スクールのポール・ファーマー教授が登場し、カーター元米国大統領までもがキューバの医療を評価するコメントを述べている。

 カーター元大統領は個人的にはまことに道徳的な人物で、CIAの秘密工作には批判的だったが、歴代の大統領と同じく数多くの秘密工作指令に署名していたことはティム・ワイナーの「CIA秘録」を読めばわかる。とはいえ、キューバ医療を評価するDVDにリベラル派の元大統領を登場させるとは、見事なセンスだ。日本の例でいえば、井坂泰成氏のDVDにトンちゃんこと村山富市元首相が登場し、キューバと比べた日本の有機農業政策についてコメントするといった感じだろうか。カーターと同じく、来日した際にはトンちゃんもフィデルと会っているし・・・。いや、駄目だ。どうもピントがずれてしまう。

 何はともあれ、腐っても米国だ。シッコがヒットする以前の2006年の6月にちゃんとこんなDVDを作っていたのだ。まことに、うかつだった。あわてて今日、注文した。

 さて、話は飛ぶが、ロイターの記事は、キューバがベネズエラへの医療援助によって、医師不足に陥っている状況をちゃんと伝えている。7万3000人と国民一人当たりでは米国の2倍もの医師がいるのだが、ベネズエラでの治療活動に1万5000人もの医師を送り込んでいるために、病院では長く待たされるようになっているというのだ。

 例えば、ムーアが呼吸器障害の患者を見てもらった病院で診察を待つ患者イボネ・トレスさんに「治療はまだかなり良いのですが、6年前には100万倍も良かったのです。いつも同じお医者に診てもらっていましたから」との発言をさせている。

 また、同記事は、マイアミに亡命した医師の言葉を借りて、ディエゴ・マラドーナのような有名人や共産党の指導者用のエリート病院と庶民の病院に格差があることも伝えている。このことについては、「そのとおりだ」と断言できるだけの情報がなく、個人的にはいささか疑問に思っている。


 だが、同じ記事は、ちゃんと上述した「サルー」を製作したゲイル・リードさんの主張も載せている。

「とはいえ、発展途上国では金のかかる医療を受けられませんから、キューバの予防医療は経済的にも意味のある良いモデルなのです」

 こうしたバランスの取れた記事はいい。

 キューバの医療は奥が深い。完璧にして無謬の理想の制度として絶賛するのではなく、さりとて、一面のミスや欠陥から酷評するのでもなく、様々な面から光をあてて総合的に評価しなければならないのである。


11月、砂糖省と農業省で人事異動

2008年12月21日 21時08分54秒 | 日記
 昨日は教育省の人事について書いたので、今日は農業省について書こう。農業省でもずっと異常な事態が続いていた。

 拙著、「有機農業が国を変えた」では、アルフレド・ホルダン・モラレス(Alfredo Jordan Morales)農業大臣を登場させている。これを書いた時点では間違っていない。ホルダン大臣は、貧しい農家出身で共産党青年同盟の指導者、全国ピオネーロ組織の代表を経て、国会副議長にもなった人物である。そして、食料危機が最も深刻であった1993年以来、農業大臣の要職を果たしてきた。だが、同大臣は2005年の9月に癌のため55歳で死去してしまう(4)

 問題はそれからだ。以来、農業大臣のポストはずっと空席のままで、同省のマリア・デル・カルメン・ペレス・エルナンデス(María del Carmen Pérez Hernández) (57歳) 第一副大臣がずっと代行してきたのだ(2)

 しかも、もうひとつ異常なことがある。砂糖だ。ご存知のとおり、キューバの基幹輸出作物として1980年代には最大800万トン以上も生産されていたし、外貨獲得の大黒柱だった。だが、2002年のリストラ以降、その生産は急減し、156あった製糖工場も現在は61しか動いていない(3)。2007年の生産量は100万トン強にすぎず、2007年では輸出額の5%未満を占めるにすぎず、国内需要も満たせずに海外から輸入されているありさまだった。もっとも、2008年のサトウキビ生産は150万トンで(1)、2007年よりも28%多く、やっと6年ぶりに国内需要が満たせる見込みだという(3)

 ということで、キューバにある農地、200万haのうち、現在、サトウキビが栽培されているのは70万haだけだ。では、それ以外の土地はどうなったのかというと、牛を飼育し、食用作物を生産し、森林を植栽することとなっていた。サトウキビ関連の20万人以上もの労働者や農業者が食料生産や林業に向けて転換されることとなったのだ(1)。発想はいい。だが、問題はこれが、砂糖省の管理下において進められていたことである(3)

 サトウキビを生産しなくなったのだから、その農地は生産経験が豊富でノウハウに富む農業省の管轄にしてもよさそうなものだ。だが、砂糖省はその管理権限を手放そうとはせず、わざわざ省内に非砂糖作物担当副大臣を置き、事実上、砂糖省は二番目の農業省となっていたのだ。該当するスペイン語があるかどうかは知らないが、日本語ではこうした現象を「縦割り行政による弊害」と呼ぶ。「こんな状態があるのは、世界でキューバだけだろう」と海外の論文も疑問視していた。

 だが、この11月18日(火)にやっとこの異常な状況が解消されることとなる。すなわち、ウリセス・ロサレス・デル・トロ(Ulises Rosales del Toro) (66歳)砂糖大臣が、空席だった農業大臣に任命されたのだ。ロ大臣は、カストロの反乱軍にも加わった古参の将軍だが、1997年以来、砂糖大臣の職についている(3)。そして、ラウル・カストロ国家評議会議長の側近である(1)

「農業生産を上げる必要性、国家戦略から、同氏の幅広い経営の経験、政治上の権威が評価され、共産党中央委員会政治局の提案でこのポストについた」とテレビは述べた。

 この人事決定の背景には、今年、立て続けに襲来したハリケーン、グスタフ、イケ、パロマによる甚大な損害がある(2,3)。被害は総額で100億ドル以上となり、多くの地域で農作物が被害を受け、食料生産を一大強化する必要があるからだ(3)

 なお、翌19日(水)には、砂糖省のルイス・マヌエル・アビラ・ゴンサレス(Luis Manuel Avila González)第一副大臣が、砂糖大臣に昇格することが決まった(1,2)。同氏は、38年間以上の経験を積んだベテランの農学技術者だ(2)

 さて、この18日には、もうひとつ重要な政府発表があった。

「この半年以内にサトウキビ以外の作物生産活動は、砂糖省から農業省に移管されるだろう」というものだ(1,2,3)。キューバの専門家も、この決定を当然のことながら評価している。これにより、砂糖省は本来の製糖業に専念できるだろうし、かつては強力であった同省もゆくゆくは、ロ大臣管理下の農業省の一部局になるのではないかと推測する(1)

 そして、このハリケーンの被害以前からも、生産性を向上させ、多くの遊休地を活用するため、農業省では国営農場の管理をハバナの本省から地方の事務所に移管させている(3)。日本を念頭に例えてみれば、これまでの外貨獲得源であった養蚕が衰退しているにも関わらず、養蚕業だけが独立した省庁として一切の権限をわたそうとはしてこなかったようなものだ。これが、農林水産省の一部局、農蚕園芸局、ゆくゆくは、農産園芸局になるというわけだ。ロ大臣の新手腕に期待しよう。そして、カルメン副大臣、女性でありながら、長い間大臣の代行、ご苦労さまでした。

【文献】
(1)Marc Frank, Cuba sugar industry restructuring enters new phase,Reuters, November 26, 2008.
(2)Agro and sugar ministries change hands, Miami Herald, November 26, 2008.
(3)Cuba names new ag minister in farming shake-up, Miami Herald News,Nov28.2008.
(4)Alfredo Jordan Morales, 55; Cuban Agriculture Minister,2005.


この9月から教育制度改革

2008年12月21日 02時01分17秒 | インポート
 11月28日のブログ、「メディア・リテラシー」でもふれたが、季刊誌「ひとりから」がこの12月15日に出た。原田奈翁雄さんからは早速、キューバの最終記事が掲載された雑誌を送っていただいた。そして、昨日は来年1月に発行される「トラベル・コミュニティ・マガジン誌」のゲバラ特集のコラムとして、医療・教育、そして、有機農業についての原稿を書いた。いわゆるキューバを訪れる旅行者のための提灯記事だ。もちろん、キューバを持ち上げる記事を発信しているのは日本だけではない。カナダのウェブ・サイトを覗いてみると、革命50周年とあって、キューバの教育視察ツアーの企画が掲載されていた。現地を視察した先進国のプチサヨ教員どもが感激のあまり独裁キューバの国家宣伝に洗脳されている様が手に取るように見えてくる。

 個人的にも、来年早々には、都内で開かれるキューバ円卓会議で、プロのジャーナリストである工藤律子さんとご一緒させていただき、キューバの教育について語る予定となっている。

 さて、このブログは、上述した雑誌や講演で啓発され、あるいは私の本でキューバの医療や教育、農業に関心をもってくださった方々にアクセスしてもらうために作っている。そして、キューバをさらによく知ってもらうためにマイナス情報も発信しようと志している。

 私は原田さんの「ひとりから」でも書かせていただいたが、ハイエクを祖とし、ミルトン・フリードマンによって世界を席巻したネオリベ、あるいは、リバータリアリズムを否定するコミュニィタリアンである。そして、このグローバル化した世界にあっては様々な課題はコミュニティだけでは解決できず、基幹食料、基礎教育、そして、予防医療は国家が担保しなければならないと思っている。そして、この面に関しては、キューバが驚くほど優れていることは、大前提としなければならない。政府が涙ぐましいほどの努力をしていることも認める。

 とはいえ、完璧な理想主義的な教育制度などあるはずがない。某プチサヨが愛読する新聞のようになんでもかんでも政府がやることに難癖さえつければ、理想の社会が実現するとはとうてい思えないが、さりとて、社会主義国家はすべてが無謬で完璧であって、何一つとして問題がないとする旧来のサヨ幻想を打ち砕かなければならない。それには、キューバに敵対しているマイアミ・ヘラルドの情報にアクセスするのが一番だろう。ここには、某プチサヨ新聞ならば随喜の涙を流して国家を叩けそうな素敵な事件が掲載されているのだ。

 昨年、2月にハバナのラウトン(Lawton)地区のドミンゴ・サルミエントス(Domingo Sarmientos)校で、まだ21歳の新米教師、ホアキン・トレス(Joaquín Torres)が、生徒に椅子の足を投げ付けたところ、運悪く12歳の少年、ダニエル・カスタネダ・アラヨ(Daniel Castañeda Alayo)君の頭蓋骨にこれが突き刺ったという事件だ。

 トレス教師は近くのミゲル・エンリケ(Miguel Enríquez)病院に自分で運んだが生徒は死んだ。同教師への起訴は11月11日から始まり、懲役7年の刑を受けた。

 同教師は、政府が教員不足をカバーするため、2000年から開始した緊急教員養成プログラムで教師となったのだが、8カ月の研修しか受けておらず、2007年8月にハバナに上京し、その1カ月後からは「緊急教師」としてクラスで教えていた。

 この事件は、わずかしか訓練を受けていない若者に子どもたちを預けるという制度そのものに疑問を投げかけた。緊急教師は現在、教育制度の教師の40%もカバーしている。だが、教育省の最新統計によれば、ハバナでは8,576人の教師を欠いており、他州から4,500人以上の教師がやってこれをまかなっている現状なのだ(1)

 インター・プレス・サービスの2008年8月29日付の記事では、あるキューバのジャーナリストは次のように語っている。

「私の娘は今度、中学生になりますが、もし、良い先生にあたらずに成績が落ちるなら、別の学校を見つけるか、家庭教師に授業料を払わなければなりません」

 そして、2007~2008年の教育大臣の成果報告では、中等教育の低学年の生徒が克服すべき主な課題の中には、正確な単語の綴りや文章が書け、読書の習慣が貧しいことだと述べている。

 おお、なんたることか。キューバの子どもたちも本を読まず、文章力が落ちているわけか。

 また、ラウル・カストロがまだ国家評議会議長を代行していた2007年7月26日に呼びかけた大衆討論では、しばしば苦情の声としてあげられものは、教育荒廃、とりわけ、教員養育制度での教師不足、ビデオでの授業、テレビでの遠距離学習コースだったという。

 そして、教育制度への批判は、4月に開催された第7回キューバ作家芸術家組合大会でも革命の文化指導者のひとりであるアルフレド・ゲバラのようなインテリからも口に出された。同氏は「我々の小学校、中学校、そして、高校は、適切に子どもたちやティーンエイジャーたちを教育できているのだろうか。基礎教育学や心理学的な原則を無視して、家族の権利に反する現在のような誤った評価基準や取り組みの結果として、未来の基礎を築くことができようか」と主張し、教員養成でのプログラムが「訓練を欠き、不完全であり、その成熟レベルがあるべきよりもはるかに不足している若い教師を生み出している」とも警告したといわれる(2)

 その結果であろうか。今年4月22日、サンチアゴ・デ・クーバ発のグランマ誌は、ルイス・イグナシオ・ゴメス教育大臣を免職し、同市にあるフランク・パイス・ガルシア(Frank País García)教育大の学長であるアナ・エレサ・ベラスケス・コビエジャ(Ana Elsa Velásquez Cobiella)女史を新教育大臣とするとの発表を行った。

 アナ・エルサ・ベラスケス氏は教育科学で博士の学位を持つプロの教育専門家だが、18年も大臣を務めたルイス・イグナシオ・ゴメス・ギテレス(Luis Ignacio Gómez Gutiérrez)氏がなぜ解任されたのか、そして、次にどのポストが与えられたのかは一切報じられなかった(3)。なお、この解任にあたり、引退した法王たるフィデル・カストロは、自分のコラムで「ゴメスは、熱意と革命意識を失った」と書き、その更迭に自らも同意している旨を表明している。

 さて、新教育大臣職に就いたべ博士は数週間後には、「緊急教師」プログラムを改革すると表明。ラウル・カストロは、賃金UPを条件に再び教室で教鞭をとるよう引退した元教師たちに呼びかけ、658人の教師が、小学校や中学校の教師を支援・監督するために現職復帰した(1)

 この9月からの新学年では、ラウル・カストロが7月中旬に出した新法令の下、4,948人の元教師が年金をもらいつつ、かつ、フルタイムの給料ももらって現在教室で指導にあたっている。

 ベ大臣は「今年は23万5943人の教師が働いていますが、うち、3万2070人は、教員養成のための教師です。昨年よりも止めていく教師は30%少なく、退職を申し込んだ教師も約2,000人減っています。授業準備のために、さらに多くの時間が教師たちには与えられています」と語った。

 小学校の教師であるクルスカリア・マサ(45歳)さんは改革に賛同する。

「それは、とても必要なことです。私たちは、さらに多くの時間を勉強にあてられます」

 マサさんの見解では、教員が減った時期にだけ悪化した問題だが、授業を準備するゆとりがほとんど教師にはないために、教育の質が落ちているのだという。

「そのうえ、いま、私たちには、多くのアシスタントがいて、見かけ上は、教師を代用していますが、それは仕事をサポートしているだけです。プロの意識や献身が教育には欠かせないのですが、残念ながら、教師としての若者たちを大量養成していることは、この2つの質を教師たちに担保しません。また、テレビは教師のサポートであって、私たちと交換すべきではありません」

 新大臣の改革で、この9月の新学期からは、ビデオの授業を30分減らし、15分ほど教師が説明する時間を残しているという(2)

 日々、情勢が変化している以上はやむをえないが、この10月に出た拙著では上記のビデオ授業によって成果がでていると書いてしまっている。が、すでにその内容は古くなっているというわけだ。まことに申し訳ないとしか言いようがない。

【引用文献】
(1)Teacher convicted in death of student in Cuba.
(2)Patricia Grogg, Cuba:Shoring Up the Educational System, Inter Press Service,2008.
(3)Education minister is replaced, Miami Herald Blog Directory, April 22, 2008.


キューバの医療を改めて評価する

2008年12月16日 00時12分52秒 | 日記

 この13日と14日は松本市で開かれた長野県民医連の総会で講演をさせていただいた。「嬉しい悲鳴」という言葉があるが、実はこの講演は正直いってかなりつらいものがあった。ネタがないのだ。

 上伊那医療生協には昨年の暮れに講演に招かれているし、今年の3月には民医連の取材で「長野医系学生のつどい」で話をしている。また、医学生からは今年3月に東大医学部で開催された「第51回全国医学生ゼミナール」にも呼んでいただいたのだが、見知った顔が会場に何人もいた。

 講演の度に、かなりのダジャレ・ネタを考えているのだが、落語と同じで一度聴かれたお客様からは「ああ、また同じ駄洒落をいっている」と見透かされてしまう。今回は、チャベスが提唱したアルバ(ALBA)は、北米自由貿易圏構想(ALCA)に対し、「そんなのがアルカ」といって出されたものだと話したのだが、ぜんぜん受けなかった。

 それ以上に深刻なのがコンテンツだ。前回と同じ内容ではゆきずまる。相手はプロだ。ということで、絶えず、ネタのバージョン・アップを強いられる。毎回新しい科目を学ぶ学生ならば、十年一律の授業内容でもよいのかもしれないが、講演ともなれば、そうはゆかない。ということで、講演用のパワポも金曜日に明け方近くまでかけて修正した。そして、土曜日は2時近くまで議論に参加させていただいたから、慢性的な睡眠不足といっていい。

 おまけに、いろいろなところからお原稿依頼をいただいている。全部キューバ関係なのだが、一昨日に一本、昨日に一本ということで、自転車操業の「ワーキング・プア」状態と言える。今しがたやっとその一本を仕上げた。テーマはこのブログでも採算書いているように、現在キューバは自給できていない。にもかかわらず、テレビでは70%自給という数値が独り歩きしている。キューバ医療、教育、そして有機農業と、日テレが「ビートたけしの独裁国家で何が悪い!?」でとりあげてくれたのだ。内容そのものは素晴らしい目のつけどころなのだが、若干私が知っているなりのコメントを付記したというわけだ。




 とはいえ、こうした勉強会に参加させていただくと、大変にいろいろなことを教えられる。司会進行をしてくださった若き女医さんもキューバと縁がある。オーストラリアで開催された反核集会に参加した折に、現地ではキューバからも学生が参加しており、「ヒロシマとナガサキについて学校で教えられている」と耳にして、ずっとキューバが気になっていたというのだ。

 また、総会では医学生、つまり、若き医師の卵たちともお話をさせていただいたのだが、改めて衝撃を受けた。どの学生も、今後も経済成長をし続けていくニッポンという未来像にはまったく期待していないのだ。これもキューバが着目されるゆえんだろう。

 とはいえ、キューバは楽園でもパラダイスでもない。矛盾も多く抱えている。講演ではそのこともコメントさせていただいた。

「一歩間違えると、大変に危険な国ですね」

とある若き医師は実に適切な反応をしてくれた。

 だが、別のベテランの医師からは、お叱りというか、励ましをいただいた。簡単にまとめるとこういうことだ。

「どの国も矛盾はある。だが、キューバがあれだけ貧しい中で、乳幼児死亡率と平均寿命であのような数値を出していることは事実だ」

 おっしゃるとおり。

「それだけでも大変なことではないか。つまり、おまえさんの価値はキューバという素材から、もうひとつの医療のあるべき軸を提示したことにある。だったら、日本でどうしたらいいかを考えなさい」

 うーん。大変重い宿題だ。だが、また改めて課題をいただいた気がしている。


ヨガの行者は食料危機を救えるか

2008年12月09日 23時43分07秒 | 日記

この12月7日の日曜日には、信州千曲市、そして、上田市で月尾嘉男先生の講演会があって聞いてきた。

「国債の格付けも、1997年には世界の第二位だったが、2003年は22位、いまは19位だ。経済力も、一人当たりの平均購買力は中国に抜かれて6位から17番に落ち、財政収支は世界の52カ国中で52位だ。1992年には米国を押さえて世界最強の国といわれたが、2002年は30位、今も20位前後だ。つまり、もはや、日本は一流国ではない。たかだか二流半の国へと落ちぶれている」

 膨大な数値をあげて、実証的に理路整然と語るのが、月尾節なのだが、具体的に語られても、80年代のそれこそ、世界二位へと向かう時代に学生時代を送った私なんかは「そんなに落ちたんかいな」と思ってしまう。

 さて、今の落ちぶれた日本を予想するかのような、画期的な歌が「レインボーマン」と戦う「死ね死ね団」の団歌にある。

「金で心を汚してしまえ。ニッポン人は邪魔っけだ。黄色いニッポンぶっ潰せ。世界の地図から消しちまえ。黄色い猿めをやっつけろー。夢も希望も奪ってしまえ!」

 ミスターK(平田昭彦)率いる秘密結社「死ね死ね団」とは、世界征服といういささかピンとがはずれた組織目標を掲げるショッカーやギャラクターとは異なり、第二次世界大戦時に旧大日本帝国軍の被害者たちが結成した自衛組織である。
組織目標や組織目的もリアルであれば、攻撃手段も現実的で効率的だ。ロボットや超兵器という子どもじみた波状攻撃ではなく、国家そのものの瓦解を目指す。すなわち、新興宗教を用いて、金をばら撒き、ハイパーインフレが起こすことによって、食料危機を引き起こすのだ。

 ヒーロー、レインボーマンは、有名なテーマ・ソング「インドの山奥で~」からわかるように、インドで修行し、グル・ダイバダッタから秘術を伝授されたヨーギである。だが、このスピリチュアリズムのパワーを持ってしても、食料危機は救えない。飢えた市民は暴徒と化し、土一揆さながら、町の食料品店を次々と襲撃するのだ。

 万策尽きたレインボーマンはなんと、「食料の無料配給を」と一国民として大臣に陳情に行くのだ。そして、大臣の英断で食料の無料配給が始まり、日本は危機を脱する。

 こだわるようだが、食料危機という非常事態には、やはり、強力な国家によるセーフティ・ネットが必要なのだ。

 さて、アジア記者クラブ通信に常盤会学園の小倉英敬教授の「ラテンアメリカの反自由主義の潮流は世界を変えるか」という記事が載っていた。同教授のリポートによれば、今年の前半は原油の高騰、後半は金融危機によって、すでに欧州では新自由主義モデルが破綻していることは常識となっているらしい。

 例えば、2008年9月15日にはドイツのシュタインブリュック財相が「アングロサクソン型の資本主義モデルこそが危機の元凶だ」と述べ、9月26日の英国インディペンデント紙は「過去20年にわたって米国で発展してきた資本主義の特定の形が最後の苦悶にあえぐ」と書いたという。

 この「特定の形」という表現がいい。小倉教授はこうした動きを背景に「市場を規制なしに放置しておくモデルそのものに限界があったことへの共通認識が得られつつある。国際機関、各国レベルで市場を適切に管理・監視をしていく方向に歴史は動きつつある」と述べている。

 だが、この発端を作ってきたのは、紛れもなく、ラテンアメリカだ。同教授は「新自由主義に最初に異論を唱えたのは、ラテンアメリカ諸国であったと言ってほぼ間違いない。現在、33カ国中、ほぼ3分の1に反新自由主義を掲げる政権が存在する」と述べている。

 実際、ラテンアメリカは長年にわたって実に辛酸をなめさせられてきた。世界最初に新自由主義のモデルがシカゴ・ボーイズと言われるエリート留学生たちによって実施されたのは、チリ、アルゼンチン、ウルグァイの軍事政権下においてだった。

 IMFと世界銀行が構造調整を強制されたのもラテンアメリカだ。82年のメキシコ発の対外債務危機で、これがなされ、1989年には金利の自由化、貿易自由化、外国投資の自由化、国営企業の民営化、そして、規制緩和の撤廃という「ワシントン・コンセンサス」へと発展していく。

 だが、ラテンアメリカは巻き返しを図る。例えば、94年12月の第一回米州サミットでクリントン元大統領がぶちあげた米州自由貿易圏構想を実質上破綻へと追い込んだのはラテンアメリカだ。
クリントンは、94年1月に米国、カナダ、メヒコの三国でスタートした北米自由貿易協定(NAFTA)を米州全域に広げようとしたが、スペイン語でアルカ(ALCA=Área de Libre Comercio de las Américas)と称されるこの構想はつぶされる。

「そんなばかげたものがアルカ」とまず、反旗を翻したのが、99年2月に誕生したチャベス政権だった。第一回サミットでは、米国、カナダ、ラテンアメリカ32カ国が参加し、全国が賛成した。ただし、参加を認められなかったキューバだけを除いて・・・・。

 ところが、2003年2月にブラジルでは、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ(Luíz Inácio Lula Da Silva)、続けて、2003年5月にアルゼンチンでネストル・キルチネル(Néstor Kirchner)政権が発足し、反対国は3つとなる。構想は2005年12月までに発効することとなっていたが、11月の第四回米州サミットではさらにパラグアイとウルグァイも反対し、事実上、機能できなくなったのだ。

 ラテンアメリカが新自由主義に反対している最大の理由は、格差の拡大だ。例えば、前でふれた規制撤廃の典型的な成果をあげたのがフジモリ政権下でのペルーだが、不安定雇用が拡大し、実質的所得が低下し、リマの首都圏だけで、正規社員のステータスを持つ人は3分の1まで減ったという。自由主義が一国に適用された場合、どれほど格差が拡大してしまうかを身をもって体験したのだ。

小倉英敬教授は言う。

「チャベスも批判者はいる。だが、低階層の生活環境を改善し、社会的上昇の機会を与えている政策は評価すべきだ。いずれの国においても、為政者が真剣な気持ちで弱者の立場に立って改革しようとしていることは否定できない。そういう人間の精神の崇高さを政権の指導者に私は見たい」
 いい言葉だ。そして、いったん民営化された水道事業や郵政事業が再び公営に戻ってきているという。すでにアルカに対抗して、チャベスが提唱しているアルバ(ALBA =Alternativa Bolivariana para los Pueblos de Nuestra América)は、キューバに加え、ボリビア、ニカラグア、ホンジュラス、ドミニカ共和国と6各国となっている。

 では、本家本元のキューバは、この格差社会にどう対抗しようとしているのか。太田昌国(民族問題研究家)さんが、12月7日付けの中日新聞で、「貧しい社会の手厚い教育」と称して書評を書いてくれている。
 


自給再考の本が出ました

2008年12月06日 12時58分24秒 | 日記

自己宣伝になるのだが、『自給再考―グローバリゼーションの次は何か』という本に雑文を寄稿させてもらった。
 以下が目次だ。

◎世界の「食料危機」―その背景と日本農業にとっての意味 西川 潤
◎貿易の論理 自給の論理 関 曠野
◎ポスト石油時代の食料自給を考える―人類史の視点から 吉田太郎
◎自然と結びあう農業を社会の基礎に取り戻したい―自給論の時代的原点について考える 中島紀一
◎「自給」は原理主義でありたい 宇根 豊
◎自給する家族・農家・村は問う 結城登美雄
◎自創自給の山里から 栗田和則
◎ライフスタイルとしての自給―半農半Xという生き方と農的感性と 塩見直紀
◎食べ方が変われば自給も変わる―自給率向上も考えた「賢い消費」のススメ 山本和子
◎輪(循環)の再生と和(信頼)の回復 小泉浩郎

 自分の雑文は別として、現在の自給を取り巻く最先端の視点が織り込まれた論考ばかりで、読んでいて実に面白かった、とまずは本のPRをしておく。

 さて、この本の企画をされた山崎農業研究所の田口均さんは、なぜ、いま改めて「自給」を問う必要があるのかについて、①マスコミを中心に語られる「食糧危機」論に欠けているものはなにか。危機の本質は何か、②産業としての農業は暮らしとしての「農」に支えられている。だから、自給の意味を深く考える必要がある、③各地で始まっている、この自給を見直し、育てる取り組みから学べることは何か、という三つの問題意識から切り込んでいる。まさに私の問題意識ともオーバーラップするものだ。




 さて、この田口さんからは、このところ私がけなし続けているキューバについて次のような感想を寄せてくれている。他人の目線というのは、ありがたいもので、以下、ご本人の承諾を得て、転載しておこう。

「ブログの記事のなかに、キューバについてきちんと説明するには4ステップくらいふまなくてはならない…と書かれたものがありました。それでは「自給」についてはどうでしょうか。多くの日本人にとって「自給」とは古くさいものの象徴か、あとは「食料自給率」だとか「エネルギー自給率」といった統計的な(抽象的な、したがって自分にはあまり関係のない…)概念というのが正直なところではないでしょうか。『自給再考―グローバリゼーションの次は何か』はそのようなステレオタイプ的な思考を気持ちよいくらいに壊す「力」をもっていると思います。

 もちろん、見落としてはならないのは、吉田さんも言われているように、リアリティそのものが複層的・重層的であることです。連載「農民参加型の持続可能な農業について」に書かれているような内容もあわせたとき、キューバの、いや中南米を含めての百姓たち、キューバの農の土台を支える百姓たちの息吹きが伝わってくるのではないか、と浅読みかもしれませんがそんなふうにも感じています。

 吉田さんが言われたキューバのカンペシーノたちにわたしは思いをはせるのです。日本でいう百姓・精農に近ければ近いほど、もしかしたら、たとえばモノに頼らない農法をきちんと評価できれば、コミュニーションが成り立つのではないか、そんなことも思ってしまうのです。あるいは、国がどう動こうとも、作物をつくることに本質的にかわりはないのだから、カンペシーノたちは日々たゆまず百姓仕事をつづけているのではないかと。
 
 そして、そういうカンペシーノのような存在こそがほんとうの意味での、なくてはならない(ということは、どんな国にも存在しうる)社会の土台なのではないかとわたしは考えていますし、これこそが「自給」の土台ではないかとも思うのです。そしてそうだとすれば、形式的な平等(成果主義や自己責任の過度の強調もある種の「平等」でしょう)を過度に求めるような改革、なくてはならないこのような存在を否定するような改革はナンセンスなのだとも言えると思います。

 もうひとつ、この原稿とブログ等で書かれてきた内容、そして吉田さんとのやりとりのなかで感じているのは、その国における社会や人間とはなにかという、その捉え方です。

「子どもたちは幸せになるように生まれてくる」というフレーズがキューバではしばしば聞かれると吉田さんはいいます。「子ども」というのは弱き者の、これからの未来を引き継がれる者の、別の謂いではないでしょうか。そういう「子どもたち」を大事にしようという気概(モラル)のある国では、国家がどのような方向にすすむかを考えるとき、その主体が誰であれ、ある一定の方向に落ち着いていくのではないかと感じています。

 キューバを一面的に礼讃することの危うさについては、この間、しかと吉田さんからたたきこまれたと思っています。にもかかわらず、というか、だからこそというべきか、この国は注目に値すると、そんなふうに思っています」




 うーん。さすがだ。実に深い。改めてキューバの農業を再評価する気分になってくるし、このブログ読者もそうだろう。

 で、この田口氏ような人物が中心となって編集された本なら読んでみよう、と思われ、実際にこの本を手にとるであろう読者のために、若干、補足説明をしておこう。

自給は辞めよう 

 さて、本書の執筆人はいずれも、言葉や表現を変えながらも、国家ではなく、個人、あるいはコミュニティの自給の重要性を提唱されている。
 
有機農業、半農半X、地産地消、食農教育、グリーン・ツーリズムとまあ、このジャンルに関心を持つ読者ならば、おなじみの言葉も次々と登場する。私は行政マンとして、こうしたテーマには行政レベルで関係してきたことがある。だから、農家としての実践はないにしても、内容はある程度はわかっているし、あえて、否定する気もない。だが、あまりにも月並みではないか。だから、このブログではさらにラジカルにこんな主張をしてみよう。

自給自足は罪である。格差社会おおいに結構。女性は慰みものにしてしまえ。時には戦争もやってみようではないか


 おお、可愛そうに。キューバにかぶれるあまり、ついに脳がとち狂ったか。おそらく、この段階でスローライファーはもちろん、リベラリストたちからも大鉄槌をくらい狂人扱いされそうだ。だが、この雑文でも、おおいに、というか事実上、ほとんど参考にさせてもらった文化人類学者、山内昶さんの本を読むと、こんな危ないタブー発言をあえて口にしたくなるほど刺激的な情報に満ちているのだ。文字どおり、タブーとは何かを文化人類学的に解き明かした本だからだ。

 とりあえず、なぜ自給をしてはいけないのかだけ、山内理論にそって、ここで要旨を述べておこう。

 例えば、山内昶さんが引用するクラストルの『国家に抗する社会』によれば、南米の採集狩猟民グワヤキ族は、自分が捕らえた獲物を自分で消費することが厳禁されていた。オーストラリア先住民も、自分が獲ったカンガルーを何マイルも運んでキャンプに帰ると獲物をみなの前に投げ捨てて、ただ分配されるのを無関心で眺めていた。

 つまり、未開社会では自給はタブーだった。では、連中はどうやって食っていたのかというと、こうなる。

部族のライフスタイルは、旧石器時代レベルだったのだが、男は狩猟、女は採集という自然なジェンダーによる分業がなされ、植物性の食料は家族や親族の間で、動物性の食料は社会集団内で平等にわけあっていた。

つまり、誰一人も自給せず、男たちは他人のために狩りを行い、自分の食べ物は他人から受け取っていたという。要するに、誰もが他人の労働生産物に依存して暮らしていたわけだ。

 では、なぜ、自給しないのか。山内昶さんは、「物惜しみをしない気前のよいもてなしをすることで相手に恩をきせ、その負い目をホステージ(担当)に取ることで、潜在的な敵を友にかえ、友好的な同盟関係を作り出すための手段だった」と説明する。
 
 つまり、人類は自分で作ったものを自給してはならないというタブーをベースに、他人の肉体労働の生産物である食料を相互に贈与交換することで、何十万年も生き抜いてきたのだ。

 この「贈与交換」というのが味噌だ。橋本治さんは「乱世を生きる市場原理は嘘かもしれない」(集英社新書2005)の中で経済について実に明快にこう書いている。

「経済とはただ循環すること。利潤を得る部分だけがクローズアップされてしまったが、経済とは、モノが動くことによって別のものが動く。その別のものとは、感情。生きることが幸福でありたいという感情だ」(P102~138)

 そう、経済で大事なのは、勘定ではなく感情なのだ。となれば、どれほど、一人だけで孤独に自給自足をする行為が罪であるかがわかるだろう。


原始共産制を担保するための国家

 が、この牧歌的世界は担保できるのか。私は、たぶんいまのままではできないと思う。つまり、すべてのコミュニティがマネー漬にされている以上、強力な反グローバルのしかけがない限りできないのだ。となると、「強力な国家」、あるいは運動体が必要となってくる。

 そのことが、一番よくわかっているのが、この本の中で「貿易の論理 自給の論理」を上梓された関曠野氏だ。氏は、ビア・カンぺシーナを例にとり、「会員1億5000万人の世界最大の民間組織で、創設されてまもないのにすでに国際的に無視できない存在となっている」として、同団体が提唱する「食料主権論」について言及されている(P36)。

 ビア・カンペシーナにまで言及されているとは、さすがに思想家、関氏の面目躍如たるものがあるのだが、同じ本の中の雑文で、私は「中米の何十万人もの貧しい農民たちが参加しているカンペシーノ運動がある」と書いている(P48)。

 たぶん、いわんとすることは同じなのだが、一方が一億。片方が、何十万。なんじゃらほい。どちらかの数値が間違っとるんかいな、と疑問に思われる読者もいるかもしれないので釈迦に説法だが、まず補足をしておこう。

 これは私の表現がまずかったのであって、ここで言うカンペシーノ運動とは、モビミエント・カンペシーノ・ア・カンペシーノ(Movimiento Campesino a Campesino)のことであって、ビア・カンペシーナ(Via Campesina)とは違う。いや、より正確に言えば、自給農業に特化した技術論としてのカンペシーノたちの運動が、技術だけでは対グローバル戦略としてはあきたらんということで、国家、ひいては国際秩序を動かす「ビア・カンペシーナ」まで発展してきているのだ。つまり、私のいう、ん十万は、関氏が指摘する一億5千万人の中に含まれることとなる。

 ということで、私は、石油がなくなった時代には、有機農業による自給自足なんたらこうたらというつまらない運動は打ち捨てられて、人類が数万年生きてきた有機農業によって自給自足をせず、他人のために食料を生産し、されど、搾取はされないという贈与経済の究極の原始共産制の世界へとまた舞い戻っていくと思っているのだが、その前に搾取がある以上は、コミュニティ段階で米ドル経済(ドルと連動した円経済)から脱却し、経済的搾取をされないための防波堤、反グローバリズムの強力な国家が必要となってくると思っている。

 つまり、リベラル・サヨが叩きに叩いてきた国家をもう一度、強力なものにしたてあげなければならないわけだが、いかなる国家であれ、それは権力を持つ以上、当然、人民を弾圧することになる。

 自由と平等は両立しない。自由社会の中では、才能のある勝ち組は自由を謳歌できるが格差は開き、負け組みは貧しい暮らしを強いられる。さりとて、平等を担保しようとすれば、才能のない負け組みは産まれないが、ある程度能力のある人間は自由を謳歌できない。後者を選んでいるのがキューバだ。

 そこで、キューバ・モデルの抑圧性が、どれほど人々の平等を維持することで感謝されると同時に、自由を弾圧することで、どれだけ才能のある勝ち組が不満を感じているのかに私は大いに関心がある。

自由とはなにか。人民を弾圧しない国家は可能か

 で、この自由について、再び田口氏とやりとりした中で氏から寄せられたコメントを掲載させてもらおう。

「うまくいえませんが、吉田さんの言う『強力な国家』というのはここだけはゆずれない点、一歩もひかないという意味だと思うのです。キューバでは、それが、医療であり、教育であるのでしょう。

 さて、「自由」について、関曠野さんが『民族とは何か』のなかの一節で、次のように書かれています。

「〔日本は〕形の上では近代国家を作りはしたが、その存在理由が支配ではなく権利の保護にある国家というものを日本人は理解できなかった」

 関さんは、折にふれて「公」の重視を強調されますが、関さんは「公」を担保するものに公開・公正・公明の原則、そして公論があるといいます。そして日本では公=国家と捉えられやすいが、そうではなくあくまでも公論によって形成されるのだとも。

 さらに別のところで関さんは「何かを“する”自由」と「“存在する”自由」を対称的に述べています。この「“存在する”自由」はたぶんに、宇根さんが、『耕』の連載「畦道・赤トンボのナショナリズム」でキーワードとして位置付けている「消極的な価値」と近いところにあると考えています。

 この権利のとらえ方とからめて考えた場合、いま自由主義の名で言われていることは「何かを“する”自由」のことですが、この「何かを“する”自由」の行使が、他者の「“存在する”自由」たとえば、隣人との日常的な暮らしをつづけることに、昨日のように明日も送れることを望むという価値観を、そして暮らしの実体を破壊する可能性がある、というふうに言えると思うのです。そしてそれは、「されたくないことを他者から強要されない」という「権利」の侵害になるといえるのではないでしょうか。

 権利とはなにか、ということ自体たいへん大きな問題であるわけですが、別のところで関さんは「権利と言われているものの内実は他者の権利を尊重する義務のこと」であると述べています。べつの言い方をすれば、されたくないことを他者から強要されないこと・自分がされたくないことは他者にはしないということが「権利」であると述べています。

 キューバの権力が、「抑圧」、「されたくないことを他からの強要する」ことにつながるとすれば、この公開・公正・公明の原則そして公論の制限があるということになような気もしています。




 おやおや、本の自己紹介をするために書き始めた雑文が妙に重々しいコンテンツとなってしまったが、ただ、自給がどうやら、民主主義や権利とも関係するらしいことをわかってもらえば、それでいいのである。

アカデミックは真理に迫れるのか

2008年12月03日 23時33分36秒 | 日記
 前回に続けて、真実に迫るための与太話を。11月28日のブログにも少し書いたが、ジャーナリスト松永和紀さんは、食品の安全・安心をめぐって似非情報が溢れてしまう背景には、うんといやらしく私なりに書けば、次のような社会構造があるためだ、と主張している。

「絶対的な真実を求めようともせず、下衆な好奇心に満ちた知的水準の低いおろかな大衆がいる」

「大衆に必要なのは、絶対的な真実ではなく、彼らの下衆な好奇心を満たして視聴率さえとれれば、それでよいと考えているマスコミがいる」

「(本当は真理を知っているのだが)下衆な好奇心に満ちた知的水準の低いおろかな大衆や、それにおもねるマスコミを餌食にして暴利を貪ったり、売名行為に走ろうとする意地汚い似非科学者がいる」

「(本当は真理を知っているのだが)、この似非科学者を祭り上げ、下衆な好奇心に満ちた知的水準の低いおろかな大衆を相手とするマスコミに媚び諂わなければ生きていけない貧しいフリーのジャーナリストがいる」

「選び抜かれたエリートたるプロ科学者こそが真理を知っている。しかし、彼らの本義は真理を追究するためにこそあるのだって、知的水準の低いおろかな下界の連中の泥仕合に首を突っ込む気はさらさらない。されば、だんまりを決め込む」

 かくして、神の真実のベールは、永遠の闇に隠されていく。

 そこで、松永さんが解決策としてあげるのは、良心的な科学者。すなわち、本来は低次元の大衆次元までわざわざ舞い降りて来る必要はないのだが、それを承知で、おろかな大衆を導くために、大衆にもわかるわかりやすい言葉で真理を語ってくれる科学者の登場だ。まさに菩薩業。かくして、偉大なる科学者が、似非科学者どもを一掃し、真理の光の前に似非科学を粉砕し、導いてくれる。

 とまあ、ご本人は、ここまでいやらしくは書いてはいないのだが、要旨をかいつまんでいえばこうなる。

 さて、ここまでの私なりの松永本の結論。あるいは、前回の「キューバの真実に迫るために」というブログを読まれて、「そうかいな」と首を傾げられていた方は、実は実にカンがいい。

 そう。これは、少し前までのプチ・サヨにあった、「正義の研究者」Vs「悪の政府系御用学者」という実にわかりやすい図式と同じなのだ。

 そこでは、オールラウンド・プレーヤーである市民派博士が登場し、官僚と癒着したり営利企業から金をもらう悪の手先をばったばったと懲らしめる。まるで、水戸黄門の世界だ。だが、奇妙なことに、なぜか彼らは専門分野を超えて、すべてに精通しているのであった。




 世代がわかってしまうのだが、例えば、私が子どもの頃に魅了されてやまなかったウルトラマンやウルトラQの舞台設定を考えてみよう。ここでも、学術的中立的な立場から科学特捜隊にアドバイスしてくれる、学術顧問、正義の科学者が登場した。彼らも万能だった。

 例えば、ウルトラマンに登場する平田明彦演ずる岩本博士を登場させてみよう。

「博士、東京湾に怪獣が出現しました」

「おおっあれは、古代生物ペギラ」

 おいおい、何でわかるんだ。

「博士弱点は」

「ペギラは南極の苔から取れるペギミンHに弱い。それを撃つんだ」

 おいおい、何で知っているんだ。そんなことまで。

 だが、実際のリアリティの世界はこうなるだろう。

「どうもあの一般的形容から判断するに、ペギラのようにも思えるが、身体の表面にあるざらざらした斑点の数を見ると微妙に少なく、ウルトラマンに登場するチャンドラーのようにも思える。ペギラであればペギミンHは有効だが、チャンドラーだと効力を発揮しえない。いや、より正確に言えば、効力を発揮しえるかのどうかの学術データが累積されていない」

「じゃあ、博士どうすればいいんですか」

「私だけでは判断しかねるので、そうだ。これから、ペギラ・チャンドラー学術特定委員会を開催し、そこで協議をしよう。開催にあたってはウルトラQの一ノ谷博士の出席が欠かせないし、出来れば、別の観点からジュラシック・パークのグラント博士にも特別委員として同席していただいた方が良いと思うが、両博士とも、ニューヨークで開催されている第4回国際古生物生息環境学会に参加されているため、委員会は帰国されてからだな」

「あの、岩本博士、いま、この瞬間にもペギラでもチャンドラーでもいいけど、都民が足で踏み潰されて、死傷者が続出しているんですが・・・・」

 そう。科学者は万能ではなく、専門分化してしまっているのだ。科学が必ずしも正解をもたらさないとなれば、そこにリスクをかけた判断が必要となる。

「よし、あれは、ペギラだ。ぺギミンHを撃て」

「しかし、キャップ。もし、チャンドラーだった」

「いまその瞬間にも人々が殺されている。たとえ、ペギミンHが効かなくても、俺が腹を切ればすむことだ。やれ」

 行政とはこうしたものだ。

 だが、科学特捜隊と違って、権限が地方分権化されていないと状況はさらに複雑になっていく。

「キリヤマ隊長、あなたの判断で命令してください」

「駄目だ。ヤマオカ長官の判断がいる。そして、長官が御判断するには、ヤナガワ参謀、タケナカ参謀、ボガード参謀、フランツ・グルーベル参謀がそれぞれが協議して・・・・」

「キリヤマ隊長、ヤマオカ長官の御決済はまだもらえんのですか。もう、参謀さんたちの意見具申はとっくに終わったんでしょ」

「ああ。長官は最終的にペギミンHを打つとの御判断をされたのだが、その後、パリ本部から横槍が入り、極東支部だけの自己責任ではできなくなったのだ」

「でも、なんでまた、こんな非常時に。スペシャル・ピリオドなんでっせ」

「ペギラが出現した以上、パリにも出るかもしれない。たった一発しかないペギミンHをそんなリスクがあることには使えんと言うわけだよ。しょせん、欧米人ならばともかく、我々黄色人種が殺されてもかまわんという、人種的な価値判断があるんだろうな」

「・・・・・」

 とまあ、こうなるだろう。そして、科学にはトーマス・クーンの言うパラダイムもある。つまり、アカデミックであれば、常に真理に到達できるとは限らないのである。さあ、どうする?。次回に続く。


キューバの真実に迫るために

2008年12月01日 22時23分59秒 | 日記
 昨日は、地元長野市でキューバの医療と農業について話をさせていただいた。なんと、会場には200人弱もの方々が詰めかけていた。東京ならいざしらず、いや、東京でもすごいのだが、この長野で、である。それも市民団体の主催であって、強制的な組織動員ではない。改めて、主催者の努力に頭を下げたいと思うと同時に信州人の勉強熱心さには舌を巻いたのだが、内心、怖くなってきた。

 というのも、会場にはこの講演会があることをネットで調べ、わざわざ飛騨古川から足を運んでくださった方もおられたからだ。「シッコですっかり有名となったキューバ医療」。とはいえ、いざその詳細な情報を得ようとしてもネット上でかかってくるのは、私の名前ばかり。そこで、情報を得ようとやってきた、というのである。

 いや、まったくありがたいことだ。だが、暗澹たる気分にもなってきた。老子の「国乱れて忠臣あり」ではないが、キューバ如きに救いの一助を求めるとは、それだけ、我が国家の地域医療が崩壊している証でもあるからだ。

「キューバは海外に無料でお医者さんを派遣しているのでしょう。日本には来てくれないんですか」

 会場で寄せられた質問には「いや、キューバとても単なる善意でやっているわけではない。政治的な戦略もある。日本のような豊かな先進国に医師を派遣するはずがないではないか」とアレイダ・ゲバラさんが来日時にも「自分たちのことは自分たちで」と語っていたことを例にひき、冷たくその期待を打ち砕いて見せたのだが、思わず『キューバのお医者さん助けてくださいとテレビで米国の黒人が叫んでいた姿が忘れられません』とキューバの元外交官、ミゲル・バヨナ氏が語っていた姿と重なった。

 これほど左様に日本は病みつつある。

 さて、話は飛ぶ。

 グルメ漫画『美味しんぼ』の原作者として有名な雁屋哲氏は、東大を卒業後、電通に勤めていたというキャリアを持っているのだが、メジャーとなった『美味しんぼ』からは想像もつかないような、とんでもない過激な発言を他の作品ではほとばしらせている。

 例えば、『野望の王国』という作品では主人公のヤクザの息子、橘征五郎にこんな発言をさせている。

「大衆に必要なのは、絶対的な真実ではない。彼らの下衆な好奇心を満たしてやれば、それでよい 」
 この発言の趣旨に沿えば、私は次のような行動をとればよいことになる。

「医療崩壊に悩み、講演会の場にわざわざやってくるような愚かな大衆どもに必要なのは、キューバの絶対的な真実ではない。彼らの下衆な好奇心と希望を満たしてやれば、それでよい。フィデル・カストロもゲバラも無謬の英雄であってキューバには何ら問題がないのだから 」

 だが、これはさすがにまずいだろう。

 ということで、今回もメディア・リテラシーにこだわる。

 それには、キューバを礼賛する声ではなく、正反対の叩く声。それも、かなり、誠実と思える叩く声にも耳を傾けてみることが、その第一歩となるだろう。

 ということで、ブログ上で検索してみると、私の意図におあつらえむきのサイトが見つかった。これも作者とは一面識もないのだが、「世界放浪読書」というサイトだ。

 興味をもたれた方は、実際にこのサイトを訪れていただくとして、まずは、プチ・サヨ。つまり、今の日本の状況を憂えるであろう、本当に誠意ある人々がまず読むであろう書物が、どれだけ叩かれているかを見ることから入っていこう。
例えば、伊藤千尋さんの『反米大陸』(2007)集英社新書は、こう酷評される。

「九条バカの連中が大好きなコスタリカを避けたのは、反米という言説から外れることが分かっているからだろう。まあ、こんな単純な見方でも、中南米が新書になることは歓迎すべきことなのだが、サトウキビ収穫で『キューバの青春』を体験しただけあって、キューバ支持は相変わらずだ。著者はキューバの現状はアメリカの情報操作によって、日本で間違って伝えられていると怒っているのだが、日本の場合、間違って伝えられているというのは正しくても、未だにカストロ・ファンの情報操作から抜け出せないというのが実情であろう。元在キューバ大使が唖然とする様な本を出す日本は、アメリカの情報操作以前の問題があるだろう」。

 うーん。実に鋭いところを突いている。もちろん、私自身の拙著でも米国のマイアミ・ヘラルドがどれだけいかがわしい情報を発信しているかは書いてある。だが、実際に米国はかなり真実味もある情報も発信している。

 そこで、「キューバ=単純な独裁国」というステップを抜け出した読者は、「米国に情報混乱されているから、フィデルの素晴らしさがわからなかったのか」とそこでストップしてしまう前に、「いや、もしかしたら、これはキューバ・ファンの情報操作によって洗脳されているのではないか」と疑ってみる必要があるという、実に適切なアドバイスなのだ。

 ということで、元在キューバ大使の本、田中三郎さんの『フィデル・カストロ』(2005) 同時代社も、こんな感じで酷評される。

 「結論から言うと、この元駐キューバ大使には驚かされた。まるっきりのカストロちょうちん本。正にチャイナ・スクールも真っ青の『ウルトラ・キューバ・スクール』としか言い様がない内容。最初は抑え気味だったものの序々に暴走を始め、最終章ではカストロをキリストに準えて、『後光がさしていた』『体中に衝撃が走った』と本当に神格化してしまう (略)。キューバ社会の革新性は否定できない事実ではある。またソビエト型権威主義とも、中国型皇帝主義とも無縁の「生きる伝説」であるカストロには、共産主義の功罪を知る人間でも、会った瞬間にイチコロにしてしまう魅力があるのは事実だ。しかしだ、このヒトは日本大使である。個人の思想は自由であるが、ペルー日本大使公邸を占拠したMRTAの行為を正当化したり、キューバのアンゴラ出兵を称賛したりという事は大使としての資質が問われる」

 うーん。まことに手厳しい。だが、カストロと実際に会っている田中元大使のようなエリートではなく、実際にキューバの庶民の中で生活をし、目線低くキューバ社会を見てきたルポならば、キューバの真実、その豊かさ、真の価値が見えてくるのではないだろうか。

 という点では、吉田沙由里さんの『小さな国の大きな奇跡』(2008) WAVE出版が、いま日本で手に入るベストだろう。だが、このブログ上では、この著作すらも、こうボロクソにけなされているのだ。

「キューバ本のほとんどが礼賛ものなのは、このタイトルにその理由が表されている様に思える。中国とかソ連みたいな『社会主義帝国』は問題も表面化しやすく、『大国』としても、『脅威』としても明確な批判の対象にできた訳だけども、キューバとかベトナムとなると、そうもゆかないのはなぜだろう(略)。その意味では日本でのキューバ評価が『サトウキビ奉仕』の時代から変わらないのも、ほとんど「奇跡」の様なものなのかもしれない(略)。たしかにキューバが『ラテンアメリカ的病』も『第三世界の病』も克服したとは言えるのだが(略)、それを『大きな奇跡』と認識するのは難しい。そうしたキューバ人の視点を考慮せずに、キューバ人が心豊かに暮らしていると早合点するのはどうかと思う。モノが溢れていれば、そうでない世界が心豊かな生活に見えて、モノがなければ、モノが溢れている世界が心豊かな生活に見えるというものではなかろうか。『偶然の旅行者』である市民団体主宰者がキューバ大使館のアテンドで、一般人の生活を覗き見るというパターンは前にもあったが、空前の『格差』ブームに沸く日本は、『反米』や『ゲバラ』に頼ることなく、新たな『キューバ・ファン』を獲得できる市場になったのかもしれない。ゲバラ娘を登場させているのもその辺の効果を倍増させることを狙ってのことだろう」

 ここまで、読んでくると、「おい、このブログの執筆者はなんだ。なんぞ、キューバに恨みでもあるんかい」と言いたくもなってくるだろう。だが、格差の面から、キューバがいま改めて着目されているという指摘はあたっている。というのも、私の如き人間の講演に多くの人が足を運んでくれるのも、まさに、格差という社会背景があってのことだからだ。ということで、拙著がこのブログ上でどれほど酷評されているのかを見てみよう。




 まずは、「世界がキューバ医療を手本にするわけ

「長野の農業大学校勤務という著者は、これまで農業分野でのキューバ礼賛本を2冊出している人らしい。『サトウキビ刈り』のOBかどうかは分からぬが、色々と批判があったのだろう。独裁体制の国のデータなど信用できないと言われることをかなり気にしている様だ」

 おいおい、それはちょっと違うぞ。独裁体制の国のデータなど信用できないというのは、あくまでも導入だ。ただし、決定的ではないにしても、数値操作があることは、いずれこの私のブログで明らかにしよう。

 で、さらにこの評価の先を読んでみよう。

「その点、医療は農業よりも、世界的評価が確立している分野であることは事実。元々、ラテン・アメリカでは医療といえばキューバというイメージがあったのだが、最近はマラドーナとか、アメリカの医療体制を批判したマイケルムーアの映画などもあって、それが世界的にも知られる様にはなった(略)。当然、この取材もキューバ大使館のアレンジではあるのだが、キューバ政府がわざわざ日本で宣伝する必要性は高くはないので、未だに数多く存在する『キューバ・ファン』に支えられての出版なのだろう。ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムと日本の近隣社会主義国は崩壊したり、変節したり、堕落したりで、日本の純粋左翼の行き場がすっかりなくなってしまったのだが、南米の左旋回などをみていると、今や『社会主義の祖国』の座はキューバであると言って過言ではなかろう」(略)。

 次。「世界がキューバの高学力注目するわけ

「この農業大学校教授のキューバ礼賛レポートもすっかりシリーズ化したが、有機農業から反グロ、医療ときて、今度は学力か。もちろん、キューバ大使館を通しての通訳、案内人が付いた『表玄関』からの短期間(本業の合間をぬっての数日間らしい)取材である訳だが、ある意味、この著者には『確信犯』的ところがある様だ」

 正解。見事な分析だ。

『かつてのサトウキビ・ボランティア組もすっかり役立たずの団塊と化している。カストロも退場し、ラ米の人間以外はゲバラはファッション以上のものにはなり得ないだろう(略)。実際のテーマになっているのは『高学力』というより、『教育の普及』なのだが、たしかにラ米をちょっと齧った人間であれば、キューバの教育が際立ったものであることはすぐ分かることだし、日本が祭上げている『フィンランド』や『インド』モデルより、世界の多くの国ではより現実的なモデルとなり得るものだと思う。ただ、問題は教育を普及させた後に明るい未来が待っているかということであって、その点においてはキューバが破綻した国家であることを否定することは難しい。『新キューバ・ファン』の著者も、そうした批判が寄せられることを念頭においている様で、問題から目をそむけるつもりは毛頭ないことを表明はしている。時間的制約も言語的制約もあるかと思うが、キューバの『真実』は『サトウキビのカーテン』で隠されている訳ではなく、『裏玄関』のドアも開け放たれている。『貧しいけど、皆平等』という神話を留保した著者は、その『真実』を確める鍵は得たと思う。次は『第三世界』が注目するキューバの本ではなく、『第一世界』が注目するキューバの本を書くべきではなかろうか』

 いや、まことにご説ごもっとも。感服する。「真実を確かめる鍵は得た」ということで、この書評では5点満点で、2点をいただいた。

 だが、それならば、この評者の言う真実を知ることはできるのだろうか。




 私のような素人と違い、プロ中のプロにアジア経済研究所の山岡加奈子さんがいる。御面識はないのだが、「キューバ、理想と現実、本音と建前のはざまで」というわかりやすいエッセイの中で、キューバ研究の難しさを次のように述べられておられる。

「キューバ研究の難しさは、政府の本音と建前が見えにくいところにある。この本音と建前を見分ける力は、現地に居住しないとなかなか養うことができない(略)。従って、これからキューバ研究を志す人たちには、時間も体力もある若いうちにまずキューバに一年くらい住んでみることをお勧めする。それによっていろいろな立場から書かれた文献を前にしても、本音と建前をより分けながら読むことができるようになるだろう」

 これこそ、アカデミックの本流だ。だが、ここまで読んだ段階で、筆者なぞはヘナヘナにめげてしまう。

 山岡さんは、キューバについての「英文」の論文も出されているのだが、このブログにアクセスしてくる読者には、それだけでもアカデミックな敷居の高さに圧倒されてしまうだろう。

 まず、最低1年は現地に居住しなければならない。

 当然、資金力も語学力も必要となる。

 そのうえで、政府の本音と建前を見極めるだけの力量を身につけなければならないのだ。
 
 私のキューバ教育本を批評したブログの某氏も「時間的制約も言語的制約もあるかと思うが」とスペイン語ができない私の立場も実によくわかってくれている。私のようなサラリーマンには絶対に無理な話なのだ。

 「国内では仕事があるから、とても一年なんて休みは取れないけれど、一度はそれも数日間くらいはキューバに行ってみたい。スペイン語もできないし、政府の高官に会うまでの手続きはめんどう。でも、せっかくキューバにいく以上は真の姿を見てみたい」

 そんな、ごく普通のキューバ・ファンがもっと気軽に真の情報にアクセスする術はないのだろうか。

 たぶん、究極の解決策としては、山岡さん、あるいは、私も知らないであろう多くのラテン・アメリカの第一級のプロ研究者が、学術研究論文だけではなく、新書のような形でキューバの真実の姿を伝えるメッセージを発信してくれることが、これまで紹介してきたような「辛口書評子」にも耐えられ、かつ、同氏に叩かれるような「トンデモ本」に愛読者が惑わされないための一番の早道だろう。

 だが、そうまでしなければ、キューバの真実は見極められないのだろうか。

 いや。ある。その方法は実はある。それも全く金をかけずにだ。

 そのヒントを山岡さんはこのエッセイの中で披露してくれている。

「本音と建前の違いを見分けた上で、学問的にすぐれた業績をあげてきたのは、皮肉にもキューバで生まれ育ったあと米国に移住したキューバ系米国人の研究者たちである」

 そう。あの米国だ。米国にこそ、いま、キューバで何が起きているのか。米国人がインタビューした膨大なキューバの生情報が眠っているのだ。しかも、それは、苦労してキューバ発のスペイン語情報を訳さなくても、英語で書いてあるものも多いし、ネットからタダでアクセスできる。

 もちろん、情報にはガセネタや政府からの統制もあって本音を言えなかった部分もあるだろう。だが、この世には川喜田二郎氏が発明された「KJ法」という素晴らしいスキルがある。私は学生時代にネパールで川喜田先生から、その凄みを直に聞く機会を得たことがあるのだが、一言でいえば、こういうことだ。

 真実の前には、嘘は矛盾する

 KJ法とは川喜田先生がネパールの地元の人々の声から生取材して、現地の実態を明らかにするために編み出されたノウハウである。もちろん、中には嘘もある。しかし、多くのデータを積み重ねていけば、その中で見事なまでに嘘データは、「浮き上がって」しまうのだ。しかも、これは、例えば、今はやりの勝間和代さんが「自分をグーグル化する方法」などで披露しているマッキンゼーのトップダウン型のフレームワーク法とは正反対で、「事実をして語らしめる」というボトムアップなやり方だ。

 しかも、「KJ法」ではないにしても、それとほぼ同じことができる日本人が作成したフリー・ソフトもある。私がさまざまに試してみて、ベストと思われるのがこれだ。マック版もビスタ版もないのだが、実に軽くサクサク動く。このソフトを使えば、インスピレーションやこれもはやりのマインドマップのような欧米的なソフトとは逆に、データから積み上げて、仮説を導き出していくことができるのだ。

 つまり、米国人が発信するキューバの生情報を、ラベル化し、KJ法で組み立てることによって、真実に肉薄する。

 こうした手法が、スペイン語ができなくても、キューバにいく旅費がなくても、はたまた、「現地でこいつは嘘をいっているな」と見抜くセンスがないへぼであっても、炬燵に入ってミカンを食べながらでも、そう、猫鍋気分で、なんとか日本でできるというありがたい時代になったのだ。

 もちろん、これまでの著作もそうした手法で書いてきたのだが、さらにキューバのネガティブ情報も含めて、この作業をこれからやってみようと思っている。

 『貧しいけど、皆平等』という神話を留保し、その『真実』を確める鍵は得た私が、講演に来てくださる方々のために、『第一世界』が注目するキューバの情報を発信するための私なりの次の課題だと思っている。