没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

逆説の未来史59 進歩教の洗脳(10) 進歩教を捨てなければならないとき

2013年11月24日 23時24分35秒 | 逆説の未来史

■現状を直視しなければ進歩教の洗脳から逃れられない

 現在、最も広く信仰されている一般的な市民宗教とは進歩の神話である。その神話の論理的なパワー、その神話によって捻じ曲げられた歴史、さらに、進歩を否定する逸脱のサブカルチャーを社会内に創り出すことで社会規範をさらに強化していく文化的な力(4-5,4?6)。これらが、進歩の神話に対して率直な議論をできなくしている。現代の産業社会が思い描く未来のイメージはもはや過去のものにすぎず、ピーク・オイルが突き動かす世界の姿を把握し(4-5)、それがもたらす影響を率直に論じることを難しくしている。ピーク・オイルとは、南北戦争以前の南部のアフリカ系米国人に対する奴隷制度や1950~1960年代に米国の郊外の女性たちが経験した憂鬱と同じ社会的な危機(4-6)、「名前がなき問題」なのである。したがって、この原因まで究明しようとする人たちはほとんどいない(4-5)。さらに、未来と折合いをつけるという必要ではあっても困難な仕事をできる限り長く先送りしたいという要望もその障壁を高めている。けれども、それは工業化社会に限ったものではない。こうした要因は、いずれも正常な人間の心理行動であって、通常の時代ならば、その時代の文化や思考に安定をもたらす。ただ、現代が平常な時代ではないことが私たちにとって不運なのである(4-6)

■半狂乱になってマルクス主義を正当化してみても現実は否定できない

 進歩教は、ドグマや迷信に対して勝利した進歩の主唱者を空想的な聖人として歴史に位置づけることによってその強さを引き出している。さらに、信仰の目を通じて現代の経験を解釈している。メディアは、産業化以前の過去を悲惨なものと描き、それを現状と対比させることで、近代的生活への信頼を維持させ続けることで進歩教を支えている。

 これも、宗教がその信仰を広めるためのコアとなる手段であることから、市民宗教に限らず、それ以外のどの宗教にも見出せる。ただキリスト教のような超自然的な宗教の王国がこの世界ではないのとは違って、市民宗教の王国は現世である。その宗教が信者を満足させ、その実体験に意味ある説明を提供し続ける限りは信仰も広まる。けれども、それができなくなれば大きな困難に直面することになる。例えば、共産主義社会がどれほど半狂乱になって革命の栄光やマルクス主義理論の素晴らしさを正当化しようと現状を解釈し直してみたとしても、理論と現実の暮らしとのギャップの広がりを無視することは、結局不可能になった(4-5)

■進歩の神話と没落との現実とのギャップで集団病理に陥るリスクがある

 同じく、進歩の市民宗教も、壮大な危機に直面するであろう。ピーク・オイルやそれ以外の資源枯渇の影響が継続し深まるにつれ、ますます多くの人々が、経済の縮退や技術的な逆行を日常のリアリティとして経験し、無限の進歩の改良を信じることが不可能であることに気づきつつある。進歩に対する信仰。それとは逆行する実経験。市民宗教の物語が、一貫して世界の意味を説明できなくなれば、認知的不協和が始まる。個人であれ社会集団であれ、事態はすでにそうなりつつある(4-5)

 経済の縮小、環境破壊、資源枯渇。これらは、現代の信仰体系とは抜本的に矛盾する。このため、工業化社会の集団心理にすでに大きな負荷をかけている。このストレスは、1933~1945年にかけてナチスを台頭させることにつながった統合失調症に匹敵する。何百万ものドイツ人たちは、世界に冠たるドイツという文化的なイデオロギーとはそぐわない第一次世界大戦の敗戦による苦しい現実との間でダブル・バインドに捉われていた。

 今後、工業化社会の何億もの人々も、同じく、進歩の文化的なイデオロギーとはそぐわない縮小と衰退という苦しい現実との間でダブル・バインドに陥るリスクを抱えている。こうした時代には、最も近代的で最も合理的な社会においてさえ、ユングが1934年のエッセイで指摘したように、恐ろしい結果をもたらす最も原始的なレベル集団心理に陥るであろう。この種の歪によって個人が負うことになるリスクは小さくはない。というのは、危うくなるものは、私たちの時代の危機に対して合理的な問題解決を行う集合的な能力だからだ。

 1933年にドイツを席巻し、その後、十年でヨーロッパ全体に押し寄せた精神的な集団病理が集合的な精神療法を通じて防げた、とは言えない。同じく、ピーク・オイルの結果として工業化社会に起こりうる未来の妄想や集団暴力を防げるとも言えない。このリスクはリアルなものだ。したがって、それを未然に防ぐために努力する価値がある(4-6)

■セラピストやカウンセラーは集団的な心理危機に対応する必要がある

 このリスクを防ぐための対応策は比較的限られているが、そのひとつが、進歩の神話が破綻していることを直視し、その失敗によって規定される未来の姿を描くことで、ダブル・バインドを壊すことだ。この仕事の一部は、社会活動家、ジャーナリスト、作家によってなされなければならない。

 けれども、未来の姿を描くにあたって、セラピストやカウンセラーが果たすケアの役割も小さくはない。というのは、こうした問題の個人への影響にまず気づくのが、セラピストたちであるからだ。自分の生活の意味の基本が危機にさらされた人たちは深刻な精神的なストレスを科されている。人間の心理は複雑なため、このストレスは直接・間接的なやり方で浮上する。現在の状況は、1960年代初期に郊外の主婦たちがおかれた状況と極めて類似している。メディアや文化的圧力からすれば、彼女たちの憂鬱や不満は、彼女自身に何か問題があるとのサインであった。けれども、救いを求めるクライアントに対して、それを個人的な問題として治療をすれば、その人的損失はその個人に限られないであろう。一方、セラピストが集合的な危機が社会に存在することを認め、社会や家族やメディアが期待する彼女の人生における役割の方に問題があると彼女自身が自覚できるまで注意深くセッションを行い、認知的不協和を患者が自分で表現できるようになることを助けることができれば、そのメリットは個人だけでなく社会にとっても小さくはない。

 同じ論理が、危機を抱えた社会の群集心理にも該当する。自分の心理的問題に対処できていない人々は、そのための準備もできない。現在の産業化社会は、こうした危険な状況におかれている。したがって、セラピストやカウンセラー自身が、進歩の市民宗教の失敗と折合いを付け、人間存在の意味や価値に対する問いかけが、進歩の神話によっては応えられないことを見出し、没落する未来の意味を心理的にも実用的にも受け入れなければならない。そして、集合としての心理的な危機がもたらす障害は、よく知られた各個人や人間関係の問題に対応した手法で対応できるとは限らない。そのため、治療方法も再検討しなければならないであろう。けれども、集団的な問題をクライアントが把握し、進歩教を超えた世界で生きる意味を模索するようにするための支援方法は、現代の心理学がめったに対応していない未知の挑戦である。そこで、最も重要な問題は、「希望」の再発見として定義されよう(4-6)

■近代文化の偽装された希望が状況を悪化させる

 この記述は皮肉的である。「希望」という言葉が何を意味するのか。それは今まさに論議を呼んでいる課題だが、それは、オバマ大統領が2008年の選挙運動でこの言葉を用いたからではない。オバマの選挙のマーケティング・チームが、「希望」に残されていた最後の内容すらもむしり取る以前から、すでに古き希望の美徳は、現代文化の中でもつれ、マーケティング・サービスによって廉価な感傷で偽装され完全に捻じ曲げられてしまっている。そして、工業化社会が廉価なエネルギー時代の終焉に直面している状態で、この偽りの希望の原理に依存することは、おそらく致命的である。例えば、ピーク・オイルの概念を初めて知る人は、廉価なエネルギー時代の終焉という未来の見解を受け入れることは、希望を捨てることと同じではないかと、不平をもらすことが多い。

 技術的なブレークスルー、集団的な覚醒、キリストの再臨、ホワイトハウスの芝生の上への空飛ぶ円盤の着陸。こうした黙示録的な出来事が介在することによって、ピーク・オイルがもたらす未来から救済される。そう信じることで希望がもたらされる。そう彼らは主張する。こうした出来事がどれほどありなさそうであったとしても、彼らは、証拠の分析が示唆する未来を受け入れるよりも、その到来を信じる方が好ましいと主張する。この反応は一般的ではある。けれども、この主張は「希望の概念」を極めて奇妙に定義することを意味している。

 同じ論理を別の文脈に入れる思考実験によって、これがどれほど奇妙なことかが、まさに示されよう。例えば、今日の米国で失業中のシングルマザーが、ホリデーが近づいてきたときの苦境をイメージしてほしい。彼女と同じ状況におかれたそれ以外の多くの人たちと同じく、彼女は最低限の基礎的な支出をする金銭しか手にしていない。そして、失業手当の時計もかちかち音を立てている。それは99週後には尽きるであろう。新たな職を見つけるための努力も失敗した。ホリデーが近づいてきても、子どもたちに家や衣服を確保し、食べさせるためには、今年のクリスマス・プレゼントはない。それでは、彼女は子どもに何と言うのだろうか。まさに記述した論理にしたがえば、プレゼントが満載された大きな袋を持ってクリスマス・イブにはサンタクロースが現われると伝えるべきだろう。それで、子どもたちの希望がしばらくの間は満たされることは確実である。そして、クリスマスの朝に起きるであろう出来事を考えない限りは、それはさらによいアイデアのように思える。

 そうした状況において、そのかわりにすべき正しいことは真実を告げることだ、とほとんどの人たちは理解している。世界恐慌時にはこの種の物語が多くあった。包み紙やスクラップをつなぎあわせたホリデー用の装飾品。ごく少数の平凡な食事。ぼろから作られた小さな人形。それは、75年も後もまだ大切に所有されている。もし、こうした困難な状況下においても希望が持たれるのであれば、希望は決して満たされることがない派手な約束よりも、そのルートでもたらされるものであろう。けれども、この種の倫理的・心理的な明瞭さを持つには、忌避せずに苦境のリアリティに直面する意欲が必要である。そして、それが今まさに不足している(4-6)

■偽りの希望が挫折すれば黙示録の神話が繁栄する

 最近の人々は、自分たちが望まないことは起こりえないと確信している。ピーク・オイルに直面しているあらゆる証拠があがっていても、希望があるということは、現在のエネルギー浪費的な工業化社会のライフスタイルを維持できる代替え手段がそのうちに見つかると考えることを意味する。さらに多くの人たちは、自分たちだけはこうした制約を受けないと確信したり、成長の限界に対応することを拒否し続けていれば、自分たちが考えている以上に深刻な結果がもたらされる前に、誰かが彼らを救済することが「希望」の意味だと考えている。このように近代大衆文化においては「希望」の思想が共通して見られ、望むものがすべて提供されるはずだとの権利意識が「希望」とされている。

 多くのリスクがあることを知らずに走り出したり、危険を認めないことから恐れを感じない人間が勇敢ではないことは論理的に明らかである。無敵を確信して敗北の可能性を一切考えない軍隊は、戦況が不利になると慌てふためいてパニック状態となって崩壊することを戦史は伝えている。現代に共通する権利意識は、まさにこの「必勝の信念」と等価である。それは無敵を信じる軍隊と同じ種類の脆性性を産み出す。その期待が挫折するとき、権利意識は絶望に取ってかわることが多い。要するに、近代文化に見られる希望と称して、リアリティの直視を拒否する態度は、本当は絶望を養っている。社会を転換させる壮大なスピリチュアル運動が失敗した後に、黙示録の幻想がつねに繁栄するのは、このためなのである(4-6)

 現時点で、米国文化には三つの大きな黙示録のトレンドがある。

 第一は、ニューエイジ運動だ。2012年12月21日に世界が終末するとのマヤの予言に対する最近のこだわりは、千年王国説の信仰の幅広い流れのひとつにすぎない。そして、今後も確実に新たな終末の日付を見出すであろう。その背後には、たとえグローバルな破局やエイリアンの来訪がなくても、覚醒した少数のマインドが自らリアリティを創造でき、平和、愛、そして、啓発の新時代を引き起こすというマリリン・ファーガソン(Marilyn Ferguson, 1938~2008年)の初期のニューエイジの失敗した信仰が横たわっている。第二は、1960年代のカウンター・カルチャー運動の挫折から産まれたキリスト教原理主義者運動である。そして、第三は、1970年代の希望に満ちた日々から、今日の気候変動までの環境保護運動である。

 この三つの運動もすべて、大きくみれば、ドロシー・マーティンのUFO教の信者の隆盛と衰退に沿っている。ニューエイジ、キリスト教原理主義、環境保護運動の隆盛と衰退の背後には、産業文明と呼ぶユートピアをこの地球上に構築する別の試みの広大な隆盛と衰退がある。そして、この過程では、希望を偽装したある種の傲慢さが、別の種類の希望を偽装した絶望に取ってかわり、希望の概念そのものが疑われるというリスクへとつながる。これは抜本的に不幸なことである。というのも、壮大な物語が地面にぶつかるときが、まさに希望が必需品になるときだからだ(4-6)

■本当の希望はローマの没落の中から誕生した

 ピーク・オイルが工業化社会にもたらす未来の姿は、現代がイメージする進歩とはほとんど無関係である。また、受け入れ可能なひとつの逸脱の形式である黙示録とも無関係である。その姿は、工業化社会がここ十年で目にした変化とも類似していない。したがって、こうした心理的な要因は、「希望」と混同されるべきではない。

 これに対して、西洋の倫理思想において、希望の概念を発展させることになった歴史的な条件を考慮してみると興味深いことがわかる。それ以外の多くの古典期以降の西洋文化と同じく、希望の概念は、後期ローマ世界において、ギリシャ哲学とキリスト教思想が創造的に対立する中から出現した。当時は、経済が成長する時代でも生活水準が高まる時代でもなく、まさにその正反対であった。ローマ帝国がそれ自身の成長の限界にぶち当たり、さらに成長時代の国境を防御しようと試みて、それ自身が崩壊し始めると、帝国は続いたものの、経済危機と税負担の増大で生活水準は着実に落ち込んだ。そして、次のローマ崩壊がカオスの時代をもたらす。かつて識字力が高く、活発な市場経済やセントラルヒーティングのようなアメニティを備えていた全地域が、バラバラとなり疲弊し、人口も劇的に現象した後継国家へと移行した。そこでは、かろうじて生き延びるだけが成果だった(Ward-Perkins, 2005)。

 そして、この長きローマ世界の没落の中で、「倫理の美徳」としての「希望」の概念が、西洋世界の各地で普遍的に受け入れるようになったのだった。「希望」はそれが楽観論ではないことから生じた。それは、何か良きものが必然的にもたらされるとの受け身の期待ではない。むしろ、どのような状況下であれ、目標を追求する意欲が保てれば、達成できる肯定的な目標があるという認識である(Snyder, 1994)。この厳しい時代の「希望」の特徴を現代の希望と比べてみてほしい。違いは明白である。

「勇気」も必然的に勝利することを保証するものではなく、危険や恐れに直面しつつも正しい行為をとることを可能とするパーソナリティーのことであり、必勝の信念とは正反対のものである。そして、希望も困難な状況に対応して、それを達成するために努力するパーソナリティーのことなのである。この希望への能力は、意味の通常での概念が破綻した状況下において、意味の決定的な源となろう(Frankl, 1959)(4-6)

■逆説の未来史への教訓

 進歩の神話の破綻を遅らすことはできる。けれども、遅かれ早かれ、その信仰を心理的に防御することに失敗し、ほとんどの信者は自分たちの疑わしい信仰を放棄することになろう。大多数の人々は、彼らに人生の意味を与えた物語、永続する進歩の壮麗な未来が決してないことを、悲哀のプロセスを通じて、その神話への信仰を放棄することを強いられるであろう(4-5)。そして、没落する未来に対して、自分たちの暮らしを再定義し、進歩の市民宗教の終焉による空虚感を埋める新たな意味や目的を見出さなければならない。その作業は、一般市民も担わなければならないのである(4-6)

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) John Michael Greer, In Not The Future We Ordered: Peak Oil, Psychology, and The Myth of Progress, Karnac Books,2013.


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