没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

あれはいいものだ

2012年08月25日 00時43分39秒 | 崩壊論

レジリアンスの鍵は自給・多様化・つながり

 枝廣淳子さんの頭脳がどれほど明快であるかについては、例えば、8月日に長野市で行なわれた講演「信州から始める幸せ経済のライフスタイル」でレジリアンスについてふれたの以下の短い発言からもわかる。抜粋してみよう。

「もうひとつ大事なことがレジリアンス。回復力、復元力ですが、私は何があっても立ち直れるしなやかな強さと訳しています。日本では知られていませんが、世界的にはサスティナビリティの次にレジリアンスとなっています。で、大震災の後には停電になったら何も動かない(略)。何が問題なのだろうと、3.11から見ていくと、まず、他から来るものに依存していた。二つ目が一つのことだけに効率がよいので頼っていた。そして、外とのつながりがなかったのです(略)。この三つがあると思いました。レジリアンスの鍵はある程度の自立です。二つは一つではなく多様なものに頼る。三つが外とのつながりをゆるやかに作っておく。これが、家庭にも地域にも重要だと思っています」

 また、枝廣淳子さんは、コミュニケーションとマーケティングを意識しているとも言う。

「持続可能なライフスタイルにまだ気づいていない、それ以外が忙しくて、ゆとりがない人たちにどう広げていくかが必要だと思っています。良いことだから広がるというのはナイーブで、広がる戦略を立てていなければ広がっていかないのです」

 そして、枝廣さんは、伝えるためには、少なくとも三種類の人たち向けの別々のアプローチが必要だと主張する。第一は、左脳が強く、データを重視する企業人たち。第二は、企業でも経営企画、あるいは、主婦のように、損得に敏感な人種だ。そして、第三が、若者や女性、データや損得よりも、心の幸せや人のためになりたいことが響く人たちだ。

「この三通りを用意して、出す資料もトークも変えていかなければならないと思っています」と枝廣さんは言う。

 8月20日のブログでは、リチャード・ハインバーグの『成長の終わり』をケチョンケチョンにけなしたが、枝廣流の戦略からすれば、これは私の了見の狭さそのもので、第一のデータ重視のカテゴリーの人たちには必読の価値のある本だと思っている。これでもかこれでもかという圧倒的数値を持って、成長がいかに終わってしまっているかがよくわかる。一方、私は枝廣流のカテゴリーからすれば、第三種の人種に入るといえるだろう。マイケル・グリアの没落本に魅かれるのも、グリアがこの部分の感性の琴線に触れる鋭いフレーズを投げかけてくるからだ。とはいえ、グリアは感性だけではなく、歴史的事実をもとに意外な発見や盲点を教えてくれる。

 例えば、2012年4月22日のブログ「ローマ帝国の崩壊・上」では、トーマス・ホメール・ディクソンの著作を元に、こう抜粋した。

「考古学者たちは、フランス南部において40万本のワインを貯蔵できる巨大なオイルやワインの貯蔵庫の遺跡を発見している。陶磁器の工房は、輸送用に用いられた何万もの大きな壺やアンフォラを製造していた。アンフォラとは、ギリシア時代から用いられた陶器の器で、古代ローマでは、オリーブ・オイル、ワイン、植物油、穀物、魚他の必需品を運搬・保存する主要な手段として用いられていた。端的に言えば、古代ローマ帝国は、今日のグローバル化された世界の初期バージョンとなっていた。イギリスからエジプトまでの広域経済圏が作られ、各地の地理、気候、土壌に応じて、個々の地域で農民たちは最良の農産物を生産するために特化されていた。これが経済全体のレジリアンスを押しあげる助けとなっていた。例えば、ある地域が不作であっても、豊作であった他地域からの輸入で対処できた(1)

 おおっ、レジリアンスの登場だ。だが、グリアの分析はさらに深い。前出の大ローマ帝国の壺、アンフォラをネタに、グローバリゼーションのどこが危険なのか、そして、それが、レジリアンスとどうかかわってくるのかを語ってみせる。そこで、今回は壺を話題にとりあげてみたい。

没落と失われた技術

 「エコテクな未来」の第7章・家庭のパラグラフ「特殊化の罠」で、グリアはこう書く。

「このすべてがローマ崩壊時に終焉した。考古学者たちが、東ブリテンのサットン・フー(Sutton Hoo)で、6世紀のサクソン王の墓を発掘した時、発見された陶磁器は、技術的な崩壊の純然たる物語を伝えていた。もし、それが4世紀のブリテンで作られていたならば、サットン・フーの陶磁器は小作農民にすら不自然なものであったであろう。が、2世紀後には、それが王の食卓に鎮座していた。そのうえ、そのほとんどは輸入されなければならなかった」(2)

 200年前には庶民があたりまえに手にしていたよりも、一国の王が手にする食器がみすぼらしくなっていたというのだ。これを没落と言わずして何と言おう。

 ちなみに、6世紀のサクソン王といってもイギリス人ではない私には、ピンとこないため、若干補足しておこう。グレートブリテン島には紀元前9世紀~紀元前5世紀頃にかけ、ケルト系民族が侵入し、グレートブリテン島での鉄器時代が始まり、各地にケルト系の部族国家が成立した。このグレートブリテン島に紀元前55年にローマのカエサルが侵入。西暦43年にはクラウディウス帝がブリテン島の大半を征服する。

 ローマ人たちはこの地域をブリタンニアと呼び、支配拠点としてロンディニウムを建設し、これが現在のロンドンの起源となった。だが、5世紀になるとローマ帝国が混乱する。ローマ人たちはブリタニアでの植民をあきらめて大陸へと引き返す。ローマにかわって空いたブリタニアに侵入を始めたのが、アングロ・サクソン人である。彼らは、ノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックス等の7王国を建設し、覇権を争った。うち、中世初期の著名な遺跡サットン・フーがあるのは、イースト・アングリア王国である。

 サットン・フー一帯は王国の墓地となっており、豪華な金銀の装飾品や武具、武器などが出土し、627年に死去したイースト・アングリア王レッドウォールドの墓ではないかと推定されている(3)

 だが、ローマの崩壊の中で多くの技術が失われ、数千年以上も前の中期青銅器時代の水準にまで落ち込んだ、とグリアは書く。では、なぜ技術は失われてしまったのだろうか。グリアの分析はこうだ。

「それは、ローマの崩壊が、ローマ経済を極めて効率化させていた洗練化と特殊化にその根を持っていたということだ。ラ・グローフサンク(La Graufesenque)のような巨大な陶磁器工場は、高級品を大量生産するため、専門化した労働者を雇用していた。それは、その陶磁器を望む消費へと広大な輸送と交換のネットワークを用い、大陸全域にその製品を売ることによってのみ、その利益をあげることができた。ローマ世界は、こうしたネットワークを支えられるだけ豊かで安定していたのだ。だが、ポストローマ世界はそうではなかった」

 グリアによれば、ローマはグローバル化していた。だが、そのメリットは破綻によって、逆にデメリットへと変わる。

「その経済的な強みは致命的な脆弱性へと変わった。ローマ経済は集中化された生産に依存し、かつ、かなり長期にわたって労働を専門化していたため、それを地元資源に取り替えるやり方を誰も知らなかったのだ。帝国の全盛期には、サットンフー近郊の町や村の人たちは、地元の商人から陶磁器を買えた。彼らは、その商品を帝国の他の場所から海上輸送していた。彼らには、地元に陶磁器工場がある必要性がなく、そのため、誰も良質な陶磁器の作り方を知らなかった(略)。陶磁器工場が存在したところでさえ、コミュニティに必要とされる一般的な小規模な陶磁器よりも、専門化した陶磁器の大量生産に適応していた。良い陶磁器の作り方の知識がない陶工の子孫たちが残され、ローマの陶磁器製作の技術的伝統を消し去ったのだった」(2)

 ああっ。グローバリゼーションと効率化がレジリアンスを失わせてしまったのだ。

中世マイスターのレジリアンス

 マイケル・グリアは「自然の富」の第6章・未来への道で「バック・トゥー・ザ・フューチャー」と題して、さらに、グローバリゼーションの意味をとりあげる。

「ローマ経済はローマの政治形態と同じく、まさに集中化されていた。陶磁器のような主要産業においては、巨大な工場での大量生産が当時の風潮で、その製品は海や陸経由で数千マイル先のエンドユーザまで輸送されていた。道路がもはや修理されなくなったとき、その停止がやってきた。地中海は海賊たちの天国となっていた」(3)

 そして、グリアはローマン・グローバリゼーション以降の世界がどうなったかを書く。

「ローマの内破に残された空間を満たすために発展した経済システムは、ことごとくがローカル化されていた。このシステムは職業別のギルドに基づいていた。ギルドは直感には反し、近代的なマインドで機能していた(略)。都市には、地元企業の規模を越す産業はごくわずかしかなく、ほとんどのビジネスは、市民や都市周囲の農村向けの製品を販売していた。その製造販売は、職人たちの協同組合、ギルドが管理していた。ギルドに参加するには、たいがい年季奉公を7年は勤めなければならなかった。その間、技術を学び、働くことと引き換えに、賄い付き貸し間を得られた。そして、腕を磨いて、ベテラン職人となり、賃金をもらいマスターの下で働くことになる。さらに、それ以外のマスターたちを説得させられるほど素晴らしい工芸品が製作できるようになれば、ギルドでの議決権を得てマスターになった」(3)

 だが、グリアは、ギルドの論理が質の管理とローカル化であって、コストダウンとグローバル化とは正反対の非競争世界であったと書く。

「ギルドは労働のための基準を確立し、労働時間や条件を規制し、さらに価格すら統制していた。競争も禁止されていた。もし、競争者を出し抜くために、ギルドの製品を夜や週末に公正価格以下で売れば、ギルドで問題となり、町での商売から締め出されるのだった。ただ唯一の促進された競争形態は、優れた製品を生産販売することだけだった。これがギルド経済の秘密兵器だった」(3)

 はうっ。

 ローカル化すればレジリアンスは高まるが、それは、どうしてもコストと相矛盾する。レジリアンスを失った以降の中世人たちが、選んだのは、公正価格以下で販売する、すなわち、ディスカウントを否定することによって、質を守るという手段だったのである。

 壺といえば、希代の名セリフが故マ・クベ大佐の「あれはいいものだ」である。「機動戦士ガンダム」に登場する同大佐は、ジオン公国キシリア・ザビ配下で基地司令であったが、同時に無類の骨董品マニアで様々な古美術品を愛好していた。そのため、ガンダムのビームサーベルで機体を引き裂かれながらも、断末魔において「あの壷をキシリア様に届けてくれよ。あれは、いいものだ」 という希代の名セリフを残すのである。これほど、強く壺の存在を印象づける作品を私は寡聞にして知らない。マ・クベ大佐が愛用していた壺は北宋のものだったが、少なくとも「あれはいいものだ」とマ・クベに言わしめるだけの製品は、反グローバリズムのレジリアンス、ギルドのマイスターによってのみ誕生するものなのである。

【引用文献】
(1) Thomas Homer-Dixon,The Upside of Down: Catastrophe, Creativity and the Renewal of Civilisation, Souvenir Press Ltd, 2007.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Pub lishers, 2009.
(3)ウィキペディア
(4) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.


頭の良さについて

2012年08月23日 20時56分32秒 | 崩壊論
 8月20日、「自然エネルギー信州ネット」主催のシンポジウム「信州から始める幸せ経済のライフスタイル」という題で枝廣淳子さんの講演を聞いた。

 最新刊、「GDP追求型成長から幸せ創造へ」と重なる内容だが、生で肉声を聞くことはやはり違う。私が枝廣さんのファンであるのは、この混迷する時代に、誰にでもわかる容易な言葉で、問題の所在と解決策のチャート図を指し示してくれるからだ。当日の講演会も短い時間の中で、二つの環境の危機の意味(汚染とオーバーシュート)、脱所有・脱物質・脱マネー化のトレンド、レジリアンスの鍵が自給・多様化・つながりであることと、と様々な概念をわかりやすくつなげて描き出してくれた。

 わかりにくいことを理解できないのが凡人の常だし、わかりにくいことをわかりにくい言葉で秀才に説明されてみても脳がついていけない。一方、わかりきったことをわざわざ難解な言語に置換して知を見せびらかしてみせるのは英才の常であろう。したがって、元々わかりにくいことを誰にでもわかりやすく説明するという能力は実は並大抵のことではない。

 枝廣淳子さんをして「これまで出会った中で最も頭がいい人」と評価した人がいるが、そうであろう。そうでなくても、これからますます混乱していくであろう時代だ。方向音痴にならないためにも、枝廣さんのような英知を大切にしなければならない、と私は思っている。わかりやすく表現する言葉が大切だと言うことだ。そこで、今回は頭の良さについて考えてみたい。

連帯と言葉

 実は、私たち人類はこうした知恵、英知を大切にすることによって生きのびてきた。例えば、180万年前にホモ・エルガステル、いわゆる原人が突然、登場するのはなぜなのか。それは、生食から火を使った料理を始めたからだと、いうのがハーバード大学生物人類学部のリチャード・ランガム教授が『火の賜物~ヒトは料理で進化した』で提唱している仮説である(1)。これは、なかなか魅力的な説だ。そして、ホモ・エルガステルの集団は、登場するとほぼ時期を同じくして、祖国アフリカを後にユーラシアへと旅出つ。人類の第一次「出アフリカ」である。

 では、それまで、ずっとアフリカに住んでいた様々な人類のうち、なぜ、ホモ・エルガステルだけがアフリカを出ることになったのか。人類学者のアラン・ウォーカーは、人間が肉食になったからだと説く。草食動物の中から肉食動物が出現すれば、個体のサイズを小さくするか、人口密度を減らすしかない。そして、人口密度を減らすには、人口そのものを減らすか、分布域を拡大するか、しかない。そして、ホモ・エルガステルは後者の道を選んだというのだ(2)。そして、ホモ・エルガステルが、アフリカを出てから、驚くべき速度でジャワや東アジアへと広がっていったこともわかっている。ジャワ原人も180年前にはジャワ島に、北京原人も166万年前には中国にたどりついたとされている(3)

 だが、ホモ・エルガステルは、火を使いながらも、まだ、十分に話すことができなかったと言われる。コミュニケーション力が欠落していたのだ。言葉がなく、必要な情報が伝達されなければ、どれだけ悲惨かを象徴するある化石がある。河合信和氏の『ネアンデルタールと現代人』にそれが掲載されているので引用してみよう。

「1973年、トゥルカナ湖東岸で、奇妙な骨ER1808が発見された(略)。彼女の存在が170万年前の人類の植生と仲間との紐帯をうかがえる好資料となった(略)。人類学者アラン・ウォーカーは、病理学者たちを集めて、化石の病院を検討した。その結果、彼女は現代人にはほとんど症例のないビタミンA過剰症だったと診断された。これが直接の原因となって彼女は苦悶のなかに死んだのである(略)。ビタミンAは脂溶性であるために摂り過ぎると体外に排泄されにくく、様々な過剰性の疾患を引き起こす(略)。筋肉のついた骨膜が破れ、広範な内出血を引き起こす。激痛を伴いながらもやがて血の塊が石灰化し、すの入ったような骨が形成される(略)。アラン・ウォーカーは、貴重な太古のこの症例から、二つの結論を導いた。170年前のこの女性、ホモ・エルガステルの時代には、まだ肉食獣の肝臓が毒だという知識がヒト属の間に普及していなかったということ。そしてそれにもかかわらず激痛で動くこともできなかった彼女の世話をし、みとった仲間がいた、という事実である(略)。イヌイットなどの極北の狩猟民はクマ等の肉食獣の肝臓を決して食べない。毒だということを、親から語り継がれているからだ。肉食を始めて少なくとも80万年もたっているたのに、まだ、ER1808がそれを知らなかったことは、彼女たちにそうしたことを伝える言葉も知性もなかった可能性を示唆している(P169~171)。(2)

サルに戻るということ

 この文章が示唆することは170万年前という古くから、仲間を大切にするという絆の精神を人類が手にしていたことであり、同時に、その精神が言語というツールが未発達のために十分威力を発揮できなかったことである。そして、この言葉を手にしたとき、人類は進展できた。とはいえ、原人たちが手にした最初の言語は、おそらく、複雑な形容詞や接頭語を含むような抽象概念ではなかったであろう。肝臓を食べようとする子どもに対して

 「これ食べる。とても痛い。とても痛い。悪い」

 という程度のものであったであろう。だが、それで、十分であったのだ。

 2012年2月10日、東京都で原発投票署名が集まったことについて、石原慎太郎東京都知事が記者会見で次のように述べたことはよく知られている。

「とにかく、人間はね、技術を開発することで進歩してきたと。その原発をとにかく反対って言う人は、代案も出さずに言っているからセンチメントで言ってるから、これは結局人間の進歩というのを認めない。ま、人間がサルに戻る事です」

 このサル発言のベースとなっているのは、週刊新潮の2012年1月5、12日号に掲載された故吉本隆明氏の「反原発で猿になる!」という発言である。サルに戻るということは、「これ食べる。とても痛い。とても痛い。悪い」という、子孫繁栄のために、すなわち、子どもたちのために危険を伝えるというツールすらも私たち人類が捨てるということだ。これは大変なことである。

 となれば、原発廃止を決めたアーリア人種の末裔たるゲルマン、大ドイツもサルであって、原発廃止に向かう大ローマの末裔たるイタリア人たちもサルであるとなれば、旧三国同盟のうち、我が偉大なる大和民族のみが、人類の進歩に向けた大躍進を遂げられるということであろう。

神へ進化すること

 我が大和民族のみが、大躍進を遂げられるとすれば、未来の日本人はどうなるのであろうか。19世紀後半にはダーウィンの進化論を社会に適用し、優勝劣敗によって社会が「進化」し、優秀な人類だけが残るという思想が世界的に流行していたが、戦前の右翼の巨魁とされる北一輝は、これを独特に解釈し、人類が「神類」に進化することですべての社会問題が解決すると考えた。

 神への進化というのは魅力的な発想である。例えば、知能という点で見れば、サルよりも、ホモ・エルガステルが優れており、それよりも、ホモ・サピエンスが優れていることが明らかだ。そこで、この論理をさらに押し進めてみよう。

 通常、人間の知能指数は平均が90~110で、130以上が最優秀で、140を超せば天才とされる。とはいえ、たとえそうであっても200を超す天才は少なく、ライプニッツやゲーテがかろうじて超すだけだという。ところが、こうした天才たちをはるかに凌駕した人物がいる。フォン・ノイマンである。

 ノイマンは、子どもの頃に電話帳1冊を完全に記憶した。そして、6歳で8桁の割り算を暗算で計算でき、8歳では微積分をマスターしていた。ガイヤチャンネルの「週刊スモールトーク」というサイトに「天才の世界Ⅱ」という記事があるのだが、ここにノイマンの興味深いエピソードが載っている。

 ある日、プリンストン大学教授が3カ月も苦心惨憺した末に、ある数学の問題の解法を見出したという。狂喜した数学者はノイマンを訪ねて問題の説明をはじめた。だが、ノイマンはそれをさえぎった。そして、数分ほど考えた後に「君の言いたい結論は×××かい?」と言ったという。

 プリンストン大学教授が3カ月もかけてようやく導き出した解答を、ノイマンはたった数分で、おまけに紙も鉛筆すらも使わずに脳だけで解くことができた。まるでマンガのような話である。

 ノイマンをめぐるこの手の話題は引きを切らない。物理学者同士のバトルもある。達人と言われるまでに計算尺の扱いに精通していた天才物理学者エンリコ・フェルミは大型計算尺で。同じく、1965年に朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した超弩級天才、リチャード・P・ファインマンは卓上計算機で計算していた。一方、ノイマンはただ天井を向いて暗算していただけだった。もちろん、最も速く正確な値を出したのはノイマンであった。ノイマンの知能指数IQはおそらく300を超えていたのではあるまいか。

再びサルへ戻ること

 そして、北一輝のいう神類の世界とは、我が大和民族、誰しもがノイマンの如き300の知能指数を持つ世界ではあるまいか。カシオ計算機の売上は多少は落ちるかもしれないが、子どもたち誰もがノイマン級の頭脳を持つ世界というのは魅力的であろう。

 だが、そのノイマンにも弱点があった。死の直前には3+4という一桁の計算すらできなくなっていたのだ。当時開発されたばかりの最新鋭のコンピューターよりも早く正確な解答をたたき出すノイマンの頭脳。「悪魔の頭脳」「火星人」「1000分の1インチの精度で噛み合う歯車を持った完璧な機械」と評された人類が産んだ最高の頭脳。一日にわずか4時間しか眠らず、数学や物理学はおろか、気象学、経済学、コンピューターとあらゆる分野を模索し続け回転し続けたノイマンの図脳。その図脳を小学生の算数すらも出来ないほど、破壊したのは放射線だった。核兵器開発に従事した際に放射線を浴びたことが原因で、ノイマンの脳は腫瘍に侵されていたのである。

 なんという放射能の威力であろう。なんという放射能の華麗さであろう。サルは3+4の計算ができないに違いない。前出の発言の後半だけを抜粋すれば「ま、人間がサルに戻る事です」ということになる。

 そう。ここに原発のゾクゾクするほどの魅力がある。

【引用文献】
(1) リチャード・ランガム『火の賜物~ヒトは料理で進化した』(2010)NTT出版
(2) 河合信和『ネアンデルタールと現代人』(1999)文春新書
(3) 三井誠『人類進化の700万年』(2005)講談社現代新書


大没落の時代

2012年08月20日 23時03分13秒 | 崩壊論


没落三部作

 半農半Xで有名な塩見直紀さんは、小さな研究所を作ることを提唱されている。であるならば、ここはささやかな「没落研究所」、略称「ボツ研」ということになるであろう。さて、ボツ研主催者としては、没落の未来絵図の詳細を知りたくて仕方がない。というわけで、いま、マイケル・グリアの本を3冊ほど読んでいる。

 私なりに勝手に、グリア没落3部作と名づけている。共通するエピソードがある程度、重なったりして、3冊目にしてやっとグリアが言わんとすることがわかって来た気がする。

 グリアの本をスラスラと読みとおすことは難しい。もちろん、私の英語力が乏しいことが原因だが、それ以上に、本をサクサクと読み進められないのは、その論理展開の異様さにある。

 話が飛ぶが、はるか昔の若かりし頃、受験勉強のために英文解釈の勉強をしていたときに受験参考書に非常に印象に残るフレーズがあって今も覚えている。端的に言えば、英語という文章は、基本的に常識的な言語である。したがって、常識の範疇を逸脱した異様な翻訳結果が出てきたら、その訳のどこかが間違っているわけであって注意して読み直した方がいい。その方が正解に近づけるというアドバイスであった。

 だが、残念ながら、この受験テクニックは、グリアの本には通用しない。論理は緻密で整合性が取れているのだが、ずっと読んでいると、ある文章が否定形になっていたりして、「はうっ、逆の結論か。あんさん、そこまで、いいはるんか」と意表をつく結論に仰天させられることがしきりなのだ。つまり、現代文明の価値観に知らず知らずのうちに毒されていて「こういう結論であろう」と落とし所を想定して文章を読んでいる自分の脳が、想定外の論理展開に裏切られ、右往左往することになる。

 たとえば、没落3部作の第一弾は、2008年の『長き没落』なのだが、ジョセフ・ティンターの崩壊論に真っ向から反論し「ティンターの言うカタストロフィックな崩壊などありはしない。安心していい」と主張してみせる。とはいえ、それで、第一幕は終わりはしない。グリアは無限な経済成長や石油文明の豊かさが続くとは決して楽観視はしていない。石油を失いつつ、ゆるゆると没落していく世界。それが、グリアが描く未来絵図である。

8マンVSナウシカの世界

 意外に思えるかもしれないが、グリアの見解によれば、両極端に思える無限に成長する未来も世紀末のカタストロフィックな崩壊する未来も、ともに、キリスト教の「千年王国説」が深く根ざしている。

 例えば、このブログの事例になぞらえれば、弾よりも早く疾走する現役原発、8マンが存在する未来絵図、科学技術が無限に発展していくという神話がある。その一方で、老朽化した原発、巨神兵が断末魔の放射能を吹きまくるナウシカの世紀末的世界がある。

 グリアによれば、メシアの到来に先立って千年王国が実現すると考える「前千年王国説」が進歩思想。堕落した人間が破局によって一掃された後に、メシアの再臨とともに至福の世界が実現すると考える「後千年王国説」が、破滅期待思想に該当する。

 その者蒼き衣を纏いて金色の野に降りたつべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を清浄の地に導かん。

 ナウシカの世界は、後千年王国説そのものではないか。救世主世紀末伝説である。グリアの優れた分析からみれば、プロレタリアート革命によって真の社会が築かれるというマルクス主義も、過去の「後千年王国神話」の陳腐な焼き直しにすぎない。一方、ソーラーパネルやバイオマス発電で人々がエネルギーを自給する脱原発化したエコテクのユートピアも過去の「前千年王国説」の変装でしかない。

サルベージの世界

 グリアの世界観からすれば、荒地に雑草が生え、草原が森林へと移り変わっていくように、自然界の遷移の力は止められない。ピークオイルでの石油高騰によって、まずはこれ以上の成長が不可能となり、世界は没落していく。石油の枯渇とともに人類文明は、放射能と石油と鉄からなる文明から、太陽と木々と大地からなる文化へと没落していく。そして、トランジションのチャンスを逸した国家や地域は、タイムアウトで汚染と停電と食料飢餓とで大破局を迎えるであろう。

 とはいえ、グリアは前出の両極端のイデオロギーを排除し、現実味を帯びたサルベージを重視する。たとえ、石油やウランが枯渇したからといって、一挙に石器時代に戻るわけではない。自動車に備えられた発電機をサルベージすることで、小さなキャンピングカー用の冷蔵庫は風力発電で動かせるからだ。たとえ、鉱山が枯渇したからといって、一挙に鉄が使えなくなるわけではない。廃墟と化した都市には鉄筋コンクリートの山があるからだ。したがって、メカよりも人力を活かしたローテクや古代技術が再評価され、近代技術の恩恵をサルベージしながら、百年や数百年をかけて、エコロジー的な未来へと世界は没落していく。

 ローテクを身に付けた職人たちが都市の廃墟を訪れては、牛にひかせた荷車で鉄骨を村に持ち帰りながら、鍛冶屋がそれを鍬や鋤へと打ち直す。グリアが描く未来世界は、まことに、スペシャル・ピリオド直後のキューバに近い。

 では、グリア流の没落以降の世界において、最も必要となるスキルとは何になるのであろうか。生物としての人間がサバイバルするという観点から、グリアがまず最優先するのは、健全な水と食料である。したがって、有機農業が最重要技術ということになる。グリアが次に優先するのは、家や仕事であり、あってもなくてもどうでもいい科学知識やエネルギーの優先度は低くなる。
この世界観からすれば、未来の魅力的な職業は、パソコンを駆使しまくるプログラマーではなく、計算尺や対数表を使いこなせる事務員であり、大型機械を使いこなす産業型農民ではなく、小規模有機農民であろう。人間にとって最も必要とされる仕事―食料、少しのアルコール、衣服、医療―を提供する人以外は失業していく。逆に自然と調和した住宅、道具、文化といったものを提供する人はもっと評価されることになる。数百年スパンで壮大な未来絵図を描いてみせたのが、没落本第二弾、2009年の『エコテクな未来』だった。

農村社会は都市よりもレジリアンスが強い

 では、一人ひとりは、このような未来へとどう立ち向かうのか。グリアは、スペクトルの片方にメガロポリスを据え、大量のエネルギーに依存する都市は生き残れない、と切って捨てる。とはいえ、グリアが面白いのは、エコビレッジに象徴されるエコロジカル・コミュニティによる生存も難しいと切っていることだ。普通の人が容易に足を踏み入れられないような辺境の地に閉じこもり、防壁や武器弾薬、食料を溜め込んで、理想的な食料とエネルギーの自給区を作りあげることにより、メガロポリスが滅びるのをひたすら待つ。このシナリオは、一見魅力的ではある。だが、経済的に現実性がない。農村を抱えた地方都市を中心としたゆるやかな自給圏。それが、最もありうるシナリオだ、とグリアは主張してみせる。

 話が飛ぶが、韓国は異常な学歴社会である。そこで、日本の行き過ぎた半面教師として役立つ。例えば、2012年05月01日のロバート・ ブラジアック氏のリポート『農村回帰:効率に勝るレジリアンス』は、なかなか魅力的なタイトルだ。そして、この中に韓国が出てくる。

「韓国の最近の報告によると、2011年には 都市を離れ農村部へ移る世帯の数が158%増加したという。韓国の徐圭龍(ソ・ギュヨン)農林水産食品相の説明では、『より静かな生活を求めて』地方へ移住する人々の数が急速に増えている(略)。リポートによれば、『レジリアンス』という概念を軸に、2012年9月にIUCNの 自然保護会議が韓国で開催される予定だという。

「経済成長にとって効率性は欠かせない要素のひとつとされている。効率性は専門化を推し進めることによって得られる(略)。専門化が究極まで進んだ社会ではペットセラピストとして、あるいはソムリエとしての技術のみで生計を立てていくことは可能である(略)。個々の分野が高度に専門化され、他者に極端に依存しており、レジリアンスが欠如している。2010年ハイチの地震の際、60万人もの人々が首都ポルトープランスを脱け出した。これは食品流通が経たれ、 多くが住居を失ったからである。

 都市を離れ地方へ移動すれば、専門性が薄れる分、技術の幅が広がり、レジリアンスが強化されることになる(略)。都市は効率性の典型だが、農村部へ移動する人々の細々とした流れは普遍的な人間の意識の一面を映し出しているものなのかもしれない。長い目で見れば効率性よりレジリアンスが生存のための戦略なのだ」


 つまり、人々が農村回帰を始めている韓国は、レジリアンスを高めるために没落を始めていると言えるかもしれない。

最も重要な技術は有機農業

 そうはいっても、私たちはマネー経済の中に生きている。一挙にゼロから田舎暮らしを始められる人は、特殊な能力か才能か、よほどの強靭な精神と肉体力を持った人材であろう。では、経済はどうなるのか。そう思って、探していると『成長の終わり』という本を見つけた。リチャード・ハインバーグというジャーナリストが書いた経済本で、これがなかなか面白い。

 ピークオイルによって工業生産がいかに終焉していくのか。世界経済がいかにペーパーマネーで動いていて、それが破綻していくのか。細かい統計数値をあげて成長が終わっていることをハインバーグは分析していく。贈与経済等の話ものっけから出てきて、その後の展開と結論をワクワクさせるのだが、ハインバーグは、冒頭の例で言えば、やはり常識人である。「成長はこれでお終いでっせ。参考になるのは、マイケル・グリアという人が書いたエコテクな未来ですわ。読んでくなはれ。そうそう、トランジションタウンというムーブメントもおもろいですわ」で一挙に終わってしまう。300Pもあって、なんやこれだけかいな、と拍子抜けしてしまう。

 だが、グリアは違う。グリアの没落本の最後、2011年の最新作が『The Wealth of Nature: Economics As If Survival Mattered』である。「自然の冨」という題名がついているだけに、牧歌的なエコ的ライフを描いた本だとイメージするとその期待は見事に裏切られる。題名そのものが、アダム・スミスの『国富論(The Wealth of Nations)』に対抗している。没落の原理と没落の未来を描いたグリアが次に取り込んだのが、経済問題だったのである。

 グリアにとっては、成長が終わりということは大前提だ。となれば、のっけから破局シナリオが進む。まず、先進国の医療制度が没落し、ハーブやオルターナティブ医療を備えていなければ死者が続出するであろう。先進国は第三世界の国になっていくのだと主張する。グリアが描く未来世界は、まことに、スペシャル・ピリオド以降のキューバに近い。

 そして、バック・トゥーザ・フューチャーというセクションを設け、マネー漬であったローマ世界が、中世に戻っていったように、未来は古代へとトランジションすると言ってのける。その脱マネー化の世界に向けた最大の武器としてグリアが重視するのが、有機農業による自給菜園、都市の自給化である。そして、この過激な経済論を展開するにあたって登場するのが、有機農業協会の代表を長らく勤めたフリッツ・シュマッハーである。

 で、ふと見ると、グリア没落本の推薦コピーを、リチャード・ハインバーグが書いていた。

「グリアは経済学の基本想定をエコロジーを基本に抜本的に見直している。その結果は、経済学において、おそらく、最も重要で読むべき本となっている。スモール・イズ・ビューティフル以来・・・」

 さすが、グリアである。ということで、グリアの没落経済論を紹介してみたい(続)


深海の使者

2012年08月17日 01時45分41秒 | 崩壊論


 故吉村昭氏の第二次世界大戦中の潜水艦を通じた日独の情報技術交流を描いた『深海の使者』文春文庫(1976)は名著である。当時の潜水艦はディーゼル燃料で動いていた。だが、海中では酸素が得られない。敵と遭遇し、海中深く潜航するときには、ため込んでいた電池の動力で生きるしかない。上からいつ爆弾がふってくるかわからないわ、酸素が減って息はできなくなるわ、閉所恐怖症の人には文字を追うだけで、文字通り息が詰まるような苦闘シーンが登場する。

 このディーゼル型―石油エネルギー―潜水艦が持つ欠点を抜本から解消したのが、1954年に登場した原発潜水艦「ノーチラス」である。原発エンジンならば稼働中に酸素はいらない。したがって、通常の石油型潜水艦のような航続距離の制約や頻繁な燃料補給の手間もなく、艦内の人員に必要な酸素も豊富な電力で海水から電気分解によって作り出せるため、数カ月間も浮上しなくても可能なのだ。ここに原発の威力がある。

 ちなみにグレゴリー・ペックが主演した映画『渚にて』(1959年)は、第三次世界大戦が勃発し、核による放射能汚染で北半球が全滅し、生き残った米海軍潜水艦スコーピオン号が、モールス信号を受信し、「さては生存者が!」と期待に胸を膨らませたところ、実は無人となった地球でコーラの瓶が風にあおられてモールス信号を叩いていたというシーンが登場する。ちなみに、ペックたちが生きのびれたのもスコーピオン号が原潜だったからだ。放射能におおわれて息すらが出来なくなった地球の中を原発だからこそ生き延びられた。なんという快適な世界であろう。ここに原発の魅力がある。

 そして、私どもがいま生きている世界も映画とさして変わらない。福島沖の地震でいつ4号機が倒れるかわからないわ、活断層が動くことで稼働中の大飯原発がはじけるかわからないわ、放射能恐怖症の人には新聞やテレビでは決して報じてくれないであろう、そして、真実かもしれない、ネットの文字を追うだけで、文字通り息が詰まるような日常生活の中を生きなければならない。ここに原発の魅力がある。

 さて、前段はさておき、今日の話題、深海の魅力へと移ろう。

 深海には人類が手を付けていない途方もない資源が眠っている。マンガンやメタンハイドレードといきたいところだが、今回は温度だ。そう。さんさんと光輝くソーラー・レイによって熱せられた海面の海水とひんやりとした海底の海水との温度差だ。

人類初の海洋温度差発電キューバで成功

 海洋温度差発電(OTEC=Ocean Thermal Energy Conversion)とは、海洋表層の温水と深海の冷水の温度差を利用して発電を行う仕組みである。そして、人類が初めてこの海底に眠る膨大な資源の開発に成功したのが、キューバなのだ。ソ連崩壊で輸入石油が激減。原発建設も頓挫し、スペシャル・ピリオドと言われるエネルギー危機に突入したあのキューバだ。そして、キューバは熱い熱帯の海に四方を囲まれた海洋エネルギー大国でもある。キューバならいかにもやりそうなことだ。さもありなん、と思われるではないか。事実、この快挙は、日本の新聞記事にも掲載されており、ネット上ですぐに読むことができる。
 
 さっそく、引用してみよう。

海水発電に成功、五百燭光の電球四十個に点火、キューバ島で研究

 久しくキューバ島のメタンザスにあって研究を続けていたジョルジュ・クロード教授は最近遂に海水中より電力を得る事に成功し過般フランス科学学士院に於て発表した、右は全長二哩に及ぶ大鋼管を縦に海中に沈め海水の表面と深海部の温度の差を利用して発電せしめんとするものであるが鋼管の沈下が第一の難工程であって昨年九月に至って遂に成功翌月五百燭光の電球四十個に点火する事が出来た、クロード教授の方法は海面の比較的に温度高き海水を真空にしたボイラー内にひき入れる、然る時は同ボイラーが真空の為めに容易に気化しこうして出来た蒸気をタービンに誘導して之をして発電機を運転せしめ電力を発生せしめんとするものである、蒸気がタービンを通過すればその蒸気は液化房に入り深海部からポンプで汲み上げた冷い水で之を冷却再び液化せしめるのである、同時に液化房には蒸気の液化によって真空が生じその真空が空気ポンプとなってタービンを通じてボイラー内の気圧を低下せしめて海面部の温水を導入之を気化せしめるという操作をズット繰返す様になっているのである。素よりこの方法も氏独自の創案でなく工学界に大家として知られたる故オーギュスト・ラトー教授が考案されたものであるが尚お完成までに至っていなかったのである(1)

はへ

 いささか文体がおかしいではないか。それに、メタンザスじゃなくて、マタンサスだってば。自然エネルギーといってもメタンガスをあつかっているわけじゃあるまいし。

 だが、それもそのはず。日本の新聞といっても、國民新聞(注:徳富蘇峰が明治23年に創刊した日刊新聞である。現在の東京新聞の前身の一つ)の1932年6月29日(昭和7年)版なのだ。出典元は神戸大学図書館。こんな情報が掲載されているのも、日本に唯一、海事科学部を持っている大学だからではあるまいか。

 すなわち、海洋温度差発電は最新技術のように思われがちだが、新しいものではなく、1881年にフランスの物理学者ジャック=アルセーヌ・ダルソンバール(Jacques-Arsène d'Arsonval)が提案し、この教え子、ジョルジュ・クロード(Georges Claude、1870~1960年)が、1930年にキューバにおいて、低圧タービンを使った最初のOTECプラントを建設し22kWの電力を作り出していたのである。いまから80年も昔のことだ。

 日本の新聞は、母国語とはいえ、その変化が著しく、すんなりと脳にイメージを浮かべることが難しい。だが、この世界初の海洋温度差発電プロジェクトを扱った「Popular Mechanics誌」(1930年12月号)の巻頭記事「Power from the Sea」が読める。

 こちらの方が、人類初の海洋温度差発電が、実に600mの深海と地上とをパイプでつなぎ、現在の真空式温水ヒーターと組み合わせて発電したことがよくわかる。では、さっそく読んでみよう。

 クロード氏は手を湾の海流に少し浸す。水は温かい。海面では100℃だが、山の上では80℃で沸騰する。その結果は蒸気の力だ。このシンプルなステップから、クロード教授は、5年の努力の後、熱帯の水でエネルギーを利用することに成功した。それは500wの電球40に明りを灯すほど十分なのだ。

 マタンサス湾の端にあるラボラトリーから、10月1日に彼は、タービンが20馬力以上を産み出したと報告する。翌日、ポピュラー・メカニックス・マガジンへの外電で表現された彼の熱狂ぶりが見出される。

 『昨日、私どもは初めて、海底の限りなき熱エネルギーを発電が求めることを目にいたしました。私どもの期待が正当だとされました。逆境下で、つつましい20Kwがいま生み出されていますが、それは、すでに期待されるパワフルな導入へのプレリュードなのです。そして、人類の産業がいつの日にか、それを動かす機械エネルギーの不足のために滅びないことを保証しているのです』

 海に潜れば温度差があることは共通知識である。マタンサス湾では、クロードは海面水が26~30℃であることに気づいた。だが、600mかそれ以下では温度は一定で4.4℃だった。蒸気エンジンでは、燃やす燃料が水を蒸気へと変える。だが、クロードは、別の原則を利用した。すなわち、暖水を真空で蒸気にするのだ。もし、大気圧が十分に落ちれば、水は室温でも沸騰する。蒸気を生み出すやり方を見出せば、彼はタービンを動かせる。だが、コンスタントな真空を得るには、蒸気を濃縮し、そのボリュームを減らすやり方を見つけなければならない。やかんの蒸気に冷たいガラスをかぶせればどうなるか誰もわかっている。それが、クロードの手がかりだった。

 もし、冷水と蒸気とを混ぜれば、濃縮が続く。それが彼がプロセスに冷水を持ち込んだ理由だ。これが働くやり方だ。表面水と600m以下の水が海岸の発電所に持ち込まれる。ポンプが表面水を低圧ボイラーに入れ、そこでは26℃で沸騰する。蒸気が産み出されてタービンを回す。その余りは、チャンバーに行き、そこで600mからの水がそれを濃縮し、真空を永続させていく。この真空が水が26℃で沸騰することを可能にし、そのプロセスが続いていく。
 クロードは、マタンサスの発電所は、いま捨てられているエネルギーでやれることの単なる始まりにすぎない、と言う」(以下略)(2)

高すぎた深海の使者

 だが、上述の記事で「難工事」「クロード教授は5年の努力の後」という言葉が見られるようにたった20KWの電力を得るための努力は尋常なものではなかったのである。

 例えば、クロードは、机上での研究を信じない活動家で、キューバで実施することを決めた後も、適切なサイトを見つけるため、自ら所有するヨット「ジャマイカ号」を用いて1927年に実施調査を行っている。そして、この調査から、キューバ周囲の一般的な地形の特徴が明らかになった。陸から約20~30mの深さまでは緩斜面だが、そこからは100~200mの切り立った崖が海中へと没していたのだ。これでは、簡単にパイプを設置できない。しかも、パイプが流されないためには、なるべく沿岸流が弱い場所も選択しなければならない。そこで、クロードはハバナ100km東部、マタンサスから10kmの沿岸に発電所を設置することに決めた。そこでは、着実に海流が半ノット以下だったからである。

 発電所、そして、深海から冷水を送るパイプ、そして、海岸から発電所までパイプの陸上部分を埋設して保護するための50m長のトレンチの建設は早くも1929年に始まった。マタンサス税関に厚さ2mm、2mのパイプ用の鋼鉄板がフランスから届く。これを22m長に現地で溶接した。

 パイプの長さは2000mもある。そこで、パイプの部品を現場から2Km離れた波止場に格納した。海に浮かべ、そこで、つなげる予定だったのである。この工事の最終段階は、穏やかな天候の数日間で予定していた。だが、キューバはハリケーンが常襲する。当時は気象予報も十分ではない。想定外の海の荒れ模様で、数百mのパイプは破損した。
そこで、クロードは、パイプの組み立て場をマタンサス湾へと流れ込むリオ・カミナル(Rio Canimar)に変更することを余儀なくされた。工事は、河口を妨げていた幅250mの砂州を浚渫することから始まった。次に、22m長のパイプをひとつずつ輸送し、牽引していったのである。

 1929年8月末、ようやくパイプの組み立て工事が完成し、河口から7km離れた湾の発電所建設地まで牽引する準備ができていた。

 そして、パイプをタグボートが引っ張っていく。だが、ここでまた事故が起きた。パイプの一部が、河口の砂州の非浚渫な場所の浅瀬に乗り上げ、後部がアコーディオンのように折り重なってしまったのだった。パイプは、満潮時を選び、引き揚げられたが、ひどく破損していた。クロードが得ていた予算は底をついた。

 だが、クロードはそれでくじけるような人物ではなかった。三番目のパイプの建設と導入を自費で支出することを決意する。キューバ側の技師「セニョール・バスケス」の示唆の下、クロードは新たな手順を取り入れる。それは、小さなワゴンでパイプの部分を組み立て、巻き上げ機で海にそれを引いていくことだった。ちなみに、これは現在ガス・パイプラインで用いられているのと同じノウハウである。

 全長2000m、400トンもある3番目のパイプ製造は1930年3月に始まった。リスクを最小にするため、部品は、陸上で掘削した穴から18mの深さまでの150mセクション(A)、崖が始まり海が深くなる1750mのセクション(C)、そして、両者を浅水でつなぐセクション(B)と三つにわけられた。ちなみに、クロードが冷水パイプ設置用に掘削したセクション(A)の部分は、「クロードのプール」として知られ、いま、地元のマタンサス湾の小学生たちのお気に入りの水泳スポットとなっている。

 セクション(A)は1930年6月8日に設置され、陸上部分が波力でダメージを受けることを避けるため、トレンチはコンクリートで満たされた。一方、これから17日後、海では12隻のタグボートがパイプを牽引し、うまくケーブルと接続した。そして、最終的な操縦は、海に向けて設置している浮遊物の空気を抜くことで、陸からゆっくりとパイプを沈下させることだった。だが、ここでまた事故が起こる。当時、クロードには、携帯無線ラジオもなく、コミュニケーションはガホンでしなければならず、オペレーションでミスが生じても、修正指示が難しかったのだ。

 クロードは、また財産を失った。

 だが、クロードはまだあきらめなかった。再びパイプが製造され、1930年9月7日に海に引かれ、セクション(B)でつなげられるべき正しい場所に沈められた。

 こうして、やっと冷水が沿岸に毎時の4?の速度でポンプで送られはじめた。タービンはゆっくりとパワーをあげ最大22kWまで増えて走行した。この実験の成功でクロードは自らの信念を強め「サンチアゴ・デ・クーバ付近」でさらに25 MWのプラント建設を提唱した。だが、この25MWの発電所は実現しなかった。クロードは建設に必要な資金を集められなかったのである(3)

 その理由は経済学だった。ジョン・マイクル・グリアは言う。

「19世紀と20世紀前半のソーラーの先駆者たちが直面した基本的な限界の多くは、技術的な改良の条件ではない。というのは、それらが、拡散されたエネルギーと濃縮されたエネルギーとの違いから展開しているからだ(略)。同じことが、海洋温度差発電においても言える。その時代が来るといつも言われながら、決してやってこないまた別のこうしたアイデアである(略)。たしかに、このパワーではヒートエンジンを動かせる。とはいえ、冷たい水を深いところからもたらすポンプを稼働するために発電所が産み出せるパワーの約3分の2がとられてしまう。これは、発電コストを計算に入れる前でさえ、この発電所が0.33程度の純エネルギーしか持たないことを意味している。実際面でそれが意味することは、政府の補助金で発電所に資金提供するか、あるいは、無一文になるかということなのだ」(4)

 海洋温度差発電は理論上は魅力的である。だが、パイプの建設、パイプの設置、波浪等による破損、それに伴う経費はいかばかりのものか。その結果として、原潜ノーチラス号や歩く原発、鉄腕アトムの如き10万馬力の出力が得られるのならばまだいい。膨大な努力をしたあげく、クロードが手にしたものは、「五百燭光の電球四十個に点火」、すなわち、500wの電球をたった40灯すだけの電力でしかなかったのである。深海の使者はあまりにも高すぎたのである。

【引用文献】
(1) 人類初の海洋温度差発電キューバで成功
(2) Power from the sea, Popular Mechanics Magazine,vol.54 No.6,December,1930.
(3) Martin G. Brown, Michel GAUTHIER, Jean-Marc Meurville, George Claude's Cuban OTEC Experiment: a Lesson of Tenacity for Entrepreneurs.
(4) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers, May 31, 2011.

発電機の写真は文献(2)から
パイプの写真は文献(3)から


ソーラ・レイの幻想

2012年08月15日 21時08分59秒 | 崩壊論


ソーラーの輝き

今日は終戦記念日である。だが、孫崎享氏の『戦後史の正体』を読めば、8月15日にさして意味などないことがわかる。9月2日の米戦艦ミズーリ艦上での降伏文書への調印式こそが日本の敗戦記念日である。
 
 この最初の降伏文書の布告は
 
 日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする
 通貨を米軍の軍票とする
 
 となっていたという。重光葵の死をかけた折衝によって、これは撤回されたが、蛇の生殺しのような戦後60年よりも、米ドルを使い、米語が公用語になっていた方が敗戦=米国の統治国という戦後日本のリアリティがより伝わっていたかもしれない。

 さて、威容を誇った我が旧大日本帝国海軍に残された戦艦は「長門」一隻であった。戦後有名になった「大和」も「武蔵」も戦中には存在そのものが極秘だったこともあり、戦前と戦中に我が日本海軍を代表する戦艦として帝国国民から親しまれていたのは、長門・陸奥であった。だが、長門も戦後、米軍に押収され、ソ連に対する核の威力のデモンストレーションとして、ビキニ環礁での原爆実験の犠牲となり1946年7月に沈む。40サンチの巨砲を備えた鋼の固まりも核の威力の前には不沈ではなかった。

 さて、戦艦が強大な兵器によって藻屑と化すシーンは、アニメにも繰り返し登場する。最も印象的なそのひとつは、「銀河英雄伝説」に登場するイゼルローン要塞の主砲「トール・ハンマー(Thor's Hammer)」であろう。その出力は9億2400万MWとされており、一撃で数千隻の艦船を消滅させることが可能とされている。事実、何度もそれを行なっている。

 再稼動した大飯原発3号機と4号機の出力はそれぞれ118万kW、すなわち、1180MWであるから、トール・ハンマーの一回の照射分の80万分の1でしかないことがわかる。アニメ上の想定ながら、これほどの出力をもてるのは、イゼルローン要塞が核融合で動いているからである。

 では、核に頼らない兵器はあるのか。となれば、ガンダムにおけるギレン総裁の名演説が、まず思い起こされる。

「我が忠勇なるジオン軍兵士達よ、今や地球連邦軍艦隊の半数がわがソーラ・レイによって宇宙に消えた。この輝きこそ、我等ジオンの正義の証しである。決定的打撃を受けた地球連邦軍に如何ほどの戦力が残っていようとも、それは既に形骸である。敢えて言おう、カスであると」

 ソーラ・レイとは、サイド3にある密閉型コロニーをまるごと巨大なビーム砲に改造したもので、ア・バオア・クーに三方向から進行する地球連邦の宇宙艦隊のうちの一艦隊を完全消滅させた(注)。ソーラーの輝きはまさに圧倒的である。

(注)太陽光線を受けてエネルギー変換していたが、厳密には太陽光線そのものを発射したわけではない。太陽光線そのものを使ったのは、連邦がソロモン戦において使用した「ソーラーシステム」である。

エナジーの狩人たち

 いまでこそ、私たちは、原発という核のエネルギーも石油というエネルギーも手にしている。だが、今から150年前の工業国の主力エネルギーは石炭であった。そして、石炭が枯渇すれば、文明社会が崩壊するのではないか、と本気で懸念している人たちがいた。化石燃料がなくなれば、太陽しかない。そう考えた彼らは、まさにソーラ・レイの壮大な実験に着手したのである。
 その一人が、オーギュスタン・ムーショ(Augustin Mouchot, 1825年4月2日~1912年10月4日)だった。

 ムーショはスミュール・アン・ノーソア(Semur-en-Auxois)に生まれた。彼はまずMorvan(1845~1849年)、後にジジョン(Dijon)の小学校の教師をしていた。続いて、Alençon(1853~1862年)、 Rennes and Lycée de Tours (1864~1871)年には中学で数学を教えていた。その間、1852年に数学、1853年に物理学の学士を得ている(5)

 ムーショが、ソーラーエネルギーの実用化への研究に着手したのは、まさにこの期間中であった(3,5)。ムーショの仕事のベースとなったのは、1767年に初めてソーラーオーブンに成功したホラティウス-ベネディクト・デ・ソシュール(Horace-Bénédict de Saussure)と1838年にPyrheliometerを発明したクロード・プイエ(Claude Pouillet)の仕事である(3)。1860年にムーショは、ソーラークッキングの調査を始め(1,5)、エネルギー転換実験に着手する(3)。それは、水を満たした大釜をガラスで囲い、水が沸騰するまで日差しにさらすというものだった(1,5)。だが、この簡単な装置ではお湯は沸いたものの、ごく少量の蒸気しか発生しなかった(1)

 そこで、ムーショは、鉄の大釜に光を集める反射鏡を加えた。こうして小さくても、小さな蒸気機関を動かすことに成功した。ムーショは、1861年に太陽で発電をする最初のマシンで特許をとった(1,4)。1866年8月、ムーショは、このソーラー熱収集器をパリで展示する。ムーショの装置に感銘を受けたナポレオン3世は財政援助を行なった。ムーショは装置をさらに改良し、実験の規模を広げることにそれを使った(1,5)。1869年、ムーショは、ソーラーエネルギーに関する最初の書物、『太陽熱とその産業への適用(Le Chaleur Solaire et les Applications Industrielles)』を執筆・出版する。それは、ムーショが構築した最大のソーラー蒸気機関の除幕式とあわせてなされた(1,5)。このエンジンは、1871年のプロイセン・フランス戦争中にパリが陥落するまで展示されていた(1)


ソーラー集光器(1869年)

 1872年9月、ムーショは、実験用太陽発電機をツアーライブラリ(Tours library)に設置するため、アンドルエロアール総協議会(General Council of Indre-et-Loire)から補助金を受ける。1875年10月4日には、科学アカデミーに発電に関する論文をプレゼンし、同年12月には、この装置は最適の日光下では分あたり140リットルの蒸気量を供給すると発表した。1876年末、ムーショは1878年に開催される万国博用のエンジンを開発するため、教職から引退する許可を省に求めた。そして1877年1月には、資材の購入とさんさんと日光がふりそそぐフランスのアルジェリアでソーラー・エンジンの試験を実施する補助金を得た。
科学ミッションの指導官(The director of science missions)は、アルジェリアの知事にムーショを推薦し、「科学と大学の栄光」のためフランスに対する彼のミッションの重要性を強調した(1)。ムーショは、アルジェリアの好条件下で野心満々の装置で働いた(3)


万国博覧会でのソーラー集光器(1878年)

 1878年にパリに戻ったムーショが万博で展示したエンジンは、4m以上もある鏡と79.5リットルのボイラーからなる巨大なものだった。ボイラーは7気圧を発生させ、製氷機を動かした(1)。ソーラーパワーから氷が製造される。これが審査官を感動させ、ムーショは、ゴールド・メダルを受賞したのだった。だが、この栄光の直後にムーショへの補助金は打ち切られてしまう(1,3)

 ムーショのアシスタントであったアベール・ピーフル(Abel Pifre)は、それにもめげず、まだその仕事を続けていた。1882年にチュイルリー庭園(Jardin des Tuileries)では、ソーラー動力付きの印刷機のデモンストレーションが行なわれた。当日は曇天であったが(3)、マシンはソーラー新聞(Le Journal du Soleil)と命名されたデモンストレーション用の新聞を毎時500部で印刷する印刷機を動かすことができた(1,3)


アベール・ピーフルのソーラー動力印刷機(1882年)

 だが、ムーショそのものは、教職に戻った。そして、1912年にパリで死んだ(5)

 ムーショがソーラーエネルギーに関心をもったのは、エネルギー枯渇への危機感だった。祖国フランスは、限りある石炭埋蔵量でハンディを負っている。19世紀後半の工業世界で競争するには、それ以外のエネルギー源が必要である。そのあせりがムーショを太陽エネルギーに注目させた(2)。事実、ムーショはこんなことを述べている。

「結局、産業は、もはやその巨大な拡大を満たすためにヨーロッパでは資源を見つけられないだろう...。石炭は確実に使い果たされるであろう。そのとき、産業は何を行うのだろうか?」(5)

 では、ムーショの先駆的な取組みへの補助金はなぜ打ち切られてしまったのだろうか。その理由のひとつが二国間貿易自由化政策のあおりだった。1860年、英仏二国間において締結されたコブデン=シュバリエ条約(Cobden-Chevalier Treaty)によって、英国は保護関税をほぼ全廃し、これによって、石炭価格の下落が起こる。このため、フランス内での石炭価格が廉価になったことで、オルタナティブ・エネルギーの研究がすぐには必要なくなったのである(1,3)。フランス政府は、ソーラーエネルギーは不経済であるとの評価を下し、ムーショの研究をもはや重要でないものとし、その補助金を打ち切ったのだった(1)

 だが、それ以外にも問題があった。ムーショのエンジン、彼の1874年に行った展示品は、ボイラーに日光を集中させるため、5㎡の反射器を用いていた。それによって産み出されたのはなんと0.5馬力であった(2)

 はへ。

 ちょ、ちょっと、まっていただきたい。数字の記述ミスではあるまいか。では、灼熱の大地、エジプトのギラギラと光り輝く太陽の下に1200㎡をば、畳830枚、文字通り千畳敷も鏡を敷き詰めた後のフランク・ショーマンのプロジェクトの出力はどうであろう。

 なんと55馬力であった。

 はうっ。

 原発を原動力に機動する人造ロボット、鉄腕アトムの想定上の出力は10万馬力であり、後には100万馬力に改造されている。なんという出力の違いであろう。8マンが弾よりも早く走ることができたのも、内蔵の小型原子炉を動力源としていたからである。ベルトのバックルには原子炉を冷却するタバコ型の強化剤が仕込んであり、時には、貯水槽に穴を開けて水をかぶるなどの方法で原子炉を冷却していたが、10万Kwの電撃を放つことができた。ここにこそ、原発の威力がある。

拡散したエナジーで生きる

 だが、ムーショのプロジェクトがすべて失敗したわけではない。例えば、ムーショの折りたたみ式のソーラー熱オーブンは、30分もかからず、生からポットローストを料理できた。また、フランスのブランデー産業用に設計されたソーラー蒸留器も同じく成功し、一時間に20リットルの割合でワインをブランデーに転換していた(2)

 ここで重要なことは、拡散されたエネルギー源ソーラーは、熱源としては非常に効率的で、お湯を作ったりすることには威力を発揮するものの、蒸気機関による機械的運動にはよく転換されないということだ。ソーラーパネル自動車は可能かもしれないが、ソーラー飛行機は難しい。

 ジョン・マイクル・グリアは、ここから、ソーラー・エネルギーによって、文明社会が維持できるということは幻想にすぎないとして、ウランと石油が枯渇した以降の没落世界のエネルギーについて論じていく(続)。

【引用文献】
(1) Mouchout, Auguste, The energy library, Jul 30, 2009.
(2) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers, May 31, 2011.
(3) The 19th Century Solar Engines of Augustin Mouchot, Abel Pifre, and John Ericsson, February 29, 2012.
(4) The history of solar power, ThinkQuest Project
(5) ウィキペディア

 ムーショの写真は文献(1)から
 ソーラー集光器の絵は文献(3)から