『死刑台のエレベーター』 Ascenseur Pour L'échafaud (仏)
1957年制作、1958年公開 配給:映配 モノクロ
監督 ルイ・マル
脚本 ルイ・マル、ロジェ・ニミエ
撮影 アンリ・ドカエ
原作 ノエル・カレフ
音楽 マイルス・デイヴィス
主演 ジュリアン・タベルニエ … モーリス・ロネ
フロランス・カララ … ジャンヌ・モロー
シェリエ警部 … リノ・ヴァンチュラ
ベロニック … ヨリ・ベルタン
ルイ … ジョルジュ・プージュリー
カララ社長 … ジャン・ヴァール
主題歌 『死刑台のエレベーター』 ( Ascenseur pour L'échafaud ) 演奏・マイルス・デイヴィス
社長夫人のフロランスと不倫関係にある技師ジュリアンは社長を自殺に見せかけた完全犯罪を計画、そして実行に移る。
夕刻にジュリアンはビルの上層階からロープをかけ社長室に侵入し、社長を射殺し拳銃を握らせて自殺したかように細工を
施してビルを出た。計画は成功と思われたが、ジュリアンは手すりにかけたロープの処分をしていなかったのに気づき慌てて
現場に引き返してこれを処分し、安心してエレベーターに乗って帰ろうとした。この時、ビルの管理人が会社の終業時刻が
過ぎていたためエレベーターの電源を切り、ジュリアンは突然エレベーターの中に閉じ込められてしまった。その上ジュリアンが
舗道に駐車していた車が若いカップルに乗り回され、挙句にモーテルで殺人事件を引き起こした。朝になりエレベーターが
やっと動き出してようやく外へ出たジュリアンだったが、モーテルでの殺人事件の嫌疑で当日のアリバイを追求される。
モーテルの事件のアリバイを立証すれば当然社長殺しを疑われてしまう。フロランスは奔走してモーテル事件の犯人が若い
カップルだと警察に証明したが、二人がモーテルの写真現像所に預けていたジュリアンのカメラのフィルムの中からから
社長共謀殺人の動かぬ証拠が浮かびあがってくる。
ノエル・カレフの推理小説を弱冠25歳のルイ・マルが従前の映画作法を覆す表現手法によって映画化、この作品によって
いよいよヌーヴェルヴァーグ(広義)作品が花開き、映画界に大きな衝撃を与えました。
それまでのフランスではマルセル・カルネたちによる心理主義的リアリズム、詩的リアリズムが頂点を極めていましたが、
これに対抗する若い力がアンチ・モンタージュと作家主義を旗印にして従前の映画作法を否定します。サイレントから培われた
イメージのモンタージュを排除して現実のイメージを主体とした自分の作法でカメラを万年筆として映画を書き始めるという
映画作家の登場です。その実践となったのが前年公開のロジェ・ヴァディムの『素直な悪女』であり、ロベール・ブレッソンの
『抵抗』であり、そしてこの『死刑台のエレベーター』でした。これによって、ヌーヴェルヴァーグは世界の映画作家たちに多大な
影響を及ぼすことになり、トリュフォやゴタールなどの若い世代に大いなる勇気を与えたに違いありません。
ルイ・マル自身は左岸派に属していない独立作家なのですが、その手法はモンタージュ理論を排して細かいカット割りをせず、
セットを組まずにロケによる自由奔放なカメラ回し(いわゆるカメラ万年筆.手法)による新鮮な映像を書き上げます。これによって
従来の手法による定石を完全に打破、ヌーヴェル・ヴァーグの本家を差し置いた実践者として脚光を浴びます。
象徴的な映像は、約束した待ち合わせ場所にジュリアンが現れず彼の姿を探して夜のシャンゼリゼ通りをさまようシーンで、
屋外にもかかわらず高感度フィルムによって撮影、フロランスにライトを当てずにウインドウの光を利用した冷たい陰影となり
焦燥するフロランスの心情がこれまでにない映像美で浮き彫りになりました。若いカップルが盗んだ車で疾走するシーンなども
この後に現れるヌーヴェルヴァーグの若手にカメラ万年筆のお手本ともいえる映像を実践しています。
そして、何よりもこの映画を成功させたのは映像と共に流れるマイルス・デイヴィスによるジャズでした。
都会の倦怠感と焦燥感を奏でるデイヴィスの渇いた音色のトランペットは画期的な印象を与え、ヌーヴェルヴァーグの先駆け
と共にシネ・ジャズのハシリとなりました。
(註・モダンジャズを本格的に取り入れた映画は、日本での公開順からいえば『死刑台のエレベーター』が最初なのですが、
制作順ではロジェ・ヴァディム監督の『大運河』が記念すべき最初の作品です。)
この映画の主題歌『死刑台のエレベーター』は、マイルス・デイヴィスの自作自演によるものです。この作品を製作中であった
ルイ・マルは、ちょうどパリを訪れていたマイルス・デイヴィスにラッシュプリントを見せて彼に音楽を任せることにしました。
デイヴィスはフランスの演奏家との即興演奏でこの映画のためにメインテーマなど十曲を提供しています。
以降、フランス映画においてモダンジャズを取り入れるのが流行となりました。いわゆるシネ・ジャズの誕生です。
『死刑台のエレベーター』マイルス・デイヴィスによるサウンドトラック 【YOUTUBE】より
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ここで、少しだけヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)について触れておくことにいたします。
ヌーヴェル・ヴァーグの定義づけは何をもって、また何時をもってなのかによって見解が異なるようです。
そもそも、ヌーヴェル・ヴァーグという言葉は、1957年に女流記者フランソワズ・ジルーがフランスの週刊誌『レクスプレス』誌に
「映画の新しい世代」という意味で使ったのが【ヌーヴェル・ヴァーグ】というキャッチ・コピーでした。
従いまして一部ではこの時期から後の作品という定義もあるようですが、この言葉が用いられる以前からヌーヴェルヴァーグ的
動向は既に始まっておりました。
1948年にアレクサンドル・アストリュックが『ル・エクラン・フランセ 』誌に『カメラ万年筆、新しき前衛の誕生』という論文を発表、
これが多くのシネフィル(映画通)に衝撃を与え、同誌に寄稿していたアンドレ・バザンの共感を呼ぶことになります。
そして『カメラ万年筆』の理論は、これまで培われたイメージのモンタージュを排除して現実のイメージを主体とした自分の作法で
カメラを万年筆として映画を書くという手法となり、ストーリーにこだわらず映像の主体性を重視することになります。その結果、
映画芸術とは監督による映像的演出によって成立するのだという「作家主義」が確立していきました。
やがてバザンとその同胞が1951年4月に『カイエ・デュ・シネマ』誌を創刊、これが新人の映画人たちの母体となりました。
いわゆるヌーヴェル・ヴァーグの主流となるカイエ派の元祖です。
一方で、カイエ派よりも一足早くヌーヴェル・ヴァーグ的活動をしていたのがセーヌ左岸のモンパルナス界隈に集ってシネマ・
ヴェリテ (映画真実) を合言葉にしてアラン・レネを中心にドキュメンタリー要素の強い作品を撮っていた一派で、カイエ派が
セーヌ川の右岸に位置していたことからこれに対比して「左岸派」と呼ばれることになります。
また、どちらの会派にも属さずにヌーヴェル・ヴァーグ的作品を撮ったのがロジェ・ヴァディムでありルイ・マルでした。
では、ヌーヴェル・ヴァーグの第一号作品は何かと問われますと、日本で初お目見えとなったのは『死刑台のエレベーター』であり
『素直な悪女』(日本公開順)ということになるでしょう。
ただし、日本公開に限定せず短編・中編などを含めますと、カイエ派の作品としては1953年にカメラ万年筆論を実践した
アレクサンドル・アストリュックの中編『恋ざんげ』が先駆的作品だという見方もありますが、実質的なカイエ派の作品としては
1956年のジャック・リヴェット監督による『王手飛車取り』であり、また左岸派としてはアラン・レネの1950年前後の短編作品の
『ヴァン・ゴッホ』『ゲルニカ』といった一連のドキュメンタリー作品ということになりましょう。
ヌーヴェル・ヴァーグの第一号作品はその定義づけの相違もありますのでその解釈次第ということになるでしょう。
いずれにしましても、実質的に『死刑台のエレベーター』『素直な悪女』で堰を切ったヌーヴェル・ヴァーグは一気に大波となって
映画界に一大旋風を巻き起こしました。
カイエ派としてはクロード・シャブロルの『いとこ同志』、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』『突然炎のごとく』、
ジャン・リュク・ゴタールの『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』などの傑作が誕生し、一方の左岸派ではアラン・レネによる
『二十四時間の情事』『戦争は終わった』、ジャック・ドミの『シェルブールの雨傘』、アニュエス・ヴァルダの『幸福(しあわせ)』
アンリ・コルビの『かくも長き不在』などの秀作が発表されてヌーヴェル・ヴァーグが世界の映画界を席巻することになりました。
(ヌーヴェル・ヴァーグにつきましてはその定義づけが曖昧なため、以上の記述はあくまでも私見ということでご容赦ください)