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3-5-2 呉と越、新興の両雄

2018-08-04 01:22:31 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

5 呉越の抗争

2 呉と越、新興の両雄

 明けて呉の国では王闔廬(こうりょ)の元年(前五四一)となる。
 伍子胥(ごししょ)は外交の役に任ぜられ、王とともに国事をはかった。
 また楚の国では権臣の伯州犂(はくしゅうり)という者が昭王のために殺され、その孫の伯嚭(はくひ)が呉に逃げこんできた。
 呉では伯嚭を大夫(大臣)に取りたてた。
 二年の後、呉王闔廬は伍子胥や伯嚭とともに兵をひきい、楚に攻めいった。
 まさに首都の郢(えい)にせまるほどの勢いであったが、いまだ国力が充実していないことをかんがえて、兵をかえした。
 それから一年の後、呉はふたたび兵をおこし、楚の二城を取った。
 さらに二年の後、楚の昭王は反撃の軍を発したが、これを伍子胥がむかえ討ち、大いに楚軍をやぶって、またも一城をうばった。

 これまでの呉は舟戦を主にしていたのであったが、いまや子胥によって戦車による射戦を教えられ、にわかに武力を強化したのであった。
 こうして闔廬が王となってから、九年がすぎた。国力も充実した。
 闔瀘は全軍をあげて北に進んだ。
 長江から淮水(わいすい)へ、そこで舟を捨てて西へむかい、漢水をはさんで楚軍と対陣した。
 楚軍の乱れに乗じて、呉軍はいっせいに進む。
 五たび戦って五たび勝ち、ついに都の郢(えい)に入城した。昭王は都から落ちのびた。
 伍子胥と伯嚭(はくひ)は、昭王のゆくえを求めたがえられず、平王の墓をあばいて、その屍(しかばね)に鞭うった。
 これは死者に対する最大の侮辱であった。
 いかに二人が平王をうらんでいたか、ともかくこのようにして父祖のかたきをうったのであった。
 さて闔臚は郢にとどまって年を越した。それを知って兵を発したのが南方の越である。
 呉王は兵をわけて越軍を防いだ。
 また西方の秦(しん)も、昭王をすくうために兵をだした(昭王の母は秦の公女)。
 闔廬は腹背に敵をうける。のみならず国内では、弟が反旗をひるがえした。
 闔廬もやむなく軍をかえし反乱をしずめねばならなかった。楚の昭王は国にもどった。
 この後も闔廬は、太子の夫差を将軍として楚を討たせ、いよいよ楚を圧迫する。
 また北方にも勢力をのばし、斉や晋をおびやかした。
 そうして九年たった。越では句践(こうせん)が王となった。
 孔子が魯(ろ)の国の大臣となったのも、この間のことである。
 越であたらしい王が立ったときき、闔廬は兵をおこした。
 これに対して句践は、檇李(すいり)まで進んでむかえ撃った。
 越は決死の士をくりだし、にわかに勝負は決さぬかにみえた。
 そうしたところへ、越の陣から一隊の兵が進みでた。
 呉軍の陣に近づくや、大声で呉への恩義を叫びつつ自害した。
 それは罪人の部隊であった。つづいて、また一隊。さらに一隊。いずれも呉軍の前で自害した。
 呉軍がこの光景に気をとられて見物しているすきに、越の精鋭が攻めかかった。
 呉軍は大敗し、呉王の闔廬も指に傷を負った。
 敗走の途中、闔廬の指の傷は悪化し、重態となった。
 死にのぞんで、太子の夫差を立てて王とし、かついった。
 「なんじは、句践がなんじの父を殺したことを忘れるか」。
 夫差は答えた。
 「どうして忘れられましょう。三年の内に、かならず越王に復讐します」。
 闔臚は陣中に死んだ(前四九六)。王たること、十九年であった。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父7 マカオ教区の発展

2018-08-04 01:00:42 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 7

 1906年の「マカオ教区報」11月号のトップニュースです。司教司式のもとに10月14日に19名の生徒が初聖体をうけました。その日は、教区じゅうのこの上もない祝い日となったことは、いうまでもありません。50名の生徒のなかからこれほどの恵みがあろうとは! この生徒たちは、3日間の黙想にもあずかっています。そのとき、司教からサレジオ会総会長にあてた手紙には、サレジオ会の活躍に対する深い感謝がありました。

 "ブラスバンドのない事業は活発でない"といったドン・ボスコのことはが、サレジオ会にはよく守られています。でも買いたくても楽器は高価で、手が出ません。今度も司教の協力で、この理想は実現しました。そのうえ、宣教師は神学生の時代からそのすじの専門家です。生徒の世葦毛日にみえ、3年もたたないうちに、マカオのサレジオ楽団は、当時の南中国の首府カントン市に招待されるほどの腕になりました。

「大変なことになりました」と告げる司教の顔は、深い悲しみに包まれています。宣教師たちは、もう覚悟をきめていました。問題は1910年に革命の起きたポルトガルが出した勅令です。すべての修道会をただちに排除すべしというこの命令は、このマカオにまで届いたのです。

 やむなく司教は、その司教区であった中国本土の南カントウ地方のシェウンチャオをかれらに任せることにしました。総人口百万人中、300人の信者です。

 マカオを去らねはならなかったサレジオ会員は、まず香港に行きました。ここで新しい宣教師たちがシェウンハオの布教地のために来るのを待つのです。かれらがつくと、ことばの勉強をさせるため、そこに残して、ヴェルシリア神父と、オリーヴェ神父のふたりがまず船に乗って目的地に向かいました。



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賢明な罰し方 聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)

2018-08-04 00:59:15 | 格言・みことば
三、感情でやっているという印象を与えないこと

 罰を与える時、自分の権力を感じさせることなく、感情のためであると思わせないで、おちついてやるのは、なかなかむずかしい事である。意地でやればやるほどそのことに気がつかなくなるのである。やはり父親としての心があれば、このやり方に賛成が出来るわけはない。私たちの下におかれた生徒を自分の子とみなすようにしよう。

 イエズスのように彼らに奉仕するのである。イエズスは命令するためではなく、従うために来たと言っておられる。支配者の態度を恥じるようにしよう。上に立つならそれはただ生徒に喜んで奉仕するためである。イエズスも使徒たちに対してこうしておられたのである。彼らの無知と無礼と忠実の不足をしのんでおられたし、また罪人に対しても親切さと親しさを示したりしておられたのである。そのことで驚く人もいれば、つまずきを感じる人もいたし、またかえって神の許しがもらえる希望を与えられた人もいる。だから彼は、柔和と謙虚さを自分に見徹うようにと言われたのである。

 生徒が私たちの子であるのなら彼らの過ちを正すとき、怒りを失すか、あるいは少なくとも外に表われないようにおさえる。心に激情も、目に軽蔑も、口に傷つける言葉がないようにしよう。むしろ今の時点では同情をしめし、未来には希望をいだかせるなら、真の父となり生徒を本当に正すことが出来るであろう。

 もっとも重大な時には神に謙虚に請い願ったほうがよかろう。やはりその時、言葉の嵐を吹き出せば、聞く人たちに悪い印象を与えるだけで、過まった当人には少しも役立たない。受け入れてくれなかったサマリアの町に対して、弟子たちが天罰をくだすようにすすめていたのに、イエズスがかえってその町を許された事を思い出そう。

聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ) 「罰についての手紙」1883年

聖ヨハネ・バプティスタ・ヴィアンネー司祭証聖者  St. Joannes Baptista Vianney C.

2018-08-04 00:57:41 | 聖人伝
聖ヨハネ・バプティスタ・ヴィアンネー司祭証聖者  St. Joannes Baptista Vianney C.  記念日 8月4日

 

 聖書の「天主は諸聖人のうちに奇蹟を行い給う」という聖言はどの聖人聖女の生涯に就いても言われるであろうが、特別ヨハネ・ヴィアンネーの一生に当てはまるように思われる。
 彼は1786年5月8日フランスのリオンに程近いダルヂリー村に生まれた。両親は農を業とし、別に財産もなかったが、勤勉で敬虔な人々であった。父は貧しい者、わけても貧しい憐れみをかけることが好きで、かつてその宿した旅人の中には聖ベネディクト・ラブルもいたのである。
 ヨハネはこういう信心深い父母の第4子であった。しかし両親の教えを聴き、その善行に倣うことにかけては兄弟姉妹の誰にも負けなかった。彼は幼い頃からもう暇さえあれば祈祷に耽っていた。その5歳の時フランス大革命が勃発するや、彼の父母は他の篤信な人々同様非常に心を痛めたが、わけても司祭が少なくなってミサ聖祭も稀にしか行われず御聖体拝領も思うに任せぬのを深く悲しんだのである。その中にヨハネは11歳を迎えて初告解をし、また2年を経て初めて御聖体を拝領した。彼は早くから司祭になる志望を持っていた。しかし何分にも家が貧しく、学資が続かぬことを知っているので、親にそれを申し出る勇気もなく、子羊の番やその他農家の子の為すべき仕事の中に日々を送ったのである。
 彼はどんな仕事を与えられても喜んで力の限り働いた。けれども司祭になりたいという望みは日増しに強くなるばかりであった。で、とうとう彼は17歳の時思い切って両親に自分の念願を打ち明けた。父母はそれを聞くと非常に喜んだ。ただ息子を町へ勉強に出すのは経済が許さない。それでヨハネはなお2年の歳月を従前通りの生活をして過ごしたが、その時天主の御摂理がエキュリイのバレイという司祭が現れ、己も貧しいながら彼の世話をしてくれることになった。かくて彼が師の許に引き取られたのは1805年のことであった。
 バレイ師は自分でヨハネに必要な学課を教えた。しかしこの聖人の如き司祭がその熱心な弟子に最も力をこめて教えたのは天主を愛することと償いの為苦行をすることであった。ヨハネは一生懸命勉強しても、学問はあまり出来る方ではなかった。彼はしばらくの後ヴェリエールの小神学校に送られたが、そこでも学業の成績は決してよくなかった。理解する頭はあるが記憶が悪いのである。教師達は彼を成業の見込みのない者として退学させようとも思ったが、信仰厚く品行も方正で、その方では学友の模範とするに足りたから、ようやく在学を許したのであった。けれどもその後ヨハネは不撓不屈の勉学によって、神学部に入学を許され、ついに晴れの叙階式を受けることも出来た。
 司祭になると彼はすぐにエキュリイなる恩人バレイ師の許に帰り、その仕事を助けることになった。バレイ師はその頃もうかなりの老齢で病気がちであったが、それでも厳しい苦行の生活を送っていた。ヨハネは何事も師と共に為し、すべてに篤信の師を範と仰いだし、バレイ師もなお何かと彼を教え導いた。しかしこの両聖人の楽しい共同生活は永くは続かなかった。というのはヨハネの帰着後僅か二、三ヶ月にしてバレイ師は帰らぬ旅に赴いたからである。
 それからヨハネ・ヴィアンネーは司教の命を受けてアルスの主任司祭に赴任した。アルスは小さな村で、住民は全部公教徒であるにも拘わらず、冷淡でなかなか信者の義務も守らなかった。教会へ来る者は甚だ少なく、多くは主日にも平気で労働し、快楽ばかりを追い求めていた。若い司祭はしかし天主を信頼して少しも失望しなかった。やがて彼の親切、彼の慈愛、彼の立派な行いはすべての人々の心に深い感動を与えた。彼等は最初彼の聖徳に驚嘆し、次いで彼の戒めを聴き容れるようになり、最後にいずれも熱心な信者と更正したのであった。
 その改心の聖寵を天主から求める為、ヨハネ師はどれほど一心に祈り、多くの苦行を献げ、個人的な活動をしたことであろう。その峻厳な償いの生活振りは、証人がなければ到底信じられぬ位である。彼は絶えず大斉を守り、馬鈴薯を常食とした。堅い寝床に着の身着のままの司祭服一枚、その他の物はことごとく聖祭の用に供するか貧民に施してしまった。。そういう彼の聖徳の聞こえは、間もなく近在近郷に響き渡り、果てはフランス全国に雷の如く轟いた。
 それと共に風を望んで彼の許を訪れる人も急に激増した。彼に告白せんと願う信者は遠方からも押し寄せた。その中には信仰を失い、しかも心の不安に耐えかね、慰めに飢えている者もあれば、長い間告白をせずに捨ておいた者や、大罪に耽っている者もあったが、一人としてこの聖司祭に逢って満足を得ず喜悦を見いださぬ人はなかった。ヨハネ・ヴィアンネーはしばしば天主聖霊の不思議な御光にその智慧を照らされて、人々が彼に言おうと思うこと、告げようとして能わぬことなどを明らかに見抜いた。その為世の彼に対する渇仰はいよいよ加わるばかりで、彼は毎日告解を聴かねばならなかった。それは時に16時間から17時間にも及び、彼に聴罪を願う者は一頃年に平均二万人に上ったという。彼の教会は冬は甚だ寒く夏は極めて暑かった。それでも告白者の群れはひしひしと詰めかけ、ヴィアンネーの告白台にひざまずく為にはその日の朝から晩までは愚か、翌日まで順番を待つのも更に厭わなかった。
 ヨハネ・ヴィアンネーはそういう多人数の告解を聴く激務に携わりながらも、相変わらず厳しい苦行生活を怠らなかった。その頃また一方では悪魔が彼の心を乱し不安ならしめることが数年続いた。その上他の試練も彼の上に加えられた。それは根も葉もない悪評を立てられて非難の手紙を幾通か受け取ったことである。しかし彼は従来通りすべての人を愛する態度を決して変えなかった。彼は日毎率直にして有効な説教を試み、忠実に自分の義務を果たした。人々は彼の生活や活動振りに驚嘆し天主の御助けがなければ出来ぬことを認めた。かくて不信なる者の改心はいちじるしく、彼は嘲った者も彼の謦咳に接してはたちまち信仰を得るのであった。
 さてヨハネ・ヴィアンネーは不屈の活動と苦行の生活を送ること41年、1859年の7月29日、17時間の告白を聴いて聖堂から出てくると、「私はもう駄目だ!」と言った。それは真実であった。かれの体力は最早全く尽きていたのである。5日の後その帰天の時は来た。彼は涙ながらに御聖体を拝領すると、信者達に掩祝を与え、静かに目を閉じた。が司教が傍に来られると彼はもう一度目を開いた。そして二、三時間の後ついに永眠した。
 彼への崇敬はその死後直ちに始まった。教皇ピオ10世は彼を福者の位に、教皇ピオ11世は彼を聖人の位に、それぞれ進めてその名に永遠の栄えあらしめ給うた。


教訓

 聖ヨハネ・ヴィアンネーはその謙遜と天主への信頼によって大事を為し遂げた。特別の大事業を成すべき使命を受ける人は少ないが、力の及ぶ限りわが救霊の為に働く使命は万人いずれも之を受けているのである。我等もアルスの聖司祭の如く謙遜にして天主への信頼を失わぬならば、等しく聖人になり得るのであろう。


 御聖体ほど偉大なものはひとつもない。
 この世のすべての善行をあわせても熱烈な御聖体拝領にくらべれば、
 ちりの小さなつぶをひじょうに大きなやまにくらべるのと同じである。

 人間がおこなうことのできるすべてのよいおこないを
 ぜんぶひとつにあわせてもミサ聖祭のと同じ値打ちにならない、
 なぜなら前者は人間のおこないであって
 後者は神のみわざだからである。 

                  聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネー司祭の言葉


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