『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
7 権謀と術数
5 弁舌の使徒
戦国の世の外交家としては、まず張儀(ちょうぎ)の名があげられよう。
張儀は魏の人で、孫臏(そんひん)と同じように、鬼谷子(きこうし)の門にはいった。
そこで外交の術を学んだという。学業をおえると、諸侯に遊説して歩いた。
あるとき楚の大臣からご馳走(ちそう)になったが、たまたま大臣の宝玉が紛失した。
大臣の家来たちは、張儀が貧乏で品行もよくないというところから、ぬすみの疑いをかけた。
そこで張儀をとらえ、笞うつこと数百、それでも白状しなかったので、ついにゆるされた。その妻が、
「ああ、あなたが読書や遊説などしなかったら、こんな恥辱(ちじょく)も受けずにすんだろうに」
と嘆くと、張儀はいった、「おれの舌を見てくれ。まだ、あるか、どうだ」。
妻が笑って、「舌!? ありますよ」というと、「それならいい」 といった。
やがて張儀は、秦へおもむいた。秦は恵文王の代であった。
うまく恵文王に取りいって用いられ、思うままに腕をふるうにいたる。
張儀がめざしたものは、外交の力によって中原の諸国を秦の威勢に従わせる、というところにあった。
それは諸国が秦に対して横に同盟をむすぶ、実質においては秦の配下に立たせる、というものである。
これは連衡(れんこう、衡とはヨコの意)の策と呼ばれた。
ところが連衡に対しては、合従(従とはタテ)の策があった。
秦の国力に脅威(きょうい)をおぼえはじめてきた諸国が、縦に同盟を結んで共にあたろう、とするものであった。
それを張儀は、得意の弁舌をもって、つぎつぎに諸国の合従をくずしつつ、連衡の策をすすめてゆく。
まずねらったのが、生国たる魏であった。
秦の恵文王の十年(前三二八)、張儀は兵をひきいて魏を攻め、蒲陽(ほよう)を占領した。
それから秦王に建言して、蒲陽を魏にかえし、さらに秦の公子を魏にいれて人質とした。
そうしておいて魏王のもとにいたり、秦に返礼すぺきことを説く。
魏は、上郡と少梁(共に黄河の西方にあり)を秦におくって、感謝の意をあらわした。
その功によって張儀は、泰の大臣に任ぜられたのである。
こうして張儀は秦の大臣たること四年、そのめざしたところは、魏を完全に秦の勢力下におくことであった。
しかも魏がなびかぬとみるや、秦の大臣を辞して魏に乗りこむ。
そして魏の大臣となって、秦に臣事させることをはかった。
こうして張儀は魏の大臣たること四年、その間に魏の襄王が亡くなり、哀王が立った。
しかし襄王も、哀王も、秦に臣事することは承服しない。
よって張儀は、ひそかに秦と通謀して、秦の軍を国内に引きいれた。
秦軍はおおいに魏の軍を破ったうえ、ついで韓を攻めて、首を切ること八万におよんだ。
その威力に、諸国はふるえあがった。
ここで張儀は哀王に説いた。得意の弁舌によって、ついに哀王を説きふせた。
魏は秦に対して和睦を請い、張儀は秦にかえって、ふたたび大臣の地位についた。
ついで張儀がめざしたのは、斉と楚との合従を破ることである。
張儀はみすがら楚におもむいた。時に恵王の二十五年(前三一三)である。楚は懷王の代であった。
張儀がくると聞いて、懐王は下におかぬ歓待を示す。張儀は懐王にむかって、おもむろに説いた。
「大王が私のことばを聞きいれ、関所をとじて、斉との合従の盟約を絶たれるならば、私は秦の商於(しょうお)の地(かって商鞅の封ぜられた所)六百里を大王に献上し、秦の王女を大王のおそば仕えの妾といたすよう、取りはからいましょう。
かくて秦と楚は、ながく兄弟の国となるでありましょう」。
懐王は喜んで承諾し、群臣もみな慶賀した。ひとり硬骨の士(陳軫=ちんしん)が、かえって秦と斉とが同盟する結果になろうと懸案し、反対したが、懐王は取りあわなかった。
張儀に大臣の印綬をさずけ、斉と断交した。
ところが張儀は秦に帰ってから、負傷したと称して三ヵ月も王宮に参朝しない。
懐王は、張儀の機嫌を取り結ぼうとして、勇士を斉に送りこみ、無礼を働かせた。
斉王は大いに怒り、これまでの節をまげて、秦に膝を屈した。こうして秦と斉とが結ばれた。
もとより張儀は、懐王との約束を実行する気はない。
楚の使者に対して、自分の領地六里を献上しよう、と申しいれた。
これを聞いて懐王は怒り、兵を発した。
秦と斉は、共に楚を攻めて、首を切ること八万、その北方の要地をうばった。ついに楚は和を請うた。
和議が成ると、楚の懐王は張儀の身柄の引きわたしを求めた。
かつての食言をうらみ、とらえて殺そうと思ったのである。張儀は平然として楚におもむいた。
はたして捕えられたが、このたびは楚の権臣や、懐王の愛妾をだきこんで、たちまち身柄を釈放させることに成功した。
そのうえで、ふたたび懐王に説く。
たくみな説得は、またしても懐王の心をとらえ、秦と楚との和親を促進させた。
このとき屈原が反対したが、懐王は聞きいれなかった。
楚からの帰路に、張儀は韓によった。そして韓王に説き、秦につかえることを承服させた。
この後も張儀は、斉にゆき、趙にゆき、また燕にゆき、いずれも秦につかえることの有利を説得する。
こうして連衡の策は見事に成ったのであった。
しかし任務をはたして張儀が秦に帰ったとき、すでに恵文王は死んでいた。
ついで立った武王は、太子の時代から張儀がきらいであった。
群臣も、張儀のことを悪(あ)しざまに申したてた。
いまや形勢はまったく不利である。
張儀は武王にむかって、身を引いて魏におもむこうと申しいれた。
自分が魏にはいることによって、魏と斉とを戦わせ、そのすきに秦が韓を討ち、かくて王者の業を達成するがよい、と説いたのである。
武王は兵車三十乗をそなえて、張儀を魏に送りとどけた。
張儀は魏において大臣たること一年、無事にその生涯を終えた(前三〇九)。
7 権謀と術数
5 弁舌の使徒
戦国の世の外交家としては、まず張儀(ちょうぎ)の名があげられよう。
張儀は魏の人で、孫臏(そんひん)と同じように、鬼谷子(きこうし)の門にはいった。
そこで外交の術を学んだという。学業をおえると、諸侯に遊説して歩いた。
あるとき楚の大臣からご馳走(ちそう)になったが、たまたま大臣の宝玉が紛失した。
大臣の家来たちは、張儀が貧乏で品行もよくないというところから、ぬすみの疑いをかけた。
そこで張儀をとらえ、笞うつこと数百、それでも白状しなかったので、ついにゆるされた。その妻が、
「ああ、あなたが読書や遊説などしなかったら、こんな恥辱(ちじょく)も受けずにすんだろうに」
と嘆くと、張儀はいった、「おれの舌を見てくれ。まだ、あるか、どうだ」。
妻が笑って、「舌!? ありますよ」というと、「それならいい」 といった。
やがて張儀は、秦へおもむいた。秦は恵文王の代であった。
うまく恵文王に取りいって用いられ、思うままに腕をふるうにいたる。
張儀がめざしたものは、外交の力によって中原の諸国を秦の威勢に従わせる、というところにあった。
それは諸国が秦に対して横に同盟をむすぶ、実質においては秦の配下に立たせる、というものである。
これは連衡(れんこう、衡とはヨコの意)の策と呼ばれた。
ところが連衡に対しては、合従(従とはタテ)の策があった。
秦の国力に脅威(きょうい)をおぼえはじめてきた諸国が、縦に同盟を結んで共にあたろう、とするものであった。
それを張儀は、得意の弁舌をもって、つぎつぎに諸国の合従をくずしつつ、連衡の策をすすめてゆく。
まずねらったのが、生国たる魏であった。
秦の恵文王の十年(前三二八)、張儀は兵をひきいて魏を攻め、蒲陽(ほよう)を占領した。
それから秦王に建言して、蒲陽を魏にかえし、さらに秦の公子を魏にいれて人質とした。
そうしておいて魏王のもとにいたり、秦に返礼すぺきことを説く。
魏は、上郡と少梁(共に黄河の西方にあり)を秦におくって、感謝の意をあらわした。
その功によって張儀は、泰の大臣に任ぜられたのである。
こうして張儀は秦の大臣たること四年、そのめざしたところは、魏を完全に秦の勢力下におくことであった。
しかも魏がなびかぬとみるや、秦の大臣を辞して魏に乗りこむ。
そして魏の大臣となって、秦に臣事させることをはかった。
こうして張儀は魏の大臣たること四年、その間に魏の襄王が亡くなり、哀王が立った。
しかし襄王も、哀王も、秦に臣事することは承服しない。
よって張儀は、ひそかに秦と通謀して、秦の軍を国内に引きいれた。
秦軍はおおいに魏の軍を破ったうえ、ついで韓を攻めて、首を切ること八万におよんだ。
その威力に、諸国はふるえあがった。
ここで張儀は哀王に説いた。得意の弁舌によって、ついに哀王を説きふせた。
魏は秦に対して和睦を請い、張儀は秦にかえって、ふたたび大臣の地位についた。
ついで張儀がめざしたのは、斉と楚との合従を破ることである。
張儀はみすがら楚におもむいた。時に恵王の二十五年(前三一三)である。楚は懷王の代であった。
張儀がくると聞いて、懐王は下におかぬ歓待を示す。張儀は懐王にむかって、おもむろに説いた。
「大王が私のことばを聞きいれ、関所をとじて、斉との合従の盟約を絶たれるならば、私は秦の商於(しょうお)の地(かって商鞅の封ぜられた所)六百里を大王に献上し、秦の王女を大王のおそば仕えの妾といたすよう、取りはからいましょう。
かくて秦と楚は、ながく兄弟の国となるでありましょう」。
懐王は喜んで承諾し、群臣もみな慶賀した。ひとり硬骨の士(陳軫=ちんしん)が、かえって秦と斉とが同盟する結果になろうと懸案し、反対したが、懐王は取りあわなかった。
張儀に大臣の印綬をさずけ、斉と断交した。
ところが張儀は秦に帰ってから、負傷したと称して三ヵ月も王宮に参朝しない。
懐王は、張儀の機嫌を取り結ぼうとして、勇士を斉に送りこみ、無礼を働かせた。
斉王は大いに怒り、これまでの節をまげて、秦に膝を屈した。こうして秦と斉とが結ばれた。
もとより張儀は、懐王との約束を実行する気はない。
楚の使者に対して、自分の領地六里を献上しよう、と申しいれた。
これを聞いて懐王は怒り、兵を発した。
秦と斉は、共に楚を攻めて、首を切ること八万、その北方の要地をうばった。ついに楚は和を請うた。
和議が成ると、楚の懐王は張儀の身柄の引きわたしを求めた。
かつての食言をうらみ、とらえて殺そうと思ったのである。張儀は平然として楚におもむいた。
はたして捕えられたが、このたびは楚の権臣や、懐王の愛妾をだきこんで、たちまち身柄を釈放させることに成功した。
そのうえで、ふたたび懐王に説く。
たくみな説得は、またしても懐王の心をとらえ、秦と楚との和親を促進させた。
このとき屈原が反対したが、懐王は聞きいれなかった。
楚からの帰路に、張儀は韓によった。そして韓王に説き、秦につかえることを承服させた。
この後も張儀は、斉にゆき、趙にゆき、また燕にゆき、いずれも秦につかえることの有利を説得する。
こうして連衡の策は見事に成ったのであった。
しかし任務をはたして張儀が秦に帰ったとき、すでに恵文王は死んでいた。
ついで立った武王は、太子の時代から張儀がきらいであった。
群臣も、張儀のことを悪(あ)しざまに申したてた。
いまや形勢はまったく不利である。
張儀は武王にむかって、身を引いて魏におもむこうと申しいれた。
自分が魏にはいることによって、魏と斉とを戦わせ、そのすきに秦が韓を討ち、かくて王者の業を達成するがよい、と説いたのである。
武王は兵車三十乗をそなえて、張儀を魏に送りとどけた。
張儀は魏において大臣たること一年、無事にその生涯を終えた(前三〇九)。