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3-7-5 弁舌の使徒

2018-08-25 17:02:43 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

7 権謀と術数

5 弁舌の使徒

 戦国の世の外交家としては、まず張儀(ちょうぎ)の名があげられよう。
 張儀は魏の人で、孫臏(そんひん)と同じように、鬼谷子(きこうし)の門にはいった。
 そこで外交の術を学んだという。学業をおえると、諸侯に遊説して歩いた。
 あるとき楚の大臣からご馳走(ちそう)になったが、たまたま大臣の宝玉が紛失した。
 大臣の家来たちは、張儀が貧乏で品行もよくないというところから、ぬすみの疑いをかけた。
 そこで張儀をとらえ、笞うつこと数百、それでも白状しなかったので、ついにゆるされた。その妻が、
 「ああ、あなたが読書や遊説などしなかったら、こんな恥辱(ちじょく)も受けずにすんだろうに」
と嘆くと、張儀はいった、「おれの舌を見てくれ。まだ、あるか、どうだ」。
 妻が笑って、「舌!? ありますよ」というと、「それならいい」 といった。
 やがて張儀は、秦へおもむいた。秦は恵文王の代であった。
 うまく恵文王に取りいって用いられ、思うままに腕をふるうにいたる。
 張儀がめざしたものは、外交の力によって中原の諸国を秦の威勢に従わせる、というところにあった。
 それは諸国が秦に対して横に同盟をむすぶ、実質においては秦の配下に立たせる、というものである。
 これは連衡(れんこう、衡とはヨコの意)の策と呼ばれた。
 ところが連衡に対しては、合従(従とはタテ)の策があった。
 秦の国力に脅威(きょうい)をおぼえはじめてきた諸国が、縦に同盟を結んで共にあたろう、とするものであった。
 それを張儀は、得意の弁舌をもって、つぎつぎに諸国の合従をくずしつつ、連衡の策をすすめてゆく。
 まずねらったのが、生国たる魏であった。
 秦の恵文王の十年(前三二八)、張儀は兵をひきいて魏を攻め、蒲陽(ほよう)を占領した。
 それから秦王に建言して、蒲陽を魏にかえし、さらに秦の公子を魏にいれて人質とした。
 そうしておいて魏王のもとにいたり、秦に返礼すぺきことを説く。
 魏は、上郡と少梁(共に黄河の西方にあり)を秦におくって、感謝の意をあらわした。
 その功によって張儀は、泰の大臣に任ぜられたのである。
 こうして張儀は秦の大臣たること四年、そのめざしたところは、魏を完全に秦の勢力下におくことであった。
 しかも魏がなびかぬとみるや、秦の大臣を辞して魏に乗りこむ。
 そして魏の大臣となって、秦に臣事させることをはかった。
 こうして張儀は魏の大臣たること四年、その間に魏の襄王が亡くなり、哀王が立った。
 しかし襄王も、哀王も、秦に臣事することは承服しない。
 よって張儀は、ひそかに秦と通謀して、秦の軍を国内に引きいれた。
 秦軍はおおいに魏の軍を破ったうえ、ついで韓を攻めて、首を切ること八万におよんだ。
 その威力に、諸国はふるえあがった。
 ここで張儀は哀王に説いた。得意の弁舌によって、ついに哀王を説きふせた。
 魏は秦に対して和睦を請い、張儀は秦にかえって、ふたたび大臣の地位についた。
 ついで張儀がめざしたのは、斉と楚との合従を破ることである。
 張儀はみすがら楚におもむいた。時に恵王の二十五年(前三一三)である。楚は懷王の代であった。
 張儀がくると聞いて、懐王は下におかぬ歓待を示す。張儀は懐王にむかって、おもむろに説いた。
 「大王が私のことばを聞きいれ、関所をとじて、斉との合従の盟約を絶たれるならば、私は秦の商於(しょうお)の地(かって商鞅の封ぜられた所)六百里を大王に献上し、秦の王女を大王のおそば仕えの妾といたすよう、取りはからいましょう。
 かくて秦と楚は、ながく兄弟の国となるでありましょう」。

 懐王は喜んで承諾し、群臣もみな慶賀した。ひとり硬骨の士(陳軫=ちんしん)が、かえって秦と斉とが同盟する結果になろうと懸案し、反対したが、懐王は取りあわなかった。
 張儀に大臣の印綬をさずけ、斉と断交した。
 ところが張儀は秦に帰ってから、負傷したと称して三ヵ月も王宮に参朝しない。
 懐王は、張儀の機嫌を取り結ぼうとして、勇士を斉に送りこみ、無礼を働かせた。
 斉王は大いに怒り、これまでの節をまげて、秦に膝を屈した。こうして秦と斉とが結ばれた。
 もとより張儀は、懐王との約束を実行する気はない。
 楚の使者に対して、自分の領地六里を献上しよう、と申しいれた。
 これを聞いて懐王は怒り、兵を発した。
 秦と斉は、共に楚を攻めて、首を切ること八万、その北方の要地をうばった。ついに楚は和を請うた。
 和議が成ると、楚の懐王は張儀の身柄の引きわたしを求めた。
 かつての食言をうらみ、とらえて殺そうと思ったのである。張儀は平然として楚におもむいた。
 はたして捕えられたが、このたびは楚の権臣や、懐王の愛妾をだきこんで、たちまち身柄を釈放させることに成功した。
 そのうえで、ふたたび懐王に説く。
 たくみな説得は、またしても懐王の心をとらえ、秦と楚との和親を促進させた。
 このとき屈原が反対したが、懐王は聞きいれなかった。
 楚からの帰路に、張儀は韓によった。そして韓王に説き、秦につかえることを承服させた。
 この後も張儀は、斉にゆき、趙にゆき、また燕にゆき、いずれも秦につかえることの有利を説得する。
 こうして連衡の策は見事に成ったのであった。
 しかし任務をはたして張儀が秦に帰ったとき、すでに恵文王は死んでいた。
 ついで立った武王は、太子の時代から張儀がきらいであった。
 群臣も、張儀のことを悪(あ)しざまに申したてた。
 いまや形勢はまったく不利である。
 張儀は武王にむかって、身を引いて魏におもむこうと申しいれた。
 自分が魏にはいることによって、魏と斉とを戦わせ、そのすきに秦が韓を討ち、かくて王者の業を達成するがよい、と説いたのである。
 武王は兵車三十乗をそなえて、張儀を魏に送りとどけた。
 張儀は魏において大臣たること一年、無事にその生涯を終えた(前三〇九)。

ドン・ボスコの生涯より

2018-08-25 00:12:56 | 聖人伝
A・オフレー著、F・バルバロ訳『ドン・ボスコの生涯』ドン・ボスコ社 より

 ヨハネ・ボスコの少年時代を語るとき、書きおとしてはならない一つの事実がある。それは、神秘にみちており、かれを司祭職にかたむかせた重大な動機の一つとなったものだからである。

 それは、ある夢だった。かれの生涯の重大な時期に、ちょうど音楽の導調のようにくりかえされるその夢は、わずか九つになったばかりのかれの魂を打った。

 ドン・ボスコ列聖の、最初の守り手であらたヴィヴェス・イ・トゥート枢機卿がいっているように、それは、ヨハネの生涯を通じて介入した超自然の、最初の干渉だった。かれは、夢のなかで、遊び、わめき、いたずらのかぎりをつくしている、おおくの子どもたちのまんなかに突っ立っていた。

 かれは、その子たちをなだめてみたが、どうしてもいうことをきかないので、ついに腕力をふるおうとした。

 すると、そのとき、気高いひとりの婦人が、かれに近づいて、

「暴力をつかわないで、柔和と愛とで、友だちの心をおさめなさい」

といった。

 その間に、子どもたちは、猛獣に姿をかえていたが、間もなく、かわいい小羊になって、かれのまわりにむらがった。そのとき、威厳にみちたその婦人は、こうりいった、

「羊かいの杖をつかって、かれらを牧場につれて行きなさい。いつかある日、このことが、すべてわかるでしょう」。

 この夢を見た翌朝、ヨハネは、早くみなに、話したくてならなかった。家族がそろったとき、それを話すと、みなは、勝手な意見をのべた。

「おまえは、きっと、やぎか羊かの牧童になるんだよ」とヨゼフはいった。

「匪賊のかしらにでもなるのさ」とアントニオはからかった。

「夢なんか、あんまり気にするもんじゃないよ」と、経験者のおばあさんはいった。

 しかし、マルゲリタだけは、しばらく、むすこをじっと見ていてから、
「おまえが司祭になるしらぜじゃないだろうか?」といった。

 この母の一意見だけが正しかったようだ。なぜなら、その翌年から、ヨハネは、「神父になりたい」と、はげしい望みを、母に打ちあけるようになったからである。

「神父になりたいというのはやさしいが、簡単になれるもんじゃないよ」と母はくりかえした。

「なぜ、神父になりたいの?」とたずねたとき、ヨハネは答えた、

「おかあさん、ぼくは、神父になったら、一生を子どものためにささげたい。子どもを集め、正しくみちびいてやりたい。自分を犠牲にして、かれらの救いのためにはたらなりたいんだ」。



 かれは、その使徒職のプログラムを、早くもペッキで、実行しはじめていた。カプリリオ町の主任司祭のまかないをしていたおばさんの家に、しばらく滞在していた間に、読みかきを習いはじめた。ものが読めるようになると、長い冬の夜もたいくつしなかった。かれは、家々をまわって、朗読者になった。人々は、争って、かれを家に招いた。招かれると出かけていって、いきいきとした口調で、かずかずのおもしろい物語を朗読してきかせた。

 耳をかたむけているそぼくな人片を前にして、かれは、「フランスの王様」という有名な昔話も読んだ。愛すべき義理がたいピエモンテ人は、ときには、数時間もヨハネの朗読にききほれた。こういう集まりが、いつも、十字架のしるしと一つの"めでたし"とで開かれ、とじられたことはもちろんである。

 四季が移るにつれて、ヨハネの仕事もかわった。ときには奇術師にもなったし、またときには、漫才もやった。

 家の裏の、広々とした草原のすみ、梨の木と桜の木とに綱をわたし、その下に、しき物をひろげた。そして、集まってきた人々の前で、本職のような奇術や軽わざを見せた。

 もんどり打って車輪のよらにまわったり、不思議なさか立ちもをしたり、手品をつかって卵を十倍に見せたり、水をぶどう酒にかえたり、殺したおんどりを生きかえらせたり、見ている人の鼻から銀貨をとり出したりした。渡した綱に、一本足でぶらさがる芸には、観衆は手をたたいてよろこんだ。

 ヨハネは、こういう芸を見せて、村の人たちを集めた。集まった人たちには、見物料として、コンタツをとなえることと、ムリアルドの主任司祭の説教を聞きに行くこととを、要求した。この要求をきかない者がいると、ヨハネは、きっぱりと、こう命令した。

「何か買ったら、料金を払わねはなりません。ここも同じです。私は、コンタツをとなえる人にだけ、芸を見せます。祈りの時間になって逃げ出すような人は、もう今度から来ないでください」。

 おそるべき子ども! これが、十歳の少年のしたことだった。かれは、村のおとなたちからも、敬服されていた。こうして、幼い使徒は、村人の心を高めようとしていたのだった。

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聖ルドヴィコ王(ルイ9世)証聖者  St. Ludovicus Rex C.

2018-08-25 00:05:16 | 聖人伝
聖ルドヴィコ王(ルイ9世)証聖者  St. Ludovicus Rex C. 記念日 8月25日

 

 13世紀は世道人心が頽廃して信仰道徳が危機に瀕する一方、主の御摂理によりアッシジの聖フランシスコ、聖ドミニコ、聖女クララ等偉大な聖人聖女が輩出し、人々に正しき道を示された時代であった。殊に聖フランシスコの創立にかかる三修道会は、会員の立派な模範によって世人の士気を振粛する上に最も力あり、その感化は欧州各国に隠れもなく、九重の雲深い帝王達の宮殿にまでも及んだのである。後にフランシスコ第三会の保護者と仰がれるに至ったフランスの聖王ルドヴィコも、アッシジの師父の清貧と使徒的情熱に感激し、鋭意そのあとに倣うべく努力された結果、ついにあの大を成されたのである。
 この身分高き聖者は1215年4月25日フランス、ポアシイの宮中にルドヴィコ8世王の王子として誕生された。彼が後年聖人となった最初の原因は恐らく信仰深きブランカを母として恵まれた幸福であったろう。実際この王妃は天成の美人で、また勝れた叡智の所有者であったが、それ以上信仰に厚く聖徳に秀で、我が子ルドヴィコにもその幼年の頃から敬虔の道を教え、常々「私はお前に対して世の母親に劣らぬ愛情をもっているつもりだけど、お前が一度でも天主に背いて大罪を犯す位なら、お前の死ぬのを見る方がよい」と言い聞かせ、汚れない少年の心に罪の恐ろしさを十分に刻み込んだ。そして勿論ルドヴィコは母のこの教訓を生涯片時も忘れはしなかったのである。
 とはいえブランカは彼に宗教教育のみを施して足れりとした訳ではない。知育体育、文武の道も決してゆるがせにはしなかった。しかも多才のルドヴィコは往くとして可ならざるなく、殊にラテン語にすぐれこの難しい言を自由に操ったばかりか、聖アウグスチヌスや聖ヒエロニモ等古代教父の難解の著書を毎日日課として少しずつ翻読し、以て神学的知識を深め、天主への愛を増す便りとしたという。
 彼が11歳の時父王ルドヴィコ8世が崩ずるや、暫く王妃ブランカが政事をとり、その賢明と聖徳によって国家を数多の難境から救ったが、王子ルドヴィコがプロヴァンス公の長女マルガレタ姫と結婚するに及んで之に王位を継承せしめた。爾来ルドヴィコは旧約時代の賢王ソロモンが主に長寿、富裕,戦勝等を求めず、唯国に善政を布く為の叡智を求めたひそみに倣い、己の弱さと王位にある身の重責を思いみて、一の勅令を出すにも、聖霊のわが叡智を照らし給うよう祈らぬことはなかった。されば彼の御代はフランス史上空前絶後と思われるまでによく治まり、人民こぞって泰平を楽しみ王の徳を謳歌したのである。
 最初臣下の中には王の若年を侮った者もあった。しかし彼等もやがては凛然たる王の威光に縮み上がらねばならなかった。王は貧民や不幸な人々に対し溢れるような同情を有し、彼等に圧迫を加え不正を行う者は高官といえども寸毫も仮借するところなくこれを罰した。また高利貸し、虚飾及び決闘を社会の癌として排斥厳禁し、実践糾合人民に範を垂れて完徳の生活を奨めた。
 祈りは一般に信仰のバロメーターとも言えようが、ルドヴィコの祈祷を好むことは尋常一様ではなかった。そして毎日二つあるいは三つのミサ聖祭を拝聴し、聴罪司祭と共に聖務日祷を誦え、今ほど頻繁な御聖体拝領が許されていなかった当時においては異例とも言うべき二ヶ月に一度、聖きパンを受けることを怠らなかった。しかもその拝領台に赴くや、主の御前に歩行するを畏れ多しとして膝行し、その天のマンナを戴く時には敬神の情自ら面に現れてさながら天使の如くであったという。
 かつて臣下のある者が王の信心に凝って余りに多くの時間を費やすことを難じた所、ルドヴィコは答えて「もし余が御ミサでなく狩猟その他の遊びに熱中したとするならば、今に数倍する時間を徒費してもその方達は何事をも申すまい、それが事一度宗教に関するとなるとたちまち非難の語気をもたらすとは誠におかしい話ではないか」と言われたとのことである。
 かように敬虔篤信なルドヴィコであったから、その心は自ずと表に現れて、麗しい数々の美徳とならずにはいなかった。中でも王者に似げぬ節倹質素な生活振りと、貧民病者に対する仁慈の程とは、人々を感嘆せしむるに十分であったが、これは言うまでもなく、彼が聖フランシスコの第三会に入会した、その輝かしい結果であったに相違ない。また彼は聖職者を深く尊び、枢密顧問もしばしばその中から選び、わけてもフランシスコ会の修士には特別の信頼と尊敬とを寄せていた。
 今ルドヴィコ王博愛の実例を二、三挙げてみれば、彼は毎日120人の貧者に食を施し、四旬節中は更に多数の人に恵み、自ら手を下して憐れな癩病者の体を洗い清め、之に接吻することさえ厭わなかった。なおその仁愛は自国民ならず、遠くサラセン人の奴隷となって働いているキリスト教徒にまで及び、常に彼等に深甚な同情を現し、之が解放に援助を与えた。
 東ローマ皇帝バルヅイン二世はルドヴィコの聖徳に感じ、わが首府コンスタンチノープルに国宝として保存されていた、救い主イエズス・キリストの聖血に染まった茨の冠を贈ることとした。それを聞くやルドヴィコは歓喜に堪えず、幾千の信徒を従え、裸足でパリから二三里も出迎え、自らその聖き遺物を捧持し行列して、あらかじめそれを安置すべく建てた美麗な小聖堂に運んだ。
 その後王は大病に罹って奇跡的に全快した感謝の印として、その頃サラセン人の手に落ちていた聖地エルサレム奪還の十字軍を起こし、1248年大軍を率いて出征した。最初は向かうところ敵なく連戦連勝の有り様であったが、やがて不幸にも疫病によって多くの将士を失い、為に一軍の士気も著しく沮喪してサラセンの軍勢に大敗を蒙り、王自身も捕虜となる憂き目を見るに至った。
 彼は暫くの間要求された巨額の賠償金の都合がつかなかった為に、生命を奪われる危険に直面していたが、有難い天主の御摂理により辛くもそれを支払い得て漸う自由の身体となることが出来た。それから彼は残れる将兵を駆り集め、パレスチナのアッコンへ行き、次いで己一人主の聖蹟の此処彼処を巡礼した。その中に母ブランカ薨去の悲報に接したので、ルドヴィコは蒼惶として帰国の途についたが、久しぶりで帰って見ると官吏の綱紀は甚だ弛緩し、税を貪って私腹を肥やしたり人民を瞞着して利益を求めたりする者もあったから、彼はすぐさま粛正に乗り出し、奸吏を厳罰に処する一方、人民の受けた損害を自分が出費して償ってやった。そして十字軍出征戦没将士遺族の弔問救護に万全の策を講じ、また聖職者を多数養成し学術を盛んならしめる為今も名高いソルボンヌ大学をパリに創立した。
 ルドヴィコ王は先の十字軍失敗に遺憾やる方なく、1267年パリに臣下一同を呼び集め、之に主の聖遺物、かの茨の冠を示して声涙共に下る大熱弁をふるい、その賛同を得て再挙を図ることとなった。かくて彼はまたも大軍を親率して今度はアフリカのチェニスに上陸した所、たちまち疫病に冒されて臥床すること僅かに六日、念願としていた地上の聖地に入る前に、思いもかけず天の都、永遠のエルサレムに凱旋するに至った。その臨終に、彼は両手を十字架に磔れる者の如く広げ「主よ、我は聖堂に入り、主の聖殿に於いて礼拝し、主の聖名を讃美し奉る」と息も絶え絶えに詩編の言葉を祈った後、何の苦しみもなく静かに瞑目したという。その二三ヶ月前、彼はサラセンの使者に「余は貴国の皇帝陛下に受洗の恵みを与えることが出来るとあれば、奴隷となって鉄鎖に繋がれる事敢えて厭う所ではない」と語ったそうであるが、今それよりも更に大なる生命の犠牲をさえ献げたのである。生前既に聖人の噂高かった王の訃報が一度故国に伝わるや。人民その徳を追慕していずれも慈父を失った如く涙せぬはなかった。その後彼の取り次ぎによって奇蹟の行われること数知れず、公然聖位を贈られ、今なお無二の聖王の名誉を世に謳われている。

教訓

 我等は聖ルドヴィコ王の生涯により一つの事実を確かめることが出来る。それは身分境遇の如何に拘わらず、誠意さえあれば天主の十戒や福音の聖教は必ず守り得るということである。されば我等は聖ルドヴィコの如く天主の御旨に従う堅い決心を起こし、その賜う聖寵を活用するに努めるならば、また王の如く天のエルサレムに入城を許されるに相違ない。


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