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3-5-5 呉国の滅亡

2018-08-07 02:05:31 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

5 呉越の抗争

5 呉国の滅亡

 すでに伍子胥は死んだので、呉王夫差はついに斉(せい)を討った。
 斉の国の内紛に乗じ、海上から攻めこんだのであったが、かえって敗れ、兵を引いた。
 それでも二年の後には魯の国内に進み、魯や衛の君をまねいて会盟した。
 この成功により、翌年には北方の黄池において諸侯をあつめ、会盟をおこなった。中原の覇者(はしゃ)となり、周の王室の安泰をはかりたいと望んだのであった。
 この間に越王句践は大兵を発し、呉に攻めいった。
 呉の国の精兵は、ことごとく王にしたがい、あとは老幼婦女だけが、太子とともに留守をしている。
 いまこそ時機、という范蠡(はんれい)のことばに、句践は立った。
 会稽の屈辱から、十二年がすぎていた。呉の太子は捕えられて、殺された。
 敗報が黄池にいる夫差のもとに伝えられた。夫差は会盟を終えると、兵をひきいて急いで帰国した。
 すでに太子をうしない、また呉王の国外にいることが長かったので、士卒はみな疲れていた。
 そこで越に使者をつかわし、贈りものを手あつくして和睦した。
 越としても、まだ呉をほろぼすまでの力はなかったので、これに応じた。
 それから四年が過ぎた。越はいよいよ強大となり、越王句践は出撃して呉の軍をおおいに破る。
 さらに二年たった。越の軍は、ついに呉の都を包囲した。
 三年にわたる包囲の結果、もはや呉王夫差も和睦を請うほかはなくなった。
 呉王の使者は肌をぬぎ、膝行して越王の前に進んだ。
 句践が呉王の命乞(いのちご)いをゆるそうとすると、范蠡が反対した。

 「会稽のときは、天が越を呉にたまわったのに、呉が天にさからって受けなかったのであります。
 いま、天が呉を越にたまわるというとき、天の与えるものを取らなければ、かえって咎(とが)を受けましょう」。

 それでも句践は、なおあわれみの心を捨てきれず、夫差に百戸の民を与えて、余生を送らせようとした。
 しかし夫差は、これをことわった。
 「わしは老いた。もはや君王に仕えることも、かなわない」、そういって、みずから首はねて死んだ。
 死するにあたっては「呉子胥にあわせる顔がない」と、顔を巾(きれ)でおおい隠した。
 こうして越王は呉をほろぼしたのであった(前四七三)。
 句践は夫差を葬ると、呉の太宰たる伯嚭を誅(ちゅう)し、その不忠を示した。
 この後、越はいよいよ北に進む。長江をこえ、淮(わい)水をわたり、山東の地で斉や晋などの諸侯と会盟した。
 周の元王は句践に「伯」と称することをゆるし、諸侯はみな越王を慶賀して覇王とよんだ、という。
 しかし実際のところ、呉をほろぼしてからの越の動きは、よくわからない。
 はたして句践が中原に進んで覇者となったのかどうかも、明らかではないのである。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父10  ペストの流行

2018-08-07 00:32:03 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 10

 手伝っていた伝道士ウォング・チュンは、感激のあまり手の甲で涙を拭いています。この人は、前に長いあいだ英国人の病院で看護人となっていたので、病状を判断し、臨終の近づくのもよく分りました。かれは喜んでヴェルシリア神父を助けます。

「あなたは、ペストが恐くないのですか?」と神父。

「どうして恐れねばならないのでしょう?」と伝道士。「わたしたちは、神のみ手のなかにいるのでしょう。こんな愛徳のわざができるのですから、喜んでお供しますよ。洗礼をたくさん授ければ、それだけ多くの保護者を天国にもつことになるのですからね。きっとかれらが、わたしたちのために祈ってくれるでしょう」。

 かれは、みちみち、「ふたり、3人、4人、5人・・・の新しい保護者」と喜ぶのでした。

 さいわい、ペストがその勢力を弱めてきました。ヴェルシリア神父は、ただひとり、遠い信者をたずねて出発しました。ふたたびワンチャイの教会に帰ってきたとき、数えてみると、受洗した患者は、肋名にもなっていました。そのひと月後、、ひとりの男が訪れていいました。

「わたしは、ホワ・チョンクというもの、神父さまにワンチャイの収容所で洗礼を授けていただきました。あれから、すっかり健康をとりもど、心から感謝しています」

 新しい宣教師が派遣されてきました。その目上となったヴェルシリア神父は、新しい教会を、いくつも建てました。その一つは、サンファンの町にあります。かれは、ここの離れた信首のために全力をつくしました。


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何に愛着すべきか 十字架の聖ヨハネ

2018-08-07 00:30:42 | 格言・みことば
たとい霊魂が天国に在ったとしても、天国にいることを望むように意志を整えないならば、満足できないでしょう。そして、もし心を神のみでなく、何かほかのものに愛着させておくならば、われわれは神に対してー神はいつも、われわれとともにおられるのですがーこのようになってしまうのです。

十字架の聖ヨハネ

聖ガエタノ司祭証聖者   St Cajetanus C.

2018-08-07 00:29:35 | 聖人伝
聖ガエタノ司祭証聖者   St Cajetanus C.               記念日 8月7日


 この聖人は1480年イタリアのヴィチェンザに生まれた、父は近衛の最高指揮官であったが、ガエタノが、ようよう2歳の時にこの世を去った。それで彼は二人の兄弟と共に母の手で敬虔に育てられた。
 ガエタノは既に少年時代から司祭になる決心を有していた。そして熱心に勉強し、24歳の若年で法学博士の称号をかちえた。
 やがて彼は聖会の行政に参与するようになったが、叙階の秘蹟を受けて司祭になったのは1516年、即ち彼が36歳の時のことであった。その日から彼は以前にも倍して己を聖とすることに努めた。翌年のクリスマス、彼が教会の厩を前にして熱心に祈っていると、突然聖マリアが現れて彼の手に幼きイエズスを抱かしめ給うた。その時から彼は天主を愛する為にはいかなる犠牲をも辞せぬ覚悟を定めるに至ったのである。
 1518年今度は彼の母が死去した。その臨終の枕元に侍したガエタノは、その後長くヴィチェンザに留まって、病者の看護を目的とする信心の兄弟会を起こした。また彼は不治の病の療養所を設け、そこでいつまでも自ら患者の看護に当たることを望んだ、しかし彼は命ぜられるままにヴェロナに行き、後ヴェニスに移り、そこにも同様に病院を建て、自ら看護の賤しい仕事に携わった。彼の家族の者は皆それに大反対で、口々に非難を浴びせかけたが、彼は感ずべき謙遜と忍耐とを以て一切を甘受したのであった。
 彼に逢うほどの人々、わけても貧者病者の中には、その篤信と敬虔に感化される者が甚だ多かった。事実ミサ聖祭を献げる折りなど、彼は恍惚としてさながら天上に遊ぶ如く見え、またその説教には最もかたくなな罪人をも改心させる力があった。
 ガエタノは更に人々の救いの為活動するつもりで、司祭達の修道会を作った。それまでには随分慎重に熟慮もし、熱心に主の御照らしを祈りもした。ついに彼はその計画を友人なる有為の一法学者に打ち明けた。するとその人は彼を鼓舞激励したばかりか、真っ先にその会員となってくれた。
 テアテの名高い司教カラッファが入会したのはそれから間もないことであった。この人も聖人であるが、その性格はガエタノとは全く異なっていた。カラッファは非常な精力家で、いくら活動しても疲れるということを知らず、優れた行政的手腕を有していた。で、彼はガエタノにとっては会の発展上なくてはならぬ貴重な助手であった。
 彼等はまず教皇の認可を受ける必要があった。ところがその教皇は最初新修道会の認可を少なからず躊躇された。けれどもガエタノを知る数多の名望家の懇願もあり、カラッファ司教の威望の徳もあって、ついに1524年教皇クレメンス7世は同会を公認されるに至った。
 その修道会はガエタノを創立者とするけれど、テアチノ会と呼ばれた。これは謙遜なガエタノが第一代の総長に推薦した司教カラッファがテアテに居住したことに因るのである。しかしカラッファも同様に謙ってガエタノを会の創立者、師父として崇めるにやぶさかでなかった。会の目的は信者に教理を教え、病人を看護し、天主への礼拝を荘厳に執行し、従順、貞潔、清貧の誓願を守って己を聖とするなどであった。
 ガエタノは後諸々方々に修道院を設けたので、しばしば旅行に出かけなければならなかった。彼は至るところで善を行い、天主がその祈祷に応じて奇蹟を示し給うたことも一再ではなかった。ガエタノはまたしばしば争いの調停を頼まれたこともあったが、その賢明な裁定は常に人の推服する所であった。
 とはいえ聖人も苦しみがない訳ではなかった。わけても一つの試練の如きは彼の肺腑を抉るばかりであった。
 1547年ナポリ市に革命が起こった時のことであった。ガエタノはそれに関して不当な誹謗非難を雨と注ぎかけられ心痛のあまり病気にさえなった。彼の医者はあらん限りの手当を講じたが、なお念の為に他の医者を招いて相談しようとした。けれどもガエタノは「私のような貧しい者は。一人の医師に診てもらえばそれで沢山だ」と言って。それを許さなかった。
 彼はまた病中といえども身の安泰を決して計らなかった。そして大いなる信心を以て御聖体の秘蹟を受け、すべての人にわが身の不徳を詫び彼等の厚意を謝し、安らかに息を引き取った。時あたかも1547年の8月7日であった。

教訓

聖堂においては聖ガエタノの如く御聖体の秘蹟を崇め尊び、また敬いと畏敬の心を以てミサ聖祭その他信心の勤めにあずかるがよい。典礼は天主に仕える途であるから、常々それへの理解を深めるよう心がけねばならぬ。


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