『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
5 呉越の抗争
5 呉国の滅亡
すでに伍子胥は死んだので、呉王夫差はついに斉(せい)を討った。
斉の国の内紛に乗じ、海上から攻めこんだのであったが、かえって敗れ、兵を引いた。
それでも二年の後には魯の国内に進み、魯や衛の君をまねいて会盟した。
この成功により、翌年には北方の黄池において諸侯をあつめ、会盟をおこなった。中原の覇者(はしゃ)となり、周の王室の安泰をはかりたいと望んだのであった。
この間に越王句践は大兵を発し、呉に攻めいった。
呉の国の精兵は、ことごとく王にしたがい、あとは老幼婦女だけが、太子とともに留守をしている。
いまこそ時機、という范蠡(はんれい)のことばに、句践は立った。
会稽の屈辱から、十二年がすぎていた。呉の太子は捕えられて、殺された。
敗報が黄池にいる夫差のもとに伝えられた。夫差は会盟を終えると、兵をひきいて急いで帰国した。
すでに太子をうしない、また呉王の国外にいることが長かったので、士卒はみな疲れていた。
そこで越に使者をつかわし、贈りものを手あつくして和睦した。
越としても、まだ呉をほろぼすまでの力はなかったので、これに応じた。
それから四年が過ぎた。越はいよいよ強大となり、越王句践は出撃して呉の軍をおおいに破る。
さらに二年たった。越の軍は、ついに呉の都を包囲した。
三年にわたる包囲の結果、もはや呉王夫差も和睦を請うほかはなくなった。
呉王の使者は肌をぬぎ、膝行して越王の前に進んだ。
句践が呉王の命乞(いのちご)いをゆるそうとすると、范蠡が反対した。
「会稽のときは、天が越を呉にたまわったのに、呉が天にさからって受けなかったのであります。
いま、天が呉を越にたまわるというとき、天の与えるものを取らなければ、かえって咎(とが)を受けましょう」。
それでも句践は、なおあわれみの心を捨てきれず、夫差に百戸の民を与えて、余生を送らせようとした。
しかし夫差は、これをことわった。
「わしは老いた。もはや君王に仕えることも、かなわない」、そういって、みずから首はねて死んだ。
死するにあたっては「呉子胥にあわせる顔がない」と、顔を巾(きれ)でおおい隠した。
こうして越王は呉をほろぼしたのであった(前四七三)。
句践は夫差を葬ると、呉の太宰たる伯嚭を誅(ちゅう)し、その不忠を示した。
この後、越はいよいよ北に進む。長江をこえ、淮(わい)水をわたり、山東の地で斉や晋などの諸侯と会盟した。
周の元王は句践に「伯」と称することをゆるし、諸侯はみな越王を慶賀して覇王とよんだ、という。
しかし実際のところ、呉をほろぼしてからの越の動きは、よくわからない。
はたして句践が中原に進んで覇者となったのかどうかも、明らかではないのである。
5 呉越の抗争
5 呉国の滅亡
すでに伍子胥は死んだので、呉王夫差はついに斉(せい)を討った。
斉の国の内紛に乗じ、海上から攻めこんだのであったが、かえって敗れ、兵を引いた。
それでも二年の後には魯の国内に進み、魯や衛の君をまねいて会盟した。
この成功により、翌年には北方の黄池において諸侯をあつめ、会盟をおこなった。中原の覇者(はしゃ)となり、周の王室の安泰をはかりたいと望んだのであった。
この間に越王句践は大兵を発し、呉に攻めいった。
呉の国の精兵は、ことごとく王にしたがい、あとは老幼婦女だけが、太子とともに留守をしている。
いまこそ時機、という范蠡(はんれい)のことばに、句践は立った。
会稽の屈辱から、十二年がすぎていた。呉の太子は捕えられて、殺された。
敗報が黄池にいる夫差のもとに伝えられた。夫差は会盟を終えると、兵をひきいて急いで帰国した。
すでに太子をうしない、また呉王の国外にいることが長かったので、士卒はみな疲れていた。
そこで越に使者をつかわし、贈りものを手あつくして和睦した。
越としても、まだ呉をほろぼすまでの力はなかったので、これに応じた。
それから四年が過ぎた。越はいよいよ強大となり、越王句践は出撃して呉の軍をおおいに破る。
さらに二年たった。越の軍は、ついに呉の都を包囲した。
三年にわたる包囲の結果、もはや呉王夫差も和睦を請うほかはなくなった。
呉王の使者は肌をぬぎ、膝行して越王の前に進んだ。
句践が呉王の命乞(いのちご)いをゆるそうとすると、范蠡が反対した。
「会稽のときは、天が越を呉にたまわったのに、呉が天にさからって受けなかったのであります。
いま、天が呉を越にたまわるというとき、天の与えるものを取らなければ、かえって咎(とが)を受けましょう」。
それでも句践は、なおあわれみの心を捨てきれず、夫差に百戸の民を与えて、余生を送らせようとした。
しかし夫差は、これをことわった。
「わしは老いた。もはや君王に仕えることも、かなわない」、そういって、みずから首はねて死んだ。
死するにあたっては「呉子胥にあわせる顔がない」と、顔を巾(きれ)でおおい隠した。
こうして越王は呉をほろぼしたのであった(前四七三)。
句践は夫差を葬ると、呉の太宰たる伯嚭を誅(ちゅう)し、その不忠を示した。
この後、越はいよいよ北に進む。長江をこえ、淮(わい)水をわたり、山東の地で斉や晋などの諸侯と会盟した。
周の元王は句践に「伯」と称することをゆるし、諸侯はみな越王を慶賀して覇王とよんだ、という。
しかし実際のところ、呉をほろぼしてからの越の動きは、よくわからない。
はたして句践が中原に進んで覇者となったのかどうかも、明らかではないのである。