『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
6 戦国の乱世
4 名君と賢臣
さて晋の国の三分(さんぶん)から八年後、魏の国では文侯が立った(前四四五)。
文侯は、さきに知伯をほろぼした魏桓子の孫にあたる。
在位すること五十年、内治にも外征にもすこぶる大きな業績をあげ、魏の全盛時代をきずきあげた。
その二十二年には韓や趙とともに、周の王室から諸侯に列することを認められている(前四〇三)。
名実ともに戦国の雄(ゆう)たる地位をえたわけであった。
魏の都の安邑(あんゆう)には、孔子の高弟たる子夏(しか)をはじめ、当時の名高い学者や賢人が集められた。
文候が礼をあつくして招いたのである。
かくて安邑は、戦国初期の文化の中心となった。
文侯は子夏に師として仕え、その弟子たちを賓客としてもてなした。
その遇しかたも、ひと通りのものではない。たとえば段干木(だんかんぼく)という学者がある。
子夏の弟子の一人で、晋の国の仲買人の出身であった。
しかも文侯は、木(ぼく)の住んでいる街(まち)を通りすぎるごとに、首を垂れ、車の横木に手をかけて、敬意をはらった。
こうした謙虚な態度は、たちまち四方の評判となった。
秦が魏を討とうとすると、上言する者があった。
「魏の君は賢人を礼遇し、国人に仁徳をたたえられ、上下が和合しております。いまは討つべき時ではありません」。
田子方(でんしほう)もまた、文侯の賓客であった。太子が道をゆくと、田子方にであった。
太子は車を道ばたによせ、下車して挨拶したが、子方は答礼もしなかった。あまりのことに太子がいった。
「富貴な者がひとに驕(おご)りたかぶるのか、それとも貧賎な者がひとに驕りたかぶるのか」。
すると田子方がいった。
「貧賎な者だけが、ひとに驕ってよいのです。諸侯がひとに騎れば、その国をうしないます。
大夫(たいふ)がひとに驕れば、その家をうしないます。
貧賎な者は、おこないが主君の意に合わず、ことばが主君に用いられなければ、去って楚や越に行くことさえ、靴をぬぎすてるように容易です。
どうして富貴な者と同じでありましょうか」。
そういわれると、太子は返すことばもなく、だまって立ち去らねばならなかった。
また李悝(りかい)も、子夏の門弟であった。李克(りこく)とも書かれる。あるとき文侯は、李悝にたずねた。
「かつて先生は私に、家が貧しければ良妻を思い、国が乱れれば良相を思う、と教えて下さいました。
いま宰相として置くべき者は、成(文候の弟)でなければ雝璜(てきこう)だが、この二人はいかがでしょうか」。
李悝は答えた。
「人を察するには、その人が日ごろ親しくしている者を見ます。富んでいれば与している者を見ます。
栄達すれば挙用する人を見ます。窮すれば何をしないかと見ます。貧すれば何を取らないかを見ます。
この五点を見れば、人を選定するに十分でしょう」。
「先生、お休みを。私の宰相はきまりました」。
その帰りみちに、李悝は雝璜(てきこう)とあった。雝璜は、だれが宰相になるのか、とたずねた。
李悝は答えた、「魏成子がなるでしょう」。
すると雝璜(てきこう)は憤然と色をなしていった。
「私がどうして魏成子におとるというのか。あなたをはじめ、私は大官や将軍や、また賢人を、合わせて五人も推挙している。この私が、どうして魏成子におとるのか」。
李悝はいった。
「私は主君から宰相として、成か璜かと聞かれたのです。
そこで私は人物をえらぶべき五点を申しあげました。それはともかく、あなたと魏成子とをくらべられましょうか。
魏成子は俸禄の九割を人にあたえ、自分は一割を取るだけです。そうして子夏と田子方と段干木をえました。
この三人は、みな主君が師と仰ぐ人たちです。
あなたがすすめた五人の者は、みな主君が家臣とした人たちです。あなたは、どうして魏成子とくらべられましょう」。
雝璜(てきこう)も、さすがに自分の間違いを認めざるをえなかった。
そして、ただちに李悝にむかって入門を願いでた。
李悝は法律や経済にもあかるかった。文侯のもとで法律を制定している。
それは土地や財産の私有権をまもるとともに、国民の奢(おご)りを禁じ、反乱をふせぐことに力をもちいたものであった。
中国における成文の刑法典は、ここに起源を発するといわれる。のちに商鞅(しょうおう)は、李悝の法律をうけついで秦(しん)国の律(りつ=刑法)を完成し、さらに漢の律をへて、後世に伝えられた。
また李悝は魏の国の財政をゆたかにするために、農業の振興にも力をそそいだ。
それが「地力を尽くすの教え」であった。勤勉に、注意ぶかく田を耕せば、およそ二割の増収となる。
その逆ならば、それだけの減収である。
つまり方百里(いまの単位で十里平方、約三九キロ平方)について百八十万石(約十八万石)の増減がみられる、というのであった。
ついで実施したのが、穀物の値段の安定をはかる方策である。
豊作のときには国家が穀物を買いいれ、凶作のときにはそれを売りだす。
豊凶の程度に応じて、いく通りもの方式がかんがえられた。
後世の常平倉(じょうへいそう)と同様のものが、はやくも始められていたわけであった。
こうした李悝(りかい)の施政によって、魏の国は富強となる。
そうして富田強兵の政策は、やがて他の国々にも波及してゆくのであった。
6 戦国の乱世
4 名君と賢臣
さて晋の国の三分(さんぶん)から八年後、魏の国では文侯が立った(前四四五)。
文侯は、さきに知伯をほろぼした魏桓子の孫にあたる。
在位すること五十年、内治にも外征にもすこぶる大きな業績をあげ、魏の全盛時代をきずきあげた。
その二十二年には韓や趙とともに、周の王室から諸侯に列することを認められている(前四〇三)。
名実ともに戦国の雄(ゆう)たる地位をえたわけであった。
魏の都の安邑(あんゆう)には、孔子の高弟たる子夏(しか)をはじめ、当時の名高い学者や賢人が集められた。
文候が礼をあつくして招いたのである。
かくて安邑は、戦国初期の文化の中心となった。
文侯は子夏に師として仕え、その弟子たちを賓客としてもてなした。
その遇しかたも、ひと通りのものではない。たとえば段干木(だんかんぼく)という学者がある。
子夏の弟子の一人で、晋の国の仲買人の出身であった。
しかも文侯は、木(ぼく)の住んでいる街(まち)を通りすぎるごとに、首を垂れ、車の横木に手をかけて、敬意をはらった。
こうした謙虚な態度は、たちまち四方の評判となった。
秦が魏を討とうとすると、上言する者があった。
「魏の君は賢人を礼遇し、国人に仁徳をたたえられ、上下が和合しております。いまは討つべき時ではありません」。
田子方(でんしほう)もまた、文侯の賓客であった。太子が道をゆくと、田子方にであった。
太子は車を道ばたによせ、下車して挨拶したが、子方は答礼もしなかった。あまりのことに太子がいった。
「富貴な者がひとに驕(おご)りたかぶるのか、それとも貧賎な者がひとに驕りたかぶるのか」。
すると田子方がいった。
「貧賎な者だけが、ひとに驕ってよいのです。諸侯がひとに騎れば、その国をうしないます。
大夫(たいふ)がひとに驕れば、その家をうしないます。
貧賎な者は、おこないが主君の意に合わず、ことばが主君に用いられなければ、去って楚や越に行くことさえ、靴をぬぎすてるように容易です。
どうして富貴な者と同じでありましょうか」。
そういわれると、太子は返すことばもなく、だまって立ち去らねばならなかった。
また李悝(りかい)も、子夏の門弟であった。李克(りこく)とも書かれる。あるとき文侯は、李悝にたずねた。
「かつて先生は私に、家が貧しければ良妻を思い、国が乱れれば良相を思う、と教えて下さいました。
いま宰相として置くべき者は、成(文候の弟)でなければ雝璜(てきこう)だが、この二人はいかがでしょうか」。
李悝は答えた。
「人を察するには、その人が日ごろ親しくしている者を見ます。富んでいれば与している者を見ます。
栄達すれば挙用する人を見ます。窮すれば何をしないかと見ます。貧すれば何を取らないかを見ます。
この五点を見れば、人を選定するに十分でしょう」。
「先生、お休みを。私の宰相はきまりました」。
その帰りみちに、李悝は雝璜(てきこう)とあった。雝璜は、だれが宰相になるのか、とたずねた。
李悝は答えた、「魏成子がなるでしょう」。
すると雝璜(てきこう)は憤然と色をなしていった。
「私がどうして魏成子におとるというのか。あなたをはじめ、私は大官や将軍や、また賢人を、合わせて五人も推挙している。この私が、どうして魏成子におとるのか」。
李悝はいった。
「私は主君から宰相として、成か璜かと聞かれたのです。
そこで私は人物をえらぶべき五点を申しあげました。それはともかく、あなたと魏成子とをくらべられましょうか。
魏成子は俸禄の九割を人にあたえ、自分は一割を取るだけです。そうして子夏と田子方と段干木をえました。
この三人は、みな主君が師と仰ぐ人たちです。
あなたがすすめた五人の者は、みな主君が家臣とした人たちです。あなたは、どうして魏成子とくらべられましょう」。
雝璜(てきこう)も、さすがに自分の間違いを認めざるをえなかった。
そして、ただちに李悝にむかって入門を願いでた。
李悝は法律や経済にもあかるかった。文侯のもとで法律を制定している。
それは土地や財産の私有権をまもるとともに、国民の奢(おご)りを禁じ、反乱をふせぐことに力をもちいたものであった。
中国における成文の刑法典は、ここに起源を発するといわれる。のちに商鞅(しょうおう)は、李悝の法律をうけついで秦(しん)国の律(りつ=刑法)を完成し、さらに漢の律をへて、後世に伝えられた。
また李悝は魏の国の財政をゆたかにするために、農業の振興にも力をそそいだ。
それが「地力を尽くすの教え」であった。勤勉に、注意ぶかく田を耕せば、およそ二割の増収となる。
その逆ならば、それだけの減収である。
つまり方百里(いまの単位で十里平方、約三九キロ平方)について百八十万石(約十八万石)の増減がみられる、というのであった。
ついで実施したのが、穀物の値段の安定をはかる方策である。
豊作のときには国家が穀物を買いいれ、凶作のときにはそれを売りだす。
豊凶の程度に応じて、いく通りもの方式がかんがえられた。
後世の常平倉(じょうへいそう)と同様のものが、はやくも始められていたわけであった。
こうした李悝(りかい)の施政によって、魏の国は富強となる。
そうして富田強兵の政策は、やがて他の国々にも波及してゆくのであった。