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3-6-4 名君と賢臣

2018-08-13 01:20:13 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

6 戦国の乱世

4 名君と賢臣

 さて晋の国の三分(さんぶん)から八年後、魏の国では文侯が立った(前四四五)。
 文侯は、さきに知伯をほろぼした魏桓子の孫にあたる。
 在位すること五十年、内治にも外征にもすこぶる大きな業績をあげ、魏の全盛時代をきずきあげた。
 その二十二年には韓や趙とともに、周の王室から諸侯に列することを認められている(前四〇三)。
 名実ともに戦国の雄(ゆう)たる地位をえたわけであった。
 魏の都の安邑(あんゆう)には、孔子の高弟たる子夏(しか)をはじめ、当時の名高い学者や賢人が集められた。
 文候が礼をあつくして招いたのである。
 かくて安邑は、戦国初期の文化の中心となった。
 文侯は子夏に師として仕え、その弟子たちを賓客としてもてなした。
 その遇しかたも、ひと通りのものではない。たとえば段干木(だんかんぼく)という学者がある。
 子夏の弟子の一人で、晋の国の仲買人の出身であった。
 しかも文侯は、木(ぼく)の住んでいる街(まち)を通りすぎるごとに、首を垂れ、車の横木に手をかけて、敬意をはらった。
 こうした謙虚な態度は、たちまち四方の評判となった。
 秦が魏を討とうとすると、上言する者があった。
 「魏の君は賢人を礼遇し、国人に仁徳をたたえられ、上下が和合しております。いまは討つべき時ではありません」。
 田子方(でんしほう)もまた、文侯の賓客であった。太子が道をゆくと、田子方にであった。
 太子は車を道ばたによせ、下車して挨拶したが、子方は答礼もしなかった。あまりのことに太子がいった。
 「富貴な者がひとに驕(おご)りたかぶるのか、それとも貧賎な者がひとに驕りたかぶるのか」。
 すると田子方がいった。
 「貧賎な者だけが、ひとに驕ってよいのです。諸侯がひとに騎れば、その国をうしないます。
 大夫(たいふ)がひとに驕れば、その家をうしないます。
 貧賎な者は、おこないが主君の意に合わず、ことばが主君に用いられなければ、去って楚や越に行くことさえ、靴をぬぎすてるように容易です。
 どうして富貴な者と同じでありましょうか」。

 そういわれると、太子は返すことばもなく、だまって立ち去らねばならなかった。
 また李悝(りかい)も、子夏の門弟であった。李克(りこく)とも書かれる。あるとき文侯は、李悝にたずねた。
 「かつて先生は私に、家が貧しければ良妻を思い、国が乱れれば良相を思う、と教えて下さいました。
 いま宰相として置くべき者は、成(文候の弟)でなければ雝璜(てきこう)だが、この二人はいかがでしょうか」。

 李悝は答えた。
 「人を察するには、その人が日ごろ親しくしている者を見ます。富んでいれば与している者を見ます。
 栄達すれば挙用する人を見ます。窮すれば何をしないかと見ます。貧すれば何を取らないかを見ます。
 この五点を見れば、人を選定するに十分でしょう」。

 「先生、お休みを。私の宰相はきまりました」。
 その帰りみちに、李悝は雝璜(てきこう)とあった。雝璜は、だれが宰相になるのか、とたずねた。
 李悝は答えた、「魏成子がなるでしょう」。
 すると雝璜(てきこう)は憤然と色をなしていった。
 「私がどうして魏成子におとるというのか。あなたをはじめ、私は大官や将軍や、また賢人を、合わせて五人も推挙している。この私が、どうして魏成子におとるのか」。

 李悝はいった。
 「私は主君から宰相として、成か璜かと聞かれたのです。
 そこで私は人物をえらぶべき五点を申しあげました。それはともかく、あなたと魏成子とをくらべられましょうか。
 魏成子は俸禄の九割を人にあたえ、自分は一割を取るだけです。そうして子夏と田子方と段干木をえました。
 この三人は、みな主君が師と仰ぐ人たちです。
 あなたがすすめた五人の者は、みな主君が家臣とした人たちです。あなたは、どうして魏成子とくらべられましょう」。

 雝璜(てきこう)も、さすがに自分の間違いを認めざるをえなかった。
 そして、ただちに李悝にむかって入門を願いでた。
 李悝は法律や経済にもあかるかった。文侯のもとで法律を制定している。
 それは土地や財産の私有権をまもるとともに、国民の奢(おご)りを禁じ、反乱をふせぐことに力をもちいたものであった。
 中国における成文の刑法典は、ここに起源を発するといわれる。のちに商鞅(しょうおう)は、李悝の法律をうけついで秦(しん)国の律(りつ=刑法)を完成し、さらに漢の律をへて、後世に伝えられた。
 また李悝は魏の国の財政をゆたかにするために、農業の振興にも力をそそいだ。
 それが「地力を尽くすの教え」であった。勤勉に、注意ぶかく田を耕せば、およそ二割の増収となる。
 その逆ならば、それだけの減収である。
 つまり方百里(いまの単位で十里平方、約三九キロ平方)について百八十万石(約十八万石)の増減がみられる、というのであった。
 ついで実施したのが、穀物の値段の安定をはかる方策である。
 豊作のときには国家が穀物を買いいれ、凶作のときにはそれを売りだす。
 豊凶の程度に応じて、いく通りもの方式がかんがえられた。
 後世の常平倉(じょうへいそう)と同様のものが、はやくも始められていたわけであった。
 こうした李悝(りかい)の施政によって、魏の国は富強となる。
 そうして富田強兵の政策は、やがて他の国々にも波及してゆくのであった。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父15  カラヴァリオ神学生

2018-08-13 00:51:58 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 15

 司教叙階後1年たって、ヴェルシリア司教は、サレジオ会本部に行かねはなりませんでした。この機会を利用しておよそ1年ほどヨーロッパに止まりました。それはサレジオ会経営の諸学校や諸司教区の神学校で講演し、布教地の召し出しを促進するためです。もっと熱心だったのは、とくに若い神学生でした。なかでもいちばん燃えていたのは、カラヴァリオ神学生です。

 「司教さま、ぼくも司教さまの布教地に行きたい!どうぞ、いっしょに中国に連れていってくださいませんか」

 と願いました。では、この神学生について、その生いたちを、ここで紹介させていただくことにします。

 かれの名は、カリスト・カラヴァリオ。クオルニエ町に1903年6月8日に生まれました。父ペトロと母ローザは、子どもにりっぱな教育を授けま」た。ふたりの姉妹を持つかれは、幼ない頃から日曜学校に行くのが大好きでした。まるで、そこが自分の第二の家ででもあるかのように感じていたのです。聖堂の掃除も、おとなにまじって、せっせと手伝う子どもでした。
 まもなく、トリノのサレジオ学校に行くようになると、あんまり熱心に祈るので、院長さまは、ちょっと尋ねてみたくなりました。

何ごとにおいても 十字架の聖ヨハネ

2018-08-13 00:51:17 | 格言・みことば
何ごとにおいてもすべて、キリストにならって、その御生涯に則ろうとするふだんの望みをもつこと。キリストにならうためには、その御生涯を考察し、すべてのことにおいてキリストと同じ態度をもって臨まなくてはならない。

十字架の聖ヨハネ

聖ヒッポリト司祭殉教者

2018-08-13 00:48:37 | 聖人伝
聖ヒッポリト司祭殉教者         記念日 8月13日


 ヒッポリトは3世紀の最も重要なローマの神学者であったが、同時に最初の「対立教皇」であったので、なぜこのような人が聖人になったのか不思議に思われるかもしれない。彼は教皇ゼフィリノの教えに反対して、ゼフィリノの後継者のカリスト教皇の時、離教して対立教皇として独立した。しかし、彼を再び教会に立ち帰らせたのは、マクシミヌス皇帝の迫害であった。ヒッポリトはポンチアノ教皇と共に逮捕されて、サルディーニャ島へ流された。そこで二人は親しい友人となって、ポンチアノはヒッポリトを再び教会に連れ戻したのだった。そして236年頃2人は殉教して、その遺体はローマに持ち帰られた。
 後世になって、ヒッポリトの殉教の事実を伝えるたくさんの物語が流布された。彼は聖ラウレンチオの葬式に行ったため、その罰として野生の2頭の馬にくくりつけられ、地上を引きずりまわされて、ついに息が絶えた。最後の言葉は、「主よ彼らは私の体をこわしてしまいました。どうぞわたしの魂を受け取ってください」であった。
 1551年、ローマの郊外のヴィア・ティブルティーナの一部を発掘した時にヒッポリトの首無しの彫像が発見された。彼の椅子の両側には復活祭の日付を計算する表が記録されてあった。聖人を教師として示すこの肖像は、その生存中に造られたものであった。
 ヒッポリトは、旧約聖書のダニエル書や雅歌を注釈し、詩編の解釈も書いたが、最も興味深い著作は「使徒の伝承」で、これは3世紀初期のローマの教会の生活と典礼について述べている。彼はキリスト教の伝統を強めることを熱望し、新しい祝日や新しい断食など、彼が「新奇なこと」と呼んだことを導入した人々に反対した。ある学者たちが言うように、ヒッポリトの文章のスタイルはすぐれていなくとも、確かに彼は熱情的で非常に学識ある学者であった。

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