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3-11-1 陳勝と呉広

2018-09-26 20:28:21 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

11 項羽と劉邦

1 陳勝と呉広

 ある日のこと、のどかな昼のひとときであった。
 それまで畑をたがやしていた男が、手をやすめて腰をおろし、しばらく物思いにふけっていたが、やがて雇い主に話しかけた。
 「もし富貴の身になっても、たがいに忘れないようにしましょうや」。
 雇い主は笑って、「お前、ひとに雇われて耕作している身が、どうして富貴の身になれるものかい」と答えた。
 すると男は、ため息をついていった。
 「ああ、燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(ツバメやスズメのような小さな鳥に、どうしてオオトリやクグイのような大きな鳥の志がわかるか)。
 この男が、陳勝(ちんしょう)であった。わかいころから、気持だけは大きかった。
 秦の二世皇帝の元年(前二〇九)、大きな徴発があり、遠く北のかた、長城のまもりにつかされることになった。
 陳勝もこれに加えられ、一隊をひきいた。別の隊に、呉広がいた。
 ところが途中で大雨にあい、道がとおれなくなった。このままでは期限におくれる。
 そうすれば、秦の法律によって、みな斬罪である。陳勝と呉広は、話しあった。
 「いま逃げても殺されよう。謀叛(むほん)をおこしても殺されよう。おなじ死ぬのなら、国を建てて死のうじゃないか」。
  そこで引率の司令官を殺し、全員をあつめてつげた。
 「君たちは期限におくれた。みな斬罪だ。たとえ処刑されなくとも、辺境の守備では十人のうち六、七人は死んでしまう。
 ともあれ男子として、どうせ死ぬなら大きな名声をあげて死のうではないか。
 王候将相(おう・こう・しょう・しょう=王も諸侯も、将軍も大臣も)いずくんぞ種(しゅ)あらんや(どうして血筋の別があろうか)」。
 全員こぞって、命令にしたがうことを誓った。兵をあげるといっても、武器らしい武器はもっていない。
 しかし近隣のものが、つぎつぎに加わって、ゆくゆく陳(ちん)についたころには、何万という大軍にふくれあがっていた。
 かくて陳に入城し、ここを根拠地と定めた。陳こそは、かつて楚の国が秦にほろぼされる前、都としていたところである。
 土地の有力者たちは、楚の国が回復したといって喜び、陳勝に王たらんことをすすめた。
 ついに陳勝は、国号を「楚」と称し、みずから王となった。
 あちこちの郡県では、いずれもその長官を殺して、陳勝に呼応した。いまや意気、大いにあがる。
 総勢は数十万人に達し、その一軍は函谷関(かんこくかん)をやぶって、都の咸陽のちかくにせまり、秦の朝廷をおどろかせた。
 しかし陳勝の軍も、やはり烏合(うごう)の衆にすぎなかった。
 秦が本腰をいれて反撃をはじめると、たちまちにして敗れ去った。
 秦軍はいよいよすすむ。いったん敗れた軍のなかは、動揺するばかりであった。呉広も、軍中で殺された。
 はじめ反乱にくわわった将軍たちも、もはや陳勝をみかぎって、つぎつぎに自立する。
 こうして趙(ちょう)も、魏(ぎ)も、斉(せい)も、燕(えん)も、それぞれ王をたてて独立した。
 まさに戦国の再来であった。やがて秦軍は、陳勝の本拠たる陳にせまる。
 救いにおもむく軍もなく、陳勝は乱軍のなかに死んだ。
 王位にあること、およそ六ヵ月、鴻鵠(こうこく)の夢も、はかなく消えた。
 陳勝は事が成らずして死んだ。しかし陳勝の挙兵は最初の農民蜂起(ほうき)であった。
 そして陳勝と呉広の主唱によって、反秦の軍は各地におこり、秦をほろぼすにいたったのである。
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3-10-9 帝国の落日

2018-09-25 20:05:21 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

10 秦の始皇帝

9 帝国の落日

 二世皇帝は即位すると、趙高の進言によって、公子たちや群臣の粛清をはじめた。
 「文を師とせず、武力に決す」べきこと、というのが、趙高の意見であった。
 「一族を根絶し、大臣をほろぼし、肉親を遠ざけ、先帝の遺臣は、ことごとく追放して、陛下の信任せられる者を近づけるがよろしい」。
 よって二世は、法律をきびしくして、かたはしから罪におとしいれた。
 十二人の公子、十人の公女が、つぎつぎに処刑された。
 獄中の蒙恬(もうてん)も自殺させられた。連坐する者も数知れない。宗室の一同はふるえあがった。
 群臣にしても、諌言(かんげん)すれば朝廷をそしる者とされたから、口をとざして、罪をまぬかれることをもとめるのみであった。人民もおそれ、おののいた。
 さらに二世は、未完成になっていた阿房宮の工事をはじめた。
 天下の人民を徴発し、また各地から食糧をはこばせた。はこぶ者の食糧は、自分で携帯せねばならなかった。
 ついに七月にいたって反乱がおこった。陳勝と呉広が兵を挙げたのである。これに応じて立つ者も、あいついだ。
しかし反乱の実情を報告すると、二世は怒って投獄した。
ある使者は「群盗はつぎつぎに逮捕され、やがて尽きましょう」と答えた。二世はよろこんだ。
 ついで趙高は、李斯がみずから王たらんと欲し、反乱に加担していると、まことしやかに言上した。
 これを知って李斯は上書し、趙高こそ邪悪にして危険の人物なることを訴えた。
 しかし二世は趙高のみを信頼しており、その進言によって李斯を獄に投じた。
 判決がきまると、二世はよろこんで「もし趙君なかりせば、あやうく丞相にはがられるところであった」といった。
 二年七月、李斯は咸陽の市場において、五刑を具した腰斬(ようざん)の刑(鼻を切り、耳と舌と足を切り、むち打ってから、腰を切る)に処せられることになった。
 刑場におもむく時、李斯は次子をかえりみて、
 「お前といま一度、あの黄犬をつれて、故郷の野で兎を追いたかった。
 それも今は詮(せん)ない」といって、父子ともに声をあげて泣いた。
 李斯の一族は、ことごとく殺された。
 翌三年(前二〇七)、趙高は丞相に任ぜられ、事の大小を問わず、すべて趙高によって決裁せられた。
 しかも趙高は自分の権力をたしかめようと思って、こころみに鹿を献上し、「これは馬でございます」といった。
 二世はわらって「鹿ではないか」と、左右の近臣に問うてみたが、ある者はだまったまま、多くの者は「馬に相違ありません」と答えた。
 わずかの者が「鹿でございます」と答えたが、この者たちは趙高から罪におとしいれられ、処刑された。
 このころ、各地の反乱はいよいよ拡大している。
 なかでも項羽の軍は大挙して函谷関にせまろうとし、劉邦の軍は南をまわって武関を突破した。
 趙高は、争乱の責任を問われることをおそれた。
 咸陽の令(いまの都知事)をしている閻楽(えんらく)は、趙高の婿(むこ=養女の夫であろうか)である。
 これと、ひそかに謀(はか)った。
大賊が来襲したといつわり、閻楽に命じて兵卒をひきい、宮中に突入させた。
 閻楽は、二世皇帝の前にすすみ、天下がそむいた責任をとって、自決せよ、とせまった。
 二世は「せめて一郡の地をもらって、王になれないか」と請うたが、ゆるさなかった。
 「せめて、万戸侯(一万戸の人民を領する大名)にでも」、「妻子ともども平民になるから」。
 いずれも、ゆるさなかった。閻楽はいった。
 「わしは丞相の命をうけ、天下のために足下を殺しにきたのだ。いくら言ってもむだだ」。
 ついに二世は自殺した。これを聞くと趙高は、大臣や公子たちを召集し、御璽(ぎょじ)をとりだして身につけた。
 しかし百官だれひとり従う者はなく、みずから宮殿にあがろうとすると、宮殿はこわれるほどに三たび震動した。
 やむなく趙高は、二世の兄の子嬰(しえい)を立てて秦王とした。
 いまや天下は秦にそむく者が多く、領土もせまくなり、皇帝と称するにふさわしくない、というわけであった。
 さて子嬰は秦王となったが、病気だといって政務をみない。じぶんの居所からうごかない。
 ついに趙高が、さいそくにおもむいた。その機をのがさず、その場で趙高を刺し殺した。
 趙高の一族は、みなごろしの刑に処して、みせしめとした。
 しかも子嬰が、秦王となってから四十六日にして、劉邦の軍が咸陽のちかくにせまったのである。`
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3-10-8 始皇帝の崩御

2018-09-24 17:53:23 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

10 秦の始皇帝

8 始皇帝の崩御

 即位して三十六年(前二一一)、星が落ちて石となった。隕石(いんせき)である。
 その石の上に、「始皇帝死而地分」(皇帝が死んで地が分れる)ときざんだ者があった。
 これを聞くと始皇帝は、役人をやってしらべさせたが、ついにきざんだ者をみつけだせなかった。
 そこで近辺にすむ者をみなごろしにし、その石を焼いてとかした。
 始皇帝は怏々(おうおう)として楽しまなかった。
 三十七年(前二一○)、五回目の巡遊をおこなった。とくに末子の胡亥(こがい)も、供をねがってゆるされた。
 皇帝の一行は、まず南の地方をまわったのち、北上して山東にいたる。このとき、さきに海上にでた徐福が、仙薬をえられぬままに、いつわりの上言をなした。
 「蓬莱(ほうらい)の薬は求められるのですが、いつも大鮫(さめ)にくるしめられ、島までゆけません。
 願わくは弓の上手をつけていただき、あらわれたならば連発の強弓で射たいと存じます」
 そこで大魚がでたら、始皇帝みずから射ようと、海岸にそってすすんだ。山東の北岸の之罘(しふ)までたっしたところ、大魚がでた。その一魚を射殺した。

 それから海岸にそって西行し、平原(へいげん)までいって、病気になった。病状は日に日に悪化した。
 始皇帝は長子の扶蘇(ふそ)にたまわる詔書をつくり、「ただちに咸陽(洛陽近郊の黄河北岸)にもどって葬事をおこなえ」と命じた。
 詔書は封印され、宦官の趙高(ちょうこう)にわたされた。
 しかし趙高が使者を発する前に、始皇帝は沙丘において崩じた。五十歳であった。
 丞相の李斯(りし)は、崩御によって天下に反乱のおこることをおそれ、喪(も)を発しなかった。
 おりから七月の暑いさなかである。棺は温涼(おんりょう)車にのせられた。
 車上に窓をつくり、とじれば温かく、ひらけば涼しくなるようにした車である。
 かねて恩寵をうけた宦官を同乗させ、生前のように食事をたてまつった。
 百官の奏上も生前のままで、その宦官に車のなかで裁決させた。
 始皇帝の死を知っている者は、公子の胡亥と、趙高と、側近の宦官五、六人のみであった。
 かねてより趙高は、胡亥と親しい。そこで李斯とはかって陰謀をめぐらし、扶蘇にたまわった詔書を破りすてた。
 そして胡亥を立てて太子とした。
 また別に、扶蘇と蒙恬(もうてん)にたまわる詔書を偽造し、皇帝の御璽(ぎょじ)を押して封じたうえ、北方の軍陣に使者を発した。
 にせの詔書には、両名に「死をたまわる」としるされた。
 詔書をひらくと、扶蘇は涙をながしながら、ただちに自殺した。
 蒙恬は、いつわりの使者かと考えて、死のうとはしなかった。役人が引きたて、獄に投じた。
 その間に、始皇帝の行列は咸陽をめざしてすすんでいた。暑さがはげしかった。
 ために棺を乗せた車は臭気をはなちはじめた。そこでくさい塩づけの魚を一石あまり、車にのせた。
 においをまぎらせたのであった。こうして行列は咸陽につき、はじめて喪を発した。
 胡亥は位をついで、二世皇帝となった。九月、始皇帝を驪山(りざん)の陵にほうむった。
 そのとき二世の命令があり、先帝の後宮にいて子のない者は、みな殉死させられた。
 葬儀がおわると、工匠は内部の模様を知っているから、それが外部にもれては大事であるという意見があった。
 そこで墓室に通ずる地下道の中門をとざし、ついで外門を下ろし、ことごとく工匠をとじこめて出られぬようにした。
 陵の上には草木をうえて、山にかたどった。
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3-10-7 仙薬を求めて

2018-09-23 17:58:11 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

10 秦の始皇帝

7 仙薬を求めて

 人間の欲望にかぎりはない。死後の宮殿までつくったものの、始皇帝としても死にたくはなかった。
 四十歳をこえて、もはや年をとりたくもなかった。始皇帝は不老長生の薬をもとめた。
 斉(せい=山東)の海上はるかに蓬莱(ほうらい)山という山島があり、そこには不老不死の仙人がすんでいる。
 その仙人から仙薬をもらってきてのめば、不老長生の効果がえられる。当時の人びとは、そのように信じていた。
 といって、だれでもが仙人にあえるわけではない。
 特別な術を修得した者、すなわち方士とよばれた人びとが、人間と仙人との仲だちをつとめたのであった。
 斉の方士たる徐福(じょふく)らは進言した。
 斎戒(さいかい=ものいみ)して童男童女をつれ、蓬莱山におもむいて、仙人をさがしてきたい、という。
 そこで徐福に命じ、童男童女を数千人も船にのせて、蓬莱山におもむかせた。
 徐福は、のちに日本へ達したという。よって墓が紀州の新宮にある。
 この後も始皇帝は、しばしば方士たちに仙薬をもとめさせた。
 しかし、ひとりとして仙薬をえた者はなかった。
 楚の旧領を巡遊したときは、泗水(しすい)という川に、周の天子の象徴たる宝鼎(ほうてい)が沈んでいると聞いた。そこで千人の者に水へはいってさがさせたが、これまた、むなしかった。
 ところで始皇帝は、さまざまの学派の学者たちを博士(はかせ)の官に任命して、政治の顧問としていた。
 たまたま咸陽の宮殿で宴会をひらいた時(前二一三)、「陛下の威徳」をたたえる博士たちにまじって、封建の制度の復活を進言した者があった。
 斉の出身の儒家であった。「古を師とせずして、よく長久たる者、聞くところにあらざるなり」というのである。
 丞相(じょうしょう)として国政の中枢に立っているのが、李斯(りし)であった。皇帝の下問に応じて、いった。
 「儒生は、今を師とせずして古(いにしえ)を学び、当世をそしって、人民をまどわす。
 虚言をかざって真実をみたし、みずから学ぶところを善(よ)しとして、上の建てるところを非とす。
 これを禁ぜずんば、君主の威勢は上に衰え、徒党は下に成らん」。
 されば思想の統制をおこなうべし、というのであった。
 公式の記録のほか、民間の書物は、ことごとくさしださせて焼きすてる。
 ただし、医薬・卜筮(ぼくぜい=うらない)・種樹(農業)の書はのぞき、学問をこころざす者には法令を学ばしめ、吏(役人)をもって師とさせる。こうして実施された
のが、いわゆる「焚書(ふんしょ)」であった。統制は思想にまでおよんだ。
 その翌年、方士たちのなかに、仙薬をうることができぬので、罪をおそれて逃亡する者があった。
 のみならず始皇帝の悪口をいいふらす。これを聞いて始皇帝は烈火のごとく怒った。
 このところ方士たちは、何ひとつ期待にかなうはたらきをしていない。
 しかも咸陽にいる儒者たちを取りしらべたところ、妖言(ようげん)をいいふらして人民をまどわしている者があった。
 さっそく儒者たちを捕え、きびしく追及した。
 儒者たちは、たがいに罪をなすりあい、自分だけいいのがれようとする。
 ついに政治を論じた者、四百六十余人をことごとく咸陽で穴埋めの刑(坑=こう)に処した。
 これが「坑儒(こうじゅ)」である。
 焚書とならんで、思想弾圧の典型とされているが、その動機からみれば、かならずしも思想の統制のみを目的としたものではなかった。
 しかし長子の扶蘇(ふそ)は、父の皇帝をいさめていった。
 「天下は平定したばかり、遠方の人民はいまだ帰服せず、学者はみな孔子の教えを奉じています。
 いま陛下は法を重んじて、かれらをただされますが、かえって天下の乱れをおそれます」。
 聞くと始皇帝は怒った。扶蘇を北方に追いやり、蒙恬(もうてん)の軍を監督させることにした。
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3-10-6 大遠征大工事

2018-09-22 09:50:24 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

10 秦の始皇帝

6 大遠征大工事

 国内の制度がととのえられると、始皇帝はいよいよ外征に乗りだした。
 そのころ、中国にとって強敵とみなされたのは、北方の匈奴(きょうど)である。
 匈奴は、いまのモンゴル高原を占拠し、たくみな騎馬の戦術をもって、しばしば中国の北辺をおびやかしていた。
 戦国時代の末、匈奴はさかんに南下して、黄河の南のオルドス地方をも占領する。
 かつて趙は北方に地をひらき、黄河の北岸に長城をきずいていたのであった。
 しかし匈奴は、ついに趙の長城を突破し、北辺の領土をうばったのである。
 それを始皇帝が、うばいかえした。
 天下の統一から六年(前二一五)、名将の蒙恬(もうてん)に三十万の軍隊をさずけ、匈奴を討たせて、オルドスの地から追いはらった。
 あくる年には、さらに黄河の北方をも占領させた。そして新しい領土をまもるために、長城を修築した。
 そのころの長城は、土壁を長くつらねたものである。戦国時代から各国の国境と、北辺とにきずかれていた。
 それを始皇帝は、国内の長城をくずすと共に、北辺の一帯にいわゆる「万里の長城」をきずいたのであった。それにしても、万余里におよぶ長城の工事は、おそるべき大事業であった。駆りだされた人民の労苦も、想像に絶するものがあろう。
 北辺をさだめた始皇帝は、つづいて南方にも兵をだした。もともと長江から南、いまの浙江から広東(カントン)・広西(カンシー)をへてベトナムにいたる地域は、「越(えつ)」という民族の住地である。
 春秋時代の末に活躍した「越」は、このなかでもっとも北方に住していたため、はやくから中国人に同化したものであった。ベトナムという名も、元来は漢字で「越南(ベト・ナム)」と書かれたものである。
 さて五十万の大軍は、北方の遠征と時を同じくして(前二一四)、これら越族を攻めた。
 秦軍の一部は今日の広州に達し、越族の地に桂林(けいりん)・象(ぞう)郡・南海の三郡を置いた。
 いまや秦帝国の版図は、当初の三十六郡から、さらに拡大し、おそらくは四十郡をこえた。
 その広さも、殷や周の領域にくらべれば、二倍から三倍となった。それだけ中国民族の居住の範囲がひろまったわけである。

 実に秦帝国は、中国の行政の基礎をつくり、中国という地域の基本を定めたのであった。
 たしかに始皇帝の功業は偉大であった。
 しかし、偉大の上に偉大なることを望んだ始皇帝である。
 内治と外征が一段落すると、咸陽の宮廷は小さすぎる、といいだした(前二二一)。
 かくて渭水の南岸、上林苑のなかにいとなまれたのが阿房宮(あぼうきゅう)である。
 まず前殿がつくられたが、その大きさは、東西が約七〇〇メートル、南北が約一二〇メートル、殿上には一万人をすわらせることができ、下には長さ一〇メートル以上の旗を立てることができた。
 のちに項羽がこの阿房宮を焼いたとき、燃えつきるまでに三ヵ月を要した、という。
 阿房宮をしのぐ規模のものが、驪山(りざん)の陵(りょう)であった。
 始皇帝は王位につくや、この陵の工事をはじめた。
 天下を統一するや、七十余万の罪人を使役し、地下の湧き水に達するまでの穴をほらせた。
 墓室は銅でつくり、そのなかには宮殿や百官の座席をもうけた。
 あらゆる珍奇の品を宮中からうつして充満させた。
 工匠には機械じかけの大弓をつくらせ、地面をほって近づく者があれば、ひとりでに発射するようにした。
 また水銀で大小の川や大海をつくり、機械で水銀をそそぎ送った。
 墓室の上には天界の姿をそなえ、下には地上の形をそなえ、人魚(その実態は不明)の油をもって燈火となし、永遠に消えない設備をほどこした。
 死後の世界も、地上にまさる豪華さをもって準備されたのである。
 かくて出現した驪山陵(りざんりょう)は、高さ一〇〇メートル余り、周囲は二〇〇〇メートル、さながら巨大な丘であった。
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