『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
5 呉越の抗争
2 呉と越、新興の両雄
明けて呉の国では王闔廬(こうりょ)の元年(前五四一)となる。
伍子胥(ごししょ)は外交の役に任ぜられ、王とともに国事をはかった。
また楚の国では権臣の伯州犂(はくしゅうり)という者が昭王のために殺され、その孫の伯嚭(はくひ)が呉に逃げこんできた。
呉では伯嚭を大夫(大臣)に取りたてた。
二年の後、呉王闔廬は伍子胥や伯嚭とともに兵をひきい、楚に攻めいった。
まさに首都の郢(えい)にせまるほどの勢いであったが、いまだ国力が充実していないことをかんがえて、兵をかえした。
それから一年の後、呉はふたたび兵をおこし、楚の二城を取った。
さらに二年の後、楚の昭王は反撃の軍を発したが、これを伍子胥がむかえ討ち、大いに楚軍をやぶって、またも一城をうばった。
これまでの呉は舟戦を主にしていたのであったが、いまや子胥によって戦車による射戦を教えられ、にわかに武力を強化したのであった。
こうして闔廬が王となってから、九年がすぎた。国力も充実した。
闔瀘は全軍をあげて北に進んだ。
長江から淮水(わいすい)へ、そこで舟を捨てて西へむかい、漢水をはさんで楚軍と対陣した。
楚軍の乱れに乗じて、呉軍はいっせいに進む。
五たび戦って五たび勝ち、ついに都の郢(えい)に入城した。昭王は都から落ちのびた。
伍子胥と伯嚭(はくひ)は、昭王のゆくえを求めたがえられず、平王の墓をあばいて、その屍(しかばね)に鞭うった。
これは死者に対する最大の侮辱であった。
いかに二人が平王をうらんでいたか、ともかくこのようにして父祖のかたきをうったのであった。
さて闔臚は郢にとどまって年を越した。それを知って兵を発したのが南方の越である。
呉王は兵をわけて越軍を防いだ。
また西方の秦(しん)も、昭王をすくうために兵をだした(昭王の母は秦の公女)。
闔廬は腹背に敵をうける。のみならず国内では、弟が反旗をひるがえした。
闔廬もやむなく軍をかえし反乱をしずめねばならなかった。楚の昭王は国にもどった。
この後も闔廬は、太子の夫差を将軍として楚を討たせ、いよいよ楚を圧迫する。
また北方にも勢力をのばし、斉や晋をおびやかした。
そうして九年たった。越では句践(こうせん)が王となった。
孔子が魯(ろ)の国の大臣となったのも、この間のことである。
越であたらしい王が立ったときき、闔廬は兵をおこした。
これに対して句践は、檇李(すいり)まで進んでむかえ撃った。
越は決死の士をくりだし、にわかに勝負は決さぬかにみえた。
そうしたところへ、越の陣から一隊の兵が進みでた。
呉軍の陣に近づくや、大声で呉への恩義を叫びつつ自害した。
それは罪人の部隊であった。つづいて、また一隊。さらに一隊。いずれも呉軍の前で自害した。
呉軍がこの光景に気をとられて見物しているすきに、越の精鋭が攻めかかった。
呉軍は大敗し、呉王の闔廬も指に傷を負った。
敗走の途中、闔廬の指の傷は悪化し、重態となった。
死にのぞんで、太子の夫差を立てて王とし、かついった。
「なんじは、句践がなんじの父を殺したことを忘れるか」。
夫差は答えた。
「どうして忘れられましょう。三年の内に、かならず越王に復讐します」。
闔臚は陣中に死んだ(前四九六)。王たること、十九年であった。
5 呉越の抗争
2 呉と越、新興の両雄
明けて呉の国では王闔廬(こうりょ)の元年(前五四一)となる。
伍子胥(ごししょ)は外交の役に任ぜられ、王とともに国事をはかった。
また楚の国では権臣の伯州犂(はくしゅうり)という者が昭王のために殺され、その孫の伯嚭(はくひ)が呉に逃げこんできた。
呉では伯嚭を大夫(大臣)に取りたてた。
二年の後、呉王闔廬は伍子胥や伯嚭とともに兵をひきい、楚に攻めいった。
まさに首都の郢(えい)にせまるほどの勢いであったが、いまだ国力が充実していないことをかんがえて、兵をかえした。
それから一年の後、呉はふたたび兵をおこし、楚の二城を取った。
さらに二年の後、楚の昭王は反撃の軍を発したが、これを伍子胥がむかえ討ち、大いに楚軍をやぶって、またも一城をうばった。
これまでの呉は舟戦を主にしていたのであったが、いまや子胥によって戦車による射戦を教えられ、にわかに武力を強化したのであった。
こうして闔廬が王となってから、九年がすぎた。国力も充実した。
闔瀘は全軍をあげて北に進んだ。
長江から淮水(わいすい)へ、そこで舟を捨てて西へむかい、漢水をはさんで楚軍と対陣した。
楚軍の乱れに乗じて、呉軍はいっせいに進む。
五たび戦って五たび勝ち、ついに都の郢(えい)に入城した。昭王は都から落ちのびた。
伍子胥と伯嚭(はくひ)は、昭王のゆくえを求めたがえられず、平王の墓をあばいて、その屍(しかばね)に鞭うった。
これは死者に対する最大の侮辱であった。
いかに二人が平王をうらんでいたか、ともかくこのようにして父祖のかたきをうったのであった。
さて闔臚は郢にとどまって年を越した。それを知って兵を発したのが南方の越である。
呉王は兵をわけて越軍を防いだ。
また西方の秦(しん)も、昭王をすくうために兵をだした(昭王の母は秦の公女)。
闔廬は腹背に敵をうける。のみならず国内では、弟が反旗をひるがえした。
闔廬もやむなく軍をかえし反乱をしずめねばならなかった。楚の昭王は国にもどった。
この後も闔廬は、太子の夫差を将軍として楚を討たせ、いよいよ楚を圧迫する。
また北方にも勢力をのばし、斉や晋をおびやかした。
そうして九年たった。越では句践(こうせん)が王となった。
孔子が魯(ろ)の国の大臣となったのも、この間のことである。
越であたらしい王が立ったときき、闔廬は兵をおこした。
これに対して句践は、檇李(すいり)まで進んでむかえ撃った。
越は決死の士をくりだし、にわかに勝負は決さぬかにみえた。
そうしたところへ、越の陣から一隊の兵が進みでた。
呉軍の陣に近づくや、大声で呉への恩義を叫びつつ自害した。
それは罪人の部隊であった。つづいて、また一隊。さらに一隊。いずれも呉軍の前で自害した。
呉軍がこの光景に気をとられて見物しているすきに、越の精鋭が攻めかかった。
呉軍は大敗し、呉王の闔廬も指に傷を負った。
敗走の途中、闔廬の指の傷は悪化し、重態となった。
死にのぞんで、太子の夫差を立てて王とし、かついった。
「なんじは、句践がなんじの父を殺したことを忘れるか」。
夫差は答えた。
「どうして忘れられましょう。三年の内に、かならず越王に復讐します」。
闔臚は陣中に死んだ(前四九六)。王たること、十九年であった。