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3-7-6 合従と連衡

2018-08-28 10:41:07 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

7 権謀と術数

6 合従(がっしょう)と連衡(れんこう)

 合従(がっしょう)か、連衡(れんこう)か、いずれにしても戦国時代の群雄のなかで最強の国に成長した秦を対象とするものであった。
 こもごもの立場、それぞれの思わくから、あるいは合従によって結ばれ、あるいは連衡によって国の安全をたもとうとした。
 ところで連衡の策を推進した代表者としては、張儀の名があげられる。
 これに対して、合従の策の代表者としては、蘇秦(そしん)の名が伝えられてきた。
 すなわち蘇秦と張儀は、ライバルの外交家として併称されてきたのである。
 蘇秦は周の都の洛陽にうまれ、張儀と同じく、鬼谷子(きこくし)について外交の術を学んだという。
 その後、放浪すること数年、困窮したあげく、洛陽に帰ってきた。
 兄弟姉妹も妻妾たちも、みな嘲笑(ちょうしょう)していった。
 「周の習わしでは、田畑を耕したり、商工に励んだりして、利益をあげることが務めとなっているのに、本業をすてて口さきの議論ばかりやっているんじゃ、苦しむのもあたりまえさ」。
 これを聞いて発憤(はっぷん)した蘇秦は、一室にとじこもって読書にふけり、一年にして人を説得する術を案出した。
 その術をもって諸国の王に対し、合従の策をとなえたのである。
 燕にゆき、趙にゆき、韓にゆき、魏にゆき、さらに斉にゆき、楚にゆき、それぞれの国情に応じて、たくみに諸侯を説得してまわった。
 これらの諸国の土地を合すれば秦の五倍、軍勢を合すれば秦の十倍にあまる。
 もし六国(りっこく)が合従して、ひたすら力をあわせ、心を一にしたならば、かならず秦のわざわいを避けることができるであろう。
 連衡の論者のごとく、西にむかって秦に仕えるのは、まさに国の恥である。
 この議論は諸侯の心をうごかした。ついに六国は、蘇秦の意見にしたがって縱に同盟し、秦に対抗するにいたった。
 いまや蘇秦は従約(しょうやく)の長となり、同時に六国の宰相を兼任する。
 その洛陽を通過したとき、諸侯は使者を発して贈りものをとどけ、王者の行列とみまがうほどであった。
 周の顕(けん)王(前三六八~三二一在位)も恐縮(きょうしゅく)して、沿道の往来をとどめ、使者をして郊外まででむかえさせた。
 兄弟も、その妻たちも、目をそばめて仰ぎみることもできない。そのありさまに、蘇秦はいった。
 「前には、あれほどいばっていたのに、どうして今は、こんなにもうやうやしいのか」。
 すると兄嫁は身をかがめてうちふし、顔を地につけ、わびていった。
 「あなたの位が高く、金の多いのを見たからでございます」。
 蘇秦は嘆息していった、「同じ一人の身でありながら、富貴となれば親戚も畏伏し、貧賎となればあなどられる。
 他人であれば、なおさらであろう。もし私が洛陽の郊外に二町ほどの田地を持っていたならば、今日のごとく六国の宰相たることが、できたであろうか」。
 そこで蘇秦は千金を散じて、一族や友だちにほどこした。
 ともあれ蘇秦の主唱によって、合従(がっしょう)の策は成ったのである。
 六国(りっこく)が同盟すれば、秦も手出しはできない。
 そこで秦としては、どうにかして合従の盟約を破ろうとする。連衡の論者が、その間に活躍した。
 秦は、斉と魏とに働きかけ、両国をそそのかして、趙を討たせた。
 両国の兵をうけると、趙王は蘇秦を責めた。蘇秦はおそれて趙を去り、燕におもむいた。
 斉に報復するため、というのが、その名目であった。こうして合従の約は、たちまちにして破れた。
 この後の蘇秦は、燕と斉との間を往復し、いずれの国においても優遇はされたけれども、もはや往年の名望はなかった。
 その最後も悲惨である。晩年の蘇秦は、斉において大臣の地位にあったが、大夫たちからきらわれた。
 ついに刺客をさしむけられ、瀕死(ひんし)の重傷を負った。
 刺客は逃亡し、斉王の命令による探索にもかかわらず、とらえることができない。
 死のまぎわに、蘇秦は王に言上した。
 「私が死にましたら、車裂の刑に処して市場にさらしてください。
 そして蘇秦は燕のためをはかって斉に謀叛(むほん)した、と触れてください。
 そうすれば、かならず賊は抑えられましょう」。
 その通りにしたところ、はたして下手人があらわれた。褒美(ほうび)をめあてに自首して出たのである。
 斉王は、それを捕えて誅した。
 蘇秦の物語は、むかしからすこぶる有名である。しかし、これは実際にあったことなのであろうか。
 司馬遷も、蘇秦の伝記を述べたあと、つぎのように論じている。
 「蘇秦らの術に権謀と変詐(へんさ=いつわり)に長じていたが、蘇秦に反間(スパイ)の名を負うて殺され、天下の者は共にこれを笑って、その術を学ぶ者をきらった。
 しかも、世に蘇秦について言われるものには、異説が多い。
 これは時代の異なる類似事件を、みな蘇秦に付会(ふかい)したのであろう」。

 いったい蘇秦その人が、実在の人物であったのか、うたがう者もすくなくないのである。
 蘇秦が活躍した時期(前四世紀の後半)、秦の勢力は他の六国を圧するほどに強大とはなっていなかった。
 したがって六国が、秦を対象として合従しなければならぬ必然性はなかった。
 ほかの記録に徴してみても、この時期に合従の約がむすばれたという形跡は、みあたらない。
 やはり蘇秦と、その合従の策は、架空の物語であったのではないだろうか。
 かりに蘇秦が実在の人物であったにしても、その出現は張儀よりも後のこと(前三世紀の初め)であったに違いない。
 この時期ともなれば、すでに秦は群雄のなかで最強をほこり、諸国はその東進に悩まされていたのである。
 合従にせよ、連衡にせよ、秦を対象とする外交の秘策は、こうしてめぐらされるようになったものと考えられる。
 もはや戦国の群雄のうち、強国とみなされるものは、秦と、他の六国にすぎなかった。
 あわせて戦国の七雄という。
 そして七雄の君主は、いずれも周の王室をしのいで、みずから「王」を称するにいたっていたのであった。

悪魔について ◆1、人の疑いは、神の教えを覆し得ない

2018-08-28 00:48:40 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆1、人の疑いは、神の教えを覆し得ない

 よい面についてではないが、有名になっているオランダの公教要理をはじめとして、ある学者ぶった人々が、最近、悪魔の存在に対する疑問を沸騰させています。このためにカトリック教会は、聖書と教会の聖伝にふくまれている正しい信仰に焦点をあてて、悪魔の存在と恐ろしいその活躍をあかるみに出す必要を感じています。

 その努力の一つとして、一九七二年になされた教皇パウロ六世の演説があり、これは一つの文献となっています。その三年後にも、聖座の信仰省は、これについて疑い得ない教書を発布しています。

 それにもかかわらず、最近の超モーダンな神学者は、次のようなことをいいだしました。教会の文献にも、第二次ヴァティカン公会議の文献にも、悪魔の存在を信仰箇条として宣言されたことはありません。「悪」ということは、明らかにうち出されてはいるにしても、その悪にはペルソナ(位格)が与えられていない、すなわち、具体的に存在し、活躍する「悪魔」、「悪霊」に関しての信仰箇条がなく、したがってその具体的な存在は実にうたがわしいのです。つまり、それらは、知恵と自由意志のある存在物としてはみとめられないのです、と、これがかれら偽神学者の本音なのであります。しかし、悪魔が存在しないとすれば、「地獄」ということも作りぱなしにすぎないという結論が出てきます。

 この偽神学者は、意識しているかいないかは別として、かれらは、次のような結論を引きだすのです、すなわち、教会の伝統的な信仰を無視するばかりか、二千年ものあいだ教会が作りぱなしを教え、キリストご自身も、存在もしない悪魔の「奴隷制度」から人間をお救いに来られたのではないというのです。つまり、キリストは、一つのこわい作りぱなしをもって人間をおどかしたり、あざむいたりしただけだったと。真剣に追求していくと、こんな断言がその終末には現われてくるのです。

 もちろん「信仰の真理」をすべて「信仰箇条」として宣言する必要はなく、聖書と教会の教えだけで充分です。それにしても、偽神学者や偽聖書解訳者は頑固です。かれらは、自分たちの頭の産物である思想だけを、唯一の真理とみとめて、ゆずらないからです。一九八四年にイタリアに出た最後の論文があります。悲しいことにこの論文は、このような偽神学者のまちがいを、かえって真実であると証明しようと試みたのです。しかもなおさら、残念なことに、この論文をローマのある教皇立大学が認め、ほめさえしたのです。この論文の内容が、あれほど教会の公式教義に反対しているのにです!

日本へ行く者は迫害を受ける 聖フランシスコ・ザビエル

2018-08-28 00:47:04 | 格言・みことば
日本へ来るものは、誰でも、ひどく迫害されるだろう。なぜかと言えば、いろいろの宗旨と戦はなければならないからである。また、僧侶が一般人から財貨を取り上げんがために、どんな狡滑なやりくりをしているかを、公けに知らせなければならないからである。こんなことをすれば、僧侶は決して沈黙してはいないだろう。特に、地獄から霊魂を救い出すことは不可能であると宣べた時において、そうであろう。と言うのは、彼等はこれで生活しているからだ。また、僧侶の間に蔓延っている乱倫を禁じた時であろう。これやあれやの理由のために、宣教者は苦労を拾わなければならないし、また大いに迫害を受けなくてはいけないだろう。

聖フランシスコ・ザビエル 「書簡」第31、1552年1月29日

聖アウグスチヌス司教教会博士  St. Augustinus D. E.

2018-08-28 00:45:39 | 聖人伝
聖アウグスチヌス司教教会博士  St. Augustinus D. E.  記念日 8月28日


 「人の子は失わせたる者を救わんとて来れり」(マタイ18・22)
 「『わが好むは憐れみなり、犠牲に非ず』とは何の謂なるかを学べ。それわが来りしは義人を召ぶ為なり」(マタイ9・13)
 われら罪人に深い慰めを与えるこれらの聖言の実証。即ち多くの罪を犯しm堕落の淵深く沈んだ者が、突如改心して善良な信者となり、或いは更に徳を積み聖人になった例は、歴史の上にもしばしば見受けられる。これは主の聖寵の輝かしい勝利であるが、わけても本日記念される大聖人アウグスチヌスの如きはその有名な懺悔録によって世に知られている通り、主の優握な恩寵の下に罪悪から聖徳へ、闇から光への驚異的な転換飛躍を遂げた実例として、いかなる罪人にもその決心次第では滅亡の墓より蘇り、栄光の子となり得るという希望を与えずにはおかない。
 聖アウグスチヌスは西暦354年11月13日、北アフリカの小都市タガステにおいて呱々の声を挙げた。当時カトリックは既に勢を得てローマ帝国の国教と定められてはいたが、それでもまだ未信者も数多ない訳ではなかった。アウグスチヌスの父パトリシオも異教徒の一人であったが、すこぶる短気で、名誉、快楽、財産等現世的な事の外には何の興味も感じない方であった。それに引き替え、母モニカは極めて忍耐深く信仰の篤いキリスト教信者で、子供が父の悪しき感化を蒙らぬようにと、絶えず祈り身を以て範を示したが、善より悪に傾き易いのは人間の常で、アウグスチヌスも母の厳格な躾を厭い、父を見習って早くから倫落の道に踏み入った。しかしその天賦の智慧才能は衆人に勝れていたから、父は大いに喜び、招来は雄弁家として立身出世させようと思い、益々息子の世間的な野心を煽り立てた。で、アウグスチヌスは己の能力にことごとく慢心し、いよいよ放縦な生活を送り、その結果アデオダトと呼ぶ私生児まで儲けた位であった。
 こういう息子の乱倫振りを見ては流石の父もその原因となった我が身の非行を今更の如く悔やみ、また一つには貞節の妻モニカの涙の祈祷や犠牲に動かされてついに洗礼を受け、やがてこの世を去ったが、アウグスチヌスは父の最後の訓戒も母の嘆きもよそにして、ひたすら地上の名誉快楽を追い求め、なおそれまでの耽溺生活を改めぬばかりか、マ二教という二元論の異端を信じ迷妄の闇の奥深く分け入ったのである。
 かくて彼はカルタゴの大学に修辞学の教授たること9年、その間マ二教の研究を続けたが、両親の呵責と心中の不安とは如何ともすることが出来なかった。その上最も親しい友人の不慮の死に接してからは、生死の問題に深い疑惑を抱き、一層懊悩せずにはいられなかった。アウグスチヌスは胸中のもだえを紛らわすべく母を欺いてローマに赴いた。その不幸の天罰は直ちに下った。彼は得意の修辞学を講じ、多数の学生はその名誉を聞き伝えて来たり学んだが、月謝を支払う者は極めて少なかった。それでアウグスチヌスは窮迫して他に職を求める必要を感じ、今度はローマ市長シマコの斡旋でミラノ市の教授となった。それを聞いた母モニカは我が子の後を慕って遙々カルタゴからミラノへと上って来た。
 当時ミラノの司教はあの名高い聖アンブロジオであった。アウグスチヌスは彼が類稀な雄弁家であるという噂を聞き、しばしばその説教を聴聞に行った。始めその動機は単なる好奇心に過ぎなかったが、やがてそれは強烈な真理探究欲に変わった。そのうちにアンブロジオはモニカをも知り、その信仰の厚さに感嘆し、かかる母をもつ子の幸福を羨み、モニカが我が子の救霊を案じて悲しみ訴えた時など「御安心なさい、そういう涙の子は決して滅びるものではありません」と慰めたほどであったという。
 その言葉はいみじくも適中した。386年の秋であった。アフリカから彼と同郷のポンチアノという人が来訪し、リビアの荒野に住む隠修士達、わけても聖アントニオの聖なる克己修道の生活に就いて物語った。その時アウグスチヌスは友人のアリビオとその話を聞いていたが、聞き終わると感動のあまり立ち上がって「ああ私達は何という情けない人間だろう!無学な人々が全力を尽くして天国の幸福を得ようとしているのに、学問のある私達が肉欲の奴隷になっていてよいものだろうか?恥ずかしい事だ!恥ずかしい事だ」と叫んだ。それから情の激するままに庭に飛び出し、そこのイチジクの樹の下で祈っていると、子供の声で「取りて読め、取りて読め!」というのが聞こえた。で、再びもとの部屋に帰って、そこにあった聖書を取り上げ、ページを開いて見ると、真っ先に目に留まったのは「餐食と酔狂、密通と淫乱、争闘と嫉妬とに歩むべからず、却って主イエズス・キリストを着よ」(ローマ書13・13-14)という一節であった。その瞬間アウグスチヌスの心は大河のように注がれた天主の聖寵に圧倒され、ここに彼の改心はついに成就したのである。過去33年の間、我が子の上を案じ煩って昼も夜も泣き暮らした母モニカが、それと知った時のその喜びはどれほどであったろう!
 翌年のキリスト復活祭にアウグスチヌスは我が子アデオダトや友人達と共に聖司教アンブロジオの手から洗礼の秘蹟を授かった。それと同時にかつて経験したこともない言いしれぬ平安と歓喜が彼の心に溢れみなぎった。彼は前半生の償いに修辞学校教授の職を抛ち、母を伴い、アフリカへ帰ろうとした。が、その途中、子の改心を見たいという永年の望みが叶ったのに全く安心したモニカは。ローマに程近いオスチアで熱病にかかり、ついに尊いその犠牲的生涯の報酬を受くべく天国に旅立った。それに引き続きアフリカに帰着すると、今度はアデオダトが突然あの世に奪い去られた。先に懐かしの母を失い、今また愛する子供に先立たれたアウグスチヌスの悲哀は言うまでもなかった。しかし彼はそこに天主の聖なる思し召しを認め、償いの精神で一切を甘受したばかりか、孤独となった我が身を全く主に献げた。
 その後の彼の生活は聖そのものであった。それに感嘆した信者達は彼を聖職者とすることを切に望んだので、ヒッポの司教ワレリオもついに彼等の熱心に負け、アウグスチヌスに叙階の秘蹟を授け、後二年を経て副司教に任命した。
 396年ワレリオ司教が没するや、アウグスチヌスは聖職者信者達全員一致の推薦を受けてその後任となった。そしてその重責を果たすこと34年、前半生の非行を償う為あらん限りの力を尽くし、まず司祭になった友人達と共同生活を為し、清貧に甘んじ、祈祷を研究にいそしむ一方、教区民を慈父のような温情を以て教え導いた。その共同生活の為に作った規則は、後にアウグスチヌス修道会の戒律に採用された。彼の妹もやがて同志の処女等を集めてそういう共同生活を始めた。
 しかし聖アウグスチヌスが最も輝かしい業績を残したのは、何と言っても護教と霊的指導と神学哲学の方面に於いてであったろう。実際彼は思想や学問の深さにかけては聖会初代の偉大な教父中でも嶄然頭角を抜きん出ており、グノーシス、ドナト、マ二、ベラジオ等の異端と闘って聖教を擁護し、また無数の書簡を認めて上は一国の宰相から、下は素朴な農夫に至る、さまざまな階級の人に、或いは徳の道を教え示し、或いは彼等が悩みとする諸問題を、快刀乱麻を断つ如く解決した。彼が肉との深刻な争闘の後、天主の優握な恩寵によってついに霊の勝利を得た己の生涯を、敬虔な筆で描いた懺悔録が、古来いかに多くの罪人を絶望の淵より救い、改心の恵みに導いたかは周知の事実であるからここには贅しない。その他我が身の料を節約して寡婦や孤児を救い、異教の暗闇にさまよう人々に真理の光を与えるなど、彼が三面六臂の働きはただ舌をまいて感嘆する外はないのである。
 429年ローマ帝国に侵入、掠奪をほしいままにしたワンダル族は北アフリカにも来たり寇し、ヒッポの市を包囲した。時あたかもアウグスチヌスは病篤く臨終の床に在ったが。信徒等の身を案じつつ己が病苦を主に献げてその御保護を祈り、償いの詩編七つを誦えながら遂に430年8月28日、76歳を一期として帰天した。しかし聖アウグスチヌスという偉大な名は青史の上に爛々と、永遠不朽の光芒を放っているのである。

教訓

 「改心する一人の罪人の為には、改心を要せざる九十九人の義人の為よりも、天に於いて喜びあるべし」(ルカ15・7)
 この聖言の通り、罪の子アウグスチヌスが改心の刹那には、正しく天上に於いて諸天使諸聖人の間に歓呼の声が挙がったことであろう。それは悪魔の奴隷が罪の絆を断ちきり、一大飛躍を試みて天主の愛子の中に加わったからである。我等もなお若かりし日のアウグスチヌスの如く、罪の途を辿っているならば、心機一転、徳のみちに入ることに於いても彼に倣わねばならぬ。


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