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3-5 呉越の抗争

2018-08-03 05:48:58 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

5 呉越の抗争

1 闔廬(こうりょ)の即位

 晋と楚とが対立し、たがいに覇(は)を争っているあいだに、新しい勢力が長江の下流、江南の地におこってきた。
 いまの蘇州を本拠とした呉(ご)の国である。土地柄にふさわしく、舟軍を主とした水上の合戦に長じていた。
 こうした呉の興隆は、前六世紀の初めごろのこととかんがえられる。
 当時の王の名は、寿夢(じゅぼう)といった。
 寿夢には四人の子があったが、末子の季札(きさつ)はもっとも賢く、国人のあいだにも人望が高かった。
 寿夢も、季札に位をゆずろうとした。しかし季札は固く辞してうけなかった。
 そこで寿夢が死ぬと、長子の諸樊(しょはん)があとをついだ。諸樊は太子を立てなかった。
 王位を順次に弟につがせて、季札におよぼそうとしたのであった。
 それから三十四年、呉の王位は諸樊から次弟の余祭へ、さらに三弟の余昧(よまい)へと伝えられた。
 その余昧も死んで、いよいよ季札が立つべきであった。
 しかし季札は、またも辞退して逃げ去った。
 国人はやむをえず、余眛の子の僚(りょう)をたてて王とした。
 諸樊の子に、光(こう)という者があった。
 楚と戦って功をたて、すぐれた将軍として頭角をあらわしてきていた。
 しかも、その父は、季札に王位を伝えようとして、まず立ったのである。
 いま、季札が立たぬのならば、自分こそ王たるべきであろう、こう考えて公子光は、ひそかに賢士を召しかかえ、王位をえる機会をまった。
 そこへあらわれたのが、伍子胥(ごししょ)である。
 故国の楚を追われ、呉に亡命してきたのであった。
 伍子胥は、名を員(いん)という。子胥は字(よびな)である。

 その父は楚の太子に仕えていたが、たまたま楚の平王は、あらたに秦の国からむかえた若い公女への愛におぼれ、そのうんだ子に跡をつがせようとして、太子をうとんずるようになる。
 そこへ讒言(ざんげん)をする者があらわれた。
 太子が王をうらんで反乱をおこそうとしている、というのであった。平王は怒って、太子を殺そうとした。
 急を知って太子はのがれることができたが、子胥の父と兄はとらえられ、殺されてしまった。
 子胥のみが身を全うして、太子を迫った。
 しかし楚の太子も、鄭(てい)の国に行きついたところで、国を乗っとる陰謀をくわだて、それが発覚して、殺された。
 伍子胥は太子の子をともなって、またも逃げださねばならなかった。
 こうして子胥は呉の国へはいったのである。ときに呉では王僚の五年(前五二二)であった。
 伍子胥は、公子の光(こう)に国を奪う野心のあることをみぬいた。
 そこで専諸(せんしょ)という勇士を手にいれ、光に推挙した。
 光はよろこんで子胥を賓客としてむかえいれた。
 しかも子胥はしりぞいて田野に耕し、専諸が事をなす日をまっていた。
 七年たった。楚では平王が死んだ。ついで楚の王となったのが昭王である。秦の公女がうんだ子である。
 その翌年、楚の国内に乱がおこったのに乗じて、呉王僚は二人の弟に大軍をさずけ、楚にさしむけた。
 また、季札を晋につかねして、諸侯の動きをうかがわせた。
 しかるに楚へ攻めいった呉軍は、背後を絶たれて進退するところをうしなった。
 公子光にとって、目的をとげるには絶好の機会である。
 光は王を自宅に招いた。地下の密室に武装した兵を隠している。
 いっぽう、招きに応じた王も、道路に兵をつらね、王宮から光の家にいたるまで、門にも階段にも戸口にも、さらに酒席にも、くまなく親近の者を配した。
 いずれにも両刃(もろは)の剣をもたせて、左右から護衛させた。宴が進むと、光は足が痛くなったと称して席をたち、地下室に去った。ややあって、一人の男が進みでてきた。専諸であった。
 焼き魚を大皿の上に盛ってささげている。もとより身には寸鉄もおびていない。
 王の前に進むと、焼き魚の腹中から匕首(あいくち)を取りだし、王の胸をふかく刺した。
 同時に専諸も、術士たちの剣をうけて胸をつらぬかれた。地下の密室からは、いっせいに光の兵士たちがおどりでた。こうして公子光は王僚を倒し、みずから立って王となったのである。
 すなわち呉王闔廬(こうりょ)と称した。
 闔廬は望みをはたすと、専諸の子を召しだして、卿(けい=総理大臣)の位につけた。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父6 マカオにて

2018-08-03 05:28:50 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 6

 1906年2月13日、宣教師団は香港につき、7時間後にマカオに着きました。サレジオ会員を中国に呼んだのは、マカオの司教でした。ポルトガル領であるここに司教は一つの寄宿学校をもっていました。この学校をサレジオ会の手に任せたいと望んでいたのです。司教区は、中国本土にまで大きく広がっていますが、司教はますこのマカオで中国語を学ぶチャンスを与えたのです。

 一行は、マカオに着くと、何より先にコロアネという小さな島を訪れました。ここに聖フランシスコ・ザヒエルの聖堂があり、聖人の腕とともに、日本とベトナムの殉教者の遺物が大事に保存されています。[本シリーズー「コロアネ教会のたから」の本にくわしく書いています]。その遺物のまえで祈る宣教師の額には、ご保護を願い、その模範に従おうとする決意がみなぎっていました。

 かれらの活動は、燃えたつ勢いではじめられました。でもまだ着いたばかりで、ことばが通じません。さっそく、ひとりの中国人神学生が助けに来ました。かれは、先生と通訳をかね、おかけで、3か月もたつと、なんとか話せるようになりました。それにしても、最初の宣教師であるかれらには、それ以上勉強のチャンスがなかったため、ずい分苦労しました。

 さて、赴任した学校の生徒数は、34名です。まもなくこれはふえていくでしょう。そのうち、公教要理を教える努力がみのって、14才の子どもか受洗を願い出ました。宣教師にとって大きな喜び、何という慰めでしょう!


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聖ペトロ・ユリアノ・エイマール司祭証聖者 St. Petrus Julianus Eymard C.

2018-08-03 05:24:30 | 聖人伝
聖ペトロ・ユリアノ・エイマール司祭証聖者 St. Petrus Julianus Eymard C.     記念日 8月3日


 19世紀に生まれ働き永眠し、教皇ピオ11世から福者の位をおくられたペトロ・ユリアノ・エイマールの如きは、先ず現代の聖人と称して差し支えない一人であろう。その店主に託された使命は、御聖体に対する一般信者の敬虔を深からしめることであった。
 彼は1811年フランスのグレノーブル市に程近い、ラ・ミュール市に生まれた。父は貧しい職人であったから、我が子の人並みすぐれて賢いことを知りつつも、十分学校にやることが出来ず、やはり手職を覚えさせるつもりであった。しかしペトロの幼い頃からの御聖体への尊敬をその心に植え付けた信心深い母は、彼が将来司祭になることを何よりも望んでいた。
 それは兼ねてまたペトロ自身の願いでもあった。しかし司祭になるにはどうしても学問がなければならぬ。で、彼は晩に仕事を終えてから、窃かに学生の友人を訪れ、その学校で学んで来たこと、わけてもラテン語などを習い覚えるように努めた。
 18歳を迎えるや、ペトロ・ユリアノは幸いに無原罪の聖母修道会に属する一司祭の世話で、同会に入ることが出来た。喜びに充ち溢れた彼は、遅れている学業を一気に取り返そうと、昼夜をおかず勉強したが、あまりにその度を過ごした為か、健康を害するに至り、心ならずも修道院を退き、保養の為家に帰らねばならなくなった。それで彼は教養不十分ながら、聖母の御助けを願って受験したところ2年後グレノーブルにある神学校に入学を許され、1834年23歳にして憧れの叙階を受けることが出来た。
 それからペトロ・ユリアノは同教区に勤め、5年を経た1839年、マリア会に入会し、種々の務めに精励した。彼が司祭としても御聖体に対する信心に極めて厚かったことはいうまでもないが、毎日ミサ聖祭を行う為に2時間ずつも霊的準備をした事によってもその一班が察せられよう。
 リオン市付近のフルヴィエという所に名高い聖母マリアの聖堂があるが、天主の御母を愛する心の深いペトロは、しばしばその聖堂に参詣して祈った。ところがそこで聖母は何回となく彼に現れ、特に御聖体崇敬を目的とする修道会の創立をお奨めになったので、彼もついにその気になり、マリア会を退きパリに行って、3人同志と共に御聖体会を始めたのである。
 この修道会の目的は第1御聖体を礼拝し、第2それによって我等の受ける数々の御恵みを感謝し、第3その中に籠もり給う主に対する人々の侮辱を償うにある。そしてそれを達成する為会員は永続的礼拝を行い、各自一日三回、即ち朝一時間、午後一時間、夜一時間、御聖体の御前に於いて祈りを献げる。最初彼等は別に使徒的な仕事に手を出さなかった。しかし後には事御聖体に関する限りその方面にも活動するようになり、例えば幼い頃受洗し、成人になるまで一度も御聖体を拝領しなかった人達にその準備をさせるとか、また御聖体拝領の美風を盛んならしめるため黙想会を開くなどにも力を尽くした。なお彼等はやがて婦人達の間に永続的御聖体礼拝を普及する為「御聖体の婢会」を作り一般有志を募って「御聖体後援会」を組織した。かようにしてペトロ・ユリアノはピオ10世教皇の提唱になる御聖体信心会及び万国御聖体大会の先駆者たる役を果たしたのである。
 その活動が体力を消耗したのであろう、彼は57歳で大病に罹り、1868年8月1日永遠の安息に入った。
 彼が創立した御聖体修道会は今世界に33の修道院を有し、約700の会員を擁している。

教訓

御聖体の信心を興すため天主に選ばれたペトロ・ユリアノ・エイマールは、無原罪の聖母会に入らんとして病に妨げられ、マリア会に入って止まり得ず、最後に主の聖旨なる御聖体会を創めてようよう心の平安を得た。「すべて天に在すわが父の聖旨を行う人こそ天国に入るべきなれ」というキリストの聖言は決して我等を欺かぬ。故に我等も常に心して天主の聖旨にそい奉るよう努むべきである。



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