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3-4-7 楚の荘王の覇業

2018-08-02 03:06:37 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

4 覇者の出現

7 楚の荘王の覇業

 周の桓王のとき、といえば、鄭(てい)の荘公が活躍していたころである。
 斉の桓公も、まだあらわれていない。
 楚の国では周の王室に対して、爵位を上げてもらいたいと要求した。周は、ゆるさなかった。
 すると楚の国君は、かってに「王」を称した。これが楚の武王である。

 それから九十年、晋の文公が死んでからでは十五年、楚では荘王が立った(前六一三)。
 すでに楚は、宋を討ち、鄭をおさえて、その勢力は黄河の南岸にまでおよんでいた。
 その勢いに乗って荘王は、洛水のほとりに軍をすすめ、周の国境において盛大な観兵式をおこなった。
 ときに周の定王の元年である(前六〇六)。
 定王は大夫(たいふ=大臣)の王孫満をつかねして、荘王をねぎらわせた。
 会見の席で、荘王は周の王室に伝わる鼎(かなえ)について、その大小や軽重をたずねた。
 これに対して、王孫満はこたえた。
 「鼎の価値は、それを持つひとの徳によってきまるものであります。
 鼎の大小や軽重には、かかわりありません。
 持ち主が明徳であれば、小なりとも重いのです。
 また持ち主が邪悪であれば、大なりとも軽いのです」。
 さらに言った。周王の君臨することは
 「天の命ずるところなり。周の徳は衰えたりといえども、天命いまだ改まらず。
 鼎の軽重も、いまだ問うべからざるなり」。

 いまや北に晋あり、南に楚あり。この二つの強国にはさまれて、宋や鄭や陳や蔡などの諸国は、ときどきの情勢に応じて、どちらかに従うということをくりかえした。
 さて荘王が立って十五年、楚は鄭および陳と会盟した。
 しかるに鄭は、晋との会盟に応じた。
 怒った荘王は、その翌年(前五九七)、兵を発して鄭の国都をかこんだ。
 戦うこと三ヵ月あまり、ついに鄭は屈し、鄭の襄公は肌をぬぎ、羊をひいて、楚の軍門にくだった。
 晋は、鄭をすくうために大軍を発したが、黄河のほとりに達したとき、鄭の降伏を知った。
 楚の軍もまた、鄭を去っていた。晋軍の司令官も、軍をかえそうとした。
 しかし部将のなかには、あくまでも戦うことを主張する者があり、そのまま進んで黄河をわたった。
 これを見殺しにすることもできず、晋の全軍は河をこえて南下する。楚軍もまた、軍をかえした。
 荘王は使者をつかわして和議を申しいれ、晋軍のあいだでも、これに応ずる空気がつよかった。
 しかし主戦派の将軍はよろこばない。かってに楚の陣営に近づいて夜襲をかけた。かくては楚軍も、大挙して攻勢に転ずる。
 晋の本陣は、和議の成立を待っていた。そこへ敵の来襲である。
 楚の荘王も、まっさきに進んだ。車も、兵も、まっしぐらに走った。
 不意をうたれて、晋軍はなすところを知らない。総くずれとなって、しりぞいた。河をわたって、のがれようとし、舟をあらそった。
 ために「舟中の指、掬(きく)すべし」という状況であった、という。
 乗りおくれた者が舟べりに手をかけると、さきに乗った者が転覆をおそれて、指を切りおとしたからである。
 日が暮れて、楚軍は邲(ひつ)に陣をかまえた。
 晋の敗残部隊は、もはや陣をかまえることもできなかった。
 夜になっても、黄河をわたりつづけた。人馬の声が夜どおし騒がしかった。
 この戦勝によって、楚の勢力は完全に晋を圧倒した。
 中原の諸国も、いまや楚になびかざるをえなくなった。

 楚の荘王は、さきの斉桓や晋文のように、ことさらに諸侯をあつめて会盟をおこなうようなことはしなかった。
 しかし実力のうえでは、まさしく覇者にちがいなかった。
 覇者たる者が「尊王攘夷」をスローガンとしてかかげる時代は、すでに去っていた。
 かつては攘夷の対象のひとつであった楚の国が、いまや覇者なのである。
 そうして、こののちも春秋時代の末まで、北の晋と南の楚とは、中原をはさんで対立し、抗争する。

(写真は鼎)

この世にも煉獄あり 十字架の聖ヨハネ

2018-08-02 02:00:29 | 格言・みことば
光栄において神に一致するためには、汚れのある霊魂は、来世において煉獄の火の苦悩を通過するのと同様、この世においての完全な一致のためには、苦悩の火を通過しなければならない。

十字架の聖ヨハネ 『愛の生ける炎』

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父5 召命

2018-08-02 01:57:53 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 5

 心の秘密は知るよしもありませんが、その頃学校のそはのキリスト信者の助けなる聖マリアの大聖堂で宣教師の送別会がありました。祭壇の上からドン・ボスコのあとをついだルア神父の話がひびきます。これに全員参加した生徒たちの間から、ヴェルシリア少年の熱い視線が宣教師たちの中のひじょうに若いひとりに注がれていました。

『ぼくもサレジオ会の神父さまになりたい』と、ヴェルシリアの心が思わず熱い決意を叫ばずにいられなかったほど、その人の態度は深い印象を与えました。やっぱり、そのとき、ドン・ボスコが、かれの心に叫びかけていたのです。かれは、以前から信仰に対して熱心でしたが、それからは、ますます燃えていきました。

 あれから、神学生になり、司祭になっても、かれは、イエズスと聖母マリアのみ心に対する信心を大切にしました。

 ローマに留学を命じられ、哲学博士号を得たヴェルシリアは、もうサレジオ神学校の先生です。22才になったばかりなのに、1895年12月21日、司祭に叙階されました。

聖ドン・ボスコのあの有名な夢のなかで、サレジオ会の宣教師は中国に入ったのです。でも、生存中は実現しませんでした。それがこの世紀になった今、実現されようとしています。

 1905年、最初のグループが選はれました。その団長に選はれたものの、出発がのびるのをみたコネルリ神父は、ある日ヴェルシリア神父を訪れました。

「わたしは団長にされたのに、どうしてたか分りませんが、目上があちらに行かせないような気がしてなりません。ああ、そうだ、神父さま、中国にはあなたが行きますよ、そして殉教者になるでしょう」。

 そんなこと、あるはずがないと思っていった冗談でしたが、その冗談が実現しようとは!・・・まもなく、コネルリ神父は病気になり、その代わりは、ヴェルシリア神父に決まったのです。しかし、乗船した一行に教皇の祝福をもって行き、その額を渡す役目をしたのは、コネルリ神父でした。

ベルチェリの聖エウゼビオ司教  St. Eusebius de Vercelli

2018-08-02 01:56:40 | 聖人伝
ベルチェリの聖エウゼビオ司教  St. Eusebius de Vercelli      記念日 8月2日


 エウゼビオは、286年イタリアのサルディーニャで生まれ、ローマで教育を受けて340年にベルチェリの司教に任命された。彼は、祈りの生活を養う最善の方法は、仲間の司祭達といっしょに修道者の共同体のように暮らして、互いに助け合うことだと確信して、このような霊的生活を奨励した。
 その頃アリウス派の異端者達がキリストが神性と人性を持たれることを否定していたが、大神学者のアタナシウスがほとんど独りで異端者達に反対していた。その時の皇帝はアタナシウスに大反対して、司教達を集めてこの偉大な聖人を罪に定めるように命令した。エウゼビオはその司教達の一人であったが、死の危険もかえりみず断固と拒絶したためにパレスチナへ追放され、アタナシウスの敵に渡されて屈辱を受けた。361年に皇帝が亡くなり、エウゼビオも自由の身となった。
 多くの学者達はエウゼビオが有名な「アタナシウス信経」を手伝って書いたと言っている。その信経はカトリックとプロテスタントの信者たちに、彼等の信仰及び救い主についての理解を深める上で、非常に大きな影響を及ぼした。彼は371年に亡くなった。



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