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3-7-3 孫武の伝説

2018-08-23 19:48:55 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

7 権謀と術数

3 孫武の伝説

 兵法の書といえば、だれでも『孫子』の兵法をまず思いうかべるであろう。
 ところで『孫子』の著者、あるいは孫子その人といわれてきたのは、戦国の世の孫臏ではない。
 それより百年ほど前、呉の国に孫武という兵法家があった。
 この孫武こそ、名高い孫子その人と伝えられてきたのであった。
 司馬遷の『史記』によれば、孫武もまた斉の人であり、孫臏はその子孫であった、という。
 そして孫武は十三編の兵法書(孫子)をあらわし、呉王の闔廬(こうりょ=夫差の父)に仕えた。

「孫子勒姫兵」安田靫彦

 さて孫武が、はじめて闔廬に見(まみ)えたときのこと、王はいった。
 「そなたの書かれた十三編は、ことごとく読んだ。ひとつ、実際に兵を動かして見せてくれまいか」。
 「よろしゅうございます」。
 「婦人をつかって見せてくれるか」。
 「よろしゅうございます」。
 そこで宮中の美女百八十人が召しだされた。
 孫武は、これを二隊にわけ、王の寵姫(ちょうき)二人をおのおの隊長とした。
 さて一同に戟(げき=左右に枝のあるホコ)を持たせ、命令していった、
 「お前たちは、自分の胸と、左右の手と、背中とを知っておるか」。
 「知っております」と、女たちは答えた。
 そこで孫武はいった。
 「前、と言ったら胸を見よ。左、と言ったら左手を見よ。右、と言ったら右手を見よ。後、と言ったら背中を見よ」。
 女人たちが「はい」と答えたので、軍令を布(し)き、鉄鉞(まさかり)を用意したうえ、三たび軍令を示して、五たびこれを説明した。
 そうして鼓(つづみ)をうち、「右ッ」と号令した。女たちは大いに笑うばかりであった。
 孫武は「軍令があきらかならず、号令が徹底せぬのは、将たる者の罪である」といって、また三たび命令を示し、五たび説明した。
 そうして鼓をうち、「左ッ」と号令した。女たちは、またも大いに笑うばかりであった。
 孫武はいった「軍令があきらかならず、号令が徹底せぬのは、将たる者の罪である。
 しかし、すでに軍令があきらかなるに、なお兵が号令にしたがわぬのは、隊長の罪である」。
 たちまち左右の隊長を斬ろうとした。
 呉王は台上からみていたが、愛姫が斬られようとするので、大いに驚き、あわてて伝令を発していわせた。
 「もはや将軍が用兵の達人たることはわかった。わしは、この二人の女がいないと、何を食べても、うまくない。
 どうか斬らないでくれ」。
 孫武はいった、「私はすでに命を受けて、将となっております。
 将たる者は軍中にあれば、君命をもきかぬことがあります」。
 ついに隊長二人を斬って、みせしめとした。そして、その次の者を隊長とし、鼓をうって号令を発した。
 女たちは、左に右に、前に後に、ひざまずくも起(た)ちあがるも、すべて規則どおりに動き、声をだす者さえなかった。
 かくて孫武は伝令をもって王に報告した。
 「すでに兵は整いました。こころみに王みずから台よりおりて、動かしてごらんください。
 もはや王の意のままに、水火のなかといえども進んでまいりましょう」。
 しかし呉王は、あえて台からおりようとはしなかった。
 孫武はいった、「王は、いたずらに議論をこのまれるばかりなのだ。それを実地に用いることはできない」。
 孫武にかんする話は、これが唯一のものであって、そのほかの事跡はあきらかでない。
 後世の書物には、孫武という名も、孫武が兵法の書をあらわしたということも、記されていない。
 そこで、孫武とは架空(かくう)の人物ではなかったか、また『孫子』は孫武の著作ではなく、むしろ孫臏(そんひん)の兵法をつたえたものではないか、と疑う学者が多くなった。
 さらに『孫子』を、後世の偽作(ぎさく)である、と主張する学者もあらわれた。
 そこまで否定しなくとも、学界では『孫子』が一人の著作ではなく、孫武から孫臏にいたって完成したものであり、春秋時代の末期から戦国時代に至る兵法を示したもの、という見解が大勢を占めてきたのである。
 しかし一九七二年四月、山東省の一角(臨沂=りんき)において、前二世紀末ごろ、すなわち前漢時代の二つの墓が発掘されたところ、なかからたくさんの兵法書が出土した。
 それには「孫子の兵法」と「孫臏の兵法」との両者がふくまれていた。
 孫子といわれる人と、孫臏とは、はっきり別人であることが、これによつて証明された。
 やはり「孫子の兵法」は孫武の著作であり、それとは別に「孫臏の兵法」があったのである。
 また孫臏は、孫武の孫にあたるらしいこともわかった。
 このように、二千年以上も前の古い書物が発見されたというのは、まことに驚くべきことである。
 この内容の大略については、一九七四年三月に発表されたが、研究がすすめば『孫子』にまつわる従来の疑問も、はっきり解明されるであろう。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父22 身代わり

2018-08-23 18:36:21 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 22

 匪賊たちは、まもなく竹やぶのもっと奥ふかく女性たちをかくし、宣教師たちを他の場所に移しました。何ごとかとしのび寄る村人に司教の声が聞えてきました。

「わたしは、もう年です、殺されてもかまいませんが、若いこの人は殺さないでください」

「だめだ、ふたりとも死刑だ」と匪賊の声。草むらからのぞく村人の目に天をあおいで祈るふたりの姿が見え、とたんに5発の銃声がとどろきました。かけつけようとする女性たちを妨げる匪賊の罵声!10分ほどして、ふたりの匪賊が死骸に近づき、その死を確実なものとするために、銃尻でめちゃめちゃに打ちはじめました。やがて、司教の頭骸骨はたたき割られ、カラヴァリオ神父の頬骨はうち砕かれて、今は見るも無惨な姿です。ここに訪れた他の宣教師が、ふたりの殺された場所に小さな十字架を立てて、めじるしにしましたが、それはあとのことです。

 匪賊がどんなにかくそうとしても、たちまち殉教の噂は広まり、遺体は掘り出されて、丁重にシニチョウに移されました。こうなったら、いつまで逃げおおせるものでもありません。ついに匪賊は、3人の女性を解放しなけれはならなくなりました。蒋介石の軍隊の手から無事に連れ戻されたとき、かの女たちは、いのちの恩人である司教の墓前にひざまずいて、感謝しました。

永井隆「初旅」

2018-08-23 18:33:55 | 格言・みことば
永井隆「初旅」(著者はカトリックの医師・医学者、長崎で被曝)

 まこと純心修道院の童貞さまから誠一とカヤノ宛に手紙が来て、入学祝いに服を作ってあげるから、学校の始まる前においでなさい、との招きである。この修道院の経営する女学校でこの子の母はながく教員を勤めていたので、童貞さまの中には、母の教え子もいた。この子たちは幼いころから母に連れられてよく修道院に遊びに行き、童貞さまからかわいがられていた。原子禍のとき、この修道院も女学校もつぶれて焼けた。修道院長のマグダレナさまも大きな柱の下敷きになり、迫りくる火にすでに危なく見えたが、通りがかりの人に助けられ、傷ついた多くの修道女をまとめて木場という山の中のカトリック集落に移った。私らもその集落へ行って救護所を開いたので、ずっと修道女たちの手当てにあたった。谷間に掘っ立て小屋を建て、まったくアシジの聖クララたちそっくりの清貧な修道院ができていた。傷ついた修道女たちが祈りながら、互いに看護し合っている情景は美しかった。冬になるころ、神のお恵みによってこの貧しい修道院は、長崎から汽車で二時間かかる大村市の軍事施設の払い下げを受けて女学校を再建することになった。まだ回復期で脚のよろめく修道女たちは、明るい希望を抱いて大村に移った。

 私たちが原子野に掘っ立て小屋を建てて、吹きさらしの中に夏衣を着て震えながら住んでいたら、童貞さまが思いもかけず訪れて、子供たちに毛布で作った服をくださった。カヤノはえまことりについている赤い花のししゅうがとても気に入った。誠一はジャンパーのボタンをはめたり、はずしたりして喜んだ。荒野のサンタクロースだった。

 いま純心修道院は幼稚園、中学部、高等学部のほかに、大学程度の神学部をおいて、純心学園として大きな組織をもつまでになった。けれども、やさしい童貞さまたちは、すでに世から忘れられようとしている私たちをいつまでも覚えていて、子供がそれぞれ中学校と小学校に入ったものの、母親がなくては新しい服も仕立ててもらえないだろうと、こうしてわざわざ招いてくださった。

 私は二人だけで旅をさせようと考えた。あの汽車は佐世保行きで、とても混雑する。大人でさえも命がけだという。よく新聞にけが人や死人の記事が出る。おまけに途中に長いトンネルぷんすいれいがある。そのトンネルは分水嶺にあるので、トンネルの中央に峠があり、両方へ向かって急な坂になっている。汽車はやっとこさで坂を上りつめ、ついに力尽きてトンネルの中で立往生してしまうことが度々ある。トンネルの長さは一キロ以上もあるだろう。その中に閉じこめられ、おまけに窓ガラスが割れているので、車内はもうもうと黒い煙に満たされる。息はつまる。ぎっしり詰めこまれて身動きはならぬ。死ぬか死ぬかと思うばかり。

 どうも、幼子二人だけ行かせるのは心もとない。もし万一のことがあったら・・・せっかく男手でここまで育ててきて、とも考える。ところが二人は、童貞さまの手紙を読んで大喜びだ。ぼろ服を着て入学式に行くのかと、くさっていたところへ、新しい服をくださると言う。行けばなつかしい童貞さまたちが、かわいがってくださる。きっとピアノも鳴らしてくださる。おいしい西洋菓子もつくってくださる・・・まるでおとぎの国へ行くかのような大はしゃぎ。

 こんなに楽しみにしているのだから行かせよう。どのみちこれからは、いつも二人手をつないで、世間の荒さをしのいで生き抜かねばならぬ兄妹なのだ。妹は兄を頼み、兄は妹を助け、妹は兄のほかに頼まず、兄は妹にまず手を貸し、一本ならば折れる麻も二本となれば折れ難いと信じ、一束になって勇気を出さねばならぬ二人なのだ。ちょうど入学という新しい出発にあたって、幼い二人が、二人だけの間に信頼と親愛とを固めてくれるのには、この上ないよい機会だ。

「行ってきます」

 二人は手をつないで出て行った。

「カヤノ、ちょこちょこ走るんじゃないよ」

 と私は床の中から叫んだ。しかし、二人はもう走り出してしまって、返事はなかった。

 私はロザリオを取り出し、爪繰りながら二人の初旅の平安を聖母に祈った。

永井隆『この子を残して』


リマの聖ローザおとめ     St. Rosa de Lima V.

2018-08-23 18:30:24 | 聖人伝
リマの聖ローザおとめ     St. Rosa de Lima V.         記念日 8月23日


 1492年アメリカを発見したクリストファー・コロンブスから、その地の珍しい話の数々を伝え聞いたスペインの人々の中には、新大陸をさながら無限の宝に充たされた楽土の如く考え、我こそはその富を先取しようと希望に燃えつつ故国を船出した者も少なくなかった。殊にそれから40年ほどして南米ペルーを征服したスペイン人達は土着民等を圧迫虐使して時にはほしいままにその生命を奪う暴挙をも敢えてし、宣教師達が彼等の非キリスト教的行為を厳しく戒めたにも拘わらず更に意に介しなかった。さればかような大罪を先ず十分に償わねば天主の聖寵の慈雨は決してこの国をうるおさなかったであろうが、幸いにもか弱い女性の身を以て雄々しい犠牲の生活を送り、神の国をその地に建てる礎石となった人があった、それは聖ローザ童貞に他ならない。
 彼女は1586年ペルーの都リマに呱々の声を挙げた。受洗の際の霊名はイザベラ(小さきエリザベト)であったが、生来至って器量がよく、顔のあでやかさは薔薇の花をも欺くという所から、後にはローザ(薔薇)と名付けられるに至った。
 彼女の両親は共に立派な心がけの人で、始めは相当な財産もあったけれど、不運続きでこれを失い、次第に貧しくなった。しかし彼等の信仰はその為に決して動揺せず、却って益々深く厚くなりゆくばかりであった。子宝は10人の多数を恵まれたが、ローザはその中で長女であったらしい。
 彼女は漸く物心つくほどの年頃から、既に天主の不思議な御指導を受けて、贖罪、犠牲、愛苦の崇高な精神をわきまえていたようであった。それは例えば子供に似気なく、大手術を受けた時甚だしい苦痛を歯を食いしばって忍耐し、一言も泣き言を漏らさなかったり、毎週三日は少量のパンと水で過ごしたり、寝台の代わりに堅い板の上に休んだりした所にも窺われる。そしてこの傾向は長ずるに及んでますます著しくなり、人知れずさまざまの苦行の方法を案出しては実行した。彼女はまた自分の美貌が人の心を迷わすことを懼れ、インド胡椒を顔に擦りこんだり丈なす黒髪を切り落としたりしてその美を損ない、心を乱されぬよう庭の片隅に極く小さい離れを建て、そこに籠もって日に十時間も祈祷や黙想を行い、以て罪人に主の御憐れみを願い求めた。それから他の十時間は織物刺繍等家の働きに用い、睡眠は僅か二時間取るに過ぎなかったというが、勿論かような厳しい償いの生活は、天主特別の思し召しによるもので、主の御扶助がなければ到底人間のよく為し得る所ではない。事実ローザには天主や聖人方が現れて慰安や激励を与えられたことが一再ならずあったのである。
 かくの如く肉身上の苦行に精励した彼女は、またしばしば天主にも棄てられたような孤独感を始め、諸々の耐え難い霊的の悩みにも襲われた。それはいわば主のゲッセマネにおける御苦痛をある程度まで共にしたようなものであった。それに父母も信心深い人ではあったけれど、彼女の精神が理解できず、苦行をやめて早く結婚せよとしきりに勧め、彼女がそれを素直に聴かないといっては、厳しく叱り、時には打擲さえもした。しかしこの難に訴えることも出来ぬ苦痛を、ローザはじっと押しこらえ、少しも悪い顔を見せずいそいそと家庭の仕事に立ち働き、影では親の為に主の御祝福を祈った。そしてつとに天主にたてた純血の誓願を一層固める為に、20歳の時にドミニコ会の第三会に入り、父母の膝下に在りながらも、最も完全な修道女の様な生活を送り、己を全く世の救霊の犠牲として献げた。その狭い離れはローザの敬虔をよみし給う天主の御恵みによってさながらこの世の天国の如く変わり、その周囲には美麗な薔薇の花が咲き乱れ、小鳥共は恐れる色なく室内に飛び入り、愛らしくさえずり交わし、祈祷を献げる聖女と共に天地の創造主を讃美した。
 克己の業を求めて飽くことのないローザは、主にあやかるべく鞭と茨の冠とを作り、これを用いて我が身を懲らし、更に生石灰を以て手を灼き、その苦痛を天主に献げる等なおも苦行を続けたが、もし指導司祭の厳禁がなかったら、どれほどまで峻烈な犠牲を行ったか知れない。
 かような彼女の捨身修徳が豊かな聖寵を招来せぬはずはない。実際彼女は幾度となく幻の中に深い霊界の真理を啓示されたこともあったが、謙遜な彼女はいつもそれを自分の心一つに包んで他人に語らなかった。ただ指導司祭が命令すると、従順の徳を破りたくないばかりに、その消息の一班を打ち明けるに過ぎなかった。
 日頃峻烈な苦行に勉めたせいか、ローザはついに健康を害し極めて苦痛な病気に罹った。それは体内に灼けつくような痛みを感じ、どんな手当をしても、どんな薬を飲んでも、少しも快方に向かわなかった。かくてその苦しみを世の償いとして主に献げること三年、いよいよ最後の間近いことを悟ったローザはゴルゴダにおける主の御受難を黙想し、三日目に主の聖名を三度誦えたと思うと、眠るが如く大往生を遂げた。時に1617年8月24日。その感ずべき犠牲の生涯は天に於いて厚く報いられたことであろう。死後彼女はアメリカ一の聖女、南米の花と讃えられ、その取り次ぎによる奇蹟も数多起こったから、1671年遂に列聖の栄誉をになうに至った。

教訓

 我等はリマの聖ローザ童貞の伝を呼んでその苦行に対する熱意に感嘆すると共に一つの事に注意を呼び起こしたい。それは天主は限りない御憐れみを有し給うが、また限りない正義の御方であるから如何なる罪をも償いなしには看過せられぬと言うことである。故に我等は少なくとも、日々の生活に見いだされるささやかな不快、苦痛等を耐え忍び、自他の罪の償いに献げ、聖女ローザの代祷を願って益々己が犠牲精神を強化するように努めよう。



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