『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
5 呉越の抗争
6 陶朱公の話
さて范蠡(はんれい)は越王句践(こうせん)に仕えること二十余年、身を苦しめて力をあわせ、ついに句践をして覇者たらしめた。
みずからは上将軍と称して、国に帰還する。しかし范蠡は思うのであった。
大きな名声のもとでは、長居ができない、と。よって范蠡は、句践にわかれをつげた。
句践はしきりに引きとめた。しかし范蠡は、国をわかち与えようとの申し出も、ことわった。
わずかの財産をもち、一族郎党と舟に乗って、海にうかんで越を去った。
范蠡は海上から斉の国におもむいた。そこで姓名を変じ、みずから鴟夷子皮(しいしひ)と称した。
鴟夷(しい)とは、馬の革でつくった袋のことである。
自在に巻いてもちいるので、自由な人の意味をふくめている。
また呉王に殺された伍子胥は、屍体を鴟夷に詰めて、長江に投げ捨てられた。
その故事によって、みずからも罪ある人というきもちをあらわした、ともいわれている。
こうして斉の国におちついた范蠡は、旧友たる大夫(たいふ)の種(しゅ)に書簡を送った。
「飛鳥(ひちょう)が尽きれば、良弓に蔵(かく)され、狡兎(こうと=すばしっこい兎)が死すれば、走狗(そうく)は煮られる。
越王の人柄たるや、艱難(かんなん)を共にすることはできても、楽しみを共にすることはできない。
あなたはどうして越を去らないのか」。
この書簡をみると、種は病と称して引きこもってしまった。
そこに種のことを、乱をおこそうとしていると、讒言(ざんげん)する者があらわれた。
越王は種に剣をたまわって、自殺を命じた。
いっぼう范蠡は斉にあって蓄財にはげみ、やがて数万もの富をきずいた。
斉の人は范蠡の賢いことを聞いて、相(しょう=大臣)に迎えた。しかし范蠡は嘆息し、
「家におれば千金の富をたくわえ、官におれば卿相(けいしょう)の位にいたる。これは栄華の極である。
ながらく尊名を受けるのは、不祥である」
といって、相たることを辞退し、その財産をことごとく知友や郷党の人たちにわかち与えてしまった。
みずからは特別の珍宝だけを懐中にして、微行して去り、陶(山東の西南にあり)の地におちついた。
そこは天下の中央であり、有無を交易する道が通じていて、富をいたすことができる、とかんがえたからであった。
そこで、みずから朱公と称し、父子で農耕や畜産にはげむかたわら、時機をうかがっては物資を売買して、十分の一の利を求めた。
いくばくもなくて産をなし、巨万の富をかさねたので、天下に陶朱公の名がとどろいた。
その後、朱公は楚の国に移り住んだが、晩年になると、また陶にもどり、ついに陶で老死したという。
つまり范蠡は三たび居を移して、そのたびに天下に名を成した。
ただ土地を移るのではなく、とどまった所では、かならず名をなしたのであった。
ところで、この范蠡の後年の話、すなわち陶朱公の事跡は、はたして事実であったのか。
范蠡という越の忠臣、その人の実在をさえ、疑う学者もいる。
ましてや陶朱公とよばれる人が、范蠡であったのかどうかは、疑わしい点がすくなくない。
おそらくは何人もの事跡が、陶朱公ひとりの話につくりあげられ、さらに范蠡に結びつけられたのではあるまいか。
そればかりではない。
呉と越との抗争は、それが激烈なものであっただけに、また呉と越との興隆が中原の諸侯をおびやかしたものであっただけに、後世になると、さまざまの物語が作り加えられていった。
呉王夫差は越のために父をうしなうと、夜な夜な薪(たきぎ)の上に臥(ふ)して、その身の痛みに父の遺恨を思いおこし、越に対する復讐の念をとぎすませたという。
これが有名な夫差の「臥薪(がしん)」である。
のちに越王句践が会稽の恥をすすぐため、胆(きも)を嘗(な)めた話と合わせて「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という。
しかし臥薪嘗胆の話は、『国語』とか『左氏伝』のような古い書物にはでていない。
司馬遷の『史記』になって、初めて句践の嘗胆の話があらわれる。
『史記』が書かれたのは、呉越の時代から四百年も後のことであるから、この間に嘗胆の話かつくられたものであろう。
さらに夫差の臥薪の話があらわれるのは、いっそう後代のことであった。
ともあれ越王句践が山東の地方にまで進んで、中原の諸侯を圧する形勢は、前五世紀のなかばごろまでつづいていたようである。
そのころになると、中原の諸国の内部にも、さまざまの変化がおこってきていた。
なかでも、もっとも注目すべきものが、晋の国の内戦であった。
そして、かつては中原の覇者であった晋の国が、三つの国に分裂してしまう。
こうして中国の歴史は、いわゆる戦国の世となるのであった。
いっぽう越の国も、句践の死後は次第に奮わなくなってゆく。
百年あまりたった前四世紀の後半、句践六世の孫たる越王無彊(むきょう)は、楚を討って大敗した。
楚の威王は無彊を殺し、呉の旧領であった浙江(せっこう)の地にいたるまで、越の領土をことごとく取った。
さしもの越も、ここにおいてほろび去ったのであった(前三三三)。
5 呉越の抗争
6 陶朱公の話
さて范蠡(はんれい)は越王句践(こうせん)に仕えること二十余年、身を苦しめて力をあわせ、ついに句践をして覇者たらしめた。
みずからは上将軍と称して、国に帰還する。しかし范蠡は思うのであった。
大きな名声のもとでは、長居ができない、と。よって范蠡は、句践にわかれをつげた。
句践はしきりに引きとめた。しかし范蠡は、国をわかち与えようとの申し出も、ことわった。
わずかの財産をもち、一族郎党と舟に乗って、海にうかんで越を去った。
范蠡は海上から斉の国におもむいた。そこで姓名を変じ、みずから鴟夷子皮(しいしひ)と称した。
鴟夷(しい)とは、馬の革でつくった袋のことである。
自在に巻いてもちいるので、自由な人の意味をふくめている。
また呉王に殺された伍子胥は、屍体を鴟夷に詰めて、長江に投げ捨てられた。
その故事によって、みずからも罪ある人というきもちをあらわした、ともいわれている。
こうして斉の国におちついた范蠡は、旧友たる大夫(たいふ)の種(しゅ)に書簡を送った。
「飛鳥(ひちょう)が尽きれば、良弓に蔵(かく)され、狡兎(こうと=すばしっこい兎)が死すれば、走狗(そうく)は煮られる。
越王の人柄たるや、艱難(かんなん)を共にすることはできても、楽しみを共にすることはできない。
あなたはどうして越を去らないのか」。
この書簡をみると、種は病と称して引きこもってしまった。
そこに種のことを、乱をおこそうとしていると、讒言(ざんげん)する者があらわれた。
越王は種に剣をたまわって、自殺を命じた。
いっぼう范蠡は斉にあって蓄財にはげみ、やがて数万もの富をきずいた。
斉の人は范蠡の賢いことを聞いて、相(しょう=大臣)に迎えた。しかし范蠡は嘆息し、
「家におれば千金の富をたくわえ、官におれば卿相(けいしょう)の位にいたる。これは栄華の極である。
ながらく尊名を受けるのは、不祥である」
といって、相たることを辞退し、その財産をことごとく知友や郷党の人たちにわかち与えてしまった。
みずからは特別の珍宝だけを懐中にして、微行して去り、陶(山東の西南にあり)の地におちついた。
そこは天下の中央であり、有無を交易する道が通じていて、富をいたすことができる、とかんがえたからであった。
そこで、みずから朱公と称し、父子で農耕や畜産にはげむかたわら、時機をうかがっては物資を売買して、十分の一の利を求めた。
いくばくもなくて産をなし、巨万の富をかさねたので、天下に陶朱公の名がとどろいた。
その後、朱公は楚の国に移り住んだが、晩年になると、また陶にもどり、ついに陶で老死したという。
つまり范蠡は三たび居を移して、そのたびに天下に名を成した。
ただ土地を移るのではなく、とどまった所では、かならず名をなしたのであった。
ところで、この范蠡の後年の話、すなわち陶朱公の事跡は、はたして事実であったのか。
范蠡という越の忠臣、その人の実在をさえ、疑う学者もいる。
ましてや陶朱公とよばれる人が、范蠡であったのかどうかは、疑わしい点がすくなくない。
おそらくは何人もの事跡が、陶朱公ひとりの話につくりあげられ、さらに范蠡に結びつけられたのではあるまいか。
そればかりではない。
呉と越との抗争は、それが激烈なものであっただけに、また呉と越との興隆が中原の諸侯をおびやかしたものであっただけに、後世になると、さまざまの物語が作り加えられていった。
呉王夫差は越のために父をうしなうと、夜な夜な薪(たきぎ)の上に臥(ふ)して、その身の痛みに父の遺恨を思いおこし、越に対する復讐の念をとぎすませたという。
これが有名な夫差の「臥薪(がしん)」である。
のちに越王句践が会稽の恥をすすぐため、胆(きも)を嘗(な)めた話と合わせて「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という。
しかし臥薪嘗胆の話は、『国語』とか『左氏伝』のような古い書物にはでていない。
司馬遷の『史記』になって、初めて句践の嘗胆の話があらわれる。
『史記』が書かれたのは、呉越の時代から四百年も後のことであるから、この間に嘗胆の話かつくられたものであろう。
さらに夫差の臥薪の話があらわれるのは、いっそう後代のことであった。
ともあれ越王句践が山東の地方にまで進んで、中原の諸侯を圧する形勢は、前五世紀のなかばごろまでつづいていたようである。
そのころになると、中原の諸国の内部にも、さまざまの変化がおこってきていた。
なかでも、もっとも注目すべきものが、晋の国の内戦であった。
そして、かつては中原の覇者であった晋の国が、三つの国に分裂してしまう。
こうして中国の歴史は、いわゆる戦国の世となるのであった。
いっぽう越の国も、句践の死後は次第に奮わなくなってゆく。
百年あまりたった前四世紀の後半、句践六世の孫たる越王無彊(むきょう)は、楚を討って大敗した。
楚の威王は無彊を殺し、呉の旧領であった浙江(せっこう)の地にいたるまで、越の領土をことごとく取った。
さしもの越も、ここにおいてほろび去ったのであった(前三三三)。