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3-5-6 陶朱公の話

2018-08-08 04:01:54 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

5 呉越の抗争

6 陶朱公の話

 さて范蠡(はんれい)は越王句践(こうせん)に仕えること二十余年、身を苦しめて力をあわせ、ついに句践をして覇者たらしめた。
 みずからは上将軍と称して、国に帰還する。しかし范蠡は思うのであった。
 大きな名声のもとでは、長居ができない、と。よって范蠡は、句践にわかれをつげた。
 句践はしきりに引きとめた。しかし范蠡は、国をわかち与えようとの申し出も、ことわった。
 わずかの財産をもち、一族郎党と舟に乗って、海にうかんで越を去った。
 范蠡は海上から斉の国におもむいた。そこで姓名を変じ、みずから鴟夷子皮(しいしひ)と称した。
 鴟夷(しい)とは、馬の革でつくった袋のことである。
 自在に巻いてもちいるので、自由な人の意味をふくめている。
 また呉王に殺された伍子胥は、屍体を鴟夷に詰めて、長江に投げ捨てられた。
 その故事によって、みずからも罪ある人というきもちをあらわした、ともいわれている。
 こうして斉の国におちついた范蠡は、旧友たる大夫(たいふ)の種(しゅ)に書簡を送った。
 「飛鳥(ひちょう)が尽きれば、良弓に蔵(かく)され、狡兎(こうと=すばしっこい兎)が死すれば、走狗(そうく)は煮られる。
 越王の人柄たるや、艱難(かんなん)を共にすることはできても、楽しみを共にすることはできない。
 あなたはどうして越を去らないのか」。

 この書簡をみると、種は病と称して引きこもってしまった。
 そこに種のことを、乱をおこそうとしていると、讒言(ざんげん)する者があらわれた。
 越王は種に剣をたまわって、自殺を命じた。
 いっぼう范蠡は斉にあって蓄財にはげみ、やがて数万もの富をきずいた。
 斉の人は范蠡の賢いことを聞いて、相(しょう=大臣)に迎えた。しかし范蠡は嘆息し、
 「家におれば千金の富をたくわえ、官におれば卿相(けいしょう)の位にいたる。これは栄華の極である。
 ながらく尊名を受けるのは、不祥である」

 といって、相たることを辞退し、その財産をことごとく知友や郷党の人たちにわかち与えてしまった。
 みずからは特別の珍宝だけを懐中にして、微行して去り、陶(山東の西南にあり)の地におちついた。
 そこは天下の中央であり、有無を交易する道が通じていて、富をいたすことができる、とかんがえたからであった。
 そこで、みずから朱公と称し、父子で農耕や畜産にはげむかたわら、時機をうかがっては物資を売買して、十分の一の利を求めた。
 いくばくもなくて産をなし、巨万の富をかさねたので、天下に陶朱公の名がとどろいた。
 その後、朱公は楚の国に移り住んだが、晩年になると、また陶にもどり、ついに陶で老死したという。
 つまり范蠡は三たび居を移して、そのたびに天下に名を成した。
 ただ土地を移るのではなく、とどまった所では、かならず名をなしたのであった。
 ところで、この范蠡の後年の話、すなわち陶朱公の事跡は、はたして事実であったのか。
 范蠡という越の忠臣、その人の実在をさえ、疑う学者もいる。
 ましてや陶朱公とよばれる人が、范蠡であったのかどうかは、疑わしい点がすくなくない。
 おそらくは何人もの事跡が、陶朱公ひとりの話につくりあげられ、さらに范蠡に結びつけられたのではあるまいか。
 そればかりではない。
 呉と越との抗争は、それが激烈なものであっただけに、また呉と越との興隆が中原の諸侯をおびやかしたものであっただけに、後世になると、さまざまの物語が作り加えられていった。
 呉王夫差は越のために父をうしなうと、夜な夜な薪(たきぎ)の上に臥(ふ)して、その身の痛みに父の遺恨を思いおこし、越に対する復讐の念をとぎすませたという。
 これが有名な夫差の「臥薪(がしん)」である。
 のちに越王句践が会稽の恥をすすぐため、胆(きも)を嘗(な)めた話と合わせて「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という。
 しかし臥薪嘗胆の話は、『国語』とか『左氏伝』のような古い書物にはでていない。
 司馬遷の『史記』になって、初めて句践の嘗胆の話があらわれる。
 『史記』が書かれたのは、呉越の時代から四百年も後のことであるから、この間に嘗胆の話かつくられたものであろう。
 さらに夫差の臥薪の話があらわれるのは、いっそう後代のことであった。
 ともあれ越王句践が山東の地方にまで進んで、中原の諸侯を圧する形勢は、前五世紀のなかばごろまでつづいていたようである。
 そのころになると、中原の諸国の内部にも、さまざまの変化がおこってきていた。
 なかでも、もっとも注目すべきものが、晋の国の内戦であった。
 そして、かつては中原の覇者であった晋の国が、三つの国に分裂してしまう。
 こうして中国の歴史は、いわゆる戦国の世となるのであった。
 いっぽう越の国も、句践の死後は次第に奮わなくなってゆく。
 百年あまりたった前四世紀の後半、句践六世の孫たる越王無彊(むきょう)は、楚を討って大敗した。
 楚の威王は無彊を殺し、呉の旧領であった浙江(せっこう)の地にいたるまで、越の領土をことごとく取った。
 さしもの越も、ここにおいてほろび去ったのであった(前三三三)。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父11  聖母とミカエルの出現

2018-08-08 02:20:49 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 11

 新しい宣教師が派遣されてきました。その目上となったヴェルシリア神父は、新しい教会を、いくつも建てました。その一つは、サンファンの町にあります。かれは、ここの離れた信首のために全力をつくしました。70才ほどのある老人は、キリスト教を嫌う親戚の圧迫で信仰を捨てていました。

「神父さま、どうぞ、これを見てください」

 出会ったこの老人が、かれを離れの一室に連れて来ていいました。小さな家庭祭壇に、ともしびがともり、聖母のご像があります。老人は、今度こそ恐れないで信仰をとりもどしました。

 同じこの町には、かれと伝道士の話を熱心に聞いていた夫婦がいました。ある日とつぜん使いが教会に来て、奥さんの臨終を告げました。神父は20キロも離れた所に行っていましたが、万難を排してかけつけました。「まあ、こんなに早く」と主人は感激して、すぐ病床に案内します。

 洗礼を受けたとたん、妻は気狂いのようにあばれ出しました、「あなた、刀をとってきて、龍がベットをとり囲んでるのよ、早く追いはらって」と叫んだかと思うと、すぐ落ちついた声でいいました、「もういいわ、すばらしい翼をつけた、かがやく青年が、そら、そこに来て、刀で龍を追い払ってるわ。まあ・・・なんと美しい貴婦人でしょう!・・・あれ、龍たちがみんな急いで逃げ出したわ」

 それは、明らかに聖母マリアと聖ミカエルの出現を示していました。



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聖ドミニコ司祭証聖者   St. Dominicus C.

2018-08-08 02:02:21 | 聖人伝
聖ドミニコ司祭証聖者   St. Dominicus C.           記念日 8月8日


 カトリック教会に数ある大修道会の中でも、ドミニコ会の如きは最も大にして又最も名高い一つであろう。その創立者こそここに語るスペインはカラロガ市の出身、聖ドミニコ・グスマンに外ならない。
 彼の父はフェリクス・グスマン、母は貴族フォン・アザ家の出でヨハンナと称し、共に甚だ信仰厚く、ヨハンナの如きは1828年に福者に列せられたほどであった。ドミニコはこういう両親の間に1070年長子として生まれた。そしてその行い届いた注意の下に教育され、7歳を迎えてからは母方の叔父の敬虔な一司祭の手に委ねられた。
 彼は14歳の少年の身で早くもヴァレンシアの大学に入る事を許された。それから10年間は全身を打ち込んで学問を研究し24歳には司祭となり、その後直ちにスペインのオスマなる司教座聖堂付き参事会員に補せられた。この参事会員たちはいずれも長い白衣に、頭巾のついた黒のマントを着用していたが、後にドミニコ会が成立するや、その制服に選ばれ今日に及んだのは即ち右の服装なのである。
 さて若き司祭のドミニコは、すべてのわが務めを両親の満足するまで果たし、時としては人々の救霊の為徹宵祈り明かすことも珍しくなかった。そして間もなく参事院の副院長となり、1201年には院長となった。
 しかし天主は彼をもっと世に知らしめたく思し召されたのであろう。1203年スペイン国王アルフォンゾが南フランスの王侯に使者を遣わし、その息女をわが太子の嫁として貰い受けたい旨を申し入れられた時、その一行にドミニコも加えられたが、彼は逢うほどの人に深い感銘を与えずにはいなかった。それは心に磨いた聖徳の光が、自ずと外部に漏れ出てて、その容貌に神々しい輝きを添えていた上に、彼が常に愛深く柔和であったからである。
 使節団は念々南フランスに到着したが、折角来てもその効がなかった。というのは、目指す姫君が既にこの世の人ではなかったのである。で、一行は仕方なくそのまま引き上げる事としたが、途中通りかかったのは、アルビ派の異端が起こって、動揺を感じている地方であった。そこには教皇使節シトー修院長アルノルドやカステルのペトロも一年前から派遣されていた。彼等二人は説教に勧告に、全力を挙げて異端者の改心に努めたが、更に効果が挙がらなかった。するとある日「もし異端者の改心を望まれるなら、敵宗派の開祖のように、貧しく、謙遜に苦行の生活をせねばなりません」と忠告した者がある。それはヂエゴという人であったが、その意見にはドミニコも大いに共鳴し、遂に相共に司教使節を助ける事となり、清貧の簡易生活を営み、厳しい苦行を実行した。この聖戦の僚友ヂエゴは残念にも1207年黄泉の客となったが。ドミニコはなおもその活動を続け1215年に至った。その間には教敵の憎悪を受けて殺されようとした事も、幾度あったか解らない。けれども幸いいつも天主の御保護の下に難を免れる事が出来たのであった。
 ところが敵は術を変えて、今度は公開討論を申し込んで来た。ドミニコはもちろん望む所と応戦し、見事相手を論破して堂々たる勝利を獲得した。彼がどこで説教するときにも徳に力説したのは信者はよろしく天使祝詞を度々、しかも一定の数だけ誦えるべきであるという事であった。それこそロザリオの祈りのはじめに外ならぬが、彼の提唱は多大の反響を得、やがて一般にロザリオが愛用されるようになった。
 その中さまざまの弊害は宗教上の知識の不足から生ずるのであるから、説教及び宗教教育を本領とする修道会創立の必要があるという事が次第に考えられて来た。ヂエゴ没後同志の司祭数人と説教や宗教教育に活動していたドミニコはその機運に乗じ、ツルーズの司教フルクの援助を得て一つの修道会を結成、前述の如くドミニコが参事会員であった時の服装を以て会服と定めた。その頃二、三の教区から、是非司教に就任してほしいと、頻りに懇望されたが、謙遜な彼はことごとくこれを辞退してしまった。
 1215年には既に6人の会員があった。ドミニコは彼等をツルーズのある家に住まわせ、博士のアレクサンデルを院長兼指導者と定め、自分はローマに赴いて教皇の認可を求めた。時の教皇イノセンス3世は個人としてはその望みに応じたかったのであるが、暫く前に最早新修道会は一切認めぬ方針に決定していたので、大いに当惑された、しかし天主の示現もあり結局はその承認を与えられた。
 ドミニコはまた天主の御照らしを蒙ってアッシジのフランシスコの聖人であることを悟り、フランスへ帰る前夜を訪問し、心からの交わりを結んだ。ツルーズに帰って見ると、会員の数は17人にも増加していた。彼はその為聖アウグスチノの戒律に基づいて会則を編み、なお会の目的なる説教や修道生活に就いても詳しく規定する所があった。
 それから暫くしてドミニコは、会則に対する最後の認可を受ける為、再びローマに行った。その時はもう先のイノセンスは崩御になり、後継者のホノリオ3世がそれを許され、「説教修道会」という名前まで賜った。そして一度親しくドミニコの説教を聴聞されたのみならず、同会の一修士を神学顧問として側近く置くよう取りはからわれたが、この定めは今日に於いても守られている。
 ドミニコは急ぎツルーズに帰り、兄弟達を世界に送り出す決心をなし、之を友人にして保護者なるフルク司教に打ち明けた。聞いて司教が驚くと、ドミニコは言った。
 「麦粒は積んでおけば腐るばかりですが、之を蒔けば実るではないか!」
 かくて彼はかつてイエズスが使徒達を遣わされたように弟子を二、三人ずつ全ヨーロッパに送った。その出発は1217年の9月13日であった。彼等はそれぞれの国に行って修道院を建て、そこで修練者を採用した。そして4年後の1221年には実に500人の説教修道者が得られたのであった。
 その中に婦人の為のドミニコ第二修道会や在俗の人々の為の第三会なども生まれ、これ亦急速な発展振りを示した。
 ドミニコ自身はローマに行き、そこで活動すると共に全修道会の統率管理に当たった。ホノリオ教皇は彼に聖シクストの修道院及び聖堂を、後には更に聖女サビナの修道院と聖堂を与えられた。これらは即ちドミニコ会の本部となったものである。
 激しい不断の活動と遠隔の修道院への巡回-それを彼は徒歩でしたのであるが-は、彼の体力を消耗すること甚だしかった。しかし彼は依然として徳を磨き愛の業を為すのに余念もなかった。彼は戒律、殊に清貧を厳守した。故に1220年の同会最初の総会に、説教の兄弟は財産を有せず、一般に喜捨によって生活すべきものとすと定めたのも不思議ではない。
 その一年後ヴィテルポに於いて彼は臨終の間近きを感じ、大いなる聖愛に燃えつつ死の準備をした。そして「私が死んだら兄弟達の墓の真ん中に埋めてほしい」と二度までに院長に遺言し、1221年8月6日永遠の故郷に向かって旅立った。

教訓

 聖ドミニコの模範に倣い、進んでしばしばロザリオの祈りを誦えよう。彼はそれによって、アルビ派異端者を帰正させる上に多大の効果を収めた、その後もこの祈祷の力で教敵に勝利を得たことは幾度もある。故に今もロザリオをつまぐれば自分の上にも他人の上にも豊かな聖寵を蒙ることは疑いない。


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