カトリック情報 Catholics in Japan

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聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ 奇跡と列聖

2017-11-09 02:56:50 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、28

(写真の説明)

 列聖式のためには奇跡が要求されています。この要求に確実に答えうる二つの奇跡がありました。その一つは、列福式の3か月後にスペインで行われたのです。

 それは、1982年1月4日のことでした。マヌエル・シフエンテスという10才の子どもが父親と共に薪を集めに行きましたが、木の枝を拾おうとして身をかがめたとたん、一本の枝が子どもの目につきささり、鮮血がほとばしりました。父はすぐさま子どもをかかえて医院にとびこみましたが、あまり傷が深かったので、となりの町の眼科専門医の所につれていきました。ここでも、医者は、なおるみこみがないと、さじをなげたのです。ふと思いついて、父は福者リカルド・パンブーリの小さな遺物をほうたいの下にさしこみ一晩中熱心に取り次ぎを祈りました。ところが次の朝の1月5日、ほうたいをとくと、なんと目の傷は完全になおっていたのです!

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聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆、ついに憧れの修道生活に(6)

2017-11-08 21:40:06 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、26

◆、ついに憧れの修道生活に(6)

 リカルド修士は、若い頃から常に体が弱く、そのためにフランシスコ会にもイエズス会にも断わられたほどでした。

 しかし、聖ヨハネ病院修道会の管区長は、その聖徳を考え、喜んで入会をゆるしたのでした。かれは全力をつくし健康をとりもどそうとしましたが、一九二九年の春から病気は急に悪化しました。昌上はしばらくの間空気のよいブレシア市の支部にまわし、それから故郷に療養のために帰しました。

 次の年の一月十日もう大丈夫と思って、ブレシアの修道院に帰り、療養していました。しかし四月十八日急に病が悪化して重体になりました。叔父たちはかれをもっとそば近くおくために管区長に願ってミラノの聖ヨゼフ病院に救急車で運びました。でもそこであと十三日しか生きながらえることができませんでした。医者たちが、どんなに手厚い介抱しても効果がなかったのです。

 叔母のマリアは、ずっと付き添っていました。かれのやせおとろえた姿を見るたびに、叔母はよく泣きました。でもリカルド修士は、かえって、ほほえみながらいいました、「泣かないでください。わたしは嬉しくてたまらないのです。神のみ旨を果したからです。死は天国への道です。あとちょっとで、その天国に入れるので、わたしは仕あわせです」と。

 一年前に、かれはシスターの姉さんに次のような手紙を書きました、「イエズスとマリアこそ、天と地の最も輝かしい二つの宝石です。
 これこそ神の傑作わたしたちのすべての善であり、堆上と永遠の幸福の泉とその充満です」と。

 イエズスとマリアこそ、かれの最大の愛でした。

 亡くなる一か月前に同じシスターの姉さんに次のように書きました、

「わたしは、神のいつくしみと、あわれみだけに、よりすがり、そこにだけ希塑をおかねばなりません」と。

 もはや痛苦がはげしい高熱の中からベレッタ神父に向かってこういいました、

「神父さま、わたしを神さまは、どのように歓迎してくださるでしょうか」と。そういいながら、空を眺めてことばを続けました、「わたしは、神さまをひじょうに愛しました。今もそうです、ひじょうに愛しています」と。

 かれは深い信仰の精神をもって最後のこ聖体を受けました。
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聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ◆、ついに憧れの修道生活に(7

2017-11-07 10:51:56 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、27

◆、ついに憧れの修道生活に(7)

 四月三十日の夜のことです。病人は、まちきれないようにいいました、「五月がはじまるまで、あと何時間待てばよいのですか?」と。そうです、かれは聖母月がはじまると息たえました。手に二つの十字架をにぎりしめてー一つは自分の十字架、もう一つは管区長がもってきたものです。

 かれの遺体は、病院の小聖堂に安置されて通夜が行われました。次の日曜日はトルリーノの家に運ばれて、この村と隣の村、特にかれの世話を受けた人たちがみんな集まって感謝の通夜をしました。また、モリモンドからとパビア県全体から、かぞえきれないほどの人々が参加しました。葬式は午後四時にはじまりました。トリボrルシオ村の教会から墓地まで歩いて四十五分もかかる距離がありましたが、先頭の人が墓地についても、棺はまだ動いていませんでした。これほどたくさんの人が葬式にあずかったのです。棺はカトリック・アクションの青年たちに運ばれました。

 教会の門前に書かれたことばが、次のようにかれのことを賛えていました、「かれは、天使のまぼろしのように天と地に香りを残してこの世を去りました」と。

 またその墓の上にもこんな言葉が書かれていました、「世間にも修道院にも天使のように清く、ご聖体の熱愛者として使徒的活躍をなしとげました」と。

 教会の近くにある墓地に葬られて間もなくのことです。リカルド修士の聖徳に信頼して、神のみ前にいろいろの恵みを取りついでくださるようにと願う多くの人々がその墓まいりに来るようになりました。かれリカルドの聖徳の噂があっという間に拡がりました。全イタリアどころか、ヨーロッパやアメリカからも取りつぎを願う人たちの数がぐんぐんふえていきました。

 かれを知っていた、そして尊敬していた人々は、毎日のように墓まいりをして、花とローソクをささげ、その代わりに墓の土を持っていくのでした。
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聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ◆、ついに憧れの修道生活に(6)

2017-11-06 03:20:19 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、25

◆、ついに憧れの修道生活に(6)

 以前、かれは、嘱託医として歯科医もしたことがあったので、この病院で歯科もまかせられました。この方面でもかれは患者に好まれていました。かれは患者を慰めるためにいろいろ工夫していましたが、ある日のことです。歯の痛みがひどくて困っている男の子が泣きそうな顔をしてリカルド修士の診察室に入ってきました。白衣をつけたリカルド修士は、やさしく聞きました。

「こわいですか?」と。

「ええ、こわいですよ、先生!」とその子は答えました。

 リカルド修士は子どもを坐わらせると、その子が気づかないうちに歯をぬいてしまいました。そしてほほえみながら、いいました、「さあお金を払いなさい」。

「あのぼく・・・」といって子供はがっかりした様子をみせました。お金がなかったからです。リカルド修士には、その子の着ているものからそうにちがいないと気づいていたのでした。修士は笑いながら子どもにいいました、「そうそれじゃ、わたしがあなたに払いましょう」と。

 その子は驚いて目をまんまるくし、大喜びで修士からお金を受けとりました金額は2リラで、今の日本の金額ですれば三千円位に相当するものでした。

 リカルド修士には、いろいろなお金の収入があったのですが、目上の許可をもらって、貧しい人を助けるためにそれを使いました。

 その当時は、こじきをする貧しい人が多かったのですが、リカルド修士のはからいで、病院の修士たちは、毎日貧しい人にパンを配る習慣をつけたのです。
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聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ◆、ついに憧れの修道生活に(5

2017-11-05 17:07:36 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、24

◆、ついに憧れの修道生活に(5)

 かれはまた、外来患者の診察もまかせられ、また、手術さえもまかせられ、みんなを驚かせました。かれは皆に対して、ひじょうに親切でした。診察や治療と同時に霊魂をいやす信仰の薬も与えていました。

 誰に対してもつつしみ深く、やさしくふるまうかれを多くの患者が信頼しました。修道女も神学生も、司祭までも好んでかれの所に来て診察を受けていました。その影響はどんなに大きかったかを示す一例をあげますと、世間の女性がつつしみのないみなりをして診察を受けに来ると、もう次の時からその患者はもっとつつしみのある服を着てくるようになるのがたびたびでした。・・・それは、かれが何も忠告しないでもです。
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