『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
7 権謀と術数
1 非運の名将
戦国の世ともなれば、すぐれた政治家ばかりでなく、兵法家も必要である。謀略家も必要である。
そうした才能の士を、諸国は争って招き、かつ用いた。
開明君主として名高い魏の文侯は、おりから仕官をもとめてきた呉起について、「いかなる人物か」と、宰相の李悝(りかい=李克)にたずねた。
李悝は答えた、「呉起は貪欲で奸色でありますが、用兵の術にいたっては当代にならぶ者はござりますまい」。
こうして魏の将軍となった呉起は、衛の国の出身である。
富豪の家にうまれながら、仕官をもとめて四方に遊歴し、家産をつかい果たしてしまった。
郷里の人びとが嘲笑すると、自分をそしった者三十人あまりを殺し、故国をあとに東へ去った。
斉(せい)をへて、魯(ろ)国にはいり、孔子の高弟たる曾子について学ぶ。
やがて故郷にのこしてきた母が死んだが、帰って喪に服そうともしない。曾子は、孝心のうすい男だとして、呉起を破門してしまった。
ついで呉起は兵法を学んだ。たまたま斉の大軍が魯に改めこんでくる。
魯の国では呉起を将軍に任じたいと考えたが、その妻が斉の女であるために、ためらった。
仕官で魏の将軍となった呉起は、衛の国の出身であった
すると呉起は、名声をあげるべき機会をうしなうことをおそれ、妻を殺して、斉に与(くみ)しないことをあきらかにした。
ついに魯は呉起をもちい、斉と戦って大いに破った。
しかも魯の国人は、なお呉起を信用しない。
呉起の酷薄(こくはく)な人柄をきらったのである。
さらに魯と衛とは、かねてから兄弟の国として親しんできた。
いまにして呉起を用い、衛と仲たがいすることをおそれたのであった。
こうした意見に、魯の君主もうごかされた。呉起は、しりぞけられた。
そこで呉起は、魏の文侯の評判を聞き、これに仕えようと思って、魏におもむいたわけである。
魏の将軍となった呉起は、秦を攻めて五城をぬいた。
軍略にたくみなだけではない。
最下級の士卒と衣食を同じくし、寢るときも席(しとね)を設けず、進むときも車馬に乗らず、みずから食禄をつつんで担い、士卒と労苦をわけあった。こ
うして呉起は、全軍の将兵の心をつかんだ。
文候は、呉起が用兵に長じたうえ、廉直(れんちょく)にして公平であり、かつ士卒の人望をあつめているところをみこんで、西河(せいか=陜西の東部、黄河以西の地)の太守に任じた。
もって泰や韓にそなえさせたわけである。
西河の太守としても、呉起の名声はすこぶる上がった。
やがて文候が死去し、その子の武侯が立った。
あるとき武侯は西河に遊び、舟をうかべて流れを下った。
呉起をかえりみていう。
「見事だのう、この険阻な山河は。これこそ魏の宝であるぞ」。
すると呉起は答えていった、
「国の宝は、君徳にあって、山河の険要にあるのではございません。
もし主君が徳を修めないならば、この舟のなかの人も、ことごとく敵国の人となりましょう」。
しかし魏における呉起の栄光も、長くはつづかなかった。
公叔座が宰相になると、すこぶる呉起を忌(い)みきらった。
公叔座こそは、のちに商鞅(公孫鞅)が衛からきて頼った人物である。
それが呉起をしりぞけようと、さまざまに手段をつくす。
ついに武侯も、呉起をうたがうにいたった。
呉起は罪せられるのをおそれ、魏を去って、そのまま楚の国におもむいた。
楚の悼(とう)王は、かねてから呉起の賢才を聞いていたので、喜んでむかえ、宰相に任じた。
あらたに活躍の場をえた呉起は、法律をあきらかにし、不急の官を廃し、公族であっても疏遠(そえん)な者は、資格を剥奪(はくだつ)した。
こうして財政を引きしめ、ひたすら戦士の養成につとめたのであった。
その施策は成功し、楚の国力はにわかに強大となる。
いまや楚は、東は越を圧し、北は陳(ちん)・祭(さい)の二国をあわせ、さらに韓・魏の兵を撃退し、西は秦を攻めて、その威勢を天下にほこった。
しかし呉起は、一方で公族たちのうらみを買っていたのである。
悼(とう)王が死ぬと、公族や大臣たちは乱をおこして、呉起を攻めた。
呉起は走って、悼王の屍殿におもむき、王の屍(しかばね)の上にうちふした。
乱入した徒輩が呉起を射ると、矢は同時に悼王の屍体に刺さった。
やがて大葬がおわり、粛王が即位すると、呉起を討って悼王の屍を射た者を、ことごとく誅殺(ちゅうさつ)した。
7 権謀と術数
1 非運の名将
戦国の世ともなれば、すぐれた政治家ばかりでなく、兵法家も必要である。謀略家も必要である。
そうした才能の士を、諸国は争って招き、かつ用いた。
開明君主として名高い魏の文侯は、おりから仕官をもとめてきた呉起について、「いかなる人物か」と、宰相の李悝(りかい=李克)にたずねた。
李悝は答えた、「呉起は貪欲で奸色でありますが、用兵の術にいたっては当代にならぶ者はござりますまい」。
こうして魏の将軍となった呉起は、衛の国の出身である。
富豪の家にうまれながら、仕官をもとめて四方に遊歴し、家産をつかい果たしてしまった。
郷里の人びとが嘲笑すると、自分をそしった者三十人あまりを殺し、故国をあとに東へ去った。
斉(せい)をへて、魯(ろ)国にはいり、孔子の高弟たる曾子について学ぶ。
やがて故郷にのこしてきた母が死んだが、帰って喪に服そうともしない。曾子は、孝心のうすい男だとして、呉起を破門してしまった。
ついで呉起は兵法を学んだ。たまたま斉の大軍が魯に改めこんでくる。
魯の国では呉起を将軍に任じたいと考えたが、その妻が斉の女であるために、ためらった。
仕官で魏の将軍となった呉起は、衛の国の出身であった
すると呉起は、名声をあげるべき機会をうしなうことをおそれ、妻を殺して、斉に与(くみ)しないことをあきらかにした。
ついに魯は呉起をもちい、斉と戦って大いに破った。
しかも魯の国人は、なお呉起を信用しない。
呉起の酷薄(こくはく)な人柄をきらったのである。
さらに魯と衛とは、かねてから兄弟の国として親しんできた。
いまにして呉起を用い、衛と仲たがいすることをおそれたのであった。
こうした意見に、魯の君主もうごかされた。呉起は、しりぞけられた。
そこで呉起は、魏の文侯の評判を聞き、これに仕えようと思って、魏におもむいたわけである。
魏の将軍となった呉起は、秦を攻めて五城をぬいた。
軍略にたくみなだけではない。
最下級の士卒と衣食を同じくし、寢るときも席(しとね)を設けず、進むときも車馬に乗らず、みずから食禄をつつんで担い、士卒と労苦をわけあった。こ
うして呉起は、全軍の将兵の心をつかんだ。
文候は、呉起が用兵に長じたうえ、廉直(れんちょく)にして公平であり、かつ士卒の人望をあつめているところをみこんで、西河(せいか=陜西の東部、黄河以西の地)の太守に任じた。
もって泰や韓にそなえさせたわけである。
西河の太守としても、呉起の名声はすこぶる上がった。
やがて文候が死去し、その子の武侯が立った。
あるとき武侯は西河に遊び、舟をうかべて流れを下った。
呉起をかえりみていう。
「見事だのう、この険阻な山河は。これこそ魏の宝であるぞ」。
すると呉起は答えていった、
「国の宝は、君徳にあって、山河の険要にあるのではございません。
もし主君が徳を修めないならば、この舟のなかの人も、ことごとく敵国の人となりましょう」。
しかし魏における呉起の栄光も、長くはつづかなかった。
公叔座が宰相になると、すこぶる呉起を忌(い)みきらった。
公叔座こそは、のちに商鞅(公孫鞅)が衛からきて頼った人物である。
それが呉起をしりぞけようと、さまざまに手段をつくす。
ついに武侯も、呉起をうたがうにいたった。
呉起は罪せられるのをおそれ、魏を去って、そのまま楚の国におもむいた。
楚の悼(とう)王は、かねてから呉起の賢才を聞いていたので、喜んでむかえ、宰相に任じた。
あらたに活躍の場をえた呉起は、法律をあきらかにし、不急の官を廃し、公族であっても疏遠(そえん)な者は、資格を剥奪(はくだつ)した。
こうして財政を引きしめ、ひたすら戦士の養成につとめたのであった。
その施策は成功し、楚の国力はにわかに強大となる。
いまや楚は、東は越を圧し、北は陳(ちん)・祭(さい)の二国をあわせ、さらに韓・魏の兵を撃退し、西は秦を攻めて、その威勢を天下にほこった。
しかし呉起は、一方で公族たちのうらみを買っていたのである。
悼(とう)王が死ぬと、公族や大臣たちは乱をおこして、呉起を攻めた。
呉起は走って、悼王の屍殿におもむき、王の屍(しかばね)の上にうちふした。
乱入した徒輩が呉起を射ると、矢は同時に悼王の屍体に刺さった。
やがて大葬がおわり、粛王が即位すると、呉起を討って悼王の屍を射た者を、ことごとく誅殺(ちゅうさつ)した。