カトリック情報 Catholics in Japan

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3-7-1 権謀と術数

2018-08-19 17:34:43 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

7 権謀と術数

1 非運の名将

 戦国の世ともなれば、すぐれた政治家ばかりでなく、兵法家も必要である。謀略家も必要である。
 そうした才能の士を、諸国は争って招き、かつ用いた。
 開明君主として名高い魏の文侯は、おりから仕官をもとめてきた呉起について、「いかなる人物か」と、宰相の李悝(りかい=李克)にたずねた。
 李悝は答えた、「呉起は貪欲で奸色でありますが、用兵の術にいたっては当代にならぶ者はござりますまい」。
 こうして魏の将軍となった呉起は、衛の国の出身である。
 富豪の家にうまれながら、仕官をもとめて四方に遊歴し、家産をつかい果たしてしまった。
 郷里の人びとが嘲笑すると、自分をそしった者三十人あまりを殺し、故国をあとに東へ去った。
 斉(せい)をへて、魯(ろ)国にはいり、孔子の高弟たる曾子について学ぶ。
 やがて故郷にのこしてきた母が死んだが、帰って喪に服そうともしない。曾子は、孝心のうすい男だとして、呉起を破門してしまった。
 ついで呉起は兵法を学んだ。たまたま斉の大軍が魯に改めこんでくる。
 魯の国では呉起を将軍に任じたいと考えたが、その妻が斉の女であるために、ためらった。


仕官で魏の将軍となった呉起は、衛の国の出身であった

 すると呉起は、名声をあげるべき機会をうしなうことをおそれ、妻を殺して、斉に与(くみ)しないことをあきらかにした。
 ついに魯は呉起をもちい、斉と戦って大いに破った。
 しかも魯の国人は、なお呉起を信用しない。
 呉起の酷薄(こくはく)な人柄をきらったのである。
 さらに魯と衛とは、かねてから兄弟の国として親しんできた。
 いまにして呉起を用い、衛と仲たがいすることをおそれたのであった。
 こうした意見に、魯の君主もうごかされた。呉起は、しりぞけられた。
 そこで呉起は、魏の文侯の評判を聞き、これに仕えようと思って、魏におもむいたわけである。
 魏の将軍となった呉起は、秦を攻めて五城をぬいた。
 軍略にたくみなだけではない。
 最下級の士卒と衣食を同じくし、寢るときも席(しとね)を設けず、進むときも車馬に乗らず、みずから食禄をつつんで担い、士卒と労苦をわけあった。こ
 うして呉起は、全軍の将兵の心をつかんだ。
 文候は、呉起が用兵に長じたうえ、廉直(れんちょく)にして公平であり、かつ士卒の人望をあつめているところをみこんで、西河(せいか=陜西の東部、黄河以西の地)の太守に任じた。
 もって泰や韓にそなえさせたわけである。
 西河の太守としても、呉起の名声はすこぶる上がった。
 やがて文候が死去し、その子の武侯が立った。
 あるとき武侯は西河に遊び、舟をうかべて流れを下った。
 呉起をかえりみていう。
 「見事だのう、この険阻な山河は。これこそ魏の宝であるぞ」。
 すると呉起は答えていった、
 「国の宝は、君徳にあって、山河の険要にあるのではございません。
 もし主君が徳を修めないならば、この舟のなかの人も、ことごとく敵国の人となりましょう」。
 しかし魏における呉起の栄光も、長くはつづかなかった。
 公叔座が宰相になると、すこぶる呉起を忌(い)みきらった。
 公叔座こそは、のちに商鞅(公孫鞅)が衛からきて頼った人物である。
 それが呉起をしりぞけようと、さまざまに手段をつくす。
 ついに武侯も、呉起をうたがうにいたった。
 呉起は罪せられるのをおそれ、魏を去って、そのまま楚の国におもむいた。
 楚の悼(とう)王は、かねてから呉起の賢才を聞いていたので、喜んでむかえ、宰相に任じた。
 あらたに活躍の場をえた呉起は、法律をあきらかにし、不急の官を廃し、公族であっても疏遠(そえん)な者は、資格を剥奪(はくだつ)した。
 こうして財政を引きしめ、ひたすら戦士の養成につとめたのであった。
 その施策は成功し、楚の国力はにわかに強大となる。
 いまや楚は、東は越を圧し、北は陳(ちん)・祭(さい)の二国をあわせ、さらに韓・魏の兵を撃退し、西は秦を攻めて、その威勢を天下にほこった。
 しかし呉起は、一方で公族たちのうらみを買っていたのである。
 悼(とう)王が死ぬと、公族や大臣たちは乱をおこして、呉起を攻めた。
 呉起は走って、悼王の屍殿におもむき、王の屍(しかばね)の上にうちふした。
 乱入した徒輩が呉起を射ると、矢は同時に悼王の屍体に刺さった。
 やがて大葬がおわり、粛王が即位すると、呉起を討って悼王の屍を射た者を、ことごとく誅殺(ちゅうさつ)した。

尊敬できない神父たち リジューの聖テレーズ

2018-08-19 01:23:48 | 格言・みことば
特に、司祭がたの霊魂を救いましょう。これらの霊魂は水晶よりも透明であるべきなのに、・・・感心できない司祭たち、あまり尊いとはいえない司祭たちがたくさんいます。彼らの為に祈り、苦しみましょう。

リジューの聖テレーズ (セリーヌへ 1889年)

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父19 運命の日

2018-08-19 01:22:29 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 19

 翌年の2月になりました。司教さまが、一番遠いこのリンチョウの視察に来られるのです。カラウァリオ神父は大喜び、川をくだってシュチョウまでお迎えに行きました。途中で匪賊に襲われても、いのちは無事でした。

 司教と出かける前日、かれは、一日じゅうご聖体の前で祈りつづけました。当時チャング・ハート・カイ将軍が将介石に背いて内乱が起きていました。これに乗じたのは、匪賊です。とくにシュチョウからリンチョウのあいだで川や道を旅する人を悩ませていました。そのときまでは、教会の旗を船に立てれば、匪賊は手をつけなかったのです。

 さて、きょうは、いよいよ出発の日です。途中まで汽車で行き、それから翌2月25日の朝、教会の旗を立てた小船に乗りこんだのは、司教とカラヴァリオ神父のほかに、3人の女の先生とふたりの男の先生、ひとりの男の子と船頭ふたり、そして船の所有者の老女です。一行は祈りながら、冷い川をさかのぼって行きます。昼までは、なんとか無事でした。みんなはお告げの祈りをしました。

 急に騒々しくなり、罵声と乱れる足音に人々は、はっとします。

「止まれ!止まらぬと撃つぞ」とだれかが叫んでいます。

 やむなく船を岸に寄せた一向に、銃を突き出したのは、ぞっとするはど残忍な顔をした匪賊の一団!

「いのちがおしいなら500ドルよこせ」と、のどかな田園を地獄に変えてどなります。

 そんな大金をもっているはずもないのですから、この要求は口実にすきません。船に乱人した数人の匪賊が若い女性をみつけました、

「この外人の妻を取ろう」と匪賊。なかのひとりが、「あのときの、あまがいる」とにやりとしました。かれが前に学校に侵入し、共産党の宣伝をしようとして妨げられたのは、このひとりの女性のためでした。今こそ復しゅうのチャンスと思ったのです。今こそ復しゅうのチャンスと思ったのです。

 宣教師は、女性たちを渡そうとしません。どんなことかあっても守る覚悟です。司教は叫びました

「この人たちを取らないでください。教会の生徒です。何も悪いことをしていないのに、なぜ理由もなくこの子たちを奪おうとするのです?」

「渡さないならこの船を燃やすぞ!匪賊は、火をつけようとしますが、薪はまだくすぶっています。

 司教が火を消すと、怒った匪賊は、ふたりの宣教師を棒でなぐり、半死半生にして女性に襲いかかります。今はこれまでと、女性のひとりは息たえだえの司教の手にすがりました。匪賊は、司教の手を棒でたたいて、やっと引きだすのに成功しました。司教のかすかな声が悲しげにそのあとを追います、「ああ、その人に悪いことを、残酷なことをしないでくたさい」。

 次に引きだされるのは、マリアの番です。「神さま、助けて! 助けて! マリアよ、わたしのために祈って!ああ、イエズス、マリア、ヨセフよ・・・」と叫ぶかの女を引きずりだした匪賊は、手におえず縛ろうとします。かの女が、その必要はないといいつづけるので、匪賊も縛るのをやめました。

聖ヨハネ・ユード司祭証聖者    St. Joannes Eudes C.

2018-08-19 01:19:13 | 聖人伝
聖ヨハネ・ユード司祭証聖者    St. Joannes Eudes C.      記念日 8月19日


 世にはカトリックの聖人方を目して、社会国家に何の貢献する所もない世捨て人、無為徒食の徒輩とする者もないではないが、これはもとより大いなる誤りである。なるほど聖会初代の隠修士などには、我が身の救霊を第一として、世間を離れ、独り節を清うした方々もあったが、これとてその没我禁欲の生活により利己貪欲の世人に与えた精神的好影響は決して少なからずその他の聖人方に至っては、或いは自ら何等かの博愛事業を起こし、或いはこれに関与して世道人心を益すると共に直接社会の福利に寄与する所が多かった。聖ヨハネ・ユードの如きも倫落の女達に温かい救いの手を差し伸べた感ずべき聖人の一例である。
 彼は1601年11月14日、北フランスのノルマンディー州リー村に生まれた。父は農を業としていたが多生医術の心得もあり、近隣の誰彼が怪我をしたり病気に罹ったりした場合にはしばしば招かれて手当をしてやったものであるという。母は極めて篤信の人で、幼いときから我が子の心に天主のこと、わけてもその遍在の観念を植え付けるように努力した。さればヨハネの信仰に対する理解の深さは普通の大人も及ばぬばかり、当時に在っては異例の幼年で初めての御聖体拝領を許され、間もなく終身童貞の誓願をたてた位であった。
 彼が14歳になると、父はこれをカレン市に送って、イエズス会経営のある中学に入れた。ヨハネの勤勉と敬虔とはそこでも同輩を凌駕し、学業に於いては一級の優等生となり、信心に於いては同校に組織されているマリア崇敬会会員達の鑑と仰がれるに至った。
 中学の課程を終えたヨハネは引き続いて哲学を専攻したが、彼はこの頃から己の将来に就いて種々考えを廻らせ、自分の召命を知るべく熱心に祈祷や苦行を行い、ついに司祭となることこそ主の御旨と確信し、これを父に打ち明けてその許可を願った。父はかねがね息子の世間的立身を夢み、彼の配偶としてある富豪の令嬢を娶る手筈まできめていたので、この話を聞くと一時は大いに驚いたが、根が物わかりのよい人だけにやがて快く彼の望みを容れてくれたけれども、世俗司祭となるか修道司祭となるかの点についてはなかなか意見が一致しなかった。即ち父を始め一家の者は前者をすすめヨハネのみは後者を望んだからである。とはいえ彼の熱心な祈祷と根気のよい嘆願とは結局父の心を動かさずにはいなかった。父はとうとう彼に同意し、温かい親心をこめた掩祝を与えてくれたのである。
 かくてヨハネは聖フィリポ・ネリの創立にかかるオラトリオ会に入り、24歳にして叙階の秘蹟を受け、憧れの司祭職につくことが出来た。が、幾分健康を害していた為まだその働きも十分せぬ中に、保養を命ぜられてパリ近郊の田園に送られた。しかし生来勤勉な彼は為すこともなく日を送ることに耐えられなかったので、聖書の研究を続けることとしたが、その敬虔さは聖書を手にするや必ずひざまずいてこれを為し、玩味熟読、黙想に耽るときには、一切を忘れて天主に遊ぶが如く、見る者も思わずかたちを改めずにはいられぬほどであったという。「聖書は御聖体に次ぐカトリック信者の宝である」とは彼の常々口にしていた言葉である。
 あたかも1627年、彼の郷里には悪性のペストが発生し、伝染猛烈を極め、これに冒される者は巷に満ち、看護に当たる人々は著しく不足を告げた。そこでヨハネはこの時とばかり修院長の許可を得て、同志の司祭数名とその地に急行し、昼夜を別たず憐れな病者の看護に努め、臨終の人には秘蹟を授け、席の温まる遑もない活動を続けた。そして自分の休養といえば、一日の中僅か二、三時間、それも椅子にかけたままとろとろとまどろむだけで過ごす事さえしばしばあった。
 それからヨハネは人々を促して疫病終息祈願の行列を行い、この地方を聖母に献げて熱心に御保護を求めたところ、さしも猖獗を極めた病魔も次第に衰え、やがて全くその跡を絶つに至った。しかしこの禍に人心はいたく荒み、信仰の念も薄らいだように思われたので、ヨハネは憂慮に堪えず、これが救済策として、先ず黙想会の開催を思い立ち、各町村の教会に於いて一ヶ月から三ヶ月に亘る心霊修行を行った、この試みは大いなる反響をよび、時には4万人からの参加者があったので、彼も益々気をよくし、黙想会を開くこと実に百十回以上の多きに及んだ。そして説教聴聞者の便宜を思い別に解りやすい宗教書を著し、その購読をすすめた。
 当時フランスではヤンゼニズムの主義が甚だ勢を得、為に聖教の真理も危機に瀕するばかりであった。ヨハネはこの時に当たり信者達に立派な指導者がないことを憂え、良き司祭の養成こそ刻下の急務と感じ、司教達にその目的の適う神学校の必要を説き、その賛成を得てこれが設立経営に当たる修道会を創立し、会員たる者はイエズス・マリアの聖心を特に崇敬するよう定めた。
 それから彼はまた先の黙想会に於いて、倫落の女の改心者を数多出したが、これをそのままに放置すれば再び以前の生活に戻る懼れがあるので、彼らの保護事業を起こす必要を痛感し、始めはかかる改心者を熱心なカトリック婦人、わけても寡婦に託するようにした。しかし後間もなくこうした事業はどうしても修道女の犠牲敵献身的な愛によらねばならぬ事を思い、訪問修道女会を招いて右の仕事を委ね、その戒律に新会則若干を加えて「善き牧者の愛の修道女会」と改称させた。
 ヨハネはこの事業の為に随分峻烈な攻撃の矢玉を浴びねばならなかった。思慮ある人々も「貞潔の誓願を立てている修女達を、如何に改心したとはいえ身の穢れている婦人達に接触せしめるのはどんなものであろう」と反対した。そういう非難に対しヨハネは常に答えて言った。「貞潔の徳は真の愛に伴えば、決して穢される憂いがない。それはちょうど太陽の光が汚い泥に当たっても穢されないようなものである」と。実際攻撃者等の考えは杞憂に過ぎずその修道女会には何の醜聞も起こらなかったばかりか、それによって救われた不幸な女達はどれほどあったか知れぬのである。
 ヨハネはその後もかくさまざまの使徒的事業に活躍を続けていたが、1680年病を得、8月19日眠るが如く大往生を遂げた。時に享年79.彼の列福は1909年ピオ10世教皇により、列聖は1925年ピオ11世教皇により、厳かに宣言された。

教訓

 聖ヨハネ・ユードが「善き牧者の愛の修女会」の為に定めた戒律に二つある。一は主の聖心の会則と呼び、主のお命じになった数々の掟を含み、他は聖母マリアの御心の会則と名付け、聖母により最上の模範を示された修道実践上の方法であった。実際信者にとって主の御掟を守り、聖マリアの御生活に倣う以外に何の望むべき所があろうか。
 されば、至聖なるイエズスの聖心、我等を憐れみ給え。
汚れなきマリアの御心、我等の為に祈り給え。



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