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3-6-6 車裂の極刑

2018-08-18 23:55:26 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

6 戦国の乱世

6 車裂の極刑

 孝公の十二年(前三五〇)、公孫鞅はあたらしい秦の国都を咸陽(かんよう)に建設した。
 それまでの都であった雍(よう)は西にかたよりすぎて、強国となった秦には、ふさわしくなくなったからである。
 城陽には、りっぱな城壁や楼門、そして宮殿や庭園が造営せられた。
 また、小さな村や集落をあつめて「県」とし、中央から県令を派遣して治めさせた。
 これは地方の権力を中央に集める(中央集権)ための措置であった。
 田地の境界を取りはらって耕作を自由にし、かつ税制を整備した。
 さらに従来は幾通りもあった度量衡を統一した。風俗も中華風にあらためた。
 これまで秦の国には戎狄(じゅてき=西方や北方の異民族)の風習があり、父子の別がなく、妻子とも同室に住していた。
 これを改めて、男女の区別を厳格につけたのであった。
 それから四年たった。さきに太子の傳(もりやく)であった公子虔(けん)が、また法に違反した。
 そこで劓(はなきり)の刑に処した。
 公子虔は鼻をうしなったことを恥じ、門をとじて外にでることがなくなった。
 さらに四年たった。もはや秦の富強は天下にとどろいた。中原の諸侯は秦の威勢をおそれるにいたっていた。
 その翌年、すなわち孝公の二十一年(前三四一)、斉は魏の兵を馬陵においておおいに破った。
 これに乗じて魏を討つことを、鞅は進言した。
 孝公の二十二年(前三四〇)、孝公は鞅を司令官として、魏を討たせた。
 魏は公子卭(こう)を司令官として、秦軍をむかえ討った。公子卭は、鞅にとって旧友であった。
 そこで鞅は書簡をおくり、たがいに攻めあうのは、まことに忍びがたいから、休戦して楽しく飲もうと申しいれた。
 公子卭はもっともと思い、会盟して酒を飲んだ。
 しかるに鞅は、伏兵をもって魏の軍の不意を襲い、卭を捕虜としてしまった。
 勢いを得た秦の軍は、ことごとく敵を破って凱旋した。
 かくて魏は、しばしば斉と秦とに破られ、国の財力も兵力もとぼしくなった。
 さしもの恵王もおそれをなし、黄河以西の地を秦に献じて和睦した。
 そして秦との国境に近い都の安邑を放棄し、大梁(たいりょう=いまの開封)に遷都した。
 そのとき恵王は「うらむらくは公叔座の言をもちいざりしを」と述懐した、という。
 鞅を殺しておかなかったことが、恵王の失敗であった。
 内外の功によって、公孫鞅は商の地にて十五邑を賜わった。号して商君といった。
 君(くん)というのは、諸侯の臣下で、土地を領有する者の称である。これより後、公孫鞅は商鞅とよばれた。
 商鞅は高位に上り、名声も高かったが、ひとの恨みを買うことも大きかった。
 そこで、ある人(張良という賢者)が鞅に忠告していった。
 「人心をうる者は興り、人心をうしなう者は崩る(詩経)と申します。
 君のなされたかずかずのことは、人心をえる所以ではありません。
 君は外出にあたって数十両の車をしたがえ、そこには武装の兵をのせ、また大力で一枚あばらの屈強な者を陪乗させたうえ、矛(ほこ)や戟(げき)を持った者が車によりそうて走っています。
 まことに、徳をたのむ者は栄え、力をたのむ者は滅ぶ(書経)と申しますが、君の命は朝露のようにあやうい。
 それでも天寿を全うしたいと望まれるならば、どうして商の十五邑をかえし、田園に隠居しようとなされないのですか。
 君が今後も、なお富をむさぽり、変法をほこりとし、人民のうらみを積もうとなされるならば、やがて君の悲運は、足をあげて待つほどのもの間に到来するでありましょう」。

 しかし商鞅は、この忠告にしたがわなかった。
 孝公が死去したのは、それから五ヵ月後のことである。
 太子が立った(前三三八)。恵文王である。
 公子虔の一党が、商君は謀叛をたくらんでいる、と告げた。
 これを恵文王はただちに取りあげ、役人を差しむけて商鞅を捕えようとした。鞅は逃げた。
 国境の函谷関の付近までゆき、宿屋にとまろうとした。宿屋の主人は、その客が商鞅であることを知らなかった。
 「商君の法律によりますと、旅行証のない人をとめれば、罪になりますので」。
 そういわれて商鞅は、ため息をついた、「ああ、新法の弊は、ついにこの身に及んだか」。
 商鞅は魏の国へはいった。
 しかし魏の国人も、かつて鞅が公子卭(こう)をあざむき、魏軍を破ったことをうらんでいて、受けいれようとはしなかった。
 さらに他国へおもむこうとしたが、魏人は秦の報復をおそれて、商鞅を国境まで連れもどした。
 やむをえず商鞅は、領地の商邑におもむき、一族や郎党とともに手勢をひきいて、北のかた鄭(てい)に出撃した。
 秦の国では兵を発して商鞅を攻め、鄭の地で彼を殺した。
 恵文王はみせしめのために、商鞅の屍を車裂に処した。
 そして「商鞅のごとき謀叛人となるなかれ」と布告した。
 車裂とは、左右の手足を二台の車に結びつけ、その車を左右に走らせて四肢を引きさく極刑である。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父18 遭難

2018-08-18 13:51:54 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 18

 翌年の2月になりました。司教さまが、一番遠いこのリンチョウの視察に来られるのです。カラウァリオ神父は大喜び、川をくだってシュチョウまでお迎えに行きました。途中で匪賊に襲われても、いのちは無事でした。

 司教と出かける前日、かれは、一日じゅうご聖体の前で祈りつづけました。当時チャング・ハート・カイ将軍が将介石に背いて内乱が起きていました。これに乗じたのは、匪賊です。とくにシュチョウからリンチョウのあいだで川や道を旅する人を悩ませていました。そのときまでは、教会の旗を船に立てれば、匪賊は手をつけなかったのです。

 さて、きょうは、いよいよ出発の日です。途中まで汽車で行き、それから翌2月25日の朝、教会の旗を立てた小船に乗りこんだのは、司教とカラヴァリオ神父のほかに、3人の女の先生とふたりの男の先生、ひとりの男の子と船頭ふたり、そして船の所有者の老女です。一行は祈りながら、冷い川をさかのぼって行きます。昼までは、なんとか無事でした。みんなはお告げの祈りをしました。

 急に騒々しくなり、罵声と乱れる足音に人々は、はっとします。

「止まれ!止まらぬと撃つぞ」とだれかが叫んでいます。

 やむなく船を岸に寄せた一向に、銃を突き出したのは、ぞっとするはど残忍な顔をした匪賊の一団!

「いのちがおしいなら500ドルよこせ」と、のどかな田園を地獄に変えてどなります。

 そんな大金をもっているはずもないのですから、この要求は口実にすきません。船に乱人した数人の匪賊が若い女性をみつけました、

「この外人の妻を取ろう」と匪賊。なかのひとりが、「あのときの、あまがいる」とにやりとしました。かれが前に学校に侵入し、共産党の宣伝をしようとして妨げられたのは、このひとりの女性のためでした。今こそ復しゅうのチャンスと思ったのです。

毎日が最後の日であるように 聖マキシミリアノ・コルベ

2018-08-18 13:50:50 | 格言・みことば
今日はお前にとって最後の日となるかもしれない。今日が最後の日であるかのように生活せよ。明日はわからず、昨日はお前のものではなく、今日のみがお前のものだ。

聖マキシミリアノ・コルベ

聖ヘレナ皇太后         St. Helena Vid

2018-08-18 13:49:34 | 聖人伝
聖ヘレナ皇太后         St. Helena Vid.                記念日 8月18日


 ローマ帝国に於いて初めてキリスト教信仰の自由を与えたのは、言うまでもなく歴史に名高いコンスタンチノ大帝であるが、それまで300年の長い間続いた迫害に、従容教えに殉じて死に赴く信者達の天晴れな態度は、その平生の立派な行いと共に、心ある者の感嘆を呼び起こすに十分であった。コンスタンチノ大帝の父コンスタンチオや母ヘレナもこの感嘆を禁じ得ずキリスト教に深い敬意を有するに至った。そしてヘレナの如きはついに受洗し、後世聖女と仰がれるまでその信仰に徹したのである。
 聖女生誕の年は定かではないが、何でも250年前後であったろうと推定される。それは初子なるコンスタンチノが274年2月27日に生まれているからである。しかしヘレナの生まれ故郷は明らかで、小アジア、ビチニア州のドレパヌムという所であった。両親は爵位もなければ財産もない人々であったから、若いヘレナも働いて糊口を得なければならなかったが、生まれつき器量も美しく心だても善かった所から、丁度ビチニアに勤務中のローマ将校コンスタンチオに見いだされ、とうとうその妻となった。彼女が初産したのは、当時ナイススと呼ばれていた今のニッシュ市(セルビア領内にある)で、その子が即ちコンスタンチノであった。コンスタンチノとは小さいコンスタンチオという意味である。
 そのうちに夫コンスタンチオは次第に昇進してマクシミアノ皇帝の寵臣となり、また部下の気受けも甚だよく、やがてはローマ帝国西部の総督として、ガリア、南ドイツ、イスパニア、ブリタニア等諸地方の統治を委ねられることとなった。但しそれには条件があって、第一、妻ヘレナを去ってマクシミアノの皇女テオドラを娶ること、第二、息子コンスタンチノを人質として小アジアのニコメジアなるリチニオの邸宅に送ることの二箇条が要求されたのである。コンスタンチオは始めかかる道に外れた要求には応ぜられぬと考えていたが、勃々たる野心は押さえ難くついに妻子を犠牲にする覚悟を定めた。それはあたかも292年のことであった。
 ヘレナは感情を抑え淋しい諦めを以て黙々と身を引いた。コンスタンチノは東ローマ総督リチニオの邸宅に人質となって行った。かくて父コンスタンチオは宿望を遂げて西ローマの総督となったが病に倒れるや我が子を呼び戻そうとした。リチニオはそれを知るとコンスタンチノを毒殺しようとしたけれど、辛くも難を逃れたコンスタンチノは父の許に帰り、306年父をあの世に見送った後、軍部の支持を受けてその後継総督となった。
 彼はそれから母ヘレナを、ドイツのトリールなる己の邸に呼び迎え、父が彼女から奪った位と権利とをことごとく返し与えた。そして名高いミルヴィオ橋の一戦に勝利を得るや、西ローマ国皇帝として首府ローマに居を移し、母ヘレナに皇太后アウグスタという尊号を贈り、貨幣の鋳造権を与え、またその生まれ故郷ドレパヌム市を美化して之にヘレノポリス(ヘレナの町)と命名し、幾久しく母を記念するよすがとした。
 しかしつぶさに辛酸をなめたヘレナは、もはや煙のようにはかない浮き世の栄華などに心引かれはしなかった。却って永遠不朽の幸福を説くキリスト教にことごとく傾倒し、遂に60歳の時願い出て洗礼の恵みを受けるに至った。歴史家として名あるオイゼビオは彼女を評して「主イエズス・キリストから親しく教えを受けた如く、その信仰は堅固にその熱心は著しかった」と記している。
 ヘレナは身皇太后の高き位に在り、殊に貨幣の鋳造権を有していた為に甚だ富裕であったが、彼女は貧民救済や聖堂建立にはいささかも惜しむ色なく金銭を抛ち、わが尊い身分を忘れて貧しい人々と共に聖式にあずかり共に祈ることを好んだ。
 コンスタンチノはその後首府を我が身の記念として東の方コンスタンチノープル(コンスタンチノの市の義)に移した。
 ヘレナは主イエズス・キリストがその聖き御生涯を送り給うたパレスチナに近く住み得る幸いを心から喜び、また聖地参詣を思い立って326年その望みを果たした。教敵は昔聖遺物隠滅の為、カルワリオ山頂の主の十字架を何処へか投げ捨て代わりに女神ヴェヌスの像を建てたが、ヘレナは苦心惨憺、諸々を発掘の末、ついに聖十字架発見に成功した。    聖十字架の発見の記念
 ヘレナはそれから更に聖主の御誕生地ベトレヘム及び御昇天オリーブ山に記念の聖堂を建立し、数多の遺物を携えてコンスタンチノープルに戻ったが、幾程もなく天主の御召しを受けてこの世を去った。享年およそ80と言われている。その画像は頭に美麗な冠を戴き、豪華なマントを纏い、威儀を正した皇太后の服装で十字架を抱いている様に描くのが普通である。

教訓

 聖女ヘレナはコンスタンチノ大帝の皇太后としてよりも、むしろキリストの十字架を発見し、これを救霊の印と仰ぎ大いなる崇敬を尽くしたことによって後世に名を残した。我等人間の幸福というものは、この世の位階勲等や名誉を得るよりもむしろ信仰を熱心に守る所に在すのではあるまいか。聖パウロも「天主は智者を辱しめんとして世の愚かなる所を召し給い、強き所を辱しめんとて世の弱き所を召し給い、現にある所を滅ぼさんとて、世の卑しき所、ないがしろにせらるる所、無き所をば召し給いしなり」と記している。


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