『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
6 戦国の乱世
2 晋陽の攻防
日の出の勢いの知伯瑤は、韓氏と魏氏に対して、土地の割譲(かつじょう)を求めた。
韓氏の当主である康子(こうし)も、魏氏の当主たる桓子(かんし)も、この申しいれに憤然とした。
拒絶しようとしたが、重臣のすすめにしたがって、ひとまずは知伯に屈し、それぞれ土地を差しだした。
ついで知伯は、趙氏にも土地を要求した。しかし趙氏は与えなかった。
知伯は怒り、韓氏と魏氏の兵をひきいて、趙氏の領地に攻めいった。趙氏の当主が襄子(じょうし)であった。
大兵を受けると、重臣の張孟談(ちょうもうだん)とはかって、領内の要地たる晋陽(いまの太原)にたてこもった。
そこは趙氏の祖先が管理したとき、租税を軽くして民生の向上をはかり、仁政をほどこした。
以来、晋陽の民は趙家にあつい恩義を感じている。しかも、天然の要害であり、城のまもりも固かった。
知氏と韓氏と利氏の軍は、晋陽を攻めたてた。しかし一年たっても城を抜くことができなかった。
そこで知伯は一計を案じ、汾水(ふんすい)の水を引いて晋陽城にそそぎいれた。水攻めの計は成功した。
やがて城は水面よりでるところ、わずかに三版(六尺、二メートル)にすぎなくなった。
城中では釜をつるして炊(かし)き、ついには子を取りかえて食べるにいたったという。
自分の子を食べるには忍びないからであった。
こうなると群臣もみな離反の心をいだき、襄子に対する礼もおろそかになった。さしもの襄子も、おそれをなした。
ここにおいて知謀をめぐらしたのが張孟談である。
夜半ひそかに舟をあやつって、韓氏と魏氏の陣へおもむいた。韓康子と魏桓子をたずねて、ことばたくみに訴えた。
「唇(くちびる)ほろぶれば、歯(は)寒し、とか。
いま知伯は、あなたがた二君を語らって、わが趙を攻めておりますが、趙がほろびれば、つぎはあなたがたの番ではありませんか。
むしろ三家は協力して事にあたるべきでありましょう。さすれば知伯をほふることも容易であります」。
韓康子と魏桓子も、張孟談の説得にうたれた。
そして、つぎの夜を期して、いっせいに反撃にでることを定め、その手はずをととのえた。
約束の夜となった。韓と魏の兵は、堤防をまもっている知伯の番兵をおそって、西側の堤を決潰させた。
その水は知伯の本陣に流れこむ。暗い夜半のことであり、知伯にとっては、まさしく寝耳に水であった。
全軍が混乱しているさなか、韓魏の軍が小舟に乗っておしよせた。同時に、晋陽の城門がひらかれた。
趙襄子の軍が正面から攻めたてた。知伯は生けどりとなり、首をはねられた。
その領地は、韓・魏・趙の三氏によって分割された。晋の哀公四年(前四五三)のことである。
もはや晋の公室は、わずかに絳(こう)と曲沃(きょくよく)を領するのみで、他はすべて三氏の所領となっていた。
晋は事実上、三国に分かれたのである。
これより五十年の後、韓・魏・趙の三氏は、周の王室から正式に諸侯として認められる(前四○三)。
そこで従来は、その年をもって戦国時代の始まりとしてきた。
しかし歴史の大勢の上からみるならば、戦国の世は晋の国の事実上の三分のときから始まっていた、というべきであろう。
6 戦国の乱世
2 晋陽の攻防
日の出の勢いの知伯瑤は、韓氏と魏氏に対して、土地の割譲(かつじょう)を求めた。
韓氏の当主である康子(こうし)も、魏氏の当主たる桓子(かんし)も、この申しいれに憤然とした。
拒絶しようとしたが、重臣のすすめにしたがって、ひとまずは知伯に屈し、それぞれ土地を差しだした。
ついで知伯は、趙氏にも土地を要求した。しかし趙氏は与えなかった。
知伯は怒り、韓氏と魏氏の兵をひきいて、趙氏の領地に攻めいった。趙氏の当主が襄子(じょうし)であった。
大兵を受けると、重臣の張孟談(ちょうもうだん)とはかって、領内の要地たる晋陽(いまの太原)にたてこもった。
そこは趙氏の祖先が管理したとき、租税を軽くして民生の向上をはかり、仁政をほどこした。
以来、晋陽の民は趙家にあつい恩義を感じている。しかも、天然の要害であり、城のまもりも固かった。
知氏と韓氏と利氏の軍は、晋陽を攻めたてた。しかし一年たっても城を抜くことができなかった。
そこで知伯は一計を案じ、汾水(ふんすい)の水を引いて晋陽城にそそぎいれた。水攻めの計は成功した。
やがて城は水面よりでるところ、わずかに三版(六尺、二メートル)にすぎなくなった。
城中では釜をつるして炊(かし)き、ついには子を取りかえて食べるにいたったという。
自分の子を食べるには忍びないからであった。
こうなると群臣もみな離反の心をいだき、襄子に対する礼もおろそかになった。さしもの襄子も、おそれをなした。
ここにおいて知謀をめぐらしたのが張孟談である。
夜半ひそかに舟をあやつって、韓氏と魏氏の陣へおもむいた。韓康子と魏桓子をたずねて、ことばたくみに訴えた。
「唇(くちびる)ほろぶれば、歯(は)寒し、とか。
いま知伯は、あなたがた二君を語らって、わが趙を攻めておりますが、趙がほろびれば、つぎはあなたがたの番ではありませんか。
むしろ三家は協力して事にあたるべきでありましょう。さすれば知伯をほふることも容易であります」。
韓康子と魏桓子も、張孟談の説得にうたれた。
そして、つぎの夜を期して、いっせいに反撃にでることを定め、その手はずをととのえた。
約束の夜となった。韓と魏の兵は、堤防をまもっている知伯の番兵をおそって、西側の堤を決潰させた。
その水は知伯の本陣に流れこむ。暗い夜半のことであり、知伯にとっては、まさしく寝耳に水であった。
全軍が混乱しているさなか、韓魏の軍が小舟に乗っておしよせた。同時に、晋陽の城門がひらかれた。
趙襄子の軍が正面から攻めたてた。知伯は生けどりとなり、首をはねられた。
その領地は、韓・魏・趙の三氏によって分割された。晋の哀公四年(前四五三)のことである。
もはや晋の公室は、わずかに絳(こう)と曲沃(きょくよく)を領するのみで、他はすべて三氏の所領となっていた。
晋は事実上、三国に分かれたのである。
これより五十年の後、韓・魏・趙の三氏は、周の王室から正式に諸侯として認められる(前四○三)。
そこで従来は、その年をもって戦国時代の始まりとしてきた。
しかし歴史の大勢の上からみるならば、戦国の世は晋の国の事実上の三分のときから始まっていた、というべきであろう。