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3-6-2 晋陽の攻防

2018-08-10 10:07:28 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

6 戦国の乱世

2 晋陽の攻防

 日の出の勢いの知伯瑤は、韓氏と魏氏に対して、土地の割譲(かつじょう)を求めた。
 韓氏の当主である康子(こうし)も、魏氏の当主たる桓子(かんし)も、この申しいれに憤然とした。
 拒絶しようとしたが、重臣のすすめにしたがって、ひとまずは知伯に屈し、それぞれ土地を差しだした。
 ついで知伯は、趙氏にも土地を要求した。しかし趙氏は与えなかった。
 知伯は怒り、韓氏と魏氏の兵をひきいて、趙氏の領地に攻めいった。趙氏の当主が襄子(じょうし)であった。
 大兵を受けると、重臣の張孟談(ちょうもうだん)とはかって、領内の要地たる晋陽(いまの太原)にたてこもった。
 そこは趙氏の祖先が管理したとき、租税を軽くして民生の向上をはかり、仁政をほどこした。
 以来、晋陽の民は趙家にあつい恩義を感じている。しかも、天然の要害であり、城のまもりも固かった。
 知氏と韓氏と利氏の軍は、晋陽を攻めたてた。しかし一年たっても城を抜くことができなかった。
 そこで知伯は一計を案じ、汾水(ふんすい)の水を引いて晋陽城にそそぎいれた。水攻めの計は成功した。
 やがて城は水面よりでるところ、わずかに三版(六尺、二メートル)にすぎなくなった。
 城中では釜をつるして炊(かし)き、ついには子を取りかえて食べるにいたったという。

 自分の子を食べるには忍びないからであった。
 こうなると群臣もみな離反の心をいだき、襄子に対する礼もおろそかになった。さしもの襄子も、おそれをなした。
 ここにおいて知謀をめぐらしたのが張孟談である。
 夜半ひそかに舟をあやつって、韓氏と魏氏の陣へおもむいた。韓康子と魏桓子をたずねて、ことばたくみに訴えた。
 「唇(くちびる)ほろぶれば、歯(は)寒し、とか。
 いま知伯は、あなたがた二君を語らって、わが趙を攻めておりますが、趙がほろびれば、つぎはあなたがたの番ではありませんか。
 むしろ三家は協力して事にあたるべきでありましょう。さすれば知伯をほふることも容易であります」。

 韓康子と魏桓子も、張孟談の説得にうたれた。
 そして、つぎの夜を期して、いっせいに反撃にでることを定め、その手はずをととのえた。
 約束の夜となった。韓と魏の兵は、堤防をまもっている知伯の番兵をおそって、西側の堤を決潰させた。
 その水は知伯の本陣に流れこむ。暗い夜半のことであり、知伯にとっては、まさしく寝耳に水であった。
 全軍が混乱しているさなか、韓魏の軍が小舟に乗っておしよせた。同時に、晋陽の城門がひらかれた。
 趙襄子の軍が正面から攻めたてた。知伯は生けどりとなり、首をはねられた。
 その領地は、韓・魏・趙の三氏によって分割された。晋の哀公四年(前四五三)のことである。
 もはや晋の公室は、わずかに絳(こう)と曲沃(きょくよく)を領するのみで、他はすべて三氏の所領となっていた。
 晋は事実上、三国に分かれたのである。
 これより五十年の後、韓・魏・趙の三氏は、周の王室から正式に諸侯として認められる(前四○三)。
 そこで従来は、その年をもって戦国時代の始まりとしてきた。
 しかし歴史の大勢の上からみるならば、戦国の世は晋の国の事実上の三分のときから始まっていた、というべきであろう。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父13  司教区分割

2018-08-10 02:00:01 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 13

 ヴェルシリア神父は、地図を前にして、ある日、カントンの司教から相談をうけていました、

「カントンのひじょうに広いこの司教区を、聖座は二つに分け、一つをサレジオ会にまかせたいといっています。わたしは大喜びです。以前パリシッション会は、ここに8つの教会を建てていました。でも今では5人の宣教師しかいなくて、とても間にあいません。わたしは、この計画を、なんとか実現したいのです」と司教はいいました。

 司教の説明によると、新しい教区の面積は、4.OOO平方キロ、約300万の人口です。前に中国の有名な宣教師リッチ神父が珠江(シニチョウ)で6年間活躍して、北京にまで行ったことがありました。とにかく、全力をつくしても、宣教師の数が少ないので、サレジオ会の本部から新しい宣教師が派遣されることになりました。この一行が1918年マカオに着くと、ヴェルシリア神父は、大変な歓迎をしました。

「これは、総会長アルベラ神父さまから、あなたへのおくりものです」と団長のガレッリ神父が手渡したものがありました。総会長がミサ50周年記念と、トリノ市のキリスト信者の助けなる聖マリア大聖堂の献堂50周年記念の荘厳ミサのときに使った貴重なカリスです。

 受けとりながら、はっとしたようにヴェルシリア神父は答えました、「ドン・ボスコは、中国にサレジオ会がみごとな発展を見る日が来ると、二つのカリスに血と汗が溢れるという夢をみました。父ドン・ボスコがまぼろしに見たそのカリスを、今こそあなたは、わたしに、もって来てくれたのです。そうです、このカリスを血で満たすのは、わたしの務めです」と。

 12年後に、このことはが実現するとは、だれが予想できたでしょうか!

 ヴェルシリア神父が新しい布教地の目上になり、宣教師の数もふえてくると、教会の数は、次々とふえてきました。聖座は、ヴェルシリア神父を司教にしようとしています。

千里の道も一歩から 聖マキシミリアノ・コルベ

2018-08-10 01:58:52 | 格言・みことば
毎日行う良心の特別糾明は非常に有益である。なぜなら、これによって、一度に打ち勝つのは難しい欠点も、一つ一つ毎日改めて行くことができるからである。

聖マキシミリアノ・コルベ

聖ラウレンチオ助祭殉教者   St. Laurentius M.

2018-08-10 01:56:46 | 聖人伝
聖ラウレンチオ助祭殉教者   St. Laurentius M.          記念日  8月10日


 258年ローマ皇帝ヴァレリアノがキリスト教弾圧の新法を設けると、信徒に対する官憲の迫害は急に峻烈になり、その翌年には教皇シクスト2世もカタコンブでミサ聖祭を献げようとしておられる所を捕縛され、すぐさま斬首の判決を下された。彼が引かれゆく時、助祭のラウレンシオは涙ながらにその後を追い「父よ、子の私を捨てて何処へおいでになるのですか。聖師よ、助祭の私を残して何処へおいでになるのですか。貴方はいつの御ミサの時にも、私がお手伝いをしなければ式をお挙げになりませんでした。一体私のどこがお気に召さず、おつれ下されないのですか」と叫んだ。
 教皇は之を聞くと深く感動され、彼を慰めて「いや、私はお前を捨てるのではない。しかしお前はこれから烈しい闘いに打ち勝たねばならぬ。私は年老いているから容易い戦いでも報いを得よう。が、お前はまだ若いからもっと立派な勝利を得なければならぬ。三日たったらお前も私の後を追って来るようになろう」と言われた。
 ラウレンチオは貧しい家の生まれであった。けれどもその清い善良な生活を教皇に認められ、勉学の後ローマ七助祭の首席に挙げられた。さればその役目柄、彼は教会財産の管理、貧民への施物の分配、その他万事に気を配らねばならなかったのである。
 官憲当局では彼がそういう重任を帯びていることをよく知っていた。それ故彼が財産を処置するのを待って彼を捕まえると同時に之を没収しようと思い、教皇と共には引致しなかったのである。しかしラウレンチオは賢明であった。早くも相手の思惑を察したから財産の大部分を貧しい人々に分け与えてしまった。
 彼は果たして三日の後捕縛され、財産目録を差し出し、宝の在処を教えよと迫られた。ラウレンチオはすべての始末をつける為に暫くの猶予を請うた。そしてそれから三日目に大勢の貧乏人や寡婦、孤児、老人その他不幸な人々をつれて法官の許へ帰って来ると「この人々こそ聖会の宝でございます」と言った。法官は烈火の如く憤り彼を真っ赤に熱した鉄格子の上にのせて焼き殺すことを命じた。
 しかしラウレンチオは惨酷なその処刑にも更にひるまなかった。彼はよくその苦痛を耐え忍び、なお戯れ言を吐くのをやめなかった。灼熱の鉄格子上に横たわること暫し、彼は刑吏に「私の向きを変えて下さい。もうこちらの方は十分焼けたようですから」と言い、また暫くの後法官に「もう焼けましたから、召し上がってもよろしいですよ」と冗談を言いながら息を引き取った。
 聖アウグスチノはこれに就いて記して曰く「ラウレンチオはしばしば御聖体拝領をしてイエズスの御肉御血を戴いた。それ故力を強められてかかる恐るべき殉教の苦痛をも喜んで堪えることが出来たのである」と。
 彼の遺骸からは既に殉教の当時もまたその死後も、馥郁たる芳香があたりに漂っていた。信者達は恭しく彼を市の郊外に葬った。その墓の上には今日壮麗な大聖堂が建立されているが、その外にも聖ラウレンチオに献げられた聖堂は沢山にある。そして彼は聖助祭ステファノにも劣らず今なお世界の人々に厚い尊敬を受けているのである。


教訓

 艱難の時、苦しみの時、迫害の時には聖ラウレンチオの模範を思い起こすがよい。聖人の如く犠牲を厭わず勇ましく己が十字架を甘んじ受ける者は、その苦痛をそれほど感ぜぬばかりでなく、苦しみの最中にも喜んで天主に感謝讃美を献げることが出来るのである。されば我等は公教会祈祷文にある十字架の道行き第七留の、「天に昇る道は十字架の道にて、すなわち苦しみの道なれば、御苦難の功力により、我等をして、雄々しき心を以て歩ましめ給わんことを、ひたすら願い奉る。」という祈りを、しばしば誦えよう。


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