カトリック情報 Catholics in Japan

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日本と聖母マリア

2018-08-15 01:33:06 | 聖母崇敬
「日本と聖母マリア」カトリック中央協議会

 日本に初めてキリスト教を伝えたのは、イエズス会の宣教師「フランシスコ・ザビエル」です。

 1549年8月15日に鹿児島の海岸に上陸しました。日本に着いた日が、ちょうど聖母マリアの被昇天の祭日に当たっていたこともあって、ザビエルは、日本を聖母マリアに捧げました。

 日本と聖母マリア他人が、ひとの国を誰かに勝手に捧げるとはけしからんと怒る向きもあるかもしれませんが、当人は、そんなつもりは、まったくありませんでした。マリア様の保護のもとに置けば、日本の国民は幸せになれると思ったからです。

 ザビエルが、日本を聖母マリアに捧げたせいかどうか分かりませんが、日本の歴史的な出来事と、聖母マリアの祝日が重なっている事実は不思議です。

 日本が真珠湾攻撃と機をいつにして米英に宣戦布告し、太平洋戦争が始まったのは、1941年12月8日。カトリック教会では、12月8日は、聖母マリアが、その母聖アンナの胎内に宿ったことを記念する「無原罪の聖マリアの祝日」で、盛大に祝われます。カトリック国では学校や会社・商店は休みとなります。

 太平洋戦争が終わったのは、1945年8月15日。この日は、前述のとおり、「聖母マリアの被昇天の祭日」で、これまたカトリック国では、国民の祭日として仕事は休み。

 そしてサンフランシスコ講和条約が、サンフランシスコで調印されたのは、1951年9月8日。この日は、「聖母マリア」の誕生日に当たります。 さらに日本で建国記念を祝う2月11日は、「ルルドの聖母の祝日」となっています。

 これはたんなる偶然かもしれません。しかし、こんなにもたまたまが重なるのでしょうか。ちなみに、ヴァチカン市国の建国記念日でもある。1929年2月11日に、イタリアのムッソリーニと、ローマ教皇庁代表のガスパリ枢機卿の間で締結されたラテラノ条約によって、ヴァチカンは、国家主権が認められました。その調印式に使われたテーブルは、桜材でできた日本製だったといいます。


神に対するには 十字架の聖ヨハネ

2018-08-15 01:32:06 | 格言・みことば
神は理解しえないもの、近づきえないものです。ですから、意志は、愛の働きを神に向かわせるためには、それを欲求によって触れられるもの、理解されるもののうちに置いてはならず、欲求の理解しえず把握しえないもののうちに置かなければなりません。このようにすれば、意志は、知性の理解によって感じうるいっさいのものを越えて、感情の空虚と暗黒のうちに、理解しうるいっさいをこえて信じ愛しつつ、確実なものを真実に、信仰の光によって愛していることができるのです。

十字架の聖ヨハネ

聖母の被昇天の大祝日    Assumptio B. Mariae V.

2018-08-15 01:30:06 | 聖人伝
聖母の被昇天の大祝日    Assumptio B. Mariae V.           大祝日 8月15日


 聖会の一年間には聖母の祝日が決して少なくない。が、中でも我等にとり最も喜ばしく、また最も懐かしいのは聖母被昇天の大祝日であろう。この日記念されることは主として二つある。聖マリアの実に清らかな御臨終と、その天主における比類ない御光栄がそれである。

 聖母があのペンテコステの日に、御弟子方と一座して御聖体とその賜物とをお受けになったことは使徒行録にある。しかしその後の後動静については一向聖書に記されておらぬ。これはそれからの聖マリアの御生活が個人としてのそれであって、直接われら人類の救霊に関係がなかった為であろうが、伝説にはその後晩年の話もいろいろと残っている。
 それによれば聖母は聖霊降臨後間もなく、小アジアのエフェゾ市に退き、十字架上におけるイエズスの御遺言通り、使徒聖ヨハネの懇ろな扶養を受けもっぱら、なおも徳を積み、天上において最愛の御子と再会する喜びの日をひたすら待ち侘びつつ余生を送られた。ただその御終焉の時も伝えられておらぬのは、誠に遺憾の極みと言わねばならぬ。

 一体人間の死は聖パウロも教えている通り罪の罰である。ところが聖マリアには自罪はもちろん、原罪の穢れすらおありにならなかった。故に道理からいえば聖母は決して死なれるに及ばなかったのである。それがやはり逝去されたのは、全く聖子イエズス・キリストの御死去と同様、ただ人々を救いその霊魂を天国へ導く為に他ならなかった。さればその御逝去は一般に見られる疾病、老衰など、罪の罰たる苦悩が少しもなく、聖ベルナルドがいみじくも言っているように「天国への渇望の激しさにその聖い御霊魂が清い御肉体を離れた」までに過ぎなかったのである。そして主イエズス・キリストが復活昇天された如く、その御母聖マリアも御死去後間もなく蘇り、その御霊魂御肉身諸共天国に挙げられ給うたことは、聖会の初代からあまねく人々に信ぜられて来た所であった。
 それに全能の天主が御自分をその胎内に宿し給うた御母に対し、あらかじめ原罪の汚れをさえ除くほど有難い配慮をなし給うたとするならば、御死去の後もその御肉身を汚れの象徴の如き腐敗から救い給うたのは、当然なことである。されば聖マリアが死後その御肉身も御霊魂と共に天に挙げられ給うたという一條は、聖母の無原罪などと同様、天主の御母の特権で、1950年11月1日、諸聖人の大祝日に教皇ピオ11世が全世界から集まった多くの司教、司祭や、平信者の前に信仰箇条と定められたのである。
 聖会は聖母マリアのこの特権を記念するため、早くから被昇天の大祝日を設け、これに対する典礼をも定めた。またカトリックの名ある芸術家達はこれを題材として詩文、絵画、彫刻に数々の傑作をものし、一般キリスト教信徒は之に関して、さまざまの伝説を残した。次に掲げる話はその最も古い一つであってニケフォロ・カリスチの歴史に記されているものである。
 即ち、東ローマ皇帝マルチアノの皇后ブルケリアはかねてからの一の聖堂を建立し、これを聖母に献げ、かつその御遺骸をそこに安置したいという望みを有しておられた。で、皇帝はカルセドンに公会議を召集された時エルサレムの司教ユヴェナリスに向かい聖マリアの御遺骸の所在地を尋ねられたところ、司教は答えて
 「聖母の御逝去については聖書に何事も記してございません。しかし古い確かな伝説によれば、聖母の御臨終には使徒達がいずれも布教先から馳せ集まり、最後のお別れを申し上げ、御息絶えて後は、祈祷に聖歌に御徳を讃美しつつ、禮を厚うして御遺骸をとある岩穴に葬りました。ところがそれから三日を経て、唯一人遅れて到着した使徒のトマに、聖母の御死顔を見せるために御墓を開きますと、不思議にも御屍は見当たらず、それの包んであった布は畳んで傍らにおかれ、あたりにはえも言われぬ芳しい香が馥郁と漂っておりました。使徒達はこれを見るや大いに喜び、『主イエズス・キリストはその御母を復活せしめ清き御身体も共に天国へ迎え取り給うた。』と叫んだということでございます」と語ったそうである。
 同じく天国に赴かれ給うたにしても、主キリストの場合には御昇天と言い、聖母マリアの場合には被昇天と呼ぶ。これは主が天主の全能を現して御自ら天に昇られたのに対し、御母は人間であるからそういう力はなく、ただ主の御力によって天に挙げられたという相違を示す為である。

教訓

 聖母の被昇天は読者も知る如く、わが日本公教会において主日同様守るべき四大祝日の一つとされているが、この日はまた実際に我が国にとり浅からぬ因縁を有している。それというのは、日本に渡来した最初の宣教師聖フランシスコ・ザベリオが、鹿児島に上陸し最初の御ミサを献げたのがちょうど聖母被昇天の大祝日に当たっていたからである。
 されば我等もこの日を機会として更に聖母への崇敬と信頼とを深め、絶えず日本公教会の上にその優握な御保護を願わねばならぬ。


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