『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
5 呉越の抗争
3 会稽(かいけい)の屈辱
呉王夫差は伯嚭(はくひ)を大宰(だいさい=総理大臣)とし、部下に射戦を習わせて、かたときも越に対する復讐をわすれなかった。
こうして二年たった。句践も呉の戦備を知り、機先を制して呉を撃とうとした。
すると謀臣(ぼうしん)の范蠡(はんれい)が、いさめていった。
「はものは凶器、いくさは逆徳、あらそいは末事であると聞いています。
このんで凶器をもちい、ひそかに逆徳をはかり、身を末事にこころみるのは、天のゆるさぬところ。
さきに犯したほうが不利であります」。
しかし句践は聞きいれず、兵をだした。
それを知ると夫差も、精兵をことごとく発して越軍をむかえ、太湖のほとりでおおいに破った。
句践は五千の残兵をとりまとめ、会稽山にたてこもった。呉王は追撃して、これを囲んだ。
ここに至って越王も、こんどこそ范蠡のことばに従って、大夫の種を夫差のもとにつかねし、和を請うた。
いまや句践は、その体面をすてた。すなわち、みずから呉王の臣下となり、その妻は呉王の妾にしていただきたい、と申しいれたのである。
夫差は、これをゆるそうとした。しかし伍子胥は、いさめていった。
「天は、越を呉にたまわったのであります。
しかも句践の人となりは、よく辛苦に耐えることができます。
いま越をほろぼしておかなければ、後日かならず後悔なされましょう」。
そこで句践は、ふたたび范蠡のすすめにしたがい、ひそかに美女と宝物を呉の太宰たる伯嚭におくった。
よって伯嚭は呉王に説いた。
「すでに越は屈服し、臣従しております。これをゆるすのが国の利益でございましょう」。
呉王が承諾しようとすると、ふたたび伍子胥が反対した。
「今にしてほろぼさなければ、かならず後悔なされましょう。句践は賢君であり、種や范蠡は良臣であります」。
しかし呉王は聞きいれず、伯嚭の進言をもちいて越と和睦し、句践の帰国をゆるした。
句践は国にかえると、われとわが身を苦しめて、復讐の念をとぎすませた。
かたわらに胆(きも)をおいて、坐臥(ざが)するたびに仰いで胆を嘗(な)め、そのにがい味をかみしめて、
「なんじは会稽の恥をわすれるか」と言うのであった。
みずから野にでて耕作し、夫人もみずから機(はた)を織った。
粗衣と粗食にあまんじ、賢人には身を屈してへりくだり、賓客をあつくもてなし、貧者をたすけ、死者をとむらい、国人と苦労をともにした。
范蠡に国政をとらせようとすると、范蠡はいった。
「いくさの事ならば、種(しょう)は私に及びません。しかし国を治め民をはぐくむ事は、私は種に及びません」。
そこで句践は、国政をことごとく種にまかせた。范蠡は人質(ひとじち)となって呉におもむいた。
しかも二年の後には、伯嚭のはからいによって、帰国することができたのである。
越もまた呉と同じく、江南の新興国であった。その都は会稽、いまの新江省の紹興(しょうこう)である。
中原から遠く離れ、それだけに文化も進んでいなければ、人口もまばらであった。
よって中原からくる賢才の士を優遇し、また移民を受けいれた。出産率をたかめるために、わかい男女の結婚を強制した。
老人とわかい者との結婚は禁ぜられた。
こうして越の国では、軍師の范蠡が中心となって、富国強兵の政策を大胆におしすすめていったのであった。
会稽の敗戦から七年がすぎた。国力もようやく充実してきた。
句践は呉への報復をかんがえる。しかし、いさめる者があった。
なお呉の力は強大であり、こちらが兵事をととのえて、呉に恐れをいだかせてはならない、というのである。
「猛鳥が小鳥を襲うときには、かならず姿をかくすものであります。いま呉の兵は斉や普をおかし、うらみは楚と越にふかく、名声は天下に高くとも、その実は周の王室を害しております。
越としては、斉とむすび、楚としたしみ、晋につき、しかも呉とは鄭重(ていちょう)にまじわるに越したことはありません。
このように三国と連合して、呉と三国とを戦わせ、やがて呉が疲弊するのに乗ずるならば、かならず勝てましょう」。
句践は「なるほど」といって、これにしたがった。
5 呉越の抗争
3 会稽(かいけい)の屈辱
呉王夫差は伯嚭(はくひ)を大宰(だいさい=総理大臣)とし、部下に射戦を習わせて、かたときも越に対する復讐をわすれなかった。
こうして二年たった。句践も呉の戦備を知り、機先を制して呉を撃とうとした。
すると謀臣(ぼうしん)の范蠡(はんれい)が、いさめていった。
「はものは凶器、いくさは逆徳、あらそいは末事であると聞いています。
このんで凶器をもちい、ひそかに逆徳をはかり、身を末事にこころみるのは、天のゆるさぬところ。
さきに犯したほうが不利であります」。
しかし句践は聞きいれず、兵をだした。
それを知ると夫差も、精兵をことごとく発して越軍をむかえ、太湖のほとりでおおいに破った。
句践は五千の残兵をとりまとめ、会稽山にたてこもった。呉王は追撃して、これを囲んだ。
ここに至って越王も、こんどこそ范蠡のことばに従って、大夫の種を夫差のもとにつかねし、和を請うた。
いまや句践は、その体面をすてた。すなわち、みずから呉王の臣下となり、その妻は呉王の妾にしていただきたい、と申しいれたのである。
夫差は、これをゆるそうとした。しかし伍子胥は、いさめていった。
「天は、越を呉にたまわったのであります。
しかも句践の人となりは、よく辛苦に耐えることができます。
いま越をほろぼしておかなければ、後日かならず後悔なされましょう」。
そこで句践は、ふたたび范蠡のすすめにしたがい、ひそかに美女と宝物を呉の太宰たる伯嚭におくった。
よって伯嚭は呉王に説いた。
「すでに越は屈服し、臣従しております。これをゆるすのが国の利益でございましょう」。
呉王が承諾しようとすると、ふたたび伍子胥が反対した。
「今にしてほろぼさなければ、かならず後悔なされましょう。句践は賢君であり、種や范蠡は良臣であります」。
しかし呉王は聞きいれず、伯嚭の進言をもちいて越と和睦し、句践の帰国をゆるした。
句践は国にかえると、われとわが身を苦しめて、復讐の念をとぎすませた。
かたわらに胆(きも)をおいて、坐臥(ざが)するたびに仰いで胆を嘗(な)め、そのにがい味をかみしめて、
「なんじは会稽の恥をわすれるか」と言うのであった。
みずから野にでて耕作し、夫人もみずから機(はた)を織った。
粗衣と粗食にあまんじ、賢人には身を屈してへりくだり、賓客をあつくもてなし、貧者をたすけ、死者をとむらい、国人と苦労をともにした。
范蠡に国政をとらせようとすると、范蠡はいった。
「いくさの事ならば、種(しょう)は私に及びません。しかし国を治め民をはぐくむ事は、私は種に及びません」。
そこで句践は、国政をことごとく種にまかせた。范蠡は人質(ひとじち)となって呉におもむいた。
しかも二年の後には、伯嚭のはからいによって、帰国することができたのである。
越もまた呉と同じく、江南の新興国であった。その都は会稽、いまの新江省の紹興(しょうこう)である。
中原から遠く離れ、それだけに文化も進んでいなければ、人口もまばらであった。
よって中原からくる賢才の士を優遇し、また移民を受けいれた。出産率をたかめるために、わかい男女の結婚を強制した。
老人とわかい者との結婚は禁ぜられた。
こうして越の国では、軍師の范蠡が中心となって、富国強兵の政策を大胆におしすすめていったのであった。
会稽の敗戦から七年がすぎた。国力もようやく充実してきた。
句践は呉への報復をかんがえる。しかし、いさめる者があった。
なお呉の力は強大であり、こちらが兵事をととのえて、呉に恐れをいだかせてはならない、というのである。
「猛鳥が小鳥を襲うときには、かならず姿をかくすものであります。いま呉の兵は斉や普をおかし、うらみは楚と越にふかく、名声は天下に高くとも、その実は周の王室を害しております。
越としては、斉とむすび、楚としたしみ、晋につき、しかも呉とは鄭重(ていちょう)にまじわるに越したことはありません。
このように三国と連合して、呉と三国とを戦わせ、やがて呉が疲弊するのに乗ずるならば、かならず勝てましょう」。
句践は「なるほど」といって、これにしたがった。