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3-5-3 会稽の屈辱

2018-08-05 04:45:37 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

5 呉越の抗争

3 会稽(かいけい)の屈辱

 呉王夫差は伯嚭(はくひ)を大宰(だいさい=総理大臣)とし、部下に射戦を習わせて、かたときも越に対する復讐をわすれなかった。
 こうして二年たった。句践も呉の戦備を知り、機先を制して呉を撃とうとした。
 すると謀臣(ぼうしん)の范蠡(はんれい)が、いさめていった。
 「はものは凶器、いくさは逆徳、あらそいは末事であると聞いています。
 このんで凶器をもちい、ひそかに逆徳をはかり、身を末事にこころみるのは、天のゆるさぬところ。
 さきに犯したほうが不利であります」。
 しかし句践は聞きいれず、兵をだした。
 それを知ると夫差も、精兵をことごとく発して越軍をむかえ、太湖のほとりでおおいに破った。
 句践は五千の残兵をとりまとめ、会稽山にたてこもった。呉王は追撃して、これを囲んだ。
 ここに至って越王も、こんどこそ范蠡のことばに従って、大夫の種を夫差のもとにつかねし、和を請うた。
 いまや句践は、その体面をすてた。すなわち、みずから呉王の臣下となり、その妻は呉王の妾にしていただきたい、と申しいれたのである。
 夫差は、これをゆるそうとした。しかし伍子胥は、いさめていった。
 「天は、越を呉にたまわったのであります。
 しかも句践の人となりは、よく辛苦に耐えることができます。
 いま越をほろぼしておかなければ、後日かならず後悔なされましょう」。
 そこで句践は、ふたたび范蠡のすすめにしたがい、ひそかに美女と宝物を呉の太宰たる伯嚭におくった。
 よって伯嚭は呉王に説いた。
 「すでに越は屈服し、臣従しております。これをゆるすのが国の利益でございましょう」。
 呉王が承諾しようとすると、ふたたび伍子胥が反対した。
 「今にしてほろぼさなければ、かならず後悔なされましょう。句践は賢君であり、種や范蠡は良臣であります」。
 しかし呉王は聞きいれず、伯嚭の進言をもちいて越と和睦し、句践の帰国をゆるした。
 句践は国にかえると、われとわが身を苦しめて、復讐の念をとぎすませた。
 かたわらに胆(きも)をおいて、坐臥(ざが)するたびに仰いで胆を嘗(な)め、そのにがい味をかみしめて、
 「なんじは会稽の恥をわすれるか」と言うのであった。
 みずから野にでて耕作し、夫人もみずから機(はた)を織った。
 粗衣と粗食にあまんじ、賢人には身を屈してへりくだり、賓客をあつくもてなし、貧者をたすけ、死者をとむらい、国人と苦労をともにした。
 范蠡に国政をとらせようとすると、范蠡はいった。
 「いくさの事ならば、種(しょう)は私に及びません。しかし国を治め民をはぐくむ事は、私は種に及びません」。
 そこで句践は、国政をことごとく種にまかせた。范蠡は人質(ひとじち)となって呉におもむいた。
 しかも二年の後には、伯嚭のはからいによって、帰国することができたのである。
 越もまた呉と同じく、江南の新興国であった。その都は会稽、いまの新江省の紹興(しょうこう)である。
 中原から遠く離れ、それだけに文化も進んでいなければ、人口もまばらであった。
 よって中原からくる賢才の士を優遇し、また移民を受けいれた。出産率をたかめるために、わかい男女の結婚を強制した。
 老人とわかい者との結婚は禁ぜられた。
 こうして越の国では、軍師の范蠡が中心となって、富国強兵の政策を大胆におしすすめていったのであった。
 会稽の敗戦から七年がすぎた。国力もようやく充実してきた。
 句践は呉への報復をかんがえる。しかし、いさめる者があった。
 なお呉の力は強大であり、こちらが兵事をととのえて、呉に恐れをいだかせてはならない、というのである。
 「猛鳥が小鳥を襲うときには、かならず姿をかくすものであります。いま呉の兵は斉や普をおかし、うらみは楚と越にふかく、名声は天下に高くとも、その実は周の王室を害しております。
 越としては、斉とむすび、楚としたしみ、晋につき、しかも呉とは鄭重(ていちょう)にまじわるに越したことはありません。
 このように三国と連合して、呉と三国とを戦わせ、やがて呉が疲弊するのに乗ずるならば、かならず勝てましょう」。

 句践は「なるほど」といって、これにしたがった。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父8 いつまでも続く雨

2018-08-05 04:08:20 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 8

 任地で、ふたりを出迎えたのは、マカオの卒業生です。案内されたのは、小さな教会でしたが、司教はシェウンチャオの信者に頼んで、きれいに掃除させていました。家具も、マカオ寮のものをここに運ばせ、そのうえ、夕食まで迎えに来た卒業生に準備させていました。やがて、他の信者も来て、かれらを歓迎したので、宣教師たちは、すっかり感謝してしまいました。

 こんな喜びがいつまで続くのでしょう? やがてしのび寄る影を、大きくしみの入ってきた壁にみつけたのは、これから1週間とたたない頃でした。急にふりだした豪雨がいつまでもやみません。ある夜、驚いたふたりの声がします「この壁みてごらん!」。「おや、あんなに丈夫そうで、きれいだったのに・・・あれ、この壁、泥をかためて石灰を塗っただけじゃないか」

 ふたりかねているあいだも、雨はますます激しくなってきました。そのうち屋根からもり、壁から溢れてきます。ついに、しきりの壁が音をたてて崩れ落ちました。ふたりが、はっと目を見まして部屋から飛び出したとたん、ベットの側の壁が倒れました。かれらは、危いので、外で傘をさして夜をあかしました。朝になって、かけつけた数人の信者が、宣教師の荷物を取り出し、やっと安全な家におちつくことができました。雨と風は、ますます激しく続きます。その次の日の夜になると、嵐のなかからゴーツととどろくような音が聞えてきました。

「ああ、やっぱり」とヴェルシリア神父は、ため息をつきました。次の朝行ってみると、教会は崩れていたのです。この雨は1週間つづきました。そのあいだは、家に閉じこもる他はありませんでした。



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最も高級な国民 聖フランシスコ・ザビエル

2018-08-05 04:05:52 | 格言・みことば
もし全部の日本人が、彼と同じように学ぶことの好きな国民だとすれば、日本人は、新しく発見された諸国の中で、最も高級な国民であると私は考える。このアンヘロは、私の聖教講義に来て後、信仰箇条のすべてを自分の国語を以って書き留めた。彼はたびたび教会へ来て所りをなし、私に無数の質問を浴びせた。彼は、何でも、知り尽くさずにはおかないという、強い欲望を持っている。これは進歩が早くて、短時日の間に、真理の認識に到達することのできると人物だという、確かなしるしである。アンヘロが來てから八日の後、私は印度へ向って出発した。私は、この日本人が、私と一緒に同じ船に来ることを、大いに希望した。けれどもアンヘロは、今まで彼の願ひを叶え、大いに厚遇してくれたポルトガル人と、今別れることはよくないと思ったのである。私は彼を、十日の後まで、コチンで待っている。

聖フランシスコ・ザビエル

聖アフラ殉教女    St. Afra

2018-08-05 04:04:18 | 聖人伝
聖アフラ殉教女    St. Afra                 記念日 8月5日


 アフラは、はじめ売春婦であったが、スペインのヘローナの司教が迫害のために教区から追われて、アウクスブルクのアフラの母の家に泊まった時に改心した。その時からアフラの生活はすっかり変わって、前に犯した罪を絶えず償い、どんな苦しみも甘んじて忍んだ。彼女がキリスト信者であることを訴えられて異教徒の裁判官の前に引き出された時に、裁判官はアフラに向かって、彼女のような罪深い女は、神がほっておかれるだろうと言った。アフラは、「私はもちろんキリスト信者と呼ばれる価値はありませんが、イエズス・キリストがたしかに信者にしてくださいました」と答えた。また、さらに続けて
 「私の体は罪を犯しました。苦しませてください。私は偶像崇拝で私の魂をほろぼしません」と裁判官の前で言った。死刑執行人たちは、レヒ川の中の島に火刑用の柱を立ててアフラを縛りつけ、乾いたぶどうの枝を周りに積み上げて火をつけた。その夜、アフラの母と3人の女性が島へ行ってアフラの遺骨を拾って、アウクスブルクの大きな墓へ持ってきた。この愛の行為を見た異教の役人達は4人の女性を家族の墓の中に閉じこめて火を放ったので、彼女達もアフラと同様に焼死した。



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