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賢明な罰し方 聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)

2018-08-04 00:59:15 | 格言・みことば
三、感情でやっているという印象を与えないこと

 罰を与える時、自分の権力を感じさせることなく、感情のためであると思わせないで、おちついてやるのは、なかなかむずかしい事である。意地でやればやるほどそのことに気がつかなくなるのである。やはり父親としての心があれば、このやり方に賛成が出来るわけはない。私たちの下におかれた生徒を自分の子とみなすようにしよう。

 イエズスのように彼らに奉仕するのである。イエズスは命令するためではなく、従うために来たと言っておられる。支配者の態度を恥じるようにしよう。上に立つならそれはただ生徒に喜んで奉仕するためである。イエズスも使徒たちに対してこうしておられたのである。彼らの無知と無礼と忠実の不足をしのんでおられたし、また罪人に対しても親切さと親しさを示したりしておられたのである。そのことで驚く人もいれば、つまずきを感じる人もいたし、またかえって神の許しがもらえる希望を与えられた人もいる。だから彼は、柔和と謙虚さを自分に見徹うようにと言われたのである。

 生徒が私たちの子であるのなら彼らの過ちを正すとき、怒りを失すか、あるいは少なくとも外に表われないようにおさえる。心に激情も、目に軽蔑も、口に傷つける言葉がないようにしよう。むしろ今の時点では同情をしめし、未来には希望をいだかせるなら、真の父となり生徒を本当に正すことが出来るであろう。

 もっとも重大な時には神に謙虚に請い願ったほうがよかろう。やはりその時、言葉の嵐を吹き出せば、聞く人たちに悪い印象を与えるだけで、過まった当人には少しも役立たない。受け入れてくれなかったサマリアの町に対して、弟子たちが天罰をくだすようにすすめていたのに、イエズスがかえってその町を許された事を思い出そう。

聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ) 「罰についての手紙」1883年


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