『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
6 戦国の乱世
1 晋室の没落
野の国といえば、文公が覇者となって以来、ときに消長はあっても、つねに中原の大国であった。
北方の覇者としての地位も、おおむね保ってきた。
しかし前六世紀となって、文公の死から百年あまりもすぎれば、さしもの大国にも、ようやく没落のきざしがあらわれてくる。
「晋は、もはや末世であります。民はつかれ、道には行き倒れがつづいているのに、公室はますますぜいたくで、しかも政治をかえりみません。
むかしから公室の股肱(ここう=手足とたのむ者)であった名家も、ことごとく落ちぶれてしまいました。
政治は、大夫(たいふ)の私門でおこなわれています。これでは、どうして長く国をたもつことができましょう」。
これは晋の国の賢臣として名高かった叔向(しゅくきょう)のことばである(前五三八)。
そのことばの通り、晋では公室の力が弱まり、六卿(ろくけい)の勢いが強大となっていた。
六卿とは、范・知・中行・趙・韓・魏という、六つの大臣の家である。
晋の公室をささえる柱として設けられたものであったが、軍隊をにぎっていたところから、日ましに強大となり、公室をしのぐにいたった。
公室の一族も、六卿のためにつぎつぎにほろぽされた。その領地も、六卿のために奪われた。
こうして晋の公室はいよいよ弱化し、六卿はますます勢力をふるうようになった。
しかし六卿が並び立つ形勢も、前五世紀にはいるや、くずれていく。
范氏と中行氏が、他の四氏と争い、晋の公室からも討伐をうけて、その地位をうしなった。
出(しゅつ)公の十七年(前四五八)、六卿の筆頭であった知瑤(ちよう)は、趙・韓・魏の三氏を語らって、范氏と中行氏の領地をうばい、それぞれに分割してしまった。
出公はおこった。斉(せい)と魯(ろ)とにつげて、四卿を討とうとした。
これを知って四卿は、逆に出公を攻めた。出公は斉にむかって逃げだし、その途中で死んだ。
そこで知瑤は、公室の一族のなかから、哀公を立てて国君とした。
いまや晋の政治は、知氏の思うままであった。
当主の知瑤は知伯と尊称され、風采もみごとであれば、射御(しゃぎょ)もたくみであり、さらに物ごとの処理もすぐれ、おどろくべき果断さと、すばらしい機智をそなえていた。
ただ一つの欠点が、なさけを知らぬ貪欲(どんよく)であった。
6 戦国の乱世
1 晋室の没落
野の国といえば、文公が覇者となって以来、ときに消長はあっても、つねに中原の大国であった。
北方の覇者としての地位も、おおむね保ってきた。
しかし前六世紀となって、文公の死から百年あまりもすぎれば、さしもの大国にも、ようやく没落のきざしがあらわれてくる。
「晋は、もはや末世であります。民はつかれ、道には行き倒れがつづいているのに、公室はますますぜいたくで、しかも政治をかえりみません。
むかしから公室の股肱(ここう=手足とたのむ者)であった名家も、ことごとく落ちぶれてしまいました。
政治は、大夫(たいふ)の私門でおこなわれています。これでは、どうして長く国をたもつことができましょう」。
これは晋の国の賢臣として名高かった叔向(しゅくきょう)のことばである(前五三八)。
そのことばの通り、晋では公室の力が弱まり、六卿(ろくけい)の勢いが強大となっていた。
六卿とは、范・知・中行・趙・韓・魏という、六つの大臣の家である。
晋の公室をささえる柱として設けられたものであったが、軍隊をにぎっていたところから、日ましに強大となり、公室をしのぐにいたった。
公室の一族も、六卿のためにつぎつぎにほろぽされた。その領地も、六卿のために奪われた。
こうして晋の公室はいよいよ弱化し、六卿はますます勢力をふるうようになった。
しかし六卿が並び立つ形勢も、前五世紀にはいるや、くずれていく。
范氏と中行氏が、他の四氏と争い、晋の公室からも討伐をうけて、その地位をうしなった。
出(しゅつ)公の十七年(前四五八)、六卿の筆頭であった知瑤(ちよう)は、趙・韓・魏の三氏を語らって、范氏と中行氏の領地をうばい、それぞれに分割してしまった。
出公はおこった。斉(せい)と魯(ろ)とにつげて、四卿を討とうとした。
これを知って四卿は、逆に出公を攻めた。出公は斉にむかって逃げだし、その途中で死んだ。
そこで知瑤は、公室の一族のなかから、哀公を立てて国君とした。
いまや晋の政治は、知氏の思うままであった。
当主の知瑤は知伯と尊称され、風采もみごとであれば、射御(しゃぎょ)もたくみであり、さらに物ごとの処理もすぐれ、おどろくべき果断さと、すばらしい機智をそなえていた。
ただ一つの欠点が、なさけを知らぬ貪欲(どんよく)であった。