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3-6-1 晋室の没落

2018-08-09 06:18:10 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

6 戦国の乱世

1 晋室の没落

 野の国といえば、文公が覇者となって以来、ときに消長はあっても、つねに中原の大国であった。
 北方の覇者としての地位も、おおむね保ってきた。
 しかし前六世紀となって、文公の死から百年あまりもすぎれば、さしもの大国にも、ようやく没落のきざしがあらわれてくる。
 「晋は、もはや末世であります。民はつかれ、道には行き倒れがつづいているのに、公室はますますぜいたくで、しかも政治をかえりみません。
 むかしから公室の股肱(ここう=手足とたのむ者)であった名家も、ことごとく落ちぶれてしまいました。
 政治は、大夫(たいふ)の私門でおこなわれています。これでは、どうして長く国をたもつことができましょう」。

 これは晋の国の賢臣として名高かった叔向(しゅくきょう)のことばである(前五三八)。
 そのことばの通り、晋では公室の力が弱まり、六卿(ろくけい)の勢いが強大となっていた。
 六卿とは、范・知・中行・趙・韓・魏という、六つの大臣の家である。
 晋の公室をささえる柱として設けられたものであったが、軍隊をにぎっていたところから、日ましに強大となり、公室をしのぐにいたった。
 公室の一族も、六卿のためにつぎつぎにほろぽされた。その領地も、六卿のために奪われた。
 こうして晋の公室はいよいよ弱化し、六卿はますます勢力をふるうようになった。
 しかし六卿が並び立つ形勢も、前五世紀にはいるや、くずれていく。
 范氏と中行氏が、他の四氏と争い、晋の公室からも討伐をうけて、その地位をうしなった。
 出(しゅつ)公の十七年(前四五八)、六卿の筆頭であった知瑤(ちよう)は、趙・韓・魏の三氏を語らって、范氏と中行氏の領地をうばい、それぞれに分割してしまった。
 出公はおこった。斉(せい)と魯(ろ)とにつげて、四卿を討とうとした。
 これを知って四卿は、逆に出公を攻めた。出公は斉にむかって逃げだし、その途中で死んだ。
 そこで知瑤は、公室の一族のなかから、哀公を立てて国君とした。
 いまや晋の政治は、知氏の思うままであった。
 当主の知瑤は知伯と尊称され、風采もみごとであれば、射御(しゃぎょ)もたくみであり、さらに物ごとの処理もすぐれ、おどろくべき果断さと、すばらしい機智をそなえていた。
 ただ一つの欠点が、なさけを知らぬ貪欲(どんよく)であった。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父12  身売りを防ぐ

2018-08-09 05:56:24 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 12

 サレジオ会がまかされた地方には、よくない習慣がありました。迷信や貧乏のため、娘を売る親が少なくなかったのです。未信者だけではありません。まだ信仰の深い信者も、娘を売りました。

 さて、ヴェルシリア神父は、ここに来て2年目を迎えていました。その頃になると、苦しむ人を助けるかれの噂も広まっていたのです。ある信者に12才と15才の娘がいましたが、まだ洗礼を受けていませんでした。ふたりは、教会に通って教理を学んでいました。

 ある日、このふたりが、教会にかけ込んできました。娘たちは、泣きながら、神父に、経済的に困った親が、自分たちを売ったのだと話します。「神父さま、あそこに行くのはいやです、どうぞ、わたしたちを助けて・・・」、ふたりは、涙ながらに願います。洗礼も早くと頼みました。問題は、お金さえあれば簡単です。でも教会にそれはありませんでした。ヴェルシリア神父は、さっそくイタリアの本部に手紙を書いて事情を訴え、善人の協力を願いました。そしてこの願いは、1912年の11月号サレジオ会会報にのせられましたが、フランスと、イタリアから、合わせて3つの電報小切手が届いたのは、それからまもない頃でした。この小切手で、あのふたりだけでなく、さらにもうふたりの娘を救うことができました。神父は、ふたたび娘を売る危険のある家族には帰しませんでした。

 娘たちは、どんなにヴェルシリア神父に感謝したことでしょう。かの女たちは、そののちキリスト教教育を受けるため、マカオのシスターたちに任せられました。そのあとも毎月ひとり、ふたりと救いのわざが続いたのです。


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天の御母のインスピレーション  聖マキシミリアノ・コルベ

2018-08-09 05:54:26 | 格言・みことば
あなたを成聖の道へと導かれる天の御母のインスピレーションをいつも支持し続けなさい。そしていつも朗らかでありなさい。「神は喜んで与える者を愛される」(コリント後書9:7)この目的であなたに与えた規定は真実で確実だという確信をもちなさい。

聖マキシミリアノ・コルベ 1920年11月13日

聖エディット・シュタイン修道女殉教者 St.Edith Stein

2018-08-09 05:43:15 | 聖人伝
聖エディット・シュタイン修道女殉教者 St.Edith Stein    記念日 8月9日


 エディット・シュタインは、1891年10月12日ユダヤ人としてドイツのブレスラウ(現ポーランド・ブロツワフ)で生まれた。この日はユダヤ教の大祝日である贖罪の日であった。
 彼女は何事にも全身全霊を注ぎ、情熱に燃え立つ女性に成長し、現象学の創始者、エドムンド・フッサールに師事し、優れた博士論文を発表し、ドイツ哲学界の新進気鋭の哲学者として頭角をあらわすようになった。無神論者を自称していた彼女は、30歳のころ十字架のキリストに出会い、カルメル会の聖女アビラの聖テレサの『自叙伝』を読んだことがきっかけで、真理を悟り、カトリックの洗礼を受ける。42歳でケルンのカルメル会修道院に入会し、テレジア・ベネディクタ・ア・クルチェ(十字架に祝せられし者)という修道名を受け、カルメル会での修道生活を送りながら、宗教哲学、霊性について多くの著作を執筆した。

 ナチスの人種政策でユダヤ人への弾圧が始まり、修道会は彼女をオランダに移動させたが、1942年、逃亡先の修道院から強制収容所へ連行され、アウシュビッツでその生涯を終えた。


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