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3-6-3 予譲の復讐

2018-08-12 04:13:06 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

6 戦国の乱世

3 予譲(よじょう)の復讐

 知伯の家来に予譲(よじょう)という者があった。
 はじめ范氏および中行氏につかえたが名声あがらず、去って知伯につかえたものである。
 晋陽の敗戦の後、ひとり山中にのがれた。そこで知伯が殺されたこと、さらに趙襄子が知伯の頭蓋に漆(うるし)をぬって飲器(いんき=さかずき)したことまで聞いた。
 「ああ、士はおのれを知る者のために死し、女はおのれをよろこぶ者のために容(かたち)づくる、という。
 知伯は自分をよく知ってくれた。いまや私は、知伯のために讐(あだ)をむくいて死のう」。
 心に誓った予譲は、山をくだると、変名して罪人の群れに投じ、宮中にはいって厠(かわや)の壁をぬる仕事にたずさわった。
 こうして趙襄子を刺しころす機会をうかがったのである。
 やがて襄子が厠にゆくと、なにか胸さわぎがする。
 そこで壁ぬりの刑徒をとらえて訊問したところ、予譲であった。
 懐中に匕首(あいくち)を持っていて、「知伯のために讐をむくいようとした」と自白した。
 左右の者が殺そうとすると、襄子がとめた。

 「彼は義人である。わしさえ用心して、避けておればよいのだ。
 知伯がほろんで子孫もなく、しかも臣として讐をむくいようとするのは、これ天下の賢人である」。

 そういって予譲を釈放した。
 しばらくすると予譲は、からだに漆(うるし)をぬって癩(らい)病をよそおい、炭をのんで声をつぶし、人に知られぬように姿をやつして、市中に出て乞食(こじき)をした。
 その妻にさえ、見わけがつかなかった。それでも友人に出会って、見やぶられた。
 「お前、予譲じゃないか」。
 「いかにも」と予譲が答えると、友人は泣いていった。
 「きみほどの才のある人が、贈りものをささげて襄子の家来になったならば、襄子はかならずきみを近づけて寵愛(ちょうあい)するだろう。
 そのうえで思うことをすれば、かえってやりやすいではないか。
 どうして身をそこない、形をゆがめたりして、讐(あだ)をむくいようとするんだ」。

 しかし予譲はいった。
 「家来となりながら主君を殺そうとするのは、二心をいだいて仕えるというものだ。
 いま、わたくしのしていることは、まことに辛い。
 しかし、あえてこうしているのは、まさに天下後世において、二心をいだいて主君に仕えるということを、恥じ入らせようとするためなのだ」。

 その後、しばらくして襄子が外出すると、予譲は通りみちの橋の下で待ちぶせた。
 襄子が橋のところまでくると、馬が驚いて、はねた。
 襄子は「これは、予譲がいるに違いない」と考え、供の者にしらべさせた。
 はたして予譲がいた。そこで襄子は予譲を責めていった。
 「そなたは、かつて范氏の中行氏につかえたのではなかったか。知伯はこの二氏をことごとくほろぼした。
 しかるにそなたは、その讐をむくいようともしないで、かえって贈りものをささげて知伯の家来となった。
 もはや知伯も死んでしまったのだ。
 しかるにそなたは、どうして知伯のためにだけ、かくも執念ぶかく讐をむくいようとするのだ」。
 「私は范氏と中行氏につかえました。しかし范氏も中行氏も、みな常人として私を遇しました。
 だから私も、常人として報じたのです。
 知伯に至っては、国士として私を遇しました。だから私も、国士として報じようとするのです」。

 襄子は大きく嘆息し、涙を流していった。
 「ああ先生、そなたが知伯のために尽くす節義はすでに全うされたのだ。
 私がそなたをゆるしておくことも、もはや十分であろう。そなたも覚悟をされるがよい。私は今度はゆるすまいぞ」。

 かくて兵に命じて、予譲を囲ませた。すると予譲がいった。
 「私は聞いております、明君は人の美をおおいかくさず、忠臣は名に死するの義ありと。
 さきに君は寛大にも私をゆるされました。天下に君の賢をたたえぬ者はありません。
 今日のことは、もとより私も誅(ちゅう)に伏しましょう。
 ただ願わくは、君の衣服を申しうけ、これを撃(う)って復讐の念をはらしたく、そうすれば死んでも、うらむところはありません。たってとは望みませんが、あえて心のうちを申しあげます」。

 襄子はおおいにその義に感じ、供の者をして衣服を持たせ、予譲にあたえた。
 予譲は剣をぬき、三たび躍りあがって、これを撃った。
 そして「これで地下の知伯に報じられた」と叫ぶや、ついに剣に伏して自殺した。
 この日、趙の国の志士たちは予譲の死を聞いて、いずれも涙を垂れて泣いた。

(絵は趙襄子と予譲)

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父14  司教聖別

2018-08-12 03:47:34 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 14

「とんでもありません、この布教地の発展は、他の宣教師たちの努力がみのったのです」といって、かれは、断ろうとしました。そのときは、ちょうどこの地方に内乱が起きて、教会は難民でごったがえしていた時期だったので、なおさらです。

 かれは、6か月ためらった後に、自分をそれにふさわしくないと思いながらも、教皇さまの決定に服従しました。

 その聖別式は、1921年1月9日の日曜日、カントンの司教座大聖堂で行なわれ、4人の司教と大勢の宣教師や信者がたちあいました。この日のために集まったサレジオ会員は17名、サレジオ会独特のコーラスが荘厳な歌ミサをひびかせました。この典礼賛美歌「エッチェ・サチェルドス・マニュス」を新しく作曲して、トリノから送ってくれたのは、かれの親友そして、わたしたちのあのなつかしいチマッティ神父さまです。チマッティ神父さまは、4年後に日本最初の宣教師の団長となって来日し、その後も、ヴェルシリア司教と文通がありました。

 式が終わると、かれは新司教区のカテドラルとなるシュチョウ教会に数人の宣教師とともに移ってゆきました。カテドラルとは名だけ、小さな教会で、聖堂には、やっと200名ぐらいの信者が入れる程度のものです。かれのために低い司教座のいすが準備されていましたが、これにかけようとすれは、その度に頭を下げないと、天井にぶっつけてしまうのです。



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最高の至福 聖アウグスティヌス

2018-08-12 03:44:27 | 格言・みことば
それで、神の国の最高善は、永遠で完全な平和であるので、死すべき人間が出生から死へと通過するような平和ではなく、もはやいかなる敵対者を耐える必要もなく不死なる者としてそこにおいて存続する平和なのである。これが最高の至福の生であることをだれが否定するであろうか。また、その生と比較するなら、この世における現実の生は、それがどれほど魂と身体や外的事物の善に満たされていようとも、まったく悲惨であるとだれが判断しないであろうか。

聖アウグスティヌス 『神の国』19:20

聖エウプリオ殉教者

2018-08-12 03:42:28 | 聖人伝
聖エウプリオ殉教者                  記念日 8月12日


 ディオクレチアヌス皇帝の迫害の時代、304年にシチリアのカタニアでエウプリオという助祭が貧しい人々に福音を読んでいるところを発見された。早速、総督のカルヴィシアヌスの前に連れ出されたエウプリオは、以前から信仰のために死ぬことを予期していたので、「自分は殉教の覚悟をしている」と言った。
 エウプリオが四福音書を手に持っているのを見た総督は、このような本を持つことは不法だと彼を責めた。エウプリオは、キリストのために忍ぶ苦しみについての文章を彼に読んで聞かせた。
「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」
 カルヴィシアヌスは、エウプリオが法律に背いていることを白状していると思い込んで、彼を拷問台の上に横たえるように命じた。責め苦を耐え忍びながらエウプリオはなおもイエズスに祈り続けていると、カルヴィシアヌスは異教の三神のアポロとマルスとエスクラピウスを拝むように命令した。この瞬間に、エウプリオは三位一体に対する深い信仰をくり返して言い表した。
 「私はただ父と子と聖霊のみを礼拝する。他に神は存在しない」
 エウプリオを苦しめていた男達はまた拷問を続けた。彼は苦痛のため言葉が途切れて、ただ唇だけが動いているだけだったが、なおも祈り続けていた。ついにカルヴィシアヌスはエウプリオに斬首の刑を宣告した。
 死刑執行人はエウプリオの福音書を聖人の首のまわりにぶら下げた。しかし、これは「神々と皇帝の敵」として刑場に連れて行かれる時に、かえって彼の喜びを増したのであった。

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