カトリック情報 Catholics in Japan

聖人伝、教会史、格言、みことばなどを掲載します。フェイスブックのカトリックグループにも投稿しています。

秋田の聖母  1973年10月13日

2018-10-13 15:24:30 | 私的啓示(ファティマ等以外)
愛する娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そしてあなたの長上に告げなさい。前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、御父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのとき御父は、大洪水より重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって、人類の多くの人々が死ぬでしょう。善い人も悪い人と共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。そのとき、私たちに残る武器はロザリオと御子の残された印だけです。毎日、ロザリオの祈りを唱えて下さい。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈って下さい。悪魔の働きが教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者で一杯になり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。沢山の霊魂が失われることが、私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の許しはなくなるでしょう。

秋田の聖母  1973年10月13日
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秋田の聖母  1973年10月13日

2016-10-14 08:28:57 | 私的啓示(ファティマ等以外)
愛する娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そしてあなたの長上に告げなさい。前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、御父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのとき御父は、大洪水より重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって、人類の多くの人々が死ぬでしょう。善い人も悪い人と共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。そのとき、私たちに残る武器はロザリオと御子の残された印だけです。毎日、ロザリオの祈りを唱えて下さい。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈って下さい。悪魔の働きが教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者で一杯になり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。沢山の霊魂が失われることが、私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の許しはなくなるでしょう。

秋田の聖母  1973年10月13日
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秋田の聖母 シスター笹川の夢

2016-08-04 08:56:12 | 私的啓示(ファティマ等以外)
安田貞治神父『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』pp.217-225

 昼食のとき、ひとりのシスターから、シスター笹川の見たおそろしい夢、という話題が持ち出された。興味をひかれて、私がその詳しい話をもとめると、シスター笹川は、恐る恐るという感じで語りだした。

「今朝、ひどい迫害を受ける夢をみて、目が覚めてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。私の前に、おおぜいのそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それをひきいる、かしらのような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる神学者が進み出て、私にこういう言葉を浴びせてきました

 『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれは、キリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕える者であるなら、なぜわれわれと同じく、八百万(やおよろず)の神々を神と認めないのか。
  神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万(やおよろず)の神を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生を楽しんで生きられるものを。
  お前たちは、好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。いま、おまえは、はっきりと、三位一体の神が唯一ではない、八百万(やおよろず)の神々も神と信じるということをわれわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』

 そういって、つえのようなものを、ふりあげましたが、みるとそれは大きなヘビで、私の体に巻きついてきました。恐ろしさんじ声も出ないほどでしたが、必死に答えました。

 『三位一体の神さまだけが唯一の神です。そのほかに、いかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人であるということだと思います。』

 すると相手は、

 
 『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』

 と、念を押すので

 『はい、そのとおりです。そして、キリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました。』

 と答えると、ヘビが、いちだんと強く巻きついてきて身動きもできなくなりました。ヘビは、ときどき赤い鋭い舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。

 恐ろしさと、身を締められる苦しさで、あとは、同じ質問を繰り返し投げかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ、夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。
 
 ヘビが赤い舌を顔に寄せてくるときだけは、ロザリオをふりあげて追い払っていましたが、その力もだんだん弱ってきました。

 助けを求めて見回すと、右側には仲間のシスターたちが並んでいます。

 どう助けることもできず、ただオロオロしているのが手にとるようにわかります。

 目があうと、『わたしたちがついているから、がんばってね』とそれぞれのまなざしが言うだけです。
  
 日ごろ頼りにする長上も、皆そろって御姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。

 もう、疲れ果てて、ヘビの頭を払いのける力もつき、祈る声もでなくなったとき、不意に安田神父様が目の前に飛び出して来られました。

 『聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン(ちちとことせいれいとのみなによって、アーメン)』
 と、大きく十字架のしるしをしてから、
 
 『彼女の言うように、我々は皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてよい』

 と、声高くおっしゃいました。すると、まず、左側の気味悪い
 一団の先頭に立って私を責め立てていた頭分が、たじたじとなって退き、
 続いて私に巻きついていたヘビも離れました。

 ヘナヘナとくずれおちた私をようやくシスターたちが助けに来てくれました。
 
 私は神父様にお礼を言う力もないほど、弱りきっていました。汗が噴き出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。

 そこで、目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした。ああ、夢でよかった、と起き上がろうとしましたが、胸がまだ締め付けられるように苦しくて、すぐには起きられませんでした。手足も冷たくなっているし、隣室のシスターを呼ぼうと思ってものどが締め付けられたなごりで、声もでません。
 枕もとの時計を見たら、午前4時半を過ぎたところでした。

 やっと起き上がってみると、ねまきはもちろん、ふとんまで体のかたちに
 汗がにじみとおっています。それで、まだ日もでていないけれど、窓に干した
 のでした。

 お聖堂に行っても、祈りのうちにも夢がまざまざと浮かんでくるので、一心に御助けを願いました。共同の祈りになっても、まだ体に力がなくて
 声がでませんでした。

 この夢の話はだれにもしないはずだったのに、あまりにも恐ろしかったので、つい隣の席のシスターに、怖い夢をみたと、口をすべらしてしまいました。
 
 どんな・・・と聞かれましたが、朝食中だったので、あとで、とことわりました。食後、お礼拝のあとで、そのシスターが私の部屋までわざわざ聞きにこられたので、一部始終を話しました。そしたら、『こわかったでしょう。ほんとに、ふとんはまだ濡れている』と、おどろかれたようでした。

 そして、いま、神父様にも判断していただくように、この話題を持ち出されたのだと思います」

という報告であった。

 聞き終わった私は、シスター一同の、物問いたげな表情を見回しながら、ただの悪夢とは思えない、と前置きして、自分なりの解釈を述べてみた。

 これは、笹川さんだけに関することではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、他神教への接近をこころみる傾きがみられる。
 同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて、比較的、楽な方向に向けていく。
 現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。
そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみことばを誠実に守る使命に尽くさねばならぬと思う・・・

 この意見を、シスターたちは、うなずいて聞いていたが、中にはたかが夢にすぎないことを・・・と、まじめに受け取る気にならない者も
いたようであった。

 ところが、その夕方のことである。晩の聖務に先立つロザリオの終わったとき、姉妹笹川があわただしく寄って来て「神父様、となりのへやに蛇がいます」と告げた。立って行き応接間の戸を少し開けてみると、奥の壁ぎわに大きな蛇がとぐろを巻いている。姉妹たちも背後から目にしたらしいので、私はまず一同を落ちつかせるために、今は祈りの途中であるから続けるように、と命じて戸をしっかり閉めた。やがて晩の祈りの終わったところで、蛇を応接間から玄関口へ追い出し、戸外で始末したのであった。

 あとから姉妹笹川の説明によると「ロザリオの終わりに“いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え”と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」ということであった。

* * *

 これは今から思えばもう十二年前の、一つの悪夢とそれにつらなる出来事であるが、あらためて吟味すると、いろいろな警告がふくまれているように思われる。さらに、近い将来にあてはまる重大な示唆がみとめられるようである。
 姉妹笹川を責めたてた神学者めいた頭目の言い分を、とり上げてみよう。
その第一は、三位一体の神がなぜ唯一の神なのか、という詰問である。天地創造の神を信じてきたユダヤ教にしても、神は唯一とみとめても、三位一体の秘義は知らなかった。この三位一体の秘義の啓示を受けなければ、イエズス・キリストが唯一の神の子であることも、信じることはできないわけである。迫害者は「われわれはキリストが神であると信じることはできない」と宣言しているが、この問題は今に始まったことではなく、唯物論の抬頭と科学主義時代の幕明きと同時に、人間精神を揺すぶってきた課題である。今や教会の中にも、多種多様の形で婉曲な唯物思想やヴェールをかぶった無神論が入り込んでいることは、蔽いようのない事実である。

 この夢では、ひとりの神学者が唯物思想をもって、戦いをいどんでいるが、これはまた現代精神の滔々たる趨勢を、表徴しているごとくである。
 彼の主張によれば、八百万の神々、すなわち昔から日本にあった在来の神々を信じれば、われわれも皆カトリックになる、という。これは妥協による容易な福音伝道をめざす、安易な宣教活動の態勢と合致するものである。
 結論としては「われわれの仲間になれば、人生をおもしろおかしく、楽しく生きられるものを」と憐れむごとく誘いをかけ、信仰を現世的生活の享楽の補充とさえしているのである。つまりは、この世に生きる人間生活が大事なのであって、崇高なる神の次元に結びつく超自然の生活を否定するのである。
 ここに、たかが夢の話として軽視できぬものを、私は感じとったが、実はやがて彼女の受けるべき試練の前知らせのようなものであったと思われる。そのような意味がふくまれる故にこそ、天使が先の治癒の予告にさいして「今朝の食卓で夢のことが話題となったでしょう。心配することはない」とわざわざ言及されたのであろう。そして、夢を軽んじた者のために、現実に蛇を目に突きつけて、反省をうながされたのであろう。
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聖グリニョン・ド・モンフォール『聖母マリアへのまことの信心』

2016-07-09 04:36:08 | 私的啓示(ファティマ等以外)
聖グリニョン・ド・モンフォール『聖母マリアへのまことの信心』

 聖母マリアが悪魔に対してもっている絶大な力は、とりわけ 世の終わりごろにその威力を最高に発揮するでしょう。世も終わりに近づくと悪魔はますますいきり立って、聖母の「かかと」に襲いかかるのです。聖母の「かかと」とは、聖母が悪魔との決戦に召集した、名もなく いやしい聖母の部下たち、貧しく謙虚な聖母のこどもたちです。

 なるほど彼らは、世間の目から見れば、小さな者 貧弱な者ではあるでしょう。すべての人から足のかかとのように さげすまれているでしょう。かかとが、からだの他の部分から踏みつけられ痛めつけられているように、この人たちも世の人々から踏みつけられ痛めつけられるでしょう。

 でも、天主の御前では 全くちがいます。世の人々からの評価と処遇とは正反対に、この人たちは、天主の恩寵に富んでいるでしょう。聖母がそれを かれらに豊かに配分してくださるからです。かれらは天主の御前においては 聖徳の巨人、熱烈で清らかな愛においては群を抜いているでしょう。天主の助けに強く支えられた彼らは、自分たちの「かかと」の謙虚さを武器にして、聖母とひとつになって悪魔の頭部を粉砕し、めでたくイエズス・キリストに勝利の凱旋歌を献上するでしょう。

 天主はその母、聖母マリアが、今日、いつもよりもっと人に知られ、愛され、尊敬されることをお望みになります。天主のこのお望みは、わたしがこれから述べようとする聖母への信心を救われる人々が精霊の恵みと光のもとにまごころこめて 完全に実行しさえすれば、まちがいなく達成されるでしょう。

 そうした中でかれらは信仰の度合に応じて、聖母マリアという「海の星」をはっきり認めることができるでしょう。そして、この星に導かれ、途中で暴風雨や海賊に悩まされてもめでたく目的の港にたどり着くことができるでしょう。

 かれらは今更のように聖母マリアという女王の偉大さがわかるでしょう。そして自分を部下として、愛のしもべとして、聖母への奉仕に まったくささげ尽すでしょう

 そのときかれらは、聖母マリアの母性愛の甘美さといつくしみをひしひしと実感するでしょう。反射的に聖母マリアを力の限り愛しかえすでしょう。

 聖母マリアのうちに自分たちに対する慈悲がどれほど満ちあふれているか、聖母にたすけてもらわなければならない自分たちのみじめさが、どれほどひどいものかを 理解することができるでしょう。

 そこでかれらは万事において聖母のもとに馳せてゆき、聖母を イエズス・キリストの御前における 自分たちの弁護者・仲介者と仰ぐでしょう。

 こうした中で聖母こそ、イエズス・キリストに至る一番確実 一番容易 一番短い 一番完全な道であることがわかるでしょう。

 そして完全にイエズス・キリストのものになりきるために自分のからだも たましいも 残りくまなく、ところで、先に述べた 聖母の部下 聖母のしもべ 聖母のこどもとは
どんな人のことでしょうか。それは 燃え盛る炎、天主の召使(詩篇104-4)のことです。神聖な愛の炎を、地上のいたるところに点じて歩く人のことです。それは、「勇士の手にある矢」(詩篇127-4)、ご自分の敵を打ち倒すため、聖母が手にしておられる鋭い矢のことです。それは、大いなる苦悩の火で清められて、天主と密着したキリスト者のことです。心に愛の黄金を、精神に祈りの乳香を、からだに苦行の没薬を帯びていることです。

 貧しい人、小さな人たちにとっては キリスト者の「かぐわしいイエズス・キリストのかおり」(Ⅱコリント2・15-16)しかし、この世の高貴な人、裕福な人、高慢な人にとっては、「死の香り」そうしたキリスト者のことです。

 かれらは、聖霊のかすかないぶきにこたえて、すぐに霊的に立ち上がり、全世界をかけめぐる雲(イザヤ60-8)雷を伴う雲のような者でしょう。

 地上のいかなるものにも愛着せず、いかなるものにも驚かず、いかなるものにも気を留めず、ただ、天主のことばと 永遠の生命の雨を洪水のように地上に降らせるでしょう。

 罪を弾劾して雷鳴のようにとどろきわたり、世間をしかって、これに大目玉をくわせるでしょう。悪魔とその徒党に痛撃を加え、「天主のみことば」という「両刃の剣」(ヘブル4-12)をふるって天主が指名するすべての人を刺し貫くでしょう

 こうした中で、ある者は死に至り、ある者は改心して生命に至るのです。

 かれらこそ、世界終末の全世界ドラマに登場するまことの勇士、まことの使徒なのです。

 万軍の神なる主は、かれらに、力あることばをお与えになります。奇跡をおこない、偉大なわざをなし、悪魔に勝利し、栄光ある戦利品をたずさえて、かれらを 凱旋されるためです。

 世界終末の勇士たちは、身に一銭の蓄えもなく、赤貧洗うがごとくでしょう。それでも平気で、ほかの富裕な司祭・聖職者・教会役職者と肩を並べて、堂々と暮らすでしょう。

 しかし、貧乏であっても、銀でおおわれた「鳩の翼」(詩篇68-14)を持っているのです。この翼をつけ、天主の栄光と霊魂の救い、という「鳩のように」清らかな、純な意向をもって聖霊がお呼びになる場所には、どこでも飛んでいくのです。

 そして、彼らは自分が説教した場には、ただ、「律法の完備」(ローマ13-10)である愛の黄金しか残しません

 この勇士たちこそ、イエズス・キリストの本当の弟子です。彼らは、キリストの清貧・謙虚・世俗蔑視・神聖な愛と兄弟愛を実行しながら師の足跡を忠実にたどります。

 この世の知恵に従ってではなくキリストの福音に従って、天国への狭き道を、キリストが説かれたとおりに人々に教えます。

 だれも はばからず、だれの顔色もうかがわず(マタイ22-16)、だれも容赦せず、地上のいかなる権力をもつ者のいかなる脅しも耳をかさず、恐れません。

 かれらは、口に、天主のみことばという「両刃の剣」(ヘブル4-12)を持っています。肩に、血染めの十字架の旗を担いでいます。右手には十字架像、左手にはロザリオ、心には イエズスと聖母マリアの御名、かれらの立ち居振る舞いは、イエズス・キリストの謙虚と苦行を帯びています。

 これこそ、世界終末の「ひのき舞台」に登場する神の国の偉人達です。天主の命令によって、聖母マリアがつくりだす偉大な人物群なのです。

 天主は、悪魔とその徒党に対して、ご自分の支配権を発展・伸長させるため、これらの偉大な人物群の育成を聖母マリアに下命されるのです。

 でも、いつ、どのように、それが実現するか。これは、ただ、天主だけが知っておられます。私たちとしては、ただ黙って、祈って、あえいで、待つだけです。そうです。ただ、「切なる思いで、待ち望みましょう」(詩篇40-1)


(英語原文)

Saint Louis de Montfort "TRUE DEVOTION TO MARY"

 But the power of Mary over all the devils will especially break out in the latter times, when Satan will lay his snares against her heel; that is to say, her humble slaves and her poor children, whom she will raise up to make war against him. They shall be little and poor in the world’s esteem, and abased before all, like the heel, trodden underfoot and persecuted as the heel is by the other members of the body. But in return for this, they shall be rich in the grace of God, which Mary shall distribute to them abundantly. They shall be great and exalted before God in sanctity, superior to all other creatures by their animated zeal, and leaning so strongly on the divine succour, that, with the humility of their heel, in union with Mary, they shall crush the head of the devil, and cause Jesus Christ to triumph.

 In a word, God wishes that His holy Mother should be at present more known, more loved, more honoured, than she has ever been. This no doubt will take place, if the predestinate enter, with the grace and light of the Holy Ghost, into the interior and perfect practice which I will disclose to them shortly. Then they will see clearly, as far as faith allows, that beautiful Star of the Sea. They will arrive happily in harbour, following its guidance, in spite of the tempests and the pirates. They will know the grandeurs of that Queen, and will consecrate themselves entirely to her service, as subjects and slaves of love. They will experience her sweetnesses and her maternal goodnesses, and they will love her tenderly like well-beloved children. They will know the mercies of which she is full, and the need they have of her succour; and they will have recourse to her in all things, as to their dear advocate and mediatrix with Jesus Christ. They will know what is the most sure, the most easy, the most short, and the most perfect means by which to go to Jesus Christ; and they will deliver themselves to Mary, body and soul, without reserve, that they may thus be all for Jesus Christ.

 But who shall be those servants, slaves, and children of Mary?

 They shall be a burning fire of the ministers of the Lord, who shall kindle the fire of divine love everywhere, and sicut sagittce in manu potentis?like sharp arrows in the hand of the powerful Mary to pierce her enemies.

 They shall be the sons of Levi, well purified by the fire of great tribulation, and closely adhering to God; who shall carry the gold of love in their heart, the incense of prayer in their spirit, and the myrrh of mortification in their body; and they shall be everywhere the good odour of Jesus Christ to the poor and to the little, while they shall be an odour of death to the great, to the rich, and to the proud worldlings.

 They shall be clouds thundering and flying through the air at the least breath of the Holy Ghost; who, without attaching themselves to anything, without being astonished at anything, without putting themselves in pain about anything, shall shower forth the rain of the Word of God and of life eternal. They shall thunder against sin; they shall storm against the world; they shall strike the devil and his crew; and they shall strike further and further, for life or for death, with their two-edged sword of the Word of God, all those to whom they shall be sent on the part of the Most High.

 They shall be the true apostles of the latter times, to whom the Lord of Hosts shall give the word and the might to work marvels, and to carry off the glory of the spoils of His enemies. They shall sleep without gold or silver, and, what is more, without care, in the middle of the other priests, ecclesiastics, and clerks, inter medios cleros; and yet they shall have the silvered wings of the dove, to go, with the pure intention of the glory of God and the salvation of souls, wheresoever the Holy Ghost shall call them. Neither shall they leave behind them, in the places where they have preached, anything but the gold of charity, which is the accomplishment of the whole law.

 In a word, we know that they shall be true disciples of Jesus Christ, who, marching in the footsteps of His poverty, humility, contempt of the world, and charity, shall teach the strait way of God in the pure truth, according to the holy Gospel, and not according to the maxims of the world, without putting themselves in pain about things, or accepting persons, without sparing, fearing, or listening to any mortal, however influential he may be. They shall have in their mouths the two-edged sword of the Word of God. They shall carry on their shoulders the bloody standard of the cross, the crucifix in their right hand and the rosary in their left, the sacred names of Jesus and Mary on their hearts, and the modesty and mortification of Jesus Christ in their own behaviour.

 These are the great men who shall come. But Mary shall be there by the order of the Most High, to extend His empire over that of the impious, the idolaters, and the Mahometans. But when and how shall this be? God alone knows.

 It is for us to hold our tongues, to pray, to sigh, and to wait
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