
マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
51.欠点の克服
我々は欠点、短所の中より特にはなはだしいもの、例えば傲慢、婬欲、嫉妬などを抑制せねばならぬ。この欠点が我々の霊魂の要塞の微弱な所であるが、この弱味につけこんで強敵たる悪魔は、襲い来るのである。それゆえ、告解聖体の秘蹟をしばしば授りて、欠点、短所を補いて悪魔の襲い入る隙がないようにするのが肝要である。
我々は悪しき朋友、淫らな書物(猥褻なる雑誌小説類)を避けて、霊魂を傷つけぬようにせねばならない。前述のことを各自救霊のために、一つも残さず守らねばならぬ。私は強いてはいないが勇気と励ましで善の道に進んだならば、何よりも緊急な救霊を得るために、身に余る成聖の聖寵をこうむりて、地獄の永遠の苦患を逃れることが、容易であると断言する。
たとえば正義と才能を以って財産を殖せば、貧乏に陥いる憂いは無い如く、救霊の霊的方法は移多に、豊富に有れば有る程利用し、応用すれば地獄に落ちる憂は無いのである。読者諸君/我は霊的方法を各自に応じて、応用のされる限り応用し利用される限り利用せられんことを希望します。
かくて、我々に対して無限無量の愛を垂れ給い、我等を永遠の苦患より瞭なわんとて、尊き鮮血を一滴も余さず、流し尽し給いし、我主イエズス・キリスト様を愛し奉らんためのたまに、福音の教と御掟とを、厳密に守りて我主の曰える、「我に主よ、主よ、という人、皆天国に入るにあたわず天に在ます御父の御旨を行う人こそ天国に入るぺけれ」(マテオ七ノニ十一)との純粋の信者たらんことを希望します。
ある人が碩徳の老修士に尋ねて「恐ろしい誘惑に罹れる場合、之に落ちぬには如何にしたら良いでしょうか、と云えば老修士は「地獄の事をお考えなさい、地獄の永遠なる苦患の恐怖はあなたを悪魔の誘惑より逃れしむるだろう」と答えたという。

マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
50.告白の大切さ
二、三週間ごとに告白し、出来得る限り聖体拝領をするのは大変良い習慣である。罪悪の痛悔と遷善の決心とを伴う告白、又は成聖の聖寵と篤実の真心とを伴う聖体拝領は、哀憐ふかき、イエズス。キリストよりその霊魂が救われるのであるから真の告白と聖体拝領との二つの方法は、大罪を逃れて、退悪、進善、積徳の一大要務である。
聖体拝領すればする程、善に進み徳を積むのである。善意があれば、一週間に二、三度、あるいは教皇ピウス十世(ピオ十世)の御希望(意向)に従いて、毎日でも拝領すれば最も良いので、大いに霊益をこうむることである。
一人の娘がいた。両親の信仰心があまり熱心でないため、日曜日のみ御ミサに授かることを許されて、その他の日の外出は許されていない。
しかしながらこの娘は四年前より内密で朝早く起きて聖堂に参詣し、一週間に二.四度位聖休を拝領するのである、隣室の両親が目覚めないように、静かに起きておもむろに一時間程かかって着物をととのえ、二階から段を下りる為に、ぬき足さし足して、音せぬように注意するから、三十分も要る、そして出入をするのに細心め注意を払うのであった。
起きた時、隣室の両親目覚めたりと悟ればその日は止めて、翌日に延ばすのである。
その為両親は知らぬ、この娘の熱誠なる聖体拝領と、又拝領せんとする望みとは、イエズス・キリストの聖慮にかない奉り、その果報としてその娘に瀾沢なる聖寵を恵み給うに相違ない。
諸君、その熱心の程度まで進まずとも、自身の救霊を気にするならば少なくとも毎月一度ぐらいは、聖体を拝領するがよろしかろうと思う。


マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
49.ロザリオの信心
聖母に対する信仰をあらわす、いろいろの方法のうちにコンタツ(ロザリオ》は最も行い易く、緊要なることである。コンタツ(ロザリオ)を用いずとも、ただ、携さえて居るのみにても、聖母マリアの御保護をこうむるのである。
天使祝詞を反覆して唱うるは恰も聖母マリアの尊前に薫香、馥郁たるバラの花を撤布すも同様である。
「天使祝詞を一遍唱うれば、天国の銀行に、金貨一枚をあずけるのである」
と聖女ゼルツルダは観じた。
日曜日、聖堂に参詣する途中コンタツを唱うるのはまことに幸福なことである。御ミサに授かり、告解をなし聖体を拝領するたあの準備として、大いに有益なる方法であるからである。
「途中では心が散り易いから、ひとり祈祷をしても、天主にまでとおりはすまい」
と思う人が若しあるならば、心を散らしてもその祈祷は確かに功徳がある。
「途中の事情で知りながら心を散らして、コンタツを唱うるのは、唱えぬよりも殊勝なことである。」と予は断言する。
コンタツ(ロザリオ)を唱うる習慣あるものが之を廃止るのは、実に恐るべきことであり、コンタツ(ロザリオ)は我々の信仰の篤熱と冷淡との度数を示す寒暖計である。退屈、厭騙、誘惑に迷う憂は、決して無いものであるかもし不幸にして、コンタツを遠ざけて、迷いの道に踏み入ったものがあるならば、速かに告解を以って良心を深め、新らしき清き生活を始めねばならぬ。
聖母マリアに対する深き信仰をもった人が、ある時、重き病に倒れ看護する者にいう。
「我の病、ますます篤くなりていよいよ危くなりし時、あるいは確実に死んだのか、只昏睡状態に陥りたのかを知ろうとするならば、聖マリァの聖名を一枚の紙に書きて我心臓の上に肌直接つけて下さい。もし昏睡状態であるならば私が常に深く愛し奉る聖名の尊い御恩で蘇生るに相違ない。もし心臓の脈が無ければ、無論、この世を逝ったのだと思っで下さい」
読者よ、この美しい言葉の味を味わって、かの如く聖母マリアに対する深き愛の信仰を養われんことを希望します。


マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
48.聖母マリアに対しての信仰心は救霊の確かなしるしである
聖母マリアはキリストの尊き母、我々人類の慈悲深き母であるから、特別に敬愛せねばならぬのである。
聖ベルナルドを始め、他の聖人等の教訓によれば
「聖マリアに対して、真の信仰を尽くすものは、現世にて、悪魔の誘惑、肉欲の快感、世間の幻栄に遠ざかりて、身霊を深く保持し、天上にて永遠の万福を受けて楽しめる諸聖人の如く、我も将来必ず永福を確かに、受くべきものなりと今より確信して心の慰めを得らるる」
と云うことである。
福者ヴィアンネ霊父いわく
「我等に対して聖母の愛は誠に無量である。世界の始まり、終りに至るまで、普通の母が子に対する愛を集めて、聖母と比較しても火と氷との相違がある。世間の母たる者がいかに尽くすとも、聖母が我々の霊魂を救護し給わんとするにくらべれば、及ばざること、天地の差どころではない。かかるが故に聖母の真の僕となり奉らば地獄に陥いることは無いということを忘れてはならぬ」
と云われた。
聖母に対しての信仰は天主のまします所へ行く道を照らす燈火である。我々はこの燈火に依りて、安心と希望とを以ってその道を進むのである。もしこの燈火なくば天主の方へ行く道とは知りながら、世間を禅かる弱い心の闇に迷いて、その道を進むことは難しいのである。
この信仰は我々公教より離すべからざる緊要なる部分である。
即ち救世主は聖母マリアを以って、現世に天降り給うた如く、我等は聖母マリアの取次ぎを以って、救霊の聖寵を招かねばならぬと天主は定め給うたのである。
公教信者の霊魂が聖寵の生命に在か否かを知るには、聖母の聖名を聴きて、虐敬の度の高きか低きかを調べて知らるるのである。それ故、聖母に対して信仰なき者は、地獄に落ち易いのである。聖母に対する信仰の心が残っていた為救われた大罪人の数は数え切れぬほどである。
