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カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ラウレンシオ・ユスチニアノ司教証聖者  St. Laurentius Justiniani E. C.

2025-09-05 00:00:05 | 聖人伝

聖ラウレンシオ・ユスチニアノ司教証聖者  St. Laurentius Justiniani E. C. 記念日 9月 5日


 多くの他の聖人方がそうであるように、聖ラウレンシオ・ユスチニアノも信心深い母の子と生まれた。父は早くこの世を去ったから、その忘れ形見五人を養育する大任はか弱い母の双肩にかかって来た。彼女はその重責を果たすためには自分一個の力のあまりにも微弱に過ぎることをよく知っていた。それで彼女は全能の天主に信頼し、しばしば祈り、及ぶ限りの事をした。為に天主も豊かな祝福を与え給い、子はいずれも健やかに善良な心をもって生い立った。それは何者にも換え難い母の歓びであった。
 その中でもラウレンシオは一際すぐれた子であった。彼は1381年の生まれであったが、才能あり柔和な性格で、あらゆる人に恭倹かつ親切であった。彼は子供の時分から極めて真面目で、何か大きな事を考えているように見えた。そして時々一種の野心を示すようなこともあったので、母はそれを戒め、彼が傲慢に流れるのを防ぐために、時々傲慢は地獄に落ちる道である事を言い聞かせた。
 が、その中も心配する必要がなくなった。というのは、ラウレンシオの頻りに考えていたのは聖なる生活に就いてであることが解ったからである。彼は後年その著書の中に自ら記して曰く「19歳頃のことである。私は世間に平安を探し求めたがついにそれを見出すことが出来なかった。すると、ある晩の夢に太陽の如く美しい方が現れて『我が子よ、汝は何故平安を尋ねて所々をさまよい歩くのか?汝の求めている者は我である。もし汝が全く我に身を献げるならば、我は汝の望む物を必ず与えよう』と仰せられた。そして『御身はどなたでいれせられますか?』と私がお尋ねすると、そのお答えには『天主の叡智!』とあった。私は即座に『私は御身のものでございます』と申し上げた。これは一場の夢に過ぎなかった。しかし私の心は深い深い感動を覚えたのである」と。
 彼はそれから一切の顛末を親戚に当たる一司祭に打ち明けた。同時に全く身を天主に献げたいという望みに就いても彼に告げる所があった。自らも甚だ敬虔であったその司祭は、果たしてラウレンシオが修道生活に召し出しを蒙っているか否かを試そうと思い、まず彼に苦行で身を鍛えることを教えた。
 同じ疑惑は母もやはり抱いていた。で、彼女はラウレンシオが結婚することを希望し、花嫁の候補者まで探し出して来た。しかしラウレンシオは承知せず、却って暇を乞うて司祭達の会に入った。
 彼は直ぐさま真の苦行の生活を始め、会員一同の模範となった。彼は厳寒酷暑に耐え、病苦を忍び、殊に謙遜の徳を心がけて卑賤な仕事は何でも喜んでこれを為した。人に讒謗されても彼は弁解しない。のみならず謝罪さえした。彼は勉学も決して怠らなかった。そして規定の年齢に達すると、叙階の秘蹟を受けて司祭に挙げられた。
 それからラウレンシオはよりよく天主に仕える為にどこか静かな所に退きたいと思った。けれども天主の御旨はそこになかったのであろう、彼はまだ若年の身ながら選ばれて、間もなく会長の大任を負わされ、従順の誓願に従いどうしてもこれを引き受けねばならなくなった。彼は賢明に会を治め調えた。その為ついに会の創立者と目されるに至り、教皇オイジェニオ4世から戒律の認可を与えられた。
 ラウレンシオはすべての人を愛してはいたけれど、また彼等の熱心の冷えぬように絶えず訓告を与えもした。彼は胸が弱く声量に乏しかったから、大雄弁家となる素質はなっかたが、少数の人々を相手に語る時には、その信仰と学識の深さがほの見えるような、実に立派な説教をした。彼はまた筆を執っても幾多の書物を著している。
 50歳の頃彼は教皇からヴェニスの大司教に任命された。彼は己をその重職に耐えぬ者として百方辞退し、何人か他の適任者を任命せられるよう教皇に懇願した。しかし教皇は頑として聴かれず、果ては従順の名において大司教就任を厳命されたから、彼もやむなくお受けするに至った。それでも彼は前と同様の生活を続け、相変わらず苦行をなし、出来るだけ貧しい暮らしに甘んじたのであった。
 大司教としての彼は理想的にその教区を治め、寛厳も宜しきを得、貧民にはわが所有物の一切を施し、聖会の権利は勇ましく擁護し、すべての司祭に模範を示した。
 ラウレンシオの名声は四方に雷の如く轟いた。教皇は彼をヴェニスの最初の総主教に挙げた。彼は謙遜にこの位を拝受したが、その後4年を経た1455年、74歳を一期として帰天した。彼は生来強い方ではなかったけれど、厳格な生活にも拘わらず大方は無病息災に過ごし、臨終にも軟らかい床を望まなかった。死ぬ前にには葬式を極く質素に執り行うように遺言し死後67日目に埋葬された。その間も彼の遺骸には何の腐敗の兆しも見られなかった。彼が聖人の列に加えられたのは1524年教皇クレメンス7世の御世のことであった。

教訓
 
 己を全く御旨に委ねるがよい。そうすれば主も我等を導き強め、一切を耐え忍ぶ力を与えてくださるであろう。 




ヴィテルボの聖ローザおとめ    St. Rosa de Viterbio V.

2025-09-04 00:05:08 | 聖人伝

ヴィテルボの聖ローザおとめ    St. Rosa de Viterbio V.   記念日 9月 4日


 天主はその聖人の中に奇蹟を行い給う。我等はあらゆる聖人の生涯に天主の聖寵の奇蹟を認め得るが、なかんずくその顕著に窺われるのはヴィテルボの聖ローザの一生であろう。
 彼女は1235年イタリアのヴィテルボに生まれた。両親は貧しい人々であったが、子供といっては彼女一人であったので、及ぶ限りの注意を以て教え育てようとした。しかし彼女の教育に大いなる役割を演じたのは、父母の力よりも寧ろ天主の聖寵であった。まだようよう二、三歳の頑是ないローザが、おぼつかない足取りで近所のフランシスコ会の聖堂へ行き、天使の如く敬虔な態度でミサ聖祭にあずかるのを見た時の両親始め他の人々の驚嘆はどれほどであったろう!ローザは説教の間鈴のような眼をみはって司祭の一語をも聞き落とすまいと耳を傾け、それを記憶に留めては帰宅後父母や近所の子供らにくり返し語って聞かせるのであった。
 それから二、三年経つと、ローザは苦行の生活を始めた。自家の小さな一つの部屋に、彼女は自ら祭壇を築き、殆どいつもその前で祈った。そして一枚の板を床として眠り、また人々が彼女の身体を心配するほどの厳しい断食をした。その衣服は粗剛な着心地の悪い物を用い、歩行は常に裸足、その上睡眠時間も極度に切り詰めるという風であった。それでも彼女は始終楽しげに見え、すべての人、殊に貧しい人々に親切で、自分の分と定められた貧しい食物を割いて彼等に施すことも珍しくはなかった。
 その頃のローザについて幾つかの奇蹟談が伝えられている。一人の貧乏な家の子がある時花瓶を壊した。ローザは気の毒に思ってその破片を集め、それに向かって十字架の印をした。するとたちまち花瓶は元通り直って、継ぎ目さえわからなくなったと言う。
 ローザは十歳の時思い病に罹った。死期も間近と思われた時、彼女は一つの示現を見た。それは天国、地獄、煉獄の有り様であった。それから
聖母マリアが御出現になって、彼女に美しい冠を示し、聖フランシスコの第三会に入るようお奨めになり、同時に今後の生活の仕方や彼女の仕事や、更にその受くべき迫害や苦痛などに就いても種々諭し給う所があった。かくて彼女は全快の後、粗服に縄の帯を締めるようになったのである。
 彼女はまた幼きイエズスの御姿を幻の中に拝したこともあった。そのイエズスは既に茨の冠を戴き鮮血に染まっておいでになった。それを仰ぎ見たローザはその後で自ら我が身を血の流れるまで鞭打ったりした。
 当時皇帝フェデリコは聖会に対して迫害を加え、その軍隊はイタリアに侵入して恐るべき残虐の数々を働いた。ヴィテルボ及びその近隣の町々も彼等の魔手を免れることは出来なかった。しかるにこの秋に当たり突然少女ローザは決然起って世の不信、不道徳、奢侈贅沢、その他あらゆる不正を戒める説教を行ったが、その雄弁、その力強い言々句々は天来のものとしか思われぬほどであった。ローザは街路や広場など人の大勢集まる所を選び、何人にも自分の姿が見えるよう石か柱の上に立って説教した。僅か12歳の少女の、この驚くべき熱弁は大いなる反響を呼び起こさずにはいなかった。多くの人々は彼女の言葉に感じて改心し、また罪の償いを献げるようになったのである。
 フェデリコの家来達は之を苦々しいことに思い、ヴィテルボの市長をしてローザの一家に即刻退去を厳命させた。彼女の父は「何分冬のことでもあり、金もなし、行き先も心当たりがありませんから、暫くの御猶予をお願い致します。唯今この町を追い出されましては、私共一同野垂れ死にをするより外はございません」と憐れみを請うたが、市長は少しの情け容赦もなく「お前達の死ぬのは寧ろ望むところだ、さっさと出ていって貰いたい」とけんもほろろの挨拶なので、父は取りつく島もなく妻子をつれてすごすごと住み慣れた町を去り、数多の艱難の後ソリアノという所に来た。ここの人々は親切にも哀れな親子に目をかけてくれたので、彼等もそこに足を留めたが、ローザは早速またも説教を始めたのに、やはりその反響は驚くばかりであった。
 しかるに1250年の12月5日のことであった。彼女は人々にやがて大いなる幸福が来ると預言した。すると果たしてその月の13日フリデリコ皇帝の崩御と共に、国内には平和がかえってきた。でローザ達も懐かしいヴィテルボ市へ戻ることとなったが、途中通りかかった或る町では、信仰を抛った一婦人の悪例に躓き棄教する者が夥しくあった。ローザはこれは捨ておけずと、先ずその婦人の非を咎めたけれど相手もさる者いろいろ抗弁してなかなか承服しない。するとローザは「それではどちらの言葉が正しいか、奇蹟によって決めることにしましょう」と言って、先ず盲人を癒すことを求めた、勿論相手にそういう事が出来る筈はない。見事それが失敗に帰すると、ローザは鮮やかにその盲人の目を開いて見せた。しかし婦人はまだ改心しなかった。そこで今度はローザが二人で燃え立つ火中を渡ろうと言い出した。相手は恐れをなしてそれに応ずる色がなかった。けれどもローザは山のように薪を持ち来らせ、これに火を放って紅蓮の炎の中に歩み入り暫くそこに立ち留まって見せた。彼女は着物すら少しも焼けず、まして身体にはわずかの火傷をも受けなかった。それには流石の婦人も顔色をかえて驚き、ついに改心するに至り、彼女と共に再び信仰に立ち帰った者も数多あった。
 ローザ親子がヴィテルボに帰った時市民の歓びは一通りではなかった。今や15歳を迎えたローザは修道院に入ることを望んだ。けれどもそれが許されなかった時、彼女は再び自分の小さな部屋に籠もり、前の通り苦行と祈祷と黙想の生活を始めた。
 二年後彼女はまだ17歳のうら若い身で、その清い霊魂を天主の御手に返した。その遺骸は始めヴィテルボの教会に葬られたが、後他の教会に改葬された。その時は死後既に5年を経ていたのに、容色さながら活ける如くであったという。
 それから100年ほどしてその教会は火災で焼け落ち、ローザの柩もその衣服もまた焼失した。しかし彼女の聖骸は些かも損なわれず今日に及んでいる。

教訓

 天主は時々弱き者をして大事をなさしめ給う事がある。聖女ローザの如きはその一例と言えよう、我等はこの少女の償いの生活を考える時、償いはおろか日常の義務すら果たす勇気のない己を恥ずには居られぬのである。




聖グレゴリオ1世教皇教会博士  St. Gregorius Magnus P.P.

2025-09-03 03:44:20 | 聖人伝

聖グレゴリオ1世教皇教会博士  St. Gregorius Magnus P.P. 記念日 9月 3日


 聖グレゴリオ1世教皇は有名な西方教会側四聖会博士中の一人で、その聖会及び社会に尽くした功労の甚大な点から、世に大グレゴリオと尊称されている。
 彼は540年ローマ市に呱々の声を挙げた。母シルヴィアは光栄ある聖女の列に加えられており、又貴族で家富み政府の要職にあった父も、グレゴリオの誕生後はそれらの門地財宝顕官を弊履の如く捨てて一介の聖職者となったほどの人であったから、その血を承けたグレゴリオが生来信心に厚く聖徳に秀でていたのも蓋し偶然ではあるまい。
 さてグレゴリオは何不足ない家の子息とて、教育も十分に授けられ、修辞学、法学、哲学等を修めたが、殊に聖アンブロジオや聖アウグスチノ、或いは聖ヒエロニモ等聖会博士の著書の判読を好んだという事である。そして30歳を越えた頃には既にユスチノ皇帝の信任を受けてローマ市長の重職に就く名誉を得た。
 その内に父が没してその全財産を相続したグレゴリオは、これを社会の為最も有効に使用すべく思い立ち、貧者等を賑わした外、シシリー島に六つの修道院を設け、またローマ市なる己が邸を改築し、ベネディクト会修道院として聖アンドレアに献げ自分も直ぐさま世間を去ってその修士等の仲間に投じた。
 入道してからの彼は一意心徳を磨くに努め、戒律を厳守し、熱心に祈り、大斉の如きは過激に過ぎるまでこれを行い、為に甚だしく胃を害した位であった。おの疾患は生涯の持病となったが、彼の旺盛な精神力はよくその肉体の弱さを補って余りがあった。
 彼が、まだ平修士であった時の事である。ある日広場を通ると、体格のいい立派な精神が数人、奴隷の売り物に出ていた。どこの生まれか尋ねて見ると「英国人」という答えである、英国人は当時はまだ偶像教の迷信に沈んでいた。グレゴリオは相手の答えを聞くと「ああ、英国人を天使にしたいものだ!」と叫び英国への布教を思い立ち、早速教皇ベネディクト1世の許可を得て修士数人を引き連れ、北方に向かって出発した。所が彼の徳を慕うローマの市民達はこの事を聞くと大いに悲しみ、聖人の召還方を教皇に嘆願し、大変な騒ぎになったので、教皇もその望みを容れて急遽命令を発し、グレゴリオ達を呼び戻されたのであった。
 かくて学徳に秀でた聖人の英資は教皇方にも認められ、ベネディクト1世は577年彼を大助祭に挙げられ、その後継者ベラジオ2世は彼をコンスタンチノープルへの教皇使節とされた。で、彼は若干の修士と共に同地へ赴き、よく任務を果たして使命を恥ずかしめず、5年の後再びローマの修院へと帰って来た。その後グレゴリオは衆望を負うて修院長となり更に590年にはペストに感染し崩ぜられたベラジオ2世の後を受け聖職者、ローマ市民一致の意志により教皇に推戴されるに至った。然るに謙遜な彼は己をその任に非ずとして、ある夜ひそかに逃れて山奥へ入り、他人が教皇に就任するまで姿を隠す事とした。けれどもあくまで彼を慕うローマ市民は四方八方をくまなく探し、遂に彼を発見、連れ戻す事に成功した。その内にコンスタンチノープルの皇帝から、彼を教皇と認める旨の通知も来たので、流石の彼もそれが天主の聖旨である事を悟り、今度は快く教皇の位に即いた。時に彼は50歳であった。グレゴリオはかくて聖座にある事14年、その間彼が聖会の為に尽くした数多の功績を詳述すれば、恐らく浩瀚大部な書物をなすであろう。彼は政治外向的手腕にも長じ、ローマに侵攻したランゴバルト人等と和を講じ、その国のテオデリンデ皇后の力で彼等をカトリックに改宗せしめ、またスペインをカトリック教国とし、596年には修院長アウグスチノ及び40人の宣教師を英国に派遣して教化を計り、外はドナト、アリオ、オイチケス各派の異端を抑え、内は種々の掟を定めて聖会の規律を振粛し、典礼、殊に聖歌を重んぜしめ、彼自身も多くの歌を作った。世にグレゴリオ聖歌というのはこれである。その他自ら説教し、信仰上の書物を数多著して後世に残し、諸教会宛訓戒の書簡を800以上認めなどした。
 かように多忙な身でありながら、貧民の救済にも絶えず心を用い、ローマ市中にその為の専任委員を置いて施しを行い、又日毎食卓に12人の貧者を招いてふるまうことを欠かさなかった。そしてかくも数々の功徳を積みつつも心傲らぬ彼は己を呼ぶに「天主の僕達の僕」という言葉を以てするのを常とした。
 然し天主の光栄の為に活動を断たなかったこの偉大な教皇にも、ようようにして涙の谷を去る日は来た。西暦604年3月12日その天国への輝かしい凱旋の時であったのである。
 聖グレゴリオの助祭ペトロは、聖人が著作の執筆中聖霊が鳩の形でその頭上に下り給うたのを見たと語った。聖グレゴリオの聖絵に、その耳元に白鳩が囁きつつある所を描くのは即ちこれによるのである。

教訓

 聖グレゴリオは天主及び聖会の為に測り知られぬ功労を立てたが、かかる大業は彼がまず修道院において十分の修養を積み人格を磨いたからこそ出来たのである。我等も他人の為社会の為尽くそうと思うならば、まず己の身を修めて模範的人物となるように心がけねばならぬ。




ロスキルドの聖ウイリアム司教

2025-09-02 01:38:24 | 聖人伝

ロスキルドの聖ウイリアム司教                  記念日 9月 2日


 ウイリアムという名のアングロサクソン人の司祭がクヌート王の宮廷付き司祭となった。ある日、王と共にデンマーク旅行した時、その地方における宣教の必要を大いに感じて、生涯そこに留まって働くことを決心した。やがて彼はゼーラントのロスキルドの司教に任命された。クヌート王の後継者であったスウェイン・エトストリドセン王は多くの長所をもった人物であったが、がんこでわがままな人で、キリスト教の掟には何度も背く行為をした。ウイリアムは王を責めたため自分の生命が危うくなったこともあった。しかし、最後まで王の良い友人としてとどまることができた。福音の証しをすることは容易ではなかったとはいえ、彼はそれを全うしたのだった。
 ある時、王は数人の男達を公平な裁判なしに死刑にした。ウイリアム司教はそれを知って、不正に人を殺して血を流させた者は公に償いを果たすまで、教会の秘蹟を受けることはできないと布告した。スウェイン王が軍隊を引き連れて大聖堂へ来た時、ウイリアムは戸口に立って王の入堂を拒絶したので、軍人達は剣を抜いた。ウイリアムは、信仰のためならばと、自分の命をささげるつもりで首を差し出した。その瞬間に、王はすっかり後悔して公に罪の赦しを求め、償いとして土地を教会に寄付することを約束した。
 スウェイン王は私的生活でも、義理の娘をめとって教会の教えに背いていた。ウイリアムは何度も王を諫めたが何の効果もなかったので、ハンブルグの大司教の助力を求めた。しかし、王が自分の非を認めて非合法の妻を離別したのは、教皇と神聖ローマ帝国が非難した後であった。
 スウェイン王とウイリアム司教は、性格の相違にもかかららず常に愛し合っていた。王が1070年に亡くなって、その遺体がロスキルド・カテドラルに運ばれた時、ウイリアム司教は葬列を見て深く悲しみ、その場で息絶えたのであった。



聖エジディオ修道院長      St. Aegidius C.

2025-09-01 00:00:05 | 聖人伝

聖エジディオ修道院長      St. Aegidius C.           記念日 9月 1日


 聖エジディオは640年頃ギリシャのアテネに生まれた。両親は信心深い人々であったが、早く世を去り、息子にかなりの大きな財産を残した。エジディオは若年の頃から既に、唯天主の為にのみ生きたいという望みを抱いていた。それで、どこか静寂な所に退き、誰にも妨げられず祈りに専念しようと決心し、全財産を貧民に施してしまい、自分は乞食をしながらイタリアを通ってフランスに来た。それは彼の26歳ころのことであった。
 エジディオはアルルに至り同市の司教の快諾を得て2年間その許に止まった。司教は彼をいつまでも手放したがらなかったが、彼自身は全くの孤独を憧れるあまり、窃かにそこを立ち去り人里離れた場所に行き、みすぼらしい小屋を建てて起居した。けれどもやがてその隠れ家も発見されずにはいなかった。近所の人々は彼の聖なる生活振りに感嘆して彼の教えを請いに来た。しかし孤独を愛する彼にはその煩わしさが耐えられなかった。で、今度は大森林の奥に分け入り、とある泉に程近い洞穴を見出し、そこに住まうこととした。
 彼はその別天地で祈りと黙想の中に幾年かを過ごした。その飲食物は水と草根木皮の外になかった。彼については次のような伝説がある。その洞へは毎日一頭の鹿が来て彼に父を与えた。が、それは再び人に見出される原因とならずにはいなかった。即ちある日大勢の家来達を引き連れたワンバという王がその森に狩猟に来た時、その猟犬に追われたその鹿がエジディオの洞穴に逃げ込んだ。王がその跡をつけてそこへ来て見ると、犬がどうしたのか立ちすくんでその洞に近づかない。王や家来達は不思議に思って頻りに叱咤するが、更にその効がない。鹿はと見ると聖人の足許にうずくまり、エジディオはかばうようにこれを抱いている。王は弓に矢を番えてその鹿目がけて切って放した。すると狙いは狂って矢は鹿には当たらず聖人の手を傷つけ、鮮血が流れて衣服を染めた。王はそれを見るとひざまずいて赦しを願い、詫びの印にこの隠遁者に数多の土産物を贈ろうとした。しかし彼はそんな物には目もくれず、「私は何もいらぬ」と言ってどうしても受け取らぬ。そして「こういう傷の痛みは良い償いになる」と言って包帯する事さえ拒んだ。
 その時から王は度々この洞へ来て、エジディオと聖なる談話に時を過ごした。そして時々彼に土産物を与えようとしたが、彼は依然受け取ろうとはしなかった。けれども王が是非にと言うと、彼は「もし天主様の為に何かをなさりたいと思し召しなら、修道院をお建てになってはどうでしょう。そうすればそこに住む修士達は陛下の為に常にお祈りを献げるでしょう」と言った。王は「貴方がその修院長になって下されば勿論喜んで修道院を寄進します」と答えた。エジディオはこれを聞くと始めは当惑して頻りに断ったが、やがて天主の思し召しと悟ったのか、院長になることを承諾した。
 修道院は今まで彼の住んでいたその場所に建てられた。間もなく数多の青年達が志望してその修士となった。エジディオはベネディクトの戒律に従い、よくその修道院を治めた。彼の立派な行いは何人にも無上の教訓となった。王はその生活費その他を補助し、教皇はエジディオにいろいろと好意ある助言を与えられた。
 しかしエジディオが預言した如く、二、三年の後サラセン軍が来寇し、付近一帯はもとより彼の修道院をも荒らした。エジディオは修士達とある所に難を避け、後二、三人の兄妹と共にオルレアンに赴いた。オルレアンには当時権勢をふるっていたカロロ・マルテルがいて、彼に逢うことを望み、その代祷を願った。
 サラセン軍が撃退されると、その修道院は復興され、エジディオもそこに帰った。けれども幾千もなく彼は天主に召され、清い魂をその御手に返した。時に725年9月1日のことであった。
 その世を去るや否や、人々は直ちに彼を聖人として崇敬を献げ始めた。彼を保護者と仰ぐ聖堂や修道院は、フランスは言うに及ばず、それに隣る国々にも沢山ある。ちなみに彼は14人の救難聖人中に数えられている。

教訓

 聖エジディオはわが財産を貧民に分かち、己は清貧に甘んじ、後国王に多くの土産を贈られても更に受納しようとはしなかった。かくすることは万人に出来る事でもないし、また万人が
かくすることは天主の思し召しでもない。が、ただ天主は我等が金銭を唯一の目的とせず、貪欲の奴隷とならず、常に死の日にはこの世の一切を失って天主の審判の庭に立つべきことを忘れぬよう望み給うのである。