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カトリック情報 Catholics in Japan

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ノラの聖パウリノ司教   St. Paulinus a Nola E. 

2025-06-22 00:05:34 | 聖人伝
ノラの聖パウリノ司教   St. Paulinus a Nola E.        記念日 6月 22日
 
 
 313年かのコンスタンチノ大帝が自らもキリスト教に帰依すると共に、有名なミラノの勅令を以て聖教信仰の自由を与えてからは、国民も先を争って受洗し、聖会は一時に隆盛に赴いた。しかしそれは量的に見ての話で、質的には遺憾な点のある信者も少なくなかった。というのは、真に心の要求から出たのではなく、ただ流行を追うような浅薄極まる気持ちで、十分教理も研究せず入信した人々も多数あったからである。殊にその弊は上流の人士に甚だしく、今語らんとする聖ポンチオ・メロピオ・パウリノの両親もそうした仲間であった。即ち身元老院議員にして貴族なる父も母も、名こそ信者ながらその日常には異教徒にも劣りかねぬひんしゅくすべき生活ぶりが見いだされたのである。
 
 聖パウリノは353年フランスのボルドーに生まれた。何しろ両親が今も言ったような宗教に冷淡な人々なので、その子たる彼が彼等からキリスト教的な良い感化を受ける事などは到底望まれぬ。第一彼は洗礼すら授からなかった。そして唯もう世間的栄達を目的として、当時大学者にして大詩人の噂が高かったアウソニオに師事し、一心に勉強したが、生来その方の才能に恵まれていたものか学業の成績は抜群で、僅か25歳の若さで早くもガリア(今のフランス)の執政官に任ぜられる光栄をになった。
 それから莫大な資産を有する彼は、風光明媚なイタリアのカンパーニャに行って住み、同じく資産家の、信仰も厚いテラシアというスペインの貴婦人と結婚した。その内に彼は今度こそ天主の聖寵に依って霊に目覚める期に遭遇したのである。
 まず彼は信心深い妻の感化によって熱心に準備し、それまで受けずにいた洗礼を故郷ボルドーの司教デルフィノから授かった。その時彼はまた当時の偉大な聖人、ツールの司教マルチノにも逢い、その祈りによって眼の病がたちまち癒える恵みをも得た。
 その後パウリノは熱心に信仰を守り、洗礼の約束通り「悪魔とその総ての所行、その総ての栄華を捨て」ようと努めた。すなわち親戚一同の驚愕と反対とに拘わらず、進んで執政官の栄職を投げ出し、スペインのバルセロナに行き、財産の大部分を慈善事業に寄付し、愛する妻子と質素な生活に入り、名利の奴隷たる世人に恬淡の良き模範を示した。この彼の大変化を聞いた恩師アウソニオは大いに愕き、幾度となく書簡を以て言葉を以て、再び世間に起って華々しく活動せん事を勧めてきたがパウリノはその好意には感謝しつつも、悪魔の罠の多い世の顕職に就く気は毛頭なく、殊に大事のひとり子をまだ幼い内に失ってからは、妻とも相談の上互いに兄弟の如く交わり、貞潔の生活を送ることとした。
 かくてかつての大富豪は清貧に生き、享楽の代わりに慈善の業を行い、頻繁な祈りに依って天主との一致を求めた。さればバルセロナの信者達はいずれもパウリノの徳に感ぜぬはなく、しきりに司祭たらんことを勧めたから、彼もその懇望に動かされ、遂に393年キリスト御降誕の大祝日に叙階の秘蹟を受けるに至った。
 聖職者となってもパウリノの修道心は緩まなかった。彼は更に修養を心がけて信者達の引き留める袖を振りきり、バルセロナからイタリアのノラ市に赴き、自分の特別に尊敬する聖殉教者フェリクスの墓畔に住み、独り世を離れて祈りと苦行とにいそしんだ。何故彼がこの聖人をそれほど崇めたかと言えば、かつて彼が恐ろしい兄弟殺しの嫌疑をかけられた時、フェリクスの代祷を願った所、幸いにその無実が明らかとなったことがあったからである。
 パウリノの感ずべき日常がいつか人々に知れ渡ると共に、道に志す者は次第に彼の徳を慕って馳せ集まり、その指導を仰ぎつつ共同生活を行うようになった。そればかりではない、409年ノラ市の司教が逝去されるや、信徒一同は衷心からパウリノにその後任たらん事を求めた。彼はそこに逃れるべからざる天主の聖旨を認め、遂に就任を受諾した。彼の謙遜、彼の叡智、彼の博愛は、司教座という高き燭台に上せられてから、更に光輝燦然と世を照らすようになったのである。彼はあらゆる人々から敬愛せられ、当時在世の聖アンブロジオ、聖アウグスチノ、聖ヒエロニモ等そうそうたる教父達も、彼と文通することを大いなる誇りとした位であった。
 その頃欧州には例の民族移動が起こり、ノラ市にも始めにゴート族、後にワンダル族が侵入し、掠奪をほしいままにした。その際パウリノ司教は、彼等の毒手に罹って、窮乏に苦しむ者や、奴隷にされた哀れな者を救う為に、どれほど力を尽くしたか解らない。ある伝説によれば一人の奴隷を贖う金が不足であった時、彼は自ら身代わりとなってその人を自由にしてやろうとまでしたという。全くノラ市が蛮族来寇の禍から逃れ得たのは、一にこの聖司教の努力によったと言っても過言ではない。
 さてパウリノはノラ司教たる事二十余年、よくその任を果たし、431年6月22日聖徳の報いを得て永遠の歓喜に入った。そしてその芳名は今も聖人の名簿に燦として輝いているのである。
 
教訓
 
 ノラのパウリノが聖人になったに就いては、まずその信心深い妻テラシアの影響があずかって大いに力があったといえよう。何故なら彼が始めて霊界に目を注ぐように至ったのは貞淑な彼女の感ずべき模範と勧告に端を発したからである。実にかような配偶者は天主の大いなる賜物に他ならない。されば結婚を望む者はかくの如く信仰の厚い配偶者を与えられるように祈り、既に結婚した人々は互いに相手に善き感化を与えつつ、共に相頼り相太助て天国への道を歩むよう努めるべきである。
 
 
 
 

聖アロイジオ・ゴンザガ証聖者  St. Aloysius Gonzaga C.

2025-06-21 23:49:13 | 聖人伝

聖アロイジオ・ゴンザガ証聖者  St. Aloysius Gonzaga C.        記念日 6月 21日


 聖会にはあらゆる階級、あらゆる年輩の人々に対し、模範となる聖人聖女があるが、青年諸君にとって無上の鑑と仰ぐべきは、聖ヨハネ・ベルヒマンス、聖スタニスラオ・コストカ、それに今語らんとする聖アロイジオ・ゴンザガの3人であろう。

 聖アロイジオは1568年イタリアのカスチリオネという町にゴンザガ家の長男と生まれた。父はフェルナンドといい、祖先以来の男爵、母マルタもそれに劣らぬ名門の出で、一時はスペイン女王の女官を勤めていたこともあり、極めて篤信な女性であった。
 当時欧州には享楽的精神が瀰漫し、わけても上流の生活は奢侈贅沢を極めていたから、アロイジオも幼少の頃よりかかる有様を見聞きする事が自然に多く、その霊魂は大いなる危険にさらされていた訳であるが、母の信心深い性質を受け継いでいたのと、その指導教育がよろしきよ得た為、幸いに時弊に染まらず、敬虔に生い立つことが出来たのであった。
 しかし父はわが長男を修道者などにする心は毛頭なく、将来は軍人として自分の跡を継がせようと思い、満5歳の頃から彼を兵営へ連れて行き兵士達の間に生活させた、さればアロイジオは彼等の感化を受け武を好むようになった一面その粗暴野卑な言語も聞き覚えて分別もなく之を用いるようになったが、ある時教師に咎められてからは、注意して再びかような言葉を口にしなかったのみならず、父フェルナンド男爵がフィリポ王に従ってアフリカに出征して後は、カスチリオネに帰って、聖寵の御導きのままにひたすら信心の業に励んだのである。
 かくて彼は満7歳より毎日御ミサにあずかり、祈りにも熱心で、聖母マリアの小聖務日課や詩編などをも唱えた。数年後凱旋した父はアロイジオの変化を見て大いに驚き、その弟ルドルフと共にフィレンツェの宮廷に送った。それは学問の盛んなフィレンツェ市の、豪奢華麗な宮廷生活に馴染んだならば、彼の並はずれた宗教への熱心も自然冷めばせぬかと思ったのである。
 しかしその期待はまんまと外れて、アロイジオは却って一層信仰の尊さを悟るようになり、フィレンツェの有名な聖母の御像の前で終生童貞の誓願を立てた位であった。


 その後、またも郷里カスチリオネに帰った彼は、腎臓病の冒す所となり、飲食物を大いに制限されるに至ったが、幼児より学び得た克己犠牲の精神によって、よくその苦しみを忍耐甘受することが出来た。
 ミラノの大司教聖カロロ・ボロメオがカスチリオネを訪れて、天使の如く清浄潔白な12歳のアロイジオに初聖体を授けたのは、ちょうどその頃の事であった。その日からというもの、アロイジオは鉄石のような意志を以て驚くべき難行苦行を始め、あらゆる罪の汚れを避けわが身を森厳な天主の聖殿、神聖なイエズスの御住居たるに恥じぬものとするよう努めた。彼が貞潔を守る為に、日頃どれほど戒心していたかは、後スペインのマドリッドに行き、そこの宮廷で3年間小姓を勤めながら、目を謹んで皇后の顔を見ず「私は毎日皇后様の御前に出ましたが、一向御顔を存じておりません」と人に語ったという挿話でも知れよう。

 アロイジオがマドリッドに新しく出来たイエズス会に入る決心をするに至ったのはそれから間もなくの事であった。父フェルナンドは之を知るや大いに驚き、断固として承諾を拒んだばかりか、3年間手を換え品を換え息子の意をひるがえそうとした。その為には、彼を華やかな社交場裏にも連れて行った。さんざめく歓楽境にも誘って行った。しかしアロイジオの決心は盤石のように動かず、ただ天主の聖旨に己を全く委ねて他を顧みなかった。で、さすがの父も遂に息子の修道会に入るのは主の御摂理であると諦め、彼に承諾を与えると共に、皇帝の許可を得て次男ルドルフを我が家の跡目相続人と定めたのであった。

 ようようにして望みの適ったアロイジオは、全世界を手中にしたにも優る歓喜に充ち溢れ、1585年の11月3日、ローマにあるイエズス会の修練者の群れに加わった。が、世にある時から克己苦行の修道生活に馴れていた彼にとっては、今修道院における厳格な日常も物の数ではなかった。ただ長上の指導に対する従順が一層彼の徳を深い、美しいものにするばかりであった。
 他の修士等はアロイジオを天使の権化かと怪しんだ。彼の苦行は例に依って峻烈苛酷を極めた。彼が何故それほどまでにわが身を懲らしめたかといえば、その真因は、自分が今までに見聞した上流社会の贅沢享楽や、信仰に対する冷淡を償いたかったからに他ならない。さればこそ彼は飽くことを知らぬ熱情を以て克己禁欲の業を行い、己を犠牲の子羊として烈々たる天主への愛の火中に投げ入れ、償いの燔祭を献げたのである。
 彼が最終の犠牲を果たしたのは、1591年黒死病と呼ばれるペストが猖獗を極め、無数の人々がその病魔に冒された時であった。その際アロイジオは患者の看護、死者の埋葬等に力をおしまず活動したが、遂にその身も病毒に感染し、同年6月21日イエズスの聖名を呼びつつ安らかに無垢の霊魂を天父の御手に返したのであった。享年わずかに24歳であった。


教訓

 若くして逝いた聖アロイジオの生涯を見れば、その天使の如き清浄さといい、その浮き世の財産名誉享楽に対する離脱の完全さといい、またその旺盛な償いの精神といい、一として我等の驚嘆の種ならぬはない。それにつけても我等は、彼をしてかくあらしめたその鉄石の如き意志を学び、己の完成に努力すると同時に、それに要する聖寵を天主に祈り求めようではないか。



聖ロムアルド大修道院長     St. Romualdus Abbas  

2025-06-19 04:16:47 | 聖人伝
聖ロムアルド大修道院長     St. Romualdus Abbas            記念日 6月 19日
 
 
 
 聖ロムアルドの生涯は御憐れみの限りない事と、罪人も痛悔して聖寵の導きに従えばよく完徳の域に達し得る事とを示す最高の実例である。
 
 彼はイタリアのラヴェンナに生まれた。父母は貴族であったが、その生活振りは全く世俗的非キリスト教的であったから、息子のロムアルドも見真似ですでに若い時から心の清さを失い、父母の如く放埒な生活を送るようになった。しかし信仰だけは依然として守っていた。これは不品行な人にしては極めて珍しい例である。
 彼はしばしば、例えば馬に乗って人里離れた静かな所へ来た時など、どうにかして聖教に違わぬ生活がしたい、否、時としては聖人のような完徳の生活がしたいとさえ思う事があった。が、一方堕落の淵からはなかなか浮かび上がる事が出来なかった。
 けれども遂に恐るべき事件が起こって、その織りに与えられた天主のあつい聖寵は、彼の改心を促さずにはおかなかった。その事件とは彼の父セルギオがふとした事から親戚の一人と不和になり、決闘を行ってこれを刺し殺した事である。その時青年ロムアルドも介添人として無理に父に同行を命ぜられたが、相手の悲惨な死に様を見ると深く心を打たれ、ラヴェンナ郊外のクラッセ修道院に40日間籠もって、殺人罪を犯した父と、それに連座した我が身の為、償いの苦行をする事にしたのである。
 償い終わって心が晴れると、彼は又元通りの生活に帰ろうとしたが、一人の修士は彼を全く改心させたいと思い、熱心に修道院に入ることをすすめた。しかし彼はなかなかそれを聴く気色もないので、その修士が最後に「では、私達の教会の保護者聖アポリナリオに逢わせて上げますがどうですか」と言うと、そんな事の出来る訳がないと思うロムアルドは「よろしい、そうしたら修道者になりましょう」と約束した。
 その晩彼は修士に連れられて教会に行った。そして祈りをしていると果たしてその聖人が現れ、幾つもある祭壇を一々見回り、それから自分の墓の所で消え失せた。その次の晩も同様であった。かくてロムアルドは全く改心して、修道院に入る事を願うに至ったのである。
 修道院に入った時彼はようよう21歳であったが、始めからまじめに総てを行い、殊に祈りと克己の業とを好んだ。残念な事にはこの修道院には世間的な空気がみなぎっていて、修道者もあまり熱心でなかったから、ロムアルドは黙視出来ず再三それを咎めたが、その為多くの人々は彼を憎み、中には彼を殺そうと謀る者さえ出るに至った。幸い天主の御加護に依って彼はそれに気づき、自ら願ってその修道院を去った。もっともそのまま世間に帰った訳ではない、完徳に達したい欲求からマリノという山修士に師事する事になったのである。
 その頃ヴェニスの大統領のペトロ・ウルセオロが遁世の志あり、マリノとロムアルドに相談してフランス、クザンの聖ミカエル修道院に入ったが、マリノとロムアルドもその修道院の付近に庵を結び、従前の厳格な生活を営む一方、農耕の業にも従った。
 その頃ロムアルドはさまざまの試練に遭遇した。まず過去の記憶が彼を苦しめ、悪魔も内外から彼を責めさいなんだ。しかし彼はその悩みがいかに大きくともよく耐え忍び、深い信頼を以て祈り、総てを我が罪の償いとして献げた。されば彼の徳は目に見えて進歩すると共に、彼の父もまた改心の恵みを得て修道院に入る決心をするに至ったのである。
 が、父にはその生活があまりに厳しすぎたのであろう、間もなく又世間に帰ろうとした。それと知ったロムアルドは急ぎイタリアの父の許に帰った。そして或いは慰め或いは諫め、忍耐して修道院に留まる事を、誠意おもてに現して願ったので、父もその言葉に従い還俗を思い止まり、しばらくの後敬虔な死を遂げたという。
 爾来数年間はロムアルドの上に慌ただしい月日が続いた。彼はイタリア国内を転々と、静寂の境を求めてさまよい歩いた。適当な所はいくらでもあったが、彼が一旦そこに庵を結ぶと、たちまちにしてそれが駄目になるのである。というのは、それと知るや否や四方八方から、教えを請いに数多の人々が潮の如く押し寄せて来るからである。弟子にしてくれと言う者もある、私共の修院長になってくれと願う修士等もある。ロムアルドはほとほと困却せずにはいられなかった。彼は唯人々の煩いを逃れて、静かに貧しく慎ましやかに天主に仕えていれば満足なのである。
 
 996年ドイツ皇帝オットー3世は、イタリア訪問の折り自分の保護の下にあるクラッセの修道院をも訪れたが、その乱脈に驚き、改革を思い立ち、之が遂行に適当な人材を修道者等に選ばしめた所、誰も彼もロムアルドを望んだ。で、皇帝は親しく聖人を訪い、その大任の引き受け方を懇請したので、彼もやむなく承諾した。
 けれども彼の様々な努力も矢張り空しかった。彼は司教と皇帝に願って淋しくまたわが庵に帰った。
 しかしそこにおける数人の弟子の敬虔な生活は彼の心を十分に慰めてくれた。中でも、後にロシアに布教し殉教したボニファチオ、ハンガリーに布教し、同時に殉教したヨハネとベネディクト、この3人は傑出していた。ボニファチオ殉教の報に接した時など、ロムアルドは自らその地へ急行しようとまで思った。もっとも丁度重病の床にあってその望みを果たす事は出来なかったが。
 後彼はある富豪からカマルドリと呼ぶ静かな土地を贈られ、そこに弟子達の為に修道院を設け、同時にカマルドリ修道会を創立した。同会は今日もなお存し、峻厳な生活振りを以て世に聞こえている。
 ロムアルドは又シトリオ山上にも一つの修道院を設けた。そこへ彼は、前に放埒の限りを尽くした貴族出の一青年を入らしめたが、この青年は改心を誓いながらも素行は依然収まらなかった。で、ロムアルドは彼を善導すべく百方手を尽くしたけれど、相手は心を改める所か却って師の忠言叱責を怨みに思い、彼が自分と共に人知れず放蕩をしているというような、あらぬ噂を立てた。人々はこれを信じて大いに怒り、彼を縛り首の刑に処すか、或いは彼の住居を焼き払おうとまでいきり立った。彼は御ミサを立てる事も禁ぜられた。けれどもロムアルドは唯黙々としてこの濡れ衣の屈辱を忍び、その命に服した。もっともある時天主御自身が現れ給うて、御ミサを献げよと仰せられたとも言われている。彼は今や年老いて死期の近づいた事を悟った。ある日彼は一人でいたいからと言って傍の人々を去らしめた。孤独を愛した彼は、死ぬにも天主と水入らずで唯一人死にたいと思ったのである。
 翌朝聖堂に彼の姿が見えなかったので、弟子達がその部屋へ行ってみると、師は安らかに大往生を遂げていた。時に1027年、6月19日の事であった。
 
教訓
 
 わが罪の償いをせねばならぬ。それには病苦、日頃の労苦、又人に悪意を持たれるつらさなどを忍ぶがよい。不成功、忘恩、誹謗などに心痛む時も、聖ロムアルドの如く常に天主への信頼を失ってはならぬ。いつかは必ずその報いを受けるであろう。
 
 
 
 
 

聖ユリアナ修道女    St. Juliana Virg.  

2025-06-18 00:15:04 | 聖人伝
聖ユリアナ修道女    St. Juliana Virg.                    記念日 6月 18日
 
 
 
 聖ユリアナ童貞は、かの聖母の僕会の7人の創立者達がフィレンツェに男子修道院を起こした時、同じ目的で除し修道院を創めた人である。
 
 彼女は1270年イタリアの貴族ファルコニエリ家に生まれた。それまで長い間女子に恵まれなかった両親は、喜びのあまり一つの美麗な聖堂を建てて聖会に献げたが、それこそ今もユリアナの墓所として知られている至聖なる御告げの聖堂に他ならない。
 さてユリアナは独り子であったので、父母に手の中の玉といつくしまれて健やかに生い立ち、教育も殊更入念に聖教の旨に従って施されたが、16歳を迎えると、両親は彼女にしかるべき養子を取って家を継がせようとした。ところが生来信心深く、この世の財宝や快楽を望む心のないユリアナは、生涯身をイエズスの浄配として献げたいと、熱誠おもてに溢れて申し出たから、親も相談の上遂にその願いを聞き入れるに至った。かくて彼女は童貞の誓願を立て聖母の僕会の総長であるフィリポ・ベニチオからその第三会員に加わる事を許されたのである。
 それからユリアナは在家のまま、ベニチオに与えられた戒律に従って修道に励んだが、母の没後20年を経た頃、志を同じくする童貞女等数人と、始めて協同的修道生活を営む事とした。そして自分ではいつまでも姉妹達の末席に留まりたいと望んだものの、彼等のたっての懇望黙し難く、とうとう院長の重任を帯び、一院の慈母として全修女達の上を配慮し、実践躬行彼等に模範を垂れ、ある時はその婢の如くになって彼等の為に尽くした。なおユリアナはそれまで一定の会則がなかったのを憂えて、わが豊かな体験から適当な戒律を編纂し、教皇マルチノ5世に送って認可を受け、また姉妹達の修道服をも制定した。
 ユリアナは慈善の業を非常に重んじ、戒律の中にも之を加えた外に、しばしば自分で、或いは暇のない場合には部下の修女を遣って、フィレンツェ市中の病人を慰問した。苦行に対してもたぐいまれな熱心を示し、例えば大斉の如きも、毎週水曜と金曜とには全然食物を摂らず、土曜にも僅かしか摂らぬという風に徹底的に行った。そして祈りに就いては、会則に定めてあるだけでは足れりとせず、自ら進んで様々の祈りを献げるのであった。
 かように克己修道に努めること37年、71歳の老齢に達した彼女は、胃を病んで危篤に陥った。吐瀉が激しいので御聖体拝領も許されなかったが、その切なる願いにより司祭はせめてもの心やりに、仰臥している彼女の胸に白布をかけ、その上に至聖なる御聖体を載せてやった。ユリアナは恭しくそれを礼拝しつつ霊的に御聖体の主と一致し、喜びの色をたたえながら安らかに息を引き取った。それは1341年の6月19日のことであった。
 後人々は聖女の遺骸を洗おうとした時、その胸にくっきりと丸い御聖体の形が、それに描かれている十字架までも明らかに印せられているのを見いだしたという。
 
教訓
 
 我等は聖女ユリアナから、望みの御聖体拝領、及び臨終の御聖体拝領を重んずべき事に就いて学びたい。公教要理には臨終の御聖体拝領を、年に一度の御復活日頃の御聖体拝領と同様欠くべからざる義務として命じている。これを共に拒む者は大罪を免れぬ。されば我等は命の危うきに臨んだら是非その務めを果た
 
 
 
 
 
 

ピサの聖ライネリオ証聖者 

2025-06-17 04:23:43 | 聖人伝
ピサの聖ライネリオ証聖者                         記念日6月 17日
 
 
 ライネリオは、若い時イタリアのピサで放埒な生活を送っていたが、ある日伯母が紹介した聖ヴィト修道院の修道士に会ったときから、すっかり回心して今までの生活を改め、両親が心配するほどの変わり方であった。まもなく、イエズスが地上の生活を送られた聖地への巡礼を望んでライネリオは出発した。巡礼の途中で夢を見たが、それは自分の財布が焼けつくように燃えるコールタールでいっぱいになっていて、それを消すことができたのは水だけであったという夢であった。この夢で教えられたことは、肉体的な欲望を消すことのできるものは酒ではなく、ただ水だけであるということであった。その時からライネリオは水だけを飲み、食事は日曜日と木曜日に限って食べることにした。そして、裸足で歩き回った。ピサに帰った時、修道院に入って謙遜な生活を送ることを望んだが、彼は決して正式の修道者にはならず、司祭として叙階もされなかった。
 
 1160年、聖ヴィト修道院でライネリオは帰天し、ピサの守護の聖人となった。彼が亡くなってから20年後、建築家でまた彫刻家のボナノ・ピザノがピサのカテドラルの美しい入り口を造り、24のパネルにキリストの生涯から選んだ場面の画をつけて、それをサン・ラニエリの戸口と呼んだ。