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カトリック情報 Catholics in Japan

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パッチの聖マリア・マグダレナおとめ   St. Magdalena a Pazzis V.

2025-05-29 00:00:05 | 聖人伝
パッチの聖マリア・マグダレナおとめ   St. Magdalena a Pazzis V.  記念日 5月 29日


 パッチの聖女マリア・マグダレナは1566年、イタリアのフィレンツェの名門パッチ家に呱々の声を挙げた。洗礼の折りにはシェナのカタリナと命名された。栴檀は双葉より香しとやら、彼女もつとに幼児より聖徳の萌芽を見せ、満2歳にならぬにはや御聖体の主に籠もり給う事を悟り、之に可憐な愛情を示したという。そして友達と遊び戯れている内にも、ふと主の事を思い出せば、すぐに聖堂に駆けつけて、幾時間でも気の済むまで祈りに耽るという風であった。されば聖主の御苦難に対しても、子供に似げない深い理解と同情とを有し、自分も安閑としているのに忍びぬ気持ちから、我が手で茨の冠を作りこれをかぶって床に就き、痛さに眠れぬ宵々は、その苦しみを世の人々の罪の償いに献げたのである。かように敬虔殊勝な子であったから、当時は異例の僅か10歳で初めての御聖体拝領を許されたが、その時彼女は終生童貞の願を立てたと伝えられる。

 父がコルトナの市長に赴任して以来、彼女はフィレンツェの修道女に託されて教育を受ける事となった。それから数年後コルトナから帰った父は、彼女を他家へ嫁がせるつもりであったのに、彼女は先の誓願もあり、修道院に入って一生天主に仕える決心であったから、父は怒っていろいろ苦しめ、無理にも自分の意志に従わしめようとしたが、彼女はよく初一念を立て通し、遂に16歳の時にフィレンツェのカルメル会の修道院に入ったのであった。マリア・マグダレナとは、すなわち彼女の修道名に他ならない。
 彼女がカルメル会を選んだ理由は、未だ一般に頻繁な御聖体拝領が行われていなかった当時にあって、その会では毎日御聖体の主と一致する機会が与えられていたからであった。そして1584年誓願を立てると、彼女ははじめて脱魂の恵みを蒙るに至った。
 その時マグダレナは「私は我が主イエズス・キリストの十字架に於いての外は、もはや決して誇る所はありますまい」(ガラテア書 6・14)という言葉を口ずさんだかと思うと、その顔は日のように輝き得も言われぬ神々しい様子となって、ものの2時間ばかりも全く我を忘れ、恍惚の境に遊んだ。その間彼女は愛し奉る主との神秘幽玄な一致を体験していたのである。
 かような不思議はその後も度々起こったが、間もなくマグダレナは「苦しみの人」と呼ばれるイエズス・キリストの浄配たるにふさわしく、数々の苦痛に鍛えられなければならなかった。まず重病を患ってほとんど危篤に陥ったのを手始めに、それがようよう快復すると、今度は恐ろしい精神上の苦痛と激しい誘惑とに襲われた。殊に彼女を冒涜、絶望、邪淫、不従順等の大罪に引き込もうとする悪魔の執拗な努力には、彼女もほとほと手を焼くばかりであった。そのつらさ苦しさに涙を流しつつ他の童貞方の面前に平伏し「どうぞ不幸な罪人の、私の為にお祈りください」と願ったことも幾度あったか解らない。
 かかる過酷な試練は実に6年の長きにわたって続いた。しかし彼女はよくそれに堪え、1590年の聖霊降臨の大祝日を迎えるや、天主に予定された苦悩の杯もすでに最後のしずくまで尽きたのかさしも吹き荒れた誘惑の嵐もはたとやみ、十重二十重に閉ざしていた憂悶の黒雲も名残なく晴れて、その胸中には喩え難い平安の日光がうらうらと照り渡ったのであった。
 それでもマグダレナはその期間に学んだ犠牲の精神を一生忘れはしなかった。その事は彼女が「死よりも苦しみ」という言葉を座右の銘としていたのに依っても明らかに窺われるであろう。
 彼女は後に修練長となり、また副院長となり、その深い超自然的知識と熱い愛とを傾けて、自分の手に託された修女等をよく完徳の途上に導いたが、やがて再び大病に罹り、数々の苦痛を忍んだ後、1607年5月25日その清らかな霊魂を天主の御許に帰した。
 それから彼女による奇蹟は無数に起こり、20年後には早くも福者に挙げられ、遂に1669年には教皇クレメンス9世から聖女の位を贈られるに至った。


教皇

 パッチの聖女マリア・マグダレナの如く我等も苦痛を、天主より定められた天国への関門と考え、みだりにこれを厭わぬように努めよう。何となれば主イエズスを始め奉り、如何なる聖人も苦痛を経ずして天国に入られた方はないからである。






パリの聖ジェルマノ司教  

2025-05-28 00:00:05 | 聖人伝
パリの聖ジェルマノ司教                         記念日 5月28日


 パリで最も古く、そして最も大きい中世紀のサン・ジェルマン・デ・プレ修道院は、この聖人の生存中にチルデベルト1世王によって558年に建てられたものである。ジェルマノはそれを聖ヴィンセンチオと聖十字架に奉献した。

 576年5月28日にジェルマノが80歳で死去した時、この修道院の立派な墓に葬られたが、それはフランスの革命者たちによって破壊され、彼が列聖された年に彼の名をとって再建された。

 ジェルマノは496年フランスのオータンの近くで生まれて、530年に司祭となり、10年後にオータンの聖シンホリエン修道院の院長に選ばれたが、彼がパリに滞在していた時に早速パリの司教に任命され、同時にチデルベルト王付き司祭長となった。
 ジェルマノは高位についても、従来の厳しい生活を続け、貧しい人々が集まって来ても決して彼等を退けるようなことはしなかった。576年に彼が帰天した時、有名な詩人のヴェナンチオ・フォルトゥナートが彼の生涯をほめたたえる文章を書いた。それは信じがたいような多くの奇跡や伝説を含んでいるが、このような力強く崇高な聖人を与えてくださった神に感謝する彼の心情がにじみでている傑作である。






カンタベリーの聖アウグスチノ司教   St. Augustinus E. D.

2025-05-27 00:00:05 | 聖人伝
カンタベリーの聖アウグスチノ司教   St. Augustinus E. D.   記念日 5月 27日



 4世紀の民族大移動に際し、アングロ・サクソン族はブリタニア(今のイギリス)に侵入し、既にキリスト教の教化に浴していた土着民を殺戮、征服したので、同地における聖会も一時全滅の悲運を見るに至ったが、ローマにあるベネディクト会大修院長聖グレゴリオは、西暦590年頃宣教師としてブリタニアに赴き、アングロ・サクソンに布教しようと熱望していたが、未然に選ばれて教皇の位についたため志を遂げる事が出来なかった。で、彼は自分が設立したベネディクト会聖アンドレア新修道院の院長アウグスチノを代わりに派遣する事にした。一説によればその頃グレゴリオは、ローマで麗しいアングロ族の青年数人が、奴隷として売りに出されているのを見、同情に耐えずして彼等を買い取り、自由の身として教理を学ばせ洗礼を授けた後ベネディクト会修士なる宣教師40人と共に、アウグスチノの部下として、596年ころ故国イギリスに遣わしたそうである。
 所が彼等は赴任の途中アングロ・サクソン人の残虐な事や宗教を毛嫌いする話しなどを聞いて、教化の志も失い、ローマに帰ろうとした。けれども教皇グレゴリオは書を送って彼等をなだめ、万難を排してその使徒的使命を全うせよと激励し、ブリタニア諸王国の王侯貴族に宛てた紹介状なども与えたから、アウグスチノ達も発憤して旅行を続け、597年のはじめまず国王エテルベルトに取りなしてくれたから、王も、自ら進んで宗教を研究するほどの熱意は示さなかったものの、国内の布教は快くこれを許したのである。
 かくてアウグスチノ等が活動に取りかかる内、アングロ・サクソン族の人々は彼等宣教師の聖なる日常生活を見て聖教の完璧な事を悟り、先を争って福音を聞き、遂にその年の聖霊降臨の大祝日には、早くもエテルベルト王を始め、貴族、一般民衆に及ぶまで数千人の受洗者を出すに至った。
 この予期せざる大成功にアウグスチノは、天主への感謝と喜びに充ち溢れて、更に宣教師の増加派遣方を教皇に申し送った思いは同じグレゴリオも、早速その願いに任せて又もベネディクト会修士の中から宣教師を送り、アウグスチノを挙げてカンタベリーの司教となした。エテルベルト王はその司教座として、名高い救世主の大聖堂を建て、又請うて代々のイギリス国王の遺骸はそこに埋葬するように定めた。
 その後アウグスチノは更に熱心を倍加して布教に従事し、間もなくアングロ・サクソン族のほとんど全部を教化する事が出来た。彼はその改宗後も人民の異教的迷妄を打破する為に決して過激な手段はとらなかった。あくまで愛と親切の態度を以て臨み、彼等の異教時代の礼拝堂を聖堂として真の天主を礼拝せしめ、異教の祭礼その他の年中行事もキリスト教的意義を付して行うを許し、かくて自然に彼等の異教的習慣をキリスト教的それに変えるように導いた。この試みは大成功で、人民は知らず知らず迷妄を離れて真理の途に入ったのである。
 アウグスチノは一方アングロ・サクソン人に征服されたイギリスの旧土着民ブリタニア族の救霊も決してなおざりにはしなかった。彼等は大方既に聖教信者であったが、種々なる事情の為に堕落の淵に沈んでいたので、彼はその多く住するエセックスへ行き、ある時は諄々と教え、ある時は主の御力にすがって奇跡を行い、いかにもして彼等を正道に立ち帰らせようと骨を折ったが、不幸一切の努力は徒労に終わった、そしてこの聖寵に逆らった民族は聖人の預言の如く、主の御怒りに触れて敵の手により全く滅亡し去ったのであった。
 さてブリタニア人に対する布教の思わしからぬを見たアウグスチノは、溢れる悲しみを胸に抱いてカンタベリーに帰ったが、それから僅か10年を経た607年、天主の思し召しによりその耐えざる祈りと活動との生涯を終わった。彼は世にイギリスの使徒と呼ばれているが、オランダ、ノルウエー、デンマーク、ハンガリーなどの改宗も、英国よりその地に渡った彼の部下たりしベネディクト会の宣教師、殊に聖ボニファチオの努力によった事を思えば、アウグスチノは全ゲルマニア民族の使徒ということも出来よう。


教訓

 聖アウグスチノの布教の成功には、彼の立派な言行の感化があずかって大いに力があった。されば我等も未信者の同胞を導く為にも、益々我が身を修めるように努めねばなるまい。






聖フィリポ・ネリ司祭証聖者   St. Philippus Neri C.

2025-05-26 00:00:07 | 聖人伝
聖フィリポ・ネリ司祭証聖者   St. Philippus Neri C.  記念日 5月 26日


 「汝等常に主において喜べ、我は重ねて言う、喜べ!」(フィリピ書 4・4)
 フィリポ・ネリは、この使徒聖パウロの言葉を一生の標語としたような聖人であった。フィリポ・ブオノ(善良なフィリポ)と言えば当時のローマ市民で誰一人知らぬ者もなかった。
 彼は1515年イタリアのフィレンツェに生まれた。その少年時代の事は詳しく知られていないが、定めしその頃から清浄潔白、無欲恬淡、快活明朗な性質で、その上後年聖者となるにふさわしい、天主の御指導があった事であろう。彼の伯父に当たる人は相当な財産を持つ商人であったが、不幸にして跡を継ぐべき子供がなかったので、18歳になったフィリポを養子とし、ゆくゆくは自分の商売の後をつがせ、相当な身代をゆずるつもりでいた。ところがフィリポはそういう利殖の業に少しの興味も持つことが出来なかった。かえって彼は清貧の生活に憧れ、一切をなげうってローマに赴き、16年の長い年月を親切な友人の家の屋根の下に起き伏しし、その二人の子の教育を唯一の生業として、質素な生活を続け、暇あれば市中の霊場なる教会聖堂カタコンブ等に巡礼して祈りにふけるのを何よりの楽しみとしたのである。殊に聖セバスチアノのカタコンブや無数の殉教者の聖血に彩られた闘技場には、12年間ほとんど毎日のように、時しては夜更けてからも参詣して、自分もそれらの殉教者の如く信仰堅固になる恵みを、涙の中に天主に祈り求めたという。
 されば天主も彼の誠心のよみされたのであろうか、1544年の聖霊降臨大祝日の前日であった、フィリポが例によってカタコンブに参り祈りしていると、特別な恩恵が与えられて心中に無量の聖愛がみなぎり渡るを覚え、胸も張り裂けんばかりに感ずると同時に、あばら骨が2本折れて、胸を傷つけその傷は生涯癒えずに残ったと伝えられている。

 当時の教会には不幸にして冷淡の憂うべき風潮が瀰漫していた。フィリポは力の及ぶ限りかような信者に熱心を吹き込もうと努めると共に、病める者、貧しき者、遠来の巡礼などの救済等、肉身の慈善業をも心がけ、またそれにも増して霊的の慈善業を重んじ、罪人の心に平安をもたらすように配慮した。
 フィリポの愛に満ちた優しい人柄と快活な性質とは、逢うほどの人に好感を与えずにはおかなかった。わけても町の子供たちは心底彼になつき、慈父の如く後を慕い、共に遊んだり、公教要理を勉強したり、また聖堂に参詣したりするのをこの上もない喜びとしていた。ある人がフィリポに「こんなに子供たちが騒いでは、さぞおやかましいでしょうに・・・」というと、彼は答えて「いや罪さえ犯してくれなければ、私の背中の上で薪割りをされてもかまいませんよ」と言ったという。以ていかに彼が子供たちを愛していたか察することが出来よう。
 彼が慕うのは子供達ばかりでなかった。時々は町の人々も彼の周囲に黒山を築いて、天上の霊感に充ちあふれた彼の説教に耳を傾け、或いは俗腸を洗い、或いは改過選善の心を起こした。

 かようにフィリポは世道人心に大いなる感化を与えたが、まだ別に聖職者という訳ではなかった。彼の聴罪司祭はかかる高徳篤信の人を平信者の中におく事を惜しみ、盛んに叙階の秘蹟を受けるように勧めたから、フィリポも遂に意を決して、1551年、36歳で叙階されて司祭職に就くに至った。しかしその愛深い心、謙遜な態度、快活な性質、質素な生活には依然として変わりなく、今度はこれに善牧者イエズスに倣って迷える羊を正道に連れ戻す仕事が加わり、彼は粉骨砕身朝早くから晩遅くまで告解を聴き、罪人の改心を喜んで己の労は少しも厭うところがなかった。
 フィリポはまた各方面の人々を数人ずつ自分の狭い部屋に集めて教えを説き、しばしば黙想会を行った。そしてそれを希望する者が次第に増えて、自室では到底間に合わなくなると、更に手広い所を求めて、なおもこの使徒的活動を続けた。その集会の場所はオラトリオ(祈りの家)と名付けられ、後に聖人の徳を慕う者が相集まって結成したオラトリアノ修道会の発祥地となった。教皇の命令によってその人々の指導者と立てられたのがフィリポであった事はいうまでもない。
 彼はまた祝日などにはよく信者達を引き連れてローマの古い聖堂に参詣した。殊に四旬節の前二日にわたって行われる世俗的な行事謝肉祭には、進んでこういう巡礼の行列を催し、以て世人の罪の償いとした。
 聖人はあらゆる人々から尊敬されていた。たとえば教皇レオ11世は彼と共に語るを喜びしばしば四、五時間をもその部屋に留まり、ここは予の楽園であると言われ、またクレメンス13世やグレゴリオ14世は、かつて聖人から教えを受けた事を無上の名誉とされ、カロロ・ボロメオ、イグナチオ両聖人はフィリポと親しく交わり、また大音楽家パレストリーナは好んで彼に告解した。大抵ならそういう偉大な人物からそれ程尊敬を受けると、兎に角思い上がり易いものであるが、フィリポは少しもたかぶる色なく、却っていよいよへりくだる事を心がけ、その為時々珍妙な行為を敢えてする事もあった。例えばひげの片方だけをそり落として往来を歩いたり、人々の前で書物を朗読する時わざと子供の片言を真似たり、移転の折り台所道具を持ち出して滑稽なしぐさを見せたりするのである。これは皆、人からさげすまれ笑われたいという謙遜の心から出でた事であるが、その聖徳の高さを知っている人々は、却ってその為ますます尊敬の念を加えるばかりで、教えを請う者、代祷を願う者は引きも切らず彼を訪ねて来た。彼のミサ聖祭を執行する時、その顔は天使の如く天上の光に輝き、その敬虔極まる態度と共に、見る人をしてそぞろに天主の目近にまします事を感ぜしめたという。

 聖人にもやがてこの世を去る日が近づいて来た。病の為再び起つ事が出来なくなったフィリポは、床の上に横たわりつつ壁にかけられた主の十字架像を指さし「御覧なさい、主はああして苦痛を忍びながら十字架にかかっておいでになるのにこの取るに足らぬ私はこんな柔らかい寝台の上に、親切な人々の介抱を受けながら休んでいるのです。何という冥加に余ったことでしょう」という言葉を最後に、その至純な霊魂を天父の御手に返したのであった。


教訓

 我等も聖フィリポ・ネリの如く、常に主において喜びつつ慈善を心がけたい。何となれば「神は喜び与える人をよみし給う」(コリント後書 9・7)





聖マグダレナ・ソフィア・バラ修道女  St. Magdalena Sophia Barat V.

2025-05-25 00:00:05 | 聖人伝
聖マグダレナ・ソフィア・バラ修道女  St. Magdalena Sophia Barat V.  記念日 5月 25日



 カトリックの女子修道会も数多あるが「聖心会」の如きは、最も大にして最も著名な一つであろう。同会経営の女子教育機関は殆ど世界の各国に亘って置かれ、我が国においても東京、神戸の両市にその女学校が設けられている。故に本日同会の創立者なる聖女マグダレナ・ソフィア・バラの生涯について語ってみるのもまんざら興味のない事でもあるまい。何故なら彼女の精神こそ、即ち同会活動の原動力を成しているからである。

 彼女は1779年12月13日フランスのジョアニーに呱々の声を挙げた。父母はそれほど高い身分ではなかったが共に信心深く、娘をも敬虔にしつけ育てた。マグダレナが初聖体の拝領を許されたのは、僅か10歳の時で、フランス大革命の勃発する少し前の事であった。彼女にはルドビコという11歳年上の兄が一人あって、若い時から司祭を志していたが、この人が妹の教育を引き受けようと申し出た。両親も喜んでこれを許したので、ルドビコは授業を興味深くして一層効果を挙げるために妹の友達二人も加えて教える事とし、まず時間割を作ったが、その中には小学校で学ぶ課目ばかりでなく、更に高等な文学、歴史、地理、数学、博物等の学問から、ラテン語、ギリシャ語などの語学まで含まれていた。ルドビコは前に総てこれらを学んだことがあったのである。
 もちろん宗教や信心に関する知識を授ける事も忘れはしなかった。というよりむしろ宗教の課目には他の学科にも増して力を注いだという方が当たっていよう。何故ならその頃はあたかも革命の行われた時代で、宗教を学ぶ機会が甚だ少なかったからである。
 かようにして兄ルドビコは最新の注意を以て妹を教育した。が、父母は、時々は習っているマグダレナ自身も、一体何の為かく数多の学科を勉強する必要があるのだろうと訝しんだ。しかしこれは皆全知なる天主の御摂理に他ならなかった。即ち主は将来彼女を上流の若き女性の教育に携わる修道会の創立者たらしめる思し召しで、指導者、教育者として恥ずかしからぬ教養を積ましむべく、あらゆる方面の知識を授け給うたのであった。

 ソフィアが一身を天主に献げる決心をしたのは、もう余程以前からの事であった。けれども当時の世の有様では、何事も不可能に思われた。で、彼女は天主に祈りつつおもむろに時機を待つ事としたが、その間かって知らぬ憂いと悲哀を体験せねばならなかった。それは兄のルドビコが、他の多くの司祭達同様革命党の手に捕らわれ、戦慄すべき迫害を受けて殺害されようとした事である。しかし幸いに彼は奇跡的に一命を全うすることが出来た。ソフィアの祈りはその恵みを、慈悲深きイエズスの聖心からかちえるのに成功したのである。
 やがてナポレオンが天下を掌握すると、人民は再び信仰の自由を得た。その頃司祭としてパリで活躍していたマグダレナの兄は、彼女にもしきりに上京をすすめて来た。父母も最初は躊躇の色を見せていたが、遂にそれを許した。彼女はかくて若い心を躍らせつつ都にいる兄の許に急いだのである。
 兄のルドビコもかねてから修道生活に入りたいという望みを抱いていた。ある日彼は知人のヴァレン司祭にこの自分の心を打ち明けたついでに、妹の修道女を志している事をも物語った。ところがヴァレン師はその時はしなくても、かつて腹心の友たりし今は亡きデ・ツルネリ神父の事を思い浮かべた。この司祭は聖人のような高徳の士であったが、生前イエズスの聖心に特別の信心を献げ、以て人々の救霊につくす一修女会の創立を心がけながら、惜しくも果たさずにして逝いたのであった。ヴァレン師はルドビコの妹こそこの親友の計画を実現する使命を天主から託された女性であるまいかと思い一日彼女に逢ってその事を勧めてみた。と、始めの内こそソフィアも逡巡していたけれど、遂にその天主の思し召しなる事を悟ってその修女会の創立を思い立ったのである。
 彼女の決意を聞くと、前に勉学を共にした二人の友もすぐさま同志となった。なお他に素直で善良な心を持つ一人の少女も仲間に加わった。ヴァレン師はこの四人の為にまず日課を定めてくれた。
 その年、即ち1800年の11月21日の事である。ヴァレン師の献げる御ミサに4人の若き女性は恭しくあずかったが、聖変化がすむと、彼らは自ら一身を天主なるイエズスの聖心に献げる祈りを高らかに唱えた、この日、この宣誓こそ、実に聖心修女会のはじまりをかくするものに他ならなかったのである。
 それから幾ばくもなくして、この小修女会は早くも最初の小さな女学校と付属寄宿舎とを手に入れる事が出来た。そしてその経営の為、もちろん小さく貧しいものながら、また最初の修道院をも買い入れ、黙想を行って活動の準備をした。宣誓の記念日が来ると彼らはまた誓願を新たにした。会は主の聖心の豊かな御祝福を蒙り、新入会員もあって次第に大となり、聖心の精神を以て同会の精神とした。その精神とは謙遜、隣人愛,犠牲心、清貧、忍耐、従順などの諸徳を含んでいるのである。
 会の発展は停止する所を知らず、次々と新しい学校を設けねばならなかった。本当の戒律も漸次出来上がった。マグダレナ・ソフィアは23歳で総長となり、没するまでの62年間その職に在って、重任を全うした。その長い間会は隆盛になる一方であったけれど、総長はまた絶えず苦しみを味わねばならなかった。というのは一体彼女は生来丈夫な方ではなかったのに、激務、心労、旅行、その上しばしば重病を患って、ますます健康を損なったからである。実際生命を危ぶまれた事も一再に止まらなかった。しかし主はいつも彼女を死の危険から救い出し給うたのであった。
 苦しみは彼女の肉体ばかりでなく霊魂をも襲ってきた。自分に対し姉妹に対し与えられる誹毀讒謗やあらゆる試練は、彼女の心を懊悩させずにはいなかった。しかし彼女は黙々と一切を耐え忍んだ。ただ事一度会の幸福や救霊の問題に関するとなると、毅然として一歩も後へは引かなかった。
 マグダレナ・ソフィアの総長としてのたゆまざる活動を裏付けるものは、その同胞に対する燃えるような熱愛に他ならなかった。彼女は教育家、教師たる者の模範であった。会の教育事業に就いて彼女の与える賢明な指導は、いよいよ彼女の真価を知らしめずにはおかなかった。彼女の統率の下に、会は小さい芥子粒から見上げるような大木にまで成長したのである。
 功成り名遂げたソフィアは、1865年の5月25日85歳の高齢で帰天した。死後天主は数多の奇跡を以て彼女に光栄あらしめ給い、為に彼女は1908年の5月24日福者位に、1925年5月24日に聖人位に挙げられるに至った。



教訓

 天主の御摂理に信頼せよ、小さな出来事も天主の御計画に、肝要欠くべからざる事がしばしばある。人々はよく偶然というが、天主にあっては偶然ということは一つもないのである。