聖母マリアの御誕生の祝日 Nativitas B. Mariae V. 祝日 9月 8日
世間ではいろいろ知名の士の誕生が祝われるが、本来から言ってイエズスの御母聖マリアの御誕生日ほど祝すべく慶すべきはあるまい。彼女は天の元后であり、世の救い主の御母であり、全人類中罪の汚れなき唯一のお方であり、殉教者の元后と称せられるほど苦しまれたお方であり、恐らくまた過去のあらゆる名高き人々のそれを合わせたよりも多数の、教会、小聖堂、彫刻、絵画等の記念物を有し給うお方である。また人と生まれて聖マリアほどその名を呼び慕われ、誌に、音楽に説教に褒め讃えられるお方はない。
彼女はイエズスの御母として救世の御事業に携わられた。イエズスは世の光であり、正義の太陽である。太陽は曙の中から生まれる。されば聖マリアは世の救いの曙と言えよう。
我等はこの聖なるおとめの御生まれが紀元前何年であったか明らかには知らぬ。しかし、その御誕生は一切が不可思議であった。彼女の御両親はヨアキムとアンナであったが、共に年老いてしかも子種がなかった。彼等は幾年も根気よく、家の絶えぬよう子孫の与えられんことを天主に祈願をこめた。その祈祷はついに聴かれ玉のような女の子を恵まれた。その時の彼等の歓びはどのようであったろう!しかしもしその子マリアが比類なく清い霊魂の持ち主であり、天主に永遠の昔から救い主の御母と選ばれていたことを知ったら、彼等の歓びは更に更に大きく、親戚と声を合わせて「麗しかなマリア!汝には原罪の汚れもあらず」と讃歌を歌ったに相違ない。
それはさておき長い間の念願叶って愛らしい娘を得たヨアキムとアンナは、感謝のあまり彼女を天主に献げて聖殿に奉仕させる事を誓った。彼等は共に聖王ダヴィドの裔だけあった、それほど敬虔の念に篤かったのである。そしてマリアが三歳に達すると、彼等は先の誓いを果たす為に、彼女を聖殿へ連れて行った。彼等は手放すに忍びぬ心をようように抑えて、我が子を神事奉仕のおとめ達の群れに加え、聖殿に起居させることとした。手放すに忍びぬというのは、マリアが普通の子供と違い、どこか聖い、どこか厳かな所を具えていたからである。彼女を見る者は誰しも自ずと愛を感ぜぬ訳にはゆかなかった。まして親ともなればなおさらのことである。けれどもヨアキムやアンナはその人情を天主の為犠牲として献げたのであった。
マリアは聖殿に於いてすくすくと生い立ち、年齢の加わると共にその智慧もいや増した。そしてそれからヨゼフの許嫁となり、救い主の御母となり、御子と苦行を共にされた。彼女はイエズスが十字架にかかって死に給うを見、またその御復活に逢われた。後御自分も世を去られるや、霊魂肉身諸共天に迎えられ給うた。彼女は今、天の元后、恩寵の分配者、聖会及び全人類の母にして保護者と仰がれておいでになる。実際あの敬虔な両親ヨアキムとアンナがこれらの事の半分も知っていたならば、どんなに喜びに満ち溢れかつその愛子を尊敬されたことであろう!しかし我等はその一切を知っている。故に心から喜び躍ろう。「ああ天主の御母聖マリアよ、御身の御誕生は全世界を喜びと慰めもて充満せり。そは正義の太陽、我等の天主なるイエズス・キリストが御身より生まれ給いたればなり」これは本日聖会が祈る言葉である。
教訓
聖マリアは救世主キリストの御母である。けれどもキリストは十字架上から彼女を全人類の御母と立て給うた。孝子は母の誕生日に口で慶祝を述べるばかりでなく、また愛情込めた贈り物をしてそれを現すものである。さて聖マリアは慈愛に富むこの上もない御母であるから、我等はその御誕生日の贈り物として、己のおもな欠点を直す決心を献げ、且つ、その決心を実行することに努めよう。
聖ソゾン殉教者 記念日 9月 7日
4世紀の初め頃、タラシオという羊飼いの少年がシチリアに住んでいた。当時は迫害の時代で、信者達の生活は危険であったが、彼は洗礼を受けて名前をソゾンと変えた。ある日、野原で寝ていると、イエズスが夢の中に現れて、信仰の為に死ぬ覚悟をするために、彼が常に羊を守るために使っている武器を捨てて、ただ羊飼いの杖だけ持つように命じられた。
ソゾンはすぐに町の神殿に行って、その中の黄金の偶像を羊飼いの杖でこなみじんに砕いてしまった。そして、偶像の金の手の一つを細かく分けて貧しい人々に与えた。ちょうどその時、あるキリスト信者たちが捕らえられ、偶像をこわしたと訴えられた。ソゾンは、自分が壊したことを自ら名乗り出た。役人達はソゾンの靴の裏から釘を打ち込んで、そのまま円戯場まで無理に歩かせた。ソゾンの勇気に感心した役人達は、彼を赦してやりたいと思って、群衆のために笛を吹けば釈放すると言った。しかしソゾンは、自分は羊のためには笛を吹いたことはあるが、今は神のためにしか吹きたくないと言って断った。そのため、彼は火あぶりになって殉教した。
聖カグノールド司教 記念日 9月 6日
フランスのルュクスイユにあった聖コロンバン修道院からは、多数の聖人たちが出て、7世紀までにフランスの最も重要な修道院となっていた。聖人たちは司祭や信者を高い霊的生活に導いた。モー市の司教となったファロとラオン市の司教となったカグノールドという兄弟は、聖人の中でも著名であった。
コロンバンがテオドリック2世王の不道徳な行為を批判したとき、王は怒って610年彼を追放した。カグノールドは聖コロンバンといっしょにフランスを去って、コンスタンス湖の近くで宣教師として働いた。しかし、テオドリック王はその地方にも勢力を伸ばして、容赦せずにまた二人を追放した。とはいえ、この二人は敵に対しても慈悲深かった。
ヌーストリアのテオデベルト2世はカグノールドとコロンバンに、コンスタンス湖の近くに隠れ家を与えて彼らを援助した。
ある日、コロンバンは、テオデベルト王とテオドリック王が戦っている夢を見た。彼は目を覚まして、カグノールドに夢の話をすると、「テオデベルトが我々の敵のテオドリックを負かすように祈ろうではないか」とカグノールドは早速言った。ところがコロンバンは「とんでもない。そんな祈りでは神を喜ばせることはできない。神は我々の敵のために祈ることを命じられたのだ」と言った。
そこで二人はイタリアへ旅行して、ボッピオでコロンバンに対する愛と配慮から、彼に従ったのであった。コロンバンが亡くなってから、カグノールドは自分の司教区を治めて633年に帰天した。
聖ラウレンシオ・ユスチニアノ司教証聖者 St. Laurentius Justiniani E. C. 記念日 9月 5日
多くの他の聖人方がそうであるように、聖ラウレンシオ・ユスチニアノも信心深い母の子と生まれた。父は早くこの世を去ったから、その忘れ形見五人を養育する大任はか弱い母の双肩にかかって来た。彼女はその重責を果たすためには自分一個の力のあまりにも微弱に過ぎることをよく知っていた。それで彼女は全能の天主に信頼し、しばしば祈り、及ぶ限りの事をした。為に天主も豊かな祝福を与え給い、子はいずれも健やかに善良な心をもって生い立った。それは何者にも換え難い母の歓びであった。
その中でもラウレンシオは一際すぐれた子であった。彼は1381年の生まれであったが、才能あり柔和な性格で、あらゆる人に恭倹かつ親切であった。彼は子供の時分から極めて真面目で、何か大きな事を考えているように見えた。そして時々一種の野心を示すようなこともあったので、母はそれを戒め、彼が傲慢に流れるのを防ぐために、時々傲慢は地獄に落ちる道である事を言い聞かせた。
が、その中も心配する必要がなくなった。というのは、ラウレンシオの頻りに考えていたのは聖なる生活に就いてであることが解ったからである。彼は後年その著書の中に自ら記して曰く「19歳頃のことである。私は世間に平安を探し求めたがついにそれを見出すことが出来なかった。すると、ある晩の夢に太陽の如く美しい方が現れて『我が子よ、汝は何故平安を尋ねて所々をさまよい歩くのか?汝の求めている者は我である。もし汝が全く我に身を献げるならば、我は汝の望む物を必ず与えよう』と仰せられた。そして『御身はどなたでいれせられますか?』と私がお尋ねすると、そのお答えには『天主の叡智!』とあった。私は即座に『私は御身のものでございます』と申し上げた。これは一場の夢に過ぎなかった。しかし私の心は深い深い感動を覚えたのである」と。
彼はそれから一切の顛末を親戚に当たる一司祭に打ち明けた。同時に全く身を天主に献げたいという望みに就いても彼に告げる所があった。自らも甚だ敬虔であったその司祭は、果たしてラウレンシオが修道生活に召し出しを蒙っているか否かを試そうと思い、まず彼に苦行で身を鍛えることを教えた。
同じ疑惑は母もやはり抱いていた。で、彼女はラウレンシオが結婚することを希望し、花嫁の候補者まで探し出して来た。しかしラウレンシオは承知せず、却って暇を乞うて司祭達の会に入った。
彼は直ぐさま真の苦行の生活を始め、会員一同の模範となった。彼は厳寒酷暑に耐え、病苦を忍び、殊に謙遜の徳を心がけて卑賤な仕事は何でも喜んでこれを為した。人に讒謗されても彼は弁解しない。のみならず謝罪さえした。彼は勉学も決して怠らなかった。そして規定の年齢に達すると、叙階の秘蹟を受けて司祭に挙げられた。
それからラウレンシオはよりよく天主に仕える為にどこか静かな所に退きたいと思った。けれども天主の御旨はそこになかったのであろう、彼はまだ若年の身ながら選ばれて、間もなく会長の大任を負わされ、従順の誓願に従いどうしてもこれを引き受けねばならなくなった。彼は賢明に会を治め調えた。その為ついに会の創立者と目されるに至り、教皇オイジェニオ4世から戒律の認可を与えられた。
ラウレンシオはすべての人を愛してはいたけれど、また彼等の熱心の冷えぬように絶えず訓告を与えもした。彼は胸が弱く声量に乏しかったから、大雄弁家となる素質はなっかたが、少数の人々を相手に語る時には、その信仰と学識の深さがほの見えるような、実に立派な説教をした。彼はまた筆を執っても幾多の書物を著している。
50歳の頃彼は教皇からヴェニスの大司教に任命された。彼は己をその重職に耐えぬ者として百方辞退し、何人か他の適任者を任命せられるよう教皇に懇願した。しかし教皇は頑として聴かれず、果ては従順の名において大司教就任を厳命されたから、彼もやむなくお受けするに至った。それでも彼は前と同様の生活を続け、相変わらず苦行をなし、出来るだけ貧しい暮らしに甘んじたのであった。
大司教としての彼は理想的にその教区を治め、寛厳も宜しきを得、貧民にはわが所有物の一切を施し、聖会の権利は勇ましく擁護し、すべての司祭に模範を示した。
ラウレンシオの名声は四方に雷の如く轟いた。教皇は彼をヴェニスの最初の総主教に挙げた。彼は謙遜にこの位を拝受したが、その後4年を経た1455年、74歳を一期として帰天した。彼は生来強い方ではなかったけれど、厳格な生活にも拘わらず大方は無病息災に過ごし、臨終にも軟らかい床を望まなかった。死ぬ前にには葬式を極く質素に執り行うように遺言し死後67日目に埋葬された。その間も彼の遺骸には何の腐敗の兆しも見られなかった。彼が聖人の列に加えられたのは1524年教皇クレメンス7世の御世のことであった。
教訓
己を全く御旨に委ねるがよい。そうすれば主も我等を導き強め、一切を耐え忍ぶ力を与えてくださるであろう。
ヴィテルボの聖ローザおとめ St. Rosa de Viterbio V. 記念日 9月 4日
天主はその聖人の中に奇蹟を行い給う。我等はあらゆる聖人の生涯に天主の聖寵の奇蹟を認め得るが、なかんずくその顕著に窺われるのはヴィテルボの聖ローザの一生であろう。
彼女は1235年イタリアのヴィテルボに生まれた。両親は貧しい人々であったが、子供といっては彼女一人であったので、及ぶ限りの注意を以て教え育てようとした。しかし彼女の教育に大いなる役割を演じたのは、父母の力よりも寧ろ天主の聖寵であった。まだようよう二、三歳の頑是ないローザが、おぼつかない足取りで近所のフランシスコ会の聖堂へ行き、天使の如く敬虔な態度でミサ聖祭にあずかるのを見た時の両親始め他の人々の驚嘆はどれほどであったろう!ローザは説教の間鈴のような眼をみはって司祭の一語をも聞き落とすまいと耳を傾け、それを記憶に留めては帰宅後父母や近所の子供らにくり返し語って聞かせるのであった。
それから二、三年経つと、ローザは苦行の生活を始めた。自家の小さな一つの部屋に、彼女は自ら祭壇を築き、殆どいつもその前で祈った。そして一枚の板を床として眠り、また人々が彼女の身体を心配するほどの厳しい断食をした。その衣服は粗剛な着心地の悪い物を用い、歩行は常に裸足、その上睡眠時間も極度に切り詰めるという風であった。それでも彼女は始終楽しげに見え、すべての人、殊に貧しい人々に親切で、自分の分と定められた貧しい食物を割いて彼等に施すことも珍しくはなかった。
その頃のローザについて幾つかの奇蹟談が伝えられている。一人の貧乏な家の子がある時花瓶を壊した。ローザは気の毒に思ってその破片を集め、それに向かって十字架の印をした。するとたちまち花瓶は元通り直って、継ぎ目さえわからなくなったと言う。
ローザは十歳の時思い病に罹った。死期も間近と思われた時、彼女は一つの示現を見た。それは天国、地獄、煉獄の有り様であった。それから
聖母マリアが御出現になって、彼女に美しい冠を示し、聖フランシスコの第三会に入るようお奨めになり、同時に今後の生活の仕方や彼女の仕事や、更にその受くべき迫害や苦痛などに就いても種々諭し給う所があった。かくて彼女は全快の後、粗服に縄の帯を締めるようになったのである。
彼女はまた幼きイエズスの御姿を幻の中に拝したこともあった。そのイエズスは既に茨の冠を戴き鮮血に染まっておいでになった。それを仰ぎ見たローザはその後で自ら我が身を血の流れるまで鞭打ったりした。
当時皇帝フェデリコは聖会に対して迫害を加え、その軍隊はイタリアに侵入して恐るべき残虐の数々を働いた。ヴィテルボ及びその近隣の町々も彼等の魔手を免れることは出来なかった。しかるにこの秋に当たり突然少女ローザは決然起って世の不信、不道徳、奢侈贅沢、その他あらゆる不正を戒める説教を行ったが、その雄弁、その力強い言々句々は天来のものとしか思われぬほどであった。ローザは街路や広場など人の大勢集まる所を選び、何人にも自分の姿が見えるよう石か柱の上に立って説教した。僅か12歳の少女の、この驚くべき熱弁は大いなる反響を呼び起こさずにはいなかった。多くの人々は彼女の言葉に感じて改心し、また罪の償いを献げるようになったのである。
フェデリコの家来達は之を苦々しいことに思い、ヴィテルボの市長をしてローザの一家に即刻退去を厳命させた。彼女の父は「何分冬のことでもあり、金もなし、行き先も心当たりがありませんから、暫くの御猶予をお願い致します。唯今この町を追い出されましては、私共一同野垂れ死にをするより外はございません」と憐れみを請うたが、市長は少しの情け容赦もなく「お前達の死ぬのは寧ろ望むところだ、さっさと出ていって貰いたい」とけんもほろろの挨拶なので、父は取りつく島もなく妻子をつれてすごすごと住み慣れた町を去り、数多の艱難の後ソリアノという所に来た。ここの人々は親切にも哀れな親子に目をかけてくれたので、彼等もそこに足を留めたが、ローザは早速またも説教を始めたのに、やはりその反響は驚くばかりであった。
しかるに1250年の12月5日のことであった。彼女は人々にやがて大いなる幸福が来ると預言した。すると果たしてその月の13日フリデリコ皇帝の崩御と共に、国内には平和がかえってきた。でローザ達も懐かしいヴィテルボ市へ戻ることとなったが、途中通りかかった或る町では、信仰を抛った一婦人の悪例に躓き棄教する者が夥しくあった。ローザはこれは捨ておけずと、先ずその婦人の非を咎めたけれど相手もさる者いろいろ抗弁してなかなか承服しない。するとローザは「それではどちらの言葉が正しいか、奇蹟によって決めることにしましょう」と言って、先ず盲人を癒すことを求めた、勿論相手にそういう事が出来る筈はない。見事それが失敗に帰すると、ローザは鮮やかにその盲人の目を開いて見せた。しかし婦人はまだ改心しなかった。そこで今度はローザが二人で燃え立つ火中を渡ろうと言い出した。相手は恐れをなしてそれに応ずる色がなかった。けれどもローザは山のように薪を持ち来らせ、これに火を放って紅蓮の炎の中に歩み入り暫くそこに立ち留まって見せた。彼女は着物すら少しも焼けず、まして身体にはわずかの火傷をも受けなかった。それには流石の婦人も顔色をかえて驚き、ついに改心するに至り、彼女と共に再び信仰に立ち帰った者も数多あった。
ローザ親子がヴィテルボに帰った時市民の歓びは一通りではなかった。今や15歳を迎えたローザは修道院に入ることを望んだ。けれどもそれが許されなかった時、彼女は再び自分の小さな部屋に籠もり、前の通り苦行と祈祷と黙想の生活を始めた。
二年後彼女はまだ17歳のうら若い身で、その清い霊魂を天主の御手に返した。その遺骸は始めヴィテルボの教会に葬られたが、後他の教会に改葬された。その時は死後既に5年を経ていたのに、容色さながら活ける如くであったという。
それから100年ほどしてその教会は火災で焼け落ち、ローザの柩もその衣服もまた焼失した。しかし彼女の聖骸は些かも損なわれず今日に及んでいる。
教訓
天主は時々弱き者をして大事をなさしめ給う事がある。聖女ローザの如きはその一例と言えよう、我等はこの少女の償いの生活を考える時、償いはおろか日常の義務すら果たす勇気のない己を恥ずには居られぬのである。