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カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ネレオ、聖アキレオ兄弟、聖ドミチラおとめ、聖パンクラチオ殉教者   Sts. Nereus, Achilleus, Domitilla et Pancratius M.M.

2025-05-12 00:00:05 | 聖人伝
聖ネレオ、聖アキレオ兄弟、聖ドミチラおとめ、聖パンクラチオ殉教者              記念日 5月 12日
       Sts. Nereus, Achilleus, Domitilla et Pancratius M.M.



 聖会は本日4人の聖なる殉教者を併せ記念する。その天国への凱旋の日は必ずしも同一ではないが、共にローマ帝国のキリスト教迫害の犠牲者たる点においては変わりがないからである。

 ネレオ及びアキレオの聖兄弟は1世紀の中頃ローマの軍隊に入り、市内警備の任に当たっていたが、皇帝の命令により心にもない残酷な刑を行わねばならぬことがしばしばなので、嫌気がさし、軍籍を退いて皇帝の近親フラヴィオ家の姫君、ドミチラの侍従となった。そして時こそ定かではないが使徒聖ペトロから洗礼を受けたと伝えられている。

 ドミチラはネレオ兄弟の影日向ない奉公ぶりに感心し、調べてみるとキリスト教信者である事がわかった。そうなると今度はかくも立派な行いに導く宗教が慕わしくなり、姫は二人に自分も信仰に入りたい旨を打ち明けたのである。この思いもかけぬ主人の言葉を耳にした兄弟の喜びは言うまでもない。早速姫を教皇の許に連れ行き、教理を研究させ、洗礼の恵みを受けしめたのであった。
 ドミチラ姫はかねてよりアウレリアノという貴族の一青年と許嫁の間柄であったが、もちろん相手は異教徒でもあるので、これと結婚すれば或いは姫の救霊にも妨げが生ぜぬかと心配した兄弟は、誠意を披瀝して忠告を与えた。すると姫もその危険を悟り、アウレリアノとの婚約を破談とし、終生童貞を守る決心を立て、教皇クレメンスから童貞のヴェールを授かったのである。
 一族の中から、またローマの名誉ある軍人の中から、禁制のキリスト教を奉ずる者が現れたと知った時の、ドミチアノ皇帝の驚きはどれほどであったろう!彼は早速ドミチラとネレオ兄弟とを呼び寄せ、棄教を命じたが、信仰堅固にしてその意を動かすことの出来ないと見てとると、之をポンザという島に流しものにすることにした。
 栄耀栄華、何の不自由のない都の生活に慣れたドミチラにとって、この配流はどんなに淋しく味気ないことであったか解らない。しかし彼女は主と仰ぐキリストの御為に一切を耐え忍んだのであった。
 その内にもキリスト教に対する迫害は、益々厳しさを加えて来た。ポンザ島には新たにミヌチオ・ルフォという者が来て信者の糾明を行ったが、もちろんドミチラ主従3人は決して初志を翻さない。ただ「聖教の為ならば、一命を献げても更に悔いる所がありません」と答えるばかりである。そこでネレオ兄弟は拷問でかけられたが、それでも棄教をしないので、遂にテラチナという島に送られ、そこで首を斬られて殉教した。
 ドミチラ姫に対しては、先の婚約者アウレリアノが更に説得を試みる為にテオドラ及びオイフロシナという二婦人をローマから遣わし、種々甘言を以て誘わせたが、やはりどうしても意を翻さない。のみならず却って姫の方で二人を説きつけて信者にしてしまったからルフォは彼等3人をテラチナに送り、そこで一軒の家に閉じ込めたまま焼き殺したと伝えられている。
 ドミチラ及びネレオ、アキレオ兄弟の遺骨は後にローマに移されてフラヴィオ家の墓地に埋葬され、聖会信者の崇敬の的となった。

 聖パンクラチオはヂオクレチアノ皇帝の御代に、斬罪に処せられて殉教した少年である。彼は聖会において昔から特別に崇め尊ばれ、14人の救難聖人中に加えられており、ローマには今も彼に献げられた聖堂があって、枢機卿座の高い格式が与えられている。
 聖パンクラチオは小アジアのフリジアに生まれた。両親に死に別れて孤児となってからは、伯父ヂオニジオに伴われてローマに赴き、そこでキリスト信者であった知り合いの紹介で教皇マルチェリノに謁見し、研究の後聖教の真理なる事を認めて受洗、熱心な信者となり、まだようよう14歳、花ならば蕾にも喩えるべき紅顔可憐の身を、勇ましく血を流して信仰を証したのであった。


教訓

 聖ドミチラも聖パンクラチオも、その入信の始めは共に他の信者の導きによったものである。之を見てもいかに信者一人一人の熱心な信仰が、他人の救霊に役立つか解るであろう。されば我等も未信の人々に真理や永福の宝を与えたいと望むならば、すべからくわが信仰の火を燃やし、善徳の輝きを放って彼等を照らすように努めねばならないのである。








聖イシドロ農夫         St. Isidorus C. 

2025-05-11 03:40:04 | 聖人伝
聖イシドロ農夫         St. Isidorus C.                   記念日 5月 11日

 天主は社会のあらゆる階級、あらゆる方面の人々に、それぞれ模範となり保護者となるようなさまざまの聖人を起こし給うが、本日祝う聖イシドロは生前農業を生業としていた所から全世界農民の保護者と仰がれている聖人であって、4月4日のくだりに述べたあのイシドロとはもとより別人である。即ちこの二人は奇しくも同国のスペイン人ではあるが、彼は司教であり教会博士であり、これよりおよそ600年も前に世に出た人なのである。

 農夫の聖イシドロは1070年スペインの首都マドリッドに生まれた。家は貧しく通学の余裕がなかった彼は、読み書きの術こそ知らなかったが、救霊に必要な真理に就いては、或いは祈りの中に直接天主より教わり、或いは説教を聴聞して会得する所があり、博士方にもおさおさ劣らぬほどの知識をそなえていた。

 彼は父母の負担を少しでも軽からしめる為に、少年の頃からマドリッド付近の、ヨハネ・ダ・ヴェルゴスという人の農場に雇われる身となったが「祈り、かつ働け!」というトラピストの標語の如く、労働時間には懸命に働いたけれど、また毎朝ミサ聖祭にあずかって祈りを献げる事も決して怠らなかった。それ位であるから日曜日はどんな事があっても、天主の為の聖日として労働を休んだ。所が仲間達は彼のあまりに真面目なのが気にくわぬのか、イシドロは信心に凝って、兎に角小作仕事をおろそかにしますと主人と告げたから、主人に告げたから、主人も彼に対して「お前のような怠け者はない!」とか「朝そう畑に出るのが遅くては、定めし仕事も渉がゆくだろう」などと、小言や皮肉を浴びせかけることが珍しくなかった。
 するとある時イシドロが「それでは私の耕した畑と、他の人の畑と、どちらが余計作物がとれますかお比べ下さいまし」と願うので、試しに調べてみると、驚いたことには、主日も休み、朝晩も長く祈祷するイシドロの耕地の方が、働きづめに働いている他の人たちのそれよりも、ずっと収穫の多いことが解った。これは天主の御祝福が敬虔なイシドロの上に豊かであった為であろうが、そうした事実から彼が働く時には天使が手伝いに来るとか、彼が祈っている間には天使が代わって仕事をしてくれるとかいう噂まで生まれるに至った。
 されば最初イシドロの信心深いことを好まなかった主人も、後にはかえって之を喜ぶようになり、同様篤信のマリア・デ・ラ・カベザという女を彼に娶せてやったが、二人は極めて仲睦まじく、やがて生まれた一子が早く死ぬと、それからは兄妹の如く清い愛の生活を送ったと伝えられている。

 彼は一生貧しく質素に世を過ごしたけれど、困っている人を助けたり、旅人を宿しいたわったりする慈善の業を何よりも好んでいた。そしてその慈しみは禽獣にまで及び、冬の最中に餌の乏しいのを憂えて、小鳥に麦粒を蒔いてやったなどの話もある。
 マドリッド市郊外にあった彼の畑は、山の斜面に位する痩せ地で、唯でさえ耕作に骨が折れるのに、夏の真昼の太陽がじりじり照りつける時などは、全く耐え難い苦しみであったが、彼はそれを罪の償いに献げ、克己忍耐の徳を積むよすがとした。そして人目に立たぬ農の業を天主に仕え奉る無上の務めと満足し、種まく時には主の種まきのたとえを、小鳥のさえずりを聞いては空の鳥のたとえを思い起こして、その中に含まれる真理を黙想し、大空を仰いでは天国の光栄を思うという風に、平和な日々を送り迎えて60歳に至り、遂に主の思し召しにより1130年の5月15日にこの世を去ったが、その死に顔は得も言われぬ神々しい光に満ち見る人をして思わずも「ああこの人は聖人であった!」と叫ばしめたほどであったという。
 その後彼の取り次ぎによる奇跡が数多起こった中でも、スペイン国王フィリポ三世は彼の代願によって大病が快癒したのを徳として、彼をスペイン王室の保護者と尊び、その列聖を願っていたが、果たして1622年グレゴリオ15世教皇の御世に、イグナチオ、テレジア、フランシスコ・ザベリオ及びフィリポ・ネリ達と共に聖位を送られる光栄をになうに至ったのである。



教訓

 聖イシドロは別に驚天動地の偉大な事跡を残した訳ではない。ただ「祈り、かつ働け」という言葉の権化のきょうに天上の事を忘れずに祈り、地上における務めとして働き、一見平凡とも思われる生涯を送ったばかりであった。しかしそれでもその終始変わらぬ真心は天主のよみし給う所となってよく聖人の位をかちえた。されば我等も彼に倣い、祈りつつ忠実に我が務めを果たそう。そうすればそれが精神的、或いは肉体的、いずれの仕事であろうとも、均しく天国の永福を受け得ることは更に疑いないのである。




フィレンツェの聖アントニノ大司教      St. Antoninus Archiep.

2025-05-10 05:46:17 | 聖人伝
フィレンツェの聖アントニノ大司教      St. Antoninus Archiep.      記念日 5月 10日


 イタリアのフィレンツェは古来数多の名高い美術家、政治家、文学者等を生んだ由緒ある土地として知られているが、そればかりでなく、同市を揺籃とした聖人も少なくない。本日記念する聖アントニノもその一人である。

 彼がフィレンツェ市のビエロッチ家に生まれたのは1389年のことであった。受洗の際にはあの有名なパドヴァの聖人にちなんでアントニオと命名された。然るに彼は生来背丈が低かったので、人々はこれを「アントニノ」即ち「小さいアントニオ」と呼んだ。しかし体こそ小さけれ。智慧や意志などの精神力は至って強く、彼は学問や善徳の方面にかけては、早くから著しい進歩を示したのである。

 15歳の時、ドミニコ会の名ある説教家ドミニチ師の説教を聞いた彼は、一方ならず感激して修道者となる決心を起こし、早速同師に入会を申し込んだが、師はなかなかこれを許さず「グラチアノ教令集を暗唱してから・・・」と言って彼をひとまず家へ帰した。グラチアノ教令集と言えば、極めて大部な書物でもあり、内容も至難なもの故、少年には記憶に努める勇気がなかろうとドミニチ師は考えたのであるが、それから一年ばかりたつと、アントニノはフィエソリにあるドミニコ修道院に師を訪ね「仰せの通り勉強して来ましたから、試験して下さい」と申し出た。で、いろいろ問答して見ると、教令集を全部そらんじているばかりでなく、他の質問にも目から鼻に抜けるような返答をするので、ドミニチ師はその根気と頭のよいのに感心して、彼の入会を快く許可した。

 修道者になってからのアントニノはその聖徳においては一院の模範と仰がれ、間もなくローマにあるミネルヴァ大修院の院長に推され、その学識においては教皇に認められてローマ控訴院の参事会員に任ぜられたが、やがて故郷フィレンツェに公会議が開かれるや、神学顧問としてこれに列席した。かような人物であったから、フィレンツェの大司教逝去の跡を受けて、教皇オイジェニオ4世からその重職に補せられたのもあえて不思議ではないのである。

 その時アントニノは丁度シシリー島の修道院を視察に行っていたが、自分が大司教に推挙されるという噂を聞くと、その重責を逃れたさに、サルディーニャ島に身を隠そうとした。しかしそこへ教皇の命令が既に至ったので、彼も従順に就任を受諾したが、このエピソードに依っても、いかに彼が謙遜な心の所有者であったか想像されよう。

 アントニノは大司教になってからも、決して豪奢な生活をしなかった。彼は「使徒の後継者は善徳の他何の財産をも持つべきではない」と言って、その職に伴う収入をわが物とは考えず、教会の維持費並びに貧民の救済費にあて、自分は依然一介の修道者として、貧しい苦行の生活に甘んじていた。そして誠実な人々に対しては春日のような慈愛の光を示したが、悪に溺れつつ恬として恥じぬ者共には秋霜のような峻厳さを以て臨み、当時フィレンツェに賭博が流行し、その為財を失い家を傾け、乞食に落ちぶれる者さえ少なからぬを見ては、その悪習の根絶にあらゆる努力を惜しまなかった。

 アントニノはまた大司教として多忙の身であるにも拘わらず毎日説教することを欠かさず、教えを請いに来る者があれば喜んで之を指導し、祈りや黙想にも多くの時間を割いた。さればフィレンツェ共和国の大統領コスマス・メディチが「フィレンツェの繁栄は何よりもまずアントニノ大司教の熱心な祈りに負う所が多い」と言ったのも蓋し至当の言葉であろう。

 彼の博大な慈愛の心が一般に知れ渡ったのは、1448年フィレンツェにペストが発生した時と、1453年大地震の災禍が起こった時であったろう。その時彼は自分が大司教として受ける収入位では追いつかぬ所から数多の富豪名士達を説いて寄付金を募り、以て病者罹災民の救済に遺憾なからしめた。故に人民はいずれもアントニノを徳として、大統領にも増して彼を尊敬愛慕したという。

 なお彼には幾多の著書があり、彼の才能と活動のいかに多方面であったかを思わせずにおかない。
 かくて大司教の激務に尽瘁すること12年、アントニノはようよう年老い身衰えて1459年の5月2日眠るが如く大往生を遂げた。しかしその祝日は聖会により本日に定められている。

教訓

 聖アントニノはドミニチ師の説教を聞いてドミニコ会入会の志を起こした時、果たしてそれが主の御旨に添う所以か、随分厳しい試みを受けた。事実修道者なるには天主の特別な召し出しが絶対的に必要である。これ無くして修道院に入れば立派な修士となる事が出来ぬばかりでなく、却って本人の不幸となるであろう。されば一身を天主に献げようと思う者はよくよく心して主の思し召し所を、自分でも探り、司祭にも試して貰わねばならぬのである。



聖パコミオ修道院長

2025-05-09 09:38:25 | 聖人伝
聖パコミオ修道院長                                       記念日 5月 9日



 310年頃、パコミオという若者が自分の望みに反してテーベの軍隊に入れられた。軍隊がテーベに到着した時。係りの士官たちは、若者達の不満の感情を知って彼等を監禁し、囚人としてナイル川を下って連れて行った。その時、あわれな囚人の状態を見て、あるキリスト信者たちが食物を与えた。

 パコミオは、この親切な行為に感激してキリスト信者たちの信仰について尋ね、後で軍隊から解放された時、洗礼を受けて信者となった。そして、砂漠の師父パレモンの弟子となった。パレモンは復活祭の日でも食物の中に酒や油を決して入れず、キリストの苦しみの意義の理解を失わないようにした。彼はパコミオに命じて、はだしで茨を拾わせたが、パコミオはキリストの足につき刺さった釘を思い出して耐え忍んだ。
 最後にパコミオはナイル川の岸のタベニシに修道院を創立して、パレモンがそれを助けた。パコミオの特別な仕事は、修道士と修道女たちを集めて聖なる規則のもとに生活させることであって、ナイル川の向こう岸に6つの男子修道院と、1つの女子修道院を建てた。彼が帰天する前には、1000人の修道士が集まっていた。彼等は聖書を暗記し、仕事をし、祈りのために集まっていた。346年頃パコミオは亡くなった。


少しばかり謙遜な心を保ちながら千人の群衆の中にいる方が、
傲慢な心でハイエナの洞窟に住むよりは、
あなたにとって、はるかに善いことである。

聖パコミオ


タレンテスの聖ペトロ司教 

2025-05-08 00:00:05 | 聖人伝
タレンテスの聖ペトロ司教                              記念日 5月 8日



 タレンテスのペトロほど成功した司教は他にないであろうが、また彼ほど司教職につくことをいやがった者もないだろう。

 ペトロの唯一の望みはシトー会の修道者になることであった。20歳の時にシトー会の修道院に入ったが、自分の両親と兄弟、姉妹にも修道院に入るように勧めた。そして30歳になる前にタレンテスの丘の新しい修道院の院長となった。ここで、ペトロはサヴォイの領主アマデオと共に病院を建て、それは山を越えて来る旅人のための宿舎ともなった。この病院で召し使いたちといっしょに人々の世話をすることを、ペトロは非常に好んだが、1142年にタレンテスの大司教に選挙された。シトー会はペトロの望むことは何でも受け入れることに決めた。

 ペトロの先任者は非常に無能力でしまりのない人だったので、退任させられたのであった。司教区は全く乱れていたので、ペトロはしぶしぶその刷新を始めて、自分の個人的感情に妨げられないように努力した。しかし、13年間大司教として任務を果たした後、逃げ出して、スイスのシトー会修道院にひそかに隠れた。

 しかし、1年たたないうちに発見されて、再び司教区に連れ戻された。そこでアルプスの山路を旅する人々のための宿舎を作ったり、収穫の少ない農夫たちにパンやスープを与えたりして奉仕した。

 また当時の対立教皇のことについても、ペトロは真の教皇アレクサンデル3世を支持し、偽教皇ヴィクトルがフレデリック・バルバロッサによって支えられている時でも、断固として信念を貫いた。なお1174年に、ペトロは教皇の要請で、イギリスとフランスの王を和解させようとしたが、それは成功しなかった。自分の教区に帰る途中病気になりフランスの東部ブザンソンの近くで亡くなった。1191年に列聖された。