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カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ヨハネ、聖パウロ兄弟殉教者  Sts. Joannes et Paulus MM.

2025-06-26 00:00:05 | 聖人伝
聖ヨハネ、聖パウロ兄弟殉教者  Sts. Joannes et Paulus MM.     記念日 6月 26日


 350年ローマ皇帝の位に即いたユリアノは、自ら天主の信仰をなげうったばかりでなく、不埒にも聖教の根絶、偶像教の再興を企て、新たに聖会に対し猛烈な迫害を始めた。かくて諸々方々の聖堂は焼き払われ、幾多殉教者の聖血は流されたが、中にも宮廷の高官にして金剛不壊の信仰を現し、遂に致命の栄冠を得た二人の兄弟があった。それはここに説かんとするコンスタンチノ大帝の皇女コンスタンチアに仕えていたヨハネ侍従長とパウロ侍従とである。

 背教者ユリアノ皇帝は高位の宮臣中に彼等如き熱心な信者があるのを見て、忌々しさに耐えず「キリスト教を棄てて祖先伝来の国教に帰れ、さもなければ死刑に処す」と厳しく申し渡った。しかしもちろんかような威嚇に後込みするような兄弟ではない、彼等は言下に口を揃えて「たとえ私共の生命財産を召し上げられるとも。聖い天主の御教えを棄てる訳には参りません」と勇ましく答えたから、皇帝は真っ赤になって憤り、とうとう二人を死刑に処すこととしたが、ただ彼等は常々国民の間に人望厚く、その敬愛を一身に集めているので、これを一般信者並に刑場に引き行き殺害する時は、人心を激発する懼れがある所から、兄弟の別荘内で窃かに斬り殺すことを命じたのである。

 かくてヨハネ、パウロの聖なる兄弟は362年6月26日迫害の嵐に花と散った。その栄えある遺骸はやがてクリスポ、クリスピニアノ、及びベネディクタという三信者の手によってねんごろに葬られ、またその聖い鮮血に彩られた別荘の上には後に聖堂が彼等の記念に建築された。1887年御受難会の修道者達数人が、今に伝わる聖ヨハネ聖パウロの聖堂の下を発掘したところ、両聖人の邸が全く昔のままの有様で現れ、その壁に描かれた十字架や羊等のキリスト教的記号や、両手を挙げて祈る男の絵などを見るにつけても、そぞろに千数百年前生きていた彼等兄弟の篤信振りが偲ばれて床しかったという。

教訓

 聖ヨハネ聖パウロ兄弟は衆にすぐれた名誉、地位、財産を有していたのに、少しもそれに執着する色なく、信仰の為には喜んでこれを投げ出し、従容として死に赴いた。これは「人全世界をもうけても、もしその(霊的)生命を失わば何の益かあらん。人何物を以てかその魂にかえん」(マテオ 16・26)という主の聖言を裏書きする天晴れな態度である。我等も信仰を貫く妨げとなる物は潔くこれをなげうつよう心がけよう。イエズスも「汝の右の目汝を躓かさばこれをえぐり棄てよ、そは汝にとりて五体の一つの亡ぶるは、全身の地獄に行くに優ればなり」(マテオ 5・29-30)と諭し給うたではないか。




レッジョの聖プロスペロ司教 

2025-06-25 13:43:35 | 聖人伝

レッジョの聖プロスペロ司教      記念日 6月25日

 イタリアのレッジョ・ネル・エミリア市を訪れる人々は、その市の最も有名な聖人のプロスペロ司教が大きなカテドラルで記念されておらず、市場の広場に建てられた小さな教会でひそかに記念されているのを見て驚くであろう。しかし、こういうことは、謙遜な聖プロスペロを悩ませることはない、彼は466年に亡くなったが、自分の栄誉に関しては何もかまわない人だったので、レッジョ市の城壁の外に教会を建て、自分の遺骸は、そこに埋めるように指図した。しかしレッジョ市民達はプロスペロを守護の聖人として現在の場所に移した。プロスペロは22年間司教として信者達を治め、神の中における彼等の父として、深く尊敬されたのであった。

 金持ちの青年がイエズスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた時、イエズスは「持ち物をみな売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と答えられた。イエズスの真の弟子であったプロスペロは、この命令を文字通りにとって、自分の全財産を施したのであった。



洗礼者聖ヨハネの誕生  St. Joannes Baptista C.

2025-06-24 00:00:05 | 聖人伝

洗礼者聖ヨハネの誕生  St. Joannes Baptista C.     大祝日 6月 24日


 聖書によれば主イエズス・キリストは「我誠に汝等に告ぐ、女より生まれたる者の中に、洗者ヨハネより大いなる者はあらず」(マテオ11・11)と仰せられたとある。およそ聖人は多しといえども、天主の御口ずからかかる讃辞をかたじけのうした果報者は彼ヨハネの外あるまい。そして又実際彼は比類なく偉大であった。何となれば彼は主の公生活に就いてつとに民衆に語った故に預言者であり、己が言行を以て数多の人々を改心せしめたが故に使徒でもあり、正義の為に邪悪を咎めて殺害された故に殉教者でもあったからである。のみならず彼はイエズスの親戚にも当たっていた。

 洗者ヨハネの生涯は聖福音書に記されている。それによれば彼の父ザカリア及び母エリザベトは日頃天主を畏れる義人であったが、夫婦の間に子宝のないのを悲しみ、多年その為願掛けをしていた。ところが二人とも老境に入って、もう子の出来る見込みもないと思われる頃に至り、エリザベトは懐胎した。誠に聖書にもある如く「ああ高大なるかな、天主の御智慧!その判定の覚り難さよ、その道の極め難さよ」と言わねばならぬ。
 その次第を述べれば次の如くである。ザカリアはユダヤ教の司祭であったから、慣例によりくじを引いてある日神殿に入り香を焚く役目を務めた。信者等は集まって皆外で祈っている。所がザカリアがふと香台の右を見ると、そこに天使が立っていたから彼は思わず怖じ恐れた。するとその天使が言うには「何も恐れずには及ばぬ。汝の祈りは聴き容れられた。妻エリザベトは一子を産み落とすであろう。汝はこれをヨハネと名づけるがよい。その子は汝を始め数多の人々の喜びになるであろう。彼は主の御前に偉大で、ぶどう酒その他酔う物を飲まず、胎内にある時から既に聖霊に満たされるであろう。又成長の暁には多くのイスラエル人等を天主の御許に帰らしめ、預言者エリアの如き精神と能力とを有し、主の先駆者となるであろう。これは主の為に人民を備え、先祖の心を子孫に立ち帰らせ、不信者を義人の智識に立ち帰らせる為である」との事であった。それに対しザカリアが己も妻も年老いた所から、子の出生を疑うような口吻を漏らすと、天使は更に語を継いで「我はこれらの福音を汝に告げん為にわざわざ天主から遣わされたガブリエルであるが、汝はわが言葉を信じなかった故に、罰としてその子の生まれるまで口がきけなくなるであろう」と言った。信者達はザカリアの長い間神殿に留まっているのを怪しんでいたが、出てきた彼の口が利けなくなったのを知ると、何か神殿内で異常なことがあったのを察した。ザカリアが務めを果たして家に帰ると果たして妻エリザベトは間もなく懐妊したのであった。
 ザカリア夫婦の喜びはいうまでもないが、ナザレトに住む聖き乙女マリアも同じ思いであった。というのはある日大天使聖ガブリエルが彼女に顕れて、その救い主の御母となる事を告げると共に、彼女に年老いた親戚エリザベトの懐胎を知らせ、天主の全能の証拠としたからである。愛深いマリアはそう聞くと黙過する事が出来ず、さっそくよろこびかたがた手伝いにエリザベトの許に赴かれ、それまで口のきけなかったザカリアの口が開け舌が解けて物言い始めるのをご覧になった。


 さてエリザベトの子は天使のお告げの如くヨハネと名づけられたが、両親の気質を受け継いで極めて敬虔に生い立った。彼は預言された如くヨルダン河畔の荒れ野に行き、己が使命の準備として驚くべき難行苦行の生活を送った。その使命とは外でもない、人々に救世主の来臨を知らせ、その用意をさせる事である。彼は身にらくだの毛衣をまとい、腰に革帯を締め、いなごと野蜜とを常食としていた。
 その内に天主に定められた時が来ると、彼は公に教えをのべ始めたちまちの間に世に知れ渡った。彼が熱烈火の如き言葉を以て人々に改心を勧め、悔悛の印としてヨルダン川で洗礼を授けたのは、29歳か30歳の頃であったろう。それはティベリオ皇帝在位の15年でポンシオ・ピラトがユダヤの総督であり、アンナとカイファが司祭長を勤めていた時分であった。そしてヨハネのこの行為は預言者イザヤの「荒れ野に呼ばわる者の声ありていわく、汝等主の道を備え、その小道を直くせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山丘はならされ、曲がれるは直くされ、嶮しき所は平らなる路となり、人皆天主の救いを見ん」という言葉に適うものであった。
 彼の説教は実に偉大な感化力を持っていた。その為改心して償いを為した者がどれほどあったか解らない。実際大抵の人々は彼を待望の救い主と思い込んだ位であった。しかしそれに対して彼は「自分はただ一介の先駆者で、わが後に来たり給う方こそ真の救い主である。自分はその方の履き物の紐を解くにも足りない」といって極力その誤解を正すに努めた。



 やがて彼にとって身に余る面目の日、神人イエズスがその宣教に先立ち、衆人の模範として彼から洗礼を受けられる日は来た。その時ヨハネは遠くから近づき給う主の御姿を一瞥したばかりで、早くも周囲の人々に「見よ天主の子羊を!見よ世の罪を除き給う者を!」と告げ知らせた。そして主がいよいよ傍らに来て洗礼を望み給うや、ヨハネは恐懼措く能わず「私こそあなたの洗礼を受けねばならぬ身でございますのに」と申し上げたが、イエズスが「それでも我等が正しき事をことごとく果たすのは当然故に・・・」とたって御所望になるので、彼も感激にわななきつつ洗礼をお授けすると、急に天開け聖霊鳩の如く主の上に降り、同時に天から声して「これこそわが心を安んずるわが愛子である」と響き渡ったのである。
 その喜びの日から幾程もなく、ヨハネの受難の日が巡って来た。当時ガリラヤ分国の王であったヘロデは、己が兄弟フィリポの妻ヘロデアデを娶る不義をあえてしたので、ヨハネが面を冒して諫言した所、王は烈火の如く憤って彼を牢獄につなぎ、折を見てこれを殺そうとしたが、ただその結果彼を預言者と崇め尊んでいる人民達が自分から離反せぬかを恐れて、逡巡していた。
 所がヘロデ王の誕生日の事である。ヘロデアデの連れ子でサロメという娘が席上で踊り、いたく王の気にいったから、彼が「何でも欲しい物を取らせよう」と言うと、サロメは母に言い含められて「それではあの洗者ヨハネの首が戴きとうございます」ととんでもない難題を持ち出した。王はこれを聴くや憂いに面を曇らせたが、列席する人々の手前約束を破るもいかにと、遂に人を遣わして監獄内でヨハネの首を刎ねさせこれを盆に載せてサロメに与えたのであった。
 さればヨハネは一種の殉教者というべく、従ってその死は天主の御前に聖いものであり、今に至るまで彼が世の尊敬をあつめているのも偶然ではないのである。彼にちなんでヨハネの霊名を受けた人々は、古来おそらく数百万を下らぬであろう。そしてその中にマタの聖ヨハネやネポムクの聖ヨハネなどのような聖人も少なくない。また洗者聖ヨハネを保護の聖人と仰ぐ教会は世界の至る所にあり、彼の名を頂く修道会も二、三見いだされる。聖地エルサレムへの巡礼の保護や、病者の看護(殊に戦時における)を使命とするヨハネ修道会の如きもその一例である。


教訓

 洗者聖ヨハネは、恐れず信仰を表し正義を守る者の為に、この上もなく立派な鑑といえよう。何となれば彼は行く先々でイエズスを救い主と宣言して人々をその御許に導こうと努め、また悪を認めては王者といえども容赦なくこれを糾弾したからである。






聖エテルドレダ修道女  St. Etheldreda   

2025-06-23 12:56:16 | 聖人伝

聖エテルドレダ修道女  St. Etheldreda                     記念日 6月23日


 イギリスの有名な聖女のエテルドレダ(聖オードレイとも呼ばれる)は2度結婚した。最初に結婚した夫は5年後に死亡した。2度目に結婚した時、彼女は夫に勧めて兄と妹のような関係を保ったが、12年目に二人は別れることになった。その時、エテルドレダは一生の望みを叶えることが可能になったのであった。二つの結婚の中間時代にも、彼女はエリー島で5年間孤独の生活をしたが、672年に女子修道院と男子修道院を創立して、院長としてこの修道院二つを治めた。

 エテルドレダは、イースト・アングリアのアンナ王の王女として生まれたが、修道女となってからは良質の衣服は着用せず、ただ手織りの物だけを着た。復活祭、聖霊降臨、御公現の大祝日以外は毎日冷水で洗い、病気の時、または教会の大きな祝日を除いては1日にただ1度だけ食事をした。彼女が二つの修道院を創立後7年目に疫病で亡くなったのは679年であった。

 エテルドレダが亡くなった時、彼女の頸にひとつの腫瘍があった。それを彼女は、自分の虚栄心から、ある時、高価なネックレスを首にかけたために神が天罰として私に示したものだと言っていた。16年後に彼女の棺を開いた時、その腫瘍はすっかり治っていた。それで、エテルドレダは、のどや頸の病気で苦しむ人々の守護の聖女として崇められるようになった。

 


ノラの聖パウリノ司教   St. Paulinus a Nola E. 

2025-06-22 00:05:34 | 聖人伝
ノラの聖パウリノ司教   St. Paulinus a Nola E.        記念日 6月 22日
 
 
 313年かのコンスタンチノ大帝が自らもキリスト教に帰依すると共に、有名なミラノの勅令を以て聖教信仰の自由を与えてからは、国民も先を争って受洗し、聖会は一時に隆盛に赴いた。しかしそれは量的に見ての話で、質的には遺憾な点のある信者も少なくなかった。というのは、真に心の要求から出たのではなく、ただ流行を追うような浅薄極まる気持ちで、十分教理も研究せず入信した人々も多数あったからである。殊にその弊は上流の人士に甚だしく、今語らんとする聖ポンチオ・メロピオ・パウリノの両親もそうした仲間であった。即ち身元老院議員にして貴族なる父も母も、名こそ信者ながらその日常には異教徒にも劣りかねぬひんしゅくすべき生活ぶりが見いだされたのである。
 
 聖パウリノは353年フランスのボルドーに生まれた。何しろ両親が今も言ったような宗教に冷淡な人々なので、その子たる彼が彼等からキリスト教的な良い感化を受ける事などは到底望まれぬ。第一彼は洗礼すら授からなかった。そして唯もう世間的栄達を目的として、当時大学者にして大詩人の噂が高かったアウソニオに師事し、一心に勉強したが、生来その方の才能に恵まれていたものか学業の成績は抜群で、僅か25歳の若さで早くもガリア(今のフランス)の執政官に任ぜられる光栄をになった。
 それから莫大な資産を有する彼は、風光明媚なイタリアのカンパーニャに行って住み、同じく資産家の、信仰も厚いテラシアというスペインの貴婦人と結婚した。その内に彼は今度こそ天主の聖寵に依って霊に目覚める期に遭遇したのである。
 まず彼は信心深い妻の感化によって熱心に準備し、それまで受けずにいた洗礼を故郷ボルドーの司教デルフィノから授かった。その時彼はまた当時の偉大な聖人、ツールの司教マルチノにも逢い、その祈りによって眼の病がたちまち癒える恵みをも得た。
 その後パウリノは熱心に信仰を守り、洗礼の約束通り「悪魔とその総ての所行、その総ての栄華を捨て」ようと努めた。すなわち親戚一同の驚愕と反対とに拘わらず、進んで執政官の栄職を投げ出し、スペインのバルセロナに行き、財産の大部分を慈善事業に寄付し、愛する妻子と質素な生活に入り、名利の奴隷たる世人に恬淡の良き模範を示した。この彼の大変化を聞いた恩師アウソニオは大いに愕き、幾度となく書簡を以て言葉を以て、再び世間に起って華々しく活動せん事を勧めてきたがパウリノはその好意には感謝しつつも、悪魔の罠の多い世の顕職に就く気は毛頭なく、殊に大事のひとり子をまだ幼い内に失ってからは、妻とも相談の上互いに兄弟の如く交わり、貞潔の生活を送ることとした。
 かくてかつての大富豪は清貧に生き、享楽の代わりに慈善の業を行い、頻繁な祈りに依って天主との一致を求めた。さればバルセロナの信者達はいずれもパウリノの徳に感ぜぬはなく、しきりに司祭たらんことを勧めたから、彼もその懇望に動かされ、遂に393年キリスト御降誕の大祝日に叙階の秘蹟を受けるに至った。
 聖職者となってもパウリノの修道心は緩まなかった。彼は更に修養を心がけて信者達の引き留める袖を振りきり、バルセロナからイタリアのノラ市に赴き、自分の特別に尊敬する聖殉教者フェリクスの墓畔に住み、独り世を離れて祈りと苦行とにいそしんだ。何故彼がこの聖人をそれほど崇めたかと言えば、かつて彼が恐ろしい兄弟殺しの嫌疑をかけられた時、フェリクスの代祷を願った所、幸いにその無実が明らかとなったことがあったからである。
 パウリノの感ずべき日常がいつか人々に知れ渡ると共に、道に志す者は次第に彼の徳を慕って馳せ集まり、その指導を仰ぎつつ共同生活を行うようになった。そればかりではない、409年ノラ市の司教が逝去されるや、信徒一同は衷心からパウリノにその後任たらん事を求めた。彼はそこに逃れるべからざる天主の聖旨を認め、遂に就任を受諾した。彼の謙遜、彼の叡智、彼の博愛は、司教座という高き燭台に上せられてから、更に光輝燦然と世を照らすようになったのである。彼はあらゆる人々から敬愛せられ、当時在世の聖アンブロジオ、聖アウグスチノ、聖ヒエロニモ等そうそうたる教父達も、彼と文通することを大いなる誇りとした位であった。
 その頃欧州には例の民族移動が起こり、ノラ市にも始めにゴート族、後にワンダル族が侵入し、掠奪をほしいままにした。その際パウリノ司教は、彼等の毒手に罹って、窮乏に苦しむ者や、奴隷にされた哀れな者を救う為に、どれほど力を尽くしたか解らない。ある伝説によれば一人の奴隷を贖う金が不足であった時、彼は自ら身代わりとなってその人を自由にしてやろうとまでしたという。全くノラ市が蛮族来寇の禍から逃れ得たのは、一にこの聖司教の努力によったと言っても過言ではない。
 さてパウリノはノラ司教たる事二十余年、よくその任を果たし、431年6月22日聖徳の報いを得て永遠の歓喜に入った。そしてその芳名は今も聖人の名簿に燦として輝いているのである。
 
教訓
 
 ノラのパウリノが聖人になったに就いては、まずその信心深い妻テラシアの影響があずかって大いに力があったといえよう。何故なら彼が始めて霊界に目を注ぐように至ったのは貞淑な彼女の感ずべき模範と勧告に端を発したからである。実にかような配偶者は天主の大いなる賜物に他ならない。されば結婚を望む者はかくの如く信仰の厚い配偶者を与えられるように祈り、既に結婚した人々は互いに相手に善き感化を与えつつ、共に相頼り相太助て天国への道を歩むよう努めるべきである。