カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ヨサファト司教殉教者    St. Josaphat E. M.

2018-11-12 00:27:22 | 聖人伝
聖ヨサファト司教殉教者    St. Josaphat E. M.        記念日 11月12日


 コンスタンチノープル総主教区に属するキリスト教会は不幸にも10世紀の頃ローマ教会を離れたので、爾来教皇庁は常にその帰正に努めてきたが、、その運動は16世紀南東ロシアやポーランドに於いて盛んであって、1594年離教側のキエフ大司教を始め7司教がブシエシチに会議を開き、その司教区に於ける公教会との一致を宣言した。それで多くのカトリック司祭、わけてもバジリオ修道会の司祭たちはその帰正運動に携わったが、聖ヨサファトはその先駆者というべき人である。 
 ヨサファトは1580年ヴォチミエシュ市でルテノの貴族ロザ家に生まれ、カトリックの教育を受けた。まだ幼い時信心深い母から主キリストの御受難の話を聞き、涙を流して感動し、早くも主を熱愛する心を起こしたという。
 長ずるに及んで、父母は彼を商人とするつもりであったが、彼自身はそういう物質的欲望よりも、精神的欲求を感ずることが強く、当時ようやく国内に起こり始めたローマ公教会への合同帰正運動に深く心を寄せ、ついにしかけた商売を抛ち、譲られるはずの財産も受けずしてバジリオ会に入会した。
 かくて修士となったヨサファトは会則を厳守し、しばしば大斉し肉食飲酒を断ち、寒地であるにも拘わらず冬も裸足で歩き、徹底的な克己禁欲を実行した。のみならず学問にも力を注ぎ、東ローマの教父達の著書を研究し、以て離教の不当を指摘するに足る力を養い、間もなくかかる護教書の著作に着手した。
 1609年、司祭に叙階されたヨサファトは、まだ若年の身ながら、ビデン修道院の院長に選ばれ、後推されてウィルノ修道院の院長となり、ついに1618年ポロツクの大司教の栄職に挙げられたが、その間常に合同運動に努力したから、離教者達は彼を味方に抱き込もうと種々策動したけれど、勿論その手に乗るようなヨサファトではなかった。されば彼等は深く彼を怨み、折りあらば之を陥れようとしたが、何しろ公私両生活に亘り一点のきずなく、部下の信望も厚いこととて、乗ずべき隙は更にない、そこで彼等はあらゆる誹謗讒言を試みてその名を傷つけ、人心を離反させて騒動を起こさしめ、あわよくば彼の生命を奪おうと企てた。
 所が1620年、ちょうどヨサファトが大司教になって2年ばかり経った時のことである。彼が教勢視察の為ウィテブスク市に滞在中、教敵に煽動された離教派市民は手に手に凶器を閃かして司祭館に乱入した。ヨサファトの下僕等は大司教危うしと必死になって之を遮り止めようとしたが、多勢に無勢の悲しさに、或いは傷つき或いは殺され、如何ともする事が出来なかった。
 ヨサファトはその時恰も聖堂での祈祷を終わり、司祭館まで帰って来たが、下僕等の被害を見ると大いに驚き、身の危険も忘れてその場へ立ち出で、「兄弟達よ、貴方がたはどうして何の罪もない私の下僕達に危害を加えたのです?私に不満があるならば、私を相手にして下さい。別に逃げも隠れもしませんから」と大声で叫んだ。暴漢達はこの彼の神々しい怒りに一時はひるんで見えたが、やがて気を取り直し、ヨサファト目がけて飛びかかり、棒で打倒し、斧や棍棒で滅多打ちにする者もあれば槍で突き刺す者もあり、果ては鉄砲の一打ちにとうとう大司教の生命を奪ったのである。それはヨサファトが気息奄々たる中にも手を挙げて十字架の印をなし、敵の為にその罪の赦免を願う祈祷を誦えようとする間際であった。
 暴漢共は唯大司教を殺しただけでは飽きたらず、その遺骸を辱しむべくドヴィナ河に投げ込んだのを、ある漁師が見つけて更に石をつけ、水の深みに沈めたが、後信者が手に入れ恭しくポロツク大聖堂に安置した。
 離教徒帰正運動の犠牲者ヨサファト大司教が、ピオ9世教皇により聖者の尊号を贈られたのは、1867年のことであった。

教訓

 「我が祈るは、彼等の為のみならず又彼等の言葉によりて我を信ずる人々の為にして、彼等が悉く一ならん為なり」主イエズス・キリストはこの聖言にも窺われる如く、信者の一致を衷心からお望みになった。不幸にして傲慢の心から、この主の御望みに背き、信者の中にも或いは異端邪説を唱え、或いは離教し、聖会に損害を与えた者が少なくないが、慈母たる聖会は常にこれらの不孝なる子供達の帰正を念とし、この頃では毎年1月18日から1月25日まで1週間を、その為に献げて祈るという新しい信心も行っている位である。されば我等も聖会と心をあわせ、キリスト信者の一致を希い、その為に祈り、且つ運動せねばならぬ。


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ツールの聖マルチノ司教   St. Martinus de Tours E

2018-11-11 00:42:14 | 聖人伝
ツールの聖マルチノ司教   St. Martinus de Tours E.         記念日 11月11日


 ハンガリーの首都ブダペストの付近聖マルチノ山に立つ修道院は、同国カトリック教の中心ともいうべく、既に創立以来千年の歳月を閲した由緒ある名刹であるが、同国の名は317年その麓なるサバリア市に生まれた聖人にちなんだものに外ならない。
 聖マルチノの父はローマ軍隊の大佐で、北イタリアのパヴィアからハンガリーに転任して、サバリアに勤務する事となったから、息子をローマに出して勉強させた。マルチノはその時始めて教会を訪れ、聖教を知り、大いに感心して早速受洗志願者となったのみならず、エジプトの隠遁者達に憧れて修道生活を望む念が甚だ強かった。しかしまだ洗礼を受けぬ中に父の意志により僅か15歳で軍隊に入り今のフランス地方に駐屯せねばならなくなったのである。
 ローマ軍には聖会の初代からキリスト信者が居り、栄えある殉教者さえ出した位であるから、マルチノはそれらの人々を鑑と仰ぎ、勤務の傍らカトリックの研究を続けた。
 その頃の事である、ある寒い冬の日彼が馬に跨り、アミアン市の郊外に行くと、何処からともなく一人の見窄らしい乞食が現れて憐れみを請うた。もとより情深いマルチノのことであるから、どうして之を見逃そう、早速何か施そうとしたが、生憎金品の持ち合わせがない。で、彼はとっさに思いつき腰の軍刀を抜き放つや否や、自分の着ているマントを真二つに切り、その半分を乞食に与えた。所がその晩見た夢に、そのマントを着け給うたキリストがお現れになり、傍らの天使を顧みて仰せられるには「これはまだ受洗志願者のマルチノが余にくれたものである」とのお言葉であったので、マルチノもさてはあの乞食こそ聖主であったのかと今更のように驚いたという。これはこの聖人の特に名高い逸話である。
 それから間もなく彼は憧れの洗礼を受けると共に軍隊を辞し、ボアチェの司教聖ヒラリオの許を訪ねて下級聖品を授かった。時あたかもマルチノは20歳の血気盛り、わが両親の未信者である事を思うと、もう矢も楯もたまらなくなって、早速彼等を主に導く為に故郷に帰った。素直な母は我が子の説く真理の言葉に悉く感じ入り、同じく天主の愛子の群れに加わったが、頑固な父はなかなか尊い信仰を受け入れようとはしなかった。
 マルチノはそれに力を落とさず他の人々にも布教し、多少の回心者をも出だしたが、アリオ派の異端者達は彼を憎んで散々打擲した末町から追い出してしまった。
 それでマルチノは仕方なく、またヒラリオを頼って行こうと思ったのに、その司教もやはりアリオ教徒の為フランス国外へ追放されていたから、今度はイタリアのミラノに赴き、そこに一修道院を建てようとした。しかしそれも思うに任せずジエノアに対するガリナリアという小さな島に退き、隠遁生活を始めた。
 その中小アジアにいたあのヒラリオ司教が360年イタリアを通ってフランスに帰ると聞いたので、マルチノはローマ市まで出迎えそこから彼に同行し、且つ同司教から土地を貰ってリグジェに修道院を建てた。これこそ西洋で最も古い修道院の1つである。
 そこで一人の求道者が洗礼を受けずに死んだ所、之を憐れんだマルチノが天主に祈ると、たちまちその人は生き返った。その外そういう奇蹟がしばしば彼によって行われたので、その名はいつか天下に喧伝されるに至り、彼の修院創立から11年後ツール市の司教が没するや、同教区の司祭信者達は礼を尽くしてマルチノをその後任に招聘した。謙遜な彼はその栄職に就くを望まず、姿を隠そうとまでしたが、遂にそれが天主の聖旨である事を悟って承諾した。時に彼は54歳であった。
 爾来在職30年、彼はよくその任を辱めなかったが、権勢ある司教の身ながら個人としては修道生活を続ける事を熱く希い、付近のマルムチェに修道院を設け、多くの同志を集め、その師とも父ともなって之が指導に当たった。
 当時フランスの田舎にはなお偶像教が勢力を持っていたので、マルチノは熱烈な説教をしてその不合理を指摘し、以て数多の人々の迷妄を晴らし真理へ導いた。青年時代の大慈悲心は益々その執念深さを加え、霊肉の悩みに苦しむ者の眼から涙を拭い去ってやることは、彼は無上の楽しみとする所であった。実際貧民や囚人のマルチノ司教に救われた者は、どれほどの敵に上るか測り知れないのである。
 さてマルチノはかように聖なる生活を営みつつ80の高齢を迎えたが、ある時その教区の果てなるカンデに赴く途中、病を得て危篤に陥った。弟子達がその枕許に在って涙にくれていると、彼は天を仰いで「主よ、私の生きながらえる事がなお人々にとって必要ならば、老躯に鞭打っても彼等の為に尽くす事を惜しみません」と言った。臨終には悪魔が激しく最後の誘惑を試みたが、マルチノの天主に対する信頼は盤石の如く動かず、衆人の範とするに足る恵まれた死を遂げる事が出来た。
 その訃報一度伝わるや国を挙げて哀悼の意を表した中に、ボアチエ、及びツールの人々は聖人の遺骸を我が町に得んものと切に望んだが、結局彼が永く司教たりしツールに葬られる事となり、その市民は総出で彼の柩を迎え、わけても修士二千人の行列は衆目を引いた。後マルチノはフランスの使徒並びに保護者と崇められるに至り、その声望は全教会にあまねく、カトリックの誇る最も偉大な聖人の一人に数えられている。

教訓

 聖マルチノに就いてはしばしば「内は修道者で外は使徒」と言われたが、彼が外他人の救霊を計るその使徒的事業に大いなる成功を見たのは、内祈祷と克己の修道生活に努めて、一世の師表と仰がれる程徳を積んだ賜物に相違ない。何故なら主も仰せになった通り、兄弟の目から塵を除くには、先ず己の目から梁を除く必要があるからである。故に我等も人の霊魂を救おうと思えば、わが身を修めて他の模範となる覚悟がなければならぬ。


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聖レオ1世教皇教会博士

2018-11-10 05:33:02 | 聖人伝
聖レオ1世教皇教会博士      記念日 11月10日


 レオ教皇はシクスト3世教皇のあとを継いで、440年教皇位についた。その在位中に教会の内外に種々の災難が起きたが、その1つはエウティケが、431年のエフェソ公会議で異端とされたネストリウスの邪説を熱心に排斥するあまり、キリストの「単性論」という正反対の極端の説をとなえ始めたことであった。すなわちキリストの人間性も神性の中に溶け込んでしまったという説である。レオ1世はコンスタンチノープルの司教フラヴィアノあての教書で、キリストの性格の中に人性と神性とが結合していることを主張した。
 451年、カルケドンに公会議が開かれると、レオ教皇は使節を送って司会させた。議場で教皇の信仰宣言書が読まれた時、司教達は感動して「これこそ教父達の信仰、これこそ使徒達の信仰である。ペトロがレオ教皇の口を借りて語ったのだ」と異口同音に叫んだという。公会議は「キリストの神性と人性とは混合もなく、変化もなく、分離もなく、区分もなく、その位格に結合している」と決定した。
 452年のフン族がローマに進撃して来た時には、レオは自ら進み出てアッチラ王に交渉して退却させた。
 レオ教皇は在位21年間、真の牧者として活躍し、461年帰天した。


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ラテラン教会の献堂記念日

2018-11-09 03:34:42 | 聖人伝
ラテラン教会の献堂記念日    祝日 11月9日


 本日は、ローマのラテラン大聖堂(バジリカ)の献堂記念日である。全世界にこの記念日を祝うのは、ローマ司教であり、全世界の司教である教皇座大聖堂だからである。もとローマ皇室の宮殿だったが、コンスタンチノ皇帝のキリスト教回心の後、帝はこれを教皇の私邸として寄進し、ラテラン大聖堂を建てた。324年、教皇シルベストロ1世が献堂式、即ち聖別式を行った。この大聖堂と隣接の宮殿で宗教会議の開かれること25回以上、そのうち5回は公会議であった。
 本日の祝日は、主の祝日とみなされる、したがって主日に当たるときも、この祝日の御ミサを献げ、福音前の朗読は2つにするが、主日に当たらないときは、福音前の朗読は1つだけを選び、栄光の賛歌をとなえるが、信仰宣言はとなえない。


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聖ゴデフリド司教    St. Godefridus E.

2018-11-08 07:40:53 | 聖人伝
聖ゴデフリド司教    St. Godefridus E.       記念日 11月8日


 洗礼者聖ヨハネ誕生の次第はルカ聖福音書に詳かであるから、ここに贅するまでもないが、、聖ゴデフリドも同様に、長い間子なきを憂えた両親が、涙の中に熱烈な願掛けをしてようように恵まれた天主の申し子であった。その上聖寵に充ち満ちた点でも頗る洗者聖ヨハネに似通い、天主が特別に彼を寵愛加護し給う徴は既に幼少の頃から認められたという。
 それはさておき彼は1070年フランスのソアソンに生まれ、学齢に達するやベネディクト会の有名なサン・カンタン修道院に預けられて教育を受ける事となったが、一度主と共に在る平安と幸福とを味わったゴデフリドは、いつまでも之を失いたくないものと思い、父母の同意を得て修道者となり、全く我が身を天主に献げた。
 25歳を迎えるや、学徳共に秀でた彼はいよいよ叙階の秘蹟を受けて司祭となり、次いで長上の命令によって病者及び修道院執事の役を勤めたが、その間に手腕を認められて今度はノージャンのベネディクト大修道院の院長に選ばれるに至った。
 名こそ大修道院と呼ばれるものの、当時そこには僅か6人の修道者した居なかった。そしてその一事からも察せられる信仰に冷淡な時代精神の感化を受けて、その人々の修道に対する熱情も余程衰えているようであった。そこでゴデフリドは之が刷新を思い立ち、熱心に祈り、厳しい苦行をし、率先して改革の実を挙げようと努めた。
 その善き影響は思いの外早く現れ。弛緩頽廃していた修道者の精神と意気とは、間もなく見違えるように旺盛となった。それはいわば枯れ木に花を咲かせたようなものであった。人々はこの奇蹟的革新を成就したゴデフリドに舌を捲いて感嘆したが、その成功は彼が口を以ての訓戒よりも、身を以ての実践によって勝ち得たものであった。
 ゴデフリドの名声は今や天下に隠れもなかった。1104年ノージャンに程近いアミアン市の司教が没するや、同教区の聖職者信徒は一致してその後任に彼を推す事とし、修道院まで迎えに来り、行列歓呼して之をアミアン司教館に送り込んだ。彼は寧ろかような栄職に就くことを望まなかったが、天主の思し召しと認めて之を受諾し、その重任を辱めざらん為熱心に主の御助けを求め、さていよいよアミアン市に乗り込む時は裸足で歩行したという。謙遜の状、以て見るべきである。
 司教となってからも彼は決して思い上がらず、峻厳極まる克己修道の生活を続けた。そして大修院長にも心がけた貧民病者救済等の慈善事業に、今は全力を挙げて当たった。1106年大火災があって全市殆ど灰燼に帰した時など、彼はどれほど多くの人を救い、どれほど多くの人に恩恵を施したか知れない。それにも拘わらずアミアン市民は、後日この恩人に報いるに仇を以てする非道を敢えてした。それは彼等と権勢ある公爵インジェルラムとの間に紛争が起こった時の事である。ゴデフリドがその調停に立ったが、正義を重んずる彼は市民側の無法な要求にどうしても同意する事が出来なかった。すると市民は昔日の恩も忘れ果て、彼に様々の侮辱讒言を加え、之を非難攻撃して遂に一時司教が町を去らねばならぬまでに苦しめたのである。
 1114年亡命のゴデフリドが身を寄せたのは、シャルトルーズの修道院であった。彼はそこに隠れて忘恩のアミアン市民の上に主の御祝福を祈り、その罪を償う為苦行を怠らなかった。そして一方かような事態を引き起こしたのは自分の不徳の致す所と、司教辞任を願い出たが、ボーヴェイの大会議に列席した司教達は之を却下し、却って今一度アミアン市に帰るよう彼に勧めた。そこでゴデフリドも気を取り直し、身を犠牲とする覚悟で帰任したが、又種々の苦しみに逢うこと約一年、1115年11月8日、平和にして尊い大往生を遂げた。
 ここに於いて司教に辛かったアミアン市民も漸く目が覚め、深くその罪を後悔するに至ったが、正義なる天主の懲らしめの鞭は後年彼等の上に下らずにはいなかった。それは今なお歴史にも書き残されているアミアン市の様々な不幸災厄に外ならない。

教訓

 我が身に仇なすアミアン市民の為に、却ってその罪の赦されん事を祈り、且つ之が償いの苦行を献げた聖ゴデフリドの寛大さは、十字架上から敵の為に祈られた聖主に似て、飽くまでも人の心を動かさずには已まない。我等も及ばずながら聖人に倣い仇に報ゆるに恩を以てするよう努めよう。そうすれば相手の「頭に燃炭を積んで」その改心を促し得ると共に、「我等が人に赦す如く我等の罪を赦し給え」という主祷文の聖句により。わが罪を赦される恩寵をも確実に得る事が出来るのである。


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