カトリック情報 Catholics in Japan

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聖母の被昇天の大祝日    Assumptio B. Mariae V.

2018-08-15 01:30:06 | 聖人伝
聖母の被昇天の大祝日    Assumptio B. Mariae V.           大祝日 8月15日


 聖会の一年間には聖母の祝日が決して少なくない。が、中でも我等にとり最も喜ばしく、また最も懐かしいのは聖母被昇天の大祝日であろう。この日記念されることは主として二つある。聖マリアの実に清らかな御臨終と、その天主における比類ない御光栄がそれである。

 聖母があのペンテコステの日に、御弟子方と一座して御聖体とその賜物とをお受けになったことは使徒行録にある。しかしその後の後動静については一向聖書に記されておらぬ。これはそれからの聖マリアの御生活が個人としてのそれであって、直接われら人類の救霊に関係がなかった為であろうが、伝説にはその後晩年の話もいろいろと残っている。
 それによれば聖母は聖霊降臨後間もなく、小アジアのエフェゾ市に退き、十字架上におけるイエズスの御遺言通り、使徒聖ヨハネの懇ろな扶養を受けもっぱら、なおも徳を積み、天上において最愛の御子と再会する喜びの日をひたすら待ち侘びつつ余生を送られた。ただその御終焉の時も伝えられておらぬのは、誠に遺憾の極みと言わねばならぬ。

 一体人間の死は聖パウロも教えている通り罪の罰である。ところが聖マリアには自罪はもちろん、原罪の穢れすらおありにならなかった。故に道理からいえば聖母は決して死なれるに及ばなかったのである。それがやはり逝去されたのは、全く聖子イエズス・キリストの御死去と同様、ただ人々を救いその霊魂を天国へ導く為に他ならなかった。さればその御逝去は一般に見られる疾病、老衰など、罪の罰たる苦悩が少しもなく、聖ベルナルドがいみじくも言っているように「天国への渇望の激しさにその聖い御霊魂が清い御肉体を離れた」までに過ぎなかったのである。そして主イエズス・キリストが復活昇天された如く、その御母聖マリアも御死去後間もなく蘇り、その御霊魂御肉身諸共天国に挙げられ給うたことは、聖会の初代からあまねく人々に信ぜられて来た所であった。
 それに全能の天主が御自分をその胎内に宿し給うた御母に対し、あらかじめ原罪の汚れをさえ除くほど有難い配慮をなし給うたとするならば、御死去の後もその御肉身を汚れの象徴の如き腐敗から救い給うたのは、当然なことである。されば聖マリアが死後その御肉身も御霊魂と共に天に挙げられ給うたという一條は、聖母の無原罪などと同様、天主の御母の特権で、1950年11月1日、諸聖人の大祝日に教皇ピオ11世が全世界から集まった多くの司教、司祭や、平信者の前に信仰箇条と定められたのである。
 聖会は聖母マリアのこの特権を記念するため、早くから被昇天の大祝日を設け、これに対する典礼をも定めた。またカトリックの名ある芸術家達はこれを題材として詩文、絵画、彫刻に数々の傑作をものし、一般キリスト教信徒は之に関して、さまざまの伝説を残した。次に掲げる話はその最も古い一つであってニケフォロ・カリスチの歴史に記されているものである。
 即ち、東ローマ皇帝マルチアノの皇后ブルケリアはかねてからの一の聖堂を建立し、これを聖母に献げ、かつその御遺骸をそこに安置したいという望みを有しておられた。で、皇帝はカルセドンに公会議を召集された時エルサレムの司教ユヴェナリスに向かい聖マリアの御遺骸の所在地を尋ねられたところ、司教は答えて
 「聖母の御逝去については聖書に何事も記してございません。しかし古い確かな伝説によれば、聖母の御臨終には使徒達がいずれも布教先から馳せ集まり、最後のお別れを申し上げ、御息絶えて後は、祈祷に聖歌に御徳を讃美しつつ、禮を厚うして御遺骸をとある岩穴に葬りました。ところがそれから三日を経て、唯一人遅れて到着した使徒のトマに、聖母の御死顔を見せるために御墓を開きますと、不思議にも御屍は見当たらず、それの包んであった布は畳んで傍らにおかれ、あたりにはえも言われぬ芳しい香が馥郁と漂っておりました。使徒達はこれを見るや大いに喜び、『主イエズス・キリストはその御母を復活せしめ清き御身体も共に天国へ迎え取り給うた。』と叫んだということでございます」と語ったそうである。
 同じく天国に赴かれ給うたにしても、主キリストの場合には御昇天と言い、聖母マリアの場合には被昇天と呼ぶ。これは主が天主の全能を現して御自ら天に昇られたのに対し、御母は人間であるからそういう力はなく、ただ主の御力によって天に挙げられたという相違を示す為である。

教訓

 聖母の被昇天は読者も知る如く、わが日本公教会において主日同様守るべき四大祝日の一つとされているが、この日はまた実際に我が国にとり浅からぬ因縁を有している。それというのは、日本に渡来した最初の宣教師聖フランシスコ・ザベリオが、鹿児島に上陸し最初の御ミサを献げたのがちょうど聖母被昇天の大祝日に当たっていたからである。
 されば我等もこの日を機会として更に聖母への崇敬と信頼とを深め、絶えず日本公教会の上にその優握な御保護を願わねばならぬ。


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聖マクシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 St. Maximilian Maria Kolbe M.

2018-08-14 04:05:18 | 聖人伝
聖マクシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 St. Maximilian Maria Kolbe M.  記念日 8月14日


 「20世紀の聖人」と言われるマクシミリアノは、生まれた地がポーランドであったために苦しみを体験した。彼は勤勉で敬虔な両親のもとに1894年ツドゥンスカ・ウォラで生まれた。1910年にロワのフランシスコ会修道院の神学校に修練士として入り、ローマで勉強して、1918年には司祭に叙階され、1年後にポーランドに戻っていった。この世の闘争が基本的に霊的なものであるということを確信し、コミュニケーションの現代的手段が反キリスト教の勢力(フリーメーソン)に委ねられるべきではないと考えた彼は「聖母の騎士」という自分の月刊の評論雑誌を出版し始め、それはすぐに成功した。そして1927年にはテレシンに「マリアの町々」の最初のものを創立した。「マリアの町々」とは、ニエポカナヌフ-聖母の町-という名のもとにあり、その心は、常に成長し続けるフランシスコ会の托鉢修道士の快活な服従と聖なる貧困であった。多くの熟練した信徒がそれを完全に独立して経営することが出来るようにした。「聖母の騎士」ばかりでなくローマ・カトリック教会の毎日の新聞や他の出版物を製作する非常に整った印刷所を作ったのである。まもなく、ラジオ局が据え付けられた。
 1930年にコルベ神父と4人の同志は日本に旅行した。そこでは、彼の哲学的また神学的な専門知識によって歓迎され、長崎郊外のある丘の坂の上に「無原罪の園」を設立した(こうしてそれは1945年の原子爆弾による損傷を免れた)。彼は「西洋化」を試みようとはせず、むしろその国の文化を深く理解しようとした。そこで仏教や神道を勉強し、キリスト教的共同体を越えた日本の「聖母の騎士」の読者層によって照明された良好な関係を樹立したのである。
 彼はマラバルとモスクワへさらに旅行して、自分の取り組み方についての同様な共感を得た後、1936年にポーランドに呼び戻された。それは部分的には、常に心配の種であった彼の健康状態によるのもであった。三年後、侵略してきたドイツ軍の部隊がテレシンにあった。短期間の投獄の後、ニエポカラヌフの共同体は、その三分の二がユダヤ人であった三千人の避難民を保護することを含む、あわれみの働きに懸命に取りかかった。コルベ神父は公然と次のように書いた。「世界の中の誰も、真理を変えることはできない・・・。もし我々自身が、我々の最も深い部分である人格的な自己において、善と悪、罪と愛との間の戦いで敗北しているなら、戦場での勝利は一体何の役に立つのだろうか?」
 彼は同じ年の1941年に逮捕されてアウシュビッツ(ポーランドのオシフィエンチム)の収容所に送られた。生存者たちは、彼の並はずれた博愛と、恐ろしい状況にあっても司祭として奉仕していたことを思い起こしている。3人の者が逃亡したことの報復として、囚人たちのうちの10人が地下の餓死室に送られるために選ばれる日が来た。コルベ神父は、家族持ちの一人の男の身代わりになることを自ら申し出た。その申し出は、コルベ神父がそれほど剛健な労働者ではなかったので受け入れられることになった。彼は、自分の仲間達を彼らが死ぬまで慰め、最後に自分もコールタール酸の注入によって殺された。彼は次のように言った、「私は、すべての人間のために、私の命を与える」彼が命を救った男は、1982年聖マクシミリアノ・マリア・コルベ神父の列聖式に参加している。


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聖ヒッポリト司祭殉教者

2018-08-13 00:48:37 | 聖人伝
聖ヒッポリト司祭殉教者         記念日 8月13日


 ヒッポリトは3世紀の最も重要なローマの神学者であったが、同時に最初の「対立教皇」であったので、なぜこのような人が聖人になったのか不思議に思われるかもしれない。彼は教皇ゼフィリノの教えに反対して、ゼフィリノの後継者のカリスト教皇の時、離教して対立教皇として独立した。しかし、彼を再び教会に立ち帰らせたのは、マクシミヌス皇帝の迫害であった。ヒッポリトはポンチアノ教皇と共に逮捕されて、サルディーニャ島へ流された。そこで二人は親しい友人となって、ポンチアノはヒッポリトを再び教会に連れ戻したのだった。そして236年頃2人は殉教して、その遺体はローマに持ち帰られた。
 後世になって、ヒッポリトの殉教の事実を伝えるたくさんの物語が流布された。彼は聖ラウレンチオの葬式に行ったため、その罰として野生の2頭の馬にくくりつけられ、地上を引きずりまわされて、ついに息が絶えた。最後の言葉は、「主よ彼らは私の体をこわしてしまいました。どうぞわたしの魂を受け取ってください」であった。
 1551年、ローマの郊外のヴィア・ティブルティーナの一部を発掘した時にヒッポリトの首無しの彫像が発見された。彼の椅子の両側には復活祭の日付を計算する表が記録されてあった。聖人を教師として示すこの肖像は、その生存中に造られたものであった。
 ヒッポリトは、旧約聖書のダニエル書や雅歌を注釈し、詩編の解釈も書いたが、最も興味深い著作は「使徒の伝承」で、これは3世紀初期のローマの教会の生活と典礼について述べている。彼はキリスト教の伝統を強めることを熱望し、新しい祝日や新しい断食など、彼が「新奇なこと」と呼んだことを導入した人々に反対した。ある学者たちが言うように、ヒッポリトの文章のスタイルはすぐれていなくとも、確かに彼は熱情的で非常に学識ある学者であった。

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聖エウプリオ殉教者

2018-08-12 03:42:28 | 聖人伝
聖エウプリオ殉教者                  記念日 8月12日


 ディオクレチアヌス皇帝の迫害の時代、304年にシチリアのカタニアでエウプリオという助祭が貧しい人々に福音を読んでいるところを発見された。早速、総督のカルヴィシアヌスの前に連れ出されたエウプリオは、以前から信仰のために死ぬことを予期していたので、「自分は殉教の覚悟をしている」と言った。
 エウプリオが四福音書を手に持っているのを見た総督は、このような本を持つことは不法だと彼を責めた。エウプリオは、キリストのために忍ぶ苦しみについての文章を彼に読んで聞かせた。
「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」
 カルヴィシアヌスは、エウプリオが法律に背いていることを白状していると思い込んで、彼を拷問台の上に横たえるように命じた。責め苦を耐え忍びながらエウプリオはなおもイエズスに祈り続けていると、カルヴィシアヌスは異教の三神のアポロとマルスとエスクラピウスを拝むように命令した。この瞬間に、エウプリオは三位一体に対する深い信仰をくり返して言い表した。
 「私はただ父と子と聖霊のみを礼拝する。他に神は存在しない」
 エウプリオを苦しめていた男達はまた拷問を続けた。彼は苦痛のため言葉が途切れて、ただ唇だけが動いているだけだったが、なおも祈り続けていた。ついにカルヴィシアヌスはエウプリオに斬首の刑を宣告した。
 死刑執行人はエウプリオの福音書を聖人の首のまわりにぶら下げた。しかし、これは「神々と皇帝の敵」として刑場に連れて行かれる時に、かえって彼の喜びを増したのであった。

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聖ラウレンチオ助祭殉教者   St. Laurentius M.

2018-08-10 01:56:46 | 聖人伝
聖ラウレンチオ助祭殉教者   St. Laurentius M.          記念日  8月10日


 258年ローマ皇帝ヴァレリアノがキリスト教弾圧の新法を設けると、信徒に対する官憲の迫害は急に峻烈になり、その翌年には教皇シクスト2世もカタコンブでミサ聖祭を献げようとしておられる所を捕縛され、すぐさま斬首の判決を下された。彼が引かれゆく時、助祭のラウレンシオは涙ながらにその後を追い「父よ、子の私を捨てて何処へおいでになるのですか。聖師よ、助祭の私を残して何処へおいでになるのですか。貴方はいつの御ミサの時にも、私がお手伝いをしなければ式をお挙げになりませんでした。一体私のどこがお気に召さず、おつれ下されないのですか」と叫んだ。
 教皇は之を聞くと深く感動され、彼を慰めて「いや、私はお前を捨てるのではない。しかしお前はこれから烈しい闘いに打ち勝たねばならぬ。私は年老いているから容易い戦いでも報いを得よう。が、お前はまだ若いからもっと立派な勝利を得なければならぬ。三日たったらお前も私の後を追って来るようになろう」と言われた。
 ラウレンチオは貧しい家の生まれであった。けれどもその清い善良な生活を教皇に認められ、勉学の後ローマ七助祭の首席に挙げられた。さればその役目柄、彼は教会財産の管理、貧民への施物の分配、その他万事に気を配らねばならなかったのである。
 官憲当局では彼がそういう重任を帯びていることをよく知っていた。それ故彼が財産を処置するのを待って彼を捕まえると同時に之を没収しようと思い、教皇と共には引致しなかったのである。しかしラウレンチオは賢明であった。早くも相手の思惑を察したから財産の大部分を貧しい人々に分け与えてしまった。
 彼は果たして三日の後捕縛され、財産目録を差し出し、宝の在処を教えよと迫られた。ラウレンチオはすべての始末をつける為に暫くの猶予を請うた。そしてそれから三日目に大勢の貧乏人や寡婦、孤児、老人その他不幸な人々をつれて法官の許へ帰って来ると「この人々こそ聖会の宝でございます」と言った。法官は烈火の如く憤り彼を真っ赤に熱した鉄格子の上にのせて焼き殺すことを命じた。
 しかしラウレンチオは惨酷なその処刑にも更にひるまなかった。彼はよくその苦痛を耐え忍び、なお戯れ言を吐くのをやめなかった。灼熱の鉄格子上に横たわること暫し、彼は刑吏に「私の向きを変えて下さい。もうこちらの方は十分焼けたようですから」と言い、また暫くの後法官に「もう焼けましたから、召し上がってもよろしいですよ」と冗談を言いながら息を引き取った。
 聖アウグスチノはこれに就いて記して曰く「ラウレンチオはしばしば御聖体拝領をしてイエズスの御肉御血を戴いた。それ故力を強められてかかる恐るべき殉教の苦痛をも喜んで堪えることが出来たのである」と。
 彼の遺骸からは既に殉教の当時もまたその死後も、馥郁たる芳香があたりに漂っていた。信者達は恭しく彼を市の郊外に葬った。その墓の上には今日壮麗な大聖堂が建立されているが、その外にも聖ラウレンチオに献げられた聖堂は沢山にある。そして彼は聖助祭ステファノにも劣らず今なお世界の人々に厚い尊敬を受けているのである。


教訓

 艱難の時、苦しみの時、迫害の時には聖ラウレンチオの模範を思い起こすがよい。聖人の如く犠牲を厭わず勇ましく己が十字架を甘んじ受ける者は、その苦痛をそれほど感ぜぬばかりでなく、苦しみの最中にも喜んで天主に感謝讃美を献げることが出来るのである。されば我等は公教会祈祷文にある十字架の道行き第七留の、「天に昇る道は十字架の道にて、すなわち苦しみの道なれば、御苦難の功力により、我等をして、雄々しき心を以て歩ましめ給わんことを、ひたすら願い奉る。」という祈りを、しばしば誦えよう。


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