カトリック情報 Catholics in Japan

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愛と殉教の願 ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ 15

2023-03-28 00:40:22 | ウゴ・ラッタンツィ神父
『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、15

 この誓いをしてのち、かれは、同じ聖母の祝日に、自分の血で書いて、「愛と殉教」の恵みをイエズスとマリアに願いました。そして、このノートにこう書き加えました、[

「覚え書き。
 早く進歩するために、愛。
 たえず進歩するために、どうあっても望むこと。
 確実に進歩するするために、祈ること。
 私の霊魂よ、唯一の永遠の花婿として、イエズスを選んだからには、これからは、イエズス以外の何ものも愛してはならないことを思い出せ。他のものは皆、彼のために、そして、彼のうちにこそ、愛さねばならない」。

「無原罪の聖母のもっとも清いおん手を通じて、私は、貞潔の願を立てます。そのために、シエナの聖女カタリナと同じ言葉を使います。

「無原罪のおんやどりのもっとも聖なるおとめよ、あなたは、すべての女のなかで、貞潔を永遠の願によって神に牽献されました。

 あなたは、神からおんひとり子の母となる恵みをお受けになりましたから、私は、いいつくせないあなたの慈い愛に依り頼んでお顧いします。私の功徳も弱さもかえりみないで、この大きな恵みをお与えください。それは、私の霊魂の花むことして、この心の愛のかぎりに望んでいる、あなたのいとも聖なるおん子、私たちの唯一のみあるじイエズスです。

 そのかわり、私は、おん子とあなたに、他の愛は決して受け入れず、力のかぎり、私の潔白を常に守ることを誓います。」

 アンダーラインをひいたか所と、サインを自分の血をもってしるします」。






主は人の叫びを聞く 聖書

2023-03-28 00:36:45 | 格言・みことば
主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。

詩編 34編18-19節




4-18-4 唐朝の末路

2023-03-28 00:30:42 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
18 藩鎮と宦官
4 唐朝の末路

 いよいよ唐朝も末にちかい。ここで勢力をふるいだすのが、宦官(かんがん)であった。
 唐朝における宦官は、官制のうえでは内侍省(ないじしょう)にぞくし、その長官は内侍といって、従四品上という官位をもっていた。
 このほか官品のない宦官は内給使といって、玄宗⑥から後には二千人の多きにのぼったといわれる。しかし、実際に政治の実権をにぎった宦官は、そうした官制によってだけではなく、軍職をかね、さらに神策軍とよばれる禁軍(近衛軍)をにぎった。
 その長官を神策中尉といい、それにはかならず宦官が任ぜられた。
 この神策軍が宦官の権力の土台となり、最盛時には十五万の兵力をもったのである。
 六十年にわたる藩鎮の横暴をおさえた憲宗⑨も、その最後は宦官に殺されたといわれる。
 つぎの穆宗⑩からのちの皇帝も、ほとんど宦官の手によって擁立された。穆宗の子の敬宗も宦官に殺される。
 そして宦官の王守澄(おうしゅちょう)は文宗を擁立した。
 文宗⑭は、宦官の専権をにくんで、その権力を削(そ)ごうとした。
 まず太和五年(八三一)、宰相の宋申錫(そうしんしゃく)とはかって、宦官の誅滅をはかったが、中途でその計画がもれてしまった。
 申錫は左遷された。
 太和九年(八三五)、文宗は王守證にひきたてられた鄭注や李訓など、側近の士とはかって、ふたたび宦官の誅滅をくわだてた。
 この二人なら、かえって王守澄に感づかれないと考えたからである。
 まず王守澄と仲のわるい宦官の仇士良(きゅうしりょう)を神策中尉に任命して、王守澄の権力をそいだ。
 ついで李訓は宰相になると、鄭注と力をあわせて、宦官の勢力をけずることにのりだし、王守澄には帝命をもって自殺させることに成功し、そのいきおいに乗じて、宦官をことごとく殺してしまおうと計画をたてた。


 そこで、甘露が宮殿のうしろの石榴(ざくろ)に降ったと上奏する。
 その瑞兆(ずいちょう)を見にくる仇士良(きゅうしりょう)らの宦官をみな殺しにしよう、というわけである。
 しかし仇士良がいってみると、みなの態度がおかしい。
 そのとき、たまたま突風がおこって幕を吹きあげた。
 幕のなかに兵士をかくしておいたのが、ばれてしまった。
 宦官たちは、さっそく神策軍をあつめた。李訓はあわてて宦官を襲撃させたが、わずか死傷者十余人をだしたのみで、かえって宦官の指揮する神策軍の兵のために捕えられた。
 鄭注も殺された。これを「甘露(かんろ)の変(へん)」という。
 この失敗ののち、宦官はますます専権をつのらせるばかりであった。
 唐末の昭宗⑲のごときは、宦官から「門生天子」とよばれた。
 門生とは、科挙の試験官に対して、合格者のことをいう。
 宦官みずからが試験官で、その力によって皇帝は及第させてもらった、というわけであった。
 いっぽう九世紀のなかばごろから、長江の流域では、はげしい誅求と藩鎮の搾取(さくしゅ)になやんだ農民の蜂起があった。
 とくに僖宗(きそう)の乾符(けんぷ)二年(八七五)に勃発した黄巣(こうそう)の乱は、それより九年にわたって中国全土をあらしまわる。
 ついに唐朝は、この痛手から立ちなおれず、滅亡にいたった。
 昭宗の天復三年(九〇三)、反乱軍のなかからおこって節度使となった朱全忠(しゅぜんちゅう)は、長安に入城して、宦官数百名をいっきょに誅殺した。
 しかし、このとき唐朝の命運も、すでにつきていたのである。
 唐朝を苦しめた節度使が、さらに唐朝を苦しめた宦官を誅滅したとは、まことに皮肉な結末といわねばならない。
 朱全忠は唐朝をほろぼして、五代の後梁(こうりょう)を開いた。
 唐朝は二十代哀帝⑳の時、建国してから二百九十年で滅亡した(九〇七)。













カピストラノの聖ヨハネ  St. Joannes a Capistrano C.   

2023-03-28 00:01:52 | 聖人伝
カピストラノの聖ヨハネ  St. Joannes a Capistrano C.                    記念日 3月 28日


 14世紀末から15世紀初めにかけて、イタリアには巡回説経家と呼ばれる熱心な人々が現れ、南欧諸国を巡って、古の洗者聖ヨハネの如く世人に悔い改めをすすめ、信仰の復興を計った。それはいずれもフランシスコ会修士であるマルコの聖ヨハネやシェナの聖ベルナルディノやカピストラノの聖ヨハネ達であるが、この3人の中でも社会に対し特に広くかつ深い感化を及ぼしたのはカピストラノの聖ヨハネであろう。

 彼は1386年イタリアのカピストラノという小さい町に住むドイツ人騎士夫妻の間に生まれた、幼時より優れた才能を恵まれていたヨハネは、僅か14歳にして早くも大学に入り、法律を修め、26歳の若干の身でナポリ王ラジスラオの信任を蒙り、ペルージャ市長に任命される名誉を得た。
 ところがたまたまペルージャ市とリミニ市との間に闘争が起こり。彼は捕らわれてリミニ市の牢獄に投ぜられたが、死刑の宣告を恐れるあまり脱走を企て、獄屋の高い窓から墜落して大怪我をし、一時は生命も危ぶまれているほどの有様になった。しかし幸いにも片足が折れただけで助かり、再び獄中に入れられている間に、彼ははからずもアッシジの聖フランシスコの出現に接し、浮き雲の如くにはかない現世の名誉財産をなげうって修道院に入り、ひたすら天主の聖旨にのっとって徳を磨く者になろうという求道心を起こすに至ったのである。
 その後間もなく多額の賠償金と引き換えに、身の自由を得たヨハネは、許嫁の女性に獄中における聖フランシスコの出現とそれに伴う自分の聖なる決意の程を物語り、相手の承諾を得て即日ペルージャにあるフランシスコ会修道院を訪れ、同会入会の許可を院長に懇願したのであった。
 けれども今までのヨハネの世間的享楽的な生活や盛んな名誉欲を知っている院長は、その改悛が真心から生まれたものであるか否かを疑い、珍しくもまた恥ずかしい試練を命じた。それはみすぼらしい身なりの背中に、自分の犯した罪の数々を記した紙を貼り付け、ロバに乗って町中を廻れというのであった。
 聖パウロの言葉に「我等はキリストの為に愚者となり(中略)世の芥、衆人の捨物の如くなれり」(コリント前書4、10-13)とあるが、ヨハネもキリストへの愛の為に、深い謙遜と従順とを以て院長の命を果たし、この衆人環視の裏に自分の赤恥をさらすようなつらい試みによく耐えて、遂に聖フランシスコの弟子となる事に成功した。かように最初から道の為には一切を捨てて邁進する勇気を有していた彼であるから、徳の進歩も著しく、後年天主のお選びを受けて特別の使命を授けられるに至ったのも敢えて驚くに足らぬのである。

 さてヨハネは修練期を終えると、哲学を研究して司祭になり、名高いシェナの聖ベルナルディノと共にイタリアの各地方を廻って、舌端火を吐くごとき熱烈な説経に、あらゆる人の心に深い感動を与え、無数の罪人の改心に導いた。
 ヨハネとベルナルディノとの仲はさながら世に言う水魚の交わりにも比すべく、互いに清い友情に結ばれていたが、1444年ベルナルディノがまずこの世を去るや、ヨハネは熱心を倍加して友の分まで働かんものと、弱々しい単身痩躯ながら真に東奔西走、席の温まるいとまもなく所々を説経行脚し、ある時は酷暑と闘い、ある時は聖堂に入り切らぬ大群衆に戸外において道を説きなどした。その効果は空しからず、至る所感激の渦を巻き起こし、殊に彼の教えにより翻然悔悟し、当時の悪弊たりし賭博や淫靡奢侈の害から救われ、真面目なキリスト教徒の生活に帰った者は数知れぬほどであった。
 さればカピストラノのヨハネは世に稀な聖人であるとの評判は天下に高く、フランス、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ポーランド等の外国からも招聘されるに至ったが、そのドイツ訪問の時などは、皇帝フリードリッヒ三世御自ら彼を出迎えられたとの事である。そして彼の説教の結果は、ただ冷淡にして罪に沈んでいた信者が、再び熱烈な信仰によみがえって正しい生活に帰ったばかりではない、また多数の異端者やユダヤ人等まで聖教真理の光を仰いで人類の母なる公教会の懐に抱かれるに至り、ボヘミアに於けるフス派の異端者だけでも一万六千人も帰正したと伝えられている。
 が、聖人が最も大効をたてたのは、1453年、トルコの皇帝マホメッド2世がコンスタンチノープルを陥れた余勢をかって、直ちに欧州を突き、オーストリアのウイーンに攻め入ろうとした時であろう。その際ヨハネは既に70歳の老齢の身ながら、全欧州を異教徒の手より救うべく敢然と立ち、十字架を手に進んだところ、天主の冥助か二日の激戦の後、遂に劣勢の味方を以て優勢の敵を撃破潰滅せしめ、キリスト教国を回教徒の蹂躙から免れしめる事が出来たのであった。
 その二ヶ月後、カピストラノの聖ヨハネはユーゴスラビアにあるヴィラクという町で天主のお召しを受けて帰天した。時に1453年10月23日の事であった。

教訓

 カピストラノの聖ヨハネのかくかくたる事績は主イエズス・キリストの「我を信ずる人は、自らまた我が為す業をも為し、しかも之より大いなるものをなさん」(ヨハネ14-12)という聖言を実際に証拠立てたものである。されば我等も聖人の熱烈な信仰にあやかり、カトリック運動の精神を一層振興せねばならぬ。









パリは燃えているか?

2023-03-27 22:09:27 | 時事
 ヒトラーの言葉が現実化してしまいました。
 フランスでは、マクロンの年金支給年齢引き上げに反対して、全土でデモ隊100万人以上が決起して、少なからぬ街で暴動が起きているようです。隣国では、ドイツ銀行が潰れそうとか、Twitterの噂が現実化しそうです。ある程度の対策はしていたつもりでしたが、私ももっとまじめに、急いだ方がいいのかもしれませんね。

 どうすればいいのか。

 金銀ビットコインは安全資産であろうと思います。

 しかし、こんな話を連日聞くと、マクロン選挙不正説も、もしかしたら本当かもしれないと信じてしまいそうになります。彼の強権指向は、今すぐ現れたわけではなく、一期目からわかっていたことです。ワクチンパスポートであれだけ嫌われたマクロンが、どうして選挙で勝利できたのだろう、と時々、思うことがあります。






フランス年金制度改革への抗議行動続く パリ市内では破壊行為も
2023年3月24日(金)09時55分 (Newsweek)

フランスで23日、年金制度改革に抗議する全国的ストライキが9日目に入り、列車の運行が中断したほか、一部の学校が休校となった。内務省によると、抗議活動の参加者は全国で109万人。そのうち首都パリの参加者は11万9000人となり、1月に抗議活動が始まって以来最多となった。

抗議活動はおおむね平和的なものだったが、パリでは無政府主義者「ブラック・ブロック」の集団が店舗の窓ガラスを割るなどの破壊行為に及んだため、警察が催涙ガスを用いて制圧に乗り出す場面もあった。BFMテレビによると、26人が逮捕された。

ル・パリジャン紙によると、デモ隊は早朝に南西部トゥールーズ付近の高速道路と西部レンヌのバス発着場を封鎖した。

電力業界もストにより電力供給が削減された。

マクロン大統領は22日、退職年齢を2歳引き上げ64歳とする年金制度改革法について、国民の抵抗が強くても必要不可欠であり、年内に施行されると述べた。

穏健派の労働組合、仏民主労働総同盟(CFDT)を率いるローラン・ベルジェ氏はBFMテレビに対し、政府は同法を撤回しなければならないと訴えた。

一連の抗議行動は4年前の「黄色いベスト運動」以来、最も深刻な反政府デモとなっている。世論調査では年金制度改革法への反対が大多数で、政府が憲法の規定を用いて採決なしで強制的に採択したことにも反発している。

デュソプト労働相は「退職年齢については今後も論争が続くだろう」と述べた。その一方で企業が利益を労働者に分配する方法など「対話を再開することが可能な多くのテーマがある」と指摘した。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/03/post-101179_1.php


フランスで年金改革めぐる抗議続く ボルドーでは市庁舎に放火
2023年3月24日 BBC

年金受給年齢の引き上げに反対する抗議デモが続くフランスで23日、南西部ボルドーの市庁舎玄関に火が放たれた。

フランス政府は今月初め、年金受給年齢を62歳から64歳に引き上げる法案を強行採択したが、これに抗議するデモが連日続いている。

エマニュエル・マクロン大統領は、年金改革は必要だと法案を擁護。エリザベット・ボルヌ首相も、将来的な年金システムの大赤字を防ぐための改革だと説明している。

ボルドーでは、デモ隊が警察と衝突した後、夕方になって市庁舎の玄関が炎に包まれた。

出火原因などは明らかになっていないが、火は消防隊によって速やかに消し止められた。


この日はフランス全土で100万人以上がデモに参加。内務省によると、パリでは11万9000人が抗議に集まった。

パリでの抗議はおおむね平和的だったが、マスクを着けた暴徒と警察が散発的に衝突した。ロイター通信によると、暴徒らは店舗の窓を割ったり、街灯や標識などを破壊したり、ファーストフードのマクドナルドの店舗を襲撃したりしたという。

また警官1人が意識不明に陥ったが、同僚によって安全に搬送されたという。

AP通信は、警察が催涙ガスを使用した一方、花火などを投げつけられていたと報じた。パリでは33人、全国では合わせて80人が逮捕されたとうい。

抗議参加者はロイター通信の取材で、「この改革にも反対しているし、民主主義がもう何の意味も持たないという事実にも本当に反対している」、「私たちの声が政治に反映されていない。うんざりしている」と語った。

AFP通信が取材した別の参加者は「抗議することで、自分たちの声を届けられる(中略)他の方法では改革案を取り下げられない」と話した。

抗議ではほかにも、鉄道の運行や石油精製施設に影響を及ぼした。また、教師やシャルルドゴール空港の職員が、ストライキを行っている。

このほか、北部ルーアンや西部ナント、レンヌ、ロリアンといった都市で警察との衝突が起きた。

ナントで抗議に参加した市民は、「フランスでは、通りで抗議する市民こそが正当だ。マクロン氏がこの歴史的現実を覚えていないなら、彼がここで何をしているのか分からない」と話した。

フランスでは1月以降、年金受給年齢引き上げをめぐる抗議集会が9回開催されており、労働組合は28日にも10回目の実施を呼びかけている。

3月6日にストを開始したパリのごみ収集業者は、27日までストを続けると発表した。

https://www.bbc.com/japanese/65060696



パリ、夜間デモに騒然 路上ごみ炎上 仏  3/21(火) 13:50配信 時事通信

 【パリ時事】フランスで国民に不人気の年金改革法案が議会を通過した20日夜、首都パリ中心部に大勢の若者らが繰り出して抗議行動を展開した。

 観光名所オペラ座の近くでは、作業員のストで路上に積み上げられたごみが火を放たれて燃え上がり、周囲は一時騒然となった。

 夜間のデモは、政府が法案の強行採択手続きを取った16日に自然発生し、その後も連日行われている。労組による昼間の平和的なデモと異なる攻撃的な様相で、若者らはシュプレヒコールを上げながら市内を転々と移動。取り締まりに当たる機動隊との小競り合いが絶えず、市民や観光客は不安を募らせている。

 フランスでは2018年、燃料増税をきっかけに反政府デモ「黄色いベスト運動」が発生し、全土に広がった。商店などに対する無差別な破壊活動が繰り返されて社会が混乱した経緯があり、年金改革を機に同様の事態が再現されないか懸念が強まっている。 

https://news.yahoo.co.jp/articles/07ff59c9ea8cb92b977f961f91be4c0aa805e31a