カトリック情報 Catholics in Japan

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聖アンブロジオ司教教会博士  St. Ambrosius E., D. E.

2023-12-07 00:00:07 | 聖人伝
聖アンブロジオ司教教会博士  St. Ambrosius E., D. E.   記念日 12月 7日


 聖会初代の偉大な教父達の中で、一際頭角を抜きん出ている聖アンブロジオは、340年ドイツのトリールに生まれた。父はその地の総督を務めていたが、まだ彼の少年時代にこの世を去ったので、母は三人の遺児を連れてローマに上り、細心の注意を以て彼等を教育した。中二人は男の子で長ずるや亡き父の如く官途に就いたが、アンブロジオは熱心なカトリック信者のプロブスという裁判所長の部下となった。かくて372年、32歳の時彼がリグリア及びエミリア両州の総督を任命されてその首都ミラノに赴くに当たり、上司にして且つ善き友であったプロブスに別れを告げた所、プロブスは「貴方はこれから法官よりも寧ろ司教のような心持ちで政治を執らねばならぬ」と教え諭したという。
 アンブロジオはミラノで間もなく人々の愛と尊敬とを博するようになった。実際彼の統治の仕方は厳しい裁判官のようではなく、慈愛に満ちてしかも正義に適ったものであった。
 374年ミラノの司教アウクセンチオが没するや、その後任者の選出は甚だ困難であった。というのは当時はアリオの異端が盛んであって、その教師達はカトリックの司教の選挙を妨害しようと努め、為に市内には暴動の起こる危険があったからである。
 総督アンブロジオは風雲急との報に接し、自らその場に駆けつけ、極力激昂せる群衆を慰撫した。所が突然一人の子供が「アンブロジオさんが司教になればよい、アンブロジオさんが司教になればよい」と叫びだした。それを聞くと、さながら超自然的天啓でも得たかのように、たちまち全群衆も異口同音に「アンブロジオ司教!アンブロジオ司教!」と之に和したから、アンブロジオは驚きもすれば当惑もして、そういう無理な要求には応じられぬと頻りに辞退した。何となれば彼はその時まだ洗礼さえ授かっていない有り様で、まして聖職者になろうなどとは夢にも思って見たことがなかったからである。
 けれども市民がなおも彼の司教就任を求めて已まないので、彼は術策尽きて一友人の家に隠れ、その問題の落着を待った。が、それも効なく人々に発見され、信徒はもちろん付近の司教方司祭達もその出馬を勧説し、皇帝も人民の選出を有効として御批准になったから、アンブロジオも詮方なくそれを受諾するに至った。
 彼は既に公教の要理はよく心得ていた。それで短時日の内に受洗を許され、次いで叙階の秘蹟を受けて司祭となり、遂に374年の12月7日叙階されてミラノ司教となったのであった。
 その日からアンブロジオは、祈祷と研究と慈善とに専念した。彼は正しい信仰に対する熱意を示す為に、聖教の為追放された前任司教の遺骸をミラノに迎え、礼を厚うして之を葬った。彼はまたイエズス・キリストを深く愛し、及ぶ限り主に肖るべく、沈黙を守り、殆ど絶えず大斉し、多く祈った、そしてわけても聖殉教者達を敬い、熱心に勉強し、やがて大神学者と仰がれるようになった。その著書は数多あるが、いずれも永遠不朽の価値を有し、今なお親しまれているものも少なくない。
アンブロジオは信者の聖教に対する理解を深める上にも大きな努力を払い、日曜や祝日には怠らず説教した。人々は貴賤貧富の差別なく日毎にその許へ押しかけ、彼の教訓、彼の助力を請い求めた。彼はあらゆる人、殊に罪人に深い愛と親切とを以て接した。ある時は聖女モニカも彼を訪れ、わが子のアウグスチノの改心の為祈って戴きたいと涙を流して頼んだ。するとアンブロジオは彼を慰め「御安心しなさい。そういう涙の子は決して滅亡に陥るものではありませんから」と言った。その預言は適中した。実際アウグスチノはアンブロジオ司教の説教を聴聞し、彼と語り合ってから改心し、偉大な聖人となったのである。
 彼は他人を愛してその為働いたにも拘わらず、一方には敵もない訳ではなかった。これはしかし、天主聖子なるイエズスにすら敵があったことを思えば別に不思議でもない。即ちアンブロジオは不正な者は如何に権勢の士でも容赦なくこれを誡めた。為に時としてその怨みを買うのも詮ない次第であったのである。かくてそれらの敵は色々策動して彼及びカトリックに圧迫を加えた。けれども彼は毅然としてそれらを耐え忍び、信仰を擁護し、最後の勝利を得た。
 聖アンブロジオがテオドシオ皇帝に対して取った処置は世に名高い。テオドシオ皇帝は信仰の篤い方で常日頃アンブロジオに深い尊敬を抱いて居られ、又彼の方でも皇帝を尊崇していたが、390年テサロニケの人民が謀叛を企て、皇帝並に皇后の御像を泥の中へ投げ込んでそれに侮辱を加えた所、かくと聴かれた皇帝は殊の外のお腹立ちで、早速命じてその人民を有罪無罪の区別なく皆殺しにさせられた。アンブロジオはそれと知って大いに驚きすぐさま皇帝に書簡を送って痛悔と償いの苦行を勧め、併せて暫く教会への御参詣をお禁め申し上げた。しかし皇帝は善からぬ人々の進言により、司教の命令もさまで厳重に守るには及ぶまいと思われ、キリスト復活祭の頃教会へ行幸になった。すると司教は入り口でお迎えするや「陛下には御自分の犯された罪の重さがまだ十分おわかりにならないのではおざいますまいか。どうぞこのまま御還幸遊ばしてあの大罪に又罪をお重ねになりませぬよう御願い申し上げます」と屹としてお諫めしたから、皇帝も言葉なく目に涙を浮かべられたままお帰りになった。しかしその御心にはまだ反抗の念が潜んでいたのである。
 やがてクリスマスが来ると、皇帝はまたも天主堂へ参詣に赴かれた。が、アンブロジオは再びその御入堂をお留めして「陛下は何故敢えて天主に背こうと遊ばされるのですか?」と言った。今度は皇帝も御心を打たれ「余は罪の赦しを得たいと思う。司教よ、主イエズスの限りなき御慈悲を考え、余の入堂を許してはくれまいか?」と謙遜な態度で仰せになった。それを聞くと司教は言った「それではどういう償いを遊ばしますか?」 「何なりとも汝の命ずる事を!}そこで司教は御痛悔の著しいのを認めて、軽い償いを命じ、御入堂並びに秘蹟拝領を御許し申し上げた。これに依ってアンブロジオ司教の権威が更に重きを加えたのは言うまでもないが、皇帝の御謙遜はそれにも増して人々の賛嘆を勝ち得たのである。
 皇帝は間もなく394年崩御になった。その後ローマ帝国は衰微の一路を辿るばかりであった。アンブロジオはそれを見て一方ならず心を痛めた。その中彼自身最期の近づいたことを感じた。「わがこの世を去る日の何ぞ待ち遠しきや。ああ主よ速やかに来り給え。我をいつまでも拒み給うなかれ」これは彼の書き納めの言葉であった。その二、三日後、あたかも聖金曜日に彼は手を差し伸べて祈り、その姿勢のまま御聖体を領け、安らかに目を閉じたのであた。時に397年4月3日のことであった

教訓

人を恐れず常に汝の義務を果たせ。天主は主を信頼し奉る者を決して見捨て給わぬ。常に正しくして、また憐れみの心を養え。




北海道でオーロラが出現

2023-12-06 16:34:57 | 時事
北海道で肉眼で確認できるレベルの大きなオーロラが現れたようです。20年ぶり、もしくは34年ぶりのようです。


8-2-3 新都の建設

2023-12-06 16:11:58 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
2 成祖永楽帝の夢
3 新都の建設

 いま、中国の首都をなす北京をめぐっては、遼・宋・金という蒙・漢・満の三民族が、農耕社会の支配をめぐって、三(み)つ巴(どもえ)の合戦を展開した。
 そのあと、元・明・清とつづいて、おなじく蒙・漢・満の三民族による中国の支配が、ここを首都としておこだわれる。
 それは北風と南風の対決という歴史でもあった。
 明初、漠北にしりぞいた北元は、すでに一三八七年から翌年にわたる馮勝(ふうしょう)と、つづく藍玉(らんぎょく)の遠征によってくずれ、元朝の正統たるトグステムールは敗走の途上、王族イェスデルに殺された。
 しかし北元はほろびても、なお北辺の脅威はつづいた。
 漠北では、あらたな勢力がこれにかわり、大元を継ぐものとして、北辺をおびやかしたのである。
 「燕王のある限り、北顧の憂いなし」との言葉は、藍玉の一党を誅したのちの、北辺に対する洪武帝の期待を、端的にしめした実感であったろう。
 一三九九年に靖難の師をおこして、一四〇二年に南京応天府で帝位についた永楽帝は、その間、北辺をかえりみる余裕がなかった。
 北を征するには、まず国内をかためねばならぬ。
 その最大の脅威は、建文帝の治世とおなじく、各地の諸王であった。
 削藩策をうけついだことは、当面みずからの帝位を安泰にする急務であった。
 しかし、ひとたび削藩に成功したとき、諸王を分封した意図の一つは、うしなわれることとなる。
 北辺の防備は急を要する問題となった。
 いまや北辺に意をそそぐには、南京応天府はあまりにも南方すぎる。しかも南京は、ある意味では永楽帝の敵地でもありうる。
 人心の一新と、みずからの安全と、北辺防備の急務のなかにあって、最良の方策はなにか。
 帝の勢力の地盤たる北平に帰ることであろう。
 それには首都を北平にうつす必要がある。
 遷都の決定は即位の翌年、すなわち永楽元年(一四〇三)にしめされ、北京(ペキン)と改名された。
 国都とするには、それにふさわしい威容がともなわなければならない。
 まして、そこは北虜たる元朝の旧都である。
 北虜に明朝の権威をしめす意味においても、旧に倍する壮大な規模を必要とする。
 改名した北京では、大がかりな都づくりがはじまった。
 完成をみたのは、十有余年をへた永楽十八年(一四二〇)のことである。翌年(一四二一)正月、新装なった順天府北京では、正式の遷都がおこなわれ、南京応天府は副都とされた。
 いまも北京市の姿には、当時のおもかげがのこっている。北京の秋は美しい。
 内城の中央に位置する紫禁城の裏には、東西に走る道をへだてて人工の小山があり、景山の名で親しまれている。
 この山に足をはこび、頂上に立って四周を見わたせば、その景観は、しばしわれをわすれ方せる。
 煤煙にかすむ東京タワーからの展望など、比較の対象にもならない。
 ことに南面して見おろせば、眼下には金色にかがやく禁城の屋根瓦が層をなし、とりかこむ木木の緑とともに、すみきった青空と一線を画し、まことに天下の絶景をおもわせる。まさに“北京の秋は世界一”とたたえられるにふさわしい。

 禁城の規模も、旧江戸城のおもかげをのこす日本の皇居とは、くらべものにもならない大きさである。
 都城の計画も、入念をきわめていた。濠をめぐらした旧北京城そのものは周辺より高く、城内の主要路は、小路のそれより高い。
 ひとたび豪雨がおそっても、瞬時にして主要路の雨水は小路に流れ去る。
 小路に流れこんだ水は、城外へと流れ出るしくみである。
 ただ小路の舗装はわるく、かつては“葫同(ここにいう小路)のぬかるみ”という悪名をとどろかしていた。
 細心の注意は、禁城の建物を方さえる一本の柱にまではらわれていた。
 朱塗りの太い柱をささえる足もとの石台に、こころみに目をむけてみると、石に密着する木柱の底には、いくつかのふさな穴があり、わずかな隙間をつくっていた。
 決して虫くい穴ではない。
 あきらかに人為的なものである。
 理由は通風であり、湿気による腐蝕をふせぐためのものである。
 旧北京城の構成について、くどくど記すのはやめよう。
 周到な計画と入念な工事が、十余年の歳月を必要としたことの一端を知れば、こと足(た)りる。
 北京は森の都といわれる。
 しかし、ふしぎなことに華北の山々には、樹齢が百年をこすと思われるような大樹はなかった。
 民間の伝えによれば、むかしは一面に樹木が繁茂していたという。
 明代に長城がきずかれたおり、煉瓦を焼くためにみな切りはらわれ、いまの姿になったという。
 こうした住民の言葉は、森の都の北京との間に、ひとつのへだたりを思わせよう。







悪魔が悪人の頭である理由  聖トマス・アクィナス 『神学大全』

2023-12-06 16:11:40 | 格言・みことば
 頭(かしら)は、その肢体である成員を、内的に影響を及ぼすのみならず、外的にも彼らを統治し、ある目的に向けて彼らの行動を方針づける。ここから、誰かが多くの人々の頭であると言えるのは、あるいは、その両方の意味においてである。すなわち、内的に影響を与えており、しかもさらに、外的に統治しているからである。

 ゆえに、この両方の意味で、キリストは教会の頭である。あるいは、単に、外的に統治しているからである。だから、この意味で、全ての君主や教会指導者(司教)は、彼に属する多くの人々の頭である。

 そして、この後者のやり方で、悪魔は全ての悪人どもの頭である。なぜなら「彼は、全ての傲慢の子らの王である」(ヨブ41:25)と聖書に書かれているからだ。

 統治者には、自分が統治する者たちを彼らの目的に導くことが属している。

 ところで、悪魔の目的は、理性的被造物を神から引き離すことである。したがって、原初から、悪魔は人間を神の掟に従順であることから引き離そうと試みた。

 しかし、「神から引き離すこと」自体には、自由の外観のもとに追求される限り「目的」という理念がある。それは、エレミア(2:20)の言うとおりである。「いにしえに、お前は軛(くびき)を壊した、おまえは絆を振り払ってこう言った、「私は仕えない」と。」

 よって、誰かが、罪を犯すことによってこの目的まで導かれる限り、彼らは悪魔の支配と統治のもとに陥る。だから、悪魔は、彼らの頭と呼ばれる。

聖トマス・アクィナス 『神学大全』第3巻第8問






聖ニコラオ司教  St. Nicolaus E. 

2023-12-06 05:20:12 | 聖人伝
聖ニコラオ司教  St. Nicolaus E.                記念日 12月 6日


 キリスト教国の子供達に最も人気の或る聖人といえば、誰しも気がつく通り聖ニコラオ司教であろう。世に言うサンタ・クロースのお爺さんが即ちそれで、日本やプロテスタントの国などではクリスマスに子供達へいろいろの贈り物を持って来てくれると言われているが、ドイツその他のカトリック国では、その祝日の12月6日に、親親戚などが聖ニコラオに扮して良い子には褒美を与え悪い子には訓戒を与える習慣がある。しかし実際は聖ニコラオはただ子供達の保護者であるばかりでなく、また処女、囚人、船員、商人、学生たちの保護の聖人として知られ。信仰を擁護した有名な司教である。
 この聖人は270年小アジアのパターレに或る富豪の子と生まれた。そして身分相応に学問はもちろんのこと宗教方面に於いても立派な教育を受けたが、両親は早く世を去って彼に莫大な財産を遺した。ニコラオはそれを善業に用いようと決心し、且つその決心を実行したが、中でも今日まで伝えられている特に有名な善業は次の話である。
 3人の娘の父が貧乏の悲しさにその中の一人も嫁にやることが出来なかった。それでいろいろ思い悩んでいる中に魔が差して、娘たちを皆魔窟へ売り飛ばそうという気になった。ニコラオはそれを聞いて大いに驚き、是非その可哀想な娘たちを助けねばならぬと考えたが、生来謙遜な彼は人に知られるのを厭い、一人の娘を嫁がせるのに十分な金を、或る晩夜陰に乗じて窃かにその家へ投げ込んでやった。それから次の晩も、またその次の晩もそうした。ところが重ね重ねの隠徳を蒙って、その主を突きとめたいと思った娘の父は、三晩目には寝ずの番をして、とうとうそれがニコラオであることを知った。ニコラオはそれに就き相手に堅く口止めをした。しかしいつかその善業はあまねく世間に知れ渡り、彼の評判は一時に天下に高くなったのである。
 彼が立派な準備をして司祭に叙階されてから暫く後のことであった。ミラの大司教が亡くなり、その後任に誰を選ぶべきか思い惑うた司教達が、天主の御啓示を願って一心に祈っていると、夜に入って天から声あり、「明朝真っ先に教会を訪れるニコラオという者こそ天主の御眼識に適った人物である」と告げた。ニコラオはその時ちょうどミラに居合わせ、翌朝何の気もなく教会へ行ったが、図らずも最初の参詣者となり、問われて名乗った所たちまち司教に挙げられることとなった。彼は始め懸命に事態しようとした。けれども遂にそれが天主の聖旨と知って快く承諾するに至った。やがてまたヂオクレチアノ皇帝の迫害が勃発した。皇帝は教会をことごとく焼き払い、司教司祭はもちろん平信者までも殺せと厳命を下した。但し迫害の厳しさは何処も同じという訳ではなかった。殊に遠隔の地方では役人の考えにより随分ゆるやかな所もあった。
 とはいえニコラオ司教は捕縛拘引を免れなかった。そして飽くまでも信仰を棄てぬと言い放った為に、激しく打ち叩かれた後牢屋に投げ込まれた。彼はそのままコンスタンチノ大帝がキリスト教徒に信仰の自由を許した時まで打ち捨てて置かれた。そしていよいよ釈放されると、あらん限りの力を尽くして教会の復興、信者の教導、異教徒の改宗に努めた。なお彼は当時盛んであったアリオ派の異端に対し、護教上にも功労があり、二ケア公会議にも列席した。
 ニコラオは信仰にも熱心であったが、博愛の情にも甚だ厚かった。彼の司教区は貧しく。食糧なども一部は遠隔の地からその供給を仰がねばならぬ有り様であった。それで教区の貧民たちが窮乏に苦しむ時など、天主は忠実なる僕ニコラオの手より、驚くべき奇蹟を行わせて彼等を救い給うこともしばしばあった。
 或る時のことである、穀物を積んだ幾艘かの舟が、暴風に吹き流されてミラの海岸に漂着した。時あたかもミラは飢饉に悩んでいたから、司教はその舟の各々から百マスづつ小麦を貰うよう懇願した。船長たちは彼の望みの切なるに動かされて之を承諾したが、出帆の後改めて見れば、こは如何に、与えて減った筈の穀物が、元通り少しも分糧に変わりがなかったという。
 ニコラオはまた、あられもない濡れ衣を着せられて死刑を言い渡された3人の生年の命を助けてやったことがある。同じく無実の罪を負わされて世人の攻撃非難の中に殺される事になっていた数人の高官を、天主の御助けにより奇跡的に救ってやったこともある。わけても船乗りたちの危難に奇蹟を行って、彼等を助けたことがしばしばあった。彼が今もカトリックを奉ずる海員水夫たちの間に一方ならず尊敬されているのは、この理由に基づくのである。
 ニコラオの帰天は341年のことであった。生前幾多の不幸な者を助けたこの聖司教は、死後も世人に敬慕されること甚だしく、天主もまたその代祷に応じて数多の奇蹟を行い給うた。1087年彼の遺骸はイタリアのバリ市に移されたが、その墓畔には奇蹟が絶えず、参詣してその助力を願う者引きも切らない。


教訓

 聖書は人知れず善業をなすべきことに就いて「汝が施しをなすに当たりて、右のなす所、左の手これを知るべからず」と諭している。故に我等は数々の陰徳を積んだ聖司教ニコラオに倣おう。そうすれば隠れたるに見給う天主は、公審判の時あらわに之を賞し給い、一層大なる天国の報酬を賜わるに相違ない、自家広告の為にする善業などは後の世にさほどの功勲とは認められぬであろう。