カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

聖マリア・マグダレナ      St. Maria Magdalena   

2024-07-22 00:00:05 | 聖人伝
聖マリア・マグダレナ      St. Maria Magdalena            記念日 7月 22日


 聖福音書中に記された聖女中、主の御母を除けばマリア・マグダレナほど人口に膾炙している人はあるまい。それではその生涯の事跡はどうかと言えば、ほとんど明らかに知られていないのである。そかしただ聖書中の彼女に関する乏しい記事を一読するだけでも、その主に対する熱烈な愛情といい、罪に対する深甚な痛悔の念といい、偉大な聖女よと讃嘆せずにはいられない。

 初めてマリア・マグダレナに就き述べているのは聖ルカ福音史家である。曰く「かつて悪魔を追い払われ、病を癒された数人の婦人、即ち七つの悪魔のその身より出でたマグダレナと呼ばれるマリア、ヘロデの家令クサの妻ヨハンナ及びスザンナ。その他多くの婦人がいて自分の財産を差し出し、彼等(主や使徒)を助けていた」(ルカ 8・2-3)と。これより察せられる如くマグダレナは主の御力により悪魔の手から救われて以来、感謝の心に充ち溢れて、主の御傍を離れず何くれとなくお仕えしたのであった。
 初代からの伝説によれば彼女はラザロとその姉妹マルタの妹で、若いとき両親に死別するや遺産の分配を受けてガリレアのマグダラという所に行き、豪奢な生活を営み大罪を犯し堕落したというが、それとも別に罪はなかったものの、天主の思し召しによって暫く悪魔にわたされたのであるか、その辺のことはつまびらかではない。ただイエズスに救われて後、痛悔と主への愛を片時も失わなかったことだけは確かである故に聖母マリアの純血無垢な聖愛を白百合に喩えるならば、マリア・マグダレナの痛悔の血涙により前非を洗い流した真紅の薔薇にも比することが出来よう。
 実際彼女は主の行き給う所はどこへでも影の形に添う如くお供をして行った。ガリレアの野邊をさまよい給う時も、サマリアに福音を述べ、ユダヤに奇跡を行い給う時も、彼女はお傍を去らなかった。それはもとより力の及ぶ限り主の御助けをしたいからでもあったが、より以上聖教をよく悟り、これを実行せんが為であった。その道への熱意、主が特に彼女を賞賛し給うたのもその点に於いてに他ならなかった。
 それは主がベタニアなる彼女の兄ラザロの家を訪れ給うた時であった。姉のマルタは主に心づくしのもてなしをしようと、台所でまめまめしく働いているのに、マリアはただ主の御足許に座ったまま。その悟り給う御言に我を忘れて聞き惚れていた。マルタはそれが気に食わなかった。で、露骨に不満の色を面に現して「私がこんなに急がしゆうございますのに、陽気そうにお傍に座っているとは、妹もあんまりだと思います。どうぞ私の手伝いをするように貴方からもお申し付け下さいませ」と言った。するとイエズスの御答えは意外であった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろな事に心を使ってはあくせくしているが、必要なことは唯一つしかない。マリアはその一番よいことをしているのだ。それをやめさせる訳にはいかぬ」と。これはもちろん主と一致する祈祷黙想の精神を忘れていたずらに外面的な活動に奔るの愚を戒め給うと共に、マリアの求道の熱心をよみし給うた御言葉である。
 が、それにも増して彼女を賞賛し給うたのは御受難の六日前のことであった。やはりベタニアである人々がイエズスや御弟子達を晩餐に招待し、マルタが給仕をしていると、マリアが高価なナルドの香油を器に入れて来て主の御頭と御足に注ぎ、それから御足を自分の丈なす髪の毛で拭った。これはもとより主を愛し奉るマグダレナの至情から出たことで、彼女の念頭にはただ主をお喜ばせしたいという一念よりなかったのであるが、それを見るや弟子達の中にさえ憤慨して「もったいないことをするものだ、あれだけの油を売ったら、随分金目になって沢山の貧乏人に施してやることが出来たものを・・・」と呟く者があった。ところが主は彼女の純情をよみされ、彼等をたしなめて言われるには
 あなた達はどうしてこの女のことをかれこれ言うのか?この女が私に香油を注いだのは、死に赴く私に対するせめてもの餞別である。その愛はまことに感ずべきではないか。私はあなた達に告げておく、全世界のどこであろうとも、わが福音の述べ伝えられる所には、この女のした事も記念として語り伝えられるであろう」と。ああ、その時のマグダレナの嬉しさは、いかばかりであったろうか!
 されば彼女は主の聖恩に感じ、ますます主に傾倒するばかりであった。イエズス御受難のときが始まるや、多年主の御薫陶をかたじけのうしていた使徒達まで、敵を恐れて甲斐もなく主を見捨て、逃げたり身を隠したりした。しかしマグダレナは決してそういう卑怯な真似はしなかった。彼女は聖母と共にカルワリオへの道を、どこまでも主の御あとを慕って行った。そしていよいよ主が十字架に磔けられ給うてからも、その御足下にひれふして力の限り十字架を抱きしめ、流れ下る聖い御血に自分の熱い涙を交えて主の御苦痛を共に苦しみ、その壮烈な御最後を見届けた。それから安息を守るべき時間も迫ったこととて、他の敬虔な婦人達と力をあわせて御遺骸の仮埋葬を手伝い、一番あとまで聖母の御傍を離れず誠心こめてお慰め申し上げた。
 三日目、即ち安息日の終わった日曜の朝には主の御屍を洗い香油を塗るなど本葬の準備をするため、マグダレナは誰よりも早く御墓を訪れた。するとどうしたのか肝心の御遺骸が見当たらない。彼女はてっきり誰かに盗まれたに相違ないと思い、大いに驚いて使徒達に急報したのち、涙にくれつつその付近のここかしこを探し廻った。聖ヨハネの福音書によれば、その時後ろに人の気配がして「どうして泣いているのか、誰を探しているのか」と声をかけた者がある。マグダレナは庭の手入れをする植木屋と思い、後ろも振り返らず「貴方ですか、主をどこかへおやりになったのは?それなら在り場所を教えてください。私が引き取りますから・・・」と言った。すると「マリア!」と再び呼びかけられた声に聞き覚えがある。彼女ははっとして振り向くと、そこに立ち給うのは案の定懐かしいイエズスであった。主は宣うた如くよみがえられたのである。彼女は喜びに充ち溢れて「ラボニ(先生)!」と言いざま御前に平伏してしまった。それからマグダレナは主の御命令のままに使徒達の所へ行き、「私は主にお目にかかりました。主はこうおっしやいました」と一切の顛末を話して聞かせたのであった・・・。
 彼女のその後の生涯に就いては確かには知られていない。ある伝説によれば彼女は兄のラザロと共に南フランスに流され、そこで命を終わるまで隠遁生活を送ったとも言い、またエルサレムの総主教モデストやツールの司教聖グレゴリオ等の伝える所に従えば、聖母マリアや使徒聖ヨハネとエフェゾに行き、聖なる生活を営み同地で永眠したとも言う。

教訓

 イエズスはかつて聖マリア・マグダレナについて「この女は多く愛したるが故に多くの罪を赦されるなり」と仰せられた。故に我等も人間の弱さからいかに恐るべき大罪に陥ったとしても、決して失望せず、マグダレナに倣い主に対する愛の火を燃やすように努めよう。そうすれば罪も赦され、償いも自ずと果たされるようになるに違いない。イエズスを愛することこそすべての義の源である。




ブリンディジの聖ラウレンチオ司祭教会博士  St. Lawrence de Brindisi

2024-07-21 00:00:05 | 聖人伝
ブリンディジの聖ラウレンチオ司祭教会博士  St. Lawrence de Brindisi  記念日 7月 21日


 ラウレンチオは1559年イタリア南部のブリンディシで生まれ、16歳の時カプチン会修道院に入り、パドアで司祭となった。当時は、16世紀の宗教改革の時代であったので、ラウレンチオは中央ヨーロッパを説教して回り、カトリック教会の立て直しに全力を尽くした。その頃トルコ軍がハンガリアに侵入し、国全体を占領しようとしていたので、ルドルフ2世王はラウレンチオに頼んでドイツの領主達にトルコ軍を追い出すように嘆願させた。ラウレンチオは、自らキリスト教の軍隊のリーダーとなって、トルコ軍を恐れる兵士達を励まし、十字架を手にして先頭に立った。その結果、トルコ軍は完敗して追い出された。
 ラウレンチオは、平和をもたらす人としても成功した。というのは、1617年、スペインとサヴォアとの紛争に際しては講和を仲介し、1619年には弾圧されたナポリ人の訴えをリスボンにいたスペイン王に伝えた。この旅行はラウレンチオを非常に疲労させ、彼は同年50歳の誕生日に帰天した。





19歳で喫煙すると五輪出場辞退とか

2024-07-20 09:55:13 | 時事
 19歳の体操の日本代表がパリ五輪出場辞退に追い込まれたようです。喫煙が発覚し、その後、飲酒も発覚したからだとか。

 いくらなんでも、不寛容が過ぎるでしょう。大麻や麻薬を吸った、とかなら、わかるのですが、これは罪刑の均衡を著しく欠いています。厳重注意をして、反省文を提出させれば、済む話ではないでしょうか。

 処罰を求めるSNS上の大合唱にも驚きました。最近は、どこにおいても、日本人がかつてより遥かに不寛容に、せせこましくなってきたように感じます。原因は何でしょう? 殆どの日本人は信仰や道徳を教わる機会がないうえに、不遇な境遇に悩んでいるせいでしょうか。この罪刑のバランスを著しく欠いた過剰な処罰の要求の裏側には、そういう感情や成功者への嫉妬が潜在的にありそうに見えます。

 ここまで求めなくてもいい事案なのに・・・。みんなで赦し、はげませばいい事案なのに・・・。

 本当に日本も末期的だと感じる次第です。


 それにしても、発覚原因が内部通報とありますが、誰が何の目的で通報したのでしょうか?
 また、体調不良以外の理由では補欠との交代が認められず、日本の女子体操選手団は4人で戦わなければいけないようです。おそらく、最初からメダル取得は絶望的でしょう。少なくとも、他の4選手に全く罪はないはずですが、彼女らの為にも、処罰を先送りすることはできなかったのでしょうか。処罰の方法や程度が適正であったのか、幾重にも疑問を感じます。

 繰り返しますが、未成年の飲酒や喫煙を無問題だと言っているのではありません。罪刑の均衡を問題にしています。例えば、初犯で少額の窃盗に対して、死刑は行き過ぎでしょう。そのようなことを「罪刑の均衡」と呼びますが、この件はそれに大きく反しています。




9-7-6 ベーリングの後援者

2024-07-20 02:37:15 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
6 ベーリングの後援者

 ロシア人のシベリア進出は十六世紀から本格的に行なわれているが、またこの地は流刑地として有名である。
 まさしく「シベリア流刑史は、シベリアの発見とともにはじまる」のである。
 そして十七世紀にもシベリア経営は、主としてコサックにより原住民を征服しつつ行なわれ、その間にはオホーツク海岸や、いまのベーリング海にのぞむ地方も探検された。
 このシベリア開発のおもな目的は良質の毛皮をうることにあり、これをもとめて、多くのロシア商人が出かけた。
 彼らによって都市がつくられ、これに応じて、農民の強制植民もすすめられた。
 ヤクーツク市は、シベリア東部進出の拠点となった。しかし十七世紀中ごろ、ロシア人がアムール川(黒竜江)の流域に進出すると、当時の清朝勢力と衝突するにいたった。両者のあいだにたびたび戦いがまじえられたが、これを平和的に解決したのは、一六八九年に成立したネルチンスク条約である。   

 その後もピョートルは中国との交渉に意をもちい、死去する直前に派遣されたロシア使節団は、一七二七年、清国とのあいだにキャフタ条約をむすんだ。
 これは蒙古方面との国境や、通商、外交上などについて定め、二十世紀にいたるまでのロシアと清国との関係をきめるものであった。
 一方、十七世紀末、ウラジミール・アトラソフ(?~一七一七)によってカムチャッカが発見されていたが、晩年のピョートルは、極東方面への探検隊派遣を計画した。そして海軍大尉ベーリング(一六八〇~一七四一、デンマーク人)の一隊が、一七二五年二月、ピョートルの死の直後、ペテルブルクを出発してヤクーツクへ向かった。
 ここからオホーツクへぬけるあいだにさえ、一行は飢えきって、死んだ馬の肉はむろん、荷袋や衣服の皮革まで食糧とするありさま、十月末ころ、やっとオホーツクへ達した。
 そして、一七二八年三月、苦心のすえニジニ・カムチャッカにたどりつき、船をつくって七月中ごろ出航、のちにベーリング海峡と名づけられた海上を進んだが、陸影を見なかったのでひき返し、二大陸が離れていることを知った。               

 その後、一行がいろいろな情報や物資をえて、ペテルブルグへ帰ったのは、一七三〇年三月であった。
 さらにこの事業を完成させるため十分に準備をととのえ、一七四○年、ベーリングは二度目の探検に出発した。
 そして一行はアラスカに達し、アリューシャン群島を発見したりした。
 しかし帰途、ベーリングは難船して無人島(いまのベーリング島)にうちあげられ、そこで生涯をとじた……。
 この晩年のピョートルは家庭生活において、めぐまれなかった。
 最初の妻エウドーキアとの不和については前述したが、彼女は修道院にはいり、やがて正式に離婚する。
 皇太子アレクセイも成人すると、この母に味方し、父を敵とするようになった。
 彼は「改革」に反対する大貴族の陰謀にくみし、
 「親父が死ねば、わたしがツァーリになる。
 そのときにはペテルブルグは荒野となり、首都はふたたびモスクワになるだろう。
 海軍も廃されるし、スエーデンとの戦争もやめる」

と公言したが、ついに「反逆罪」にとわれ、一七一七年死んだ。
 この死因については、さまざまなうわさが流されていた。
 ビョートルははじめ、アレクセイを廃嫡して修道院にいれる考えであったが、この息子は父にそむいてウィーンに逃亡し、ついで本国に送還されると、軍法会議にかけられた。
 そこで死刑が宣告され、二日後に執行されたというが、一説によると、この日の朝、父と九名の将官のまえで取り調べをうけ、拷問中に死んだともいう。
 ピョートルの二度目の妃がエカテリナで、一七〇二年夏、北方戦争中、敵の捕虜のなかから見つけられたという女性である。

 その後五年間ほどを、彼女がどのように暮らしたかはわかっていない。
 一説によると、彼女は本名をマルタとよび、リトワの農奴の娘であったというが、ロシア軍に捕われてからは、おそらく「遠征妻」「兵士妻」など、いわゆる陣中のなぐさみものとなったのではなかろうか。
 記録ではっきりしてくるのは、シェレメーチェフ元帥家にいるときからで、やがてメンシコフ公爵邸にうつっているが、これはかこいものであったらしい。
 たまたまピョートルがここを訪れたとき、一目見て好きになり、むかえて皇妃とした。
 このようにいかがわしい素姓の女性であったから、エカテリナは学問も、教養もなく、文字さえも読めなかったという。
 ただ持ちまえの美貌のうえに、よく気がきき、客扱いが巧みであったのが、ピョートルの気にいったらしい。
 しかしさすがのピョートルも、この皇妃を外国の王室の前にだすのは気がひけたとみえて、フランス訪問のさいにも同伴はしなかった。
 彼女の好みは派手であったが、あるドイツ王女の評によると化粧は「道化役者」のようで、衣裳は「流行おくれ」で、「一目でおさとが知れる」と。
 ところでピョートルの最期は、偶然がきっかけとなった。
 一七二四年十一月のある日、国内視察中に、たくさんの兵士たちを乗せたボートが、浅瀬に乗りあげているのに出くわした。
 ピョートルはみずから水中にとびこんで腰までつかり、大男の強い腕力をもって、これを救った。その水がたいへん冷たかったためか、彼は急に発熱し、視察をあきらめてペテルブルグに帰ったのち、翌二五年一月末、世を去った。
 五十二歳。ロシア絶対主義国家の原型があとに残された。
 一七二二年、ピョートルは皇帝自身が後継者を指名する帝位継承法を制定していた。
 しかし彼はこれを行使せず、死にのぞんで何か書こうとしたが、読みとれたのは、「すべてを………あたえよ」という言葉だけであったという。



私たちの導き手 聖モンフォール

2024-07-20 02:26:19 | 格言・みことば
天国へ続く道から外れてしまったのですか。マリアの名は「海の星、現世の航海中に私たちの魂の船を導く北極星」を意味し、彼女はあなたを永遠の救いの港に導いてくれるでしょう。

聖ルイ・ド・モンフォール『ロザリオの神秘』