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カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ピオ5世教皇   St. Pius V. P. P. 

2025-04-30 00:00:05 | 聖人伝
聖ピオ5世教皇   St. Pius V. P. P.          記念日 4月30日



 1565年にピオ4世教皇が亡くなった時、最適任者としてそのあとを継いで教皇となったのは、アントニオ・ミカエル・ギスリエリで、彼は1556年に司教に任命されるまで、ドミニコ会の学校で哲学と神学を教えていた。

 ピオ5世として教皇の座についた時、教皇登位を祝う代わりに、その費用を全部ローマ市内の貧しい人々や、経営困難の修道院に送った。司教や司祭は信者達から遠く離れて住むべきではないとして、司教区と小教区に住まわせ、ローマ市街における闘牛や動物いじめを禁止し、日曜日を聖日として守るように勧め、月に一度、特別な法廷を開いて、不正に扱われている者を招いて、その言い分を聞くようにした。

 1571年、トルコ軍が東欧のキリスト教国を侵略し、大艦隊を連ねてイタリアへ向かってきた。ピオ5世教皇はヴェネツィアとスペインの君主と協議して連合軍を組織し、敵を迎え撃つことにした。同年10月レパントの戦いでトルコ軍は撃滅された。ピオ5世の教皇としてわずか6年しか在位しなかったが、偉大な業績を残したのであった。










シェナの聖カタリナおとめ聖会博士  St Catharina Sinensis V.

2025-04-29 00:00:03 | 聖人伝
シェナの聖カタリナおとめ聖会博士  St Catharina Sinensis V.    記念日 4月 29日


 シェナの聖女カタリナの生涯は、聖パウロが記した「神の愚かなる所は人よりもさとく、神の弱き所は人よりも強し」(コリント前書1-25)という言葉の、良き例証とも言えよう。何となれば、彼女は別に深い学問もないか弱い女の身を以て、当時の紊乱した教会を粛正する上に、他の何人も及ばぬ偉大な影響を与えたからである。

 彼女は1347年聖母御告げの大祝日に、染物師ベニンカサ家の第二十四子として、イタリアのシェナに生まれた。信仰の厚い父母は生計も豊かであったので、数多い子供たちながら何不自由もなく十分に教育を与えることが出来たが、中でもオイフロシネ(朗らかの意味)と呼ばれたカタリナは他の兄弟姉妹と異なり、早くからイエズスその他の御出現を見たり、脱魂状態に陥ったりして、天主の特別の御寵愛を蒙っている者であることを察せしめた。

 かように豊かな霊的恵みを受けていたカタリナであるから、僅か7歳で終生童貞の誓願を立てたのもさこそとうなずかれるが、父母は後にこの美貌の娘を他家に嫁がせようとしてはじめてその事を知り、烈火の如く怒って彼女を下女同様にこき使うこととした。しかしカタリナはただ天主の御慰めを力として、この酷遇を忍ぶこと、実に三年の久しきに及んだのである。

 その内に両親も彼女が天主に選ばれた者であることを悟って、その志を妨げようとはしなくなった。けれどもカタリナが耐え難い心の悩みに襲われ出したのは、却ってその後のことであった。というのは、今まで天使のように清浄だった彼女の胸に、どうしたものか絶え間なく穢わしい思いや想像が起こるようになって、いかにそれを防ごうとしても防ぎ切れなかったのである。
 勿論これは天主の試練に過ぎなかった。しかし彼女には、自分は到底滅亡を逃れ得ない身ではないかと思われるほど絶望に満ちた期間であった。その頃の話である。彼女が例の如く激しい誘惑に苦しめられ、思わずも「ああ主よ、主は私をこの悩みの中に見捨ててどこにおいでになるのでしょう」と怨んずると、胸裏に響く声あって「お前の心の中に!」と答えるので、「でも、私の心にはこんなに穢らわしい思いが充満ちておりますのに」と申し上げた所、更にその声が言うには、「しかしお前はその思いを喜ぶか、どうか?」「いいえ、心底から憎んでおります」「そうであろう。それが即ち私がお前の心の中に留まっている証拠である」カタリナはこれを聞くと深い慰めを覚え、以後は如何に誘惑の嵐が吹き荒れても、毅然として起ち、不動の信念を以て立派な勝利を得たという。

 彼女は三年の間祈り、黙想、労働の中に召し出しに対する準備をし、18歳の時いよいよ許されて聖ドミニコの第三会に加入した。この会の会員は、修道院に入って同志と共同生活をせず、在家のまま聖ドミニコの精神に従って、及ぶ限り福音の勧告を実行し、また他人の救霊の為につくすのである。さればカタリナも入会の後は町中を廻り、貧民には己の持ち物すべてを恵み与えなおその為に施し物を集めてやり、病者には力を惜しまずに仕え、殊にらい病、ペスト等恐るべき伝染病に罹れる者をも厭わず看護し、その他手の足らぬ家の掃除を引き受けるなど、まめまめしく立ち働く有様は、実に感嘆すべき限りであった。にも拘わらず、人間は心のひねくれたもので、かような彼女に就いても悪言を放ち、その名誉を害せんとする者もないではなかった。わけても乳癌を患っていた一人の婦人の如きは、かねてカタリナに一方ならぬ恩誼を受けていながら、その長上に根も葉もない讒訴を試みたりしたが、彼女は少しも悪い顔をせず、なおもその婦人の為に懇ろな介抱を怠らなかった。母がそれを歯がゆい事に思ってたしなめると、カタリナは「イエズス様は恩知らずのユダヤ人等が主を罵詈雑言し、侮辱したにも拘わらず、彼等を救う聖い御事業を決して中止なさいませんでした。それを思えば私も僅か二三度悪口されたからと言って、主の命じ給うた隣人愛の業を捨てる訳には参りません」と気高くも答えたそうである。



 カタリナは度々主の御出現を拝んだ外に、唯飲み物のみで生命をつなぐ恵みをも受けた。その為しばしば厳しい調査が行われ、それにつれて様々の風評も立ち、彼女は衆人の誤解に苦しめられなければならなかったが、ある日イエズスは片手に黄金の冠、片手に棘の冠を携えてお現れになり「わが子よ、いずれか一つを選べ!」と仰せられた。するとカタリナは言下に棘の冠を取って頭に押し戴き、「私はかたじけなくも主の浄配と選ばれました者、主と同じ苦しみの棘の冠こそ似合わしうございます。」と申し上げ、勇ましくも主に倣って十字架の道をゆく覚悟の程を明らかにしたのであった。

 


 かくも殊勝な心がけをよみされたのであろうか、1374年主は又も彼女に現れてその身に五つの聖痕を印し給うた。それらの傷は目にこそ見えなかったが、痛みは極めて甚だしく、死に至るまで癒えなかった。その折り主はまた宣うた「我は汝に知識と雄弁との恵みを与える。往きて各国を廻り、その権力者、指導者に我が望みを伝えよ。」と。
 この聖言に従って、それからカタリナに諸所方々を旅行し、王侯貴族や高位聖職者達を訪れ、平和を守るべき事を説き、書簡や著書を以ても之を勧め、この世に主の御国を来たらしむべく努力した。のみならず当時教皇領内の二都市の市民が時の教皇グレゴリオ11世にそむき皇帝より追放されようとしたのをとりなしたり、七十年程前から教皇が都合によりフランスのアヴィニヨン市に移して居られた聖座を、再びローマに復帰せしめる為奔走したり、そういう方面にも大いなる功績を残した。が、シェナの聖女の使命はそればかりではなかった。その頃教会の上に立つ人々の間に、奢侈贅沢に流れる風があるのを憂えたカタリナは、はばかる所なくその改革方を教皇に進言した。この彼女の勧告は、次の教皇ウルバノ6世に依って実行されたが、不幸にもその方法がやや過激であった為、幾多の枢機卿は不満から離教し、別の教皇を押し立てるに至った。
 カタリナはこの面白からぬ状態を救うべく、彼等に或いは書簡を送り、或いは逢って懇願し、どれほど調停に努めたかわからない。彼女は衆人の躓きとなるその離教者等が、幸いにやがて再び聖会の懐に帰るべき事を主に示され、之を世人にも預言したが、彼女自身はその喜びを見る前に、此の世を去らねばばらなかった。

 一生を主への犠牲として献げた彼女の霊魂が、苦行に病苦に衰え果てた肉体の絆を断ちきって、在天の愛する浄配の御許に急いだのは、1380年の4月29日のことであった。彼女の最後の言葉は「ああ主よ、わが魂を御手に任せ奉る」の一句。享年は33歳、それといいこれといい、奇しくも御主の御最期に似通っているではないか。
 その後彼女の取り次ぎによる奇跡は無数に起こり、1461年、同じシェナ市生まれの教皇ピオ2世は彼女を挙げて聖列に加え、以てその偉徳を讃えられた。

教訓

 聖女カタリナは僅か33年年の生涯を献げて、主の御旨に従い、聖会の為、世の安寧幸福の為、かほどまで尽くす所があった。我等も彼女の如く天主に与えられた使命に忠実に、時を惜しんで勉めるべきである。


十字架の聖パウロ証聖者  St. Paulus a Cruce C.  御受難会創立者

2025-04-28 00:00:03 | 聖人伝
十字架の聖パウロ証聖者  St. Paulus a Cruce C.  御受難会創立者     記念日 4月 28日



 十字架の聖パウロは西暦1694年、北イタリアのジェノバに程近いオヴァダという小さい都市に生まれた。ようやく物心つく頃から既に信心も深く、犠牲心に富み、世の常の子供等とは選を異にしていた。それかあらぬか、この子には早くから聖母マリアの特別な御保護が見られ、ある日川端で遊んでいた彼が、誤って河中に落ち、すんでの事に溺死しようとした時、突然聖母が現れて造作もなく救い出して下さったなどという話もある。従ってパウロが天の御母に対し一方ならぬ深い愛を持ち、燃え立つ報恩感謝の念を抱いた事もまた言うまでもない。そしてその冥々の御指導の下に、彼は主の御苦難をしばしば黙想して、尊さ御いたわしさに耐えられず、自らも主にあやかるべく様々の苦行を行い、毎金曜日には苦肝の入った酢を飲んだりした。かくパウロは超自然的には聖マリアに守られ、この世では敬虔な両親の躾を受け、心も清く身も清く生い立ったが、20歳になった頃主の為に生命を献げたい一念から、兵士となって折しもトルコと戦いつつあった祖国イタリア軍に投じた。しかし途中天主の啓示を受けて、かような現世の戦争よりも、むしろ超自然界の霊的戦いに参加するこそ、自分の本来の使命であることを悟り、軍籍を辞して故郷に帰ったのである。

 それからパウロは同市数人と共にアルジェンタロ山という人跡稀な深山に入り、祈りと黙想の聖い生活を始めたが、司教が世の冷淡な信者の心に再び熱烈な信仰の火を灯すべく、パウロ等の積極的活動を望んで已まないので、彼もその気になり、まずローマに行ってベネディクト14世教皇から叙階の秘跡を受ける一方、その許しを得て「御受難会」という一修道会を創立し、さきの自分の同志達をこれに入会させることとした。

 彼が聖職者となって再びアルジェンタロ山に帰ってきた頃のことである。聖母マリアが又も彼に現れて、黒の粗服の胸部に心臓が描かれ、その中に十字架とイエズスの御名とが記されているものをお示しになった。パウロはそれを見て、新修道会の会服をかく定めよとの思し召しであると悟った。なるほど会の目的は主として会員自身イエズスの御苦難を黙想すると共に、一般信者にもその玄義を深く味わせる所にあるのであるから、これほど適当な会服は他にないに相違ない。そこで彼は正式にそれを自分の会の会服と定めたのであった。なおこの会は聖母の御悲しみに対する尊敬を深めることもあわせて目的としているのである。それはさておき、聖パウロはその熱烈な祈りと苦行とにより、冷淡な信者や罪人をどれほど沢山改心させたか解らない。またその会員の努力により、悲しみの聖母に対する信心も驚くほど速く世に広まったが、そのため思いがけぬ恵みを蒙った人々もどれほどあったか知れない。聖パウロはイエズスの御苦難を黙想する度に、いつも胸が主への愛熱に燃え切れるよう感ぜぬことはなかった。そしてその為かついには二本の肋骨が表にあらわれるに至ったという。彼はなお天主から、未来の事や他人の心中を見抜く力をも賜っていた。

 御受難修道会の発展は実に目覚ましいばかりであった。数年後には女子の為にもその修道会が創立された。十字架の聖パウロは総長としてこれらの会員を前後四十年の長きに渡って指導し、己が善徳を以て彼等の鑑となり、高齢に達してから自分の預言した1775年10月18日に平和な死を遂げて永福の国に入ったのであった。

教訓

生きとし生ける人、誰か生活に多生の十字架を感ぜぬ者があろう。その十字架の苦しみを忍び易からしめる最良の途は、十字架の聖パウロに倣ってしばしば主の御苦難を黙想することである。しかもこれは救霊の聖寵を蒙る上にも極めて効果が多い。されば我等は出来得る限り毎日、寸暇を割いてその黙想につとめるがよい。








聖ジタおとめ    St. Zita V. 

2025-04-27 00:00:03 | 聖人伝
聖ジタおとめ    St. Zita V.         記念日 4月 27日



 聖女ジタはイタリアのモンテセグラディ村出身の貧しい両親の子と生まれた。父は早く世を去ったから、忘れ形見を育てる責任は、全くか弱い母の肩一つにかかった訳である。しかし信心深い彼女は、自分の言行を以て子供等に鑑を示し、彼等に敬虔を教え込む術をよく心得ていた。「祈り、且つ働け!」とは、ジタが幼いときから、母に殆ど口癖のように絶えず言われて来た言葉であった。それでジタはこの一句を深く心に銘記して、生涯忘れる時なく、聖徳を積む基礎としたのである。

 12歳になると彼女はルッカという町のさる高貴な家へ女中奉公に住み込んだ。あまりに謙遜で信心深い彼女の振る舞いは、始めかえって人々の軽蔑の種となり、随分邪険な取り扱いも受けたが、彼女は克己抑制、よく一切を耐え忍んだ。その内にその篤信、その従順、その忠実、その職務への熱心は、彼女に最後の勝利をもたらさずにはいなかった。人々はやがてジタを聖女の如く敬愛するようになったのである。
 ジタは忙しい中からミサ聖祭にあずかったり、祈りを献げたりするひまを作る為に、毎朝まだ暗い内から床を離れた。御聖体を拝領した時には、必ず主人一家の為にも祈ることを忘れなかった。彼女は彼等が奉公人である自分にとって聖い天主の代理者であると、硬く信じていたからである。
 夕方女中の務めを終えると、彼女は好んで聖書や信心書の類を読んだ。そしてどんなに暇な時でも決して自分の娯楽を求めなかった。彼女の最大の喜び、彼女の最大の慰めは、天主との霊交の外に無かったのである。
 仕事に取りかかる前に祈るのは言うまでもなく、働きの最中に於いても、ジタは絶えず天主の事を思うに努め、その為出来るだけしばしば短い射祷を唱えた。かくて彼女はその忠実さと勝れた責任感とで、その家の召使い一同の模範となり、いかなる命令にも不平や反抗がましいことは一切言わず、よくそれを果たし、塵ひとつも主人の家の物を私せず、また主人一族に対する悪口讒言などを決して聞き逃すことはなかった。

 ジタは憐れな女中の身分ながら、貧しき者悩める者にはいつも慈母のようであった。自分の得る乏しい報酬は殆ど残らずこれを貧民に施した。そして困窮の者を救う為には主人の許しを得て、自分の食べ物を節したことさえある。また主人の家の人々の着古した物などがあれば、衣服に事欠く人たちを喜ばせる為に、その破れたるを継ぎほころびたるを繕う労を少しも厭わなかった。
 この博大な貧民への愛には、天主も叡感あったのか、奇跡を以て報い給うた事も一再ならずあった。ある日の事である、病み衰えた一人の乞食がその家の門前に立て、一口の葡萄酒を求めた。しかしあいにく葡萄酒は少しもなかったので、ジタが仕方なく一杯の清水を与えると、相手はいかにも嬉しそうに舌鼓打って飲み始めた。見れば清水はいつのまにか、高価な葡萄酒に変わっていたのである。

 ジタはルッカ家にあること四十八年、終始変わらぬ誠を以て主人の家の為に尽くしたが、ようやく体力衰えて病みがちになるや主人は一切の仕事を免じ、ひたすら静養を免じた。しかしあくまで勤勉な彼女は「私が何もせずに死ぬのは耐えられません」と答えて、及ぶ限り仕事をやめなかったという。
 いよいよ永遠の安息に入る日が近づくと、彼女は感ずべき敬虔な態度で御聖体を受け、1272年4月26日、60歳を以てその生を終わった。彼女の墓に於いては無数の奇跡が起こり、為に教皇インノチェンチオ12世は、1696年ジタ列聖の盛儀を挙げられた。彼女は今も一般召使い奉公人達に保護の聖人として深く崇敬されている。

教訓

 「祈り、且つ働け!」とは聖女ジタ生涯のモットーであった。我等も祈りと働きをもって、忠実に我等の義務を果たそう。聖女ジタはかつて「天主を敬い、従順で仕事を愛し、之を忠実に果たすのは、奉公人としてこの上なく聖いことです」と言ったことがある。之は総て他人に仕える者の踏むべき道と言ってよい。この諭しをよく守るならば、必ずやあらゆる被造物の仕えるべき生死の支配者たる主から、報酬として永遠の幸福を与えられるであろう。



聖グリニヨン・ド・モンフォール  英知修道女会創立者 

2025-04-26 00:00:05 | 聖人伝
聖グリニヨン・ド・モンフォール  英知修道女会創立者    記念日 4月 26日

 

 「私はよい牧者で、よい牧者は羊のために命をあたえる。」(ヨハネ 10-11) 聖グリニヨンの生涯はこの福音の生き写しであった。「よい牧者」として人々の為に絶え間なく祈り、勉強し。一般の冷遇を忍耐しながら、典礼をもって、人々の信仰の熱をあおった。また、御聖体、十字架、聖母に特別の信心をつくし説教、賛美歌、著書などでこれらの信心を広めた。

聖グリニヨン・ド・モンフォールは、1673年、フランス北西部ブルターニュのモンフォール町に生まれた。敬虔な特の高い両親に育てられ、のち土地のイエズス会の学校に学んだ。品行、学業共に優秀だったので、学期末ごとに表彰された。
 哲学を終了してパリのサン・スピルス神学校に入学したが、そのすぐれた徳行はたちまち学生の模範となった。司祭に叙階されると、彼は海外布教を志望し、カナダへ出発しようとした。その時の教皇クレメンス11世の勧めに従い、ヤンセニストの異端すなわち、キリストは全人類の為に死ななかったとか、人間は神のおきてを全部果たすために十分な恩恵を与えられていないし、内的恩恵に抵抗することもできないとか主張する誤った説を反駁しながら、フランス西部地方のいなかを巡回布教した。

 「私はよい牧者で、わたしの羊を知っている」と聖書にあるとおり、グリニヨンは受け持ちの信者の気質、傾き、志望、困難、誘惑などを知り、これを導き、助け、慰め、励ましていた。黙想会などの時、一人でもこれに参加しない信者があれば、さっそく自分でその家をたずね、説得してこれを教会に連れ帰ってきた。
 グリニヨンは好んで人生の目的、罪、死、審判、天国、地獄などの大真理をはじめ、信心生活の根源である御聖体、十字架、聖母に対する信心について語った。頻繁な御聖体拝領は霊的ぜいたくだという厳格なヤンセニストに対して、彼はしばしばの御聖体拝領をすすめ、御聖体に親しみ、これを崇敬するため数多くの賛美歌をつくった。その一つに「ああ、わが心は御身をあえぎ望む、主よ、いずれのときにか、われに臨み給う。御身いまさずしては、わが心はさびしさにたえず。来たり給え、わが最愛なる魂の浄配よ」とある。

 グリニヨンは十字架を愛して、いつも胸にかけ、各家庭にもこれを飾るようにすすめていた。黙想会が終わると、その記念として野外の丘や人通りの多い街角に十字架を立てさせた「悩める者よ、汝の避難所はここにあり。もろびとよ来たれかし、来たりて神のつきざる宝をここに得よ。とこしえにイエズスに栄えあれ。またその十字架に誉れあれ」とはグリニヨンのつくった十字架称讃の一節である。
 また聖母をあつく信心したグリニヨンは、ロザリオの祈りを奨励し、イエズスに至るには聖母を経て行くのが一番近道であることを教えた。「イエズスの怒りをなだめるためには聖母の御取り次ぎにすがるのが最もよい。聖母のたもとに隠れて『見よ、汝の母を』と叫べば、イエズスの御怒りはすぐにもなごむ」と彼は歌っている。

 そのうえグリニヨンは「聖母マリアに対する真の信心」「聖母の秘密」などの名著を著して聖母の信心を広めた。しかしこのような布教は当時としては革新的であったため、すぐにこれを聖会の精神にもとる運動であるかのように非難した者がいた。のみならずかれを聖務執行禁止の懲戒処分に付した教区もあったくらいである。
 こうした人々の讒言、脅迫などにくじけず、かえった彼は「み名のためにはずかしめられるのに足者とされたことを喜びつつ」(使徒行録 5-41)布教に専念した。

 また彼は自分の事実を永続させるために宣教を目的としたマリア宣教会と貧困救済を目指す英知の童貞会を創立し、1716年、43歳の働き盛りで帰天した。