カトリック情報 Catholics in Japan

聖人伝、教会史、格言、みことばなどを掲載します。フェイスブックのカトリックグループにも投稿しています。

このブログについて

2029-05-13 03:21:18 | その他

 管理人、及びこのブログについて、情報を書かせて頂きます。

 私は東京大司教区内のあるカトリック教会に通っています。要するに、一介のカトリック信者です。そして、フェイスブックのカトリックグループに幸か不幸か、毎日、欠かさず投稿をしています。どの投稿をしているかは、秘密にさせて下さい(笑)

 ところで、このFBグループは、とても優良でクオリティの高い投稿がとても多いです。それらのうち、(僭越ながら)私の投稿と、投稿者の許可を頂けた定期投稿(勿論、まったく個人情報は含まないもの。聖人伝、教会史等)を過去ログ的な感じで掲載させて頂こうと思います。

 ただし、FBグループへの投稿とこちらと両方維持するのは時間的にも労力的にも負担ですから、交流の場である前者を最優先し、こちらへの掲載はタイムリーにではなく、相当過去ログ的な形になると思います。現状は、半年から一年前に投稿したか、投稿され許可を貰えたものを少しずつ載せている感じになっています。こうしたジャンルにご興味のある方は、FBのグループの方にお越し頂くことをお勧め致します。こちらに掲載されているような、少なくとも3ー4件分、多い時ですと7-8件分の記事が毎日欠かさず連載されています。

 また、このブログをご覧になる際は、普通にスクロールされるより、「カテゴリー」を多用されることをお勧めします。記事がジャンルごとに分類されていますので、きっとより見やすいと思います。

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真に効果をもたらすもの 聖マキシミリアノ・コルベ

2018-04-26 01:42:19 | 格言・みことば
活動に、説教にそして、著作において効果をもたらすのは頭でもペンでもなく、膝である。活動の前後に祈り、感謝と罪の赦しを願え。

聖マキシミリアノ・コルベ
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第5課 みおしえ(5)みおしえを守る為の覚悟

2018-04-26 01:36:23 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第5課 みおしえ(5)みおしえを守る為の覚悟

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○みおしえを守るにつけて、弟子たる者の覚悟をお諭しくださいませんでしたか
△弟子たる者は、みおしえを信じ、その掟を守るにつけて、容易からぬ困難にでくわす覚悟であらねばならぬことをお諭しになりました。

「汝らは狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その路は幅広い。そして、ここから入る人は多い。かえって生命に至る門は狭く、その路は手狭い。これを見出す人は少ない」

ただ門がせまく、路が手狭いばかりか、うっかりすると不親切な案内者にだまされて、あられぬ方面へ引っ張り行かれぬとも限らないのです。

「汝らは、偽りの預言者(教師)に注意しなさい。彼らは羊の衣を着て汝らの方へ来るが、心のうちは、あらいオオカミです。その結ぶ果によってこれを見わけなさい。イバラからブドウを、アザミからイチジクを採ることがありますか。それと同じく、すべて善い樹は善い果を結び、悪い樹は悪い果を結ぶものです。善い果を結ばない樹は、伐って火に投げ入れられるでありましょう」

57
○御主は、その長い美しいお話の結びとして、特にどのような戒めを添えておかれましたか

△「私に主よ、主よ、と言う人が皆天国に入るのではない。天にまします吾が父の御旨を行う人こそが天国に入るのです。」

 「審判の日に当たって、多くの人は私に向かい、
 『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪魔を追っ払い、また御名によって多くの奇蹟を行ったじゃありませんか』
  と申しますでしょう。
  そのとき私は彼らに向かい、
  『我、かつて、汝らを知らず。悪を為せる者よ、我を去れ。』
  と言うであろう」
 
 「だからすべて私の言葉を聞き、これを行う人は、磐の上にその家を立てた賢い人に比べられましょう。雨が降り、河があふれ、風が吹いてその家を衝きましたが、磐の上に据って居るから、倒れる気遣いがありません。かつて私のこの言葉を聞きながら、これを行わない人は、砂の上にその家を建てた愚か者に似ているでしょう。雨が降り、河があふれ、風が吹いてその家を衝きましたら、ひとたまりもなく倒れてしまいました」

教訓

 人々は、主のみおしえにいずれも深く感服しました。それは、律法学士やファリサイ人のように、昔の人の言い古したところを繰り返し給うのではなく、むしろ権威を有するもののように教え給うたからです。

 季節は、青草が風になびき、野の花の香り流れる春の最中です。

 場所は、子羊がはね、小鳥もさえずりまわる緑の丘です。

 玉を転がすような涼しい主の御声に、一種言い知れぬ趣を添えて、いよいよ人々の心をうっとりさせたのでありました。



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聖グリニヨン・ド・モンフォール  英知修道女会創立者

2018-04-26 01:31:31 | 聖人伝
聖グリニヨン・ド・モンフォール  英知修道女会創立者    記念日 4月26日

 

 「私はよい牧者で、よい牧者は羊のために命をあたえる。」(ヨハネ 10-11) 聖グリニヨンの生涯はこの福音の生き写しであった。「よい牧者」として人々の為に絶え間なく祈り、勉強し。一般の冷遇を忍耐しながら、典礼をもって、人々の信仰の熱をあおった。また、御聖体、十字架、聖母に特別の信心をつくし説教、賛美歌、著書などでこれらの信心を広めた。

聖グリニヨン・ド・モンフォールは、1673年、フランス北西部ブルターニュのモンフォール町に生まれた。敬虔な特の高い両親に育てられ、のち土地のイエズス会の学校に学んだ。品行、学業共に優秀だったので、学期末ごとに表彰された。
 哲学を終了してパリのサン・スピルス神学校に入学したが、そのすぐれた徳行はたちまち学生の模範となった。司祭に叙階されると、彼は海外布教を志望し、カナダへ出発しようとした。その時の教皇クレメンス11世の勧めに従い、ヤンセニストの異端すなわち、キリストは全人類の為に死ななかったとか、人間は神のおきてを全部果たすために十分な恩恵を与えられていないし、内的恩恵に抵抗することもできないとか主張する誤った説を反駁しながら、フランス西部地方のいなかを巡回布教した。

 「私はよい牧者で、わたしの羊を知っている」と聖書にあるとおり、グリニヨンは受け持ちの信者の気質、傾き、志望、困難、誘惑などを知り、これを導き、助け、慰め、励ましていた。黙想会などの時、一人でもこれに参加しない信者があれば、さっそく自分でその家をたずね、説得してこれを教会に連れ帰ってきた。
 グリニヨンは好んで人生の目的、罪、死、審判、天国、地獄などの大真理をはじめ、信心生活の根源である御聖体、十字架、聖母に対する信心について語った。頻繁な御聖体拝領は霊的ぜいたくだという厳格なヤンセニストに対して、彼はしばしばの御聖体拝領をすすめ、御聖体に親しみ、これを崇敬するため数多くの賛美歌をつくった。その一つに「ああ、わが心は御身をあえぎ望む、主よ、いずれのときにか、われに臨み給う。御身いまさずしては、わが心はさびしさにたえず。来たり給え、わが最愛なる魂の浄配よ」とある。

 グリニヨンは十字架を愛して、いつも胸にかけ、各家庭にもこれを飾るようにすすめていた。黙想会が終わると、その記念として野外の丘や人通りの多い街角に十字架を立てさせた「悩める者よ、汝の避難所はここにあり。もろびとよ来たれかし、来たりて神のつきざる宝をここに得よ。とこしえにイエズスに栄えあれ。またその十字架に誉れあれ」とはグリニヨンのつくった十字架称讃の一節である。
 また聖母をあつく信心したグリニヨンは、ロザリオの祈りを奨励し、イエズスに至るには聖母を経て行くのが一番近道であることを教えた。「イエズスの怒りをなだめるためには聖母の御取り次ぎにすがるのが最もよい。聖母のたもとに隠れて『見よ、汝の母を』と叫べば、イエズスの御怒りはすぐにもなごむ」と彼は歌っている。

 そのうえグリニヨンは「聖母マリアに対する真の信心」「聖母の秘密」などの名著を著して聖母の信心を広めた。しかしこのような布教は当時としては革新的であったため、すぐにこれを聖会の精神にもとる運動であるかのように非難した者がいた。のみならずかれを聖務執行禁止の懲戒処分に付した教区もあったくらいである。
 こうした人々の讒言、脅迫などにくじけず、かえった彼は「み名のためにはずかしめられるのに足者とされたことを喜びつつ」(使徒行録 5-41)布教に専念した。

 また彼は自分の事実を永続させるために宣教を目的としたマリア宣教会と貧困救済を目指す英知の童貞会を創立し、1716年、43歳の働き盛りで帰天した。



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13‐4 イエス時代のパレスティナ

2018-04-25 09:31:33 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

13 暴君ネロと使徒パウロ

4 イエス時代のパレスティナ

 ネロの晩年こそ内乱の火の手があがったが、アウグストゥスにはじまるローマ帝政の初期には、広大な帝国のすみずみにまで、おおむね平和がゆきわたっていた。
 平和こそ幸福と繁栄の源泉である。アウグストゥスの御代(みよ)、ラテン文学の黄金時代に、あのローマ建国の神話と理想をうたったヴュルギリウスは、「平和の法」を諸民族に与えるローマ人の使命を、誇りをもって示し、アウグストゥスの生誕は属州民にとっても、神々がこの世に賜わった「福音」であるとして、たたえられた。
 しかし裏を返せばこの平和もまた武力による征服と支配に根ざしており、「ローマ人は廃墟を作って、そこを平和と呼ぶ」という被征服民族の抗議もあとをたたなかった。
 共和政末期に続発した奴隷反乱こそようやく鎮(しず)まったが、奴隷はたくさんいたし、彼らの解放を制限する法律が新しくつくられたりした。
 前にも一言したように、「奴隷の数だけ敵がいる」ということわざはなお生きていた。
 ネロの時代には、ひとりの奴隷が主人である高官を殺害したため、同じ家にいた男女の奴隷三百人が、事前に主人に知らせるか、救い出すことをしなかったという理由で、全員処刑されるというショッキングな事件も起こった。
 アウグストゥスの治世に、ローマ帝国の片すみのユダヤに生まれたのが、イエスであった。ユダヤ人は紀元前二世紀中ごろ、マカペウス家の指導のもとにシリア王国に対し、果敢(かかん)な解放戦争を起こし、みごとに勝利を獲得した。
 しかしその独立の喜びも一世紀とはつづかず、紀元前六三年にはローマに征服され、その宗主権(そうしゅけん)のもとにユダヤ南方の土豪の出のヘロデ王家が君臨した。
 ヘロデ大王はあのローマ共和政末期のめまぐるしく変動する政局の間にあって、つぎつぎに時の実力者にわたりをつけて、巧みに泳ぎまわり、最後にアントニウスを裏切り、オクタヴィアヌス(アウグストゥス)につき、領土をさらに加増されて、パレスティナ全体を領有した。
 彼の死後、領土は三人の子に分割され、そのうち、ユダヤ・サマリアはアルケラオス、ガリラヤはヘロデ・アンティパスが継いだ。
 しかしアルケラオスの政治は人民に不評で、アウグストゥスも紀元六年、彼を追放し、その統治地域をローマ帝国の直接支配に移し、代官を派遣した。その五代目の代官がポンティウス・ビラトゥスである。
 当時のユダヤにはいろいろな宗教的・政治的党派があった。
 親ローマ派にはヘロデ党とサドカイ人があった。
 ヘロデ党はヘロデ王家の支持者であり、サドカイ人はイェルサレム神殿の大祭司になる宗教貴族のほか、世俗貴族もいた。しかし彼らは一般民衆からは、かけはなれていた。
 民衆に対し指導力があったのはパリサイ人で、中間的な知識層に属し、律法学者も多くこの派から出ており、反ローマ的であったが、実力行動に訴えるようなことはなかった。
 実力行動派は「熱心党」といわれ、武力蜂起(ほうき)もやりかねなかった人々で、イエスの十二弟子のなかにも「熱心党のシモン」と呼ばれた者がいた。
 ヘテロや、後にイエスを裏切ったイスカリオテのユダも熱心党的傾向をもっていたとする説もある。

 他方、俗世間をはなれ、ユダヤの荒野や死海のほとりで、禁欲的、戒律的教団生活を営む人々はエッセネ派といわれ、一九四七年以来、豊富な「死海文書」の発見によって大きな注目を浴びているクムラン教団も、この派に属しているとする説が有力である。
 この同じ環境のなかで、「荒野によばわる声」と自らをとなえた洗礼者ヨハネが現われ、エッセネ派の人々と同じような禁欲的な生活を営み、接近した救世主(メシア)の到来に備えるために、人々に悔い改めを説いた。
 しかしエッセネ派の人々は、その教えを特別の奥義として教団内部の人々にだけ伝え、外部の人々には隠したが、ヨハネは彼のまわりに集まってきたすべての人々に語りかけた。
 イエスはこのヨハネから洗礼をうけて、伝道の生活にはいった。

 福音書では、ヨハネがイエスを救世主と知ってイエスに洗礼を授けるのをしりごみしたのを、イエスが強いてさせた記している。
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