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3-7-4 孫子の兵法

2018-08-24 18:10:11 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

7 権謀と術数

4 孫子の兵法

 戦争は国家の重大事である。死活の決まるところ、存亡のわかれ道である。
 事前に、よくよく熟慮してかからねばならない。
 このように『孫子』は、その冒頭において説いた(計編)。
 「孫子いわく、兵は国の大事、死生の地、存亡の道、察せざるべからず」。
 またいわく、「兵とは詭道(きどう)なり」。つまり戦争とは、謀略の争いだ、というのである。
 そうして開戦したとなれば、戦車千台、輜重(しちょう)車(輸送用の馬車)千台、武装兵十万を、千里の外に派遣して、その糧食を送らねばならぬ。
 そこで内外の経費、賓客の接待費、膠(にかわ)や漆(うるし)の材料から、戦車や武器の供給など、一日に千金をついやして、はじめて十万の軍隊をうごかすことができるわけである。
 「ゆえに、兵には拙速を聞くも、いまだ巧久(こうきゅう=うまくて長引く)を睹(み)ざるなり」。
 ひと時代まえの戦争は、戦車による射戦が主体であった。
 軍隊の大きさは、車の数(乗)であらわされた。
 万乗といえば天子の、千乗といえば諸侯の軍隊であった。
 そして春秋時代までは、歴史に残るほどの大戦争であっても、各国の動員量はせいぜい数百乗にすぎない。
 戦闘の主力は馬車に乗った貴族であった。それに歩兵が十名ほど従っていたのである。
 ようやく春秋時代の後半になって、しだいに歩兵が重要視されるにいたる。
 歩兵による密集戦法を活用し、大いに効果をあげたのが、南方の呉や越であった。
 呉は一万の歩兵部隊を動員したという。
 河川や湖沼の多い呉越の地では、戦車をもちいることもほとんど不可能であった。
 しかも呉越の強勢にしげきされて、歩兵による作戦は、たちまち中原の諸国に普及してゆく。
 武器の変革もめざましかった。かつては銅製の矛(ほこ)や剣が主としてもちいられていたが、戦国時代には鉄器の発明と普及によって、鉄製の鋭利なものがもちいられる。
 弓矢もまた、弩(ど=いしゆみ)と呼ばれる発射用具の発明によって、射程がいちじるしく長くなった。
 威力も倍加した。車上の射戦は、弩の出現によって効力をうしなった。
 こうして戦闘の初期、ひとつの合戦に動員される兵は十万に達する。
 もはや貴族の従臣だけでは補充がつかない。
 一般の農民が駆りだされ、大群の歩兵部隊が編成されたのであった。
 戦車ならば、その活動の範囲は、地形によって限定されよう。
 しかし歩兵の部隊ならば、山林でも沼沢でも、自在に、神出鬼没の活動をすることができる。
 「兵は詐(さ)をもって(意表をつくことによって)立ち、利をもって動き、分合(分散と統合)をなすものなり。
 故に、その疾(はや)きこと風のごとく、その徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとく、知り難(がた)きこと陰(いん=くらやみ)のごとく、動くこと雷(いかずち)の震うがごとし」。
 「敵の近くして静かなる者は、その険を恃(たの)むなり。
 遠くして戦(たたかい)を挑む者は、人の進むを欲するなり、その居る所のみなる者は、利するなり(こちらを誘い出そうとする)。
 衆樹の動く者は、来(きた)るなり。衆草の障の多き者(積み上げて壁のようにしてある)は、疑(留まっていることを偽装する)なり。
 鳥の起(た)つ者は、伏(伏兵)なり。
 獣のおどろく者は、覆(ふく=奇襲)なり。塵の高くして鋭き者は、車の来るなり。
 卑(ひく)くして広き者は、徒(歩兵)の来るなり」。

 このような『孫子』の兵法は、中国のみならず、わが国の軍学においても、最高の典籍(てんせき)とされた。
 しかも『孫子』は、実戦の用兵のみを説いたのではない。
 実戦の体験より発して、それは高度の戦争論となり、さらには深遠な人生哲学ともなった。
 孫武そのひとが軍師としての名声におぼれることなく、内省をかさねた結果でもあったろうか。
 「彼を知り、己(おのれ)を知れば、百戦して殆(あや)うからず。
 彼を知らずして己を知れば、ひとたびは勝ち、ひとたびは負く。
 彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」。
 「百戦百勝は、善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」。

 たしかに、戦争という手段にうったえることなく、国家の意思を実現することができるならば、それは最善の道であろう。
 それは外交である。弁論によって有利な外交をすすめようとする者が、やはり同じ時代にあらわれていた。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父23 帰天

2018-08-24 17:39:14 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 23

 ふたりが殉教したのは、1930年の2月25日でした。その死体は、すぐみつけられ、3月4日にシュチョウに運ばれました。まず6日にカラヴァリオ神父の葬式が行なわれて、ホサイの神学校に葬られました。次いでウェルシリア司教の葬式が行なわれたのは、3月13日です。葬式というよりも、凱旋の雰囲気がただよっていたと、みんなは言いあいました。墓は、司教座聖堂の庭にあります。まもなく、ふたりのとうとい殉教は、ゆたかな恵みの雨をふらせはじめました。

 殉教があってから7か月が過ぎていました。ヴェルシリア司教のあとをついで司教に任命されたのは、カナゼイ神父です。

「いったい、どこに収まっているのだろう」とかれは、大切な布教地の書類を探しあぐねて、となりの寝室に退きました。

 ふと、ま夜中に目をさました新司教は、「おや?」と思いました。事務室から光がもれています。「きっとわたしは、石油ランプを消し忘れたにちがいない」と考え、戸を開けますと……!

 かれは、自分の目を疑わないではいられません。事務室のまんなかにヴェルシリア司教が輝く姿で立っているではありませんか!

「あなたの探している書類は、この戸棚の奥にありますよ」といって、ほほえんでいます。大急ぎで探すと、ちゃんとありました。新司教は、どうしても聞かないでいられないことを聞きま」た、「司教さま、あなたは、殺されたとき、すぐに天国に行かれましたか?」

 ヴェルシリア司教の姿は、そのときさらに輝きをまし、中国語の答がかえってきました、「チニク・カット」(「直接」の意味)。

 かれの姿は、その声を残して消えましたが、なんとすばらしいことでしょう!

自己愛の本質と対策 聖マキシミリアノ・コルベ

2018-08-24 17:37:19 | 格言・みことば
自己愛は、自己に対する憎しみである。より悪しき敵である。あまり知られておらず、隠れることを知っており、少ししか闘わず、混乱の原因。

自己愛と闘う手段
1 知ること。
2 過去について落胆しないこと。
3 望むこと。
4 祈り。
5 他の人々の戒め。

聖マキシミリアノ・コルベ

聖バルトロマイ使徒     St. Bartholomaenus Ap.

2018-08-24 17:33:56 | 聖人伝
聖バルトロマイ使徒     St. Bartholomaenus Ap.      記念日 8月24日


 主は荒れ野において40日間断食された後、まずペトロとアンドレア、ヤコボとヨハネの二組の兄弟を使徒に召され、次いでガレリアへの道すがら見かけたベッサイダ生まれのフィリポにも「私に従え!」という有難いお言葉を賜った。このフィリポはかねてからイエズスについてさまざまの不思議な噂を耳にし、待望の救い主はこの方の他にはないと深く心服していたので、今のお招きを渡りに船と、早速御弟子方の中に加わることとなったが、その喜びに黙し難く、日頃から親しいナタナエルという友人を訪れた。ナタナエルはその時ちょうど庭園のイチジクの樹の下で黙想に耽っていたが、案内を乞う声に出迎えるとフィリポは意気軒昂の体で「私等はモーゼの律法にも預言者達にも書き記された人に逢ったよ。ナザレトのイエズスという方だ」と告げた。「ナザレト人?ナザレト人にろくな者があるものか?」ナタナエルがさもさも軽蔑したようにこういうと、フィリポは「まあまあ百聞は一見に如かずだ、来てみるがいい」とすすめて無理に彼をイエズスの御許につれて行った。

 主はナタナエルを一目ご覧になるより「いや、これは実に野心のないイスラエル人だ」と仰せになった。で、彼がびっくりして「どうして私をご存じです」とお尋ねすると。主は「フィリポが案内を乞う前に、お前はイチジクの樹の下にいたであろう。私はちゃんと知っている」と答えられたから、ナタナエルはいよいよ驚嘆の情を深め、その全知を認めずにはいられなくなり、「師よ、貴方は天主の御子、イスラエルの王たる御方でございます」と恐れ入ってこれに帰依した。このナタナエルこそ誰であろう、本日祝われる聖バルトロマイに他ならない。即ちバルトロマイとはトロマイの子という意味で、血統を明らかにするあだ名であり、ナタナエルとは彼の本名なのである。
 バルトロマイの人となりについては、先の主の聖言だけで、既に十分その純朴愛すべき風格を知り得たであろうが、彼の事跡に就いては、聖書にこそ何の記載もなけれ、聖会初代の数人が後世に書き残している。殊に聖会史家オイゼビオによれば、バルトロマイは聖霊降臨後間もなく故国を後に、遠く東インドまで行き、諸々に福音を宣べ伝え、後アラメイック語訳のマタイ聖福音書を携えてエジプトのアレクサンドリア市に赴き、盛大な教会を設けたと言うが、聖クリゾストモによればバルトロマイは小アジアのフリジア、リカオニア等を得てアルメニアに至り、そこで多年布教に活動し、ついに壮烈な殉教の死を遂げたそうである。即ち、彼の伝道は数々の華々しい成功をかちえたが、アルメニア王ポリミオ並びにその王妃を改宗させたことはその最もゆうなるものであった。しかるに異教の僧侶等はそれからバルトロマイを深く怨み、次に王位についたポリミオの兄弟アスチアゲスを煽てて彼を捕縛させ、残忍な死刑を執り行わせた。かくて聖人は、アルバノポリスという町に於いて生きながら全身の皮を剥がれ、後十字架に釘づけられて致命したのであった。
 その聖い遺骸はまずメソポタミアのダラに、次いで6世紀シシリーに程近いパリ島に移されて恭しく保管されたが、839年にはサラセン人の凌辱の手を免れる為イタリアのベネヴェントに、983年には更にローマに運ばれ、今はチベル河中の一小島に建てられた聖バルトロマイ聖堂の、美麗な紅大理石製霊柩の中に安らかに眠っている。

教訓

 資性純朴、真摯正直な聖バルトロマイは主の御招きを受けて使徒の列に加わるや、一生を真理の為に献げ闘った。「すべて真理によれる人は我が声を聞く」という主の聖言は彼の場合にも真実であったと言わねばならぬ。我等もこの聖使徒を鑑として、すべてに真理を求め、偽りを憎む精神を養うべきである。



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