カトリック情報 Catholics in Japan

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リトアニアの英雄 聖カジミロ

2019-06-03 06:55:39 | 聖カジミロ
『リトアニアの英雄 聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著

 リトアニアの英雄、聖カジミロが燃える思いであこがれていた善徳は、潔白、つつしみ、忍耐づよさ、正義、信心、けんそん、愛徳、ぎせい心で、かれはマリアにこれらの恵みを
たえず願っていた。

*

 かれの人格と聖徳は決して消えることなく永遠につづき、すばらしい模範となってかがやきつづけている。


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12-3、聖カジミロの使命

2019-06-02 06:02:51 | 聖カジミロ
『リトアニアの英雄 聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著

◆12-3、聖カジミロの使命

 1795年からリトアニアは、ロシアの領土となり、聖カジミロの祝日と、その賛美歌が禁じられるようになり、その聖堂は、離教教会の聖堂となった。

 第一次世界戦争ののち、1918年からビーリニュスは、ロシアの支配をはなれて、ポーランドの支配下に移った。そして、第二次世界戦争のあと、1945年からリトアニア全土は、ソ連の支配下へと移っていったのである。

 聖カジミロの聖堂は閉じられて、紙の倉庫となり、こうして、1962年からは、無神論の博物館にされた。

 ビーリニュスの司教座大聖堂も美術博物館にされたので、聖カジミロの遺物は、今、ビーリニュスの町はずれにある聖ペトロ、聖パウロの聖堂に安置されている。それは、なん百年も前に解放された感謝のしるしとして建てられたあの聖堂である。

 今でも信者は、その遺物の前にひさまずいて、こう祈っている。

「マリアの国であるリトアニアの保護者聖カジミロよ、あなたは、賛美を歌って、聖母を尊敬し、お聖堂の門前にひざまずいて、聖母のおん助けを願っておられました。
そして、地上のらくな生活と名誉をすて、潔白を愛されました。どうぞ、この国に、あなたの手本にならう潔白の花が咲くように取りついでください」と。

(ビーリニュスの町はずれにある聖ペトロ、聖パウロの聖堂。今は司教座聖堂のかわりに使われ、聖カジミロの遺物が安置されている。)


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12-2、聖カジミロの使命

2019-06-01 04:02:45 | 聖カジミロ
『リトアニアの英雄 聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著

◆12-2、聖カジミロの使命

 しかし、その結果、ロシア人は聖カジミロをいっそうきらうようになった。それでこの翌年、すなわち1655年にロシア人は、リトアニアの首府ビーリニュスをついに占領したとき、大聖堂と、そのなかにあった聖カジミロの墓をあばき、貴重な物品を奪い去ったのである。それにしても、さいわいにその前に聖カジミロの遺体は安全な場所に移すことができた。

6年たってから、やっと1661年にビーリニュスは解放されたので、神に感謝をあらわすため、一つの聖堂が建てられた。この聖堂は、カトリックの信仰を守る決意のシンボルとなり、聖ぺトロと聖パウロにささげられ、聖カジミロの遺物はここに移されて、大勢の人々がその前で祈るようになった。

 この聖堂には、聖カジミロの遺物の上に、「恵みの聖母」の奇跡的なご絵があって、祈りがききいられるように、聖カジミロの手本にならい、聖母マリアにすべてをささげるべきことをよくあらわしている。

リトアニアと聖カジミロ

2019-05-30 02:18:03 | 聖カジミロ
『リトアニアの英雄 聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著

◆12、聖カジミロの使命

 聖カジミロの使命は、リトアニアの国民をプロテスタントから守ると同時に、東に面しては、離教教会の危険からも守ることにあった。では、そのいきさつを述べよう。

 モスクワの太公は、ツァー(皇帝)となったとき、西に向かってその領土を広めようとの野心に燃え、リトアニアを攻めることにした。

 一方、リトアニアはカトリックであったが、離教教会のものとなっていたロシアは、リトアニアのカトリック者の英雄である聖カジミロをきらって、その崇敬に賛成しなかった。1654年にはロシア軍はポロクの町を占領したとき、まず第一に聖カジミロのチャペルを焼きはらい、モスクワの離教教会の大主教は、聖カジミロを破門したほどだった。こうして、170年も前に帰天していたこの聖人は、これほど離教徒のロシア人からきらわれていたのである。

 同じ年にロシアの将軍シェルメチエフがポロクの町を占領したときには、聖カジミロのチャペルを焼きはらっただけでなく、カトリックの大聖堂を汚して馬小舎として使ったほどである。このとき、ひとりの美しい青年が将軍に現われて、「あなたたちは、わが国民が犯した罪くの罰である。しかし、わたしの国民はやがて、悔いあらため、その祈りは聞きいれられるだろう。それにひきかえ、あなたたちは、神から攻撃され、助かるみこみはないだろう」といったことが伝えられている。その青年は聖カジミロだったのである。聖人のこの最後のことばこそ、ロシア皇帝の王朝の亡びを暗示し、その予言は1918年に実現したと解釈する人もある。


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カトリックの信仰の防衛

2019-05-29 02:38:41 | 聖カジミロ
『リトアニアの英雄 聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著

◆11-4、その後

 1569年、イエズス会は、リトアニアに入り、聖カジミロのすばらしい手本をみんなに紹介して、みごとにカトリックの信仰をプロテスタントから守りぬいた。その10年後イエズス会は、ビーリニュスに、一つの高等学校と一つの大学を設立したのだった。

 さて、イエズス会とビーリニュスの司教ベネディクト・ヴァイナの努力で、1604年は、聖カジミロにとって、大きな光栄の年となって現われる。すなわち、5月10日、11日、12日に、聖カジミロの軽巖な大祝日が行なわれ、ていそしきかれにささげる新しい聖堂の定礎式が行なわれたのである。しかも、この大祝日の準備は1年間もかかり、かぞえきれないほどの人々が参加した。

その記録をかいたイエズス会の歴史家が注意しているように、この大祝日は、明らかに反プロテスタントのねらいがあった。こうして、あらたに力を得たカトリック信者は、聖カジミロの旗じるしのもとに整列したのである。



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