『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
6 戦国の乱世
5 商鞅(しょうおう)の変法
魏の文侯は治世五十年にして死去し(前三九六)、その後は武侯をへて、恵(けい)王が立った。
恵王をたすけて宰相の位にあったのが、公叔座(こうしゅくざ)である。
この公叔座をたよって、衛の国からわたってきた一人の男があった。
衛の王室の出身で、公孫鞅(おう)という。
公叔座は鞅を召しかかえると、たちまちその賢明なことを知った。
しかし王に推挙する機会がないまま、座みずからが重病となってしまった。
忠王は病床を見舞い、かつたずねた。
「そなたに万一のことがあった場合、だれに国政を託したらよかろうか」。
「私の家中におります公孫鞅は、年少ながら奇才であります。
王には国政を、あげて彼にお聞きになるのが、よろしゅうございましょう」。
しかし忠王は黙然としていた。やがて立ち去ろうとするので、公叔座は人払いをして、さらにいった。
「もし、鞅を用いることをお聞きいれにならぬのならば、かならず殺してしまわねばなりませぬ。
決して国外に出してはなりませぬ」。
王がうなずいて帰ると、公叔座は鞅を招きいれ、わびながら王への進言をうちあけた。
そして、はやく逃げるがよい、と忠告した。しかし公孫鞅は平然としていた。
「王が、私を用いよというわが君の進言を取りあげぬのなら、また、どうして私を殺せという進言を取りあげることがありましょう」。
公孫鞅は逃げなかった。やがて公叔座が死ぬ。
たまたま西方の秦の国で孝公が立ち、賢者を求めていることを耳にした。
これに応じようと、鞅は魏を去って秦に入国した。つてを求めて孝公に謁見した。
孝公を前にして、公孫鞅は語ること長時間におよんだが、孝公は居眠りをして、よく聞かなかった。
鞅は話をうちきって退出した。公はおこって「たわけ者」と叫んだ。
五日の後、鞅はふたたび謁見した。しかし、その話はなお孝公の気にいらなかった。
それでも鞅はあきらめず、もういちど謁見を願いでた。
三度目の話で、ようやく孝公は「話せる男のようだ」と語った。しかし登用はしなかった。
公孫鞅は、孝公の侍臣に語った。
「はじめ私は公に帝道を説いたのですが、公は理解されませんでした。
二度目には王道を説いたのですが、やはり公の腑(ふ)におちませんでした。
今度は覇道(はどう)を説きましたところ、公の意がうごいて、私の説を用いようとしておられます。
どうか、もういちど、お目通りさせて下さい。すでに公の志のあるところがわかりました」。
こうして、またも謁見したところ、孝公は膝をのりだして話に熱中した。
しかも数日、鞅と語って、あきなかった。いまこそ公孫鞅は用いられたのである。
そして孝公の意図を体し、秦の国法をかえることに着手した。それは、富国強兵のための革新の変法であった。
まず民間に十戸または五戸ごとの隣保制(となり組の制度)をつくり、国内の治安体制を確立する。
違法を申告しない者は腰斬(ようざん)の刑に処し、告発した者には敵の首を取ったと同じ賞をあたえ、包みかくした者は敵に降ると同じ罪にする。
一戸に男子が二人以上あって、しかも分家しない場合は、課税を倍にする。
軍功ある者には重い賞をくわえ、私闘する者は軽重に応じて罰せられる。
つぎには大人も子供も、男は農耕に、女は機織(はたおり)を本業とすべきことを定め、粟(ぞく)や帛(きぬ)を多く納める者には労役を免ずる。
商売などの末利を追う者や、本業をおこたって貧しい者は、身柄を没収して官の奴隷とする。
王室の一族といえども、軍功がなければ、その待遇を与えない。
すべて尊卑や俸禄の等級を明確にし、おのおの差等をつける。
一家が占有する田宅の広さも、臣妾やの数も、衣服の制も、その家格によって差別をつける。
功労のある者は栄華の生活ができるが、功労のない者は、富裕であっても華美な生活はゆるされない。
こうして新しい法令はできあがったが、なお公布にはいたらなかった。人民が信用しないことをおそれたからである。
そこで一策を案じ、高さ三丈(当時の一丈は二メートル、三丈は六メートル)の木を、都の市場の南門にたてた。
そこには、「この木を北門に移す者には、十金(金三・五キロ)を与える」と記された。
しかし、だれも奇怪に思って、その木を移そうとする者がない。
また「この木を北門に移す者には、五十金を与える」と書き改めた。
移す者があった。さっそく五十金を与えた。
かくて人民を欺かぬことを示したうえで、変法の令を発布した。時に孝公の三年(前三五九)であった。
法令が施行されてより一年の間に、国都までおしかけて新法の不便を申したてる者が、数干人におよんだ。
そのうちに太子が法をおかした。
鞅は「法のおこなわれざるは、上これをおかせばなり」といって、太子を処罰しようとした。
しかし太子は、主君の世嗣である。
これに刑罰をほどこすことはできないとて、傳(もりやく=侍従長)の公子虔(けん)を罰し、太子の先生を黥(げい=いれずみ)の刑に処した。
その翌日から、秦の国人は、みな法にしたがった。
新法を施行して十年、秦の民はおおいによろこび、路上に落ちたものをひろわず、山には盗賊なく、家の暮らしはみちたりた。
民は公戦に勇敢となり私闘に臆病となり、村も町もおおいに治まった。
かつて法令の不便を申したてた者のなかから、こんどは新法の便利をいいにくる者があらわれた。
鞅は、これを「善導感化をみだす民である」として、ことごとく辺境の城へ労役に追いやった。
その後はあえて法令のことを批評する者もなくなった。
6 戦国の乱世
5 商鞅(しょうおう)の変法
魏の文侯は治世五十年にして死去し(前三九六)、その後は武侯をへて、恵(けい)王が立った。
恵王をたすけて宰相の位にあったのが、公叔座(こうしゅくざ)である。
この公叔座をたよって、衛の国からわたってきた一人の男があった。
衛の王室の出身で、公孫鞅(おう)という。
公叔座は鞅を召しかかえると、たちまちその賢明なことを知った。
しかし王に推挙する機会がないまま、座みずからが重病となってしまった。
忠王は病床を見舞い、かつたずねた。
「そなたに万一のことがあった場合、だれに国政を託したらよかろうか」。
「私の家中におります公孫鞅は、年少ながら奇才であります。
王には国政を、あげて彼にお聞きになるのが、よろしゅうございましょう」。
しかし忠王は黙然としていた。やがて立ち去ろうとするので、公叔座は人払いをして、さらにいった。
「もし、鞅を用いることをお聞きいれにならぬのならば、かならず殺してしまわねばなりませぬ。
決して国外に出してはなりませぬ」。
王がうなずいて帰ると、公叔座は鞅を招きいれ、わびながら王への進言をうちあけた。
そして、はやく逃げるがよい、と忠告した。しかし公孫鞅は平然としていた。
「王が、私を用いよというわが君の進言を取りあげぬのなら、また、どうして私を殺せという進言を取りあげることがありましょう」。
公孫鞅は逃げなかった。やがて公叔座が死ぬ。
たまたま西方の秦の国で孝公が立ち、賢者を求めていることを耳にした。
これに応じようと、鞅は魏を去って秦に入国した。つてを求めて孝公に謁見した。
孝公を前にして、公孫鞅は語ること長時間におよんだが、孝公は居眠りをして、よく聞かなかった。
鞅は話をうちきって退出した。公はおこって「たわけ者」と叫んだ。
五日の後、鞅はふたたび謁見した。しかし、その話はなお孝公の気にいらなかった。
それでも鞅はあきらめず、もういちど謁見を願いでた。
三度目の話で、ようやく孝公は「話せる男のようだ」と語った。しかし登用はしなかった。
公孫鞅は、孝公の侍臣に語った。
「はじめ私は公に帝道を説いたのですが、公は理解されませんでした。
二度目には王道を説いたのですが、やはり公の腑(ふ)におちませんでした。
今度は覇道(はどう)を説きましたところ、公の意がうごいて、私の説を用いようとしておられます。
どうか、もういちど、お目通りさせて下さい。すでに公の志のあるところがわかりました」。
こうして、またも謁見したところ、孝公は膝をのりだして話に熱中した。
しかも数日、鞅と語って、あきなかった。いまこそ公孫鞅は用いられたのである。
そして孝公の意図を体し、秦の国法をかえることに着手した。それは、富国強兵のための革新の変法であった。
まず民間に十戸または五戸ごとの隣保制(となり組の制度)をつくり、国内の治安体制を確立する。
違法を申告しない者は腰斬(ようざん)の刑に処し、告発した者には敵の首を取ったと同じ賞をあたえ、包みかくした者は敵に降ると同じ罪にする。
一戸に男子が二人以上あって、しかも分家しない場合は、課税を倍にする。
軍功ある者には重い賞をくわえ、私闘する者は軽重に応じて罰せられる。
つぎには大人も子供も、男は農耕に、女は機織(はたおり)を本業とすべきことを定め、粟(ぞく)や帛(きぬ)を多く納める者には労役を免ずる。
商売などの末利を追う者や、本業をおこたって貧しい者は、身柄を没収して官の奴隷とする。
王室の一族といえども、軍功がなければ、その待遇を与えない。
すべて尊卑や俸禄の等級を明確にし、おのおの差等をつける。
一家が占有する田宅の広さも、臣妾やの数も、衣服の制も、その家格によって差別をつける。
功労のある者は栄華の生活ができるが、功労のない者は、富裕であっても華美な生活はゆるされない。
こうして新しい法令はできあがったが、なお公布にはいたらなかった。人民が信用しないことをおそれたからである。
そこで一策を案じ、高さ三丈(当時の一丈は二メートル、三丈は六メートル)の木を、都の市場の南門にたてた。
そこには、「この木を北門に移す者には、十金(金三・五キロ)を与える」と記された。
しかし、だれも奇怪に思って、その木を移そうとする者がない。
また「この木を北門に移す者には、五十金を与える」と書き改めた。
移す者があった。さっそく五十金を与えた。
かくて人民を欺かぬことを示したうえで、変法の令を発布した。時に孝公の三年(前三五九)であった。
法令が施行されてより一年の間に、国都までおしかけて新法の不便を申したてる者が、数干人におよんだ。
そのうちに太子が法をおかした。
鞅は「法のおこなわれざるは、上これをおかせばなり」といって、太子を処罰しようとした。
しかし太子は、主君の世嗣である。
これに刑罰をほどこすことはできないとて、傳(もりやく=侍従長)の公子虔(けん)を罰し、太子の先生を黥(げい=いれずみ)の刑に処した。
その翌日から、秦の国人は、みな法にしたがった。
新法を施行して十年、秦の民はおおいによろこび、路上に落ちたものをひろわず、山には盗賊なく、家の暮らしはみちたりた。
民は公戦に勇敢となり私闘に臆病となり、村も町もおおいに治まった。
かつて法令の不便を申したてた者のなかから、こんどは新法の便利をいいにくる者があらわれた。
鞅は、これを「善導感化をみだす民である」として、ことごとく辺境の城へ労役に追いやった。
その後はあえて法令のことを批評する者もなくなった。