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3-6-5 商鞅の変法

2018-08-14 06:12:30 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

6 戦国の乱世

5 商鞅(しょうおう)の変法

 魏の文侯は治世五十年にして死去し(前三九六)、その後は武侯をへて、恵(けい)王が立った。
 恵王をたすけて宰相の位にあったのが、公叔座(こうしゅくざ)である。
 この公叔座をたよって、衛の国からわたってきた一人の男があった。
 衛の王室の出身で、公孫鞅(おう)という。
 公叔座は鞅を召しかかえると、たちまちその賢明なことを知った。
 しかし王に推挙する機会がないまま、座みずからが重病となってしまった。
 忠王は病床を見舞い、かつたずねた。
 「そなたに万一のことがあった場合、だれに国政を託したらよかろうか」。
 「私の家中におります公孫鞅は、年少ながら奇才であります。
 王には国政を、あげて彼にお聞きになるのが、よろしゅうございましょう」。
 しかし忠王は黙然としていた。やがて立ち去ろうとするので、公叔座は人払いをして、さらにいった。
 「もし、鞅を用いることをお聞きいれにならぬのならば、かならず殺してしまわねばなりませぬ。
 決して国外に出してはなりませぬ」。
 王がうなずいて帰ると、公叔座は鞅を招きいれ、わびながら王への進言をうちあけた。
 そして、はやく逃げるがよい、と忠告した。しかし公孫鞅は平然としていた。
 「王が、私を用いよというわが君の進言を取りあげぬのなら、また、どうして私を殺せという進言を取りあげることがありましょう」。
 公孫鞅は逃げなかった。やがて公叔座が死ぬ。
 たまたま西方の秦の国で孝公が立ち、賢者を求めていることを耳にした。
 これに応じようと、鞅は魏を去って秦に入国した。つてを求めて孝公に謁見した。
 孝公を前にして、公孫鞅は語ること長時間におよんだが、孝公は居眠りをして、よく聞かなかった。
 鞅は話をうちきって退出した。公はおこって「たわけ者」と叫んだ。
 五日の後、鞅はふたたび謁見した。しかし、その話はなお孝公の気にいらなかった。
 それでも鞅はあきらめず、もういちど謁見を願いでた。
 三度目の話で、ようやく孝公は「話せる男のようだ」と語った。しかし登用はしなかった。
 公孫鞅は、孝公の侍臣に語った。
 「はじめ私は公に帝道を説いたのですが、公は理解されませんでした。
 二度目には王道を説いたのですが、やはり公の腑(ふ)におちませんでした。
 今度は覇道(はどう)を説きましたところ、公の意がうごいて、私の説を用いようとしておられます。
 どうか、もういちど、お目通りさせて下さい。すでに公の志のあるところがわかりました」。

 こうして、またも謁見したところ、孝公は膝をのりだして話に熱中した。
 しかも数日、鞅と語って、あきなかった。いまこそ公孫鞅は用いられたのである。
 そして孝公の意図を体し、秦の国法をかえることに着手した。それは、富国強兵のための革新の変法であった。
 まず民間に十戸または五戸ごとの隣保制(となり組の制度)をつくり、国内の治安体制を確立する。
 違法を申告しない者は腰斬(ようざん)の刑に処し、告発した者には敵の首を取ったと同じ賞をあたえ、包みかくした者は敵に降ると同じ罪にする。
 一戸に男子が二人以上あって、しかも分家しない場合は、課税を倍にする。
 軍功ある者には重い賞をくわえ、私闘する者は軽重に応じて罰せられる。
 つぎには大人も子供も、男は農耕に、女は機織(はたおり)を本業とすべきことを定め、粟(ぞく)や帛(きぬ)を多く納める者には労役を免ずる。
 商売などの末利を追う者や、本業をおこたって貧しい者は、身柄を没収して官の奴隷とする。
 王室の一族といえども、軍功がなければ、その待遇を与えない。
 すべて尊卑や俸禄の等級を明確にし、おのおの差等をつける。
 一家が占有する田宅の広さも、臣妾やの数も、衣服の制も、その家格によって差別をつける。
 功労のある者は栄華の生活ができるが、功労のない者は、富裕であっても華美な生活はゆるされない。
 こうして新しい法令はできあがったが、なお公布にはいたらなかった。人民が信用しないことをおそれたからである。
 そこで一策を案じ、高さ三丈(当時の一丈は二メートル、三丈は六メートル)の木を、都の市場の南門にたてた。
 そこには、「この木を北門に移す者には、十金(金三・五キロ)を与える」と記された。
 しかし、だれも奇怪に思って、その木を移そうとする者がない。
 また「この木を北門に移す者には、五十金を与える」と書き改めた。
 移す者があった。さっそく五十金を与えた。
 かくて人民を欺かぬことを示したうえで、変法の令を発布した。時に孝公の三年(前三五九)であった。
 法令が施行されてより一年の間に、国都までおしかけて新法の不便を申したてる者が、数干人におよんだ。
 そのうちに太子が法をおかした。
 鞅は「法のおこなわれざるは、上これをおかせばなり」といって、太子を処罰しようとした。
 しかし太子は、主君の世嗣である。
 これに刑罰をほどこすことはできないとて、傳(もりやく=侍従長)の公子虔(けん)を罰し、太子の先生を黥(げい=いれずみ)の刑に処した。
 その翌日から、秦の国人は、みな法にしたがった。
 新法を施行して十年、秦の民はおおいによろこび、路上に落ちたものをひろわず、山には盗賊なく、家の暮らしはみちたりた。
 民は公戦に勇敢となり私闘に臆病となり、村も町もおおいに治まった。
 かつて法令の不便を申したてた者のなかから、こんどは新法の便利をいいにくる者があらわれた。
 鞅は、これを「善導感化をみだす民である」として、ことごとく辺境の城へ労役に追いやった。
 その後はあえて法令のことを批評する者もなくなった。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父16  カルヴァリオ神父の召命

2018-08-14 04:11:31 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 16

「カリストくん、きみは何を祈るの?」

「ぼく、イエズスさまにお願いしてるんです。聖アロイジオのように清くして、りっぱな神父さまにしてくださいって」

「ふうふうむ!」院長さまは、感心してしまいました。そして、かれを志願者として、ヴァルドッコのサレジオ会中学校に送ることにしました。それにしても、あまりにも貧乏な家族だったので、院長さまが、かれの費用をすべて引き受けることにしました。

 カラヴァリオは、1919年に修道誓願をたてると、勉強にはげむかたわら、子どもたちに教理を教えていました。ヴェルシリア司教に出会ったのは、この時期です。

 かれの夢が実現したのは、それから2年後でした。汽車で旅立つカラヴァリオをホームに見送る母は、涙をおさえることができません。

「おかあさん、泣かないで、ぼくの心は、いつもおかあさんの側にいるじゃありませんか?ぼく、きっとりっぱに使徒職をはたしてきまずから・・・」

 そういうと、かれは、そっと十字のしるしをして母を祝福しました。おかあさんの涙にかすむ目に、息子の姿はしだいに小さくなり、白いはんかちだけが、小さな点のようにみえています。

 一行が、マカオに上陸したのは、1924年11月11日。数年まえに来ていたもとの目上のブラガ神父によって、大歓迎会が行なわれました。カルヴァリオ神父は、仲間を代表していいました、

「わたしたちは、人々の霊魂を導くためには、いかなるぎせいも、たとえ、それが血のぎせいであっても覚悟しています」と。

 まず上海のサレジオ学校におくられ、中国語の勉強をしなければなりません。外国語のタレントに恵まれていたかれは、おどろくばかりの進歩をとげ、1か月後は、早くも中国語で最初の教理レッスンをしました。祈りの協力を願い、母によく便りをしていたかれは、この喜びを次のように書きました、「おかあさん、あなたのお手紙に答えたいと思って今まで待っていました。それは、他でもありません。慰めになるニュースで、喜んでいただきたかったからです。

知性の目的  聖マキシミリアノ・コルベ

2018-08-14 04:07:29 | 格言・みことば
被造物には理性的なものと非理性的なものがある。理性的被造物は、私もそうだが、知性と意志を有する。知性は神を知るため、意志は神を愛し、忠実に仕えるため、つまり、神のいとも聖なるみ旨を果たすためである。

聖マキシミリアノ・コルベ

聖マクシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 St. Maximilian Maria Kolbe M.

2018-08-14 04:05:18 | 聖人伝
聖マクシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 St. Maximilian Maria Kolbe M.  記念日 8月14日


 「20世紀の聖人」と言われるマクシミリアノは、生まれた地がポーランドであったために苦しみを体験した。彼は勤勉で敬虔な両親のもとに1894年ツドゥンスカ・ウォラで生まれた。1910年にロワのフランシスコ会修道院の神学校に修練士として入り、ローマで勉強して、1918年には司祭に叙階され、1年後にポーランドに戻っていった。この世の闘争が基本的に霊的なものであるということを確信し、コミュニケーションの現代的手段が反キリスト教の勢力(フリーメーソン)に委ねられるべきではないと考えた彼は「聖母の騎士」という自分の月刊の評論雑誌を出版し始め、それはすぐに成功した。そして1927年にはテレシンに「マリアの町々」の最初のものを創立した。「マリアの町々」とは、ニエポカナヌフ-聖母の町-という名のもとにあり、その心は、常に成長し続けるフランシスコ会の托鉢修道士の快活な服従と聖なる貧困であった。多くの熟練した信徒がそれを完全に独立して経営することが出来るようにした。「聖母の騎士」ばかりでなくローマ・カトリック教会の毎日の新聞や他の出版物を製作する非常に整った印刷所を作ったのである。まもなく、ラジオ局が据え付けられた。
 1930年にコルベ神父と4人の同志は日本に旅行した。そこでは、彼の哲学的また神学的な専門知識によって歓迎され、長崎郊外のある丘の坂の上に「無原罪の園」を設立した(こうしてそれは1945年の原子爆弾による損傷を免れた)。彼は「西洋化」を試みようとはせず、むしろその国の文化を深く理解しようとした。そこで仏教や神道を勉強し、キリスト教的共同体を越えた日本の「聖母の騎士」の読者層によって照明された良好な関係を樹立したのである。
 彼はマラバルとモスクワへさらに旅行して、自分の取り組み方についての同様な共感を得た後、1936年にポーランドに呼び戻された。それは部分的には、常に心配の種であった彼の健康状態によるのもであった。三年後、侵略してきたドイツ軍の部隊がテレシンにあった。短期間の投獄の後、ニエポカラヌフの共同体は、その三分の二がユダヤ人であった三千人の避難民を保護することを含む、あわれみの働きに懸命に取りかかった。コルベ神父は公然と次のように書いた。「世界の中の誰も、真理を変えることはできない・・・。もし我々自身が、我々の最も深い部分である人格的な自己において、善と悪、罪と愛との間の戦いで敗北しているなら、戦場での勝利は一体何の役に立つのだろうか?」
 彼は同じ年の1941年に逮捕されてアウシュビッツ(ポーランドのオシフィエンチム)の収容所に送られた。生存者たちは、彼の並はずれた博愛と、恐ろしい状況にあっても司祭として奉仕していたことを思い起こしている。3人の者が逃亡したことの報復として、囚人たちのうちの10人が地下の餓死室に送られるために選ばれる日が来た。コルベ神父は、家族持ちの一人の男の身代わりになることを自ら申し出た。その申し出は、コルベ神父がそれほど剛健な労働者ではなかったので受け入れられることになった。彼は、自分の仲間達を彼らが死ぬまで慰め、最後に自分もコールタール酸の注入によって殺された。彼は次のように言った、「私は、すべての人間のために、私の命を与える」彼が命を救った男は、1982年聖マクシミリアノ・マリア・コルベ神父の列聖式に参加している。


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