最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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●天才たちの病跡学(パトグラフィー)

2009-12-15 13:09:59 | Weblog
●天才たちの病跡学(パトグラフィー)

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世に知られた天才たちには、それぞれ
独特の病跡がある。
その研究をするのが、病跡学(パトグラフィー)。

たとえば、ニュートンやアインシュタインは、
「分裂病圏の学者」、
ダーウィンやボーアは、「躁鬱病圏の学者」、
あのフロイトは、「神経症圏の学者」と
言われている(「心理学とは何だろうか」より・
無藤隆・新曜社)。

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●ニュートンとアインシュタイン

 「心理学とは何だろうか」によれば、ニュートンやアインシュタインの仕事には、つぎのような特徴があったという。

「経験的、感覚的、伝統的思考的、斬新的」(同書)。

そして彼らには一定の危機的環境があったという。

「思春期における性的同一性や、青年期における社会的同一性の動揺を契機とすることが多い。
その後も対人的距離の喪失、たとえば批判にさらされることや、有名になることが危機を招く」(同書)と。

 そういった危機的環境の中で、ニュートンやアインシュタインは、今に見る業績を残す。

「創造性は自己や世界の危機に触発されるが、仕事の完成には、適当な対人的距離、現実との介在者、保護者が必要」(同書、飯田・中井・1972)と。

●インチキ番組

 すこしわかりにくい話がつづいたので、簡単に説明する。

つまりそれぞれの学者には、それぞれの個人的背景があったということ。
そしてそれぞれの学者は、その背景の中で作られた問題をかかえていたということ。

 が、ここで注意しなければならないことがひとつある。

 先日(09年12月)も東京のXテレビ局から、こんな依頼があった。
何でも東大生を調べたら、約80%の学生が子どものころ、水泳とピアノをしていたという。
そこで「林先生(=私)に、それを裏付けるような発言をしてほしい」と。
つまり私に、「水泳やピアノは天才児をつくると、テレビの中で、発言してほしい」と。

 どう話せばよいかを聞くと、「指先の刺激は、脳によい刺激を与える。それが結果として、頭のいい子どもを育てる」と。

 しかし……。
この話は、おかしい。
完全に、おかしい。
「非行に走る子どもを調べたら、50%が女子だった。
だから女子は非行に走りやすい」と言うのと同じ。
(子どもの50%は、女子だぞ!)

 この浜松市あたりでも、幼児期に、80%以上の子どもたちが、水泳やピアノをしている。
もっと多いかもしれない。
つまりXテレビ局の説は、まったくのナンセンス。

 私がそれを指摘すると、それきり連絡は途絶えた。
ついでながら、どうして私に、そういう依頼が来たか?
恐らく、こういう事情ではないか。

 Xテレビ局は、そういう珍説を組み立てて番組を作った。
しかしそんな珍説、まともな学者なら、だれも相手にしない。
が、地方に住む、彼らにすれば、私のようなザコ評論家なら、それに応じてくれるのではないか、と。
そう考えて、私に連絡してきた。

 つまり私が言いたいのは、ニュートンやアインシュタインの過去がどうであれ、またどういう心の病気をかかえたにせよ、では同じような環境にあれば、みな、同じような天才になるとはかぎらないということ。

●ダーウィンやボーア

 しかし、それでも興味深い。
「病跡学」というのは、そういう学問をいう。

 ほかにも、ダーウィンやボーアについては、こうある。
危機的状況として、「住みなれた空間の喪失、たとえば故郷・友人からの別離、権威的人間の圧迫、板挟み状況」(同書)と。

 その結果として、「創造性は社会的自立を契機として解放されるが、仕事の完成には、庇護的な空間、仕事を是認し、価値づけてくれる人、苦手な面を引き受けてくれる人の存在が必要」(同書)と。

 ここまで読んだとき、ダーウィンやボーアの境遇が、私のそれと、たいへんよく似ていることに気がついた。
とくに「住みなれた空間の喪失、たとえば故郷・友人からの別離、権威的人間の圧迫、板挟み状況」という部分。

多少ちがうといえば、「喪失」したというよりは、私のばあい、「逃避」した、
故郷の友人たちと、別離したわけではないという点。
「権威主義的人間の圧迫」「板挟み状況」という2つの点については、酷似している。
言い換えると、それがどういうものであるか、私には、たいへんよく理解できる。

 私の生まれ育った地方では、みな、たいへん権威主義的なものの考え方をする。
たった数歳年上というだけで、どの人も、兄貴風、親分風を吹かす。
年長の叔父、叔母となると、さらにそうで、自分では介護の「か」の字もしたことがないような叔父が、こう言ったりする。
「悔いのないように、親の介護しろよ」と。

 もちろん何かにつけて、『ダカラ論』が、ハバをきかす。
「親だから……」「子だから……」と。

●ソクラテス

 「私は私」と思っている人でも、その「私」は、まさに環境の産物。
よく知られた言葉に、こんなのもある。

『悪妻をもてば、夫は哲学者になる』と。

 ソクラテスの残した言葉と言われている。
悪妻との葛藤がつづくと、それから生まれる悩みや苦しみを、夫は、哲学に昇華するという意味に、解釈されている。
つまりソクラテスの妻は、よほどの悪妻だったらしい。
……という話は別として、イギリスには、こういう格言もある。

『空の飛び方は、崖から飛び降りてから学べ』と。

 要するに人は、どういう形であれ、追いつめられないと、真の力を発揮できないということ。
「危機的状況」というのは、それをいう。

私も親や兄の介護問題で、さまざまな面で、板挟み状態になったことがある。
悶々とした気分が毎日のようにつづいた。
が、そういう危機的状況があったからこそ、当時の私は、猛烈な勢いで文章を書いた。

 同じく、「心理学とは何だろうか」の中に、フロイトやウィーナーについては、こう書いてある。

「学問を自己抑圧の手段として出発することが多いが、重大な葛藤状況を契機に、学問が自己解放の手段に転化し、そこで真の自己の主題を発見することが多い」(同書)と。

 「悪妻をもつ」ということは、まさに「重大な葛藤状況」ということになる。
そこでソクラテスは、追いつめられ、自己解放の手段として哲学者になっていった(?)。
そういうふうにも考えられる。

●職歴学

 病跡学というのがあるなら、「職跡学」というのがあっても、おかしくない。
「学歴学」でもよいし、「環境学」でもよい。
親子関係もその人の人格形成に大きな影響を与える。
そうなると「家族学」でもよい。
つまりその人の生まれ育った環境は、その人の考え方や思想のみならず、性格や性質にまで大きな影響を与える。
言い換えると、「私は私」と思っている部分についても、本当は「私」と言える部分は少なく、大半は、「私であって私でない部分」ということになる。

 そういう「私であって私でない部分」に操られていくうちに、ときとして、自分の望むのとは別の方向へ進んでしまう。
気がついてみたら、そうなっていた……ということは多い。
私は、それを「運命」と呼んでいる。

 もちろんオカルト的、つまり神秘主義に基づく運命を言うのではない。

●強迫神経症

 たとえば私には、強迫神経症的な部分がある。
若いときから、いつも何かに追い立てられているような気分が抜けない。
乳幼児期の不幸な母子関係が、私をして、そういう私にした。
基本的信頼関係の構築に失敗した。
だから基本的に、人間不信の状態にある。
つまり他人との信頼関係の構築が苦手。

 しかしこれは私の責任というよりは、私の母や家族の責任である。
私はそういう母をもち、そういう家庭で生まれ育った。
だから今でも、いつも何かをしていないと、落ち着かない。
こうした特異性は、オーストラリアの友人たちと比較してみると、よくわかる。
彼らはときどき日本へやってきて、1~2か月のバカンスを、のんびりと過ごす。
旅行先で気に入った旅館や温泉を見つけると、同じところに何泊もして、過ごす。
私というより、日本人には考えられない休暇の過ごし方である。

 逆に、オーストラリアの友人たちには、私の休暇の過ごし方が理解できない。
4泊5日くらいでオーストラリアへ行ったりすると、いつもこう言う。
「ヒロシは、どうしてそんなに忙しいのか?」と。

 忙しくはないが、オーストラリア流のバカンスの過ごし方が、身についていない。
何もしないで、ボケーッとして過ごすことができない。
その(できない)理由が、実は、私自身の中にある。
「ある」というよりは、作られた。
それが先に書いた、強迫神経症ということになる。

●作られた私
 
 で、私はいつも何かの仕事をしている。
仕事をしていないと落ち着かないし、くだらないことで時間を無駄にしたりすると、「しまった!」と思う。
が、よくよくみなの話を聞いてみると、そういうふうになる人は、私だけではないようだ。
私の世代、つまり団塊の世代には、私のようなタイプの人が多い。
ワーカホリック、つまり働き中毒の人間である。

 で、そういう自分を客観的にながめてみると、「私であって、私でない部分」がたくさんあるのがわかる。
私は、私を離れたところにある、もっと別の私に操られている。
そしてその(別の私)というのは、「私」というよりは、(作られた私)ということがわかる。
仮に私が後世に残るような業績を成し遂げたとしても、(そういうことはありえないが……)、それは(操られた結果)としてそうなっただけということになる。

●不幸な過去

 では、ニュートンやアインシュタインは、どうだったのか?
病跡学によれば、不幸な過去が、こうした偉人たちの業績に、大きな影響を与えたのがわかる。
もしこれらの人が、平和でのどかな時代に生まれ、家族の愛に包まれて育ったなら、ニュートンやアインシュタインは、今で言う、ニュートンやアインシュタインにはならなかったかもしれない。
そこそこの人物にはなったかもしれないが、毎年、数か月単位で、どこかの保養地でのんびりと休暇を過ごしていたかもしれない。

●やはり、私は私 

 しかしやはり、「私は私」。
言うなれば、歩きつづける旅人。
そうでない人たちから見れば、「かわいそうな男」ということになる。
しかし私自身は、歩きつづけていることが、楽しい。
追い立てられているというよりは、その先に何があるか、それを知りたい。
また知るのが、楽しい。

 (歩きつづける部分)が、強迫神経症によるものだとしても、(楽しいと思う部分)は、「私」である。
(あるいは楽しいと思う部分まで、作られた私なのだろうか……?)

 今の今も、来週あたり届けられる高性能のパソコンで、頭の中はいっぱい。
どうやってファイルを移動させるか、……これが大問題だが、そんなことなかりを考えている。
プリンターも新調するつもり。
MSのパブリシャーなども使っているが、WINDOW7で、はたしてそのまま使えるだろうか。
使えないときは、どうしたらよいだろうか。
「XP」も使えるようにと、OSは、WINDOW7の、プロフェッショナル版にした。
プロフェッショナル版なら、仮想XPを、WINDOW7上で、動かすことができる。
……つまりこうして考えているのが、正しい。

●性質

 要するに、「偉人」と呼ばれる人には、それぞれふつうでない過去があったということか。
あるいはふつうでない特殊な環境に生まれ育った。
それがバネとなって、ニュートンをニュートンにし、アインシュタインをアインシュタインにした。

 が、ここでひとつ重要な要素を忘れているのに、気づく。
ニュートンもそうでなかったかと言われているが、アインシュタインについては、子どものころ、今で言うAD・HD児だったと言われている。
モーツアルトもそうだったし、チャーチルもそうだった。
エジソンも、そうだったと言われている。

 こうした生来の性質は、どう計算の中に組み込んだらよいのか。
AD・HD児特有の無鉄砲さが、加齢とともに、よい方向に向くということはよくある。
もともと行動力があり、好奇心も旺盛である。
それがある年齢を超えると、その人を前向きにぐんぐんと引っ張り始める。

●運命論

 病跡学は、そういう意味では、運命論と似ている。
科学的な運命論ということになる。
それぞれの人には、無数の(糸)がからんでいる。
その糸が、ときとして、その人の進むべき道を決めてしまう。
そのときどきは、自分の意思でそうしていると思っていても、結果として、その糸に操られてしまう。

 で、その運命と闘う方法もある。
その第一が、自分を知るということ。
そのためには、病跡学というのは、たいへん興味深い。
自分を知れば知るほど、運命をコントロールできる。
そう考えてもよい。

 同書には、つぎのようにある。

『病跡学(パトグラフィー)……文学研究・歴史研究と精神病理学・臨床心理学の境界領域の学問である。著名な人物、とくに「天才」の精神病理を分析し、その人間の創造的な行動や業績・作品の、より深い理解に役立てる。
伝記的事実や作品を資料として、その人間の精神病理を描き出す』(同書、P149)と。

 「ああ、だからあの人は、ああなったのだ」と考えることによって、その先に、「ああ、だから私は、こうなったのだ」とわかってくる。
それが病跡学ということになる。

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