最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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79 Mystery of Horyuji Temple 謎の法隆寺+伊勢神宮

2012-10-25 09:07:15 | Weblog
【浜松・クラウンパレス浜松にて】(10月24日)

○謎の法隆寺(No79)

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○『謎の睡眠不足』

 今、駅前のクラウンパレス・ホテルにいる。
以前は名鉄ホテルという名前だった。
今は経営者も替わり、クラウンパレス。
今夜は、このホテルに一泊。

で、先ほど、『エクスペンダブルズ(2)』という映画を見てきた。
ストレス解消映画。
意味のないドンパチ映画。

その映画を見ているときのこと。
途中で、ふと気がつくと居眠り。
時折、スーッと睡魔が襲ってきた。
今日も睡眠不足。
このところずっと睡眠不足。

朝早くから、ビデオづくりを楽しんだ。
『謎の法隆寺(79)』。
明日の朝、今書いているこの原稿とともに、BLOGに載せる。

○法隆寺

 法隆寺は、実に謎めいた場所にある。
偶然の一致と言えば、それまで。
しかし私は作為的な意図を、その場所に感ずる。
法隆寺から500メートル離れたところには、藤ノ木古墳もある。
円形古墳。
古墳は、もともとそこにあった。
あえてその近くに、聖徳太子は法隆寺を建立した(?)。

 法隆寺(藤ノ木古墳)のある位置は、明らかに計算されている。
そういう印象を強くもった。
たとえばこれはほんの一例だが、こういう事実が並ぶ。

(1) 伊勢神宮と比叡山、伊勢神宮と那智大社を線でつないでみる。
その間の角度は、きっかり90度である。
その90度を3等分(30度、60度)に分けたところに、法隆寺がある。

(2)(伊勢神宮、比叡山、法隆寺)をつないでできる三角形と、(法隆寺、仁徳陵、高野山金剛峯寺)をつないでできる三角形は、相似形である。
(このとき、法隆寺の代わりに、500メートル離れた藤ノ木古墳を基準点に使ってみると、さらに正確な相似形になる。)

(2) 法隆寺の参道を、正確に延長してみる。
その参道は、まっすぐ那智大社を行く。

(この作業は正確であればあるほど、よい。
あるいは反対に、那智大社から法隆寺に直線を引いてみるとよい。
その直線は、正確に法隆寺の参道へつながる。) 

○聖徳太子

 あちこちの記事を読む。
聖徳太子の勉強をする。
中には、聖徳太子架空説まであった。
つまり聖徳太子は、実在しなかった、と。
さらに聖徳太子、イエス・キリスト説まであった。
厩(馬屋)で生まれたとか、母親が処女懐胎したとか、など。
そんな言い伝えが、根拠(?)になっている。

そう言った話はともかくも、いつから、だれがだれを「聖徳太子」と呼ぶようになったか。
聖徳太子はどこから来て、どこへ去っていったか?
一応父親の名前もあがっている。
墓もある。
しかし……。
「聖徳太子」という名前すら、謎に包まれている。

○十七条憲法

 10年ほど前、仏教でいう五戒と、モーゼが受けたという十戒を対比させたことがある。
内容が、たいへんよく似ている。
その原稿を探してみる。
で、そのあと、聖徳太子の教えを分析してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

○仏教の五戒とユダヤ教の十戒

 仏教でいう五戒と、ユダヤ教(旧約聖書)の十戒は、恐ろしく似ている。まずそれらを並べておくので、読者自身の目で確かめてほしい。

●仏教の五戒

(1)生きものを殺すなかれ。
(2)盗みをするなかれ。
(3)邪淫(じゃいん)を行うなかれ。
(4)偽りを言うなかれ。
(5)酒を飲むなかれ。(何ものも所有するなかれ。)
(注、釈迦の生誕地に残る原始仏教の経典、『スッタニパータ』の中の一節。
(1)~(4)は、釈迦滅後まもなくできたが、(5)は、ずっとあとになってからつけ加えられたという。
ふつう仏教では、(5)だけを、「遮罪」(それ自体は悪いことではない)というふうにして、(1)~(4)の「性罪」(それ自体悪いこと)とは区別する。)

●ユダヤ教の十戒

(1)あなたは私のほかに、何ものも神としてはならない。
(2)あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。
(3)あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
(4)安息日を覚えて、これを聖とせよ。主は六日のうちに天と地とその中のすべてのものを造って七日目に休まれたからである。
(5)あなたの父と母を敬え。
(6)あなたは殺してはいけない。☆
(7)あなたは姦淫(かいいん)してはいけない。☆
(8)あなたは盗んではいけない。☆
(9)あなたは隣人について、偽証してはならない。☆
(10)あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
(注、シナイ山でモーセが、神から授かった言葉が、この十戒と言われている。(1)~(4)は、信仰のし方に関するもの。(6)~(10)が、生活のし方ということになる。)

 この五戒と十戒の中の共通点には、☆印をつけておいた。
ほかに『スッタニパータ』の中では、釈迦は、父母を敬えと教えているが、五戒の中には含まれてはいない。
が、仏教では常識である。
 
 この二つを並べてみたとき、最初に思い浮かぶのが、最大公約数という言葉である。
教育にたずさわるものの悪いクセかもしれない。
しかしこれら二つを、最大公約数的にまとめると、こうなる。
家庭教育の「柱」と考えてよい。

(1)殺してはいけない。
(2)淫(みだ)らな性行為をしてはいけない。
(3)盗みをしてはいけない。
(4)ウソをついてはいけない。

 釈迦の時代には、飲酒にはとくべつの意味があったようだ。今のアルコールを想像してはいけない。
あるいは今でいう麻薬のような作用があったと考えるべきではないか。
粗悪な酒で、そのため身を滅ぼす人があとを絶たなかったという。
『スッタニパータ』の中にも、そういう説話がいくつか載っている。
インドの他の宗教では、第五の「酒を飲むなかれ」のかわりに、「何ものも所有しない(所有物をなくせ)」になっているという(中村元氏指摘)。
もしそうなら、この「何ものも所有しない」は、十戒の「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」と、どこかその教えを共有する。

 ところでこの仏教の五戒を、小学五年生の子どもたち(12人)に話していたときのこと。
私が、「お釈迦様の話では、一に、生きものを殺してはいけない。二に、人のものを盗んではいけない、四に、ウソを言ってはいけない、五に、酒を飲んではいけないと言っている」と説明すると、一斉に、「三は、何だ!」と聞いた。

 困って私が、「つまりだね、いろいろな人と、めちゃめちゃ、ラブラブしてはいけないということだよ」と言うと、みな、ギャーギャーと笑い出した。
で、しばらくすると、少し冷静になり、「殺してはだめって、虫もいけないのか」「魚はどうなのか」「牛はどうなのか」とか、「ぼくの父は、酒を飲んでいる」とか、言い出した。

(1)「殺してはいけない」ということ。

 要するに、相手の立場になって考えろということ。
自分が死にたくなかったら、相手も死にたくないと思っているということ。
「自分だけは正しい」「自分だけが大切」という自己中心性は、多かれ少なかれだれにでもあるものだが、相手の立場になって考えるということは、結局は、その自己中心性との戦いということになる。

 問題は、人間全体がもっている自己中心性である。
この地球をマクロ(全体的)に見ても、人間は人間だけのことしか考えていない。
まさにしたい放題のことをしている。
世界的に見ても、日本人ほど自然破壊力の強い民族は、そうはいない。
恐らく世界一ではないか。
よく「日本人は自然を愛する民族だ」と言うが、これはまったくのウソ。
たまたま日本に緑が多いのは、放っておいても緑だけは育つという、恵まれた自然環境による。

自然を愛するという気持ちによるものではない。
ウソだと思うなら、車で少しわき道を走ってみるとよい。
めったに人が通らないような林道や山道まで、完全舗装。
がけはコンクリートのブロックでおおわれている。
今ではそうでない道をさがすほうが、むずかしい。
こういう環境の中で、今、無数の動植物が、絶滅しつつある。

(2)「淫(みだ)らな性行為をしてはいけない」ということ。

 性欲というのは、実にやっかいなものだ。
これがあるから、その種族は代々と生き延びることができる。
人間が生物である以上、絶対必要不可欠な本能である。
が、それだけにあつかい方がむずかしい。
自意識でコントロールできない。
食欲と同じで、ムラムラと感ずるときは、感ずる。
よく子どもたちは私にこう聞く。
「先生は、スケベか」「先生も、エロビデオを見るか」と。
そういうとき私はいつも、「君たちのお父さんと同じだよ。お父さんに聞いてきな」と答えるようにしている。

 ただ幸運なことに(?)、私は、バーやキャバレーなど、いわゆる「女遊び」の世界とは、無縁の世界に住んでいる。
商社マン時代の一時期をのぞいて、そういうところへ顔を出したことすら、ない。
遊んでみたいという気持ちはあるにはあったが、しかし時間がなかった。
若いころは、進学塾の講師や家庭教師などで、いつも仕事が終わるのが午後11時ごろ。
もともと誘惑に弱い人間だから、私を誘う人間がいたら、割と簡単についていったかもしれない。
たまたま私が品行方正(?)だったのは、私がそれだけ自分を律する力が強かったというよりは、チャンスがなかったと言うほうが正しい。

 この問題は、「教育」というより、親の生きザマの問題なのかもしれない。
夫婦がいたわりあい、助けあい、はげましあい、愛しあう姿は、子どもに遠慮なく見せる。
そういう姿を見ながら、子どもは、「淫(みだ)ら」というのはどういうことなのかを、間接的に学ぶ。

(3)「盗みをしてはいけない」ということ。

 私は小学六年生のとき、隣人の家の裏にあった、ライターを盗んだことがある。
隣人といっても、私の家の借家で、出入りは自由だった。
あともう一度は、大学三年生のとき、通路に積んであったその会社の備品の中から、テープレコーダーのテープを一巻(当時は直径15センチほどもある大きなテープだった)を盗んだことがある※。

 これが私の生涯における二度の盗みである。
先のライターは、やがて母が見つけ、母がそのライターを隣人に返しにいった。
テープは、そのまま自分のものして、使っていた。
いや、ほかにも、返し忘れて自分のものにしたものがある。
図書館の本がそれだが、返しそびれて30年になる。
他人に対しては結構、正義感が強く、盗みを許さない私だが、こうして思い出してみると、あまり偉そうなことは言えない。
しかしこういうことは言える。

よく玄関先にある植木鉢を盗んでいく人がいる。
そういう話を聞くと、その盗んだ人はどうやって花を楽しむのかということ。
そちらのほうが気になる。
花の美しさを味わうという清純な気持ちと、盗みとは、その時点で、矛盾(むじゅん)する。
反対にその盗んだ花を見るたびに、自分の醜い部分を見せつけられて、不愉快になるのではないか。
一度、どうなのか、そういう人に心の内を聞いてみたい。

(注※)
ライターは、「美しい」と思ったから、もって帰ってしまった。
私が小学2、3年生のときのことではなかったか。
ほとんど毎日、その家には出入りしていた。
それもあって、悪いことをしたという意識はなかった。

が、テープのときは、かなり強く罪の意識を覚えた。
そのとき感じた不快感が今でも、残っている。
またその不快感があるからこそ、以後、(盗み)なる行為は、一度もしていない。

教育の世界でも、(盗み)は、日常的に話題になる。
親のサイフからお金を盗む子どもは、それこそゴマンといる。
(盗み)が悪いことは当然のことだが、子どもの指導においては、その(後味の悪さ)を、覚えさせるように仕向ける。
その(後味の悪さ)が、再発を防ぐ。
余計な話だが……。)

(4)「ウソをついてはいけない」ということ。

 私はもともとウソつきの人間だった。
私の家は、自転車屋という商店で、日常的にウソの中で育ったということもある。
地域にもよるが、岐阜県というところは、大阪式の商売圏内にあって、値段にしても、そのときの「かけひき」で決まる。
(この静岡県では、そのかけひきが、まったくない!)
そのかけひきというのは、まさにウソの張りあい。
売り手は一円でも高く買おうとするし、
買い手は一円でも安く買おうとする。
そのときウソがつぎからつぎへと出てくる。
たとえば定価が3万円の自転車があったとする。
客はそれを2万5000円にしろという。

そういうとき商人は、とっさにウソをつく。
迷ったり、間を置いたりすると、ウソとバレるから、とっさにウソをつく。
「仕入れが2万5000円なんですよ。
1000円だけ儲けさせてくださいよ」と。
つづいて、「この話は問屋さんには内緒ですよ。ウチがこの値段で売っているとわかると、叱られますから」と。
(実際には、仕入れ値は2万円。問屋にバレても、叱られることはない。)

まだ客が買い渋っているようなら、こう言って、たたみかける。
「まあ、いいでしょう。あなたには世話になっているから、2000円のランプをただでつけてあげますよ」と。
(ランプの仕入れ値は、1000円だから、結局は5000円の儲けということになる。)

 私が自分の中のウソつき体質を、徹底的に忌み嫌ったのは、オーストラリアでの留学時代だが、それには苦い経験がある。
これについてはまた別の機会に書くことにして、日本人は、ウソをつくのがうまいというか、人をだますことに、たいへんうとい。
『ウソも方便』という諺すら、ある。

一方、欧米では、「正直でありなさい(Be honest!)」というのが、子育ての柱になっている。
が、日本の親で、そういうふうに子どもを指導している親を、私は過去30年間、見たことがない。
聞いたこともない。
国民性の違いというより、長く続いた封建時代の結果と考えてよい。

 ただし一言。
五戒とか十戒とか、そういうふうに、教条的にものごとを並べて考えるのは、正しくない。
原始的な人たちの間では、それなりにわかりやすく、説得力もあったかもしれない。
が、こうした教条にとらわれると、それ以外の、ほかの大切な部分を見落してしまう。
だからあくまでも「参考」ととらえるのが、正しい。
中に、仏や神の言葉として、一語一句、ギスギスに解釈する人がいるが、そういう姿勢は、かえって仏や神の教えを見失うことになる。
自分の人生を生きるのは、ほかならぬ、私たち自身だからである。
(02-7-24)
 
○聖徳太子の十七条憲法

 では、聖徳太子の十七条憲法は、どのようなものであったか。
まず、それを紹介させてもらう。
(読むのがめんどうな人は、+++++++から++++++++までを飛ばしてほしい。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。

三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)

四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。

五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)

六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)

七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)

八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)

九に曰く、信は是義の本なり。(略)

十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)

十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)

十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)

十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)

十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)

十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)

十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

○要約

 わかりやすく言えば、こうなる。

(1) みなと仲よくすることだけを考えて行動せよ。
(2) 仏・法・僧の三宝を大切にせよ。
(3) 上の者の指示には、まじめに従え。
(4) 礼儀を大切にせよ。
(5) 欲望をコントロールせよ。
(6) 悪行と闘い、善行に励め。
(7) 人にはみな、生まれもった使命がある。
(8) 朝は人より早く来て、仕事をし、夕は人より遅くまで仕事しろ。
(9) 人との信頼関係を大切にしろ。
(10) 怒るな。
(11) よい行いには、功を与え、悪い行いにはバツを与えよ。
(12) 1人の王(上司)に仕えよ。
(13) どんな仕事かを知った上で、人に仕事を任せよ。
(14) 人をねたんだり、恨んだりするな。
(15) 「私」を捨てて公務に励め。
(16) 民を使うときは、季節をよく考えて使え。
(17) 重要なことは、ひとりで決めてはいけない。皆で話しあえ。

 全体に、役人の心構えを説いたもの。
(かなり荒っぽい要約で、ごめん。)
その点では、旧約聖書の十戒、仏教の五戒とは、基本的な部分で内容を異(こと)にする。
(「異にする」などと書いてしまった。
しばらく古文を読んでいると、脳みそが古文モードになる。
今の私の脳みそは、古文モード。
だからこういう古い言い方が出てくる。
どうでもよいことだが……。)

○常識の文章化

 当時としては革新的な憲法であったにちがいない。
情報量も極端に少なかった。
もちろん参考になるような書物も少なかった。
そういう時代の中での、十七条憲法。
内容は常識的なことばかりだが、常識を文章化することほど、むずかしいことはない。
常識というのは、そういうもの。
ものを書くということは、そういうもの。

 十七条憲法を書いた人は、聖徳太子であるにせよ、そうでないにせよ、かなり文章を書きなれた人とみてよい。
プラス、相当頭のよい人とみてよい。

○1日1作

 「1日、1作」。
つまり1日、かならず1本のビデオを作る。
そうでも決めなければ、すぐだらける。
自分に負けてしまう。

 で、気になるのは、まちがい。
かなり荒っぽい作り方をしているので、随所にまちがいがある。
が、いちいちそれを気にしていたのでは、先に進めない。
まちがいはまちがいのまま……というのも、そのときはそう思ったのは事実。
だからそのまま残している。

 そのかわり、あとで作ったビデオほど、正しい(?)ということになる。
前に作ったビデオと矛盾するようなところがあれば、そういうわけで、あとに作ったビデオのほうを、優先してほしい。
たとえばこんなまちがい(?)。

 少し前、ビデオの中で、こう書いた。
「敦煌と雲崗を結んだ線は、出雲大社の近くを通る。誤差は、わずか」と。

 しかし今日、正確に敦煌(莫高窟)と雲崗(石窟)を、正確に線で結んでみた。
作業は慎重に、かつていねいにしてみた。
そのあと、その線をさらに東へ延長してみた。
(実際には、機首角を100分の1の単位まで正確に守りながら、延長した。)
するとその線は、寸部、たがわず、伊勢神宮へつながった。
正しくは「敦煌と雲崗を結んだ直線は、伊勢神宮とつながっている」となる。
 
 ただし一言。

 点といっても、場所によっては、かなり広い部分を示すときがある。
以前、カッパドキアについて調べていたときも、そうだ。
「点」が定まらなかった。
それもそのはず、カッパドキアといっても、数10~50キロの範囲にわたって、広がっている。
北の端をとるか、南の端をとるかで、位置がかなりずれてくる。
一方、中央だからといって、中心とはかぎらない。
たとえば仁徳陵(大仙陵古墳)のときは、どこに(中心)を求めるかで、苦労した。
結果的に、真東に、位置を示す緑地公園が残っていた。
その緑地公園を基準に、仁徳陵(前方後円墳)の中心を求めた。
……などなど。
気楽に作っているように思う人もいるかもしれない。
しかし実際には、結構、神経をつかう。

○明日の予定

 で、今は、すでに明日の謎解きのことを考えている。
今の時点では、聖徳太子。
しかしこの分野は、すでに研究されつくしている。
私のような素人の出番は、ない。
となると、やはり点と線で攻めていくしかない。

 もっとも、こんなことを調べているのは、私だけ。
先駆者もいない。
仲間もいない。
それだけに気楽。
一方で、きびしい。
が、楽しい、
今までだれも気がつかなかったことを、つぎつぎと発見していくのは、おもしろい。
本当におもしろい。

 で、明日は……。

○就寝

 ワイフが風呂から出てきた。
私は明日の朝、入ることにした。
で、しばらくこのままパソコンを叩きつづける。

 昨日、こんな話を聞いた。
その家には、3人の兄弟がいた。
上から長男、4歳年下の長女、さらに5歳年下の二男。

 まず長男氏が、65歳くらいのとき、うつ病から認知症になった。
3~4年、あれこれと闘病生活を繰り返したあと、他界。
享年69歳。
一方、妹氏(長女)は、たいへんシャキシャキした人だった。
よくしゃべり、人前では快活に振る舞った。
かなり多動性があったという。
私も数回会ったことがあるが、落ち着かない人だった。
が、同じように65歳ごろから、認知症を発症。
アルツハイマー型痴呆症だった。

 ……という話を二男氏がしながら、こう心配している。
現在、私と同年齢の64歳。
「兄、姉とやられましたからね。順番でいけば、つぎは私です」と。

○ボケ

 こういうケースは少なくない。
遺伝子が同じだから、老後になると、同じような経緯を経て、同じような病気になる。
その人の努力ではどうにもならないような重病であればあるほど、そうだ。
つまり老後には、そういう問題も潜んでいる。

 で、私も、体よりも、脳みそが老化するのを、何よりも心配している。
だから久しぶりに親類の人たちに会ったりすると、こう聞く。
「ぼくは、だいじょうぶですか?」と。

 というのも、これは脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、ボケても、それに自分で気がつく人は少ない。
「私はだいじょうぶ」と思っているうちに、ボケていく。
また「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。
しかも1~2年単位という、短期間に。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法としては、(これは私のばあいだが……)、以前書いた文章と、現在書いた文章を読み比べてみるが、ある。
たまたま先に、10年前に書いた文章をあげた。
その文章を読んでみる。
「仏教の五戒とユダヤ教の十戒」である。

 今、その文を読みながら、こう思った。
「私もあぶないかな?」と。

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Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2012++++++はやし浩司・林浩司

 


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