最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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(2)

2010-06-07 09:43:56 | Weblog


●結論
 
 「老後問題」を書いているうちに、いつの間にか「経済問題」になってしまった。
言うなれば、老後問題イコール、経済問題。
経済問題のひとつが、老後問題ということになる。
つまりあくまでも、老後問題は経済問題の一部分。

 冒頭にあげた、ある雑誌に載っていたモデルケース。
それを読んでいたとき、私は別の心で、「?」と思った。
その理由のひとつが、ここに書いた経済問題ということになる。

 けっしてそうなればよいと願っているのではない。
しかしこの日本でも、やがてすぐ公務員たちが、ストライキをするようになる。
給料を40%に減らされ、年金を半額にされた元公務員たちが・・・。
が、それ以上に、社会のどん底に叩き落とされるのが、私たち一般大衆ということに
なる。
そのことは今のギリシャの現状を見ればわかる。
ギリシャの現状は、そのまま日本の近未来図と考えてよい。

 では、どうするか。

 ここでも結論は、ただひとつ。
最後の最後まで懸命に働いて、そのときがきたら、ポックリと死ぬ。
ひとつだけ条件があるとするなら、「健康」。
何とか健康だけは、維持する。
最後の最後まで、維持する。
今の私たちに残された道は、もう、それしかない。

●補記

 ついでに一言。

 「最後の最後まで仕事をする」といっても、老人のばあい、そこに(生きがい)の
問題がからんでくる。
ほとんどの老人は、サラリーマン生活のむなしさを、いやというほど、知っている。
だから「仕事をする」といっても、退職前のようなサラリーマン生活では、満足できない。
できないばかりか、そこに絶望感すら覚える。
「もう、コリゴリ」と。

 そこで「働く」ということを、「生きがい」、さらに「収入」とどう結びつけていくか。
「収入」といっても、多大な期待をしているわけではない。
足りない分は、貯金で補う。
その程度の収入でよい。

私もこの年齢になってはじめてわかったことがある。
それは「遊んで暮らすこと」が、けっして理想の老後生活ではないということ。
またそんなことを繰りかえしていても、むなしいだけ。
「毎日、遊べ」と言われても、遊べるものではない。
若いときは、みなでよくこう言いあった。
「老後は、孫の世話と庭いじり。悠々自適の年金生活」と。
しかしそんな生活に、どんな意味があるというのか。
またそれが老人の魂の救済に、どれほど役に立つというのか。
はっきり言えば、バカげている。

 そこで再び、生きがい論。

 我ら老人組は、風に舞うようなささやかな希望であればよい。
それさえあれば、そこに夢を託し、クモの糸のような細い糸で、それを目的へと
つなげることができる。
ぜいたくは言わないし、言えない。
「ささやかな希望」でよい。
我ら老人組は、それにしがみついて生きる。

・・・とまあ、本当に暗い話になってしまった。
イヤーナ話になってしまった。
私もここまで暗い話を書くつもりは、なかった。
しかしここで重要なことは、ここを原点として、自分たちの未来を前向きに
考えるということ。
「今」が結論ということでもないし、ここで人生が終わるわけでもない。
私たちにはそれぞれ、やるべきことがある。
それをさがしながら、ともかくも前に向かって進む。 
とりあえず、その第一は、「健康」ということになる。
今日もこれから4キロ近くを、ランニングするつもり。
「つもり」ではなく、「する」。
午後は、浜松の凧揚げ祭りを、凧揚げ会場まで歩いて見に行く。
このつづきは、それが終わってから、また書きたい。

 5月3日月曜日、早朝。
みなさん、おはようございます。
ただ今の時刻は、午前6時50分。
ともかくも、今日も始まった。
がんばりましょう。
がんばるしかないのです!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●4月29日(昭和の日)(改)

●歩き方

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毎朝、起きると同時に、ウォーキングマシンで、
運動をする。
それが1日の始まり。
が、今朝は、とりあえず、10分だけ。
気分があまりよくない。

そのウォーキングマシンを使うようになってから、
1年あまり。
「人の歩行」に興味をもつようになった。

若い人はともかくも、50代、60代の人に
ついては、歩き方を見ると、その人の
健康度を、おおよそ知ることができる。

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●ウォーキングマシン

 歩き方にも、いろいろある。
いろいろあることを、ウォーキングマシンを使うようになってから、知った。
専門用語は知らないので、自分流の(用語)を使う。

 まず、私のようにO脚ぎみの人は、足の裏の外側(小指からかかとにかけての外側)
から地面に足をつける。
そのため、歩くとき、ペッタン、ペッタン・・・というような音がする。

 そこで歩き方を変える。
足の裏の内側(親指からかかとにかけての内側)から地面に足をつける。
とたんにスタスタ・・・という感じになる。

 つぎに大切なのは、大またで歩くこと。
大またで歩こうとすると、ウォーキングマシンの性質として、さらに足を後方へ、
ぐいぐいと引っ張ってくれる。
床が電動で回転している。
それが相乗効果となって、ますます大またで歩くようになる。

 で、こうして自分の歩き方を矯正しながら、20分も歩いていると、
背中の下部から上部にかけて、ジワーッと、血が上ってくるのがわかる。
東洋医学では「気」という。
それが首筋あたりまで、上ってくるのがわかる。
同時に、ぼんやりとした頭がすっきりしてくる。

 最後は軽くジョギング風に早足で歩いて、すます。
が、このときも、つま先で走るようにする。
ひざをできるだけ高くもちあげて走るようにする。
これを1~2分するだけで、とたんにウォーキングが、有酸素運動に変わる。
ハーハーとあえぐようになる。
少し暖かい日だと、汗が上半身ににじみ出てくる。

●老人の歩き方

 で、私はこの半年ほど、通りで歩いている人を見かけると、その人を観察するように
なった。

 まず若くて健康な人だが、そういう人は、つま先を使って、ひざを高くあげて
歩いているのが、わかる。
反対に老人になればなるほど、足のかかとのほうを使って、足を引きずるように
して歩いているのが、わかる。
ひざもあがらない。

 さらに何らかの脳の病気をかかえている人は、それぞれ独特の歩き方をする。
たとえばP病の人は、足がもつれるような歩き方をする。
前かがみになって、小またで歩く。
脳梗塞の人は、片方の足を、腰の回転をうまく使って、前へ差し出すようにして歩く、
などなど。
腰痛もちの人は、腰痛をかばうような歩き方をするし、骨に異常のある人は、腰を
曲げて歩く。
またひざに故障がある人は、脚そのものが、外側に大きく歪曲する。
ヨタヨタした歩き方になる。

 だから……というわけでもないが、私はひとつの健康法を編み出した。
その第一。
大またで、足をまっすぐ前に差し出して歩く。
足をまっすぐ伸ばして歩くことも、大切。
あとはつま先をよく使い、軽くかかとをあげながら、歩く。
(つま先で歩いていると、アキレス腱の上部のふくらはぎがあとで痛むこともあるが、
それはよい徴候とみる。)
さらにひざを高くあげながら、歩く。
また私のようにO脚気味の人は、足の内側から地面につけるようにし、左右のひざを
できるだけ近づけて歩くとよい。

 ……以上のことを、日常的に心がける。
それがウォーキングマシンを使って学んだ、歩き方の健康法ということになる。
なお、近く、乗馬マシンというのも買うつもり。
ときどき近くのショッピングセンターで試乗させてもらっている。
あれはたしかに腰の運動になる。
それを昨日、自分なりに確認した。

 老化は、腰とひざからやってくる。
腰やひざが痛くなってからでは、遅い。
まだ健康なうちから、予防に心がる。

●不気味な足音

 昨日、ギリシアの国家経済が破綻した。
つづいてポルトガル、アイスランドもあぶない。
EU全体も、大きくぐらついている。
しかし忘れてならないのは、この日本もあぶないということ。
「2011年度の予算は成り立たなくなるのでは?」と危惧されている。
この日本は、国家税収(40兆円前後)の大半(38兆円前後)を、公務員の人件費に
投入している。
そのほかの必要経費は、すべて借金。
「国債」という借金で、まかなっている。
こんなメチャメチャな財政運営をしている国は、そうはない。

 が、もし国債が売れなくなったら……つまりお金を貸してくれる人がいなく
なったら、日本は、そのとたん、破産。
予算そのものが、成り立たなくなる。

 それを避けるためには、内需を拡大して、日本経済を活性化させる。
簡単に言えば、みながもっているタンス預金を引き出して、それを市中へ流す。
が、あらゆる指標が、悪いほうへ、悪いほうへと向っている。
日本の国際的格付けも、そのつど、下方修正されている。

 中国のバブル経済もひどいが、韓国のバブル経済も、ひどい。
日本も今、ミニバブルから中型バブルへと向っている。
つまり世界中の国々が、お金をバラまいている。
が、こんなことをつづけていたら、それこそ、世界は、おしまい。
いつか……といっても、その時期はすぐそこまで迫ってきているが、世界経済は、
まとめて破綻する。
世界中の札束が、紙くずと化す。

 どうしたらよいのだろう……?

要するに、個人資産は、私たち個人が守るしかない。
方法については、ここには書けないが、大衆に迎合し、いっしょになって
ザザーッ、ザザーッと動いていたら、そのまま奈落の底に。
08年末のリーマンショックで、金融資産を、100分の1程度にしてしまった
人さえいる。
その人は、1億円の金融資産を、100万円にしてしまった!

 こわいぞ!
今度の嵐は!
中国のバブル経済がはじけたら、ドバイショックの1000倍の威力があるとか
(某経済誌)。
「1000倍」と言われてもピンとこないが、そのあと世界は、未曾有の大恐慌へ
と突入する。
(2010・4・29記)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

●生物の「多様性」

(新・進化推論・仮説)

++++++++++++++++++++++

生物は、形質(形態、機能、成分)が似たものどうし、
分けられ、体系づける分類方式がとられている。
これを自然体系(自然分類)という。

「分類階級」は、上位のものから、

「界(かい)」
「門(もん)」
「綱(こう)」
「目(もく)」
「科(か)」
「属(ぞく)」
「種(しゅ)」の順になる。

分類階級が上のものほど、より広い共通点や相違点で
より分けられる。
「種」は生物分類上の基本的な単位で、
通常は、同じ種の個体間でしか繁殖しない。

一方、同じ種でも分布する地域により
色や形に違いがみられ、地域間で異なる
集団と認められる場合、これらを「亜種」という。
(例えば、「ニホンザル」という種に対して、
「ヤクシマザル」は亜種)。
亜種の中で最初に学会に登録されたものを、
「基亜種」という。
(以上、参考、EICネット)

たとえば私たち人間、つまりヒトは、つぎのように
分類される。

「界(かい)」……動物界
「門(もん)」……脊椎動物
「綱(こう)」……哺乳綱
「目(もく)」……サル目
「科(か)」 ……ヒト科
「属(ぞく)」……ヒト属
「種(しゅ)」……サピエンス

「界」より上に、「ドメイン」というのもある。
ヒトは、「真核生物」に分類される。
これに対して大腸菌などは、「細菌」に分類される。

+++++++++++++++++++++

●名倉智道先生からのメール

 昨日、名倉智道先生(浜松市湖西市在住)から、こんなメールが届いた。
先生は、シダ植物の研究家としても、知られている。

「はやし 浩司 様

爽やかで、よい気候となりました。
ここ何日かシダを探して歩いています。歩くといっても1株1株じっくり見るので、とて
も歩くなんて言えたものではありません。まだ新葉の展開中で柔らかく、標本には向かな
い種類がたくさんあります。

気合いを入れて探しているのはイノデという仲間の雑種です。
イノデは「猪の手」が語源で、葉の根元の部分・葉柄に毛のような鱗片というものが沢山
あって、イノシシの手のようだからと名付けられたのです。

このイノデ属は雑種を作りやすいのか多くの雑種が確認されています。今回探しているの
はミウライノデとオオタニイノデです。それぞれの親となるアスカイノデとアイアスカイ
ノデ、それにこの地域では一般的なイノデの3種類が同じ谷間に生育していることは分か
りました。それらを片親とする雑種の存在の可能性が考えられますから、これぞと思う株
をしらみつぶしにあたって見ているのです。雑種は両親種の特徴を併せ持っているので、
検索表などでははっきりと違いが示されています。現物もどちらかなあと迷うタイプは雑
種である可能性を秘めています。

アスカイノデ   × アイアスカイノデ  =  オオタニイノデ
アスカイノデ   × イノデ        =  ミウライノデ
アイアスカイノデ × イノデ      =  ドウリョウイノデ


ところが、経験の少ない小生にはあれもこれも同じように見えたり違うように見えたり、
なかなか判断できません。いきおい沢山の標本を採集することになってしまいます。


1970年代、伊豆で採集した標本まで引っ張り出して「ウンウン」うなりながら見比べ
ています。
昨日は、田原市の百々(どうどう)海岸の谷間へも行ってみました。ここに先に挙げた種
類の混生地だと教えてもらっていたからです。ここでじっくり観察すれば分かるようにな
るはず、そう考えたのです。しかし、現実はそうは甘くありませんでした。
やはり、あれかこれかと迷うばかりなのです。

伊豆の標本、百々海岸の標本をもとに雄踏の採集品を見てみるとオオタニイノデか?と考
えられる株が含まれています。小生の知っているドウリョウイノデという雑種のほかに新
たに記録を加えることができたかも知れません。いずれ分類の専門家に標本を送って同定
してもらうつもりで、結果はそれから先ということになります。

雑種の難しさは、両親種の形質をきっぱり半分ずつを受け継いでいるのではなく、片親か
らもう片方へと移行していることです。人間でも父親似と言えばそうだよなあと感じても
やっぱり母親に似ているところはある、というようなことです。両親から少しずつその形
質をもらっているのですから当然のことです。

探す楽しみはもちろんです。加えて、そうしている間は他のことを全く忘れていること、
気分転換には欠かせません。

近況をお伝えしました。   名倉智道」

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