最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●寺山修司の母

2009-06-02 07:24:59 | Weblog
【時には母のない子のように】



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寺山修司は、こう歌う。



♪時には母のない子のように

 だまって海を見つめていたい……

  

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寺山修司は、こう歌う。



  ♪時には母のない子のように

   だまって海を見つめていたい

   時には母のない子のように

   ひとりで旅に出たい

母のない子になったなら

だれにも愛を話せない

  

  ♪時には母のない子のように

   長い手紙を書いてみたい

   時には母のない子のように

   大きな声で叫んでみたい

   だけど心はすぐ変わる

   母のない子になったなら

   だれにも愛を話せない



   hu hu hu……



 その寺山修司だが、たいへんな母親をもっていたそうだ。その母を知る人は、みな、異口同
音に、こう言う。「寺山修司の母親は、こわい人だった」と。俳優のM氏もその1人で、NHKの
テレビ番組の中で、そういう趣旨の発言をしている(06年4月19日)。その番組の中には、「鬼
ババ」という文字さえ、かいま見えたように記憶している。



 寺山修司という人は、母親の虜(とりこ)になりながら、その呪縛から逃れ出ることができず、
かなり苦しんだ人らしい(同番組、M氏談話)。そうした思いが、この「時には母のない子のよう
に」という歌詞の中に、表現されているという。



 改めて、その歌詞を検証してみる。この歌は、私が大学3年だったか、4年のときに、大ヒット
した歌である。どこかさみしげな、それでいて、どこか退廃的な感じのする歌だった。



 で、寺山修司は、「♪時には母のない子のように……」と歌い、そのあと2番で、こうつづけ
る。「♪大きな声で叫んでみたい」と。



 しかし家族、なかんずく母子の間で形成される、「自我群」は、そんな甘いものではない。本能
に近い部分にまで、それは刷りこまれる。ふつうの人間関係ではない。だから寺山修司は、こ
う歌う。



 「♪だけど心はすぐ変わる」と。



 つまり母からの呪縛から逃れたい。しかしそう思ったとたん、自分は、その母に引き戻されて
しまう、と。実際、寺山修司の母親は、「ものすごい女性」(同、テレビ番組)だったようだ。



 嫁が気に食わないという理由で、寺山修司の結婚式には列席しなかったという。また寺山修
司の死後は、青森県に自宅に、寺山修司の記念館まで用意したという。生涯にわたって、寺山
修司の母親は、寺山修司の上に君臨していた(?)。



 で、問題は、この歌の歌詞の、最後の部分。「♪母のない子になったなら、だれにも愛を話せ
ない」という部分である。



 いろいろな解釈ができるのだろうが、私はこう解釈する。つまり、母にすら愛を拒否されてし
まったら、もう自分は、だれも信じられない人間になってしまう。もしそういう人間になってしまっ
たら、もうだれも、愛せなくなってしまう、と。



 そういう例は、実際に、多い。よく知られた例としては、虐待児がいる。実の母親に虐待され
つづけた子どもである。



 そういう子どもでも、児童相談所などに保護されると、「ママのところに帰りたい」と泣き叫ぶと
いう。保護されること自体を、「罰」と誤解する子どももいる。そこで相談所の相談員が、「また
ひどいめにあうのだよ」と説得すると、ある子ども(小学生)は、こう言ったという。



 「今度は、ちゃんと、いい子になるから、家に帰して」と。



 悲しき子どもの心である。その子どもにしてみれば、どんなひどい母親でも、母親。たった1
人の母親。そんな母親を、自ら否定してしまえば、その子どもは、心のより所をなくしてしまう。
そういう例も、ないわけではない。



 実の母親に30年以上にわたって、裏切られ、だまされつづけた男性(50歳)がいる。どう裏
切られ、だまされつづけたかは別として、その男性は、こう言う。



 「母親すらも信じられないというのはですね、もう、だれも信じられないということになるのです
ね。とくに、女性は、ね。が、それではすみません。だれも信じられないということは、それ自
体、たいへん孤独なことです」と。



 その男性は、結婚して、25年近くになるが、いまだに自分の妻すら、信じられないという。そ
の男性にとっても不幸なことだが、妻にとっても、不幸なことと考えてよい。



 だから寺山修司は、歌詞の1番と2番を、こう結ぶ。



 「♪母のない子になったなら、だれにも愛を話せない」と。



 その番組の最後の部分で、寺山修司の母親が、インタビューに答えて、こう言っていた。レポ
ーターが、「寺山修司がなくなって、どういうふうに思っておられますか」というようなことを聞い
たときのこと。母親はこう言った。



 「なくなってはいません。ここに、いないだけです」と。



 その寺山修司は、昭和58(1983)年5月、47歳の若さで、肝硬変で死んでいる。それを察
した寺山修司は、生前、「墓は建ててほしくない。私の墓は、私の言葉であれば、充分」と言い
残している。



 しかしその墓を、寺山修司の母が、八王子市の高尾霊園に建てた。そしてそのあと死んだ母
親も、その墓に入った。生涯にわたって母親の呪縛に苦しんだ寺山修司は、死んでからも、墓
の中で、母親の呪縛に苦しんでいるのかもしれない。

(はやし浩司 寺山修司 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 母子論 母と子)



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母親は、母親であることをよいことに、

決してその立場に甘えてはいけない。



時として、母親は、生涯にわたって、

子どもを苦しめつづける存在ともなりえる。



さらに、母親といえども、いつか子どもに、

人間として評価されるときが、やってくる。



たとえ子どもにされなくても、後の世の

人々によって、評価されるときが、やってくる。



そうした視点で書いたのが、つぎの原稿です。

数年前に書いた原稿です。



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【野口英世の母親】



●母シカの手紙



 2004年に新1000円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そうい
う人物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。



 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こんな手紙
を書いている。



 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつくるトおせ
てくたされ わてもねむられません」(1912年(明治45年)1月23日)(福島県耶麻郡猪苗代
町・「野口英世記念館パンフレット」より)



 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を思
う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開発課パ
ンフ)というのが、おおかたの見方である。母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、こころぼそく
ありまする。どうかはやくかえってくだされ……かえってくだされ」と懇願している。



 これに対して、野口英世は、1912年2月22日に返事を書いている。「シカの家の窮状や帰
国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本やアメリカを
代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決することなどを切々と書い
ています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)ということだそうだ。



 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。



 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、手紙
を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するものであった。



 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、すぐに
は帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。



しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、親が子ども
に、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよ
い。あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々と、家の窮状を
訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこんな手紙を手にしたら、あ
なたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくなってしまうかもしれない。



●ベタベタの依存心



 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでやった」
「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んでもらった」「育て
てもらった」と、恩を着せられる。



たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。そういう子育てを評して、あるア
メリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存心をもたせることに無頓着な民
族はいない」と。



 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えてくださ
い。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきてください」と。



 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未熟な
親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か何かで伏せ
っていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。事実、野口英世記
念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、いっしょに写っている母
シカは、どこから見ても元気そうである。



 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ちがにじ
み出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、私も昔、学生
のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。しかし今、自分が親になってみる
と、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書いておく。



●私のこと



 私は23、4歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今のワイフと
いっしょに生活するようになったころも、毎月3万円の仕送りを欠かしたことがない。大卒の初
任給が6~7万円という時代だった。が、それだけではない。



母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取っていった。長男が生まれたと
きも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で20万円近くをもって帰った。母
にしてみれば、それは子どもとしての当然の行為だった。(だからといって、母を責めているの
ではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれに命令されるわけで
もなく、自らそうしていた。)



しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が27歳ごろのときから、実家での
法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。土地柄、そういう
行事だけは、派手にする。たいていは近所の料亭を借りきってする。その額が、20~30万
円。そのたびに、私は貯金通帳がカラになったのを覚えている。



 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これについては
また別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感というよりは、社会的
重圧感に、いやというほど、苦しめられた。「子どもは親のめんどうをみるのは当たり前」「子ど
もは先祖を供養するのは当たり前」「親は絶対」「親に心配かける子どもは、親不孝者」などな
ど。



私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はその重圧
感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方をしていた。



「あそこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡さなか
った」

「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。それ
は、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。



 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が感じ
た重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定するのか」とか
言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。しかしこれは誤
解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に書いた。

 

●本当にすばらしい手紙?



 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手紙を
読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、思えな
い。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。そこでもう一
度、母シカの気持ちを察してみることにする。



 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころより
もはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカは、「子ど
もが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思っていたに違い
ない。だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろ
う。



文字の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理解できな
かったかもしれない。一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが親のめん
どうをみるのは当たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた手紙は、まさに
そうした板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。



 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こうした評論
のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、その母親を
批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。



現に今、その母シカをたたえる団体が存在している。母シカを批判するということは、そうした
人たちの神経を逆なですることにもなる。だからここでは、私は結論として、つぎのようにしか、
書けない。



 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、帰ってく
るな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝行など考えなくて
もいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。それが無理なら、「元気か?」と様子を聞く
だけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、どんな手紙を書くだろうか。一度母シカの気持
ちになって考えてみてほしい。

(02-8-2)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 野口
英世 英世の母 シカ 野口英世の母親論)



【補記】



 寺山修司の母親が、なぜに、今に言われる母親として評価されるようになってしまったか。



 実は、そのヒントは、寺山修司の母親の、遍歴の中に、あるのではないか。その遍歴を箇条
書きにしてみる(参考、ウィキペディア百科事典)。



(1)寺山修司の生年月日は、実際の生年月日と戸籍上の生年月日が、異なっている。

(2)父親は警察官だった。寺山修司は、母はつの長男として誕生。

(3)9歳のときに、空襲で焼け出され、それまで住んでいた青森市から、現在の三沢市に移
る。父親の兄の経営する食堂の2階に住む。

(4)父親が、セレベス島で戦病死する。

(5)終戦

(6)母親のはつは、米軍のベースキャンプで働く。

(7)寺沢修司、古問中学校に入学。青森市で映画館を経営する母の叔父に預けられ、青森市
内の中学校に転校。

(8)母親は、寺沢修司を青森に残したまま、九州の米軍キャンプに移る。



 私はこの遍歴の中に、なぜ寺山修司が寺山修司になったかという、その謎を解くヒントが隠さ
れているように思う。息子を青森に残したまま、自分は、青森の米軍基地から、九州の米軍基
地に移ったという。女性の、はつが、である。



 それがどういう意味をもつのかは、わかる人にはわかるはず。それについては、もう少し寺
山修司について資料をあつめてから、書いてみたい。


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