最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●裁判員制度

2008-12-17 07:08:02 | Weblog


 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれないということ。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、そのワクを踏み超えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメというワクを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先に巣をつくらないで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)の条件ということにもなる。

 恩師のT先生は、科学(化学)研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重要性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バートランド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、ありふれた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽なこと。しかしそのワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味がある。私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰りかえしているだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たちも、若いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言った。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事実は、私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。やがて君も母親になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。つまり繰りかえしているだけだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなければならない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。私の家の近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、自分の人生を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前と同じ生活を繰りかえしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとしたら、そのままつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むことである。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いている。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろんその女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心をキズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ出す勇気を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでいくというのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そしてそのつど、さらにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そしてそのあと、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、Independent Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこに何か、目には見えない糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。

(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人))

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ところで京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。

「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。

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はやし先生

先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。

大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。

詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、

(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
 として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。

(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、

(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。

大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。

そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。

「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。

かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。

基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。

いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。

素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。

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【SE様へ】

 実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私もそうだったのかなあ?」と、当時を思い出しています。

 とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、そもそも独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そんな話ばかりでしたから……。

 ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。

 しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と言われてしました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をしていました。

 たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法学への興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。

 もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ入っただけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったというわけです。

 そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまったく、タイプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、「私はとても、M教授のようには、なれない」と実感しました。

 で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話をT先生にすると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていました。学部はちがっても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。

 話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした傾向というのは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。

 たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の80~90%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学していきます。夢や目標は、とうの昔に捨てているわけです。

 もちろん希望も、ない。

 だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりたいという学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純粋法学をめざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。

 このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。

 つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私のばあいは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、外国へ出るというだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いますが……。)

 そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番目。行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよかったから、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインドの国費留学生試験にも合格しました。

 (結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)

 まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活躍をした時代だったと思います。

 が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になりたかった。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですから、役割混乱もいいところです。もうメチャメチャでした。

 ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、(1)のタイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、まったくなかったと思います。

 私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、結論(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知のように、勝手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)

テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい世界だったんだなあ」と感心しているほどです。)

 ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふつうだったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく覚えているのは、こんな質問があったことです。

 「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振ってもよいそうだが、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。

 そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。ハハハと笑っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。

 また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学の話などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公害」とか、そんな話ばかりしていたような気がします。

 日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、自分で勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たちから講義を受けていました。

 自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。

 以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生は、つぎのように書いています。

「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。

 つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、複々線化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できないのでしょうか。

このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の教育には、明日はないということではないでしょうか。

 返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、お許しください。

 今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。そのあと、昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけでも、たいへんです。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。


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