最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●過去の奴隷たち

2008-12-17 07:12:47 | Weblog
【過去の奴隷たち】

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全国あちこちに、「ゴミ屋敷」と呼ばれる
家がある。
家の内外、ゴミだらけ。
マスコミでも、ときどき話題になる。
が、ゴミの多い家は少なくない。
家の外には少なくても、家の中はゴミだらけ
という家もある。
あるいは部屋の中がゴミだらけという家もある。

要するに何をゴミにするかということ。
そのモノによって、家の外にもゴミがあふれる
ということにもなる。

たとえば衣服を中心に集める人は、家の中を
衣服でいっぱいにする。
古くて使えそうもないような衣服まで、
そこにある。
以前、破れたズボンまで、たたんでしまっている人もいた。

人それぞれだが、とにかくゴミはゴミ。

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●肛門期

乳幼児はいくつかの原始的な心理発達段階を経て、少年、少女期へと移行していく。
そのひとつが、「肛門期」。
便をためる快感、便を排出する快感、その2つの快感を同時に経験する(フロイト)。
その「ためる」「捨てる」部分が、未成熟のままおとなになると、
異常なケチになったり、冒頭に書いたように、「捨てられない人」になる。
あるいは時には、見境なく高価なモノを買って、安心したりする。

数年前だが、ある人の家に寄ったとき、私は心底驚いた。
かなり大きな家だったが、玄関先からモノがいっぱい。
1間幅(1・8メートル)の玄関だったが、体を横にしないと、中へは
入れなかった。
モノ、モノ、モノ……。
その向こうにも、モノ、モノ、モノ……。
天井からも、衣服類が、ところ狭しと、吊りさげられていた。

しばらく待っていると、中から人が出てきたが、その人自身も、モノと
モノの間に足を入れながら歩いてやってきた。
ふつうなら、(こういうケースのばあい、「ふつう」という言い方をするのは、
たいへん危険だが……)、使わないもの、価値のないもの、古いものは、
どんどんと捨てる。
が、このタイプの人は、それができない。
いろいろなケースがある。
私が実際見たケースを書いてみる。

(ケース1)
たんすや戸棚には、衣服がぎっしりと詰まっている。
亡くなった祖父母の着物類から、息子や娘が子ども時代に使っていた
衣服類まで。
その人(女性、60歳くらい)のばあいは、そういった衣服をきちんと
箱に入れて、しまっていた。
そして暇なときは、それを出したり、入れたり……。
それだけを毎日のように、繰り返していた。
ときに箱からつぎつぎと出し、足の踏み場もないほどになったりすることもある。

(ケース2)
そういう関係の仕事をしていたこともあり、不用品として出されたものの
中から、まだ使えそうなものを見つけると、片っ端から自分の家の中に
持ち込んでいた。
その人は男性(50歳くらい)で、独身だったが、女性の美容器具まで、
その中には含まれていた。
部屋という部屋には、モノがいっぱい。
そのため窓までモノでふさがってしまい、昼間でも、電気をつけなければ、
部屋から部屋へと歩けないような状態だった。

(ケース3)
自分の趣味のものを買い集めたりしていた。
中古でも、値段が安いと買い集めていた。
その男性(30歳くらい)は、同じものでも、自分が気に入ったものは、
つぎつぎと買い足していた。
部屋の中はモノであふれかえっていたが、部屋のある部分だけを使うため、
その部分の畳は擦り切れて、穴があいていた。
掃除などしたことがないといったふうだった。

ほかにもテレビなどにもよく紹介される人がいる。
たいていは家の外にまでモノがあふれ、ときに近隣の人たちに迷惑を
かける。
社会問題になる。

原因としては、フロイト学説に従えば、乳幼児期における「肛門期」に
問題があったということになる。
この時期に、何らかの原因があって、(たいていは、愛情問題と考えてよい)、
精神的に未発達のまま、おとになになったと考えられる。
たとえば異常にケチな人というのは、その時期に問題があったとみる。
よくあるケースは、下の子ども(弟や妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に置かれるなど。
生活態度そのものも、防衛的になる。

ただ驚くべきことに(ホント!)、冒頭にあげた玄関先にまでモノを置く人にしても、
(ケース1、2、3)の人たちにしても、みな、それぞれ、会って話してみると、
ごくふつうの人であったということ。

ふつうのサラリーマンであったり、通りであえば、こぎれいでサッパリと
した人たちであったりした。
そういう様子だけを見ていると、だれも家の中がそういう状態になっている
とは思わないだろう。
またそういう話をしても、だれも信じないだろう。
つまりはそういうタイプの人たちであった。

●捨てる美学

ガランと何もない部屋。
その居心地のよさは、それを知っている人は、知っている。
それを知っているから、モノを買わない。
不要になったら、すぐ処分する。
が、それができない人は、できない。
それこそ道路に捨ててあるゴミまで拾って、もってきたりする。
そのちがいは、どこからどう生まれるのか?

そこでよく観察してみると、捨てる人も、捨てられない人も、
まさに『チリも積もれば……』という状態で、そうなることがわかる。
ある日、突然、ゴミ屋敷になるわけではない。
仮に、古い衣服を、1週間に1着、部屋のどこかに吊りさげたとする。
1年では、それが50着になる。
10年では、500着になる。
20年では、1000着になる。
こうしていつの間にか、その部屋は衣服で埋まってしまう。
ゴミにしても、そうである。

一方、部屋の中がガランとしている人もそうである。
(ただし潔癖症の人は、別。)
いつも何かを、無意識のまま処分している。
その前に、モノをあまり買わない。

一般論で言えば、戦前から戦後に生まれた人たちは、モノに対して、
独特の執着心をもっている。
モノ=財産という考え方をする。
貧しい時代の遺物と考えてよい。
そのため(まだ使えそうなもの)、(いつか使うかもしれないという
可能性のあるもの)があったりすると、それを捨てることができない。
さらにそれが高じたりすると、同じものがあっても、捨てることができない。
そのため同じものが、いくつもになったりする。

そこで「捨てる美学」。

●捨てる美学

実は私は今年の秋、実兄と実母を、つづいて亡くした。
で、実家は、だれも住んでいない。
そのあと始末にときどき実家へ帰っているが、これが結構、たいへん。
「たいへん」というのは、小さなモノならまだしも、大きなたんすなどの
家具類の始末がたいへん。
母や兄が大切にしていたものだから、それなりに保存しておいてやりたい。
しかしそういったものを、私の家に持ち込むことはできない。
それこそ足の踏み場もなくなってしまう。
しかしそこは心を鬼にするしかない。

捨てるものは、思い切って捨てる。
それがここでいう『捨てる美学』ということになる。
これは私の息子たちに迷惑をかけないためでもある。
が、誤解しないでほしいのは、捨てるのが美学というのではない。
捨てることによって、身辺がスッキリする(=clearになる)。
結果として、気持ちよく家を使うことができる。
それが『美学』ということになる。

●心の病気

こうして考えてみると、モノを捨てられない、モノをためこむという人は、
心に何らかの病気があるとみてよいのではないか。
(もちろん当人たちは、否定し、それに猛反発するだろうが……。)
しかし常識で考えて、ある一線を超えている人は、そうであると考えてよいのでは?

素人の私がこう書くのは、たいへん危険なことは承知している。
しかしふつうの心理状態でないことだけは、確か。
だから今、モノをつぎつぎと買い込んだり、集めたりしている人は、一度、自分自身の
心の中をのぞいてみるとよい。

フロイト理論で考えるなら、年齢的には、2~4歳前後に、心に影響を与える
ような何らかの大きな事件が、日常的につづいたということになる。
親の無視、冷淡、虐待、育児放棄など。
家庭騒動や離婚問題(離婚が問題と言っているのではない。離婚に至る
騒動が問題と言っている。誤解のないように!)、さらには赤ちゃん返りも
その中に含まれる。

そういう問題が、心をふさぎ、精神の発達を阻害した?
病気と言えるような病気ではなかったかもしれないが、それがおとなになっても、
尾を引いている?

もちろんこの日本では、他人に迷惑さえかけなければ、一応、何をしても
よいということになっている。
それがその人の家であれば、モノで足の踏み場がなくても、それはその人の
勝手。
その人がそれでよい、あるいは住み心地がよいと言うのであれば、それでよい。
他人である私がとやかく言う問題ではない。

というのも、私たち自身も、いろいろな形で、乳幼児期という(過去)を
引きずっている。
私も引きずっているし、あなたも引きずっている。
心の世界では、「正常」とか、「正常な人」という言葉は存在しない。
その定義すら、ない。
ただ大切なことは、いつかどこかで、自分でそれに気がつくということ。
そのために一度は、自分の心の中をのぞいてみるということ。

そういう意味でも、自分を知るということは、難しい。
本当に難しい。

たとえば私の知人の中には、異常なまでにケチな人がいる。
どうケチであるかを説明しても、説明しきれない。
たとえばコンドームでも、何度も洗って使っている。
そういうケチである。

そういう人でも、一度自分の過去をのぞいてみたら、もう少しは
自分の姿を客観的にとらえることができるようになるかもしれない。
そしてそれができれば、自分で自分をコントロールできるように
なるかもしれない。

まずいのは、そういう過去があることも知らず、(あるいは気づかず)、
いつまでもその過去に引きずり回されること。
しかしそれは同時に、自分であって自分でないものに支配されることを
意味する。
言うなれば(過去の奴隷)?
もしそうであるなら、いつまでたっても、真の自由を手にすることはできない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
はやし浩司 心の奴隷 ゴミ屋敷 ごみ屋敷 ゴミを捨てられない人)

(補記)

ときどき異常なほどまでに、小銭にケチな人がいる。
年齢には関係ない。
「ぼくにはお金がないから……」を、いつも口癖にする。
実際には、1円も払わない。
それでいて財産がないかというと、そうでもない。
結構な遺産を引き継いでいたり、あるいは、市からの補償金を
手に入れたりしている。

そういう人に共通する特徴をあげてみると、まず気がつくのは、
「損になることは、何もしない」という生活態度。
具体的にはボランティア活動のようなことは、いっさいしない。
(中にそれらしきする人もいるが、あくまでも他人の目を意識して、
そうするに過ぎない。)

そこで大切なのが、『損の美学』。
人は、損をすることで、成長する。
心を広くすることができる。
が、それだけではない。
モノ、マネーに対する執着心を消すことができる。
それはすがすがしく、この世を生きるための鉄則でもある。

ただし同じ(損)でも、欲得がからんだ損は、意味がない。
たとえば債券投資で損をしたとか、株の売買で損をしたとかなど。
他人にだまされた損も、含まれる。

ここでいう「損」とは、自己犠牲を伴う損をいう。
たとえばボランティア活動が、それに当たる。
が、欲得がからんだ「損」は、その人をますますケチにする。

無私、無益で損を重ねる。
それが損ともわからないほどまで、損を重ねる。
私がいう『損の美学』というのは、それをいう。

(参考)

ウィキペディア百科事典より、抜粋。

***********以下、ウィキペディア百科事典より*************

フロイトによれば、この時期の小児性欲の中心は肛門である。子供は排便を意識し、コントロールの方法を教えられ、適切なときと場所でトイレに行くという「トイレットトレーニング(排泄訓練)」が可能になる。時期については諸説あるがおおむね2歳から4歳頃までとされる。この時期の子供には自己中心的、情動的な傾向が強い。そのため自分の欲求を即座に満たそうとする場合がままある。排泄という肉体的反応を適切に行なえるようになることで、そうした情動的な性格に対し何らかの影響があるとされる。

この時期の子供に対して親は規則正しく衛生的に排便するように励ますことが求められる。そうした親からの働きかけが社会的圧力となり、適切な排泄行為をしなければならない、という抑圧とそれが達成できたときの達成感や充実感を得る。また排便のタイミングを自分で判断することにより、自信と「ものをあきらめる能力」が発達し、子どもは自律のための重要な一歩を踏み出す。ただし、子供をトイレに無理矢理いかせたり、過度にタイミングや清潔さに厳しすぎると、子供のパーソナリティにさまざまな問題を生じる可能性があるともされる(後述の肛門的固着参照)。

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• 肛門期的性格が固着すると、どんなものでも捨てるのを嫌がるようになることがある。そういうひとは、ためこみ屋でけち(典型的な肛門保持)になることがある。これはトイレを強要するだけではなく、適切な圧力をかけない放任でも起こることがあり、親と子供の性格や関係にもよってまちまちである。

• 規則的にトイレに行くことばかりを強要すると、極度に時間に正確だったり、あるいは、常に遅刻するようなタイプの人間になったりする。

• 清潔さを強調しすぎると強迫観念的なパーソナリティになり、いつも掃除や整頓を気にする人間になることがある。あるいは、反発していつもだらしない人間になることもある。

**********以上、ウィキペディア百科事典より*************

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
肛門期 ためこみ屋 けち ごみ屋敷)



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