最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●10月12日(2)

2009-10-12 08:06:26 | Weblog


●兄

 兄は、自分で考える力すら、失っていた。
してよいことと、悪いことの判断すら、できなかった。
そのため常識はずれな行動が目立った。
こんなことがあった。

 私が30歳のときのこと。
高校の同窓会があった。
私は恩師へのみやげということで、ジョニ黒(ウィスキー)を
用意して、もっていた。
が、その日の朝、見ると、フタが開けられ、上から3~4センチくらい、
ウィスキーが減っていた。

 兄の仕業ということはすぐわかった。
で、兄にそれを叱ると、悪びれた様子もなく、兄は、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

 一事が万事、万事が一事だった。

●マザコン

 それで母の過干渉が終わったわけではない。
今にして思うと、ほかに類をみない、異常なまでの過干渉だった。
たとえば兄を、自転車屋という店に縛りつけたまま、一歩も、外に出さなかった。
友人も作らせなかった。
「おかしな連中とつきあうと、だまされるから」というのが、母の言い分だった。

 兄は、そんなわけで生涯にわたって、給料なるものを手にしたことはない。
ときどき小遣いという名目の小銭をもらい、そのお金でパチンコをしたり、
レコードを買ったりしていた。

 そんな母だったが、兄は、母の言いなりだった。
嫌われても、嫌われても、兄は母の言いなりだった。
何かあるたびに、兄は、こう言った。
「(そんなことをすれば)、母ちゃんが怒るで……」と。
母の機嫌をそこねるのを、何よりも、こわがっていた。

●母との確執

 私が30歳を過ぎたころ。
兄は40歳になりかけていた。
そのころ、私は兄を、浜松へ呼びつける覚悟をした。
祖父が他界し、父も他界していた。
「母と兄を切り離さなくてはいけない」と、私は決心した。

 すでに兄は、うつ病を繰り返していたし、持病の胃潰瘍も悪化していた。
内科の医師はこう言った。
「潰瘍の上に潰瘍ができ、胃全体が、まるでサルノコシカケのように、
なっています」と。

 血を吐いたことも、たびたびある。
そういう兄を知っていたから、私は母と言い争った。
「兄を浜松へ、よこせ!」
「やらない!」と。

 母は、兄を自分の支配化に置き、自分の奴隷として使うことしか考えていなかった。
心理学で言う、「代償的過保護」というのである。
「過保護」というときは、その裏に、親の愛情がある。
その過保護に似ているが、代償的過保護というときには、その愛情がない。

 一時は、1週間にわたって、母と怒鳴りあいの喧嘩をしたこともある。
はげしい喧嘩だった。
が、母には勝てなかった。
兄は兄で、母の呪縛を解くことができなかった。
私は引き下がるしかなかった。

●母の愛

 「愛」という言葉がある。
しかしこと私の母に関して言うかぎり、「愛」という言葉ほど、白々しい
言葉はない。

 もっとも母は、「愛」という言葉は使わなかった。
「かわいい」という言葉を使った。
「準ちゃん(=兄)は、かわいい」
「私は準ちゃんを、かわいがっている」というような言い方をした。

 母は、自分に従順で、口答えしない子どもが、「かわいい子」と言った。
そういう観点から見れば、私は、「鬼っ子」ということになる。
私は、ことあるごとに母に逆らった。
私のほうが生活の主導権を握っていたということもある。
母にはもちろん、兄にも、生活能力は、ほとんどなかった。
生活費は、すべて私が出した。
税金はもちろん、近親の人の香典まで……。

●泣き落とし

 そこで母が私に使った手は、泣き落としだった。
母は、いつも貧しく、弱々しい母を演じた。
そういう話になると、いつも涙声だった。
(涙は、ほんとうは一滴も出ていなかったと思うが……。)

 「母ちゃんは、近所の人が分けてくれる野菜で、生きていくから
心配しなくていい」というのが、母の口癖だった。
が、そう言われて、「はい、わかりました」と言う息子はいない。

 私はこうして母に、お金を貢いだ。
実家へ帰るたびに、20万円とか30万円(当時の金額)という現金を、母に渡した。

●家族自我群

 それでも私は自由だった。
浜松という土地で、好き勝手なことができた。
結婚し、3人の子どもをもうけることもできた。
そんな私でも、心が晴れたことは、一日もなかった。
本当になかった。

 心理学の世界には、「家族自我群」という言葉がある。
無数の「私」が、家族という束縛の中で、がんじがらめになっている状態をさす。
それから生まれる呪縛感には、相当なものがある。
「幻惑」という言葉を使って、それを説明する学者もいる。

 切るに切れない。
無視することもできない。
「私は知らない」と、放り出すこともできない。
それは悶々と、真綿で首を絞めるような苦しみと表現してもよい。
そんな中、母が私をだますという事件が起きた。
それについては、先にも書いた。

●家の犠牲

 私は「家」の犠牲になった。
兄は、さらに犠牲になった。
生涯、「女」も知らず、結婚もせず、一生を終えた。
一度だけだが、兄にも結婚の話があった。
しかし母がそれを許さなかった。
「結婚すれば、嫁に財産を奪われてしまう」と。

 で、ある日、私は兄を、浜松へ遊びに来たついでに、トルコ風呂へ連れて
いったことがある。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかし入り口のところで兄は、固まってしまった。
「さあ、いいから、中へ入れ」と何度も促したが、兄は入らなかった。
そこがどういうところかも理解できなかった。

 そう、そのころから、兄は、私の兄というよりは、私の弟という
存在になった。
さらに私の息子という存在になった。

●兄の死

 こうして兄は、2008年の8月、持病を悪化させ、最後は胃に穴をあけられ、
肺炎で他界した。
作った財産は、何もない。
残した財産も、何もない。
あの「林家」という「家」に縛れられたまま、そこで生涯を終えた。

 冒頭の話に戻るが、だからといって、母にすべての責任があるわけではない。
母は母として、当時……というより、自分が生まれ育った時代の常識に従った。
ここでいう「家制度」というのも、そのひとつ。

 今でも、この「家制度」は、あちこちに残っている。
地方の田舎へ行けば行くほど、色濃く残っている。
そういう意識のない人たちからみれば、おかしな制度だが、そういう意識を
かたくなに守っている人も少なくない。

●家に縛られる人たち

 私の知人に、D氏(50歳)という男性がいる。
父親との折り合いが悪く、同居しながらも、子どものころから、たがいに口を
きいたこともない。

 父親は、きわめて封建的な人で、家父長意識がその村の中でも、特異とも
言えるほど、強い。
母親は、穏やかでやさしい人である。
そのため、一歩退いた世界から見ると、母親は、父親の奴隷そのものといった
感じがする。

 が、D氏は、その「家」を離れることができない。
なぜか?
ここに(意識)の問題がある。
D氏をその家に縛っているのは、もちろんD氏の意識ではない。
D氏自身は、一日でもよいから、父親のもとを離れたいと願っている。
が、それができない。

 それが家族自我群ということになる。
深層心理の奥深くから、その人を操る。
理性や知性の範囲を超えているから、自分でそれをコントロールすることは、
ほぼ不可能と考えてよい。

 私も何度か、「親と別れて住んだらいい」とアドバイスしたことがあるが、
そういう発想というか、意識そのものがない。
ないというより、もてない。
「何十代もつづいた家だから」というのが、その理由である。

 しかしはっきり言おう。
そういうくだらない考えは、私たちの時代で終わりにしたい。
「家」が大切か、「私」が大切かということになれば、「私」に決まっている。
「家を継ぐ」とか、「継がない」という発想そのものが、時代錯誤。
バカげている。
が、それがわからない人には、それがわからない。

 D氏は死ぬまで、結局は、「家」に縛られるのだろう。
しかし先日、古里と決別した、私から一言。

 「家意識なんて、棄ててしまえ!」。
「『私』を、鎖から解き放て!」。

 そこは自由で、どこまでもおおらかな世界。
D氏よ、何を恐れているのか?
何を失うことを、心配しているのか?

 あなたが自由になったところで、あなたは何も失わない。
あれこれと言う連中はいるだろうが、そういうバカな連中は相手にしなくてもよい。
相手にしてはいけない。
どうせ化石となって、消えていく運命にある連中なのだから……。

●兄へ
 
 兄は、死ぬことで、「家」から解放された。
運命と言えば、それが運命だった。
またそれ以外、方法はなかった。
運命と闘い、それを切り開く能力もなかった。
本来なら、いちばんそばにいて、兄を助けるべき母が、それをはばんでしまった。

 私のワイフは、よくこう言った。
「あなたの兄さんは、気の毒な人ね」と。
最近になって、つまり兄が死んでから、近所の人たちも、そう言うように
なった。
「あなたの兄さんは、気の毒な人だった」と。

 その「気の毒」という言葉の中に、兄の人生のすべてが集約されている。
それが兄の人生だった。

(補記)

 こうして兄のことを、包み隠しなく書くのは、兄のためである。
もしこのままだれも兄についての記録を残さなかったら、兄は、本当に
ただの墓石になってしまう。

 兄だって、懸命に生きた。
苦しみながら生きた。
その記録を残すのは、私という弟の義務と考える。
今、同じような境遇で苦しんでいる人のために、一助になればうれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep・09++++++++++はやし浩司

●ジョーク

「世界おもしろジョーク集」(PHP判)の中の1つを、
編集させてもらう。

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あるとき、釈迦が、ある村にやってきた。
家制度がしっかりと残っている村だった。
釈迦は、その村で、3日間、説法をすることになった。

(第一日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、みなは、こう言った。
「知っていま~す」と。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、何も話すことはない。今日の説法はおしまい」と。

村の人たちは、みな、顔を見合わせた。
そこでこう決めた。
「明日、釈迦が同じ質問をしたら、みな、知らないと答えよう」と。

(第2日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、みなは、こう言った。
「知りませ~ん」と。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、何を話しても無駄だ。今日の説法はおしまい」と。

村の人たちは、みな、顔を見合わせた。
そこでこう決めた。
「明日、釈迦が同じ質問をしたら、右半分の人は、『知っている』と
答え、左半分の人は、『知らない』と答えよう」と。

(第3日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、右半分の人たちは、「知っていま~す」と答えた。
左半分の人たちは、「知りませ~ん」と答えた。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、右半分の人が、左半分の人に、家制度がどういう
ものか、話してあげてください。今日の説法はおしまい」と。

釈迦の3日間の説法は、それで終わった。

(以上、「世界おもしろジョーク集」を改変、編集。)

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●自己否定

 少し不謹慎なジョークに仕立ててしまったが、そこは許してほしい。
こうした意識の奥深くに潜む意識の問題について書くのは、たいへんむずかしい。

 本人自身にその自覚があれば、まだよい。
さらにそれに対する問題意識があれば、まだよい。
が、それすらないとなると、その説明すらできない。
「家制度」そのものが、その人の哲学(?)や、ものの考え方の基本になって
いることもある。
へたにそれを否定すると、その人にとっては、自己否定そのものにつながって
しまう。
「あなたの人生はまちがっていました」「あなたは無駄なものを大切なものと
思い込んでいただけです」と。

 だからこのタイプの人は、抵抗する。
命がけで抵抗する。
そういうとき、決まって、「先祖」という言葉をよく使う。
「先祖あっての、あなたではないか」「その先祖を粗末にするとは何事か」と。
中に、「先祖を否定するあなたは、教育者として失格だ。
即刻、教育者としての看板をさげろ」と言ってきた女性(当時、35歳くらい)
がいた。
(この話は、ホントだぞ!)

 私は何も、先祖を否定しているわけではない。
「教育者」を名乗っているわけでもない。

●D氏のばあい

 先に書いた、D氏のばあい、盆供養のときは、位牌だけでも、
100個近く並ぶという。
昔からの家柄である。
そういう伝統を、D君の代で断ち切るというのは、D君自身にもできない。
できないというより、それをするには、大きな勇気がいる。
親戚の承諾も必要かもしれない。

 が、こういうケースのばあい、不要な波風を立てるよりは、安易な道を選ぶ。
選んで、現状維持を保つ。
こうしてD氏自身も、やがて「家制度」の中に組み込まれていく。

 そこで大切なことは、「私の代で、こうした愚劣な制度はやめにする」と
決意すること。
宣言すること。
子どもたちにそれを伝えて、よいことは何もない。
今度は、その子どもたちが苦しむことになる。

 が、実際には、高齢になればなるほど、それができなくなる。
家制度そのものは、高齢者にとっては、けっこう、居心地のよい世界である。
家父長として、みなの上に、君臨できる。
そのためものの考え方も、どうしても保守的になる。
こうして再び、ズルズルと、家制度をそのままつぎの世代へと残してしまう。
つぎの世代はつぎの世代で、同じようなプロセスを経て、同じように考える。

●周りの人たち

 そんなわけで周りの人たちが、その渦中で苦しんでいる人を、励まして
やらねばならない。
私も今回、古里と決別するについて、周りの人たちの励ましが、何よりも
大きな力となった。
ある友人は、こう言った。
「檀家なんて、やめてしまえよ」と。
また別の友人はこう言った。
「親が子どもを育てるのは当たり前のことだろ。感謝するとかしないとかいう
問題ではないだろ」と。
うれしかった。

 また長野県のある地方では、自治体ぐるみで、そういった悪習と闘って
いるところもある。
香典の額を、一律、1000円と決めたり、葬儀での僧侶への布施の額を、
一律、5万円と決めるなど。
戒名もひとつにしているという(長野県S市)。

 今、そういう動きが全国的に広がっている。
またその動きは、今後加速することはあっても、後退することはない。
あとは、私たちの勇気だけということになる。

 みなが、一斉に声をあげれば、こうした愚劣な制度は滅びる。
それにしても、21世紀にもなった今、どうして長子相続制度なのか?
家制度なのか?
人間にどうして上下意識があるのか?
バカげていて、話にならない!

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Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

【損得論】

●損と得

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60歳をすぎて、「損と得」についての考え方が、大きく変わってきた。
「損とは何か」「得とは何か」と。
それをしみじみと(?)、心の中で思いやりながら、
「老人になるというのは、こういうことなのか」と思う。
「老人」といっても、使い古された、老いぼれた人のことではない。
少し照れくさいが、「円熟した人」をいう。

++++++++++++++++++

●何が損か

 この世の中で、「損かどうか」を考えること自体、バカげている。
どんなにあがいても、「死」というもので、私たちは、すべてを失う。
この宇宙もろとも、すべてを失う。
「死」を考えたら、それほどまでの「大きな損」はない。
たとえばあなたが地球上の、ありとあらゆる土地を自分のものにしたとする。
北極から南極まで。
一坪残らず、だ。
が、死んだとたん、すべてを失う。
つまり「死」にまさる(?)、損はない。

 これには、自分の死も、相手の死もない。
そのため「死」をそこに感ずるようになると、日常的に
経験する損など、何でもない。
損とは感じなくなる。

●「金で命は買えん」

 たとえば私の友人の中には、数か月で、数億円も稼いだ人がいた。
その友人は、数年前、死んだ。
莫大な財産を残したが、死んだとたん、「彼の人生は何だったのか?」
となってしまった。

私の母ですら、死ぬ直前、こう言っていた。
「金(=マネー)で命は、買えん」と。
あれほどまで、お金に執着していた母ですら、そう言った。

●得

 一方、「得」と思うことも多くなった。
昨日も、秋の空を見たときも、そう思った。
澄んだ水色の空で、白い筋雲が、幾重にも重なって流れていた。
それを見て、「ああ、生きていてよかった」と思った。

 ただ「損」とちがって、「得」という感覚は、実感しにくい。
大きな青い空を見たからといって、大きく得をしたとは思わない。
反対に、小さな花を見たからといって、大きな青い空を見たときに感ずるそれに、
劣るということはない。

 もちろん私も、金権教にかなり毒されている面もあるから、お金は嫌いではない。
たいていのばあい、金銭的な価値に置き換えて、ものの損得を考える。
たとえば予定外の収入があったりすると、「得した」と思う。
しかし同時に、そこにある種の虚しさを覚えるようになったのも事実。
「だから、それがどうしたの?」と。

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