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あるマーケティングプロデューサー日記

ビジネスを通じて出会った人々、新しい世界、成功事例などを日々綴っていきたいと思います。

リトビネンコ氏殺害事件の行方2

2007-06-01 08:41:34 | インテリジェンスの歴史
おはようございます。

前回に引き続き、リトビネンコ氏殺害事件の向こう側に見える国際政治の構造を考察したいと思います。

本日のニュースでアンドレイ・ルゴボイ元KGB職員が31日モスクワで記者会見し、ロシアとイギリスの間のスパイビジネスの実態を明らかにしたと伝えられました。

ルゴボイ氏は、記者会見でこう語っています。
「自分とリトビネンコ氏の雇用主でもあったベレゾフスキー氏が、イギリス情報当局の働きかけを受け、安全保障会議の情報を提供していた。またその見返りとして英国の市民権を受け、殺されたリトビネンコ氏も情報当局にリクルートされていた」

今回の件で、ついにイギリスの情報機関VSロシアの構図が明白になりましたね。
こうやって考えていくと、時代は変ってもケネディ政権時代のキューバ危機やカストロ暗殺計画といった構図と全く同じであることに気付きます。

~ベレゾフスキーも「カラー革命」を支援~
(※以下ワールドインテリジェンスより抜粋)

2003年から2006年にかけて、旧ソ連圏で吹き荒れたこの「カラー革命」に、本稿の主役ベレゾフスキー氏も深く関与したと言われている。

2005年9月には、ウクライナの元大統領レオニード・クルフチュクが、「ベレゾフスキーがオレンジ革命を支援するために1500万ドルを費やした」と述べていたし、ベレゾフスキー氏自身もウクライナで反ロシア派のヴィクトル・ユーシチェンコに資金援助していた事実を公開している。また、オレンジ革命に続くグルジアの民主化運動にも資金援助をしていたことを、同氏自ら認めているのである。

実際、ベレゾフスキー氏はこうした「カラー革命」が起こるはるか以前から、この種の工作を仕掛けるように英米政府に持ちかけていた。2001年7月以来、ベレゾフスキー氏は米英政府に対して、「クレムリンを弱体化させるために、ロシア国内のメディアにテコ入れすべきだ」と提言し、政府と共同で工作することを持ちかけていた。ベレゾフスキー氏は『ワシントンポスト』とのインタビューの中で、「ロシア国内のローカルなメディアが財政的に独立して運営できるようにするためには、わずかに年間3000万ドルほどあればいい。私の提案はこうした資金をこの地域のNGOに渡し、社会的に重要な広告活動のために使わせるというものだ」と述べていた。(※中略)

さらに2006年1月にベレゾフスキー氏は、「ロシアのプーチン政権を倒すための計画を過去18ヶ月かけて練ってきた」と発言し、「ロシアで、力による権力奪取の計画を立てている」と堂々と述べたのである。

今回の会見も、イギリスVSロシアの情報戦の一環と見るべきでしょう。イギリス当局は勿論否定していますが、今回の会見内容はかなりの真実が含まれている気がします。

リトビネンコ氏殺害事件の行方1

2007-05-23 13:17:51 | インテリジェンスの歴史
こんにちは。

ロシア連邦保安局(FSB)の元幹部アレクサンドル・リトビネンコ氏が放射性物質のポロニウム210よって殺害された事件で、英検察当局は22日、ロシア人実業家のアンドレイ・ルゴボイ氏が事件に関与したとして、殺人罪による起訴が相当との判断を示したとのニュースが昨日流れました。

英検察当局はロシア当局にルゴボイ氏の身柄引き渡しを求めているそうですが、予想通りロシア最高検察庁は身柄の引き渡しを拒否しているそうです。

この関連記事が、軍事研究2007年3月号に掲載されていたので、ご紹介します。

◆MI6対ロシア諜報機関~英露の秘密諜報戦とリトビネンコ事件

謎の多いリトビネンコ事件。だが、その背景を探っていくと、ロシアに揺さぶりをかけるため、いかがわしい亡命者ネットワークを背後で支援するイギリスの「ある政治勢力」と、それに緩やかに連携する英情報機関の存在があった。

~ボリス・ベレゾフスキーのチェチェン利権~

(中略)
ボリス・ベレゾフスキー氏の権力基盤を語る時に、「チェチェン人」の存在は不可欠である。96年にアメリカの雑誌『フォーブス』は、ベレゾフスキーがどのようにして財産を築いたのかについてこう記している。

「モスクワ警察の発表によると、ベレゾフスキーは有力なチェチェンの犯罪組織と密接に協力し合い、自動車販売事業を始めた。(中略)2年前すなわち94年にソンツェヴォ・グループがモスクワの自動車販売市場の独占問題でチェチェン人たちと対立した。ソンツェヴォがベレゾフスキーと接触して協力を申し入れると『私には屋根がある(屋根があるというのは俗語で、マフィアと話がついていることを意味する)。話はチェチェン人たちとしてくれ』と答えたという」(エレーヌ・ブラン著『KGB帝国』創元社刊)

90年代のロシアは、政治勢力よりむしろマフィアのほうが強力だった。当時、何人もの新興財閥が誕生し、巨万の富を手にしたが、彼らは例外なくマフィアと密接な関係にあった。そして、ロシアに数あるマフィアの中でも、その頃もっとも力があったのが、チェチェン・マフィアだった。ベレゾフスキー氏は、まさにそのチェチェン・マフィアと通じていたのである。(中略)

~チェチェン紛争と「西側のある勢力」~

チェチェン紛争は、単なるチェチェン民族による独立闘争ではない。たとえば、その背景の一つには、チェチェン・マフィアとロシア・マフィアの抗争がある。チェチェン共和国の首都グロズヌイに南部ロシアやタジキスタンに灯油とガソリンを供給できるこの地方で唯一の製油所があり、シベリアの油田から大量の石油がここに送られるため、この石油の利権をめぐってマフィア同士の抗争が続けられてきたのだ。

またチェチェン紛争は、欧米の反露工作という側面を持った複雑な国際紛争でもある。というのも、カスピ海からロシアの港をつなぐ石油パイプラインがチェチェンを通ることから、カスピ海の石油利権と関係する西側の勢力は、コーカサス地方の政治的不安定を握り、グルジアやアゼルバイジャンへの影響力を強めてカスピ海の石油を支配下に治めるためにも、ロシアの弱体化を狙ってチェチェン武装勢力側にテコ入れしているのである。(中略)

前出『KGB帝国』を著したエレーヌ・プランは、「チェチェン問題は現代ロシアのアキレス腱である」と書いたが、このロシアのアキレス腱に食い込んでいるのがベレゾフスキー氏であり、彼の背後にいる「西側のある政治勢力」である。

~セルビアから始まったNGOを使った政府転覆~

FSBが英国政府によるNGO支援の実態を明らかにしたのは、資金の流れを示す書類だけであり、英国政府側は「人権活動団体に対する正当な支援であり、何ら問題はない」と主張しているが、米国のNGO支援に関してはかなり具体的な内容が明らかになっているので、以下少し見ていこう。

ウクライナのオレンジ革命を主導したPORAは、若者が中心となる組織だが、反体制勢力を拡大させ、大規模な反政府デモを組織する上で極めて大きな力を発揮した。このPORAが活動のお手本にしたのは、2000年にセルビアでミロシェビッチ政権を崩壊に追い込んだセルビアの反政府学生組織OTPORである。(中略)

PORAの指導者達もOTPORの指導を受け、反政府組織の結束を強化するためのスローガンやシンボルマークの作り方から、デモの組織の仕方、政府側の選挙違反の監視・糾弾するノウハウを学んだだけでなく、実際に同センターの指導員たちが選挙前のウクライナにオブザーバーとして現地入りし、実地に指導したという。

この非暴力抵抗センターのメンバーたちは、かつて米国の指導を受けたいわば「CIAの申し子」たちである。米国は2000年にミシェロビッチ政権を倒すためにセルビア反政府勢力支援のため2500万ドル(約30億円)を注ぎこんだが、米国のNGOがその資金の一部を得てOTPORの学生運動家たちに非暴力抵抗運動のノウハウをみっちりと教えて込んだのだった。(中略)

こうしてグルジアでの「バラ革命」、ウクライナの「オレンジ革命」にOTPORのノウハウが活かされ、オレンジ革命を成功させたPORAがブッシュ大統領の支持を得てさらに活動を国外に広げるというのである。プーチン政権が恐れるのも無理はない。

最近プーチン政権が、ロシアでの外国人滞在者に対する締め付けを強化しているのは、こういった背景と無関係ではないと思います。

明日も引き続き、このテーマを取り上げたいと思います。

ベレゾフスキーのインテリジェンス・コネクション

2007-05-22 13:02:27 | インテリジェンスの歴史
こんにちは。

昨日に引き続き、インテリジェンス学について考察してみたいと思います。

あのロシアの政商ベレゾフスキー氏のインテリジェンスについても掲載されていたので、ご紹介したいと思います。

その前にちょっと長いですが、ベレゾフスキー氏のプロフィールを。これを読むと、今のロシアの現代史がかなりわかりますね。

ボリス・ベレゾフスキー/1946年モスクワでユダヤ系ロシア人の家庭に生まれる。モスクワ林業技術大学卒業後、森林学次いで応用数学を研究して、応用数学博士号を取得。1983年ソ連科学アカデミー会員。1989年ヴォルガ自動車工場とイタリアのロゴシステムに関係する自動車販売会社「ロゴヴァス」を設立し、社長に就任。ロゴヴァスは国内の自動車メーカーから自動車を購入し転売することで多くの利益を上げ、またメルセデス・ベンツやゼネラル・モータースの公認ディーラーにもなった。巨利を手中にする一方で、ロシア・マフィアを中心にベレゾフスキーと敵対するものも多く、1994年自動車が爆破されるなど、いくつかの暗殺未遂事件に遭遇している。

ベレゾフスキーはその後も事業を拡大、大手石油会社シブネフチ(シベリア石油会社)設立に奔走し、同社を買収し支配下に置いた。またアエロフロートなどロシア国内の優良企業の株式を矢継ぎ早に取得することにも成功。さらに各企業に融資するために金融部門では、アフトバス銀行、統一銀行をグループ傘下におさめた。

ベレゾフスキーが最も力を入れた部門の一つに各メディアの買収が挙げられる。国営放送のロシア公共テレビ(ORT)民放のTV6、ロシア有数の経済誌であるコメルサント紙、ネザビシマヤ・ガゼータ(独立新聞)、週刊誌アガニョーク、ヴラスティなどを次々に支配下に置き、恣意的な世論形成を通じて、1996年の大統領選挙では、エリツィン再選に貢献。この選挙を機にベレゾフスキーを始めとする新興財閥(オリガルヒ)が政権内で影響力を増し、「ファミリー」と呼ばれる側近グループを構成していく。ベレゾフスキー自身も1996年10月いわば論功行賞で、ロシア安全保障会議副書記に就任し、チェチェン問題を担当する。1997年同職を解任されるが、1998年4月CIS(独立国家共同体)執行書記に就任。また、自分の影響力のある人物を政権に送り込み、政権運営に関与しエリツィン政権の「黒幕」とか「政商」の名をほしいままにした。

1998年9月にロシア金融危機の収拾のためにエフゲニー・プリマコフが首相に就任すると、政権の主導権を握ったプリマコフによって「ファミリー」に対し、圧力がかけられる。ベレゾフスキーも汚職を追及され、1999年3月にCIS執行書記を解任された。しかし、プリマコフの台頭を恐れたエリツィンがプリマコフを首相から解任したため、ベレゾフスキーは間もなく復権した。1999年下院国家会議選挙で、政権与党「統一」の結成と選挙戦にはベレゾフスキーから大量の資金が流れたと言われる。また、大統領選挙同様、ORTを使い「統一」の宣伝を強力に推進し「統一」の勝利に貢献した。ベレゾフスキー自身もカラチャイ・チェルケス共和国の小選挙区から立候補し当選した。下院議員としては、第二次チェチェン戦争に反対の立場を表明した。

2000年3月の大統領選挙では、ウラジーミル・プーチンを支持するが、プーチンは、逆に新興財閥の影響力を削ぎにかかる。ベレゾフスキーは、プーチンに対して反対勢力を糾合しようとするが、一般市民の間で「国賊」扱いされ、敵の多かったベレゾフスキーは賛同者を得られず、逆に同年7月下院議員を辞職。さらに2001年ベレゾフスキーは保有していたORTの株式49%を、ロマン・アブラモヴィッチに売却する形で放棄せざるを得なかった。ロシア最高検察庁は、アエロフロート資金の横領疑惑などでベレゾフスキーへの追及を強め、逮捕を恐れたベレゾフスキーは国外に脱出。2002年10月、本人不在のまま最高検察庁は、詐欺の罪でベレゾフスキーを起訴した。現在イギリスに亡命中である。(※ウィキぺディアより)

2006年12月26日付の『ユーラシアン・シークレット・サービス・レビュー』誌が、ベレゾフスキー氏と「西側のある政治勢力」の関係の一端を報じている。(中略)

同記事によると、ベレゾフスキー氏は、90年代後半から、ある西側情報機関の元高官と非常に緊密な関係を維持し続けているという。仮にこの元高官をA氏としておこう。A氏はソ連問題を専門とし、89年に外交官の立場でモスクワに駐在した経験を持つ。現役時代に弁護士の資格を取ったA氏は、情報機関を辞めた後に自分でビジネスを始め、90年代にロシア市場に深く関わっていく。そして90年代後半にロシアの2人のオルガルヒ(新興財閥)と緊密な関係を築くのだが、そのうちの一人がベレゾフスキー氏だったという。

同誌によれば、A氏はソ連崩壊後の旧ソ連圏で数多くの裏社会の闇ビジネスに関わってきたとのこと。A氏のビジネス・パートナーには、ロシアから極東への武器売却で大儲けした武器商人、トルクメニスタンの故ヤニゾフ元大統領の側近で同国のワシントンにおけるロビイストをしていた人物、イランに10年以上住んだ後、93年に当時のシュワルナゼ・グルジア大統領との個人的な合意に基づいてグルジアに小銃と弾薬を売った情報機関の少佐など、ありとあらゆる闇ビジネスの住人がいたという。

90年代の終わりから2000年初頭にかけて、A氏はベレゾフスキー氏のビジネスや政治活動に関する「もっとも秘密性が高く繊細な問題を解決するのに一役買った」と同誌は伝えている。また、A氏はベレゾフスキー氏の大きな金融および政治プロジェクトに関するセキュリティ情報を提供するなど、両者の関係は非常に緊密だが、その詳細を知るものはベレゾフスキー氏の取り巻きの中でもほとんどいないほど、両者の関係は秘密に包まれているという。

ちなみに、A氏は母国の政府(おそらく英国)との関係も維持し続けており、「2003年にはイラク戦争に関連する同政府のプロパガンダに協力した」と言われている。(※軍事研究2007年3月号別冊より抜粋)

これらを読むと、ベレゾフスキー氏がなぜロンドンで反プーチン活動を行うことができるのか、その理由が見えてきます。

世界はパワーポリティクスで動き、その裏では対峙する情報戦が日々繰り広げられています。テレビや新聞、インターネットで報道されるのは情報のごく一部であり、物事の真実を知るためには一人一人のインテリジェンスリテラシーが欠かせません。そしてそれは、健全な民主主義国家の必要条件なのかも知れませんね。

ジェームス・ボンドの素顔

2007-05-22 01:37:42 | インテリジェンスの歴史
こんばんは。

僕は、スパイ小説が大好きです。

中学の時に読んだ、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』の衝撃は今でも忘れられません。フォーサイスがジャーナリスト出身だと知ったのはずっと後のことですが、その時は妙に納得したものです。

日本では、スパイは忍者やお庭番といった日陰者のイメージがあるせいか評価はイマイチですが、ヨーロッパではスパイはエリートの代名詞です。国家に対し高い忠誠心を誓い、優れた知能と行動力、判断力が求められるこの職業はインテリジェンスとも呼ばれ、“優秀なスパイは一個師団に相当する”という言葉さえあるほどです。

『自壊する帝国』を書いた元外務省主任分析官佐藤優氏は、インテリジェンス活動がいかに重要かを説いていますが、私も同感です。ゾルゲが日本で得た情報のお陰でソ連がドイツと戦う戦力をヨーロッパに集中でき、第二次世界大戦に勝利できた事実はあまりにも有名です。

それほど重要なスパイは、どのようにして誕生するのか?そのプロセスを知っている人は、あまりいないんじゃないでしょうか?

『軍事研究2007年3月号別冊』(マニアックですいません!)に面白い記事が掲載されていたのでご紹介します。

―大学で政府の情報機関、例えばSIS(MI6)がリクルートするということもあるのでしょうか?

「もちろんあります。2006年までSISは公募を行っていませんでしたから、キャンパスでのリクルートこそが正式なルートでした。
 
これはSISが直接やるというよりも、SISと関係を持つ教授が、自分のゼミなどから優秀な学生を推薦する仕組みになっています。そのリクルート方法は教授によって様々であると聞いていますが、いずれにせよこのようなルートによって、SISには優秀な人材が集められていたわけです。
 
またイギリス情報部の伝統としては、哲学や歴史などの人文科学を専攻する学生を多く採用してきたということがあります。これは、人文科学を研究する際の洞察力・思考力が実際の現場で役に立つという判断でしょうか。もっとも、9・11以降はより広く人材を集めるようになったとも聞いています。

またあるフィクサーは、次のように回想しています。

『ケンブリッジ大学で、航空工学のファーストクラスの学位を取った後、大学教員からMI6に応募するように示唆された。すぐには応募せず、MITで修士号を取得。その後、アルゼンチンにさらに1年留学した後、しばらくコンサルタント会社に勤めた。その後、MI6に応募し、採用された。筆記試験やさまざまな面接を経た後、最後には、徹底的な身元調査があった。8人の身元保証人の名前を挙げさせられ、その一人に担当者が直接会って聞くという徹底ぶりであった』

インテリジェンス・コミュニティーとの何らかのパイプが確認されているのは、オクスフォード、ケンブリッジ、エクセター、ダラム、ウェールズなどの大学だと言われています。またキングズカレッジでインテリジェンスを研究していた私の友人も内務省に行きましたが、ひょっとしたらMI5かも知れません」

こうした事情を知った上で007シリーズを見ると、ジェームズ・ボンドが全く違った男に見えてくるから不思議です。