「命を守る・人が死なない!防災士-尾崎洋二のブログ」生活の安心は災害への万全な備えがあってこそ。命と生活の安全保障を!

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なぜ人は避難しないのか?人が死なない防災2- 片田 敏孝 

2019年04月24日 12時37分48秒 | 人が死なない防災

「人が死なない防災」2-なぜ人は避難しないのか?-東日本大震災を踏まえて
片田 敏孝 著-集英社新書(¥760)

 尾崎コメント
 南海トラフ巨大地震に備えて、「津波避難困難地域」解消のため、和歌山県田辺市では津波避難タワーを総事業費は2億323万円で建設(2019年4月20日落成式)しました。

 このような動きは他の地域にもあることと思います。またもっとあって欲しいとも思います。
 
 しかしながら、本当に皆が全員避難してくれるのか?という素朴な疑問が私にはあります。

   いざ!という時本当に全員が避難して欲しいと願います。

 全員が避難するためにハード面だけではなくソフト面をどのような姿勢で充実されているか(避難訓練などの実例)をぜひ知りたいと思いました。
 
 片田 敏孝氏の「なぜ人は避難しないのか?3章」と「求められる内発的な自助・共助 4章」は全員避難=犠牲者ゼロに向けてとても重要です。

------3章 なぜ人は避難しないのか?--要点抜粋箇条書き--------

2003年の地震で、気仙沼市では震度5強を観測。P174

 地震発生から12分後に「潮位の変化はあるが津波被害のおそれなし」のみが発表された。

 その12分間は、津波が来るかどうか、避難すべきかどうか、それに関してまったく情報がなかった空白の時間でした。

 しかし、1993年の北海道南西沖地震では、地震発生からわずか5分で奥尻島にお津波が到達しています。

 このような事例をふあえると、情報がないにせよ、万一津波が襲来した場合に備えてすぐさま避難すべき状況であったと思います。

 住民に「あなたは逃げましたか」と聞くと、8.1%が「逃げた」と答えました。
 ところが、その半分は津波とはまったく関係ない避難行動です。

 津波の避難というのは、海を背にして高いところに向かって、一直線に逃げていくことですが、それを意識した人はこの8.1%のうちおよそ2割。
 したがって、津波からの避難率は約1.7%ということになるわけです。

 

人間は死を前提にものを考えない p176

 津波が来るという認識をもっていたにもかかわらず、「身に危険が及ぶと思った」が11%,
「危険が及ぶ可能性が高いと思った」が18%。

 合わせて3割の人しか自分の命の危険を感じていないのです。

 これは、よくいわれるところの「正常化の偏見」という心理特性で、人間を行動に移せない、非常に基本的な要因の一つです。


 人間は、死ぬということを前提にものを考えることはできないのです。

 例えば避難勧告が出た場合、「自分は死ぬかもしれないから逃げる」という発想に至る人はほぼいません。


「認知不協和」p184

 住民が逃げなかった理由は、もう一点、「認知不協和」ということがあります。
 簡単に言い換えると、「わかちゃいるけど・・・」ということです。

 避難率1.7%という数字をあらためて考えてみると、それは「逃げない」という意思決定をしていたわけではなくて、「逃げる」という意思決定ができずにいたのだ、と考えるべきだろうと思います。

 「逃げないぞ」と腹をくくっているわけでなくて、「逃げる」という決心ができなかった。
   そういう不安の中で情報収集に走る。

 逃げていない自分を正当化することもできる。
 そして結局「逃げない」ことが定常化してしまった。

 さらにいえば、「隣も逃げていないから、ウチも逃げない」という場合、隣とウチは相互監視状態にありますから、不安な心理の中で均衡状態のようなものができあがって、しかも悪い方に均衡してしまう。
 この状態は非常に危険です。


「率先避難者」の必要性 p186

 逃げた人、逃げなかった人を問わず、「どういう状態だったら逃げたか」という設問。

64.1%=近所の人たちが避難しているのを見たならば私も逃げました。

73.1%=町内会役員や近所の人が「逃げるぞ」と声をかけてくれたら私も逃 げました。

 つまり、「あなたが逃げないから私も逃げない」という不安の中で、誰か一人が率先して避難をしたら、もしくは「逃げるぞ、逃げるぞ」と声をかけて避難をしていったら、行動を起こすだろうということです。
 
 ほとんどの人は、そこまでしても逃げないというほど図太くない、ということでもあるだろうと思います。

 自主防災組織の方にお願いすることがあります。
 自主防災の機能に追加してほしいのは、被災した後に助け合うということのみならず、その地域の人たちが災害で死なないようにするための活動です。

 そのためには、この事例からもわかるように「率先避難者」という役割をつくってほしいのです。


備えない自分、逃げない自分を知ることが備えの第一歩 p198

 人というものは、基本的に避難できないのが素であって、避難という行為はきわめて高度な理性的行為といえるでしょう。

 災害に備えるためには、そして、災害に強い住民であるためには、まず災害に接した自分が逃げようとしないことを自分自身が理解していることが重要でり、そのうえで、それを押して行動に移る理性が必要なのです。

 従来の防災教育では、繰り返し、災害への備えの必要性を説き、いざというときに避難するように呼びかけてきました。
 しかし、単にこのような呼びかけを繰り返してもその効果は疑わしいといわざるを得ません。

 今必要なのは、それであっても災害に備えない人の心理を住民自身に理解してもらうこと、その理解がないまま現状の姿勢である続ける限り、自分や将来の世代のどこかで大きな被害にあってしまうことを理解してもらうことであろうと思います。
 


------4章 求められる内発的な自助・共助--水害避難を事例に------

避難勧告が出せない事例 p202

「これまでの安全は、これからの安全を保障することでもなんでもない」
まず、これを深く心に刻んでおかなくてはなりません。

 なぜなら、もうすでに気象が変わってきているからです。
 地球温暖化により気象災害の様相は激化しています。

 これまでの優しい雨の傾向と、これからの雨の降り方は全然違うということを念頭に置いたうえで、これからの防災のあり方を考えてみましょう。

 はっきり言うならば、日本の防災が立ち行かなくなっています。
 これまでの傾向の中でできていた防災の仕組みが、これだけの台風や気象の激化の中では、もう成り立たないのです。

 行政からの情報(避難勧告、赤色灯、看板等)に委ねて災害対応を行う体制そのものの問題点を、指摘している事例。
 都賀川の水難事故:2008年7月28日:全長1790メートル(どこにでもある小さな川)
 10分間に12ミリの雨(一時間雨量換算約120ミリ)が降った。
 平時の水位のところに鉄砲水が来て、その高さが1.3となった。
 ゲリラ豪雨。
 52人が避難したり救助されたが、子どもを含む5人が犠牲となった。


三種類の避難 p210

 1-緊急避難(エバキュエーション:evacuation)
  命からがらの避難。

 2-滞在避難(シェルタリング:sheltering)
  体育館などの避難所で一時生活すること。

 3-難民避難(レフュージ:refuge)
  避難をしたが、家に戻れないので仮設住宅で生活しているような状態。
  これは本来、難民生活というべきですが、日本では避難生活という語で済ませています。

 行政が対応できるのは滞在避難と難民避難です。
 これはしっかりやるべきです。
 
 しかし緊急避難、エバキュエーションについては、個人個人みんな条件が違いますから、その主体を国民に返していくべきではないかと私は考えているのです。 p211

 もっと大本から考えると、日本の防災は、個々の住民が自分の命を自分で守る意識と、災いを避けて通る知恵をもてるような方向へ進めていかなければならないということです。
 そういう思いを、私は強くもっています。 p217


人為的に高める安全は、人間の脆弱性を高める p220

 人口1億人のうち自然災害で数千人が亡くなることはシステムエラーです。
 しかし、1億人のうち100人なくなることはシステムエラーではなく事故です。

 (1959年の伊勢湾台風までは数千人の自然災害死亡災害が多発。災害対策基本法が1961年に施行され、堤防や砂防ダムなどの整備対策や情報伝達対策などが実施されたため、1962年以降は大震災を除けば、自然災害で数千人亡くなることはなくなりました。
その後自然災害では年間100人前後まで死者数を減らすことができました-尾崎コメント)

 年間100名の死亡事故という領域になったときに、行政ができることには限度があるのです。
 そこでさらに数を減らそうと思ったら、行政ではなく国民自身がやるべきことが出てくるわけです。

 日本の防災はそういう領域に来ていると思います。
 それにもかかわらず。これまでと同じように、災害対策基本法に基づく行政主導の枠組みの中で進めようとしているところに限界があるのです。p221

 災害対策法のもと、50年にわたって「行政が行う防災」が進められた結果、このような日本の防災文化が定着してしまっている。
 防災に対して過剰な行政依存、情報依存の状態にある。

 自分の命の安全を全部行政に委ねる。いわば、住民は「災害過保護」という状態にあるのです。
 これがわが国の防災における最大の問題なのです。


「内発的自助」とは p225

 自助には二つあると思います。
 一つは、仕方なく自助、受け身の自助です。
 本来ならば行政が行うべきなのに、できないから仕方なく自助。
 完全に受け身です。

 これに対して、主体的な自助というものがあるのです。
 親として家族を守りたい。
 地域の若者としてみんなで安全を守り抜きたい、そのような内なる沸々と湧いてくるような自助のことです。

 この違いは、非常に重要だと私は思っています。
 これはまったくの精神論ですが、これからの住民や地域の災害対応を根底から変えるものです。

 いま、あらためて自助のあり方を問いたいと思います。
 なんでも行政に情報をもらって逃げるという仕組みそのもの、姿勢そのものが間違っているのです。

 もちろん、住民の命を守るという公共の福祉に対してできる限りのサービスをすることは、行政のやるべきことでしょう。
 そして「逃げどきマップ」のような役立つ情報をどんどん流す。
 つまり主体的な気持ちをサポートするような情報を提供することも必要です。

 しかし、情報を出すからこれに従って逃げてください、ということではだめだと思います。
 それは情報の内容の問題ではありません。
 姿勢の問題であり、行政と住民の関係構造の問題です。p226


おわりに p237

 長年進められてきた行政主体の防災に国民は頼りきっており、自分の命でありながら、
それを守るのは行政の責任とまで言いきる国民が多いのが現状である。

 このままの姿勢で「その時」を迎えるなら、「役所のせいだ!」と言いながら命を落とす事態になりかねない。

 こうした姿勢の根底にあるのは、責任を他者に求める意識である。
 それを改めなければ、命を守る主体性は醸成されない。

 また人には危機を知らせる情報を正当に感じ取れない心理特性や、死をあえて意識しないからこそ幸せに暮らせるという側面がある。

 したがって、避難をはじめとした災害対応行動とは、きわめて理性的に自らを律する行為なのである。

 それだけに、一朝一夕に国民の災害対応行動を適正化することは難しいといえよう。
 だからこそ私は、学校における防災教育の重要性を主張するのである。

 柔軟な子どもたちの教育課程に防災教育を組み込むことがもたらす効果は、単に防災面にとどまらない。
 何事にも主体的に取り組む姿勢を醸成することによって、多方面に影響を与えることにもなろう。

 東日本大震災で、無念のなかで亡くなった人たちの死を無駄にしないためにも、日本の防災は大きく変わらなければならない。

 

 

 
 

 

 
 
 


 
 
 

 

 

 

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