コロナ禍が問うグローバル資本主義
日本大学危機管理学部・先崎彰容教授に聞く
尾崎 洋二 コメント:
全世界共通のテーマです。
危機(コロナ禍)をチャンスとして、どのように国家観を捉えなおすのか?
また私たちはどのように世界経済(資本主義)をどのように考え直していくべきか?
マスコミに翻弄されることなく、堅実なる「中間集団」へ理想的に関与するには?
(私は防災・コロナ対策に力を入れ、実績を出している公明党を支持する団体も、立派な貴重な中間集団かと思います)
上記3項目の設問に答えている先崎彰容教授のご意見です。
------公明新聞 6月1日 要点抜粋箇条書き------------------------
1-今回の新型コロナによる感染拡大の背景
世界は、グローバル化によって大きく発展してきた。だが逆に、感染症拡大の原因となり、今日の混乱に陥っている。
2-グローバル化とは?その問題点は?
国際化などと訳されるが、端的に「移動の時代」と考える方が正確。
私たちの(グローバル化された)生活様式が今回の事態を引き起こした。
グローバル時代の資本主義経済のあり方そのものが問われている。
3-グローバル資本主義とはどういうものか?その問題点は?
構造改革の名の下に規制緩和や競争の原理を導入し、ヒトやモノ・カネを世界に環流させて障壁を取り払った経済活動をめざすもの。
障壁がなくなり、世界のどこかで起きた悪影響が一瞬で世界に広がってしまうことが、最大の問題点。
海外と国内の風通しが良いほど、いったん危機が起きれば、直接国内が打撃を受ける。
世界情勢に容易に翻弄される。
4-グローバル資本主義は誤った方向性なのか?
問題は、グローバル資本主義的な生き方、経済合理性と営利第一主義を私たちが「生の第一の価値観」に据えてしまったこと。
過度な競争は、人間関係を個人主義=利己的なものにしてしまう。他人を利害関係でしか評価、相手にしなくなる。
その典型例が所属を拒否したフリーランスに代表される働き方への評価。
競争社会は、フリーランスの一方で、所属したくてもできない、おびただしい非正規雇用も生み出した。
コロナ禍が示したように、彼らは社会構造に激変が生じれば即座に生活の糧を失う。
こうした不安定な人材を多く抱えた社会は、「社会的脆弱性」が大きい社会である。
問題は、今日でもなお、日本社会が競争をあおり、規制緩和を進めてフリーランス人材を称賛している事実である。
5-「脆弱性」が社会に与える影響は?
「個人対国家(政府)」の構図を生んでしまっていること。
個人の危機の保障は、全て国家が行うのが当然という風潮。
それが、権力を批判することこそ民主主義を守ることといった誤認にもつながっている。
まさに、グローバル資本主義がもたらした危機に弱い生き方、「社会的脆弱性」の実像と言わざるを得ない。
6-なぜ、そうした社会構造になったのか?
個人と国家の間に入るべき、中間的な別の人間関係がないから。
だから、個人がいきなり国家に不平不満をぶつけ、保障を求めてしまう。
結果的に社会が弾力性を失う。
今、日本社会に必要なのは、社会的包摂性を持つ中間集団的存在。
そもそも、国家というものは、施設などのハード面や金銭面でしか個人に対し、保障できない。
国が苦手とするのは、もっとしなやかな人間関係の構築、そして他者から存在を認められることで得られる「尊厳」の分野。
7-具体的に、中間集団はどのようなものが想定されるのか?
人工的につくるしかなく、NPO法人といった組織は非常に重要。
その点では、各地に広がっている「子ども食堂」は非常に良い例。
こうした存在を自ら発想し、展開する人たちにこそ、政府は手厚く支援していくべき。
社会も自発的・自生的に公共の福祉に関わる人たちをもっと認めていかなければならない。
8-新型コロナの拡大によって強制的に経済交流が停滞する今、政治がやるべきことは?
国際経済に翻弄され、個別案件に対処することではない。
人々の生き方や価値観そのものをグローバル市場中心から、「国内循環型」へシフトする取り組みではないか。
効率性や経済合理性を多少犠牲にしても、国内で自給自足できるような社会のあり方にも価値があるとのマインドを
国民が持てるようにすべきだ。
この点でこのコロナ禍は、政治家にとって、ワクチン接種をどうするかという目先の政務への対処も重要だが、
長期的なビジョンに立って国のあり方を議論する絶好のタイミングであることを強調しておきたい。
-----------------------以下 公明新聞 6月1日--------------------------------------
コロナ禍が問うグローバル資本主義
写真キャプション
日本大学危機管理学部・先崎彰容教授に聞く
2021/06/02 4面
発生から短期間で拡大し、いまだ終息しない新型コロナウイルス感染症は、グローバル資本主義の脆弱性を浮き彫りにしたと指摘されている。その理由と、ポストコロナを見据えた日本の経済・社会のあり方について、日本大学危機管理学部の先崎彰容教授に聞いた。
■パンデミックの大きな原因
――歴史上、過去にもパンデミック(世界的大流行)は起きたが、今回の新型コロナによる感染拡大の背景をどう見るか。
先崎彰容・日本大学教授 日本をはじめ世界は、グローバル化によって大きく発展してきた。だが逆に、感染症拡大の原因となり、今日の混乱に陥っている。
グローバル化は、一般的には国際化などと訳されるが、端的に「移動の時代」と考える方が正確だろう。その特性が結果として日本から遠く離れた場所で発生したウイルスを、瞬く間に世界へ拡散させた。感染がヒトからヒトへと広がる性質である以上、今の私たちの生活様式が今回の事態を引き起こした。グローバル時代の資本主義経済のあり方そのものが問われている。
■「社会的脆弱性」浮き彫りに
――グローバル資本主義とはどういうものか。
先崎 構造改革の名の下に規制緩和や競争の原理を導入し、ヒトやモノ・カネを世界に環流させて障壁を取り払った経済活動をめざすもので、1980年代に英国のサッチャー首相や米国のレーガン大統領の登場により、世界を席巻した。結果、地球規模で競争が活発化し、生産性が向上するなど、経済成長の恩恵を生み出したことは事実だ。
ただ、弊害も大きい。障壁がなくなり、世界のどこかで起きた悪影響が一瞬で世界に広がってしまうことが、最大の問題点だ。海外と国内の風通しが良いほど、いったん危機が起きれば、直接国内が打撃を受ける。世界情勢に容易に翻弄される。これを私は「社会的脆弱性」と名付け、現代日本を考えるキーワードだと主張したい。
2008年のリーマン・ショックが、日本の小さな商店にまで影響を及ぼしたことが象徴的だ。ところが、それをはるかに超える深刻な事態が、新型コロナの拡大である。金融危機は想定できても、ウイルスの拡大までは想定していなかった。
人気業種である航空業界や旅行業界、鉄道業界などが大きな影響を被っている姿は、改めてグローバル資本主義の「脆弱性」を浮き彫りにした。逆に、移動を禁じたことで国境が持つ意味も明らかにしたと言えるのではないか。
■経済合理性が第一の価値観
――グローバル資本主義は誤った方向性なのか。
先崎 グローバル資本主義には功罪両面ある。問題は、グローバル資本主義的な生き方、経済合理性と営利第一主義を私たちが「生の第一の価値観」に据えてしまったことだ。シビアな資本主義を生きている私たちにとって、競争や経済成長は不可避だ。しかし、過度な競争は、人間関係を個人主義=利己的なものにしてしまう。他人を利害関係でしか評価、相手にしなくなる。
その典型例が所属を拒否したフリーランスに代表される働き方への評価だ。私は、こうした働き方自体を否定するわけではない。ただ、こうした人材こそ組織から自由で、かつ創造的発想を生み出すと称賛してきたのではないか。だが競争社会は、フリーランスの一方で、所属したくてもできない、おびただしい非正規雇用も生み出したではないか。
コロナ禍が示したように、彼らは社会構造に激変が生じれば即座に生活の糧を失う。こうした不安定な人材を多く抱えた社会を、私は「社会的脆弱性」が大きい社会だと言っているのである。
問題は、今日でもなお、日本社会が競争をあおり、規制緩和を進めてフリーランス人材を称賛している事実である。
■危機に対応できず混乱招く
――「脆弱性」が社会に与える影響は。
先崎 一言で言えば、「個人対国家(政府)」の構図を生んでしまっていることだ。コロナ禍で、私たちはとかく政権批判に終始しがちである。例えば、安倍政権がマスクを全国配布すると言うと、その質を酷評し、生活困窮世帯への30万円給付を全員一律10万円給付に切り替えると、変更自体が政府の稚拙な政策決定だと糾弾した。つまり「否定という病」とでも言うべき混乱したいら立ちの言葉が日本を覆い、人々をつなげた。
ポイントは、個人の危機の保障は、全て国家が行うのが当然という風潮だ。それが、権力を批判することこそ民主主義を守ることといった誤認にもつながっている。まさに、グローバル資本主義がもたらした危機に弱い生き方、「社会的脆弱性」の実像と言わざるを得ない。
■「包摂性」持つ中間集団必要/自給自足めざすビジョンも
――なぜ、そうした社会構造になったのか。
先崎 個人と国家の間に入るべき、中間的な別の人間関係がないからだ。だから、個人がいきなり国家に不平不満をぶつけ、保障を求めてしまう。結果的に社会が弾力性を失う。
今、日本社会に必要なのは、社会的包摂性を持つ中間集団的存在だ。簡単に言えば、人は一人では生きていけないから、近隣の人同士が自分たちの問題を話し合って生きていくイメージだ。戦後日本は、高度成長期に都市部に人口が流入したこと、多くは会社人間として郊外から都心へ通勤したことから、「地域」が個人の人生にとって無視され続けてきた。平日、「地域」に長時間滞在する人間は、子どもと高齢者である。中間集団を形成する「地域」が無視され、個人はバラバラに会社に所属してきた。今後、どのようにして人々を「地域」に取り戻し、中間集団をつくる主人公にしていくのかが問われている。
そもそも、国家というものは、施設などのハード面や金銭面でしか個人に対し、保障できない。国が苦手とするのは、もっとしなやかな人間関係の構築、そして他者から存在を認められることで得られる「尊厳」の分野だ。友人や知人から無担保融資が受けられなくとも、声を掛け合ったりすることで自殺や餓死を免れたり、社会から孤立しないで済む。こうしたしなやかな関係構築こそ、中間集団の役割ではないか。私が主張する「国家の尊厳」とは、そういう意味である。
――具体的に、中間集団はどのようなものが想定されるのか。
先崎 結論から言えば、人工的につくるしかなく、NPO法人といった組織は非常に重要だ。その点では、各地に広がっている「子ども食堂」は非常に良い例だ。こうした存在を自ら発想し、展開する人たちにこそ、政府は手厚く支援していくべきだ。社会も自発的・自生的に公共の福祉に関わる人たちをもっと認めていかなければならない。
新型コロナの拡大によって強制的に経済交流が停滞する今、政治がやるべきことは、国際経済に翻弄され、個別案件に対処することではない。人々の生き方や価値観そのものをグローバル市場中心から、「国内循環型」へシフトする取り組みではないか。効率性や経済合理性を多少犠牲にしても、国内で自給自足できるような社会のあり方にも価値があるとのマインドを国民が持てるようにすべきだ。
昨年、先進国日本でマスクすら自給自足できない状況が露呈したが、長い目で見た時、国内では不必要と思えることにもある程度資金をかけるような視点は必要だろう。
この点でこのコロナ禍は、政治家にとって、ワクチン接種をどうするかという目先の政務への対処も重要だが、長期的なビジョンに立って国のあり方を議論する絶好のタイミングであることを強調しておきたい。
せんざき・あきなか 1975年生まれ。東京大学文学部倫理学科卒。東北大学大学院博士課程修了。文学博士。2016年より現職。専門は日本思想史。最新刊に『国家の尊厳』(新潮新書)。